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儒学の創始者は、釈迦、キリストと並んで世界の三聖人と言われる孔子(前551〜前479年)です。彼が生きたのは今から2500年前の中国大陸。当時は周王朝が滅亡、人々の心が荒れすさんだ春秋戦国時代でした。「乱世に人はいかに生きるべきか」彼はこの問いに対する答えを求め、戦乱の中を生き抜く指針として儒教の神髄『論語』を作りあげた。次の有名な人生訓は、ご存知な方も多いでしょう。 |
子曰く、 (孔子が云う)
吾れ十有五にして学に志す。(私は15歳で学問によって身を立てることを志した。)
三十にして立つ。 (30歳になって(精神的にも経済的にも)自立できた。)
四十にして惑わず。 (40歳で人生の迷いがなくなった。)
五十にして天命を知る。 (50歳で天から与えられた使命を知った。)
六十にして耳順う。 (60歳になって人の言葉がすなおに聞かれた。)
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
(70歳になって、心の欲するままに行動しても道理に違うことがなくなった。)
孔子には3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。『論語』は孔子とその弟子たちの間で交わされた言葉を、孔子の死後に弟子達がまとめたもので全二十篇からなります。上の言葉は第二篇「為政」に収録されています。戦国時代の孟子・荀子を経て,漢代に至って国教としての儒教が成立、以後,中国民族の伝統的精神文化の一大支柱となる。のちに、朱子学・陽明学として展開する。日本には仏教よりも早く513年に百済の学者・王仁博士の来日以降に大陸から朝鮮半島を経て伝来したと言われ、「論語」や儒教は文字および漢字の伝来ともなりともなりました。聖徳太子が発布した十七条の憲法から、武士社会では禅宗の僧侶たちに朱子学が導入され日本の「武士道」を朱子学に結びつけるほど、歴史を大きく揺るがすほど影響をもたらした。朝鮮半島では13世紀には、国家の統治理念として用いられ、仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)としました。日本でも江戸幕府の成立とともに徳川家康は建仁寺の僧であった藤原惺窩の弟子である林羅山を招き、朱子学を官学の中心にした幕府の教育体制を作り出し全盛期を迎える。
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朱舜水が省菴に贈ったと言われる孔子像3体 |
江戸初期のキリシタン弾圧で教会破壊と閉鎖がされ、鎖国令が非常に厳しかった長崎に、明朝が滅亡し、清朝の弾圧を避け唐船(中国の船船)で来航してきて、学者や唐僧により学術、医学、美術工芸、明楽、黄檗文化が伝えられた。明朝時代(1368年 - 1644年)の一流の大儒学者の朱舜水も、明朝復活の運動の活動も空しく諦めて長崎に亡命しました。長崎の帰化人の医者頴川入徳に大儒学者朱舜水を紹介された栁川藩士の安東省菴は亡命した舜水の学徳に深い敬意を払い、自分の俸禄のうち半分を送り続けて支援し儒学をさらに習得します。のちに舜水は水戸に招かれて東上の途中、柳川に立ち寄り旧来の芳情を感謝し、儒教の発祥地の中国で造られた孔子像3体を省菴に贈りました。現在は安東家と湯島聖堂と伝習館高校内にそれぞれ安置されています。背後の掛軸は安東省菴自筆の「至聖先師孔子」です。下、三分の一が空白なのは、この前に孔子像を祀る為と思われる。至聖先師孔子は明の第12代皇帝の嘉靖帝(世宗)が孔子に対して贈った封号です。ひたすら学問の道を生き抜いた安東省菴は家塾において藩士子弟を指導し「柳川藩の学問の祖」と言われたましたが、その偉業を紹介します。
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【安東省菴の生い立ちと仕業時代】
