庄福BICサイト       台北駅周辺と東部の建築物の旅          H・27・4・3製作
 
               日新国民小学(旧・日新公学校)            台北市星明里太原路151号
  戦前台湾の教育は、日本人子弟が通う「小学校」と台湾人子弟(一部原住民子弟)が 通う(.)公学校」に分けられていた。大正4年(1915)に台湾総督府は「大稻埕第二公學校」として設立。大正9年(1920)第一期校舍竣工し、日新公学校と称する(.)戦後の昭和26年(1946)には台北市日新國民學校の名称となる。初等教育機関の古蹟に指定されており、保存が決まっている。放課後を中心に構内を開放していることがあり、この時は見学が可能。 南京西路と承徳路の交差点から徒歩2分ほどです(.) 
 
日新國民學校
 
日新國民學校廊下
                 蓬莱国民小学(蓬莱公学校)               台北市星明里寧夏路35号
  蓬莱(ほうらい)公学校は明治43年(1910)に「大稻埕・女子公学校」として設立、台湾人女児が初等教育を受けた。のちに蓬莱公学校と称する。同校は教育水準が高く、役人や資産家の娘が多く優秀な生徒が多かったので有名である。戦後は蓬莱国民小学の名称となる(.)正門前に100年を超える歴史を紹介するパネルが置かれていた。周囲は台北有数の露店街「寧夏夜市」で、毎日明け方までにぎわうが、登校時にはゴミ1つ残さずきれいに片づく。名門小学校をみんなが大切にしているのが分かる(.)
             陳徳星堂                         台北市寧夏路27号
   陳徳星堂は陳姓の祖先を祭った台湾最大の廟で100年以上の歴史を持つ史跡です(.)この廟は清朝の光緒年間に台北城内に建立された。その後、明治44年(1911)に日本政府により総督府の用地として接収され(.)現在の寧夏夜市そばに移転させられている(.)2012年に6年の歳月をかけ古来の伝統工法にのっとり、建材にもこだわり修復され建立当初の姿に再現されている(.)庭には昔に奉納された日本の石燈籠が残っている。蓬莱国民小学の東側にある(.)
                   台北當代藝術館(旧建成小学校)           台北市中山区長安西路39(.)
   大正10年(1919)竣工、近藤十郎、設計(市定古跡)大正12年(1921)、建成小学校の校舎として開校(.)U字型、赤煉瓦2階建ての建物は左右対称の造りで、2階中央には大きな講堂が設けられ(.)一階中央に車寄せ、両端にも入り口がある。2階の天井が高く、屋根には瓦がのっており(.)鐘楼が突き出している。U字型の真ん中部分が運動場になっているのは(.)当時の典型的な学校建築の配置である。日本語が流暢に話せないと合格できず(.)日本人と、ごく一部の台湾人の子弟のみが通う小学校でした。戦後、小学校が廃校になり(.)かわって台北市役所として長年利用された。現在、U字型の一部は台北当代芸術館(.)して市民の芸術交流の場所となり、その他の部分は北側に隣接した建成中学校として利用されている(.)90年前に建てられたとは思えない立派な大きな学校で(.)美術館の中から中学校の校庭も見られます(.)当時の日本の小学校は木造平屋の電気も暖房もない質素な教室でした(.)
       MRT淡水線中山駅から高速道路高架を潜り、次の信号を右折。徒歩8(.)

