庄福BICサイト H20・12・7製作開始  H20・12・17更新 篤姫の江戸参府をどうぞ         

 近世肥後国の主要道路は熊本城下の新町一丁目御門前、札の辻を起点とする「豊前街道」・「薩摩街道」・「豊後街道」「日向街道」の四街道で、天正16年(1588)に隈本に入城した加藤清正によって整備されたといわれている。このうち豊前・薩摩街道は小倉鹿児島を結ぶ同一ルートであり熊本城下より北上し、植木山鹿瀬高から山家宿(やまえしゅく)(筑紫野市)を経て豊前・小倉(北九州市)に至る道を「豊前街道」と、南下して鹿児島までを「薩摩街道」と肥後地域では呼びました。しかし、柳川藩では鹿児島山家宿の間を「薩摩街道」と呼び、久留米藩では鹿児島の坊の津港に通ずることから「坊津(ぼうのつ)街道」と呼ばれ時代と地域によって呼び方はいろいろあったようである。
 熊本藩主細川氏豊後街道阿蘇大分経由)を通ることが通例であったが元禄年間からは豊前街道も利用している。元禄元年(1688)から文久3年(1863)までの参勤交代では豊前街道は参勤47回、帰国14回、豊後街道は参勤27回、帰国63回が利用されている。このように豊前街道は参勤に多く用いられ、帰国には圧倒的に豊後街道が用いられたことがわかります。参勤や下国の人数は、多い時2700人余、少ない時700人弱であった。細川氏のほかに宇土支藩細川氏八代松井氏薩摩島津氏人吉相良氏などもこの街道を往来し山鹿南関瀬高などの藩営の「御茶屋」が昼食や宿泊に利用されている。
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   【熊本城】
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれました。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれています。
城郭は周囲9Km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3・櫓49・櫓門18・城門29を持つ豪壮雄大な構えです。なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名です。また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみられます。この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)熊本市によって再建されたものです
 本丸御殿は西南戦争直前に天守閣とともに焼失した。平成8年に復元公開された本丸御殿は、藩主の居間、対面所(接客の場)や台所などがあり、障壁画のある「昭君之間、若松之間」、巨大な小屋組みを見ることができる「大御台所」など目を見張るものがある。

大広間
 復元された中で最大の部屋である「鶴之間」(60畳)から奥に向かって「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続きます。それれの部屋境は襖で仕切られ、左手には縁側が配置されています。  「大御台所」は2つの大きな囲炉裏(いろり)があり、土間には竃(かまど)などもありました。囲炉裏の復元には直下から発掘された石を一部使用している。
火をおこす部屋であるため、小屋裏は煙出しのある吹抜けとなっており、巨大な丸太を使った小屋組みを見れる。

昭君之間

本丸御殿の中でも一番格式の高い部屋で、藩主の居間であり、対面所(接客の場)としても使用されたと考えられています。室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれています。
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   【熊本市内】
熊本城の「里程元標跡・札の辻新町一丁目 @から百間石垣を見上げながら新堀橋を渡ると京町で国道303号と合流、国道と街道は重なっています。熊本城下から外に出るので出町と呼ばれた。「出町恵比須・観音堂」Aを過ぎると、「山伏塚(やんぼしづか)」Bです。城完成の祈祷祭で招かれた山伏が、熊本をさるに当って、城の秘密を守るためにここで切られた塚とある。一里木跡付近Cの防衛の為の凹状の切り通し道路を通ると国道3号線に重なります。それに沿って少し行くと右手に殿様の休憩所である「御馬下の角小屋(みまげのかどごや)」Dがあります。
      
 
@里程元標跡(札の辻)
  新町一丁目
 

B山伏塚


A出町恵比須・観音堂

 C里数木付近 

     
     