安東省菴は江戸初期の元和8年(1622)1月18日に柳川立花氏の家臣、安東親清(500石)の次男として現在の柳川市本町で生まれました。通称、助四郎、名は守正と呼ばれ、後に守約と改め、字は魯黙、省菴または恥斎と号した。栁川藩主、立花宗茂、忠茂、鑑虎、鑑任の四公に仕えた徳川初期の大儒学者である。省菴が学んだのは儒学は中世にも儒学が学ばれることはあったが、禅僧が兼学する、教養的なものでした。立花宗茂は戦乱の世も治まり、平和な時代となったので、文教を盛んにする為に、その指導者となる学者を、藩士の少、青年から育成しようと考えた。その眼鏡にかなったのが省菴で、幼少の頃から聡明で好学心が高く器量があったため、次男であったが、寛永11年(1634)4月2日に13歳の省菴に分家の内意書を与え、将来武家一軒を創立させ、武人の藩文教指導者を養成しようとした。宗茂は省菴を2代藩主の立花忠茂の属従に任じ、江戸に呼び寄せ側近において文武両道を訓育した。省菴、16歳の時、病身(小瘡)ながら島原の乱に従軍し、一人夜中に突進したが途中で倒れ、後から来た軍がその上を踏みにじって行っても屈せず、起き上がっては進んだとエピソードが残っている。翌年2月、最後の総攻撃の折りにも、まだ完治していなかったのに突撃して武功を立て、負けん気が強かったと言われる。 22歳まで江戸で滞在した後、寛永19年(1642)に省菴は柳川に戻り、7年間は清水寺(現・みやま市)の玄磧和尚、板東寺(現・筑後市)の友山和尚を師として勉学に励んだ。柳川に帰った翌年の寛永20年(1643)には平重盛、藤原藤房、楠正成の三公の純忠を顕彰した「三忠伝」を著作しています。
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【京都の松永尺五に学ぶ】
慶安2年(1649)、28歳のとき京都に出て、秀吉による朝鮮からの捕虜の姜沆(日本儒学『朱子学』の父)から朱子学を学んだ僧侶藤原惺窩の門下であった儒学者松永尺五に師事する。また尺五の尺五堂から安東省菴、木下順庵、宇都宮遯庵、貝原益軒などの学者が生れ、のちの世には新井白石・頼山陽と受け継がれています。省菴は朝鮮経由の朱子学を尺五に学んだことになります。省菴はそこで「学問をなす意味は、自分自身を道徳的に完成させることにある」と悟り、以後自分を犠牲にして学問に打ち込んだ。柳川で独学で勉強した自身の著作を恥じて焼き捨てたと言うエピソードは、この尺五門下に入ってからのことであると言う。京都ではすでに詩文と医業において名声を得ており、翌年の慶安3年(1650)、和刻本「求是編」を刊行し、2年後の承応2年(1653)、にも四書の注釈書を(現在確認できるのは「四書群書収録 大学」)刊行し成果を発表している。師の松永尺五が省菴宅を訪問し、漢詩の交換をするなど、信頼を得ておりました。また省菴が京都では弟子を取ったとする史料も確認されている。会津候や加賀候より、儒者として召抱えたいとのもうしでが相次いだが、承応2年(1653)省菴は京都での必死の学問を終え柳川に帰った。32歳の時である。
姜沆
日本儒学『朱子学』の父 |

藤原惺窩
朱子学(京学)を家康に講義した |
肖像画検索中
松永尺五
安東省菴らのの恩師 |

貝原益軒(福岡藩)
安東省菴ともに学び「海西の巨儒」と称された |
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【長崎での明から亡命の儒者と会う】
柳川に帰った省菴は再び江戸で勉学する為に、出発するに先立ち、病気療養のため沖端川口の港から長崎に行く。この頃、長崎には明朝滅没後、清朝の圧政を逃れて来ていた中国人が多くいました。省菴は明からの亡命し帰化した浙江省出身の医者の頴川入徳(中国名陳明徳)に診断を受け独立や、大儒者の朱舜水の学識徳行を聞き、窃かに、あこがれ尊敬し、知合いたいと思い入徳に切望した。そうして10日間長崎に滞在して入徳の私邸に同寓していた独立との交流はすぐ叶い議論し合い省菴の学問が理解された。これを見ていた入徳により異国にいる朱舜水に省菴の著作を送るなどにより紹介が実現したと言われている。省菴は長崎での滞在を終え、7月には江戸に上り苦学しました。
