庄福BICサイト    ①台北市北部北投温泉と円山駅周辺の建築物             H・27・4・1製作   H・27・4・4更新   H・27・5・12更新 
 

屋根の左右にある蟠龍が彫刻された黄色の「通天筒」は始皇帝の焚書坑儒のとき、書を竹筒のなかに隠した故事に因む。 
      MRT淡水線北部
                              北投温泉博物館(旧・台北州北投温泉浴場)     台北市北投区中山路2号
  
MRT路線図
   北投(ほくとう)の地名は、昔住んでいた原住民によってパクト(巫女)と呼ばれていたので(.)その音訳のまま「北斗」と呼んだが中部台湾に北斗という街がある為に「北投」となった(.)古くはスペイン人が台湾北部に出入りしていた際に、すでに調査の記録がある。その後、清国統治時代の1697年郁永河(いくえいが)がこの地を訪れ、硫黄を採取し、現在の士林(しりん)付近で製錬を試みたという。北投温泉は1893年にドイツ籍の硫黄商人オーリーによって温泉が発見されたといわれる(.)日本が統治した明治28年(1895)11月に初代台湾総督の樺山資紀(かばやなすけのり)も温泉とは無縁だが視察している。翌年にはに台湾で金鉱の探査を行っていた大阪の商人平田源吾氏の手により(.)北投、初の温泉旅館「天狗庵」が建設されたのを皮切りに(.)北投エリアが温泉街として開発されることになった。この天狗庵のあった場所には現在、加賀屋が建っている(.)ラジウム温泉を身近に楽しめる公共浴場「瀧乃湯」などもでき(.)その後、台北から北投までの道路の開通や、明治34年(1901)淡水県の鉄道が開通した(.)明治43年(1910)の当時は、庶民が気軽に温泉を楽しめる場所が少なかったこともあり(.)地元の人たちの陳情を受けた当時の台北州庁長、井村大吉が元々あった公衆浴場「瀧乃湯」を(.)森山松之助の設計により改築、拡張工事を行なって北投温泉公衆浴場としました(.)利用者は圧倒的に内地人(日本本土出身者とその子孫)が多かったようである。そして、富裕層に限られたものだった(.)大正2年(1913)に浴場が正式に落成すると、さらに周囲に北投公園を建設、徐々に北投温泉郷として姿を整え、発展していきました(.)大正5年(1916)4月には温泉郷までの北投―新北投間の支線が開通している(.)温泉客も増えるにつれ、北投は北投温泉公共浴場などの公共温泉から、政府要人の接待所になるような温泉旅館まで(.)様々な温泉が林立する一大歓楽街へと変貌した。今では昔ほどの賑わいは見られないが(.)それでも台北市から近いという立地条件、バリエーションに富んだ泉質で、温泉王国台湾でも人気の温泉エリアです。最近では(.)温泉を利用したエステを完備した新しい温泉がたくさん登場しています(.)戦後、北投温泉公衆浴場の建物は荒廃していたが1994年、北投国民小学の生徒と教師が授業でこの公共浴場のことを知り、付近の住民たちとともに台北市に熱心に働きかけた結果(.)内政部から三級古跡に指定され温泉をテーマとした博物館となりました。月曜日休館(.)
    台北中心から45分・MRT(新交通システム)淡水線の北投で新北投支線に乗り換え新北投で下車して歩いて8分(.)