   御馬下の角小屋(みまげのかどごや)   熊本市四方寄町

  D御馬下の角小屋

御馬下の角小屋の記録
白壁町屋造り二階建ての「御馬下の角小屋」は豊前街道を往来する島津細川などの大名が休憩所として使用したお茶屋で、庄屋であり質屋・酒屋を営んだ、元堀内家の住宅であった。嘉永6年(1853)8月29日篤姫江戸へのお輿入れの行列は豊前街道を北北東へと駕籠を進められ、庄屋屋敷堀内家の「御馬下の角小屋」でご休憩されている。堀内家所蔵文書群「記録控」の資料には「 一、薩州様御息女様 御茶菓ならびに柿・西瓜御献上申上候付、金子弐百疋拝領させられ有難く頂戴仕り候。(1両=百疋=約2万円相当) 」とある。この建物は今は資料館となっています。
                        リンク 篤姫の江戸参府
    【植木町・味取新町】   鹿本郡植木町
豊前街道は国道3号線に重なって、鹿子木町(かのこぎまち・熊本市味取新町(植木町)へ向かう。明徳からは斜め右に入って細い旧道となります。ここ一帯から田原坂玉名にかけては明治初期の「西南戦争」の折、薩摩軍と官軍が激突し、戦場と化した所です。明徳官軍墓地〜植木自動車学校〜植木天満宮@の裏側を通り、植木郵便局手前の交差点付近Aは元禄年間味取町から分かれ宿場町として栄えた味取新町です。ここから西方面に延びる「三池街道(高瀬街道)」は、田原坂高瀬(玉名市)三池(大牟田市)に連なります。豊前街道は先の植木町役場前の信号でふたたび国道3号線に重なり、植木町味取の信号手前の保立坂(通称ホタル坂)Bからは細い旧道となり、下ると味取町Cです。門前町・宿町として栄え、参勤交代の際の茶屋が豪商松屋(堀家)に置かれていた。盛時には約150戸の民家を数え、西松屋富七屋砥石屋といった商家が軒を並べていた。国道沿いの味取観音(瑞泉寺)Eは大正時代の放浪の詩人種田山頭火ゆかりの寺である。

 @ 植木天満宮

 A三池街道との分伎点

 B保立坂

       C味取町

D味取観音・山頭火像

  E味取観音堂 

 F平尾山の道標(明治17年建)
 
山本小学校付近
  味取観音堂(瑞泉寺・江戸中期創建
味取観音堂大正13年種田山頭火が出家して禅僧となり翌年、堂主として、読経と句作の独居を1年2ケ月間、過し朝夕の鐘をつき、近在の村を托鉢して歩きました。 山頭火の「松はみな枝垂れて南無観世音は当時の作である。参道入口には山頭火の像と句碑Dが建てられている。山頭火はその後も世間から脱し、自由を愛し、酒を愛し、行脚の旅を続けながら「分け入っても 分け入っても 青い山」 「ころり寝ころべば青空」 「さて、どちらへ行かう 風が吹く」 「まっすぐな道で さみしい」 「ここで泊ろう つくつくぼうし」など自然と溶け込み自由気ままな俳句を作り続けました。昭和15年(1940)10月10日に、四国松山の御幸寺境内の納屋を改造し住み始めた「一草庵」にて句会を行い、その翌朝に脳溢血で死亡。享年58歳、妻子を捨て,世間を捨て,行乞の人生を送り,生涯約八万四千句を詠みました。

種田山頭火
味取町から平尾山の道標Fの先の街道は細く車は通れないので、県道3号線(佐世保往還)を進み、県道沿いにある内村西円寺付近に向かう。県道から細い旧道の豊前街道を入ると北井川の湧水、崖をくり抜いて「放牧地蔵」@がまつられています。放牛という僧が作った石仏でお手討にされた父を弔うために仏門に入り、石仏を建てたものです。肥後山本郵便局の裏手にあるビニールハウス群の高速道脇道には「四里木跡」Aの標木が立っている。山本小学校から右折し、九州自動車道路の陸橋を渡るとスイカを栽培しているビニールハウス群Bです。途中に、一本榎の標木ささ塚佐々宗能の墓碑)があります。広大なハウス群を通過して三十六公民館の先にある茶屋跡からは下り坂Cで県道119号線の植木町鹿央町との境道路標識Dに交差します。横断して田んぼ道を進むと「乙貝橋(おとがいはし)」の標木に出逢う。
@放牧地蔵

