庄福BICサイト H20・12・7製作開始 H20・12・17更新
篤姫の江戸参府をどうぞ
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近世肥後国の主要道路は熊本城下の新町一丁目御門前、札の辻を起点とする「豊前街道」・「薩摩街道」・「豊後街道」「日向街道」の四街道で、天正16年(1588)に隈本に入城した加藤清正によって整備されたといわれている。このうち豊前・薩摩街道は小倉〜鹿児島を結ぶ同一ルートであり熊本城下より北上し、植木、山鹿、瀬高から山家宿(やまえしゅく)(筑紫野市)を経て豊前・小倉(北九州市)に至る道を「豊前街道」と、南下して鹿児島までを「薩摩街道」と肥後地域では呼びました。しかし、柳川藩では鹿児島〜山家宿の間を「薩摩街道」と呼び、久留米藩では鹿児島の坊の津港に通ずることから「坊津(ぼうのつ)街道」と呼ばれ時代と地域によって呼び方はいろいろあったようである。 熊本藩主細川氏は豊後街道(阿蘇〜大分経由)を通ることが通例であったが元禄年間からは豊前街道も利用している。元禄元年(1688)から文久3年(1863)までの参勤交代では豊前街道は参勤47回、帰国14回、豊後街道は参勤27回、帰国63回が利用されている。このように豊前街道は参勤に多く用いられ、帰国には圧倒的に豊後街道が用いられたことがわかります。参勤や下国の人数は、多い時2700人余、少ない時700人弱であった。細川氏のほかに宇土支藩の細川氏、八代の松井氏、薩摩の島津氏。人吉の相良氏などもこの街道を往来し山鹿〜南関〜瀬高などの藩営の「御茶屋」が昼食や宿泊に利用されている。 . |
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【熊本城】 | |||||||||||
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本丸御殿は西南戦争直前に天守閣とともに焼失した。平成8年に復元公開された本丸御殿は、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所などがあり、障壁画のある「昭君之間、若松之間」、巨大な小屋組みを見ることができる「大御台所」など目を見張るものがある。 | |||||||||||
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【熊本市内】 | |||||||||||
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御馬下の角小屋(みまげのかどごや) 熊本市四方寄町 | |||||||||||
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【植木町・味取新町】 鹿本郡植木町 | |||||||||||
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【鹿央町】 現在・山鹿市鹿央町 | |||||||||||
乙貝橋@の先には昔、旅人が難所の乙貝坂を前に水を飲んで休んだ「水飲み場」があります。急勾配の「乙貝坂」Aを登りつめると鹿央の台地に出る。街道を進むと「広町」Bの標木に迎えられる。広町には造り酒屋・紺屋、油屋などの沢山の店があり賑わっていたという。今は酒販売店が1軒だけです。 | |||||||||||
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【山鹿(やまが) 】 熊本県山鹿市 | |||||||||||
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豊前街道の菊池川を渡った山鹿の玄関口には「惣門」@の番所あり、治安維持のため、夜間は通行が禁止されていました。この道を進んでいくと下町、中町、九日町、上町へと旧街道筋が続く宿場町で温泉の町としても栄えました。下町Aは菊池川の水運による米の集散地として発展し、酒造場や米麹屋、米蔵などが多くありました。 寛永17年(1640)に初代熊本藩主細川忠利公が「御前の湯」をしつらえた豪華な「御茶屋」を御造営され、同年、宮本武蔵をお招きになっている。当時は藩公入浴の「御前の湯」士分の身分用の「御次の湯」、また外には一般民の入る「平湯」がありました。明治3年の改築で、竜の湯(御前の湯)・御次の湯を引いて松の湯、紅葉湯、桜湯など町民のための温泉が造られました。中町の「さくら湯」Bは山鹿の元湯といわれる歴史ある温泉で唐破風の玄関が当時の面影をとどめいています。さくら湯B前には宮本武蔵もくつろいだといわれ、「武蔵像」が展示されています。この先の国道交差点の湯の端公園には観光客用の「あし湯」があります。 日本三大夏祭りの「山鹿灯篭祭り」Cは、毎年8月15日と16日に、 浴衣姿の女性が和紙で出来た金灯篭(中に火が灯っている)を頭にのせて「よへほ節」を踊る、とても優雅で幻想的な祭りです。九日町の「山鹿灯篭民芸館」Cは、大正14年(1925)に建てられた銀行の内部を改造して山鹿灯篭を展示されました。山鹿灯篭は、古く、室町時代を端に発するもので、金灯篭や神社仏閣Eなどを、和紙とのりだけで作り上げる伝統的な工芸品です。大宮神社に献上され1年間灯籠殿に奉納されています。 隣の「金剛乗寺」Dは奈良時代から続く古寺で山鹿を代表する名寺です。異国を思わせるようなデザインの「石門」Gは、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、凝灰岩の切石を使った円形の門です
