台湾国立博物館(旧児玉総督後藤民政長官記念館) 台北市中正区襄陽路2号 |
第4代台湾総督児玉源太郎は民政長官、後藤新平民政長官と共に、土地改革、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、衛生環境改善、アヘン根絶、学校教育、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する反逆者は取り締まり統治体制を確立した。その小玉源太郎が明治37年(1906)に急死。その民政長官であった後藤新平も南満州鉄道初代総裁に赴任が決定し、台北新公園(現・二二八和平公園)で後藤新平の離台送別会で、台北府城天后宮の敷地に児玉源太郎・後藤新平記念館を建設することが決定されたが、総督府には資金の余裕がない為に莫大な建築費用は一口一円の寄付金で賄われた。総督府営繕課の野村一郎と荒木栄一の技師により設計、福岡県柳川出身の高石組社長・高石忠慥が建築を請負して8年の歳月を経て大正4年(1915)に完成しました。天井裏には建築工事した高石忠慥の名前が残されている。建築仕様はルネッサン時期のギリシアドリス(Doric)式の模倣で、建築構造は鉄鋼コンクリートとレンガを組合せ、主要建材は日本の大垣市赤坂町の黒大理石と水戸の白寒水石で、木材は現地の台湾ヒノキを使用し、外壁には洗い石をあしらった。内部の32本の列柱に囲まれた高さ30m程の天井のステンドグラスには児玉家の家紋である唐団扇笹紋と後藤家の家紋である下がり藤を組み合わせた図案が使われ、もともと本館が二人の功績を称える記念館として建てられたという由来を物語っています。当初は「児玉総督後藤民政長官記念館」の名で設立されましたが翌年には「台湾総督府民政部殖産局附属博物館」、4月には「台湾総督府博物館」と改称された。戦時色が色濃くなった昭和初期の絵葉書によると台北新公園博物館と改称されている。絵葉書には「守れ南の最前線」と戦争への意気込みが書かれている。館内展示室には台湾の人文、地質、動物及び植物など展示解説されている。現在、博物館前右広場にはには台湾鉄路最初の蒸気機関車が保存されています。1887年にドイツで製造されたものを輸入し、活躍してきました。
台北市中正区の228和平公園内 |

創建当時は建物前の広場はかなり広かった |
 |
|
 |

ローマドーム式のステンドグラスから間接的にフロア全体に眩しい光を投光している |
ステンドグラスには児玉家と後藤家の家紋を図案化された絵柄であしらってある |

ロビーの四方は32本の高いコリント式柱に囲まれている・正面階段 |
柱の頭には繊細なアカンサスと螺旋状の模様があしらってある |
銅像が置かれていたロビー両方の床の間のブラケット照明器具には両家の家紋が向かい合っている |