A四里木跡

 B国衆一揆の戦跡

  C三十六付近
 D県道横断点(植木町・鹿央町境)

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   【鹿央町】  現在・山鹿市鹿央町
乙貝橋@の先には昔、旅人が難所の乙貝坂を前に水を飲んで休んだ「水飲み場」があります。急勾配の「乙貝坂」Aを登りつめると鹿央の台地に出る。街道を進むと「広町」Bの標木に迎えられる。広町には造り酒屋紺屋油屋などの沢山の店があり賑わっていたという。今は酒販売店が1軒だけです。
街道沿の観音堂Cを左折して入り込むと、参勤途上の細川藩はじめ薩摩の島津藩の歴代の殿様が休息した「善行寺(ぜんぎょうじ)」Dです。善行寺は参勤交代の時の大名の休息所となったところで、細川氏島津氏相良氏が立ち寄っています。座敷や庭などに当時の面影があり、特に玄関の欄間(らんま)には細川家の「九曜紋(くようもん)」Eが彫り抜いてあります。玄関の前には、和田次郎正善元和元年(1615)にお寺を創建した時に植えたと伝えられるイヌマキの木が立っています。寺から街道に戻り、この先の平坦な舗装拡張された道を進むと五里木跡があり、旧・鹿央町役場(山鹿市支所)Fの横を通ります。旧役場を過ぎて「比丘尼坂(びくにさか)」から「浦山坂」の雑木林を過ぎると岩原古墳が見え、横には「県立装飾古墳館」があります。この先は山鹿となります。

     @乙貝橋  

水飲み場

 A乙貝坂

 B広町

C観音堂・善行寺入口

 D善行寺
     

D善行寺


善行寺玄関の欄間の九曜紋
 

E広町商店街跡 

F山鹿市鹿央町支所

善行寺の記録
善行寺(ぜんぎょうじ)には、その折々の詳細な記録が残されている。太守様(細川様)、人吉相良様、筑前家老黒田山城殿など詳しい記録がビッシリあるが、天障院篤姫様の江戸へのお輿入れの行列の記録もあり、嘉永6年(1853)8月29日午後に休憩をされている。内容は「薩州御息女様(篤姫)御登につき御這入遊ばされ、御宿礼として金子(きんす)百疋ならびに追って態々五拾疋頂戴仕り候事」とあり薩摩藩のご息女篤姫様が、江戸城へお輿入れ(嫁入り)のため、お立ち寄りになった折り、その御礼として金百疋(ひやくひき・2万円相当)、さらに追加して金五十疋(1万円相当)をいただきましたと記されています。(写真は善行寺の篤姫様がお越しになった記録)女中27人を伴った篤姫様の一行は山鹿の「御茶屋」の宿に向かったと思われる。

