庄福BICサイト 【禁無断転載】 H23・4・24製作 H27・10・1更新 福岡県みやま市瀬高町文広.  |
神亀元年(724)、芳司の祖先は、国への功により広田県の270町歩の土地と住民を与えられたとある。それを封戸と言い広田八幡宮が創建された。その後、封戸は権力者により荘園となるのである。広田八幡宮の縁起によると神亀元年(724)2月に豊前(大分県)の宇佐八幡宮(応神天皇)の分霊が遷宮され、まず本郷の仮宮に安置され神亀5年(728)2月広田庄の惣社として芳司に宮殿を建てられたとある。「廣田宮」の創建は後に出現する芳司市場の発展につながり、繁栄をもたらすことになる。広田庄に勢力を誇っていた広田宮には古代から、おかかえの手工業者がいて、色んな品物を作っていた筈である。生産された品物は広田家や領地の需要に応えたが残余はおそらく市販されていたものと思われる。例えば、芳司集落の北側にはカマ場があったとみられるが、ここの従業者は独立した個人でなく広田家の奴隷的存在にすぎなかった。中世期になると広田家の支配を受けながらも、人格的にも独立を果たし、小経営者と成長し市場の形成の土台の一部となる。
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この時代には芳司の手工業者は生産量は少量であったが月に2,3回の定期市をこの地に起し販売を開始したのが芳司市場のはじまりである。南筑後には貨幣経済がしだいに浸透し三市場ができており、山裏市場(飯江川と矢部川の合流地点)と山下市場(西鉄渡瀬駅の裏辺り)と芳司市場(文広)があった。奈良国立資料館にある太田文(土地台帳・文永9年〔1272〕)の中に、広田庄400町(120万坪)とある。15世紀頃になると、天草、島原方面との取引が活発となり、定期市の回数も増え、常設の店舗もでき、工業と商業もしだいに分化し商人が出現したのであろう。それらの業者達は社会的地位も低く、事業や生活を守る為に共同体の強化を計り芳司の「座」をつくり生産、流通、生活全般を規制し、筑後国一宮・高良大社を本所とする連合体にも加入し、宗教的に結びついた結束の固いものであった。
芳司には、広田庄「芳司市場」の様相を伝える恵比須神の笑酒石碑がある。高さ243cm、幅84cm、厚さ23cmの安山岩製で、碑面には男女の酒宴の図と「筑後国下妻郡広田庄 本郷村芳司町 笑酒、大永五年(1525)八月吉日、施主 板橋助種」と刻まれている。室町後期、戦国時代のもので、当時の芳司の定期市の守護神として建てられ、周辺民衆の信仰を集めていた。中世期の市には、西ノ宮の恵比須を勧請して祀る風習があった。この芳司の定期市を管理したのは、広田八幡宮の神官広田氏一族で神亀5年(728)の鎮座以来「宮柱」(神主の下の神職か?)は壇氏であったが、板橋氏は市を取仕切る「市司」だった。壇氏は後に本郷に砦(城)を構える土豪となり、さらに立花藩政時代では領内の民生を円滑に執り行う為に、地元の事情に精通した旧在地領主として知行として庄屋職と地主権(庄屋給)が与えられている。 |

笑酒石碑

男女の酒宴の線刻図 |
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鶴記一郎著「地名のはなし」によると「芳司の地名は古墳、奈良、平安時代にわたり、この集落で神祭の甕盆等の土師器を造る窯場があったことに起因するといわれている。平安朝、白河院政の頃ですが、荘園制度が次第に朝廷の財政を圧迫していきます。その対策として、朝廷側は、在地領主を公権的にひきつける為の徴税機関としての「保」を成立し、その役人を「保司」と言った。その役所が一時、今の文広に置かれ、その役人の保司に広田氏が就任したと思われる。その頃の保または公文と呼ばれる役所の所在の証明となるのが、文広の印鑰神社です。印はいんかん、鑰は鍵で、役所を象徴する言葉です。その保司が芳司になったのだと思います。文広の地名は、保の役所のことを公文と呼び、その公文の文と広田の広をとって文広ができたと思っています。」とある。文広は大字名で明治9年吉岡村と合併してできたものです。明治13年(1880)下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。 |