 戦後まもない1949年当時・噴水広場は1900年代に駐車場建設で壊された


現在は芸術アートで飾り散らしている

左側校舎
 
教室もアートでいっぱい

 赤レンガが残る一階廊下

階段
 
 .     旧・御成町と大正町
  中山北路は日本統治時代、台湾神社(現在は圓山大飯店の敷地)の参道として整備された(.)ここから少し西に歩けば、淡水線の大正街駅があった。ここはホームだけの小さな駅だったが、利用客は多く、賑わいを見せていたが廃駅となり(.)現在は北北西方向に地下鉄淡水線「中山駅」があり新生三越や商店が並ぶ中心街となっている。御成町の町名は大正12年(1923)に当時の日本の皇太子裕仁親王が台湾に行啓された記念碑(御成碑(.)がこの町内に建立されたことから、この名が付けられた。御成町市場は大正6年(1917)10月10日に開設され25店舗があり周辺の日本人街がらの買い物で賑わっていた(.)近くには1979年まで米国領事館がありました。日本統治下の大正10年(1921)に第一次世界大戦後の不景気による失業者対策として設置された台北職業紹介所(現・台北市残障福利會舘)もあった()中山北路と長安西路の交差点に大正時代に建てられたと見られる赤煉瓦造り建築の瀟洒な「満楽門」喫茶店がある。以前は雑貨を売っていた店舗であった(.) 大正町には総督府の官吏が住む官舎や高級住宅街がありました。大正6年(1917)に大正町教会(現在の中山基督長老教会(.)が開設され、昭和12年(1937)には現在の教会が建てられています。(.)大正町の北部には日本人墓地の「三板橋墓地」が広がっていました。この墓地は碁盤の目のように整備された台北市には珍しく(.)ひし形をしており、墓参に訪れる人々は勅使街道(現在の中山北路)側から墓地へと入っていった(.)墓地には明石元二郎総督や乃木希典総督の御母堂などが眠っていたが、戦後は国民党下級兵士のバラック街と化し1997年に公園として整備された(.)現在、公園の隅には明石元二郎総督と鎌田正威氏の墓前にあった鳥居がある。総督のは大きい鳥居です(.)
 

 

大正12年(1923)に裕仁皇太子殿下(のちの昭和天皇)が
台湾神社に参拝される道路の大正町と御成町の合同奉迎の様子


林田桶店と喫茶「満楽門」  台北市長安西路2号


台北職業紹介所(現・台北市残障福利會舘)


中山基督長老教会(旧・大正町教会)
 
林森公園(旧・共同墓地)
 
          台北光點・台北之家(旧・米国領事館)            中山北路二段18号
 旧・米国領事館1979年までアメリカ大使館として使われていた(.)アメリカが中華人民共和国と国交樹立した結果、台湾とは国交断絶となり撤退し空き家となっていた。現在は「台北光點・台北之家」という映画をテーマとしたテーマサロンとなっており、カフェやバー、ミニシアター、書店などが入っています。運営母体は巨匠・侯孝賢監督の事務所です(.)  
 
星条旗が掲げられた米国領事館の頃の写真(.)
   
 

                 逸仙公園(旧・梅屋敷(.)            台北市中山北路一段46号
 梅屋敷の前身は、明治29年(1896)に台湾に渡り台北駅(停車場)前の表町2丁目に「吾妻(あずま)」という料亭を、母親の藤井なみと娘の藤井登美惠で開業されていた(.)始政記念式典が開かれた折に当時の日本本土から大勢の政府要人が(.)ここを利用したことから一躍有名になり、日本人の政治家や軍人、名士が通った最高級料亭旅館となり大変繁盛し部屋数が少なく手狭となった(.)よって、明治38年(1905)に台北駅の傍の広大な敷地に旅館を兼ねた「吾妻別館」(梅屋敷)を建てた(.)庭には新竹州の山中から200株の梅の木を移植し満開には見事な景観であった為に通称、「梅屋敷」とよばれた。でも(.)吾妻別館は附近を流れている淡水河の氾濫に幾たびとなくあい、かつ汽車の黒煙などにより梅林が枯れてしまった(.)でも梅林がなくなっても「梅屋敷」の名だけは残り(.)料亭の経営は継続されたのです。日本に3年間亡命した革命家、孫文(そんぶん)孫中山)も大正2年(1913)8月5日台北を訪れ、この旅館に宿泊し、翌年には東京で中国国民党の前身である中華革命党を組織しました(.)大正14年(1925)に娘の藤井登美惠が亡くなったので東京農業大学を卒業し、高砂麦酒製造部に勤めていた大和伍一郎を養子に迎え経営を続けた(.)第二次世界大戦後の昭和21年(1946)に不動産は没収され(.)藤井の家族と日本人従業員は身の回り品と千円を上限に日本に送還されました。梅屋敷は呉子瑜らの経営になり、「新生活賓館」と改名たが(.)その後、民国43年(1954)11月に当時の蒋介石が国民党結党60周年を記念に敷地内に碑亭を建て(.)梅屋敷は庭園とともに(.)国父史蹟記念館に転用され、孫文が宿泊した部屋を保存(.)孫文や中国近代化革命(.)関する資料などが展示した(.)その後民国74年(1985)線路の地下化工事に伴い(.)梅屋敷は敷地が縮小され孫文が宿泊した建物のみが東北に50メートルの現在地に移築され逸仙公園となっています(.) 開園時間:AM9~PM5 入館料:無料。 台北地下鉄MRT淡水線・板南線「台北車站」駅(2番出口)から、東へ徒歩1(.)
    .