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     【山鹿(やまが) 】   熊本県山鹿市

鶴田一郎・画(山鹿灯籠民芸館展示)
豊前街道の菊池川を渡った山鹿の玄関口には「惣門」@の番所あり、治安維持のため、夜間は通行が禁止されていました。この道を進んでいくと下町中町九日町上町へと旧街道筋が続く宿場町で温泉の町としても栄えました。下町Aは菊池川の水運による米の集散地として発展し、酒造場や米麹屋、米蔵などが多くありました。
寛永17年(1640)に初代熊本藩主細川忠利公が「御前の湯」をしつらえた豪華な「御茶屋」を御造営され、同年、宮本武蔵をお招きになっている。当時は藩公入浴の「御前の湯」士分の身分用の「御次の湯」、また外には一般民の入る「平湯」がありました。明治3年の改築で、竜の湯(御前の湯)・御次の湯を引いて松の湯、紅葉湯、桜湯など町民のための温泉が造られました。中町の「さくら湯」Bは山鹿の元湯といわれる歴史ある温泉で唐破風の玄関が当時の面影をとどめいています。さくら湯B前には宮本武蔵もくつろいだといわれ、「武蔵像」が展示されています。この先の国道交差点の湯の端公園には観光客用の「あし湯」があります。
日本三大夏祭りの「山鹿灯篭祭り」Cは、毎年8月15日と16日に、 浴衣姿の女性が和紙で出来た金灯篭(中に火が灯っている)を頭にのせて「よへほ節」を踊る、とても優雅で幻想的な祭りです。九日町の「山鹿灯篭民芸館」Cは、大正14年(1925)に建てられた銀行の内部を改造して山鹿灯篭を展示されました。山鹿灯篭は、古く、室町時代を端に発するもので、金灯篭や神社仏閣Eなどを、和紙とのりだけで作り上げる伝統的な工芸品です。大宮神社に献上され1年間灯籠殿に奉納されています。
隣の「金剛乗寺」Dは奈良時代から続く古寺で山鹿を代表する名寺です。異国を思わせるようなデザインの「石門」Gは、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、凝灰岩の切石を使った円形の門です

@惣門の番所

A下町


Bさくら湯


C山鹿灯篭祭り

 D山鹿灯篭民芸館

E民芸館内

F金剛乗寺


G石門

八千代座」Hは江戸時代の建築様式を受け継いだ芝居小屋で、明治43年に山鹿の実業家たちの手によってつくられ、各地より多くの有名な芸能人たちが来演し、大正・昭和にかけて観客を楽しませてくれました。一時廃屋同然となってしまいますが、八千代座での数多くの思い出をもつお年寄りたちが中心になって復興運動を復元・改修されました。当時を想わせる桟敷天井のシャンデリアと広告Iは見事です。平成13年の大修復を経て、坂東玉三郎さんらの歌舞伎や舞踊公演が行われ人気を集めています。上町には間口が狭く奥行きが長い典型的な宿場町の地割りを残した連続した屋根の家並みJが残されている。旧鹿瀬畳店は江戸末期の建物で山鹿の建築様式を残している。街道は国道3号線の交差点に出て、443号線を少し進み、鍋田古墳を右に曲り山鹿市立博物館のある山鹿口に進む。

H八千代座

I芝居小屋舞台
J外灯
K上町
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       【三加和町】     現在・和水(なごみ)町
山鹿口@から旧三加和町方面に進むとやがて「七里木」Aがある。畑や杉林の中を通り、国道443号線を横切るとバス停梅迫入口より梅迫への荷車が戻るほど急な坂道「車返りの坂」Bであった(現在は改良され急でない)。さらに杉林を通り永野原台地進むと山鹿郡玉名郡との「郡境碑」Cがあり「従是西北玉名郡」と刻まれた、高さ153cm・幅32cmの石碑がある。

@山鹿口

A七里木跡

B車返りの坂(梅迫入口)

C郡境碑

 永ノ原(なかのはる)の平坦な1.5kmの豊前街道@には現在も17〜8本の樹齢250年を数えるハゼの老木(上写真)が点在しています。18世紀半ば頃に細川藩がロウの生産増強の為にハゼの木を植えたものです。ハゼの木々が密生していた頃は、夏には、茂った葉が一時の涼しさを旅人に与え、秋には真っ赤なハゼのトンネルとなり、ハゼの実をたわわに実らせていたでしょう。
また山鹿口から永ノ原付近は「田原坂の戦い」と同じく、明治10年3月の西南戦争時、薩摩軍と政府軍が死力を尽くした激戦地「山鹿口の戦い」でした。多くの官軍墓地があるなか、腹切坂の手前には唯一、戦死した薩摩軍兵士を森の周辺に埋葬した場所Aがあります。永ノ原台地から寺の本へは参勤交代の道中でも、屈指の難所「腹切坂」Bで、200mの急勾配の下り坂です。名前の由来には広い台地(原)の端(切り)にあたることからついたという説と、昔、武士が仇(かたき)とねらう若い武士から逃げまわったが、しょせん逃げられぬ運命と悟って、この坂の途中で切腹して果てたなどの諸説があります。街道の風情を最も残したこの場所は軽石混じりの凝灰岩(ぎょうかいがん)のために、水に弱く傷みが激しいために、平成12年から国庫補助により保存・整備をされ、遊歩道になっている。車は迂回して、腹切坂の上り口の寺の本に山を下り、さらに下岩の光行寺に向かう。

