庄福BICサイト    ⑤台北市西門と萬華区の日本統治時代の建築物                     H 26・ 1 ・29 製作     H26・3・30更新         
 
     西門地区
 
昭和10年・台湾統治40年紀念の台湾博覧会会場(公会堂・楕円形公園は第1会場)
  18世紀より福建の閩南人(ひんなんじん)広東(かんとん)客家人(はっかじん)移民が台北地区に入植し開発を進めた(.)光緒10年(1884)、清朝政府のもと台北城が建設された()日本統治時代初期の明治23年(1890)後半(.)荒地だった西門の外に浅草のような日本人向け繁華街が建設された。城壁には北門(承恩)、東門(景福)、南門(麗正)(.)小南門(重煕)、西門(宝成)の5つの門(.)があった。西門(宝成(.)の城外に木造の簡易市場が作られていたが日本人向の市場、八角堂と十字型の建物が建てられた(.)明治28年(1895)に日本が進出した当初4万5千人余の台北市(.)人口は、明治41年(1904)には10万人以上になり(.)城門は交通の妨げとなり(.)台湾総督府により城壁の大部分が道路・鉄道(.)水道・市街整備の為に撤去された(.)西門は壊され宝成都の跡地に楕円形公園が造られた(.)また娯楽施設として台北座1897年)や栄座1902年)が建てられた(.)昭和5年(1930)新起町乗降場(新起駅)として開業した(.)名称は付近の住所が新起町である事から名付けられた(.)単行のガソリンカーのみが停車し、駅位置は八角堂の西側の旧城壁あたりであった(.)昭和17年(1942)に廃止された(.)昭和62年(1987)9月に台北市街区間の地下化に伴い(.)非常時の脱出用として西門緊急停車駅が設けられた(.)
      台北中山堂(旧台北公会堂)
 以前、この付近は清朝時代に設置された行政機関の布政使司衙門があり(.)日本は総督府(現・総統府)を建てる前に、一時的に衙門西側の籌防局を臨時の総督府事務室として約25年間使用していました。昭和6年(1931)に総督府は皇太子裕仁親王訪問の記念と民間の文化活動に供するため(.)布政使司衙門を解体し、その一部は圓山動物園(現・台北児童育楽中心の昨日世界)と植物園に移され保存され、新たに公会堂を建設する計画を発表した(.)昭和11年(1936)に市民集会の場所として台湾総督府営繕課の井出薫の設計により大林組が請負い、台湾最大の台北公会堂が建設された。構造には鉄筋コンクリート(.)外壁には北投窯場で生産された浅い緑色の表面レンガが使用されました(.)全体的にはシンプルな外観ですが、エントランスの柱部分には古典的な装飾がされています(.)また台湾では珍しい中東アラブ様式のアーチ型窓と、台湾陶瓦の屋根、北投窯場(ほくとうかまば)のレンガが生み出している多彩な模様もこの建物の特徴です(.)その規模と設備は当時の日本の東京(.)大阪、名古屋に次ぐ第4番目でした。集会室は2階構造であり(.)座席数は2,056席、映画上映設備もある。3階には食堂や娯楽室(.)理髪室、貴賓室、厨房などが設置された。屋上には反射式望遠鏡を備えた天文台が設置されていた。昭和10年(1935)には台湾統治40年紀念の台湾博覧会会場となりました。(.)昭和20年(1945)の日本敗戦に伴う第10方面軍司令官(.)安藤利吉の降伏調印式が台北公会堂で行われ(.)同年中華民国政府により台北市中山堂と改称されている(.)現在は台北中山堂の名称で台北市の所有となり(.)台湾の演劇界での重要な発表の場として使用されている(二級古跡)(.)   (台北市延平南路98號・MRT「西門」駅出口5を出て(.)地上に出て右手の秀山街を進むと中山堂の広場(.)
   