 本店の明治38年(1905)創業の表町(台北駅東2km位)の吾妻旅館

日本統治時代の梅屋敷旅館
  台北梅屋敷大広間・正面に達磨大師と仏像(左)がある
梅屋敷は円山の総督・児玉源太郎の開祖・臨済護国禅寺の信徒であった
  大正5年5月梅屋敷大広間での郵船会社台北支店長高柳氏の留別宴

.梅屋敷旅館(一部の建物)

  終戦後、呉子瑜氏らの経営の新生活賓館となり、後に国父史蹟記念館に転用された

逸仙公園入口


庭園は公園として開放・向う隣りが旧敷地(記念碑がある) 


格子戸や枠が日本家屋を強調する
 玄関に入ると梅の透かし彫りで床の間が見える
梅林と池が見える廊下
 
床の間には孫文の銅像や資料が置かれている
 
               行政院(旧・台北市役所)             台北市中正区忠孝東路1段1号
   昭和15年(1940)に台北市役所として竣工。設計者は東京帝国大学建築科を卒業し、辰野・葛西建築事務所に入って辰野金吾のもとで建築設計に従事した井手 薫(.)施行は協志商会所。戦後、中華民国台湾省行政長官のオフィスや台湾省の庁舎として利用されたのち1959年から現在の行政院となっている(.)現在、毎週金曜日9時から4時まで一般開放されており、ガイド付きで建物の中を見学することができる。一週間前にこちらまで02-3322-1699要予約の上、パスポートを持参。(.)

 
 
                       監察院(旧 台北州庁舎)               台北市中正区忠孝東路一段2
   かっては台北城壁外の東の野原だった。日本政府は城壁を取り壊し、外側の堀を埋め台湾で最も広い三線道路(現・中山南路)を造った。この道が新たな権力の枢軸となり、総督府を中心に公共建築を並べた。台北州庁舎はこの三線道路と基隆街(現・忠考東路一段)が交わる重要な位置に建てられた()大正2年(1913)着工され大正4年(1915)竣工。総督府土木局営繕課長の森山松之助(1870~1949)が設計した(.)当初はは「台北庁新庁舎」と呼ばれ、後に「台北州庁舎」と改名され、台湾北部の最高行政機関として台北州(現・台北市、新北市、基隆市(きいるんし)宣蘭市(ぎらんし)、宣蘭県)を管轄した(.)庁舎前のロータリー公園には4代総督児玉源太郎(1898~1906)の銅像が建っていた(.)この付近の当時の町名は樺山町で建物は第二高等女学校に隣接していた(.)曲線のファサードやビザンチン様式の扁平(へんぺい)ドームなどが優しい感じのする官庁建物です。円形ドームの屋根が3つ(.)中央部に大きなものが一つとその両脇に小ぶりの円形ドーム(.)ある美しい建物で台北にあった官庁建築物の傑作品と言われています(.)森山明治39年(1906(.)総督府営繕課に入って()総督府の実施設計をはじめ(.)公共建築の大部分の設計に携わっています(.)森山は台湾の建築史上に最も重要な人物の一人だといわれています(.)日本が引揚げたのちの1958年に監察院が引き継いだ時(.)建築家、漢宝徳氏を中心にした古跡再生プロジェクトによる調査(.)研究を経て慎重に本来の姿が再現されました。監察院とは(.)憲法に従って国民の権利を守る役所で国の各機関や公務員を監督(.)調査したり、財政状況の監査(.)国政調査などを行う、国のお目付け役のような堅い機関です(.)
    .  TEL02-2341-3184 (.) 国定古跡  MRT淡水線・台北車站(7番出口)から出ると交差点に見える(.)