北投温泉公共浴場
 
 
北投温泉 地熱谷
 
北投温泉公共浴場全景
 
浴場

湯の花咲く北投温泉
常時湯治客絶えることなく正面の建物は公共浴場にて
情緒壮麗で浴槽の大なるに、浴客の驚かざるをえない。
 


北投温泉 公園
 
現在の北投温泉博物館
   
      台湾民族北投文物館(旧・佳山旅館・陸軍士官倶楽部         北投区幽雅路32号
   北投温泉の最も奥まった場所に位置し、日本統治時代は上北投(かみほくとう)と呼ばれた地域に旧・佳山旅館はある。創業は大正10(1921)年頃で、現在の建物が竣工したのは大正14年(1925)頃といわれる(.)当時、駅から最も遠い場所にあった旅館で、温泉街を抜け歩くと20分程は歩く(.)建物は純和風の木造2階建てで、旅館建築によく見られた書院造り。敷地は広く、800坪という広さを誇っていた。1920年代以降、陸軍が士官倶楽部・招待所として使用していたが(.)太平洋戦争の末期には若い特攻隊が飛び立っ前日に最後の一晩を過ごす場所になっていた(.)2002年からは1億元以上の費用をかけて座敷・大広間・大浴場・日本庭園を復元し公開している(.)

       吟松閣                                      北投区幽雅路21号
    旧吟松庵旅館。戦前から続く温泉宿。一帯は緑があふれており、湯上がり後の散策が楽しい(.)石段を上がると、左手に日本式の石燈籠が置かれている。そして、奥に木造家屋がどっしりとした構えを見せている(.)錦鯉が泳ぐ池を石橋で渡って玄関へと向かう。昭和9年(1934)竣工(.)平屋造りだが、奥には2階建ての別棟もある。宿泊者以外は外観のみ参観可能。新北投駅からタクシーで10分(.)
        普濟寺(旧・真言宗鉄真院)                         北投區温泉路112號
   ここは日本統治時代に建てられた真言宗の寺院である。台湾総督府鉄道部の職員たちが中心となって開かれ(.)信徒にも鉄道関係者が多かった。そのため、通称「鉄真院」と呼ばれていた(.)寺院が開かれたのは明治38年9月。北投の温泉街が見おろせる古刹として、景勝地の扱いを受けている(.)初代の本堂は大正5年(1915)1 月に竣工したという。後に大がかりな改築が行なわれ、昭和9年(1934)に竣工して現在に至る(.)圓山駅そばの護国禅寺の分院である。建物内部は畳敷きとなっている(.)温泉路からは石段を上がった先にあるが車だと駅から泉源路を山の方へ上がる(.) 
       故宮博物院  (特別紹介)日本統治時代の建物ではありません。
   故宮博物院 オープン予定の故宮南院    中華民国政府が台湾へと撤退する際に北京の故宮博物院から精選して運び出された美術品が収蔵品は約70万点だが(.)入替えて展示されている。一般参観者の入場料は250元見学には2~4時間を要する(.)MRT「土林」駅からタクシーが便利。年中無休・通常開院時間:午前8時30分~午後6時30分(.)入場料金250元。夜間開院時間:金曜、土曜日午後6時30分~9時
。MRT淡水信義線士林駅下車、紅30バスに乗り換え、故宮博物院正館入口下車(.)

台湾南部の嘉義県にある台湾高速鉄道嘉義駅(かぎえき)の隣にアジア文化をテーマとした故宮南院が2015年12月28日にオープンする。博物院の機能の分散化が図られている(.)
                忠烈祠台湾護国神社                      台北市北安路139号
 昭和13年(1938)2月に日中戦争に伴う戦死者の増大を受け、台湾にも靖国神社を建てようとの声が各地であがり始める(.)靖国神社大祭に当たる4月26 日に総務長官も招魂社の新設を提唱するなど気運が高まり、台湾神社遷座造営と併行して東側の剣潭山の(ふもと)護国神社造営が決まり、昭和17年(1942)5月23日に台湾護国神社鎮座祭が行われた(.)靖国神社の祭神で台湾に縁故がある英霊を祭神としていた。しかし台湾護国神社は鎮座から3年あまりで敗戦を迎え(.)壊され廃社となる。台湾の統治者として君臨した国民党政府は護国神社敷地に北京の紫禁城内の大和殿を模して(.)主に抗日戦争や国共内戦、金門(.)馬祖の戦役などで戦死した30数万人の中華民国軍人の英霊を祀る「忠烈祠(ちゅうれつし)」を1969年3月25日に完成した。台湾護国神社を廃して造られたため、はっきり神社の配置が残っている() 敷地外には護国神社の石灯籠の残骸が残っており胴部には(.)奉献」の文字と「帝国在郷軍人会」の文字が読み取れる。また戦後、日本人が去った後、台湾に入り込んだ国民党の不正や犯罪に反発して騒動を起こした台湾人、2万8千人余を殺害したとされる歴史を語る、台北228 和平紀念公園内の台北二二八記念館(.)旧台北放送台北支局庁舎)の正面前100mには護国神社の青銅製の神馬像が移設され胴部分には護国神社の桜紋がある(.)   
 MRT「圓山」駅出口1からタクシーで約5分(.)バスは21、42、208、213、247、267、287、646、紅2、紅3に乗り、「忠烈祠(Martyr's Shrine)」で下車。故宮博物館からはタクシーが便利(.)
 
