臨濟護国禅寺(鎮南山) 台北市中山区酒泉街5段27号(円山駅歩いて2分) |
台湾総督の児玉源太郎は 中国南部は禅宗の本地であるにもかかわらず、近世は仏教が衰退してしまった風評を確認の為に配下の松本や妙心寺派の僧侶に旅費を贈与して福建省に視察させるなどし、禅宗を台湾に布教しようとした。しかし本土の妙心寺派僧侶は環境悪く病魔のはびこる台湾に来る者はいなく、たまたま渡台してた梅山玄秀一行は先ず台湾の寺、剣澤寺に入るが、 そこは衛生上好ま しい場所とは言えず丶 布教. 師たちは次々と病に整れていく。児玉源太郎は剣澤寺に入っていた梅山玄秀に出会い、台湾戦病忠死者の霊場である「円山精舎」が児玉の援助で明治33年(1900)7月に現在の臨済寺に完成する。明治34年(1901)に日本人が淡水線鉄道を開通する際に、近くに圓山駅が設立された。明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると梅山は児玉に請われて従軍布教するほど親密な仲となる。児玉は翌年の暮れに台湾に凱旋し、翌、正月元旦に台湾神社の参拝の帰りに梅山に合い、本格的な臨済寺の寺院の建立を提案し、本堂・庫裡の建設費の募集を開始した。しかし児玉は総督を辞任し日本に帰り7月に急死し臨済寺は大檀越をなくす。梅山は児玉の意思として資金募集に疾走するが集まらず苦労する。やっと資金が集まり明治43年(1910)に庫裡と豊川閣が完成し稲荷の鎮座式をおこなった。明治45年(1912)には、台湾唯一の日本仏教の大殿木造建築の臨濟護国禅寺(鎮南山)が完成し6月に入仏式と開祖児玉源太郎の七回忌法要が行われた。本尊は釈迦牟尼仏、開基(創立者)は児玉源太郎、開山は梅山玄秀(梅山得庵)である。その後、妙心寺派は臨済寺を台湾布教のセンターと位置づけ台湾本島で布教活動を展開した。本堂を囲む石柵に寄進者の名が刻まれている。個人の寄進の地名は 台北○○、北投○○というのがほとんど。日本統治時代に北投に日本人が多く住んでいたことが伺える。団体名としては「三河郷友会」「竹の屋」「芳乃亭」「伏見屋」「梅屋敷」「幽静館」「デルロー 信生堂」などなど ここに出てくる「梅屋敷」は孫文が宿泊した旅館で有名 今は移設工事をされて台北駅傍の孫文記念館として保存されている。1984年に本堂は、風水上の理由から、90度回転して今の位置になった。また本堂には戦後、中国寺院にような派手な彩色にされていたが、2008年に妙心寺派に復帰した際に改修され元に戻されされている。旧山門の前に広がる花博公園は陸軍墓地で、戦後に撤収され日本の靖国神社に祀られました。この付近は新石器時代の円山遺跡のある場所で、大正7年(1918)臨濟護国禅寺敷地拡張工事の際に円山西側から砥石が発見されている。国家第一級古跡に指定され、北側に円山史跡公園がある。 |

梅山玄秀
写真は鎮南記念帳より拝借 |
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左から禅堂・本堂・庫裡「奥)・勅使門・豊川閣(稲荷)鳥居 |

陸軍墓地と忠魂堂は寺の東側にあったであろう |

勅使門(山門)本堂は入って正面にあった |
日本統治時代の写真・稚児や官僚・僧・檀家などが写っている。右が山、左の建物は禅堂と見られる。 |
(昔明治 45年 (1912)の本堂の写真 |
禅堂(今は無い) |
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本堂前に戦後新しく造られた入口 |

2008年8月27日に修復された大雄寶殿 |

本堂のを囲む石柵に寄進者名 デルロー 信生堂 |

勅使門(山門)は昔と変わらず。左の石碑の施主の岐阜県の下は塗りつぶしてある。
「昭和十乙亥年春三月 (他面)施主 臺北在住 岐阜縣出身有志者樹之」
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昔の寺院配置図想像図・禅堂は境内となり今は無く
本堂は90度新設の門側に向きが変更された |

寄席の芳野 |
伏見屋 ・ 梅屋敷 ・ 堀江商会 |

仏殿内・畳は排除されている |

本尊・釈迦牟尼仏像 |

戦時中供出された為に戦後中国風に鋳造された梵鐘 |

現在の正門・ガラス廟の大黒天の奥が本堂
本堂とは少しずれている
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昔の正門・車の出入り口
向うは陸軍墓地があった公園 |