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*頴川入徳(中国名陳明徳)
慶安3年1650)に明から長崎に亡命した儒者であるが、名医でもあり、貧乏人からは取らぬばかりでなく、かえって金を施す仁医であった。そこで住民は長崎奉行に懇願して滞留の許可を得た人物である。慶安年間(1648年~1651年)に、たまたま雲仙岳の西海岸の小浜(長崎県雲仙市小浜)に来て海岸にお湯が湧き出ることを知り、温泉が治療に効果があることを広く世に知らせ、小浜温泉が保養地として利用され発展した影の功労者である。省菴は入徳の非凡な学識と、人格を知り、また入徳の家には明から亡命した同郷である独立性易を紹介された。入徳は明暦2年(1654)2代藩主の立花忠茂の病気も治療し、万治3年(1660)には省菴の妹のの病気も治療したとされている。入徳が早く我国に来ていたことは、その後、入徳の私邸は明からの亡命者にとり大変好都合で、独立は同寓しており、舜水は長崎に入航した時には宿泊していました。
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小浜町の傳明寺の入徳師翁碑 |
*独立性易
独立(1596年~ 1672年)は承応2年(1653)から長崎に亡命した儒学者で、明で進士の称号を得た大儒であり、書家また医者としても有名な知識人であった。独立は承応3年(1654)12月、高僧、隠元和尚)の法が盛んなのを見て出家し、法号は「獨立性易」と称し、長崎の興福寺にて得度し、儒者であったが仏門に帰依し臨済宗黄檗派の禅僧となる省菴は京都での勉強した成果の「四書群書収録 大学」を独立に渡して議論するなど、学問上の交流があった。獨立は隠元が4代将軍徳川家綱に拝謁するために江戸へ赴いた時にも書記として随行した。獨立は長崎でしばしば省菴と交遊し、たがいに、その学徳を畏敬し書や詩をやり取りした。独立は万治4年(1661)に岩国藩主吉川広正と子の広嘉に招聘され施術し、岩国では錦帯橋の架設にあたり、独立から、杭州の西湖に6連のアーチ橋があるのを知り、連続したアーチ橋のアイデアに至った。。寛文2年(1662)、67歳からは各地を行脚しながら医業に専念。貧富にかかわらず民に薬を施し病を癒したという。とりわけ疱瘡の治療で知られた。また初めて石印材に刻する印法を伝えている。寛文8年(1668) と寛文12年(1672)には柳川の安東省菴宅を訪問し宿泊している。安東家には「独立筆語」や独立77歳に没した年号の「独立書簡」が残されている(安東家史料1361)。とは、互いに、その学徳を畏敬し書や詩をやり取りした。
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.【柳川での儒官時代】
明暦2年(1656)、省菴は江戸での修行を終え、38歳で柳川に帰郷し藩主忠茂より200石を賜り、そして「性理大全」治道篇を抄して藩主に献ずる。この頃に「理学抄要」という上巻には文事、下巻には武道について述べた2巻がある。のちの世に柳川藩の碩学・牧園茅山は9代藩主鑑賢にこの書物を推奨している。翌年には「除夜嘆」・「立春」・「丁酉歳旦」を著する。ふたたび京都に出て、伏原宣幸に学ぶ。その間「雑箴六首」・「扇銘」・「戊戌鶏旦」を著する。万治2年(1659)に京都から柳川に帰郷。藩の儒官に任命され、武家一軒創立を許された。新知200石を受け、藩士子弟の教育にあたる。「己亥歳旦」・「学蔀通弁跋」を著する。長崎の入徳より舜水の手紙を受け取り日本亡命の決意を知る。さっそく謝書「遠く胡塵を避けて海東に来り・・・」の書を送る。万治2年(1659)省菴は38歳で柳川に帰った後は、儒官として儒官として藩の子弟並びに篤学の士の教育に当たった。弟子の中でも特にすぐれた者に郷士内山潜菴や横地家2代目の角兵衛長短(革菴)がおり、横地はのちに藩主鑑任の待講を勤め共に藩士子弟の教育にあたっている。その子3代横地甚太郎師光(畫菴)も学問の道をつぎ共に代々藩士子弟の教育にあたっている。また弟子の福井玄禎は省菴の斡旋で、江戸の御殿薬頭(御典医頭)の丹波元考に師事し20年余医学を修得し帰郷し郷里の三池郡大間小路で町医者を開業し繁盛していたが正徳5年(1715)に藩主鑑任公に召され侍医として出官でき、柳河鍛冶屋町に住んだ。これより6代に渡り、幕末まで立花家の侍医として仕官している。