@永野原台地

A薩摩軍の墓

B腹切坂(永ノ原台地から)

B腹切坂(寺の本まで)
 下岩の集落の中心にある「光行寺」@は参勤交代の際のお茶処で、門の軒瓦に細川家の九曜紋が残っています。本堂には肥後藩初代細川忠利(ただとし)、二代の光尚(みつなお)親子の大きな位牌が安置されています。西南戦争のときは一時、官軍の本営が設けられました。寺の隣には「下岩官軍墓地」Aがあります。やがて八里木の標木があり「肘曲がり」Bの急坂です。小型車で脱輪しないかと、冷汗をかきながら無理に倒木が横たわる道を心細い思いで街道の山道を降りると窪園(くぼその)の集落です。

@光行寺

A下岩官軍墓地

B肘曲がり

C昔の面影が残る街道
窪園(くぼその)@の集落には数軒の旅人宿があったといわれ、平成2年を最後にすべて姿を消した。残った一軒は西南戦争時に「繃帯所(ほうたいじょ)」とされ、戦傷者の手当てを行ったところから、「赤十字社発祥の地」のひとつといえます。窪園の先の平野橋の上流側(下流は近くで菊池川に合流)にはきれいな「眼鏡橋」Aが架かっていたそうだ。玉名郡村誌に「眼鏡橋 小倉街道ニ属ス、本村ヨリ六町三十八間、架シテ平野川ノ下流ニアリ、水深一間、広さ十六間、橋長十六間、巾一間四尺、石造」とある。昭和57年7月24日の洪水で決壊流失しまったそうです。
橋を渡って右に折れると、街道は「白坂」Bの山道となる。昔のままに近い景観を保っている。ここは天正15年(1587)4月秀吉が九州統一して大阪城の戻って間もない、同年8月の肥後での国衆一揆の際、山鹿の城村城(じょうむらじょう)を攻撃中の佐々軍に食料補給に行った柳川立花軍の帰路を、和仁(わに)辺春(へばる)大津山勢に襲撃された場所です。白坂を上りつめて坂を下ると県道を横断した所に「茶屋」Cがあったそうだ。手前の小川に架かる橋のすぐ下流は小さな滝になっており、「(めくら)落とし」Dと呼ばれ、危険であったと伝えられている。茶屋跡から急な坂を上りきり、遠く阿蘇を望むこの地は、「六本松」Eと1軒の茶屋がありました。今は松は枯れ、代わりに六本のクスが繁っているが、今も六本松と呼ばれている。
      

@窪園・旅人宿跡

A平野の眼鏡橋跡

      

B白坂

C茶屋跡

D盲落し

E六本松

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    【肥猪町(こえいまち)     熊本県玉名郡南関

@九里木跡

B郵便局跡


九里木」@を過ぎた、江戸時代の肥猪町(こえいまち)は、山鹿南関の中間に位置し、半宿(間(かん)の宿)と呼ばれていました。「肥後国誌」に、肥猪町の南の溝口より北の溝口までの長さは二町二十七間、カマド(家)数は四十軒ほどで、二枚掛けの御高札場があったと書かれています。一直線の町筋の両側にはテン屋くり屋木賃宿麹屋鬢付屋(びんつけや)造酒屋などが軒を連ね、行き交う旅人で大いに賑わっていました。また、参勤交代の際の御小休処(おんこやすみどころ=休息所)として利用された跡(瀬口家)もあり、御茶屋Aと呼ばれました。細川の殿様にはお茶を、若殿様にはソバをご馳走したと伝えられている。明治8年には郵便局Bがあり賑やかなまちであったが、現在はひっそりとした雰囲気に変っている。西南戦争の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬の官軍墓地Cや村の氏神さまの熊野宮Dを通りすぎると国道443号線に合流する。

