庄福BICサイト H20・12・7製作開始 H20・12・29更新



篤姫役の宮崎あおい(NHK大河ドラマ)
      篤姫の江戸参府 

NHK大河ドラマ「篤姫」は終了しましたが放送期間中に篤姫参府の古文書が発見され、大河ドラマでは海路で瀬戸内海を通過したと描いていたが、陸路を通ったことが裏づけられました。おおよそのルートが解明されましたので紹介します。

「篤姫」最終回
嘉永6年(1853)8月21日、本土最果て薩摩から19才篤姫は薩摩島津家の分家の娘でありながら、島津斉彬(なりあきら)の養女となり、十三代将軍徳川家定(いえさだ)に嫁ぐために旅立ちました。安政3年(1856)、近衛家の養女となり、篤姫21才で江戸城で家定と婚儀。大奥に入り「御台所」となる。家定が早死にしたため、篤姫激しい将軍跡目争いのなか、わずか23才で出家し、「天璋院」と名乗りました。夫の急死後、若き14代将軍家茂の養母として、その妻和宮とともに江戸城大奥をとりまとめます。やがて訪れた戊辰戦争時には、江戸城に迫る西郷隆盛ら新政府軍に働きかけ、江戸城の無血開城に大きな役割を果たしました。明治16年11月20日、48才で亡くなった。墓所は東京台東区寛永寺。

明治時代の天璋院


 篤姫の墓に花をたむける
 鹿児島市の森博幸市長。
 奥は夫の13代将軍家定の墓
     
      
       篤姫の江戸参府ルート(日付けは旧暦)
8月21日 鶴丸城  〜水上御茶屋(御小休)横井御茶屋(昼休) 〜 五本松(御休)  〜 苗代川御仮屋(御泊)
8月22日  苗代川御仮屋     〜      市来湊御仮屋(昼休) 〜 五反田御仮屋(御休)向田御仮屋(御泊)
8月23日 向田御仮屋         〜      西方御仮屋(昼休)       〜       阿久根御仮屋(御泊)
8月24日 阿久根御仮屋      〜   野田感應寺・濱田家(昼休)    〜          出水御仮屋(御泊)
8月25日 出水御仮屋〜米之津御茶屋〜笹原御小茶屋〜水俣(昼休) 〜津奈木峠(御休)佐敷・さつま屋(御泊)   
8月26日 佐敷・さつま屋〜佐敷峠田之浦赤松峠             〜              日奈久(御泊
8月27日 日奈久                           〜                   八代御茶屋(御泊)
8月28日 八代御茶屋         〜       小川本陣御休)       〜        川尻御茶屋(御泊)
8月29日 川尻御茶屋 〜御馬下角小屋・堀内家 〜植木御茶屋(昼休)広町・善行寺(御休)〜山鹿御茶屋(御泊) 
8月30日 山鹿御茶屋 〜 下岩・光行寺 〜  南関御茶屋(昼休) 〜原之町・松尾伊兵衛 〜瀬高御茶屋(御泊
9月 1日 瀬高御茶屋〜羽犬塚御茶屋〜一條町・喜多や文蔵〜府中御茶屋(昼休)古賀茶屋〜松崎御茶屋(御泊)
9月 2日 松崎御茶屋                    〜                       山家御茶屋(御泊)
9月10日 高森相川本陣(山口県玖珂郡周東町高森)に御泊
9月11日 山口県岩国市錦帯橋に立ち寄る 山陽道の安芸国西端の宿場町広島市大竹市久波(現在の玖波町)に御泊
9月17日 岡山県矢掛町の山陽道の矢掛本陣石井家に御泊
10月 2日 養父となる「近衛家(このえけ)」に挨拶に行っている
10月 6日 伏見出発
10月23日 の薩摩藩邸に到着