広田八幡宮 |
広田八幡宮境内の土居の跡 |
昔の堤防に立つ楼門 |
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【広田八幡宮の旧堤防の上の楼門】
芳司と吉岡が合併した文広村は明治13年には下妻郡から山門郡に編入した。掲載している当時の測量地図(左)では潮井神のある畑付近は河川敷で下庄町の領域である。また緑に色分けされた「堤防藪」が芳司の橋口から広田八幡宮の境内を横切り矢部川に沿った後に作出の集落の北側を通り坂田の集落の北側に達している。広田八幡宮の楼門は旧堤防の上部にあったようだ。大正3年(1913)から船小屋から中島河口までの13Km、10ヶ年計画で新しく矢部川の堤防工事なされ、昭和2年(1927)に堤防が完成した。不要となった旧堤防は削られたが、堤防上の楼門は移動されずに今も昔の堤防の面影を残している。旧土居の高さは約3mである。矢部川は川底の浅い天井川であり、かつ、堤防が完備していないため、藩制期には少量の降雨によっても増水水害をもたらしていました。藩制期からの水害記録や川の改修記録も数多く残されており、今日まで洪水との戦いであった。昭和21年の洪水や昭和26年ル-ズ台風、同28年には 広田宮近くの堤防が決壊し大洪水となり死者26人を出す甚大な被害を被り、相次ぐ天災のために同29年遂に瀬高町の財政はは赤字となる。昭和46年の河川改修工事で嵩盛りされ現在の丈夫で高い堤防となっている。
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広田八幡宮(広田大神) |
元・北九州高専の白川晃先生が解読解説した「遷座1250年記念の廣田八幡宮文書」の社記編(S・54)によると、養老4年(720)2月、大隈・日向(現在の鹿児島・宮崎)の隼人は律令制に反対し大隈の国司を殺害するなど、川上静が朝廷に反乱した為に、朝廷は3月4日に大伴旅人(大伴安麻呂の子で万葉歌人でもある)を征隼人持節大将軍に任命し、隼人側数千人の兵に対し、九州各地から1万人以上の兵を集め東側および西側からの二手に分かれて進軍したが、征伐に手間取り長期戦となっいた。朝廷は8月に京に帰った大伴旅人に代わり再度、宇佐(大分県宇佐)の豊前守宇努首男人(百済系渡来人の子孫)を将軍に任命した。賊徒征伐の勅命を受けた宇努首男人と宇佐の軍衆は勝ちを宇佐皇大神の広前に祈る。3日3夜に及び神託あり、「筑紫なる御心廣田に遷し、廣田速彦麿をおいて吾御前を祭らば皇軍必ず勝つ」とお告げがあり、皇軍は賜った。養老5年(721)8月、1年半にわたった戦いに勝利し征伐を成しとげた.。凱旋したおり、聖武天皇の勅願により八幡神(応神天皇)を祀る宇佐八幡宮が創建され、お告げの通り、廣田速彦麿は朝廷より廣田縣の500町の田地を賜り、分霊を筑紫廣田原に遷宮して祀るのに宇佐小山田に八幡神の仮宮を建て廣田縣主と神主を兼ね、初代神官となる。養老7年(723)3月1日に亡くなった(73歳)。神官を息子の速胤(はやたね)が受け継ぐ。