 
 

自転車や人力車が大通りを通り・砂利道に散水車が活躍している
ロータリー公園の中央には児玉源太郎の銅像が見え(.) 

城壁を壊して出来た台湾で最も広い三線道路(右)(.)
 
正面塔屋と右翼塔屋

現在はオートバイや自動車の交通が激し(.) 

正面一階階段
 
玄関ホールの高さ18mのドーム天井の装飾・ドーム周辺を四対のトスカナ式双柱が周囲をめぐる
 
左翼建物中央出入口
 左翼建物
 
 
玄関
 
正面一階ホール上の二階手摺り
 
正面一階両翼にある丸窓の装飾

正面二階ベランダ上・バロック様式によく見られる壁面装飾
レリーフの中央は楕円形に盛り上がり周囲に縁飾りが施されてい(.)
 
二階に配列する窓下にある装(.)
               立法院(旧・台北州立台北第二高等女学校)            台北市中正区中山南路1号
    大正8年(1919)に台北公立高等女学校として創立。大正10年(1921)に台北州立台北第二高等女学校と改称した(.)台北市内には公立の高等女学校は第一、第二、第三と第四の四校が存在した(.)このほかに私立の女学校がある)。そのうち、第一と第二は日本人(当時は「内地人(.)を名乗っていた)子女のために設けられた学校で(.)そして、この第二高等女学校も台湾人の入学は非常に難しく、生徒の9割近くが日本人であった(.)第二高女は戦時中に米軍の爆撃を受け,屋根が吹き飛び被害を受けた(.)戦後、当校は昭和18年(1942)に創立した「台北第四高女(.)とともに「台北第一高女」に吸収統合されるかたちで姿を消した(.)建物は中華民国政府により修復され(.)台湾省農林庁となったが1960年に立法院が西門の中山公会堂から移ってきている(.)
   
爆撃された屋根や正面玄関は変わったが第二高等女学校時代の面影を残す
          済南基督長老教会(旧・日本基督教団幸町教会)               台北市中正区中山南路3号
  明治29年(1896)馬偕牧師と台湾人豪商・李春生の協力のもと、日本基督教団幸町教会を成立。大正5年(1916)、現在の教会を竣工。戦前は日本人専用の教会となっていた(.)ゴシック風の煉瓦造り教会。赤い煉瓦と白い石の組み合わせ、尖塔アーチ窓が並ぶ歴史を感じさせる教会です(.)戦後、台湾基督長老教会済南教会となる()また中国から台湾に国民政府と共に流れ込んできた外省人が組織する国語礼拝堂も(.)この教会を使っており、台湾人と外省人の対立の舞台ともなった。現在は二つの組織が共同利用している(.)
 現在の中山南路)沿いに位置する。立法院の右横隣(.)