照明器具の児玉家家紋、唐団扇笹紋 |

照明器具の後藤家家紋下がり藤紋 |
床の間に向かい合って児玉・後藤、二人の銅像が置かれていた |

一階ロビーからの階段の手摺りは石を刳り貫き加工してある |

主要階段の柱の土台の彫刻 |

元あった一階ロビーの階段前の床模様(当時の写真) |

2階の床に復元して敷かれている |
博物館展示室は1・2階の両棟にある |
|
|
|

窓はつるべ式でスムーズに上下でき開閉できた |

三階からの階段 |

三階のステンドグラス |

保存され発見された児玉・後藤の銅像の三階展示コーナ |

第4代台湾総督児玉源太郎と後藤新平民政長官の銅像 |
三階天井(ドーム両横の屋根)の鉄骨梁、昔は材木であったろう |
|
台北二二八記念館(旧台北放送台北支局庁舎) .台北市凱達格蘭大道3号(二二八和平公園内) |
大正14年(1925)6月17日に台湾総督府交通局逓信部が台湾統治始政30周年記念として、記念展覧会会場(台北市栄町の台湾総督府旧庁舎内)から実験放送(出力50W)で実施されたのが、台湾における放送の始まりである。経営形態は半官半民で、台北放送局一局の時代には、放送施設の建設、管理、運用は台湾総督府交通局、放送番組の編成、演出、聴取者関係の業務は台湾放送協会が担当していたが、次に開設された台南放送局からは、技術に関する事項も台湾放送協会の担当となった。昭和6年(1931)、台北新公園(現二二八公園)に台北放送局本部が開局。コールサインはJAFK、この南欧風の建物は、台北郵便局と同じ栗山俊一による設計で、台湾初の興亜主義建築。当時は、まだ各家庭にラジオなどなく、拡声器を植え込んだ、放送塔なるもので放送を流していたんだそうです。故郷から遠く離れた台湾の地で聞く日本語放送は、内地の新事情をうかがい、懐かしく故郷や友人を思う、生活に欠かせない存在であったのだろう。
|
現在は新公園内の「台北二二八記念館」として使用されています。台湾の二二八事件とは、昭和20年終戦、日本人は台湾を引揚げた。当初、少なからぬ本省人が台湾の「祖国復帰」を喜び、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で歓迎したが、日本から中華民国に移った途端に中国大陸から来た軍人・官僚は国共内戦の影響で質が悪く強姦・強盗・殺人を犯す者も多く、犯人が罰せられぬこともありマスコミ等で報じることは厳しく禁じられた。不正の少なかった日本の法治国家を体験してきた台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい不正や汚職は到底受け入れがたいものであり、日本の法治国家を体験してきた台湾人は、全く天と地の差がある国民党に失望してきていた。1947年2月27日晩に市中を見回っていた取締員がヤミタバコを販売していた女性を見とがめ、そのまま往来で殴打、暴行した。取締員は、「お金だけは取り上げないでくれ」と懇願する女性を銃の筒先で失神するまで殴りつけ、出血して倒れている女性からタバコと有り金全部を没収した。あまりのことに激怒した群衆が取り囲んで抗議すると、取締官は驚き、逃げながら発砲し、死亡者が出た。翌日市民は市庁舎前でデモを行った際に憲兵前からの発砲が起こり、市民が死亡、市民の怒りに火がつき、全国的な暴動に発展した。事件後、台湾人の知識人やエリートは捏造された罪で多くが殺害された。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち、善戦した。南京政府の蒋介石はアメリカから提供された機関銃で武装した1万3000人の国民党援軍を基隆に上陸させ掃討戦が始まった。台湾史学者楊逸舟の談話によると、何の予告もなく、突然埠頭で仕事をしている工人や苦力(人足)に対して機銃掃射を始めた。数百人が、3~5人ずつ一組でかかとを針金で貫かれたり、鉄線で手のひらを貫いて数珠繋ぎにされたりして、一塊にして海中に投げ込まれて溺死したと語る。その後の台湾は戒厳令発布、台湾人を片っ端から殺しまくった。高雄では、千余人の市民が集会中に、機銃掃射されて全員死亡し、台湾人を片っ端から殺しまくった。耳鼻や生殖器を切り落とされた上に殺された者や、トラックで市中を引きずり回されたり、木に釘付けにしたまま餓死させたりするという。シナ大陸式の残酷な処刑が台湾全土で行われた。(白色テロ) 特に、民衆運動を根絶するため、大学教授、弁護士、作家など、知識人が重点的に捕えられ、裁判もなしに処刑されていった。日本の優秀な教育の下で育った各界の指導層は全滅した。これによって、台湾は民主化だけでなく、文化、学問的にも大きく停滞することになる(台北二二八紀念館の資料他資料等による)。
国民党軍が台湾人を殺戮した2.28事件 |
台湾には、「アメリカは日本に原爆を落としただけだが、台湾には蒋介石を落とした」という言葉まであるくらい、蒋介石の独裁が台湾にもたらした災厄は大きなものだった。戒厳令が解除され、1995年に国民党が遺族に謝罪し、台北の新公園を二二八公園と改名し、記念碑を建立し、二二八記念館を開設した。日本の敗戦後、中国から来た蒋介石が率いる国民党の支配が苛酷であったためか、日本時代の方がよかったと思う人が多いのか、日本の文化を受容する人が多く、今でも台湾国民は日本に好意的な人も多い。台湾では、日本のテレビ番組や演歌が好きでカラオケで歌う台湾人、昔習った日本の童謡を口ずさむ台湾人もいる。戦前、日本統治時代がよかったと思っているお年寄りが台湾にはたくさんいるのだ。台湾の歴史を知るために、ぜひ訪れたい二二八紀念館です。火曜日~日曜日 10:00~17:00、開館 休館日:毎週月曜日、祝日、祝日が月曜日に当たった場合、その翌日、旧正月 。 |
また正面100mの南入口・児童公園北横には日本統治時代の台湾護国神社(現・国民革命忠烈祠)の胴に梅の紋が印刻された神馬が廃社に伴い移設されている。 MRT「台大医院」駅1番出口2分。 |
日本統治時代の絵葉書 |

