庄福BICサイ     台北市中正区と南部郊外の日本統治時代の建築物                    H27・4・12製作                
 
        国立芸術教育館(旧・建功神社)              中正区南海路47   建国高級中学の向え・南海学園の門を入る。
 明治28年(1895)の日本の台湾領有以降(.)台湾における戦死者・準戦死者・殉職者・準殉職者・殉難者を祭神とした建功神社が、昭和3年(1928)7月14日に台北植物園内に建てられた。(.)この神社には国立台湾博物館の初代館長川上瀧弥も博物館が新館に引越し準備中に病気になり開館の大正4年(1915)8月20日の翌日に亡くなり(殉職)追嗣されている。享年44歳だった(.)終戦後、建功神社は中華民国政府は改装して日本暦、1955年に中央図書館本館に使用した。社殿のドーム部分が中国の天壇様式に改築されたほか、神道的な装飾が取り払われている(.)しかし内部のドームの回りの梅の神社紋と社殿前の池と石垣は残っている。1986年には中央図書館の本館が新庁舎に移転()その後、国立芸術教育館の所管となり教育図書館となった(.)そばにある本館の建物は京劇の資料などが展示されている(.)入口看板の「南海学園」は、学校のような名称で間違えてしまいそうだが博物館や植物園などなどが集まっているエリアの総称で、敷地内は散策もでき公園のような雰囲気が体験できる。左隣には国立歴史博物館がある(.)

旧・建功神社

教育図書館
 

南海学園入口
    国立歴史博物(.)(1955年の創設で日本統治時代の建物ではありません)      台北市 中正区 南海路49号
 
  1955年に創設されました。長年芸術文物面でのコレクション、教育の推進、学術研究と展示イベントの企画などの面で大きな成果をおさめ(.)各界から高い評価を受けています。館内には400人あまりの個人コレクターの寄贈品が展示されており(.)中には擒縄紋陶器、漢代緑釉陶器、六朝舞楽俑および唐三彩、甲骨、青銅器(.)玉器、磁器、磁器など珍しい文物や文献もあります(.) また、国内の博物館学および博物館事業の交流と発展にも貢献しつつ(.)文化サービスを提供する専門博物館へと発展を遂げています(.) 
         台湾布政使司・植物園                       台北市南海路53号(林業試験所)
   清代の行政機関である台湾布政使司は城内にあり、西門の中山堂を建てる前に解体して植物園に移築したものです(.)また台湾総督府建築前は総督府事務所として使用されました。完全な形で保存されているのは植物園内の籌防局、布政使司大堂と廂房の一部のみで(.)これらは台湾全土にわずかに現存する清代の衙門の一つです(.)ここの植物園は日本統治時代の「苗圃」だったそうです。戦時下だった当時、東南アジアや中国などに進出をしたかった日本軍は(.)熱帯地方から数多くの種子をこの地に運び、食用・薬用としての有用性を調査する場にしていた。植物の種類は2000種以上。一般の公園とは異なり(.)台湾における植物の研究・収集・保育・展示を通した教育の場として、戦後、林業試験場が引き継いで管理しています。台湾布政使司は植物園に中心部にある。国家二級古蹟(.)

台北植物園椰子林(大正時代?)
 
布政使司衙門
 
 
明治33年(1900)総督室
   
 
            台北市立建国高級中学(旧台北一中)                 台北市中正區南海路56 (.)
  明治31年(1898)3月に台湾総督府国語学校第四附属学校増設尋常中等科として創立され(.)明治40年(1907)の台湾総督府中学校官制発布により中学校規則が制定され、中学校として独立します(.)明治41年(1908)近藤十郎の設計により赤レンガの校舎が建築され翌年に現在の場所(南海路)に移転した。大正3年(1914)(.)台湾総督府台南中学校の設立と同時に、台湾総督府台北中学校となり、大正10年(1921)に台北州立台北中学校、翌年に台北州立台北第一中学校となった(.)大正5年(1916)台北中学校と改称。大正9年(1920)台北州立台北第一中学校と改称され(.)「台北一中」の略称と共に、台湾の筆頭中学校として知られていた(.)台湾最古の男子校の公立高校である(.)戦後は、台北市立建国高級中学(日本の高等学校に相当)となり(.)台湾全国で上位1%以内の成績の男子しか入学できない、トップクラスの進学校で台湾大学への入学者数も全国トップにある(.)建国中学の反対側には国立歴史博物館。そしてその奥には台北植物園もあります(.)
     