         善導寺(旧・浄土宗台北別院・台北開教院)                 地下鉄板南線の善導寺駅そば  
  明治28年(1895)に浄土宗の布教所として建立された。日本統治時代の50年間、数多くの宗派の僧侶が布教のため海を渡っていました(.)しかし、従来の民間信仰が強く、また言葉の通じない台湾での布教は苦労も多く、日本人の檀家に留まり(.)仏教が台湾人に根付くことは難しかった。明治40年(1907)に市区改正により(.)円山の忠魂堂内に移転した。昭和4年(1929)に建物の老朽化のため、樺山町の現在地に新築移転した(.)戦後、善導寺と称され、1986年には9階建ての慈恩大樓が完成。内部には仏教歴史芸術館(.)図書館などが開設された。4世紀の北魏時代から近代に渡る仏像が展示され(.)仏像の時代による変遷を追うことができる。特に所蔵品の中では宋(960~1279)の時代に彫られた(.)宋代木刻觀音菩薩自在坐像」が白眉で、片ひざを立て、岩の上でゆったりとくつろぐ観音像は(.)木造とは思えないやわらかさをかもし出している。9時から5時迄開館。休館日(.)月曜日、入場料:無料(.)
 
 
             台湾大学社会科学院(旧・台湾総督府高等商業学校)        台北市徐州路21號
 
 
大正11年(1922)、竣工の高等商業学校
日本統治時代の大正8年(1919)に台湾総督府高等商業学校として設立。本科(修業年限3年)を設置。学校長、教授2名、助教授1名、書記1名の定員を規定され(.)志願者の中から40名の入学が許可される。文部省でなく同総督府の所管学校であった(.)校舎は大加蚋堡台北城内(台湾総督府旧庁舎)にあった(.)大正11年(1922)の第1回卒業式で22名の卒業生を出す(.)4月には幸町のレンガ建築の新校舎に移転する。戦後は中華民国に接収され(.)台湾大学法学院へ移管され「台湾大学法学院商学系」(法学部商学科)と改称(.)現在は台湾大学法律学院と社会科学院が使用している。台北市の古跡に指定されている(.)また隣接してモダンな新校舎が建てられている(.) 徐州路通りに面するMRT善導寺駅歩いて12分(.)
                  幸町職務官舍群                台北市中正区斉東街53巷11号
      日本統治時代、このあたりは幸町と呼ばれ(.)台湾総督府の1920~1940年の「幸町職務官舎」が広がっていた(.)南側には高官クラスの官舎が、北側には1940年頃に比較的階級の低い公務員向け宿舎が建てられたという(.)一部の建物を修理して作家の龍應台がつけたという「齊東詩舎」として公開され(.)台湾の著名な詩人たちの手稿や台湾作家の()永福(・えいふく)が若い頃に日本語で書いた詩の原稿が展示されている(.)戦後、大陸から台湾へ多くの人々が渡って来たが(.)住居がすぐには用意できないので日本人が引き上げて残された家屋が外省人にあてがわれました(.)
                     幸町職務高官くらす官舍             台北市泰安街二巷三號
   南側の泰安街二巷三號の高官クラスの官舎跡は1935年築造の建物で、もともとは台湾総督府官僚の住居であった(.)戦後、経済テクノクラートとして戦後の台湾経済をリードした李國鼎が住んでいた。現在「李國鼎故居」展示館として公開されている(.)
 