神亀元年(724)2月に豊前(大分県)の宇佐八幡宮(応神天皇)の分霊が遷宮され、まず筑紫廣田縣村部村(現・本郷)の仮宮(現・聖母宮境域)に安置される。神亀5年(728)3月、従三位太宰師(大宰府長官)に着任した大伴旅人は、広田庄惣社として3万坪の社地を廣田縣芳司村に奉納して壮殿を建立した。大伴旅人は使者として、太宰少弐という官職の石川足人(歌人)と前討伐将軍宇努首男人(この年に任を解かれ、その後上京している)を同席させ、11月19日に新宮に宇佐八幡宮の分霊を遷して祀った。この3人は万葉集の歌人としての親交があったと推察される。遷宮に際し、亡き廣田速彦麿の長男の速胤は神主として、次男の彦信は勅使役として御神体の跡詰を、三男の速具は先祓いの神として守護し奉りました。次男彦信は宮の壇を築き壇性を、三男速具は瀬渡し板橋を架け、板橋性を名乗り、氏の氏祖となった。今でも部落の「壇」「板橋」の姓は残って引き継いでいる。なお、戦国時代の天正年間に本郷城というのがあったが、城主の壇氏はその子孫であった。「廣田宮」の創建は後に出現する芳司市場の発展につながり繁栄をもたらした。 |
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鎌倉初期の建久7年(1196)頃の作成とみられる八幡宇佐宮御神領大鏡(略して「宇佐大鏡」)には「国々散在常見名田」という項目があり、宇佐神領の大半が、これにふくまれている。その中には、筑後国常見名田として、「北広田田数(州余丁勘文定)宮加地子起請定14丁5反州、加地子稲291束2把(但米丸)国半不輸」とある。広田八幡宮は、本来、常見名田北広田の地に勧請された社領鎮守社に、その起源があると考えられる。本来宇佐八幡宮領の広田庄として広大な耕作地を持った豊かな村とみる。瀬高町誌では、「後年に廣田縣は瀬高庄・樋口庄・小川庄・北広田庄(現・瀬高町松田字北広田)・南広田庄(現・山川町清水)となった」と捉えている。また大正4年発行の渡辺村男著「邪馬台国探検記」には、当宮の縁起によると、莬狭速麿は三韓の軍の勲功で広田縣270町の封戸を与えられたとして、「広田縣は後年、樋口・広田・瀬高など5庄となる、今の本郷・芳司地方を広田原と称するのは往時の広田庄たるを知るなり」と紹介している。また芳司についても、「芳司は元市街にして市を開きし地なり」として、市恵比須を紹介している。なお宇佐宮領は九州一円に120か所余り分布していた。これらの社領は南北朝期以降、武士の押領により有名無実のものとなり、太閤検地による石高制の成立によって最終的に消滅している。廣田縣については、さらなる検証を要する。 |
廣田八幡宮文書の社記編には鎌倉時代の寿永4年(1185)に、源頼朝は梶原景時に命じて廣田縣を没収し、廣田庄靏田村(現・船小屋の北、筑後市鶴田))に官府を建て、号を七庄司という。廣田・水田・御牟田・川合(現・瀬高町広瀬の北側で筑後市川犬)・樋口・竹井・瀬高(のちに瀬高、樋口を割けて小川庄を置き八庄とする)とした。しかし廣田大神の御戸代五百町余りを残すことが出来、(文永・弘安の役の恩賞によるものか検証要す?)廣田庄内の芳司・吉岡・両坂田・三長田・今寺・久良原・古賀・志村・本郷・常用・両折地となる。鎌倉時代の文永11年(1274)に蒙古が襲来し、文永の役に広田宮の広田速澄は博多に出陣している。弘安4年(1281)、二度目の蒙古襲来においても、菊池一族の第9代の菊池隆泰らと廣田宮の広田速澄・宮柱の壇速興などが博多に出陣している。南北朝時代では広田家歴代記の文書には征西大将軍懐良親王を奉じ南朝の中心として戦った菊池一族に従い活躍しており、58代の廣田速時から67代の廣田速秋に至る記録がある。天正8年(1580)3月7日、肥前の龍造寺隆信の5千余の軍に襲撃され社殿を焼かれ、廣田の兵は惨敗し社領も奪われる。しかし芳司・吉岡・本郷・今寺・久良原・古賀・折地など7村が戻り、廣田大神を崇拝できるようになった。天正15年(1587)4月に豊臣秀吉が島津征伐の為に高良山に陣を置いた時に、廣田宮の神戸代(社領)を没収され、5町余の社地のみが還付された。同年6月25日に立花宗茂(宗虎)が柳川城に入っ他時に、宗茂から3町8反余が寄付され、廣田大神の社殿も造営された。また宗茂は秀吉より従四位下に叙せられ羽柴の号を賜り、これを祝って廣田宮の広場にて流鏑馬奉納があった。文禄元年(1592)4月、宗茂の朝鮮征伐の出兵の前に「適国降伏」の祈願を行った。