現在は台北二二八記念館として使用 |

日本統治が終わった昭和26年(1946)の新公園(現)二二八和平公園での様子 |
1950年の懷寧街側の新公園西の出入口・正面の通りは衡陽路であろう |
. |
土地銀行(旧三井物産台北支店) 台北市中正区館前路54号 |
旧三井物産台北支店は10番目の海外店として、明治29年(1896)に「三井物産 台北支店」が開設された。台湾総督府専売局が独占した樟脳とアヘンの販売権を得る。大正9年(1920)台北に台北支店ビルを建築し新しい本部を設立した。当時、台湾のすべてのアヘン輸入の専売権を独占し、砂糖・茶・米・樟脳・食塩等を取り扱っていました。当初の建物は、一階はレンガで装った日差しや雨を避けるため、建物の一階部分を2階より後ろに下がった形にした「騎楼」があり、2・3階の外装も横ストライプを採り入れたモダンな建物で、屋上には台北を見下ろす塔屋があった。その後 柱などの劣化があり昭和15年(1940)にコンクリートで外壁を覆う形で修復工事が行われた。一見シンプルな建物ですが、幾何学的に垂直に水平に走るラインが単調さを打ち破り、建物全体をよりシャープに見せている。3階建ての当ビルに珍しいエレベーターが修復工事の時に設置されました。通常、昔の建物だと5階以下の建築物にエレベーターが設置されることはなかったのですが、この三井物産舊舎は3階建てにも関わらず、設置されています。台湾国立博物館の前の通りにあり旧勧業銀行台北支店は隣)台湾土地銀行が使用して現存。 |

表町通り |

台湾博物館から見た表町通りの三井物産の社屋
|

昭和10年(1935)・台湾博覧会の時の三井物産航空写真 |
.
昭和15年に修復され、現在残された建物は、以前のの装飾もなく、屋上の塔屋も失われている |
国立台湾博物館士銀展示館(旧勧業銀行台北支店ビル) 襄陽路25号 |
. 日本政府は台湾を農作物供給の中心にするため、農業の推進を行っていた。大正12年(1923)に当時日本領であった台湾には台北市に台北支店が開設され、その後も五州の州庁所在地高雄・台中・台南・新竹に支店を次々と開設した。台湾の農業における開墾や灌漑設備の整備を中心とした融資を行った。また割増金付き金融債の発行実績が認められ、太平洋戦争中の割増金付き戦時債券の幹事銀行となるが、やがてこの債券は射幸性が高くなり終戦直前には「勝札」と言う名の富籤となり、これが現在の「宝くじ」に繋がる。旧勧業銀行台北支店ビルは昭和8年(1933)に建てられたものです。日本統治時代後期の台湾の建築技術と工芸美術の証人となる、最も貴重な文化遺産とみることができます。戦後には台湾土地銀行が使用していたが、移管れて国立台湾博物館士銀展示館になっている。現在の国立台湾博物館正面の前通り。
|

勧業銀行台北支店(右奥隣の建物は三井物産台北支店) |

現在・国立台湾博物館士銀展示館として使用中 |
|
台湾省城隍廟 中正区武昌街1段14号 |
国立台湾博物館から重慶南路に出て武昌街を左に曲がると台湾省城郭廟の赤と黄色が目に飛び込んでくる。城隍とは都市を守るために外周に作られる城郭と濠(隍)のことで、城隍廟は都市の外周に作られる「城」(城壁)と「隍」(堀)に対する信仰に始まる。城隍神を祀る廟。台湾府城隍廟は台湾府鎮護のために1882年に建てられたが、日本統治時代に、皇民化運動で天照大神や天皇崇拝を奨励されたため、信仰の制限が行われ壊された。終戦後の1947年に現在地に再建されている。入口の右には洞窟を模した中に観音菩薩があり、台北の廟は道教、仏教の様々な神が祀られている。 |

狭い場所だがいつも大勢の人が参拝に訪れる |
城隍神 |

立派な金色の観音像 |
|

大正11年(1922)の町名改正で日本統治時代の文武町、書院町、乃木町、栄町(現・衡陽路)、大和町、京町(博愛路)、本町(現・重慶南路)、表町、明石町、北門町、樺山町、幸町、東門町、旭町、末広町、寿町、築地町、浜町を統合して城中区が成立しました。現在の中正区の一部に相当します。上図は昭和15年(1940)の台北中心街の日本町名地図。 |
|