日本統治時代の台北第一中学校(校庭側)
 
向かえの植物園の池からの撮影とみられる

日本統治時代の台北第一中学校
 
台北市立建国高級中学
 
昭和3年(1928)の校舎玄関前での卒業写真
 


玄関内

 

 
廊下

           二二八国家記念館(旧・台湾教育会館)              台北市中正区南海路54号。建国高級中学の東側。
   日本統治時代、台湾総督府は各種の近代化教育の実施を推進するため「台湾教育会」を創設。そして昭和6年(1931)年4月(.)当時台湾総督府営繕課にいた井手薫の設計により台湾教育会館が完成()1946年には台湾省参議会の執務や会議の場所として使用される(.)終戦後の1949年には台湾省教育会に接収されたが、この建物自体は(.)台湾省参議会」を改制した後の「台湾省臨時省議会」が引き続き使用。1959年、米国大使館(.)文化交流局は臨時省議会が前年に引越した後にここに移り、20年間使用される(.)米国が台湾と断交した後は「アメリカ文化センター」と改名し運用(.)1993年には三級古蹟に指定される(.)2006年7月に行政院は「二二八国家記念館(.)として二・二八事件で亡くなった方々の名誉回復運動を目的として運営されている(.)午前10時 - 午後5時 休館日:毎週月曜日(.)

 
        台灣菸酒股份有限公司(旧・台湾総督府専売局)                 台北市 中正区 南昌路1段4号
  台湾省における専売事業の発展は(.)日本統治時代の明治34年(1901)、台湾総督府が当時の台湾製薬所と台湾塩務局(.)台湾樟脳局を合併して「台湾総督府専売局」を設立したのがはじまりです(.)日本統治時代の専売品は、タバコ、酒類、アヘン、食塩、樟脳、マッチ、石油(.)度量衡器の8種類でした。専売事業の業務量が多かったことから(.)大正2年(1913)にビル建設に着工し(.)台湾総督府営繕課技師の森山松之助の設計で「神戸組」施行により大正11年(1922)に竣工されました(.)建築スタイルは総督府と似ており、当時の民間有力者たちが模範とした建物です(.)建物は上空から見るとL型で、正面には半円型の妻壁(.)玄関ホール上にはドーム型の屋根、正面と左右の翼廊には立体型の柱が採用され(.)荘厳かつ華麗な外観を呈します(.)台湾の専売事業の歴史を見守ってきたこの建物は1998年(.)内政部から国の史跡として指定され旧・専売局は台湾産業博物館として計画中(.)

   MRT駅:中正紀念堂駅から南昌路まで徒歩約5分 ・公園通り南門ロータリーの東の小さなロータリーの東前

大正11年(1922)竣工

 
               南門園区 『国立台湾博物館分館』                   臺北市中正區100南昌路一段一號 
  明治28年(1895)に日本の事業家土倉龍治郎が台湾に渡り、林業・台湾初の電気事業と共に樟脳事業を展開して成功していた(.) 日本時代の明治39年(1899)に建設された「台湾総督府専売局台北南門工場」が建設され、稼働して外貨獲得のための盛んに製造され国の財政を支えた(.)第二次世界大戦の頃では無煙火薬の原料として樟脳は軍事産業に大きく貢献した。戦後、中華民国に接収され1967年の樟脳事業は民営化になったが、かつては、防虫剤やセルロイドの可塑剤(かそざい)として需要があったが、しだいに化学合成品の開発で押され工場は廃業していた。5年にわたる修復を経て2013年11月に国立台湾博物館「南門園区」として生まれ変わり(.)「小白宮」と呼ばれるかつてのアヘン倉庫や「紅楼」の呼び名で知られる樟脳倉庫、および貯水槽からなり、敷地面積は約1600坪余り。樟脳や有機栽培などをテーマとする常設展があり(.)工場の遺構も複数展示されており、「専売局台北南門工場」の昔の面影がしのばれる(.)