文禄4年(1595)に宗茂は朝鮮より無事、帰朝し祈願成就として高8石3斗5升3合の御供田が寄付、奉納された。これにより毎年、廣田宮の祭礼には立花家より騎射奉納があった。天明8年(1788)3月10日夜に盗難があり、天平勝宝2年(750)に孝謙天皇より奉納の金幣、さらに弘仁2年(811)に嵯峨天皇より奉納の御宸篳 蕃国御取の勅願などを失う。文化5年(1808)石鳥居新規建立の際、その額面に「八幡宮」と刻記され、古来より「広田宮」と称していたが「八幡宮」と改称された。昭和27年12月に宗教法人「廣田八幡宮」となる。境内には住吉宮と春日宮も祀られている。往時は旧暦11月19日の例大祭に、寒風の矢部川清流に身を潔め、天をも焦す篝火に映る的を射た流鏑馬行事は、近郷に希な一大圧巻であったが明治元年(1868)に騎廃止され、今は惜くも見られない。古くは旧暦11月19日、これを新暦に移して12月21日が本来の祭典日であった。現在は11月3日に御神幸祭 御神輿風流行列が行われている。
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【芳司・本郷のどんきゃんきゃん祭】
広田八幡宮に祀られている応仁天皇が、母親である本郷地区の聖母宮に祀られている神功皇后に会いに行く神幸行列は天正年間(1573~1592)の頃から、秋祭りにあったと伝えられており、400年以上続いている御神幸祭である。祭りは五穀豊穣を願い、本郷の聖母宮より本郷瀬戸島の松本宅の池に獅子が流され埋まっていたという由来から、ここで赤獅子青獅子の舞いの引き回しが始まり、続いて大名行列を模した、鋏箱や毛槍を持った奴、が笛、太鼓、鐘の音を響かせる一隊と、毛槍を投げ合いながら、本郷の本座・新座に寄り、その後、川端八幡宮など本郷の全部のお宮に立寄りながら地区内を賑やかに練り歩く。その後、ドンキャンキャンの行列は御迎えの神輿台を先頭に赤獅子青獅子の舞い手、鋏箱奴、毛槍奴・笛・太鼓・鐘鳴らしの一行は堤防を練り歩き矢部川の大和堰を渡り、対岸の文広の広田八幡宮にお迎えに行く。広田八幡宮境内では神幸行列の奉納が終わると、御迎えの神輿台と本郷の白衣姿になった本郷の氏子が、応仁天皇の神輿を担ぎ再び大和堰を渡り聖母宮まで行幸する。聖母宮に着くと神功皇后と応仁天皇の親子の対面の神事が行われる。帰りの神輿は芳司の氏子に担ぎ手を替え、芳司と作出の氏子行列が笛、太鼓、鐘の音を響かせ暗くなった道を提灯の灯かりで幸作橋を渡り、作出のお宮と新座で奉納したのちに芳司の広田八幡宮に還御する。この祭りは囃子の音から「ドンキャンキャン」の愛称で本郷、芳司、作出の部落を中心に盛大に行われる。
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広田八幡宮から
大和堰を渡る神輿 |
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本郷から文広の広田八幡に向かうくドンキャンキャン |

広田八幡の神輿を担出す本郷の氏子 |
広田八幡に着いたドンキャンキャン一行 |
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祭の起源は定かでないが、平安時代に元々神主が行う神事に民衆が参加するようになり、氏子が氏神を歓待する祭りが行われてきたと思われる。現在行われているような大名行列を型どった御神興行列の形態は柳川藩3代藩主立花鑑虎の時代に参勤交代が確立した寛文4年(1664)から元禄9年(1696)頃に始まったと思われる。昔は殿様も馬から降りられ行列に道を譲る。神幸を妨げるものは゛切り捨て御免゛。それだけ由緒ある祭りでした。安永2年(1773)5月に柳川藩7代藩主鑑通が八女郡黒木町の田代の八龍神社を再建して毎年風流を奉納していたが、その後毎年の参向が困難になり、「風流と大名行列」を田代の氏子に教えて奉納させた故事がある。田代町の行列は広田八幡宮のどんきゃんきゃん祭が伝承されたと思われ、服装も道具立ても殆ど酷似している。この頃には藩内の下小川の八幡宮(毎年11月第2日曜)や草場の香椎聖母宮(廃止中)などいろんな神社で風流や大名行列が奉納されていました。芳司・本郷のどんきゃんきゃん祭は昭和54年に福岡県無形文化財に指定された。 |