公園通り (現・二二八和平公園の台湾国立博物館から新光三越への繁華街) |

文武通り(現在の台湾国立博物館付近) |

栄町通り |
本町通り |
菊元百貨店 (現・世華聯合商業銀行の敷地) 博愛路150號 |
栄町(現在の中正区衡陽路と博愛路交差点、二二八和平公園からへ西門駅への繁華街。))に大正7年(1932)11月に重田栄治氏が落成・開業したした台湾の最大のデパート「菊元百貨店」があった。重田栄治氏は26歳の時に台湾に渡り綿布卸売りを始めた。日本国内では三越や高島屋などの百貨店の台湾進出計画を知り、自らが百貨店業務の先駆者になるべく台北市栄町に6階建ての店舗を建築し「菊元百貨店」と命名した。屋上に展望台を設置、5階にはレストラン「菊元」をオープンさせ、また台湾では珍しかったエレベーター(当時は「流籠」と称した)を設置し、台湾初のエレベーターガールを配した。百貨店を利用する顧客は日本人または一部の裕福な台湾人に限定されていた。戦後、日本人引揚げ後は台灣中華國貨公司となった。現在は取り壊され、世華聯合商業銀行になっている。百貨店当時、向かえの店は台北北門街4丁目の「盛進商行茶舗」 台湾特産の紅茶・烏龍茶を販売、日本の「宇治銘茶」の立て看板もあった(下写真)。 |
昭和12年(1937)3月21日の菊元百貨店7階での化粧実演の新聞広告 |

菊元百貨店
|

昭和17年(1942)の栄町通り(衡陽路),街の最も活気のある、賑やかなショッピング通り、
当時の台北子供の服装が都会的である。向かえの建物は「盛進商行茶舗」 |

栄町から台北駅行きの路線バス |
台大医院 旧館(台北帝国大学医学部附属医院) 台北市中正区常徳街1号 |
明治28年(1895)6月、総督府は台湾統治開始後、初の病院、台北大稲埕(現在の貴徳街)に大日本台湾病院(台湾総督府台北病院)が設置され日本より医師10名、薬剤師9名、看護師20名が派遣された。明治30年(1897)には現在の場所に総督府は総工費10万円で10棟余もある木造造りの台北病院を建設して寺院などを病院とした所も移転してきた。専門医師12名、常勤医師3名でスタートした。右写真は当時の病棟の一部。明治32年(1899)には台湾統治開始時、日本軍と共に台湾に来て澎湖馬公臨時病院設置し傷病者の治療にあたっていた日本赤十字が近所に洋風の赤十字台湾支部病院が落成し引越してきた(右下写真)。 |
 |
|

明治30年(1897)に完成した木造の台北病院 |

台湾病院・右向こうに見えるのは明治32年(1899)に完成した日本赤十字病院、現・台北市立聯合医院 |
木造の大日本台湾病院にシロアリの被害が出て新しく赤レンガRC構造でルネッサンス様式の建物が総督府営繕課課長近藤十郎の設計で、明治45年(1912)に着工され、すべての建材を日本から取り寄せるだけではなく、職人も日本から連れて来て豪華で凝った建築がなされた。大正5年(1916)に、ほぼ完成し、大正13年(1924)に現在の姿となる。当時は、東アジア最大規模の病院でした。設計者の近藤十郎は東京帝国大学工学部建築学科の出身で、森山松之助と共に数多くの日本統治時代の西門紅樓(旧台北西門市場)など赤レンガの建築を残しています。昭和13年(1938)には台北病院は台北帝国大学医学部の管轄下に入り附属病院となりました。戦後は、台湾大学医学院附設医院となり台湾の医学発展に貢献してきました。現在でも外来患者の受付として現役で利用されています。外観の正面は凝った窓枠や植物の装飾が美しく、バルコニーもあってゴージャス。中に入ってはっと息をのむのは、吹き抜けになった正面ホールです。天窓からやさしい光が差し込み、行き交う人々を照らします。天窓の四角形と2階の窓の半円形、そしてくすんだ緑色のタイルのコンビネーションが素敵すぎて、立ち止まってうっとりと眺めてしまいました。建物に囲まれた中庭にはヤシの木や噴水があり、見所たっぷりのルネッサンス様式の近代洋風建物です。正面の建物は現在、外来受付として利用されている。(市定古跡)内部見学は自由。MRT淡水線 台大医院駅 2番出口を出れば、すぐ、左手側に建物が見える。 |