護国神社
  
護国神社の神馬
二二八記念公園に移された護国神社の神馬像の横腹には桜紋が印刻されている
 
 
護国神社鳥居と左右の桜紋の御神灯
  
拝礼式                             社殿内部

神社配置図


台湾護国神社鳥居脇
 
忠烈祠・主門
 
忠烈祠・本殿
   

第二次世界大戦の終り昭和20年頃に米軍機が撮影した台湾神宮付近の航空写真 
           台湾神社                      台北市中山北路四段1号
 台湾神社は台北の北東の場所に鬼門除けもあり、京都にある圓山公園にちなんで、北海道神宮(札幌神社)が建てられていると同様に台湾にも圓山公園という名の公園を造り(.)そこに台湾神社を造営しようとした(.)しかし結局、広い平坦地よりも神域にふさわしい北隣の基隆河の対岸の剣潭山に決まり、南北の稜線部分に3段の敷地を造成し(.)明治33年(1900)4月に地鎮祭が行われた。建築には福岡県沖端村(おきのはたむら)(現・柳川市)出身の高石組(高石忠慥)が施工した。奥の上段に本殿・祝詞殿,中段に拝殿を置き、下段の東側に器庫、社務所を西側に神様の食事の支度をする神饌所・手水舎(ちょうずや)が造営され、明治34年(1901)10月27日に鎮座式が行われ、28日に大祭が挙行された(.)当初の祭神は、、台湾出征中に病没した北白川宮能久親王および開拓三神(大国魂命(おおくにたまのみこと) ・大己貴命(おおなむちのみこと) ・少彦名命(すくなびこなのみこと))であった。台湾の総鎮守として、台湾で最も重要な神社とされ、台湾総督府は10月28日を「台湾神社祭」と定め、この日を全島の休日とした(.)大正12年(1923)に皇太子(後の昭和天皇)による台湾行啓の時に台湾神社へ参拝する為の、勅使街道(現:中山北路)の道路が建設され神社に通じた(.)境内は10万余坪、諸家から献納された燈籠27基、花崗岩の大鳥居などがあった(.)

台湾全島の生蕃(原住民)の頭目(首領)の台湾神社参拝の光景(貴重な写真資料である(.) 


明治40年(1907)の台湾神社大祭紀念絵葉書
 
大正12年(1923)皇太子(後の昭和天皇)の台湾神社参拝・明治橋にて 

大正12年(1923)皇太子(後の昭和天皇)による台湾行啓・台湾神社参拝


台湾神社・航空写真 
 
   



台湾神社





昭和15年(1940)台湾神社の秋祭り






幼い兄弟の参拝記念写真




初代・明治34年(1901)竣工のトラス組の鉄橋の明治橋
 


昭和8年(1933)3月竣工の2代目明治橋(2003年撤去)