昭和27年撮影の幸作橋
(祭のドンキャンキャンが橋を渡る)
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昭和28年の洪水で破壊 |
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廣田 彦麿 (1830~1896) |
文政13年(1830)に広田八幡宮神官広田速見の子として生まれる。神職を継いで和漢の学や和歌をよくした。若くして国学者西原晁樹に和歌を、足達兵造にについて剣術、柔道、弓術を学び、ことに柔術は奥義を極めた。勤皇を唱えて脱藩し姓名を筑紫速雄としている。嘉永年間、京都に上り、公家、勤皇の志士と交わり、尊王攘夷を唱え王政復古の諸国の志士と交流する。特に、久留米の水天宮神官の真木和泉、また、有栖川宮熾仁親王の知遇を得て、征東総督府本営に同志を率いて参画し、江戸城進撃・東北平定祈願に呼応した。勤王運動によって幕吏に追われ、上吉田村(富士吉田市)に潜入した。同地で御師の子弟に勤王思想を鼓吹し、明治元年(1868)、戊辰戦争に際して、地元御師の有志とともに蒼龍隊を結成、隊長となり従軍した。大総督府本営警固・市中警備に当たった。以後、上野攻撃・東北鎮撫にも従うが、天皇の江戸城入城によって任務を解かれ、解散帰国を命じられた。その後、明治4年正月の参議、広沢真臣暗殺事件の嫌疑を課せられて、逃亡・投獄の人生を送った。逃亡中にかつての蒼龍隊同志であった富士山御師団の本拠山梨県上吉田村にも到り、当地で神官の傍ら、歌道指導をしている。その弟子の中から「万葉集」の抄出稿本「稚学楢栞」を編纂した山本苗子が出る。なお、彼の編纂した歌集に「慷慨詩歌集」が知られる。嫌疑で投獄されたが明治9年に無罪となっている。晩年は郷里で隠棲生活を送り、明治29年に67才で病没した。
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明治10年頃の文広村の測量地図. |
寿経寺(無量山)(廃寺) 芳司 |
文広集落のほぼ中心地点にあり、堂宇はすでに無く廃寺で民家の敷地となっている。寺跡には、石仏と寺を記念する石碑がある。石碑には延宝4年(1676)の年号がある。上町の引接寺の末寺であった。石仏には線香、花がそえられ、民家の守り仏になり厚い尊崇を受けている。 .. . |
【地名のはなし】 |
馬場先 (小字名) 芳司 |
中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。近世になり広田八幡宮の奉納行事として流鏑馬が行われていた。現在は農耕馬を養わなくなり廃止されている。 .
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屋敷・東屋敷(小字名) 芳司・吉岡 |
広田一族や吉岡一族の領域で集落のある土地です。
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天神屋敷(小字名) 芳司 |
神社に関わる者が耕作していた土地であろう。文広集落の東南部にある広い土地である。
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八子田 芳司 |
矢部川の堤防に当たる水流を対岸側に変え決壊を防ぐ為に石の固まりで羽の形をした堤防柵(バネ)があった所の水田の意です。掲載の明治12年頃の測量古地図にも記載されています。唐尾など江戸期に造られた多くバネが矢部川の河岸に見られます。 .