大正5年(1916)に完成した帝国大学病院 |

現在も残る台大病院
夕方は診察が終わって帰宅する人でいっぱい |

|

中庭のオアシスで気分転換 |
 |
玄関ホール |
喫茶室にて薬の順番待ち |

病棟 |
|
|
|
|
台大医学人文博物館(旧・台湾総督府医学専門学校) 仁愛路一段1號(東門そば・台大医学院入口) |
明治30年(1897)4月に台湾での医師養成を目的に病院内に医学講習所が設けられた。そして、第4代台湾総督児玉源太郎ならびに医者でもある民政局長後藤新平による政治下の、明治31年(1898)3月台湾総督府医学校が設立された。初代校長・山口秀高、2代校長・高木友枝などであった。台湾出身の子弟の医学教育である医学校は基礎教育1年、本科教育4年と制定、第一年度は70名の学生を招き、全寮制で、全て公費でした。明治40年(1907)に台湾総督府営繕課の近藤十郎が設計した台北帝国大学医学院は大正2年(1913)に竣工しました。大正8年(1919)、台湾總督府医学專門學校と改称した。大正11年(1922)に台北医学專門學校と改称。初代校長山口秀高は志も理想も高く、在任中乏しい経費の中から、図書雑誌を充実させ、専門誌「台湾医学」を発行した。在任5年後、官僚体制に嫌気をさし、辞任したが、台湾に於ける医学教育を始めた貢献は大きい。台湾にペストが流行して後藤新平により、大学時代の旧知の仲である、細菌学の権威である高木友枝が招聘され、明治35年3月31日から台北病院長、日本赤十字社台湾支部副部長、台湾総督府衛生課長兼台湾総督府医学校長を務めた。非常に台湾人学生に慕われ、校長職にやりがいを見出した高木は、13年間も在職し自ら修身教師として教壇に立ち、医学倫理を重視し、「医師になる前に人になれ」と強調たと言われる。また医学校卒業生に官費による日本留学を提供している。その後、明治38年(1904)に高木の提案と後藤の協力によって開設された、総督府研究所の所長に専念した。大正8年(1919)、第七代総督明石元二郎の起用により、 台湾電力株式会社の社長となった。 医学校は後に台湾総督府医学専門学校、台北医学専門学校、台北帝国大学附属医学専門部を経て現在の台湾大学医学院へと変遷し、台湾出身の子弟を対象とする唯一の高等教育機関であった。昭和5年(1930)に火災が発生して屋根に延焼し修復されたが屋根の斜面の丸窓が無くなるなど当初の姿が失われてしまいました。そして2008年に校舎を利用した博物館が設立されました。「台大医院」2番出口より徒歩約7分。火曜日~日曜日 午前9:30~午後16:30 祭日は休み。 |

赤十字病院(左奥)と台灣總督府醫學専門學校 |

旧・台湾総督府医学校の面影を残す博物館 |

大正12年(1923)4月17日の当時の皇太子(後の昭和天皇)台湾行啓(台北醫學專門學校訪問) |

正面玄関 |
台大医学人文博物館中庭と校舎 |
一階展示ロビー |
|
東門(景福門) |
 |
(現在の東門) |
|
 |

東門(景福門)付近・奥の木造門は東城門・右は行政機関 |
まだ右側に城壁が残っている |

左奥に赤十字病院、右の建物は医学専門学校 |

(明治30年代頃か?)左に城壁の残る東門(前に人力車が客待ち)と一代目総督官邸(右) |
 |
|
東和禅寺の鐘樓(旧・曹洞宗台北別院の鐘樓) 仁愛路、林森南路口(旧・東門町86番地)台北市青少年発展處の裏となり人文博物館から3分 |
明治43年(1910)に曹洞宗永平寺と総持寺の台北別院が建てられた。大正3年(1914)には観音禅堂(現在の東和禅寺伽藍)を増築、大正5年(1916)には私立台湾佛教中学林(現 私立泰北中学・士林区福林路240号)を創設した。昭和5年(1930)に鐘楼建立する。戦後は接収され「東和禅寺」と改名。本堂は放置されていたが1993年に取壊された。山門には永平寺と總持寺の寺紋を付した額が掲げられ、「東和禅寺」と記されている。曹洞宗を開いた高祖道元禅師と曹洞宗を広めた太祖瑩山紹瑾禅師を信奉するのでそれぞれにゆかりのある永平寺と総持寺が同格の大本山となっている。そこで紋も永平寺の久我龍胆と総持寺の五七の桐を二つ合せて使ってある。三級文化古跡の指定。現在では日本の本院と台湾分院との関係は無くなりましたが、永平寺との交流は続いているという。 |