  右には近くの台湾総督府専売局(右端)が見える
 
台北城の城壁は幅4メートル、高さ5メートルで、約4キロに渡り、非常に堅固な城でした。
城壁の上、遠くに南門と専売局の阿片・樟脳工場の煙突が見える
 

工場址を利用した阿片・樟脳の博物館赤煉瓦倉庫・

 
阿片・樟脳の博物館・石造りの「小白宮」
               南門(麓正門)
 南門(東側)の右奥の建物は台湾歩兵第一連隊の兵舎  
南門
     
          中正紀念堂旧・台湾第一連隊        台北市中山南路21号
  日本統治時代、台湾守備隊の配下として編成された、台湾歩兵第一連隊及び野砲兵第四十八連隊は当初は主に台北地区の警備などに当たっていたが戦況が激しくなると(.)中国本土や南方諸国の戦闘に参加しました()
 
台湾歩兵第一連隊 営門と兵舎
 
台湾歩兵第一連隊 各個教練

炊事場と食事 
 
梁木通過訓練
 世界第二次大戦で日本が敗戦すると、国民党政府に接収され台湾第一連隊及び野砲兵第四十八連隊の敷地(.)中華民国の初代総統である蒋介石を顕彰し1980年に中国の伝統的な宮殿陵墓式を採用した建物が竣工した。敷地中には本堂のほかに国家戯劇院や国家音楽庁、公園広場、休息所や回廊、庭園、池(光華池・雲漢池)なども併設されている(.)中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である(.)

                     国家音楽庁(音楽ホール)               中正紀念堂                  国家戯劇院(劇場)
 
            十普寺(じっぷじ)(旧・了覚寺)             中正区南昌路二段140號
  明治38年(1905)に、台北の古亭(こてい)で、浄土真宗本願寺派の布教所として建立された(.)大正3年(1914)に、了覚寺(りょうがくじ)(旧字体は了覺寺)の寺号公称を許可された(.)寺号は明治43年(1910)に廃寺となった「京都下京区油小路花屋町上ル西若松町」にあった了覚寺の寺号を継承する。また、同寺伝来の法宝物を下付された(.)山号は城南山。本尊は阿弥陀仏・釈迦牟尼仏・薬師仏。第5代台湾総督・佐久間左馬太は本堂新築の際に金を寄付し(.)竣工の際に揮亳の「了覚寺」額面を奉納した。更に、総督退官後、自筆「汎愛」の額面を贈った。昭和2年(1927)、故総督13回忌追弔法要を兼ね(.)境内に胸像が建てられた。佐久間伯爵家よりは、総督遺品の軍刀・軍帽・軍服を寺宝として寄贈された。戦後、十普寺と改称、その後、何度か建て替えられ(.)現在はビル型寺院である。古亭駅から徒歩5分。引用元:Feぺディア(出典:Wikipedia(.)
      .
            国立台湾師範大学(旧・台北高等学校)              台北市大安区和平東路一段162號
    旧制台北高等学校(きゅうせいたいほくこうとうがっこう)は、大正11年(1922)3月31日、台湾総督府高等学校として設立。大正15年(1926)年4月25日古亭町(いまの住所表示は台北市和平東路一段162號)に完成した新校舎に移転。昭和4年(1929)に総督府官房営繕課 井手 薫の設計でネオゴシック様式の講堂が完成している。現在市定古蹟となっている(.)日本統治下の台湾・台北に、外地の高等学校としては初めて設立された。7年制(尋常科4年、高等科3年)で、台湾人生徒は全体の約2割、医学部進学を目指す理科乙類に多かった(.)東京帝大・京都帝大など内地の大学への進学者が多く(.)地元の台北帝大への進学者が少なかったために同大は予科を設置することになったとされる。昭和2年(1927)5月13日に台湾総督府台北高等学校に改称(.)第8-9代総統の李登輝や、実業家・邸永漢、生物地理学者・鹿野忠雄が卒業生に名を連ねる、台湾中のエリート達が集まる学舎であった(.)日本の敗戦に伴い中華民国に接収され1946年に台湾省師範学院が継承し、1956年国立台湾師範大学に昇格した。許可の上見学可能。MRT淡水線・新古亭駅から5分(.) 
 