社務所

鎮座記念碑は新北市林口・竹林山觀音寺に保管されている


2代目明治橋手前の駐車風景
              台湾神社の遷宮先→新社殿・台湾神宮の造営
 昭和12年に台湾神社が手狭な為に造替が決定し、東寄りの隣接地に新しい境内を整備して新社殿を建設することになる(.)昭和14年、造成途中に本殿予定地の背山の表土が山すべりの兆候があり崩潰防止の為に2年の歳月を要する掘削工事と排水工事が必要となり(.)さらに下部に大擁壁を施工せざるを得なくなるという難題が起き、そのため建築は39メートル南に移動させことになる(.)昭和15年7月に約17万坪の神殿予定地で地鎮祭が行われ(.)昭和17年阿里山及び太平山から営林所で伐り出した台湾ヒノキが使われ、新社殿立柱並びに上棟祭が執行された。昭和18年、新表参道に大鳥居が完成(.)社殿完成近い昭和19年(1944)2月、台湾神宮に昇格し、天照大神を増祀すると官報号外で告示される。10月22日御霊代(みたましろ)奉納がされた(.)しかし、翌日、23日夜、松山飛行場に着陸しようと南方から飛来してきた軍用旅客機が誤って台湾神宮の南神門に墜落して爆発し(.)新しい大廻廊および拝殿は猛火に包まれて炎上し、秋の台湾神社祭のときに遷座される予定だった新本殿の一部のみが惨事を逃れた(.)増祀祭は旧社殿で行われ、台湾神宮に改称されたようではあるが,ついに新社殿に遷座されれずに敗戦を向かえたと推測される()昭和20年(1945)5月8日米軍機の爆撃を受け新旧のどちらの拝殿かは不明だが一部が焼失したとある(.)同年8月15日、日本の第二次世界大戦は敗戦となり日本人は本国に引揚げされ、全ての神社は台湾に逃込んだ国民党により廃止され壊された(.)現在、新社殿の台湾神宮は、圓山聯誼會、つまり圓山大飯店の会員施設になっていて、プールやテニスコートなどがあり(.)敷地の最も北側に、筋塀と呼ばれる塀が東側と西側に 2つ、山の傾斜に沿って南北約10mずつ残っている(.)当時の写真は確証はないが、本殿の背山の崩潰防止のために掘削されているので、それらしき台湾神宮の写真と米軍の偵察航空写真を掲載してみた(.)
 

昭和19年10月24日台湾神宮の新社殿は軍用旅客機の墜落により南神門、大廻廊や拝殿屋根が破壊された
右下の鳥居は影の形状から護国神社の参道入口とみられる。  (米軍の偵察飛行写真より)



      【旧・台湾神社の遺構(.)
 壊された台湾神社の燈籠は円山公園(動物園跡)に2基、狛犬が圓山大飯店の向かって左側の斜面を下った所の剣潭公園に一対移設(.)台湾神社の鎮座記念碑や灯籠は新北市林口・竹林山觀音寺の本殿裏の廃材置場に残っている()鳥居は三峽清水祖師廟の堂内の柱に利用されている。また二二八和平公園の南西部の入口付近に急公好義坊(鳥居に似た碑坊)の両脇に板橋の富豪・林本源一族が奉納した中国風の獅子が移され、そばの国立台湾博物館にも台湾神社の1対の牛像が移設してある。東側(台湾大学病院に近い側)の銅牛は、材質が赤銅で(.)1935年に日本の北海道の仏教団体「弘安海」が、箱館戦爭で犧牲となった兵士を記念して鋳造し、台湾神社に奉納したもので、西側の銅牛は,材質が青銅で(.)1937年に台湾在住の日本人商人・川本沢一が、南洋視察団への参加が順調であったことを記念して製作し、台湾神社に奉納したものです(.)壊された台湾神社の跡地には2階建て木造の台湾大飯店(台湾ホテル)が建築され、1952年に14階建ての中国様式の圓山大飯店に建替えている(.)