昭和5年(1930)に建立された鐘楼 |

現在まで残る鐘楼 |
|
|

側門・布教総監部の表札がある |
かっての座禅堂(左)と本堂(右) |

現在の仏前 |
|
ここから、東門に戻る! |
|
台北賓館(旧・台湾総督の官邸・日本家屋別館) 凱達格蘭大道一號 |
台湾総督官邸は明治32年(1899)に起工し、明治34年(1901)に周囲を広大な庭園と高い塀に囲まれたルネッサンス式建築が完成した。総督官邸が完成したとき、あまりにも贅沢だと非難の声があがった。しかし、民政長官の後藤新平は「台湾総督は我が国の、南方を治める王である」といって台湾総督の地位の高さを強調、また総督官邸の担う役割と重要性から考えると豪勢な造りは当然のことだと非難の声を一蹴したという。設計は当初、福田東吾と宮尾麟が担当した。児玉源太郎の総督任期内に総督官邸は完成、当時の社会において新しい時代の到来を感じさせるものとなった。明治44年(1911)から3年間シロアリ被害による修築がされ、モダンな屋根の形状にするなど外観・内部ともに大きな変更が加えられた。総督官邸は日ごろ総督が生活する場所というだけでなく時には、ここで実務を行ったり会議を招集したり、また民政長官がここに来て実務を行うこともあった。このほかたびたび外国からの使節や来賓を迎えたり、各地の文人、名士、地方官僚、宗教家などを招いて茶会や詩会を催したりもした。大正12年(1923)、ときの皇太子(後の昭和天皇)が台湾を訪れた際は盛大な歓迎が行われた。皇族が台湾を訪れる時は、いつもこの官邸を見学し、ときにはここに宿泊された。皇族が宿泊する場合、総督は一時的に官邸から離れるとともに、皇族の到着前に予め建物の修築や設備の更新を行うなど、細心の注意が払われた。また大正8年(1919)10月から大正12年(1923)8月まで務めた初の文官、第8代田健冶郎総督の時に住居としての使い勝手が悪く、生活を行う住居として数寄屋造りの別館が新設されている。敗戦後、国民党に引き渡されたが、昭和27年(1952)、この建物で中日和約(日華平和条約)調印が行われた。現在、中華民国の迎賓館として使われている。年に数回、一般公開されている。HP参照(国定古跡)MRT「台大醫院」駅2番出口から徒歩約3分。公園路と凱達格蘭大道(総統府前通り)の角。
|
|
樹木も小さい落成近い新公園からの全景・左奥が赤十字病院、一代目総督官邸、右端に東門が見える |

二代目総督官と東門 |

一代目総督官邸明治34年(1901)完成 |

二代目総督官邸明治46年(1914)修築完成 |
一代目総督官邸(竣工当時?) |

現在の二代目総督官邸 |

総督官邸の絵葉書(大正時代?) |

後ろの茶色の高層ビル群は台大病院 |

贅沢な室内装飾 |

総督官邸の裏の日本庭園、右奥には日本家屋が見える右向こうに見えるのは総督府。
|
|
 |
|
台湾銀行総行(旧・台湾銀行本店) 重慶南路一段120総統府の北側 |
日本政府出資の台湾銀行は明治36年(1903)に現在の台湾銀行の西側に落成、開設し貨幣の発行を行う銀行でした。総督府の保護の下で大企業への融資を行い莫大な利益を上げたと言われる。大正期以降は鈴木商店の実質メインバンクとして積極的な融資活動を行っていました。建築後30数年過ぎると真鍮造りの屋根が白蟻の害を受けてひどく破損したので、現在の場所に昭和13年(1938)に建て直した。設計は勧業銀行建築課長を務めた西村好時の建築事務所で、請負施工は大倉土木株式会社でした。鉄筋コンクリート構造と台湾東部産の花崗岩が使用された重厚な壁面が強調されたロマネスク調の建物で、正面玄関上には柱頭に装飾のある古代ギリシャ風の列柱が並ぶ。銀行内の営業室は3階までの高さの吹き抜けになっていて、現在も変わらない。この建物には竣工時から3台のエレベーターを備えていた。戦後は接収され昭和21年(1946)に同名の商業銀行として再スタートし台湾省管轄の銀行として一時期台湾ドルの発券業務を行っていましたが、現在は民営化に向け準備を行っているそうです。台湾最大の銀行です。この場所はTBSドラマ「華麗なる一族」のロケに使われ、万俵大介を演じた北小路欣也さんが来られた。後方の通りには旧帝国生命台北支店があり、現在は台湾銀行が所有している。台湾銀行の前の道路の並びには旧総督府や旧第一高等女学校や旧高等法院が建っている。
|