 

大正11年台北高等学校創立→戦後1946年に台湾省立師範学院となり1955年師範大学となる(.)
 
           古亭庄配電所
  台湾で最初の水力発電は新店渓上流の台北深坑にある亀山発電工事を起(.)明治38年(1905)に660馬力(その後、1,000馬力まで拡張されている)の発電所を完成させている。  古亭庄は現・師範大学(当時、台北高等学校)のある羅斯福路付近(のちに古亭町)のこと(.)亀山発電所から送られた電力を台北市の各地に送電するために「古亭庄配電所」が建設された。明治45年(1912)の統計によると(.)当時全島で使用されていた電灯の数は47,522.戸数にして9,613戸であった。また扇風機は2,447台が使われていたという。戦後、高電圧電力研究所のオフィスになった。のちに老朽化のために解体と再建されています(.)
   
明治44年頃の古亭庄(のちの古亭町)の配電所(.)
          MRT故亭駅周辺に残る日本家屋
  MRT古亭駅周辺は日本統治時代では古亭町・錦町・福住町・千歳町などがあり、近くの台湾電力社宅や台湾大学、台北高等学校の教授の宿舎が建ち並んでいました(.)日本が敗戦を迎えた昭和20年(1945)8月、台湾に居住していた日本人とその子女は、約31万人であった(.)12月25日から始まった日本人の帰国の中で、彼らは所有していた不動産を没収され、ただ身の回りの品々と、1000円を上限とする日本円しか持ち帰れなかった。その際、蒋介石政権からは荷物の持ち出しを行李(こうり)(竹・柳・藤で編んだ荷物籠)何箱以内まで、という形で制限されました()行李には住所を書かなければならず(.)貴重品を詰込むのがやっとで、家具や台湾で撮った写真や日記、賞状などは制限のため思い出の品の多くを持ち帰ることが出来なかったという(.)台湾で生まれた日本人も少なくなかった。日本人が台湾を離れるときに味わった(あきら)めと苦しみを経験したのである。古亭駅周辺などの路地を散策しているとコンクリートの塀に囲まれた廃屋化した日本瓦の日本家屋を見ることができる(.)なかには古い家屋を借りて改修して店や資料館に転用した日本家屋があるんので室内を見ることができます(.)現在では台湾師範大学に通う学生や観光客で永康街、青田街、龍泉街から一文字ずつ取った「青康龍(.)エリアはおしゃれで個性的なカフェや雑貨店が点在している(.)

引き揚げ前に検査を受ける日本軍人

日本本土に送還されようとしている在台日本人家族  

今も残る日本人住宅
             料亭「紀州庵」                 台北市中正区同安街107号
    紀州庵は日本統治時代の大正6年(1917)に平松家によって開かれた料亭でした(.)紀州庵には、本館、別館、離れの3つの建物がありました。料亭では鮎料理が自慢で(.)敷地のすぐ隣には淡水河の支流である新店渓が流れていて、屋形船での宴会も行われていた。お客は船の上で食べたり飲んだりするほか、その場で新鮮な魚を捕まえて料理にしたり(.)また芸姑遊びも行われていたという。そして船から戻ってきたあとは、身体を流して、また続けて宴会が開かれていたそう。夜になるとお客が次々と人力車に乗ってやってきて(.)河でのクルーズや料亭内で思い思いに楽しみ盛り上がりを見せていた(.)終戦とともに平松家が日本へ引揚げたあとは、公務員や教職員の宿舎となりました。そして(.)有名な小説家である王文興によって、紀州庵を舞台とした小説『家變』も執筆された(.)1970年代になると、爾雅出版社、洪範書店、純文学出版、遠流出版などの出版社がこの地域に根を下ろし(.)文学の新たな風を地域に吹かせました。しかし、1996年の火事で本館が焼失、さらに1998年には別館も火災でほぼ壊滅してしまい(.)離れのみが残っていたが水漏れによる老朽化が進んでいるため2004年に台北市の指定古蹟に指定。2014年に離れが改修され公開された(.)敷地には台湾文学をテーマとした「紀州庵文化森林」があり茶館では中国茶やコーヒーのほか、麺やご飯のお食事メニュー、軽食、デザートが楽しめる(.)場所はMRT新店線「古亭」駅出口2から徒歩15分。出口2を出て右側に進み、ひとつ目の道を左折。同安街をひたすらまっすぐ進む(.)汀州路との交差点にある信号を渡り、またまっすぐ進むと歩道橋の階段が見える。その手前左側に紀州庵文化森林があります。営業時間:火-木/日10:00-18:00  金・土10:00-21:00 . (.)
 