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八反田・七夕田(小字名) |
吉岡集落の北部にあり、この地域は条理制の実施されてないが、班田制は実施されたので、条理制名を採用したのでしょう。
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古賀(小字名) 作出 |
古代の法律語の空閑から古賀・古閑の文字が出来た説と水の流れの乏しい所をコウゲと言っていたのが転訛してコガができた説がある。文広の古賀は集落北の矢部川堤防に沿うた細長く、かって砂利の多いコウラだった荒地で開墾が遅れた地域だったと思える。
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広瀬・名鶴(小字名) 作出 |
矢部川の大水のたびに川瀬となり水に浸かる畑地です。名鶴のツルとは朝鮮から来た言語といわれ、川の淀んだ所ということです。耕地・畑を意味する説もあるが、川の淀みが付近の田畑まで拡がったものと思います。
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イヤシ(小字名) 作出 |
矢部川河岸で砂利が多く、竹林が繁茂していた不良地からでた地名だと土地の人は言っております。つまり、いやしい土地のことでしょうか。
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幸丸田(小字名) 初瀬町 |
荘園制度の下部組織をなすのが名田制度で一般農民が私有権を強化するために人名を名田に用いた名残です。
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【農業の変遷】
本郷・芳司は農業の盛んな農村で、江戸時代では着物の染料となる藍の産地として柳川藩の中で知られ、大正の初期まで栽培されていました。「瀬高の高菜漬け」は全国的に有名であるが、きっかけは明治時代では、水田より畑作が多かった関係から、アワ.ヒエのほか、野菜物を多く栽培し、生産した農作物を大牟田などの遠方まで販売にでかけていたが、売残り、捨てて帰えることもあった。 |

鬼丸寅次郎 |
明治37年、鬼丸寅次郎は30才の時に、野菜を日持ちのする漬物にして販売することを考え、作出、本郷などの農家に高菜などの漬物用野菜を推励した。そのことによって、当地域の収入も安定してきた。また、農産物推励のため、優秀な生産者に、自費で購入した、くわ、すきなどの農機具を賞品として贈り与えた。このことが、高級野菜生産地としての今日の基礎を築いたといえる。寅次郎は大正11年4月に、地方産業発展上功労多大なるをもって、瀬高町長より表彰状を授与さている。 |
「博多なす」は大正10年頃、販売用茄子苗として生産されたのが契機であった。以来路地で栽培され、昭和34年代にビニールハウスによる早熟栽培が始められ、昭和42年、鉄骨ハウスが導入され作型前進となった。昭和37年には旧組合が解消され、瀬高町農協園芸部会が設立され本格的な茄子生産販売が行われた。昭和40年代には市場開拓の為、京浜市場へ新品種の金井鈴成が出荷し成功した。その後品種黒陽に一本化され、昭和41年大型ハウスへ、昭和43年、国指定産地を受け、今日の繁栄につながる。 |
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【作出村】
作出は芳司からの開墾により芳司の相続できない次男などが移り住んだ分村とみられ、芳司の広田八幡宮のどんきゃんきゃん祭も氏子として参加している。堤防の無い時代は矢部川が蛇行し気ままに流れていた河川敷を藩政時代に開拓し北側に堤防が築かれて出来た農村です。
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北側の本郷にかけての田畑は大水のたびに被害を受けたが、上流から肥沃な土壌が流れ込み農作物にとって良い収穫をもたらしたであろう。弘化年間(1845年頃)の藩政時代に下名鶴井堰と名鶴本流が下小川村の岡田六右衛門(慶応2年(1866)没)によって設営された。この水路は作出集落を掘りひろげて吉岡に流れ、下坂田、堀池園から芳司に流れる吉岡川と合流し、新川と呼ばれる矢部川3丁目北、元町、瀬高中学南を流れて返済川と合流して市役所裏の一ッ堂水門に至る。昭和期に作出の南から吉岡八幡宮まで、水路の直進化工事がなされている。県道791号富久瀬高線は本郷の幸作橋計画の取付け道路として、また松原への高射砲陣地構築に伴う軍用道路として、太田龍一町長のもと吉岡より直線の5m道路が本郷の左岸まで、昭和19年に完成したものである。作出は本郷小学校に近いために本郷校区である。 |