台湾神社の敷地は戦後、台湾大飯店となった。1951年頃の写真。鳥居がまだ残っていた。
1952年、14階建ての円山大飯店に建替える直前の写真です。
 
 

圓山大飯店



台湾神社の鎮座記念碑

 二二八和平公園の急公好義坊の両脇の唐風獅子像

向う左は統治時代、菅原道真を祀る天満宮であったが福徳宮に変更さてた


台湾神社牛像は
台湾博物館前に移設されている


台湾博物館前東側の赤銅の牛像
 


剣潭公園に残る台湾神社の狛犬 
 
花博公園隣り「児童育楽中心」
  に移された灯籠  
台座には船越倉吉を組長とする台北火消組の名前が刻まれている
.
   
円山駅付近日本統治時代の古地図
        剣潭古寺  (旧・剣潭寺(けんたんじ))                   台北市中山区北安路805巷6號
  淡水廳誌によると、剣潭寺は乾隆38年(1773)呉廷誥らの寄付により創建された記録もあり台北では最古の寺院とされている(.)日本統治時代に日本から仏教の布教に来た(.)僧侶の逗留する寺でもありました(.)昭和2年(1927)に明治橋から新しく建設される台湾神宮や護国神社の参道建設により、移転することになる(.)昭和15年(1940)に台湾神社の近くから現在の大直「北安路805巷)に新寺院が完成し「剣潭古寺の名称となりました(.)廟に入る前の門には青緑色の瓦屋根に「剣潭古寺」という4文字が書かれています(.)堂内レンガ床には「延壽堂」「歳次己未年仲夏…」(つまり大正8年((1919))夏)と書かれた、日本風の松と丹頂鶴の板絵がある(.)林に囲まれた碑林園には以前の剣潭寺の柱や明治34年の陰刻された石碑などが移されており(.)古い寺廟の屋根下にはいくつもの装飾木彫が残っています。MRT剣南路駅から歩いて5分(.)


日本統治時代の剣潭寺の彩色絵葉書 


台湾神社の参道近くにあった頃の
剣潭寺(陸軍飛行第8連隊の撮影)


河縁にあった剣潭寺 
 

現在の剣潭古寺 

劍潭古寺碑林園

明治34年の石碑 

剣潭観音佛祖
 
松と丹頂鶴の板絵
     MRT 円山駅周(.) 
    .
                  台北故事館(旧圓山別荘)            中山北路3段181-1號
  日本の植民地だった大正3年(1914)に大稲珵の有力な茶商人茶商の同業組合(.)台北茶商公会」の初代会長である(.)陳朝駿(1885年-1923年)が円山の基隆河畔に一棟の英国風の洋館を建て(円山別荘)、取引先や政界との接待の場として建てた別荘でである(.) 陳朝駿はこのチューダー式建築のために、オランダの東印度会社から設計図を取り寄せ(.)日本人に建設を依頼した(.) 当時は、現在の市立美術館背後の花園や馬場も敷地で広大なものだった。 正門が大通りですが、後ろは基隆河に面しているため、陳朝駿はそこに小さな船着場を設けました(.) ここから客を乗せて現在の迪化街にあった店の様子を見せたという(.) 2階のベランダからは、現在の圓山飯店あたりの台湾神社が目の前で(.)はるか彼方には基隆河を美景が望め、「台湾百景」の一つと称された(.)
陳朝駿が亡くなったあと、この洋館は憲兵隊の監獄になったり(.)国会議長の住宅になったり、商品の展示場になったり数奇な運命をたどり、1979年に台北市が手に入れ(.)市立美術館の管理に委ねた。 一時「美術家交流センター」に使われていましたが、1998年になって、「円山別荘」として市の史跡に指定された(.)あまり一般の人が訪れることはありませんでしたが2003年(.)台北故事館」として生まれ変わり、館内には(.)旧圓山別荘の歴史を説明した簡単な展示品や視聴覚室があります(.)1階の出口近くには小さなギフトショップや喫茶店がある。円山駅からは公園を挟んで徒歩10分くらい。入場料50元(.)
 