明治36年落成の初代・台湾銀行 |
昭和13年改築後の台湾銀行 |

店入口 |
 |
|
中華民国総統府(旧台湾総督府) 台北市中正区重慶南路一段122號 |
清朝時代に設置されていた行政機関の布政使司衙門(現・中山堂付近)があり、日本は出先官庁である、総督府(現・総統府)を建てる前に、一時的に衙門西側の籌防局を臨時の総督府事務室として使用していました。初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。よって当時の台湾総督は、行政権、司法権、台湾駐屯陸海軍指揮権、立法権の全てを手中にした強大な権力を持っていました。下の写真は当時の臨時の総督府事務室である。国立植物園に建物が一部保存されている。

1895年清代台北城内布政使司衙門群 |

日本統治時代初期の総督府事務所であった布政使司衙門 |

明治33年(1900)総督室 |
【台湾総督府の庁舎の建築】
建築家自身が、その実力で自由で独立した地位を確立させようという民主主義的な試みとして明治41(1908)年に企画された台湾総督府の庁舎の建築設計競技が企画された。庁舎の建築設計は台湾総督府の技師が行うべきといった声もあったものの、総督府の民政長官を務めたこともある男爵・後藤新平が建築設計競技を推進し懸賞金が大きければ大きいだけ応募者も真剣になりより良いものを選べるという理由で、自らも3万円(現在の3300万円超相当)の寄付をした。審査員には辰野金吾、妻木頼黄らが参加し、優等者・甲乙丙の3名にはそれぞれ3万円、1万5千円、5千円の賞金であった。結果、甲賞は該当なし、乙賞には、日本銀行技師で辰野、岡田信一郎とともに日本銀行小樽支店を設計した長野宇平治が当選した。長野の原案を元に、台湾総督府営繕課の森山松之助が実施設計を担当し、課長の野村一郎が監修した。しかし原案である長野の作品は中央塔が低く、外観の装飾が簡素すぎため、総督府がその設計を不満とし、森山松之助らが大幅な修正を加えて中央塔が1.5倍高く現在の形になったと言われている。大正元年年(1912)に台北の日本人居住区である城内の、ほぼ中央に位置する場所に着工、本国遙拝を意識して東向きに建てられ、480万円の工費と7年の工事期間を費やした。ちなみに大正3年(1914)に竣工・開業した、辰野金吾と葛西萬司が設計した東京駅が200万円の工費であったという。建物の中で使われている材木は、すべて台湾ヒノキ、蝶番やドアノブなどは全部銅が使われた。内部の回廊は「日」字型になっており、上空から見ると日本の「日」を現す形に建てられている。高さが60mある中央塔からは、台北の街がほぼ全体見渡せたそうだ。塔には台湾初のエレベーターが設置された。完成間近の総督府で、大正5年(1916)に閑院宮載仁親王を来賓として、蚕繭、繊維、茶、砂糖等の優秀なる特産物を配列した、「始政20周年台湾勧業共進会」が開催された4月10日〜5月15日)の第一会場とされた。第二会場は殖産局附属の苗圃(植物園)であった。庁舎は大正8年(1919)完成。かつての台湾総督府で、日本統治50年間で建築された最大の建築物です。大正12年(1923)4月17日、当時の皇太子(後の昭和天皇)が台湾行啓され総督府を訪問された。昭和20年(1945)、台北大空襲で正面左側に爆弾が落とされ、三日三晩焼けたが、戦後に中華民国政府が補修され総統府つまり大統領官邸として使われている。月曜日から金曜日・午前中だけ(9:30-11:30)1階の一部を一般公開(パスポート持参)。建物右手の入口から入場するが荷物検査など、時間がかかりすぎ。日本語が出来るボランティアのおじいさんが一生懸命、歴史について説明してくれる。 MRT新店線台大醫院駅から徒歩10分
|

台湾総督府新・旧庁舎 |
歴代台湾総督府総務長官
明治40年。台湾総督府始政第十二回紀念発行絵葉書 |

大正5年(1916)・完成間近の総督府で、蚕繭、繊維、茶、砂糖等の優秀なる
特産物を配列した台湾共進会の第一会場とされた。 |
 |
|
大正12年(1923)4月17日の当時の皇太子(後の昭和天皇)台湾行啓(総督府訪問) |
|