       台北駅の東部華山地区
    華山創意文化園区(旧・日本芳醸(ほうじょう)株式会社(.)               台北市八徳路一段1号華山公園内
 この一帯は清の時代には、三板橋庄大竹圍と呼ばれていました(.)台湾における酒類の消費が増え(.)大正3年(1914)に資本家の安部幸之助が130万円を投資して台北市三板橋庄大竹圍に土地を購入し、造酒工場、貯蔵庫、事務所が建設され、翌年に日本芳醸株式会社(芳醸社)という日本の民間企業の酒造工場が設立された(.)芳醸とは、かおりの高いよい酒の意です(.)亜熱帯地方で気温が高い為になので「冷蔵式製造法」が採用された。創設当初は清酒「胡蝶蘭」の銘柄を生産し、後には焼酎・台湾地酒が造られたいました(.)当時としては台湾最大規模の酒工場のひとつで、多いときで400名の社員を抱えていました(.)大正11年(1922)になると、台湾総督府が酒の専売制度を実施し、工場は政府に接収され(.)台湾総督府専売局台北酒工廠」と改称され(.)この周辺の街を初代台湾総督であった「樺山資紀」の名前から(.)樺山町」と改称され工場は樺山町80番地となる(.)昭和6年(1931)3月に高さ50mの煙突が完成した(現・史蹟指定)。昭和12年(1937)7月に出来た樺山貨運駅は樺山町に増設された貨物輸送駅で(.)台北酒廠の鉄道支線と繋がっていました(.)終戦後、中華民国政府に接収され1949年(.)民国38年)、専売局が制度改革により煙酒公買局となると(.)「台湾省煙酒公売局台北第一酒廠」と改称されました()1987年に工場設備全体が台北郊外の林口工業団地に移転した為に、荒廃していたが1999年、公売局は旧酒工場を省文化処に委託し(.)省文化処が「中華民国芸文環境改造協会()に経営を再委託し、台湾省煙酒公売局台北第一酒廠は(.)華山芸文特区」と改名され、全面修復後旧工場区と公園区をあわせ(.)華山1914創意文化園区」が誕生しました。芸術家の創作・展示空間として開放され(.)他にピザハウスや台湾料理の飲食店もある。高さ30mの大煙突は、産業遺産に指定されているが(.)往時の清酒工場の歴史知る展示物を供えた部屋がないのは残念だ(.) 台北市八徳路一段1号華山公園(.)
 
1957年頃の「臺灣省菸酒公賣局台北第一酒廠」の工場。左奥のレンガ造りの煙突は日本樟脳株式会社
 

現在、工場跡は・華山1914芸術の街創意文化園区として利用
 
米酒と老紅酒のレッテル 昭和5年7月の説明あり
 
1升びん用ののレッテルであろう。福禄40銭・萬壽50銭の表示あり

昭和6年(1931)に建てられた煙突  
 
台湾の紅麹菌を使って造る醸造酒を熟成させる
この会社は宜蘭縣宜蘭市に現存している。
 
酒に貼られた台湾専売局の証票
    
 
日本芳醸株式会社創業当時の工場見取り図
 
びん詰め工程

日本芳醸の社屋(この建物は福岡県柳川出身の高石組が請負いました) 

屋根は変わっているが窓が当時の社屋の面影を残す

 
瓶詰工程
 陶器の小酒容器・後ろ写真は酵母米の製造工程
清酒以外にプラム酒も製造していた・プラムの選(.)
 
入口の3階建ての建物・後に社屋に使用していたか?

酒倉の並び

製造工場
 
製造研究室?

ボイラー室廊下の日本芳醸の歴史展示パネル

 ボイラー室建物と煙突
 
85年間酒蔵のシンボルとして親しまれってきました

レンガ塀にはガジュマルの木が年月を刻んでいる

味気ない工場にも憩いの庭が・・・
             旧・日本樟脳株式会社台北支店台北工場                台北市八徳路一段1号華山公園内
  大正7年(1918)に鈴木商店の金子直吉が5割出資ならびに三井物産の藤瀬竹田文吉藤沢友吉落合牛太郎が5割出資その他多数の発起人によって創立された(.)資本金は600万円である。土地は日本芳醸株式会社が工場の北西に無償で提供した。終戦後は台湾省臺灣專賣局の所有となる(.)1957年に創業停止し、建物は臺灣省菸酒公賣局台北酒廠の倉庫として使われた(.)    
   