本館

            別館 ・ サクラビール(帝國麦酒㈱・門司)の宣伝広告があ(.)
 大正8年(1919)、アメリカで禁酒法が成立すると、麦酒醸造の機械が不用品となり(.)日本の企業では 買い取り新しい麦酒会社を設立する会社ができた(.) また、夏の風物詩としてお馴染みの無名の画家による麦酒販促用美人画ポスターも定着したのも大正期である(.)
 
離れ・奥が本館
 

改修さtれた離れ
    
    梁實秋故居(旧・台北高等學校教授富田義介(とみたよしすけ)氏の宿舎)               台北市大安区雲和街11號
   台北高等學校の南(背後)「古亭町204番地」(現・雲和街11號)、の日本家屋(建坪30坪)は台北高等學校英語教授の富田義介(1890~1973)の宿舍であった(.)富田義介氏は昭和25年(1950)から昭和35年(1960)まで北九州大学外国語学部の講師などを務めと思われるが詳しい資料がない(.)著書にJ.ラスキン 著「この後の者にも」(培風館・1953年出版)(.)ミル ジジョデン著「ミル自叙伝」や「ミル功利説」の訳註(東京 : 培風館出版)やマシゥ・アーノルド 著「文化と自由」の訳本(1945年)や(.)今日の英語と米語」(東京、研究社大正14年初版)の著書などがある。終戦後(.)日本人教授らは帰国したが、省立師範學院教が継承し職員宿舍として使用された(.)1952年から1959年の7年間、シェークスピア全集を翻訳した文学家の梁實秋が住まわれました(.)その後、しばらく放置され、屋根が剥がれるなど廃屋となっていたが、2011年に台北市により修復されて、「梁實秋故居」として公開された(.)營業時間:11:00 - 17:30・50元・休館は火曜日?確認して(.)
 