正面大ホールと大集会室(劇場)入口ドアとエントランス
 
中央は番仔砥の石積みの照明、玄関歩道(左)と車寄せ(右)

大集会場(劇場)
大集会室(劇場)で使用されたスポットライト(2階廊下に展示) 
 2階シャンデリアの大宴会場(現在は光復庁・音楽・舞踏などに使用中)
中央階段最上階

2階貴賓室(現在は喫茶・レストラン)
 
3階階段口

2階廊下 

3階廊下 
        合作金庫銀行(旧台北信用組合(.)         衡陽路87號(旧・榮町)
 旧・台北信用組合は、二二八和平公園の西出入口から西門に延びる衡陽路(旧・榮町)の中山堂近くにあります(.)日本人経営の現地中小企業向けの銀行だった台北信用組合の本店のとして、昭和2年(1927)に設立された。台灣人のための信用合作社は(.)大正5年(1916)、大稻[土呈]に設立されている(.)光復後、台北第十信用合作社に接収されて発展した。1981年に経営困難に陥り、合作金庫に吸収された。合作金庫は、1946年に日本統治時期の台灣産業金庫を接収して成立した(.)台湾省の合作事業や農業、漁業のための金融機関でした。合作金庫は、2001年から、合作金庫銀行となっている(.)
    中山堂の正面広場の路地を右に曲った大通り左にあります(.)

日本統治時代の榮町・現在の衡陽路

日本統治時代の台北信用組合 ・ 右隣は藤井呉服店

衡陽路にある現在の合作金庫銀行
         西門紅楼(旧・公設西門町食料品小売市場)          台北市萬華区成都路10号
 当時の民政長官後藤新平により発案により、台湾の衛生環境改善を進める中で、重要な役割を占めたのが公設市場の建設で(.)公設の魚菜市場や精肉場などを作り、その収益から建設費・公共衛生費に充てるというもの(.)台北では城南の南門市場、城東の幸町市場、台湾人居住区の萬華の新富町市場、大稻埕の永楽町市場、士林市場に計画され、西門町の新起街市場には明治41年(1908)(.)正式に日本人向けの公設市場(八角市場)として赤レンガの八角堂と十字型の建物を竣工(.)八角堂や新起街市場とよばれた。食料品、花、書籍、薬、日本の食材や台湾土産が販売された(.)そして市場で商売をする業者から使用料(公共衛生費)を徴収し、これが地方税収となった。台湾総督府建築科であった近藤十郎によってデザインされた赤レンガの建物(.)八角堂は設計については衛生問題を考慮して利便性、採光、通風などが重視された。建物は上からみると八角形になっていて(.)建物の中は、ほぼ円形です。大胆なアイディアで「八卦造形」を取り入れ(.)入口の形としました。建築以前辺りは、お墓などが多く湿地帯で、東方の思想で八角形は八方からエネルギーが集まり、悪い運気を遠ざけると言われていました(.)その八角堂の後方に続くのは、十字型の外観の一階建てレンガ造り建造物の特色は「十字架造形」であること(.)これはキリスト教から来ています。こういった設計は東西建築史上初めてのものでした(.)周囲には広場、公衆トイレ、自転車置き場や人力車置き場、稲荷神社などがあった。昭和3年(1928)には八角楼の東側と南側に売店棟が増設され、衣類、日常品、金物などが売られた(.)夕方5時以降には屋台の集まる夜市となり賑やかな場所となった。昭和20年(1945)、日本人が引揚げると民間に払下げられ、1963年、西洋の思想が流行し始めたこともあり(.)「紅楼映画館」が開館され劇場、映画館などとして使われました(.)1997年に紅樓劇場は三級古跡に指定され、その年に映画館業務は休業しました(.)2000年の火事で一部が焼失したが、台北市政府文化局によって建物の修復、再生が行われました(.)現在は2階が劇場、1階は展示スペースとして使われている。2008年には(.)第七期「台北市都市景観大賞」歴史空間活性化賞を獲得した(.)  MRT板南線「西門町」1番出口から徒歩1分(.)

便台車のレールがある西門(現在は壊された場所には紀念アートがある)

写真左には電燈(街灯)がある。城壁も残っている 
 
市場の看板が無いことから古い写真では?
 