                      臨濟護国禅寺(鎮南山)           台北市中山区酒泉街5段27号(円山駅歩いて2分)
 台湾総督の児玉源太郎は 中国南部は禅宗の本地であるにもかかわらず(.)近世は仏教が衰退してしまった風評を確認の為に配下の松本や妙心寺派の僧侶に旅費を贈与して福建省に視察させるなどし、禅宗を台湾に布教しようとした(.)しかし本土の妙心寺派僧侶は環境悪く病魔のはびこる台湾に来る者はいなく(.)たまたま渡台してた梅山玄秀一行は先ず台湾の寺、剣澤寺に入るが、 そこは衛生上好ま しい場所とは言えず丶 布教. 師たちは次々と病に整れていく(.)児玉源太郎は剣澤寺に入っていた梅山玄秀に出会い(.)台湾戦病忠死者の霊場である「円山精舎」が児玉の援助で明治33年(1900)7月に現在の臨済寺に完成する(.)明治34年(1901)に日本人が淡水線鉄道を開通する際に(.)近くに圓山駅が設立された(.)明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると梅山児玉に請われて従軍布教するほど親密な仲となる。児玉は翌年の暮れに台湾に凱旋し(.)翌、正月元旦に台湾神社の参拝の帰りに梅山に合い、本格的な臨済寺の寺院の建立を提案し、本堂・庫裡の建設費の募集を開始した(.)しかし児玉は総督を辞任し日本に帰り7月に急死し臨済寺は大檀越をなくす(.)梅山児玉の意思として資金募集に疾走するが集まらず苦労する(.)やっと資金が集まり明治43年(1910)庫裡(こり)と豊川閣が完成し稲荷の鎮座式をおこなった。明治45年(1912)には(.)台湾唯一の日本仏教の大殿木造建築の臨濟護国禅寺(鎮南山)が完成し6月に入仏式と開祖児玉源太郎の七回忌法要が行われた(.)本尊は釈迦牟尼仏、開基(創立者)は児玉源太郎、開山は梅山玄秀(梅山得庵)である(.)その後、妙心寺派は臨済寺を台湾布教のセンターと位置づけ台湾本島で布教活動を展開した(.)本堂を囲む石柵に寄進者の名が刻まれている(.)個人の寄進の地名は 台北○○、北投○○というのがほとんど(.)日本統治時代に北投に日本人が多く住んでいたことが伺える。団体名としては「三河郷友会(.)「竹の屋」「芳乃亭」「伏見屋」「梅屋敷」「幽静館」「デルロー 信生堂」などなど ここに出てくる(.)梅屋敷」は孫文が宿泊した旅館で有名 今は移設工事をされて台北駅傍の孫文記念館として保存されている(.)1984年に本堂は、風水上の理由から、90度回転して今の位置になった(.)また本堂には戦後、中国寺院にような派手な彩色にされていたが、2008年に妙心寺派に復帰した際に改修され元に戻されされている(.)旧山門の前に広がる花博公園は陸軍墓地で、戦後に撤収され日本の靖国神社に祀られました(.)この付近は新石器時代の円山遺跡のある場所で、大正7年(1918)臨濟護国禅寺敷地拡張工事の際に円山西側から砥石が発見されている(.)国家第一級古跡に指定され、北側に円山史跡公園がある(.) 
梅山玄秀
写真は鎮南記念帳より拝借
 
左から禅堂・本堂・庫裡「奥)・勅使門・豊川閣(稲荷)鳥居
 

陸軍墓地と忠魂堂は寺の東側にあったであろう
 
勅使門(山門)本堂は入って正面にあった
 
 日本統治時代の写真・稚児や官僚・僧・檀家などが写っている。右が山、左の建物は禅堂と見られる。
 (昔明治 45年 (1912)の本堂の写真  
禅堂(今は無い)
 