|

中華民国総統府 |
総統府裏口でも立派な風格があります |
|
台北市立第一女子高級中学(台湾総督府台北高等女学校) 中正区重慶南路一段165号 |
学校敷地となったこの場所は清国統治時代、文廟と呼ばれ孔子廟があり、日本統治初期は台湾病院として使用された。別の場所に木造造りの病院を建設して移転した為に壊して日本語教員を養成するために設けられた国語学校で台湾総督府国語学校第三附属学校が建築され明治37年(1904)に創立した。校内には小さな楼閣を建て孔子の位牌を祀ったという。明治42年(1909)台北における女子高等教育の拠点として、台湾総督府高等女学校と改称され、初代校長尾田信直により基礎が築かれた後、台湾総督府台北高等女学校や台北州立台北第一高等女学校と改称されたが、歴代校長により旧制女学校の学風が築かれた。島内きっての優秀な生徒が集まる学校としてその名を馳せてきた。戦前の校訓は「正しく・強く・淑やかに」。 現在の主要な校舎は昭和5年(1930)に建てられました。日中戦争が始まった昭和12年(1937)より皇民化教育が実施され、勤労奉仕および軍事訓練が実施されるようになった。昭和20年(1945)に空襲により校舎が被害を受け、日本人校長は終戦の7代校長、三浦武治で終り、のちに中華民国政府に接収され台北第一高等女学校、台北第二高等女学校、台北第四高等女学校を統合して台湾省立台北第一女子中学と改称し台湾の女子高等教育の中心として整備された。現在は台北市立第一女子高級中学と改称され、年によっては台湾大学への進学率で男子校トップの建国高級中学を凌ぐほどの名門校として、今も昔もその名を轟かせています。日本時代の校舎が今も使われ、 校門の脇には当時の木造の守衛所が残っている。現在は休憩スペースとなっている。司法院の真向かい、総統府の斜め向かいにある。
|

明治42年(1909)頃の台湾総督府高等女学校(校庭側・奥の建物は台湾総督府) |

台北州立台北第一高等女学校時代の写真 |

昭和5年(1930)に建てられ、現在も使用している校舎 |

台湾総督府台北高等女学校学生寮 |
 |

門と守衛室(右) |

正面玄関 |

右棟 |

昔の守衛所 |
正面玄関内 |
左棟廊下 |

右棟廊下 |
|
司法院(旧・台湾総督府高等法院) 台北市中正区重慶南路一段124號 |
旧台湾総督府高等法院庁舎は昭和9年(1934)に井出薫の設計で建てられた。赤レンガで白いテラコッタで縁取りしたアーチ窓が並んだ3階の建物。戦時中に空襲の目標にならないよう、緑色のタイル貼りに,なった。戦後、最上階に建て増しされて、4階建てとなりデザイン的に悪くなっている。現在、司法院として使用されている。総督府の左側並びにある。 |
 |
 |
|
中華電信(旧・台湾総督府電話交換局) 総督府の裏、国史館裏隣 |
市外電話交換室 |
總統府と司法大廈の間、貴陽街を西に向かった博愛路角です。日本統治時代は日本人の設計、施工で建設された公共建築が多い中で、此方は台湾人経営の協志營造廠が請負って昭和12年(1937)に建てられました。当時は市内は自動交換機であったが、市外は手動であった。現在のこのビルのベランダと屋根は撤去されさらにシンプルになり、最上階3階の上に建て増しさ4階建てとなっている。国史館裏隣、総統府裏の貴陽街と博愛路の角。 |
|
 |
 |
国史館(旧・台湾総督府交通局逓信部) 総督府の裏 |
博愛路を北に向かって長沙街の角にあり総督府の裏にあたる。総督府営繕課の森山松之助の設計により大正14年1925)に建設された各種交通機関の管理から電信・電話、郵便と幅広い部署を管轄している通信機関の本部の置かれたビルです。戦後は郵電総局、電信総局が使用し、現在は建物は国史館(国家の正史を司る機関)に移管されている。文物館としては一般公開されている。 |
 |
|
国防部(旧・台湾軍司令部) 台北市博愛路172 |
台湾軍司令部は台湾総督府営繕課の森山松之助が設計し、大正9年(1920)に竣工した敷地面積7,200坪、地上二階、地下一階の赤レンガ洋風建築である。当時には参謀、武器、経理、軍医、獣医、法務などの部署が含まれていた。戦後に国民党政権の警備総司令部として使用され、警備総司令部が1992年に撤去去れた後、一時的に海岸防衛司令部(のちに海岸巡防署に改編)となり、現在は国防部本部官庁である。すでに古跡に指定されているこの建物は、90年の時を経て依然として台湾の軍事中心とされている。日本統治時代に造営された建物は左写真の1棟のみ残っている。
司法院の裏手博愛路通り |
 |

南進日本の第一戦を護っていた台湾軍司令部・昭和10年(1935)の写真 |