写真左の白い小屋は自動電話(公衆電話)右の小森は稲荷神社(杉田書店発行ハガキ)
 
西門町市場・八角堂の後方には、十字型レンガ造り商店棟(山一発行ハガキ)
写真右にはライトビールの看板のある食堂あるいは飲み屋が増設されている
 
色刷りの八角堂の絵葉書・石の門と塀が造られ街灯もある

現在の西門紅楼(旧八角堂) 

西門紅楼(旧八角堂)裏手 
 
西門紅楼(旧八角堂)裏手 
 
南の市場入口
 
正面入口
 
統治時代の日用品(紅楼1階展示物)

統治時代のホーロウの宣伝板
 
阿片吸入器?
               
 
日本統治時代の西門通り
 

現在の西門交差点

成都路(旧西門町)の世界館・大正時代(のちの新世界)
 日本統治時代の台北の映画館や劇場

     大世界館   古矢せん        台北市西門町2丁目21番地
     新世界館   古矢せん        台北市西門町1丁目3番地
     第二世界館  田中美?       台北市西門町2丁目6番地
     芳乃館    永?トモ         台北市西門町3丁目8番地
     第三世界館  古矢せん       台北市太平町3丁目74番地
     太平館    何?某         台北市太平町5丁目75番地
   台灣第一劇場 K・K台灣第一劇場   台北市太平町4丁目96番地
     國際館    東寶映畫株式會社  台北市壽町1丁目3番地
     台灣劇場   船橋武雄       台北市壽町1丁目18番地
     第二芳乃館  永?トモ        台北市千?町1丁目24番地
     芳明館    松本辨藏        台北市有明町4丁目2番地
     双連座    李乾財         台北市蓬?町285番地
     榮座     原田洋          台北市壽町1丁目18番地
     新舞台    林平發         台北市建成町3丁目1番地
     永樂座    K・K 永樂座      台北市永樂町2丁目94番地
     ??戲園   陳媽思         台北市綠町1丁目2番地
 西門周辺に建設された娯楽施設は明治30年(1897(.)創建の台北座や、明治35年(1902)創建の栄座であり(.)昭和15年には台北の映画館として国際館世界館(大・新・第二・第三)・芳乃館(第二も)・第一劇場タイゲキ太平館雙連座芳明館永楽座が、劇場として栄座新舞台が挙げられています(.)
 
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昭和15年8月1日、台北の日本人街・西門町にある
東宝直営館「国際館」で封切られた

 明治44年(1911)羽田の穴守神社の承認書をもらい西門市場の右側に台北稲荷神社創建(.)祭神は倉稲魂命(.) 
 

八角堂付近の町です(.)
 
峨嵋街(旧・壽町付近)
 