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屋須多神社(三社大明神) 文広作出 |
本来の神は水の女神の罔象女神.広田八幡宮から分霊された応仁天皇(八幡神).農耕の神の素盞鳴尊の三神を祀る。新旧鳥居とも額には「三社大明神」と記されているが、神社庁には火災除けの神の屋須多神社(三社大明神)神社となっており、文広作出の氏子中は屋須多さんと呼んでいる。瀬高町上庄の祇園宮の境内にある屋須多神社の分霊を祀る。境内右側社殿横には、左から食物の神社日大明神、真中が伊勢の地主神の猿田彦大明神、右の道路側が導き(道案内)の神を奉祀する碑がある。 |
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観音堂・地蔵さん 文広作出 |
屋須多神社(三社大明神)から20m西に向うと千手観音を祀る小堂がある。お彼岸にはお参りに来るお遍路さんが訪れる。集落の北側にあう地蔵さんのまつりも、ここで3月9日と8月25日に行われる。
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庚申さん 文広作出 |
旧暦では60日に1度、庚申の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごした。米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもあった。江戸時代農村などで大流行した信仰である。
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【吉岡村】
芳司の廣田一族により開墾されたとみられる。廣田八幡宮の文書に「天正2年(1574)吉岡を開き、ここに新城を建てる。この岡に古墓多し、老翁は語る、この開き岡は神代の山陵なりと、鴨草葦不合十代天皇の時代、御心廣田別命之皇后・豊年之千足姫命の山陵なりと・・・」と記載あるが山陵の人物については検証を要する。中世の豪族吉岡氏の館のあったところで、小規模な城を拠点とし、城主と農民の生活を守る防衛的集落であった。城主は武士であるが、農民、地主であり、農民の指導者であった。館を中心として一族郎党の農民が集落を形成し、城主を中心として村落共同体を営んでいたのである。あくまでも農業経営が本体で、敵の攻撃を受ければ立って防ぎまた戦を挑むのである。天正年間(1573~92)の頃の城主は吉岡加賀守で、天正12年(1584)に肥前(佐賀)の龍造寺が攻めて来た時、山下城の蒲池と一緒に戦っている。この地に吉岡の性が多いのは、その一族である。その当時、大友、竜造寺、高橋、戸次氏などの間に攻防が繰り返されていたにで、この館の幾度か兵火をうけたであろう。 |
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立花藩の前の領主田中吉政公の時代、吉岡城主の不破伝衛門は、豪勇の反面慈悲深く、たとえ罪人でも、頼って逃げ込んだ者はその罪をとがめず、又捕えさせなかった。吉岡城跡は、現吉岡集落の中心地域で名鶴水路の吉岡橋(安達宅)の北西部の通称「ヤブノウチ」と言われる地帯で、最近まで竹薮に覆われていた。館の周囲は防御用の堀を巡らしていたが、水田、宅地に変じている。城跡には吉岡家の生目八幡さんがあり、その付近には城の築造に使用したと思われる巨石が放置されている。また三天神を祭ってあった小堂の跡がある。吉岡加賀守の子孫吉岡家の住家も新築され、この地にある。江戸時代では立花藩お抱えの目のお医者さんであった吉岡氏の屋敷があった。その祖先をもつ吉岡宅の裏の畑に目の病気に御利益があると伝えられる生目八幡を祀ってある。祭神像の両胸には吉岡家の家紋がある。吉岡家は代々、目医者の家系であるので屋敷内に先祖の供養と共に祀ったであろう。吉岡城跡の西方に「アン」という地域があるが、ここは長宝寺の所在した地域といわれている。今は民家の宅地となっている。庭先には吉岡家を記念する自然石の大きな板碑が、文字を刻みかけたまま放置されているが何か突発的な事変でも起きたであろうか。 |
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吉岡城址 |
堀 |
城の築造に使用したと思われる石 |