           日本料理店「樂埔町」                 台北市杭州南路二段67号
 2014年12月のオープンした「樂埔町」も日本家屋を改修して日本料理を提供している。庭には白砂と石を配置した枯山水を見ながら、食事ができる。11:30~14:00、18:00~22:00 TEL02-2395-16889 .(.)
         レストラン「青田七六」                 台北市大安区青田街7巷6番
 「青田七六は青田街七巷六番にあるために番地が店名とされた(.)ここは、昭和6年(1931)に日本人教授の足立仁氏が設計、建築し、終戦後の1945年に台湾大学教授の馬廷英さんが住み始めました(.)地質科学を専門としていた馬廷英さんはこの建物を非常に大切にし、ここで生活した六十数年を掛けて(.)綺麗なまま保存して来ました。和風の座敷、広縁、次の間、また応接室と食堂は洋風に設計されています(.)月曜から金曜まで9時~11時、この建物の無料ガイドツアーがある。要事前予約です。(TEL:02-8978-7499)(.)
          「青田茶館」                        青田街8巷12号
 「青田七六」の一筋南西側の青田街8巷12号の路地にも日本家屋が点在し「青田茶館」も台湾大学の哲学教授が住んでいたという日本家屋を改築して喫茶店を営業(.)東方美人茶や凍頂烏龍茶など台湾の烏龍茶を中心に一杯(150元。食事提供はないが茶菓子はある(.)裏には敦煌畫廊」というギャラリーもある。月曜日休み・営業時間13:00~18:00。MRT「古亭」駅下車、和平東路1段をまっすぐ新生南路方向へ進みます(.)和平東路一段141巷を左へ曲がります。青田街8巷を右へ。右側に風情のある門で(.)奥に日本式家屋が見えたらそこです。双方共、MRT古亭站から徒歩約15分くらい。青田街から散策しながら北上すると(.)観光客にもよく知られた永康街に至ります。永康街には、小籠包で日本の皆様にもお馴染みの鼎泰豊本店がある(.)
    鼎泰豐
  MRT中正紀念堂駅の隣駅、東門駅5番出口の傍には多くの観光客が(.)必ずやって来て、いつも長い行列ができる小籠包の「鼎泰豐(デンタイフォン)」がある(.)大通りに面したビルに赤い字で鼎泰豐と書いたビルです。台北歩く建物旅の合間にエネルギー補給にた立寄ってください(.)グループのオススメオーダーは蒸し料理4点+スープ1点か、蒸し料理3点+麺1点or御飯+スープ1点です(.)月曜~金曜 10:00-21:00、土・日・祝日 9:00-21:00住所は大安区信義路二段194號(.)
 
        国立台湾大学(旧台北帝国大学)              台北市大安区羅斯福路四段1号   
 
   
鉄筋鉄骨二階建て、屋根は瓦葺き。折衷様式を採用。外壁には淡褐色の北投産タイルが使用されている。車寄せを抜け、正面玄関に入ると、広々としたホールと二階までの吹き抜けがあり、モザイクタイルでデザインされた階段廻りの意匠の美しさに見とれてしまう(.)踊り階段を経て二階へ上がると、8本のイオニア式柱が配置され、優美な空間を演出している(.)
   
 台湾大学文学院旧文政学部)植木を植えばかりで育っていない 昭和4年(1929)竣工・総督府官房営繕課設計
  
 
現在の文学院
 昭和3年(1928)に開設された高等教育機関(.)開設は大阪帝大や名古屋帝大よりも早い。広大な敷地には日本統治時代の建築物が何棟か残されている(.)石を積上げた円筒形正門と褐色煉造りの守衛室(1931年竣工(.)を入ると椰子の並木道が構内を歩くと左手に2階建の褐色の文学院(旧文政学部)がある(.)右奥には行政大楼(旧帝国大学付属農林専門部)さらに椰子並木の最奥には校史館(旧図書館)(.)さらに統治時代の建物を用いた教室や研究室が構内に点在している。「蓬菜米(ほうらいまい)」は日本統治下の台湾において品種改良に成功した米の品種であるが(.)大正から昭和にかけて研究と開発に心血を注いだ磯永吉(いそえいきち)末永仁(すえながめぐむ)の記念館として2012年に開館している(.)蓬莱米は現在でも台湾における日常食用の主要な食料となっている(.)正門には守衛さんがいるが、一般の人も自由に入れる(.)MRTの公館前を上がってすぐにだが構内が広大()   
磯永吉・末永仁の蓬莱米の研究室
           台北水源地.      新北市新店區直潭路
 明治28年(1895)(.)日本が領有した当時の台湾はペスト、マラリア、コレラなどの風土病がつねに猛威をふるい(.)そのため島民の平均寿命はわずか40歳程度だった。島内の武力反抗平定のため上陸した(.)日本軍は5,000人に近い死者を出したが(.)そのうち戦死者はわずか160人ほどで、4,600人は風土病に罹った戦病死者だった(.)それは、澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する(.)極めて質の悪い水が主な原因であった(.)衛生環境の改善を統治政策の要の一つとした台湾総督府は上下水道建設のため(.)明治29年(1896)後藤新平の命により()東京帝大の英国人教師ウィリアム・バートン(William K. Burton)を衛生工事顧問として招聘(しょうへい)したが(.)その助手として同行したのが教え子の浜野弥四郎(佐倉市出身)だった(.)バートンがマナリアで倒れると(.)その遺志を継いだ浜野弥四郎は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げて(.)当時はまだ東京にも見られなかった先進的な貯水池(.)上下水道計画を基隆、台北、台中、台南(大正11年竣工(.)などの主要都市で完成させた(.)
台北水源地(新北市新店区)は明治36年(1903)に現在のMRT新店の少し上流の新店渓の沿った右岸(.)当時うっそうとした森に囲まれ小さな丘を背に着工され、明治38年(1905)完成し、川の水を汲み上げて使用された(.)現在も直潭浄水場として活躍している。
台北の市民には明治42年(1909)4月から供給された(.)このように、浜野の水道建設は台湾を「人の住める島(.)に変えたばかりか、「近代化の島」へと変貌させて行く上で大きな役割を果たしたのである(.)現在の台湾の水道は戦前日本によって整備されたものを基礎に発展しており(.)2013年、台北市水道事業は東京都水道局と相互技術交流で最新の水道管理技術の確立に努力している(.)
 