成都路(西門駅から淡水河に行く本通りで旧・台北第五尋常小學校がある
         萬華地区艋舺(ばんか)地区)
     港町として最初に栄えたのは淡水の上流側の「新庄」。しかし、土砂の堆積で大型船が入れなくなると廃れ、代わって下流の「艋舺」が栄えた。 台北市萬華区一帯をかつて「艋舺(バンカ)」と呼びました。地名の由来としては、かつて当地に居住していた先住民(ケタガラン族)が操る木製のカヌーが「Banka」と呼ばれていたことによるといわれます(.)彼らはこの舟で大陸からの漢民族移住民と交易を営み(.)ここには多くの「Banka」が集まっていったと言います。漢民族が台湾北部へ移民してきた当時、土地の環境が悪く、疫病の蔓延や縄張り争いにより「三在六亡一回頭」、移民してきた10人のうち3人が残り、6人が死亡(.)そして1人は帰国の状態だったという。その頃は主に茶葉やサツマイモなどの農作物の売買が盛んだったという(.) 淡水河の水運による(.)物資の集散地として発展した場所で台北発祥の地と言われている(.)清の時代の石畳の街道の艋舺地区には1738年龍山寺が建立(.)文宗咸豊6 年(1856)には艋舺青山宮が建立され(.)艋舺3大寺廟と呼ばれ、住民の信仰およびこの土地の商業の安泰を祈願する拠点となりました(.)台湾がまだ中国の清朝に統治されていた頃の19世紀には、交通の要衝として栄え(.)中国の福州から船で輸入した杉などの皮を剥いでいた事から「剥皮寮街道」と呼ばれ(.)商業活動が盛んでした。それからは中国大陸の閩南地方(福州)から徐々に住民が増え続け(.)木材や炭の売買など、萬華地区はますます発展ししました。淡水河の河港として台北の街が形づくられた当初のころは、港が貴陽街にありメインストリートだったといいます。その後(.)淡水河の河底に土砂が堆積して浅くなり、船が航行できなくなると、より河口に近い大稲埕に港が移り、大稲埕を中心に栄えるようになりました。大正9年(1920)に実施された全土的な地名改正の際(.)先の先住民族の読み方をまねて「萬華」となり、これが発音が「ワンホワ」と北京語読みとなり表記は変らず使用されている(.)萬華の剥皮寮(ボーピーリャウ)に隣接する明治29年(1896(.)に竣工した台北では最も古い老松小学校は、現在でも老松国小として使われています(.)
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                      艋舺清水巖                   台北市萬華区廣州街211号
 清水巖は1787年には福建省泉州安渓からの移民が故郷の清水巌(せいすいがん)から清水祖師廟を分霊して創建(.)艋舺青山宮文宗咸豊6 年(1856)にに創建された(.)主に「清水祖師」を祀っている。清水巖は「清水岩」あるいは「祖師廟」とも呼ばれています(.)また、台湾では一般的には「祂祖師公」、「烏(黒)面祖師」、「蓬莱祖師」、「落鼻祖師」などさまざまな呼び名が用いられています(.)言い伝えによると、清水祖師は清水巖内で修行をしていた時、妖怪が火を用い、祖師の顔を黒く燻したとのことです(.)しかし、この際、祖師は全く負傷することがなかったため、「烏(黒)面祖師」と呼ばれたそうです(.)また、「落鼻祖師」の名前の由来は、祖師廟の近くで火災が発生した時、祖師の鼻が自然と落ちて(.)住民や信者に危険を知らせたということから付けられています(.)  
   
                      青山宮                    台北市萬華区貴陽街二段218号
    艋舺青山宮は清の文宗咸豊6 年(1856)に福建省南部、恵安県出身の人々が青山宮を建立されました。萬華区の貴陽街に位置し、青山王とも呼ばれる霊安尊王を祀っており(.)現地の主な信仰の中心の一つとなっています。大きな建物ではないが北向きの位置にあり、百年間にぎわいの変遷を証ししています(.)三進両廊の縦に長い長方形の町屋式建築で、入口正面は当初木造建築でしたが昭和13 年(1938(.)の改修時に花崗岩と青斗石を利用した石の彫刻の門が造られ、正殿に雄壮な雰囲気が添えられました。日本統治時代に何度かの修復が施されているが(.)前殿の石柱や石床は日本統治時代、台湾神社の用材として持ち込まれた石材が使われたという。近所は古い赤レンガの建物が残り、華西街観光夜市の商店街もある(.)
                        朝北病院              貴陽街と西園路との交差点
   青山宮交差点にある朝北医院はこの一帯の名士である李朝北氏が開いた医院である。すでに医院としては使用されておらず、以前は日本料理屋となっていた。しかし、現在は管理する人もなく、放置されている(.)大稲埕の仁安病院に似た外観なので同じ業者が建てたと推測する(.)
    艋舺(もうこう)龍山寺 地元でも単に龍山寺と呼ばれる               台北市萬華区康定路81号
  龍山寺は台北市内で最古の寺院であり、清時代の乾隆3年(1738)に福建省泉州から渡来した人々により(.)福建普江安海龍山寺の分霊として着工、同5年(1740)(日本では江戸後期の元文5年)に落成したもので270余年の歴史があります。この寺は、北側を背に南に面し(.)前殿、本殿、後殿(奥の院)とその左右に鐘楼、鼓楼を配し、廂房(渡り廊下)で「日」の字形に構成されている。敷地面積は1828坪で、廟宇は622坪。その間に数度の大改修がなされましたが(.)なかでも大正8年(1919)の大改修工事は、中国宮殿式廟宇建築を採用し、大正13年(1924年)には色鮮やかな、壮麗かつ荘厳、芸術性の高い東洋一を誇る名刹が完成しました(.)日本統治時代には学校として接収された時期もありました。昭和19年(1944)の空襲で被害を受けたが本尊の観世音菩薩だけが顔が少し焦げたぐらいで残された(.)現在では観世音菩薩ほか道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝、媽祖など、祀られている。境内の繁茂した緑の中に大正時代の日本式の石燈籠が残されている(.)周辺の路上には参拝にやってきた人を目当てに屋台が並び、賑わっているが各地にある夜市街の発祥とも言われている(.)  MRT板南線龍山寺駅から出口1の地下街を通り地上に出るとそばにある(.)
 