生目八幡さん |
吉岡八幡宮 吉岡 |
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昔から、祭りが芳司・本郷祭りと同時に行われており、広田八幡の分神として祀られてきた。芳司の廣田一族による開墾により吉岡八幡宮が鎮座された。鳥居の年代は明和7年(1770)で、当時立花藩の藩医であった吉岡久遷の名と氏子中の字が見える。拝殿の右に天神さま、左側が屋須多さまは東京在住の不破氏名義の土地にあったものを遷宮してを祀ってある。不破氏の先祖は立花藩の前の領主、田中吉政公の時代、ここ吉岡城(城といっても砦)主の不破伝衛門は、豪男の反面慈悲深く、罪人といえど頼って逃げ込んだ者は罪をとがめず、捕らえさせなかったという。世人この砦の内を「藪の内」といい、現在でも古老は「やぶのうち」とよんでいる。 |
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子持ち地蔵堂 吉岡東屋敷(中道南橋そば) |
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吉岡の石鶴水路から吉岡川に分流した川の橋のたもとに地蔵堂がある。創建は不詳だが、この地は昔、竹薮に覆われ幽霊が現れ皆に怖がれていた。その幽霊を供養するために地蔵堂を建てたと言い継がれている。現在は本郷方面に行き交う道で民家が建ち並び往古の面影はありません。お盆すぎの8月24日には男子小学生が地蔵祭りを行ない、お参りする人に地蔵豆を差し上げ、集まったさい銭を皆で山分けしています。 |
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【初瀬町】
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右画面はレンガ工場の跡に出来た老人ホーム(工場当時の煙筒が残されている) |
大塚や東原の小字名がある場所で通行には寂しい、畑や田んぼでした。古代遺跡や古墳が点在しており、集落の北側の水田の中に高さ3m、周囲40m位の円墳があり墳上に地蔵尊が祀ってあった。古墳がある事から大塚の地名が付けられたのでしょう。地蔵堂の周囲に石を積み重ねてあったが、その中から蛇紋石の石斧、くぼみ石、石包丁の破片が見つかつている。周囲の水田からも弥生式高杯、器台、合わせがめ棺、磨製の石剣などが出土していることから上坂田と同じく古代には人が住んでいたでしょう。現在、遺跡は農地整備で破壊され田んぼに、なっている。明治10年頃の測量地図では畑と田んぼであるが、明治24年に鉄道が敷設た頃には駅から坂田村に通じる道が建設され鉄道と交差する踏切りがあり、ここらの集落を「踏切り」と呼ばれていた。踏切りの東北側の坂田宅の前には大正14年8月に建てられた「坂田末松開村記念」の碑文によると「折も吾部落82の離れ地にて、通行淋しき地であった。明治30年の秋に坂田末松氏は、ここに家を構え、居住し嚆矢をなす(生活を始めるの意)。その後益々繁盛し今日に及び、後世の為に記念碑を建設する。」とあり、この地に人家が出来て居住した始まりとみられる。この地は矢部川からの地下水に恵まれ、たった3m地下から水質の良い水を汲みだす事が出来、さらに高級米が収穫出来る。大正12年に吉岡~坂田~下長田に旧県道(現・市道)が整備される。昭和になり、この地の土を利用して、レンガや瓦工場が出来て人口も増え、初瀬町の起名となったであろう。昭和12年(1937)に坂田煉瓦工場が創業する。この頃、畑地に煉瓦工場6軒瓦工場1軒があり民家も増え、「踏切り」から「初瀬町」の町名が誕生したと思われる。平成27年で134所帯が住んでいる。
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王塚古墳
高さ3m、周囲40m位の円墳 |
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開村記念碑 |

裏面・説明文
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参考文献 遷座1250年記念・廣田八幡宮文書(白川晃(元・北九州高専教授)編纂) 族日本記(上の147~151)
太宰管内志(中巻)・瀬高町の地名の話(鶴記一郎)転写承諾済・ 瀬高町誌・ 下庄小学校百周年記念誌
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