本堂前に戦後新しく造られた入口
 
2008年8月27日に修復された大雄寶殿

本堂のを囲む石柵に寄進者名       デルロー 信生堂

勅使門(山門)は昔と変わらず。左の石碑の施主の岐阜県の下は塗りつぶしてある。
「昭和十乙亥年春三月 (他面)施主 臺北在住 岐阜縣出身有志者樹之」

昔の寺院配置図想像図・禅堂は境内となり今は無く
本堂は90度新設の門側に向きが変更された

寄席の芳野
  
伏見屋 ・ 梅屋敷 ・ 堀江商会

 
仏殿内・畳は排除されている
 
本尊・釈迦牟尼仏像

戦時中供出された為に戦後中国風に鋳造された梵鐘

現在の正門・ガラス廟の大黒天の奥が本堂
本堂とは少しずれている

昔の正門・車の出入り口
向うは陸軍墓地があった公園

新設の禅堂室・靴を履いての礼拝
僧了はテーブルに座ってお経

隣の花博公園に
陸軍墓地があった

                     孔子廟(こうしびょう)                          台北市大龍街275号
   元々台北城内(現在の台北市立第一女子高級中学敷地)にあった孔子(紀元前551年9月28日~紀元前479年4月11日)を祀る孔子廟は1875年に建設が始まり、ほぼ10年をかけて1884年に完成した(.)しかし、明治28年(1895)(.)日清戦争が勃発、勝利した日本軍が台北を占拠。孔子廟は2年間臨時の病院に使用された。廟内の位牌や楽器が損傷し、建物は荒廃していった。明治40年(1907)(.)孔子廟は撤去され、第一高等女学校(総督府斜め前)に改まり、ただ校内に小さな楼閣が建てられ位牌が祀られていた。台北孔子廟の再建がまだ完成していなかったため(.)台北崇聖会が保安宮で孔子祭の典礼を主宰し、大正15年1926)、保安宮内で開催された(.)昭和2年(1927) 9月22日、台北崇聖会が再び保安宮で孔子祭の式典を挙行しました。大正9年(1920)頃から孔子廟復興の動きが(.)台北市の文人たちは大龍峒で土地を寄付し、孔子廟の再建に出資し(.)中国大陸から寺院建築家を招聘、昭和4年(1929(.)に孔子廟が完成し、中断していた祭孔大典も再開された。 その後、民国60年(1971)になり(.)民間の寄付により建設された今の孔子廟は、建設に功労があった台北名士の跡継ぎである辜振甫及び陳錫慶とが全体を代表して、国に寄贈され(.)翌年に台北市孔子廟管理委員会」が設けられ、民政局に属することになる。大成殿左右の東(.)西廡には孔子の弟子や儒学者、背後の崇聖祠には孔子五代の先祖が祀られています。また、孔子節の模様を説明した展示室、お祭りに使われる楽器を展示した部屋がある(.)新暦9月28日の孔子誕生日には政府主催の「孔子節」が開催される。 現在は国の三級古蹟となりました。月曜日休み・入廟無料(.)MRT「圓山」駅より徒歩10分。2番出口より向かって右側の庫倫街という通りを(.)駅を背中にしてひたすらまっすぐ進みます(.)大龍街と酒泉街の交差点付近にあります(.)

台北城内の孔子廟(明治28年に病院として2年間、使用された) 
 
昭和5年(1930)の太成殿
 
太成殿の主門で祭孔大典の時のみ中央の入り口開かれる左右にある、木彫りの『螭龍圍爐』と呼ばれる

太成殿・屋根には72羽の「不孝鳥」(フクロウ)が並ぶ。
「悪鳥」も受けいれた孔子の「有数無類」の精神を象徴
 

儀門 なめらかなカーブを描く色彩豊かな木彫窓は、名作として高い評価を得ている。
窓の彫刻の主人公は「螭龍」という龍の子供でまた角が生えておらず、イルカのようにも見える。
   