龍山寺
 
龍山寺駅前付近には屋台の物売りや食堂が並ぶ
 
駅前の商店は看板を外すと古いレンガの建物が残る

大正時代の絵葉書では龍山寺中門前の境内に奉納された石灯籠と石垣がある

鐘楼と本殿・今と変わらず)
 
信仰の深い台北の人々


立派な鐘楼
 
軒下の煌びやかな装飾
  
本殿

本尊の観音菩薩

               剥皮寮歴史街区                 台北市廣州街101號
 老松国民小学の区画の南側に位置し、学校の敷地拡張の用地とっていたが(.)それは実現せず、長らく放置されていた。2006年2月23 日に「台北市郷土教育中心」としてオープンしている。清朝時代には石炭や木材の集散地として発展し、洋館も多かった(.)現在の剥皮寮歴史街区で見ることのできる建築物は、年代はばらつきがあるが、古いものはこの清朝時代に建てられたものあり歴史的には200年以上も昔のものです(.)日本統治時代、そして戦後の赤煉瓦作りの建物と一部の木造家屋の商店街が文化保存地区として整備されている。MRT龍山寺駅2番出から徒歩約5分()
 
商店街裏路地
 
裏路地の商店
 
表路地の商店街
 
表路地の商店街アーケード
   

老松国小のレンガ塀を自転車で通る女(.)

小学2年まで日本語教育を受けた方に出会いました
当時はとても良い思い出が多いと語られた

台北市郷土教育中心
   
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       老松国民小学(旧・老松公学校)              台北市萬華区桂林路64号
  明治29年(1896)に創立し國語學校第二附學校として創立した。大半は台湾人の生徒を教育していた(.)明治39年(1907)に艋舺公学校と変更。大正9年(1920)に校舎が建替えられた。大正11年(1922)には老松公学校と称する。昭和16年(1941)には台北市老松国民学校と称した(.)現在、学校の校舎の一部が大正時代に設けられたものとなっている。校舎は運動場を兼ねた校庭を取り囲むように並んでおり(.)校門からも、校舎を通り抜けて校庭に出るような構造となっている(.)この校舎は1920年代以降の台湾でよく見られた学校建築のスタイルです。校門の庭には昭和2年卒業生紀念の二宮尊徳の石像がある(.)戦後は老松国民小学となったが1966年の生徒数は1万1千人となり、交替で授業をおこなった。現在の生徒数は急減して780人位。放課後は市民に開放され運動やレクレーションの場となり、見学も可能(.)
 
艋舺公学校時代の校舎(明治39年~大正8年)
   