 
             台湾啤酒廠(旧・日本高砂麦酒株式会社)            台北市八德路二段85號
   大正8年(1919)、日本芳醸株式会社の社長、安部幸之助を発起人として(.)高砂麦酒株式会社」が設立され、翌年に日本統治時代では台湾で唯一のビール工場を設立し(.)「高砂麦酒」(高砂ビール、たかさごビール)を販売開始(.)台湾全土における初のビール醸造事業となる。昭和8年(1933)(.)当時の台湾総督府専売局の専売品となる。終戦の昭和20年(1945)にはタバコ酒公売局の接収管理となり(.)ビールは中華民国政府の専売品となる。また「台湾ビール(.)と改名され何度か改名し1975年には「建国ビール工場」と改名して引継がれている(.)2000年に、現在の台北ビール工場が建設されましたが(.)台北市文化局により、従来からあった敷地内の紅楼、緑楼(.)冷凍室とその設備、ボイラー室とその設備、および木造の建物などが、95番目の古跡として指定されました(.)平日の見学申し込みOK.現在、正門の左側のビヤホール&レストランは17:30から24:00まで営業しています(.)     MRT忠孝新生駅徒歩10分。華山創意文化園区から歩いて8分(.)
 

   

日本時代の高砂麦酒のラベル
 
     
麦酒の原料の麦芽 ・ 白米 ・ 啤酒花(ひしゅか)(ホップ)食べたが苦味あり
     
 

1961年中華民国50年・ビール樽の洗浄
 

1961年中華民国50年・ビール出荷

煮沸釜で麦芽から麦汁が作られ(.)

中を覗くと麦芽が良く混ざるように、
回転するプロペラがセットされている
  
濾過機
   
赤レンガの建物も保存されている
 
麦汁冷蔵室
   
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          台北市立中山女子高級中学(台北州立台北第三高等女学校)            中山区長安東路二段
 「第一高女」に次ぐエリート女子高として知られ、台湾人の子女にとって最高のステータスである名門校であった(.)「第三高女」は領台まもない明治30年(1897)4月に士林で開校した「台湾総督府国語学校第一附属学校女子分教場」をその源流としていますが、明治35年(1902)に第三附属学校と改称、明治41年(1907)には大龍公学校を使用していた。その後は幾多の変遷を経て大正11年(1922)に「台北州立台北第三高等女学校」と改称し4年制の女子高等師範学校となる。昭和12年(1937)に朱厝崙と上埤頭の交差点そばに新校舎が建設された。第三高女は台湾人(同「本島人」(.)子女の入学枠がある程度確保されていた。台湾人の子女が入学するには、成績は言うまでもなく(.)家の財力や社会的地位などが不可欠であり、こうした部分に内地人と本島人の差別が存在していた。輩出された卒業生は(.)北一女に負けずとも劣らぬ才女揃いです。李登輝元総統の奥様である曾文恵夫人。そして、陳水扁元総統の呉淑珍夫人とファーストレディを2代続けて輩出した(.)また、民進党の蔡英文・前主席も中山女高の出身です(.)   
 学校の北向えには世界有数のミニチュアコレクションを誇る「袖珍博物館」(.)小さいながらも、本物と同じ作りのミニチュアを見ていると、自分も小人になったような気分になります。膨大なコレクションの中には、大変価値のあるものも多く含まれています。建國北路一段96號B1(.)
 
木造校舎時代のの台北州立台北第三高等女学校

 昭和12年(1937)に建てられた台北州立台北第三高等女学校・学校前には川が流れている
 
日本時代の校舎が現在でも使われている台北市立中山女子高級中(.)
①台北市北部・北投温泉と円山駅周辺  ②大稲埕と北門周辺の建築物の旅        本ページ
④台北市官庁街の日本統治時代の建築物  ⑤台北市西門と萬華区の建築物の旅 ⑥台北市南部中正区と大安区の建築物の旅
 庄福BICサイト  引用文献  大正2年(1913)新高堂書店発行・村崎長昶発行者の「台北写真帳」  東京人的台湾散歩 台湾懐旧 1895-1945 絵はがきが語る50年
                       日本李登輝友の会台北支部資料・片倉佳史著「日本統治時代の名建築を歩く」「台北の歴史を歩く」・各建築物・施設の紹介パンフレット・案内板