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【大儒学者・朱舜水との交流】
*朱舜水(1600年~ 1682年)は明朝時代の一流の大儒学者であった。名は之瑜、字は魯璵、舜水は号。浙江省余姚の人。実学を重んじ、礼法や建築にも精通。中国では李自成の乱により崇禎17年(1644)に明朝が滅亡し、李自成は満州民族に駆逐され新王朝である清朝が成立する。舜水は明朝の復興をはかり鄭成功(日本名福松)と相談し、7度も来日して江戸幕府に援兵を求めた。 朱舜水が安南と長崎の間を行き来する正保元年(1645)から万治3年(1660)の間、承応2年(1653)頃に医者の入徳を介して安東省菴のことを知り、その後、舜水と省菴の間で手紙や著作のやり取りが始まったとある。朱舜水と安東省菴とは親子のような22歳の年の差があるが、師であり友であり、異国での親友となる。まだ面識のない舜水が「越」(浙江省)から書いたもので、省菴の詩文を、日本の第一人者と評したことを伝える書簡が残されている(安東家史料1と2)。それは朱舜水から鴻文二篇(二編の文章)が送られたもので、安東家史料1の「白交趾将相諸大臣節文」には交趾(カンボジア北部)の諸大臣たちに出した節文で、史料2「朱舜水論文「儒者之道」には「仲尼之道、如布帛菽粟」とあり、舜水の儒教感が現れ、末文に「若者不持文王而興、則安東省菴眞豪傑之士哉」とあり、省菴を高く評価している。明王朝の復活が成就しなかった朱舜水は万治2年(1659)冬に運動を諦めて日本の長崎へ亡命し、同郷の頴川入徳の家に寄留した。舜水は早速に、書面で省菴を招いた。同年、省菴は38歳で柳川に帰った後は儒官として藩の子弟並びに篤学の士の教育に当たっていた。二人の対面はすぐには実現しなかったが、翌年の万治3年(1660)に安東省菴は藩主忠茂の許しを得て朱舜水と出会うことが叶った。省菴は舜水に日本に留住するように勧め、各地に疾走し長崎奉行に働きかけた。入徳や長崎港警備の鍋島藩主などの口添えもあり長崎の留住が叶っただろうと言われている。

朱舜水 |
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【朱舜水と出会い長崎で扶養した】
省菴は舜水と師弟の約束を交わし中国本場の儒学の様々な事柄を学んでいった一方、少ない自分の俸禄(200石だが実質は80石)の半分を生活の資金としてあげた。当初、舜水は多すぎると固辞したが、6年間の期間、舜水に差上げ続けた。こうして年に2回長崎に行き、舜水の安否を尋ね、学問上の疑問について教えを受け、徳を磨き、夜は舜水の所に泊まり、唐詩を誦し、喜びを共にした。省菴は舜水に三忠伝の中の楠正成伝を書いて渡した。舜水は初めて正成の誠忠を知り、臣人の手本だと讃をした。のちに神戸湊川神社の楠公碑の裏面の楠公賛となる。寛文2年(1662)、省菴は舜水に筑後柳川に引越す事を提案したが実現しなかった。寛文3年(1663)に長崎で火事が起こり、舜水の家が焼けた時も家を新築し、焼け残った書物や日用品をそこに収めて無事を祝った。この事は他藩にも知れ渡り、肥前大村藩や肥前鹿島藩などは藩校を建設た。長崎に隣接したこれらの藩の早期藩校建設は省菴の文教普及興隆上の功績である。同年、藩主忠茂は省菴に、お前は学問に精勤である事が、他藩にも知れ渡って、評判がよく喜びにたえない。それで100石の加増を申し付けた。しかし省菴は固辞して受けなかった。でも、省菴は舜水を扶養するため、非常に苦しい生活を続け、結婚もせずに、食うや食わずの生活をし、降雨の日の雨漏りは、器で受け、タライを吊り、その下で勉強をした。粗末な衣類を着て、玄米のままのご飯を食べ、野菜だけの、おかずしかなく時たまの御馳走といえば、鰯数匹があるだけであった。親戚や知人はその非を笑い、やめる様に進めたが聞入れなかった。省菴は後年その頃の事を、自分は道徳の命ずるままに道を行い、仁義を全うする事が出来、その間学問を学び、徳を磨く事が出来たと述べている。この時期の朱舜水が書いた紙本墨書が残されている(柳川古文書館蔵)。朱舜水像(立原杏所筆・茨城歴史館利用許可)。 |