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【三加和町】 現在・和水(なごみ)町 | |||||||||||
山鹿口@から旧三加和町方面に進むとやがて「七里木」Aがある。畑や杉林の中を通り、国道443号線を横切るとバス停梅迫入口より梅迫への荷車が戻るほど急な坂道「車返りの坂」Bであった(現在は改良され急でない)。さらに杉林を通り永野原台地進むと山鹿郡と玉名郡との「郡境碑」Cがあり「従是西北玉名郡」と刻まれた、高さ153cm・幅32cmの石碑がある。 | |||||||||||
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下岩の集落の中心にある「光行寺」@は参勤交代の際のお茶処で、門の軒瓦に細川家の九曜紋が残っています。本堂には肥後藩初代細川忠利(ただとし)、二代の光尚(みつなお)親子の大きな位牌が安置されています。西南戦争のときは一時、官軍の本営が設けられました。寺の隣には「下岩官軍墓地」Aがあります。やがて八里木の標木があり「肘曲がり」Bの急坂です。小型車で脱輪しないかと、冷汗をかきながら無理に倒木が横たわる道を心細い思いで街道の山道を降りると窪園(くぼその)の集落です。 | |||||||||||
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窪園(くぼその)@の集落には数軒の旅人宿があったといわれ、平成2年を最後にすべて姿を消した。残った一軒は西南戦争時に「繃帯所(ほうたいじょ)」とされ、戦傷者の手当てを行ったところから、「赤十字社発祥の地」のひとつといえます。窪園の先の平野橋の上流側(下流は近くで菊池川に合流)にはきれいな「眼鏡橋」Aが架かっていたそうだ。玉名郡村誌に「眼鏡橋 小倉街道ニ属ス、本村ヨリ六町三十八間、架シテ平野川ノ下流ニアリ、水深一間、広さ十六間、橋長十六間、巾一間四尺、石造」とある。昭和57年7月24日の洪水で決壊流失しまったそうです。 | |||||||||||
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【肥猪町(こえいまち)】 熊本県玉名郡南関 | |||||||||||
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「九里木」@を過ぎた、江戸時代の肥猪町(こえいまち)は、山鹿と南関の中間に位置し、半宿(間(かん)の宿)と呼ばれていました。「肥後国誌」に、肥猪町の南の溝口より北の溝口までの長さは二町二十七間、カマド(家)数は四十軒ほどで、二枚掛けの御高札場があったと書かれています。一直線の町筋の両側にはテン屋、くり屋、木賃宿、麹屋、鬢付屋(びんつけや)、造酒屋などが軒を連ね、行き交う旅人で大いに賑わっていました。また、参勤交代の際の御小休処(おんこやすみどころ=休息所)として利用された跡(瀬口家)もあり、御茶屋Aと呼ばれました。細川の殿様にはお茶を、若殿様にはソバをご馳走したと伝えられている。明治8年には郵便局Bがあり賑やかなまちであったが、現在はひっそりとした雰囲気に変っている。西南戦争の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬の官軍墓地Cや村の氏神さまの熊野宮Dを通りすぎると国道443号線に合流する。 | |||||||||||
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【南関(なんかん)】 熊本県玉名郡南関 | |||||||||||
しばらく国道443号線に沿って、旧道を探しながら進み、高速道路のガード下をくぐると、ふたたび旧道に入る。この先「右たかせ道、左やまが道」の「追分石」@がある。これから山を下り抜け、県道5号線を交差して関川に架かる南関橋を渡ると南関の関町の目抜き通りです。近くには400円で温泉に入れる公共温泉施設「南の関うから館」がある。温泉で旅の疲れを取り、食堂で満足できる食事はいかが!さらに近所の橋本製菓の工場・売店で、お土産に昔なっかしい黒棒を格安で買いこむのも好し。さて再び豊前街道散策開始、南関橋を渡り目抜き通り正面の「正勝寺」Aは、室町時代の創立(1506年)で由緒あるお寺です。明治10年西南戦争の際、征討総督有栖川宮殿下が大本営を置かれた場所としても有名です。南関役場前から人馬の突進を防ぐための「枡形」を曲ると左手の石段の上には「南関御茶屋」Bがあります。北の丘は戦国時代に加藤清正が造った鷹ノ原城跡で築城にともない城下町が形成され関町ができたとされている。 | |||||||||||
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熊本県地域振興局資料・「豊前街道散策ガイド」案内地図・資料.熊本城総合事務所資料・植木町観光課資料・ 山鹿市観光振興課資料・和水町教育委員会資料・植木町教育委員会資料・まちのあゆみふるさと南関・各地の旧豊前街道案内板 ご協力有り難うございました。 . 続き 薩摩街道をゆく みやま市編 を御覧下さい。 ![]() |