新設の禅堂室・靴を履いての礼拝
僧了はテーブルに座ってお経 |

隣の花博公園に
陸軍墓地があった
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孔子廟 台北市大龍街275号 |
元々台北城内(現在の台北市立第一女子高級中学敷地)にあった孔子(紀元前551年9月28日~紀元前479年4月11日)を祀る孔子廟は1875年に建設が始まり、ほぼ10年をかけて1884年に完成した。しかし、明治28年(1895)、日清戦争が勃発、勝利した日本軍が台北を占拠。孔子廟は2年間臨時の病院に使用された。廟内の位牌や楽器が損傷し、建物は荒廃していった。明治40年(1907)、孔子廟は撤去され、第一高等女学校(総督府斜め前)に改まり、ただ校内に小さな楼閣が建てられ位牌が祀られていた。台北孔子廟の再建がまだ完成していなかったため、台北崇聖会が保安宮で孔子祭の典礼を主宰し、大正15年1926)、保安宮内で開催された。昭和2年(1927) 9月22日、台北崇聖会が再び保安宮で孔子祭の式典を挙行しました。大正9年(1920)頃から孔子廟復興の動きが、台北市の文人たちは大龍峒で土地を寄付し、孔子廟の再建に出資し、中国大陸から寺院建築家を招聘、昭和4年(1929)に孔子廟が完成し、中断していた祭孔大典も再開された。 その後、民国60年(1971)になり、民間の寄付により建設された今の孔子廟は、建設に功労があった台北名士の跡継ぎである辜振甫及び陳錫慶とが全体を代表して、国に寄贈され、翌年に台北市孔子廟管理委員会」が設けられ、民政局に属することになる。大成殿左右の東、西廡には孔子の弟子や儒学者、背後の崇聖祠には孔子五代の先祖が祀られています。また、孔子節の模様を説明した展示室、お祭りに使われる楽器を展示した部屋がある。新暦9月28日の孔子誕生日には政府主催の「孔子節」が開催される。 現在は国の三級古蹟となりました。月曜日休み・入廟無料。MRT「圓山」駅より徒歩10分。2番出口より向かって右側の庫倫街という通りを、駅を背中にしてひたすらまっすぐ進みます。大龍街と酒泉街の交差点付近にあります。 |

台北城内の孔子廟(明治28年に病院として2年間、使用された) |

昭和5年(1930)の太成殿 |

太成殿の主門で祭孔大典の時のみ中央の入り口開かれる。左右にある、木彫りの『螭龍圍爐』と呼ばれる |

太成殿・屋根には72羽の「不孝鳥」(フクロウ)が並ぶ。
「悪鳥」も受けいれた孔子の「有数無類」の精神を象徴 |

儀門・ なめらかなカーブを描く色彩豊かな木彫窓は、名作として高い評価を得ている。 窓の彫刻の主人公は「螭龍」という龍の子供でまた角が生えておらず、イルカのようにも見える。 |

9月28日孔子祭・学生が「八佾の舞」を踊り孔子の誕生を祝う |
太成殿・、一対の泉州白石による龍柱がたっている。龍柱はいまだ昇天しない龍のことです。 |

太成殿の荘厳な天井 |

太成殿・正面には孔子の位牌が祀られている左右の壁には四大弟子(孟子、顔士、曽士、子思士)や
12哲人などの位牌が祀られている。床には祭祀用のしゅく・しんこ・編鐘が並ぶ |

櫺星門・櫺星とは文曲星のことで教育と文学を司る星宿を意味する。龍柱は傑作である
門板に108個の門釘が打たれているには、天上の108個の星宿を象徴する
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儀門の内側にある、 祭祀に使われる「しんこ」と「けんこ」 |
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大龍峒保安宮 台北市哈密街61号 |
保安宮は、医療と長寿の神様「保生大帝」を祀った廟です。乾隆7年(1742)に泉州同安からの移民達が大稻埕と同じく、その故郷の同安県白礁の祖廟である慈済宮から保生大帝の分霊を現在の大龍峒に祀った。当初は粗末な建物であったが清朝の嘉慶10年(1805)に建立が開始され、道光10年(1830)に主神に「医学の神様」保生大帝を祀った寺廟「保安宮」が建てられた。しかし、械闘(村落間の武器を持っての闘争)の影響があり、咸豊9年(1859)には漳州人と泉州人との争いが起こり、保安宮も多大な損害を蒙ったため、大規模に補修が行なわれた。台湾が日本に統治されると、明治31年(1898)に保安宮は第3付属国語学校と、ござ製造会社に利用され、これは大龍峒公学校に変わりの前身です。その期間、廟の絵の具がはげ落ちた為に、三堡の有力者である沈猪、陳培根、林明徳、李声元、鄭根木、陳春輝、黄賛鈞、林清敦、蔡受三らがそれぞれ資金を集め大正6年(1917)から二年間をかけてようやく修築が完成しました。保安宮は萬華地区の龍山寺と清水巌とともに台北の三大廟のひとつに数えられ、さらにその主神である「保生大帝の生誕祭」(3月14~15日)は、迪化街の守り神である城隍爺の誕生日を祝う「霞海城隍祭」(5月11~13日)・萬華青山宮の「艋舺青山王祭典」(10月20~22日)とともに、台北三大祭と呼ばれる。保安宮は2003年にユネスコ「アジア太平洋文化資産保存賞」を受賞しました。 |
日本統治時代の保安宮の主門 |

本殿・沢山の華やかなお供え物・地元民と密着した信仰の廟です |

主門・平日でも参拝者が多く、ちょうど幼稚園生が提灯を持って参拝 |

信仰心が深い、大龍峒の人々 |
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園児も提灯を持ってお詣り |

主門の天井の細工装飾 |
主門の天井の細工装飾と提灯 |

道路隔てた鄰聖苑(公園) |
孔子廟入口前、道路隔てた鄰聖苑(公園) |
鄰聖苑の池の龍の口から噴水が出る |

日本教育を受けた方々の鄰聖苑での日本語のカラオケ集い |
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