朱舜水論文と書
安東家所蔵2 書は柳川古文書館蔵 |

朱舜水書「碧筠」(甲木文庫・書跡1)
碧筠とは青い竹のこと。竹の清らさと強さをたたえている。甲木与一郎先生収集史料。 |

舜水と省菴の間で交わした、深衣を日本の
儒者の礼服することの問答の「朱舜水筆語」 |

省菴が棺の製作についての質問に
舜水が図示して説明した「心褱集語」 |
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【徳川光圀は朱舜水を江戸に召聘す】
寛文4年(1664)、安東省菴は43歳で初めて妻を迎えた。舜水は省菴に40歳を過ぎても妻を迎えないのは親不孝だ、あなたの父親もすでに70歳を過ぎている。早く妻を迎えなさいと奨めていた。翌年に長子万蔵を、3年後の5月には次子守直(侗菴)が誕生した。しかし8月に幼い万蔵を亡くしている。この頃に「寛文丙午論童学文」を著する。寛文4年に水戸藩主である徳川光圀は政治の理想を朱子学に求め、藩士の儒学者でもある小宅生順を長崎に遣わし舜水を江戸に迎える話を持って行った。省菴、65歳は江戸に行かれたら我国の文教は、日ならずして、必ず興隆するであろうと、舜水の江戸行きに賛同した。舜水は江戸に向う途中、まわり道をして柳川に寄り、省菴宅に、数日滞在し、6年間の長い間真心を込めて扶養と情愛のこもった親しいつきあいに感謝し、尽きぬ名残りを惜しんで江戸に旅立った。舜水は旧来の芳情を感謝し、孔子像3体を省菴に贈った。その際、省菴は「弟子が先生に仕えるのは、子供が父に仕えるのと同じ事で父から報われようとする子はいません。江戸に行かれた後、私に金や絹などをお送りなさいませんように」と言った。(朱舜水書簡・安東家史料1204)しかし、後に舜水は金子や高価な品物を省菴に送り届けたが送り返された。困った舜水は省菴の父の80歳の祝いとして送りなおし、やっと受け取ってもらったと言う。寛文5年(1665)6月に朱舜水(66歳)を徳川光圀(38歳)は賓師の礼を以って迎え、公録(白銀100枚30人扶持、興丁料銀20枚)を給して江戸に招いた。居宅を駒込の水戸屋敷に構え、近くに学問所を設けて、門弟の教育に当たらせた。光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業の編纂(後に『大日本史』と命名)に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。朱舜水は天和2年(1682)に83歳で死去しました。(東京大学農学部内には「朱舜水先生終焉之地」と記された碑がある。)死後には光圀により遺稿の編纂が行われ、正徳5年(1715)には『舜水先生文集』全28巻として纏められた。徳川光圀は名誉ある序文を省菴に求めている。それは、省菴が九州の一藩儒であっても舜水と省菴の交際の厚誼のみならず、すぐれた見識の持ち主である学者として高く評価されていたからである。
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安東省菴 |

省菴がみた中国や朝鮮からの本
(省菴の書込みがある一部分)
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省菴の出版物の数々(版本)と
原稿のみの本(稿本)の一部 |