明治38年(1905)完工した台北水源地
   
             自来水博物館(旧・台北水源ポンプ室) (.)                   台北市中正區思源街1號
 浜野弥四郎の水道建設が進むなか、明治41年(1908)に、総督府営繕課の野村一郎の設計で取水口・ポンプ室(現在の水道博物館)(.)諸設備がさきに誕生し、その翌年に配水管・浄水場および貯水池が完成しました。浄水場の開始とともに、1日2万トンの水を12万人に供給することになりました(.)台湾で初めての現代的上水道の始まりました。それから68年間にわたって、このポンプ室は台北市民に清潔な水を供給し続け、1977年にようやく引退しました。その後(.)1993年6月に国家三級史跡に指定されるとともに、台北市が8千万元を投じて修復に乗り出し、ポンプ室を発足当時の姿に甦らせると同時に、水道の歴史に関わる写真や器材を収集して(.)台湾最初の自来水博物館を誕生させました。「自来水」とは水道施設と水道水を意味する言葉。このポンプ室を設計した野村一郎は児玉総督後藤民政長官記念館(現・台湾国立博物館(.)も設計している。後期ルネッサンスのバロック様式のエレガントな外観の水源ポンプ室の建物は(.)左右の屋根にドームをこしらえ、列柱上部や屋根の棟の先端の彫刻装飾は(.)まるで将来博物館になるのを予想して建築したようだ。屋外では建物をバックに婚礼の写真を撮影するのを見かける(.)室内は配電盤や電動ポンプと配管が整然と並び、やはり水の工場と認識されられる(.)館内には様々な文物が展示されている。敷地内には水郷庭園・噴水池、親子用親水施設・人工ビーチなど水を利用したいろいろな施設があり(.)陽光のもと子供たちは水着姿で歓声をあげている。場所はMRT公館駅4番出口から思源街と汀州路の交差路に向かって進み、交差路で左、徒歩約5分(.)休みは月曜日、9:00~18:00(チケット販売は1時間前まで)7月1日~8月31日は9:00~20:00.(.)南西側にある新店溪に架かる永福橋横にある自来水園区(水道公園)は、日本統治時代では市民に新鮮な水道を提供する浄水場でした(.)
   

①台北市北部・北投温泉と円山駅周辺の旅 ②大同区大稲埕と北門周辺の建築物の旅 ③台北駅周辺と東部方面の建築物の旅 
④台北市官庁街の日本統治時代の建築物  ⑤台北市西門と萬華区の建築物の旅   本ページ
 
   庄福BICサイト
       引用文献  大正2年(1913)新高堂書店発行・村崎長昶発行者の「台北写真帳」  東京人的台湾散歩 台湾懐旧 1895-1945 絵はがきが語る50年 
          片倉佳史著「日本統治時代の名建築を歩く」「台北の歴史を歩く」・各建築物・施設の紹介パンフレット・案内板・台北国立図書館資料