1958年代のマンモス校時代の朝礼
 

校門・扉には校章がデザイン化されている
 
孔子像・この台座に二宮尊徳像が?
二宮尊徳像は草木の地面に移された
 廊下には旧正月用の提灯が・・
校庭の四方を校舎が囲む 

放課後は市民の運動場に開放
         東本願寺台北分院 (廃寺         台北市万華区西寧南路36
    東本願寺台北分院は 明治30年(1897)に説教場として建立され、台湾における真宗大谷派布教の中心となった(.)大正10年(1921)に「台北別院」と公称した(.)戦後、廃寺となり、取り壊された。現在、跡地にはデパートが建っている。旧・壽町2-5にあった。(.)
      旧・西本願寺台北別院                萬華406号広場
 明治30年(1897)に西本願寺寿寿流派の布教のために正式寺院の予定地として購入された場所です(.)大正11年(1922)から西本願寺寿御廟所・鐘楼・樹心会館・輪番所・本堂・参道などが次々と建てられ(.)樹心会館は大正12年(1923)に落成し、台湾総督、児玉源太郎(在任:1898~1906年)が生前 「樹心佛地という扁額を贈ったことから「樹心会館」と名づけられた(.)台湾の一番大きい寺院となった東本願寺台北分院は戦後も現存していたが、1975年の大規模な火災に見舞われ、本堂の階段を残して焼けてしまい(.)長年放置され、周りの増えてきた都市の違法建築物群に埋もれてしまった(.)2005年に台北市政府が、この地域の違法建築群を取り壊し、緑地を増やそうとした時まで忘れられていました。市政府は2006年に樹心会館、鐘楼・輪番所を修復し市定古跡と指定し台座(.)御廟所(本堂)土台と参道を歴史建築物として登録した。2012年に広場の建物と文化資産の修復工事が完成した。輪番所ではお茶とお茶菓子を楽しむ日本風カフェになっています(.) (MRT西門町駅1番出口もしくは6番出口を出て(.)まっすぐ行くとお店が建ち並ぶエリアですが、そこをあえて出口を出て左に行きます(.)長沙街二段と貴陽街二段の間に挟まれたエリアに西本願寺があります。このエリアは萬華406号広場と呼ばれています(.)
 

 


廃屋から再建された「樹心会館」
 戦前の西本願寺台北別院山門と鐘楼  
本堂と御廟所(左)

庫裡と輪番所(右) 

法要の写真では
 
戦後の西本願寺台北別院と取囲む違法建築群
 改修された輪番所

再建された鐘楼 
  本堂址からの再建された光(.)

現在・本堂前の階段が残る  
 
         台北法華寺(日蓮宗)                萬華区西寧南路194號 
  法華寺(ほっけじ)は典型的な古寺院で(.)日本統治時代の明治30年(1897)に日蓮宗の布教所として建立され(.)台湾における日蓮宗布教の中心となった。明治43年(1910)に若竹町の現在地に移転した(.)大正9年(1920)に「法華寺」と公称され、現在に至っている。境内には昭和5年1930)(.)に寄進、建立された金文字で南無阿弥陀仏と彫り込んだ法華寺碑と傘を被った百度石がある(.)本堂内には統治時代の日本人名が刻まれた燈明や太鼓が残っている。現在の寺は全体的に派手な彩色で、特に塀壁を黄色に塗り、赤文字で南無阿弥陀仏と描かれているのは中国のお寺のようだ(.)地下鉄の板橋線西門駅から徒歩15(.)
 
日本統治時代の法華寺
 
現在の法華寺

山門
 
百度石

久遠の本師釈迦牟尼仏(上檀中央)
 
日本人名が刻まれた燈明
 
昔の太鼓
        小南門(重熙門) 
 中国の城郭は門が4つというのが基本ですが、台北城には門が5つあります。これは当時、板橋に暮らしていた豪商・林本源(りんほんげん)一家が家族の出入りに便利なように、特別に寄付をして建造させたとの伝承がある。日本統治時代は傍の城内側に台北歩兵連隊第2大隊兵営の広大な敷地でした(.)(現在は中華民国国防部の敷地)。戦後、国民党政府が台湾にやってきた後、中国北方の宮殿様式に建て直されました。現在は城門の下部だけが元の姿を留めている(.)
 
まだ塀があり警備員らしき3人が写っている
 
台北歩兵連隊第2大隊兵営・小南門
 
台北歩兵連隊第2大隊兵営・小南門
 
 ①台北市北部・北投温泉と円山駅周辺の旅 ②台北市大同区大稲埕と北門周辺の建築物 ③台北駅周辺と東部方面の建築物の旅 
 ④台北市官庁街の日本統治時代の建築物       本ページ  ⑥台北市南部中正区と大安区の建築物の旅
庄福BICサイト 
引用文献  大正2年(1913)新高堂書店発行・村崎長昶発行者の「台北写真帳」  東京人的台湾散歩 台湾懐旧 1895-1945 絵はがきが語る50年 
     台湾建設ジャーナルの第 5 アルバム・片倉佳史著「日本統治時代の名建築を歩く」「台北の歴史を歩く」・各建築物・施設の紹介パンフレット・案内板