省菴は寛文9年(1669)、「悼菅原生永健」・「送武岡素軒序」・「感懐其」を著する。寛文11年(1671)翌々年には「立花戦功録」・「歳旦」・「射法提要」さらに翌年に「寛文壬子正月告諸生文」・「和韻独立師」・「歳旦」・「恥斎漫録序」を著する。この年、独立が没する。延宝元年(1673)、「上宗先生」・「絶句」・「悼独立」を著する。翌年、「悼由布惟長君」・「病起」を著する。さらに「初学心法」を上刻。「奉哭先国君立花忠茂大公」・「乙卯歳旦」を著する。ほかに「答南部昌明」・「勉学十首」・「日本史略」・「上朱先生」・「感懐其八」を著する。天和2年(1682)に舜水が永眠。「悼朱先生文」・「心喪集語序」を著する。翌年に「寄柳震沢」「又祭朱先生文」・「三忠伝序」を著する。 |
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舜水先生文集
朱舜水没後、省菴は序文を依頼された。編纂のために心喪集語を提供している。
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省菴先生遺集
省菴没後に完成され「集景亭八景八首」もある。 |

朱舜水書簡
舜水が水戸家に招かれ、江戸に向う途中、柳川の省菴宅を訪れたが、その際
省菴は江戸に行かれた後、金や絹などをお送りなさらぬように」と言ったと記されている。 |

霞池省菴手簡
省菴と張斐とも間で交わされた書簡・詩文をまとめた書物。
省菴没後の享保5年(1720)に京都の柳枝軒から出版された。
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【張斐との交流】
清の康煕25年、26 年(1686、1687)、日本では第5代将軍綱吉の時代。水戸藩主徳川光圀は舜水没後、同等の人物を中国に求め舜水の孫の朱毓仁に依頼し探してもらった。そして朱舜水と郷里を同じする浙江省余姚出身の張斐(字は非文、客里山人・霞池と号する)(1634年~ ?)が推薦され当時交易を許されていた長崎に来航しました。光圀は儒臣の大串元善を長崎に遣わし張斐(51歳)と会談させ才能と学問をためした。その時のものが『張斐筆語』としてある(写本)。この中で張斐は自らの故郷に明朝第17皇帝(最後)の崇禎帝の第三子である定王慈炤を匿っていること、そして今回の日本訪問は同郷の朱舜水に倣って援軍を求めることが目的であることを述べる。水戸藩主徳川光圀は張斐の天性を好み、招こうとしたが、この時期の江戸幕府は鎖国政策が厳しさを増していたため、張斐は江戸へ赴くことはできず帰国することになる。張斐は長崎に逗留している半年余の間に、当時の水戸の大串元善、今井弘済などの漢学者と面談し、また書簡のやりとりや詩の唱和を通して交流した。省菴の朱舜水への援助の事は、遠く中国にまで聞こえ、張斐は省菴と面談を望んでいたが、実現できなかったが、手紙のやり取りをしている。張斐は、省菴が朱舜水を助けたことを詠んだ七言絶句の籠写し(文字の輪郭を線書きにして中を空白にしたた文字で書かれた双鉤体の書が省菴に贈られている(安東家所蔵3)。張斐が長崎を去った後、省菴はこれを思うの情に堪えず「霞池省菴手簡」(写真上)を編集した。「水戸の儒官が、そのうちに迎えに来るでしょう。天が儒教の道を日本に興隆させることにあると思います。柳川をお通りになる時は、入門の謝礼をして弟子としてお会いするのも近いうちと思います。」と記している。張斐は省菴の弟子武岡素軒にお会い出来ずに日本を去るのは一生の恨事ですと言っている。当時、長崎には省菴と交流した儒医の向井元升・元成親子、興福寺の逸然、省菴の弟子となり長崎留学の武岡素軒などの人物が沢山いました。
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張斐書(双鉤体)
安東家所蔵3 |
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【省菴の晩年の偉業】