 
9月28日孔子祭・学生が八佾(はちいつ)の舞」を踊り孔子の誕生を祝う
 
太成殿・、一対の泉州白石による龍柱がたっている。龍柱はいまだ昇天しない龍のことです。 
 
太成殿の荘厳な天井

太成殿・正面には孔子の位牌が祀られている左右の壁には四大弟子(孟子、顔士、曽士、子思士)や
12哲人などの位牌が祀られている。床には祭祀用のしゅく・しんこ・編鐘が並ぶ
 
 
櫺星門・櫺星とは文曲星のことで教育と文学を司る星宿を意味する。龍柱は傑作である
門板に108個の門釘が打たれているには、天上の108個の星宿を象徴する
 
 
 
儀門の内側にある、 祭祀に使われる「しんこ」と「けんこ」 
                 大龍(どう)保安宮                                  台北市哈密街61号
 保安宮は、医療と長寿の神様「保生大帝」を祀った廟です(.)乾隆7年(1742)に泉州同安からの移民達が大稻埕と同じく、その故郷の同安県白礁の祖廟である慈済宮から保生大帝の分霊を現在の大龍峒に祀った。当初は粗末な建物であったが清朝の嘉慶10年(1805)に建立が開始され(.)道光10年(1830)に主神に「医学の神様」保生大帝を祀った寺廟「保安宮」が建てられた(.)しかし、械闘(かいとう)(村落間の武器を持っての闘争)の影響があり、咸豊9年(1859)には漳州人と泉州人との争いが起こり、保安宮も多大な損害を蒙ったため、大規模に補修が行なわれた(.)台湾が日本に統治されると、明治31年(1898)に保安宮は第3付属国語学校と、ござ製造会社に利用され(.)これは大龍峒公学校に変わりの前身です。その期間、廟の絵の具がはげ落ちた為に(.)三堡の有力者である沈猪陳培根林明徳李声元鄭根木陳春輝黄賛鈞林清敦蔡受三らがそれぞれ資金を集め大正6年(1917)から二年間をかけてようやく修築が完成しました(.)保安宮は萬華地区の龍山寺と清水巌とともに台北の三大廟のひとつに数えられ(.)さらにその主神である「保生大帝の生誕祭」(3月14~15日)は、迪化街の守り神である城隍爺の誕生日を祝う「霞海城隍祭」(5月11~13日)(.)萬華青山宮の「艋舺(まんか)青山王祭典」(10月20~22日)とともに、台北三大祭と呼ばれる。保安宮は2003年にユネスコ「アジア太平洋文化資産保存賞」を受賞しました(.) 
 
日本統治時代の保安宮の主門

本殿・沢山の華やかなお供え物・地元民と密着した信仰の廟です

 主門・平日でも参拝者が多く、ちょうど幼稚園生が提灯を持って参拝
 
信仰心が深い、大龍峒の人々
 
園児も提灯を持ってお詣り 

主門の天井の細工装飾  
 
主門の天井の細工装飾と提灯  
 
道路隔てた鄰聖苑(公園)
 
孔子廟入口前、道路隔てた鄰聖苑(公園) 
 
鄰聖苑の池の龍の口から噴水が出る 

日本教育を受けた方々の鄰聖苑での日本語のカラオケ集い 
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 ④台北市官庁街の日本統治時代の建築物の旅   ⑤台北市西門と萬華区の建築物の旅 ⑥台北市中正区南部と大安区の建築物の旅

 庄福BICサイト  引用文献  大正2年(1913)新高堂書店発行・村崎長昶発行者の「台北写真帳」  東京人的台湾散歩 台湾懐旧 1895-1945 絵はがきが語る50年
                    津田良樹「台湾神社から台湾神宮へ」 片倉佳史著「日本統治時代の名建築を歩く」「台北の歴史を歩く」・各建築物・施設の紹介パンフレット・観光局案内書

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