薩摩藩士仙波市左衛門の日記
平成20年9月(2008)、東京都内で古書店主により篤姫に関する薩摩藩士の日記が入手発見された。日記を残したのは、仙波市左衛門(せんばいちざえもん)で、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の側(そば)役として、篤姫らの護衛や世話などをしていたとみられる。妹は斉彬の指示で篤姫の女中として仕え、娘も女中となっている。発見された日記には、嘉永3年(1850)文久2年(1862)の断続的な日記で虫食いも少なく薄手の道中記3冊(半紙半分折り)と「浦の藻屑」と題された日記3冊、仙波家の由緒と市左衛門の業績書類の合計8冊です。藩主の行列のうち、数十名とみられる市左衛門の一団の薩摩から江戸までの旅費が166両だったことなども記録されている。篤姫は近衛家の養女となった後、仙波市左衛門の日記での呼び名は「篤姫」から「篤君」に、徳川13代将軍家定のとの婚儀が行われ正室となった後は「御台様」と変わっている。
日記によると篤姫が、生家の今和泉家から薩摩の鶴丸城に入り、嘉永6年(1853)8月21日に城から江戸城大奥へのお輿入れのために出立している。天候は晴れ。予定の2時間遅れの10時に城をを発たれ神社などに立ち寄ったことが記録されている。出水筋を西にむかい苗代川川内を抜け出水に向かっている。
野田郷(現在の出水市)は参勤交代の際の休憩地で、郷士年寄である濱田家に残る篤姫さま輿(こし)入れの旅で休憩された際のゆかりの掛け軸とたんすがある。掛け軸は白鹿を従えた寿老人や松、旭日など吉祥の図柄で裏にあった由緒書きには『篤姫様』が『公儀江御縁與ニ付嘉永六年八月御通行之節』に見たことが書かれている。篤姫薩摩街道出水筋を通ったことを証明する唯一の記録となっている。また、たんすは質素な造りで化粧箱と思われる。篤姫が『江戸では使わない』と置いていったという。8月24日に休息されたとみられる。出水薩摩に別れを告げ、八代の海を左に眺めつつ北上し、8月28日熊本川尻御茶屋に宿泊されたであろう。
8月29日、豊前街道(薩摩街道・坊津街道)を北北東へと駕籠を進められ、庄屋屋敷堀内家の「御馬下の角小屋(みまげのかどごや)(熊本市四方寄町でご休憩されている。
堀内家所蔵文書群「記録控」@の資料には「 一、薩州様御息女様 御茶菓ならびに柿・西瓜御献上申上候付、金子弐百疋拝領させられ有難く頂戴仕り候。(1両=百疋=約2万円相当) 」とあり、お菓子と柿・スイカを献上され、お礼に200疋(4万円相当)を頂いたとあり、その夜は山鹿で一泊しています。
@堀内家所蔵文書
29日午後には鹿央町(かおうまち)の「善行寺(ぜんぎょうじ)」で休憩をしている。
善行寺の古文書Aには「薩州御息女様(篤姫)御登につき御這入遊ばされ、御宿礼として金子(きんす)百疋ならびに追って態々五拾疋頂戴仕り候事」とあり薩摩藩のご息女篤姫様が、江戸城へお輿入れ(嫁入り)のため、お立ち寄りになった折り、その御礼として金百疋(ひやくひき・2万円相当)、さらに追加して金五十疋(1万円相当)をいただきましたと記されています。一行は「山鹿御茶屋」に宿泊されたと思われる。

A善行寺の記録

8月30日、「山鹿御茶屋」をお立ち寄りになった一行は「南関御茶屋」に到着されている。南関手永惣庄屋木下初太郎の「嘉永六年癸丑歳日記」Bには 「晦日(三十日) 晴 薩州御姫様九ツ前御着。九ツ半(午後1時)御立。」とあり、午前11時頃にお着きになり、昼食をとられ午後1時御立になったとある。「木下助之日記」には「(八月)三十日薩州中将殿息女(篤姫)昼休。女中二十七人」とあります。御側用人兼御側役向井新兵衛らと御供女中28人の篤姫一行は午後は山川町原町松尾伊兵衛の家で休息され、夕刻に「瀬高御茶屋(みやま市)に御着きになり宿泊されたと思われる。


B惣庄屋木下初太郎の記録
9月1日、「瀬高御茶屋」をお立ち寄りになった一行は「羽犬塚御茶屋(筑後市)で休息し、さらに一条町の喜多や文蔵宅で休息され「府中御茶屋(久留米市)に到着され昼食をとられたであろう。府中の通行記録Cには「薩州御姫様九月朔日、府中御通行。公儀へ入らせられ候段、御小性猪田之進御使者御菓子進らされ候」とある。午後は古賀茶屋に休息され、夕刻に「松崎御茶屋」に到着され宿泊されたと思われる。
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9月2日、「松崎御茶屋(小郡市)お立ち寄りになり、「山家御茶屋(筑紫野市)にお泊りになったであろう。山家の薬種屋「松尾屋」の「大福万控帳」記録Dには「薩摩御姫様 御登り達 萩野半之丞殿 児玉宗八殿 上下七人 九月二日夕泊り」とあり、萩野半之丞児玉宗八と随行者上下(かみしも)七人とあり、篤姫山家御茶屋か町茶屋に泊まったと推測されている。また、家臣達の帰路の記録により大宰府に参拝したとみられる。

C府中通行の記録

D山家休泊の記録
    
岩国藩士が藩と近郊の出来事をつづった「岩邑(がんゆう)年代記」Eの嘉永6(1853)年9月11日の部分に「薩州姫君様、昨夜高森泊にて、今日大橋御廻(まわ)」とあり、山口県岩国市錦帯橋そばで小休止したことや、篤姫の結婚が町で評判になっていたことが記されている。その夜は広島県大竹市の「久波(現・玖波)御泊の由」との記述もあった。古文書の内容から「物見遊山しながら、のんびりした道中だったのでは」と想像されている。
錦帯橋

E岩邑年代記
岩国徴古館所蔵
        
岡山県矢掛町矢掛の旧矢掛本陣石井家Fに宿泊したと思われる記述が同本陣に伝わる古文書から見つかっている。本陣の宿泊記録である「宿方御休泊留(しゅくかたごきゅうはくどめ)」の1853(嘉永6)年9月部分に「中将様御娘也 薩州御姫君様 御登 御泊 御拝領銀三枚」と記され、女中や警護の武士ら本陣に宿泊した人数52人、食事の手配も記載されている。本陣周辺の宿の宿泊記録にも、同月の部分に「薩州御姫様御泊り」とあり、33軒に200人余りの家来が宿泊したことが記されている。 9月17日に御泊になったとみられる。
F矢掛本陣(国指定重要文化財)
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 資料・筑紫野歴史資料館・仙波市左衛門の日記・堀内家所蔵文書群「記録控」・広町善行寺古文書・南関仙波市左衛門の日記・
     岩国徴古館元館長・宮田伊津美氏資料

           続き豊前街道(薩摩街道熊本北部編)

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