貞享元年(1684)、63歳のとき「三忠伝」(伝習館文庫・安国112として保存)、元禄2年(1689)、68歳の時「幼学類編」、元禄4年(1691)、70歳で「続古文真宝」そして元禄13年(1700)、79歳で「新増 歴代帝王図」の出版と亡くなるまで出版を続けて飽きることがありませんでした。続けた。元禄14年(1701)、藩主鑑虎は藩邸に不祥多く省菴に問われると、誾千代姫を尊崇すべきを直言し、藩主は姫の菩提寺の良清寺の輪郭を大いに改め、寄進を増し、10月17日の姫の100年忌には、親しく大法要を営んだ。それから藩邸の異変は無くなったと言う。その年、省菴は元禄14年(1701)10月20日、静かに柳川で没した。享年80歳。柳川市旭町の浄華寺に葬る。43年間の長きにわたり儒官として藩士子弟の教育にあたった省菴(守約)は死に臨んで、その子侗菴(守直))に遺言した。「家には財も無い。葬儀は質素にし、我が死んでも碑文を刻するな」と言い残して亡くなった。晩年における省菴の名声は儒学あるいは漢詩文の世界においていよいよ高く、京都の大儒学者の伊藤東涯は省菴を「海西の巨儒」と称した。 |
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【安東家の末裔】
*2代目は子息の侗菴(守直)が安東家を継いだが、父の省菴が亡くなった翌年の12月に36歳の若さで亡くなる。
*3代目は幼くて父を亡くした侗菴の嫡子で13歳になる守経(仕学斎)は21歳になると学問修行の為に上京して古義堂に入門して、5年にわたって伊藤東涯に師事しました。のちに、安東家の職を継ぎ藩儒となった。この守経(仕学斎)によって祖父や父の詩文集を編集・校正・出版し世に出しました。「省菴先生遺集」は水戸藩儒の安積澹泊、富山藩儒南部景衡、それに福岡藩儒の貝原益軒の序文がある。益軒も省菴も松永尺五に学んだが、たがいに面識はなかったが省菴の篤学、徳業を聞き序文を書いたのである。
*4代目の守官(間菴)は父の仕学斎に劣らない逸材でした。江戸で中村蘭林に師事し、同門の人たちと詩文の唱和や学説を説いた。その書物が現存している。宝暦10年(1760)に家督を継ぎ自分の屋敷内に孔子を祭る聖堂を新設して、寛政元年(1789)に、同じ屋敷内に講堂と呼ばれる、藩学問所を建設し、助教兼侍読を勤める。これが後の伝習館の土台となり、柳川の教育の基礎を築いた人物です。
*5代目は守身(仞山)は父の隠居にともない講堂に出仕。文学を嫌い、経学のみに打ち込んだと言う。背景には寛政異学の禁があったとも言われる。
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【伝習館の設立】
*6代目は娘の嘉勢と結婚した養子の守礼(節菴)が文政7年(1824)に家督を継ぐ。文政7年(1824)に9代藩主鑑賢の命で伝習館が創設された。以来、朱子学を教育の中心とし、立花壱岐、池辺藤左衛門ら藩政改革を担う人材を育成した。伝習館の名前の由来は、論語学而篇の中の「曾子曰く、吾(われ)、日に吾が身を三省す。人のために謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝ふるかと」にある。教育上の最高責任者に安東節菴が任命され、教授を補佐する助教には牧園茅山、学監には横地玄蕃助が就任した。伝習館史上、この教授職についたのは安東守礼(節菴)ただ一人である。学者・教育者として、また実務家として優れ、江戸の文人たちとの交流するなど才能優れる人物であった。しかし天保6年(1835)3月に他界します。その後、諸種の事情で、安東家の血筋は途絶えます。藩主は、代々続く学者の家が跡切れることを惜しみ渡辺幸猛の次男守成(栽菴)を7代目として継がせます。守成は伝習館助教となり明治24年(1991)に85歳で亡くなりました。8代目は多記(恥菴)(弘化4年~大正19年)。安東家は守成(栽菴)の代に明治維新をむかえるが、その子多記は柳河師範学校長、城内村長などを勤めている。9代目に守男(魯菴)(明治6年~昭和38年)、10代目守敬(大正2年~平成元年)、11代目守仁(昭和20年~ )と続く。昭和50年に10代目守敬氏から「安東家史料」が一括寄贈されて、現在は柳川古文書館に保管されている。 |

藩校伝習館を偲ばれる明治25年頃の城内尋常小学校
中国の学舎の建築洋式を模して建物の配置がコの字型 |
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【安東家の墓地】
安東家では、儒式の葬儀でやってきた。自宅には省菴の神主(5代安東守身筆)と省菴の母の神主(省菴筆)が一つの厨子に、ほかに現在までの安東家の神主が二つの木箱に納められていた。神主とは儒式の位牌のことで、のちに仏教での位牌の元となる。 安東家の墓は栁川市旭町、浄華寺内に石柵で囲まれた安東家の墓所がある。一番奥に省菴の墓石がある。墓の正面には、通常だと仏式の戒名が刻まれるのであるが、ここでは「柳川安東省菴先生の墓」と俗名で書かれています。省菴の墓の少し前にその翌年に亡くなっ侗菴(守直)守直)の墓があり、その手前に3代目の守経(仕学斎)の墓があります。この墓の右、つまり省菴の墓の前に小さい4つの墓石は仕学斎の妻、続いて侗菴の妻の墓、そして安東嘉勢の墓です。その手前に5代目の守身(仞山)の墓、そして藩校伝習館の初代教授となった6代目の守礼(節菴)の墓とが前後してあります。墓所入口から入った、すぐには4代目守官(間菴)の墓です。墓所のおくには門弟たちの墓で、間菴の墓の北側にあるのは釈宗知、その左、つまり一番西端にある大きな墓が藩医福井玄禎のものです。門弟の墓は省菴を慕い遺言して省菴の墓所南側に埋葬されていたのを、安東家墓所内に移したもので、藩医福井玄禎の墓もその一つである。
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安東省菴の儒式墓 (正面に俗名を刻み、墓の裏面にその行状の大略が、その子侗菴によって刻まれている。)
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大正元年(1912)10月に高畑公園内に「省菴安東先生碑」が建立された。碑文は貴族院議員子爵の曽我祐準による。「昭和32年(1958)10月、浄華寺の安東家の墓は、福岡県文化財史蹟に指定された。昭和53年(1978)10月、安東省菴顕彰会は墓所の南側に、池田二郎氏の設計により整備された。枯山水の造園で、東南の三柱石は、安東省菴、朱舜水、水戸光圀の出会いを、また省菴の精髄「三忠伝」を象徴し、前面の敷砂は広い西海、舟形石は舜水の渡来、灯籠は長崎の燈台を表しています。
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省菴安東先生碑(高畑公園) |

浄華寺の「三忠苑」 |
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江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。柳川藩では各地に私塾が創設された。嘉永年間に横地玄蕃助の龍山書院(銀水村倉永)を始めとして、牧園茅山の門に入り漢学を学んだのち私塾「鶴鳴堂」(吉井村)を開設した檀秋芳。龍山書院で漢学を学んだのち私塾「明倫堂」(小川村金栗)を開設した西田幹治郎。日田の咸宜園を創設した広瀬淡窓に師事したのち私塾「修文館」(黒木町木屋)を開設した石門木屋徳令などのほか多くの塾や寺小屋が藩内の各地に開設され優秀な人材を輩出した。明治5年(1872)の学制発布により閉塾となり、全国に学校が均等に設置され明治33年(1900)に義務教育の授業料廃止が行われ、義務制、無償制、宗教からの中立性の3条件が成立する。明治35年には92%まで就学率が上がった。明治40年3月21日には小学校令を改正して、尋常小学校の修業年限を6年に延長すると共に、これを義務教育と定め、翌年の明治41年4月より実施されました。
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参考・引用文献 「柳川人から見た安東省菴と三忠伝よみ下し文」(柳川山門三池教育会編) 西日本人物誌6「安東省菴」(松野一郎著)
「世界のなかの安東省菴」その学問と交流の特別展・パンフレット・展示資料(柳川古文書館)
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