A御茶屋跡

C官軍墓地

D熊野宮

E国道443号線へ

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    【南関(なんかん)     熊本県玉名郡南関
しばらく国道443号線に沿って、旧道を探しながら進み、高速道路のガード下をくぐると、ふたたび旧道に入る。この先「右たかせ道、左やまが道」の「追分石」@がある。これから山を下り抜け、県道5号線を交差して関川に架かる南関橋を渡ると南関の関町の目抜き通りです。近くには400円で温泉に入れる公共温泉施設「南の関うから館」がある。温泉で旅の疲れを取り、食堂で満足できる食事はいかが!さらに近所の橋本製菓の工場・売店で、お土産に昔なっかしい黒棒を格安で買いこむのも好し。さて再び豊前街道散策開始、南関橋を渡り目抜き通り正面の「正勝寺」Aは、室町時代の創立(1506年)で由緒あるお寺です。明治10年西南戦争の際、征討総督有栖川宮殿下が大本営を置かれた場所としても有名です。南関役場前から人馬の突進を防ぐための「枡形」を曲ると左手の石段の上には「南関御茶屋」Bがあります。北の丘は戦国時代に加藤清正が造った鷹ノ原城跡で築城にともない城下町が形成され関町ができたとされている。

@追分石

A正勝寺

B南関御茶屋
南関御茶屋(御客屋)は、嘉永3年(1850)8月に起工して、嘉永5年(1852)正月頃に完成したもので、藩主が参勤交代する時や領内巡視の際に休憩、宿泊していたものです。古文書によると、それまでの御客屋(南関町公民館付近)が古く狭い上に間取りが悪く、藩主休泊の時に混雑するという理由で現在の地に建て替えが行われました。財源の一部には富講の売上金が充てられました。
建物は、南北に長い造りで、北から御居間御次の間三の間と配されており、屋根には細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれております。居間の正面から南関冨士とも言われる大間山が見えます。通常御茶屋と御客屋は別々に存在しておりますが、南関の場合はひとつの建物を御茶屋とも御客屋とも呼んでいたようです。
南関御茶屋の室内
             

C番所跡


Dふるさと関所まつり

Eいきいき村
関町の通りの北はずれには南関番所跡Cがあり、筑後国との国境として肥後藩に出入りする人々の検閲(けんえつ)や取りしまりが行われた。また、参勤交代で大名行列が通るときには、厳重な警備をするための拠点となっていました。大阪天満の商人、高木善助文政11年(1828)天保8年(1839)鹿児島の紙を仕入れる為に6回往き来しているが「小倉より鹿児島道中」の記録には、南関口番所について「但し、壱人前三十五文ヅツ包めば早くすむ」と、1人あたり今の金額で700円位の通行金を渡せば早く通れるとあり通行金を払った者を優先して通したことが解る。。
番所跡から九州自動車道路のガードをくぐると、国道443号線に出ます。正面には大津山自然公園(右地図内写真)と阿蘇神社が見えます。大津山の麓には南北朝時代に「大津山の関所」があり、古町には門前町として栄えた町屋が建ち並んでいたと思われています。毎年11月の第三日曜日には「ふるさと関所まつり」Dが開催され、大名行列が関所の町を思わせる冠木門をパレードします。公園の前の国道沿いには、特産品センターなんかん「いきいき村」Eがあります。特産品「南関そうめんKは250年の歴史をもち、この地の気候が素麺の製造に適し、上質の小麦が作られ、良質の水があることから発達しました。肥後藩主細川氏は参勤交代の際には、肥後の土産として南関素麺を徳川家に献上していました。「南関あげLは大きいものは30Cmもある、日本一大きい「油あげ」です。江戸時代の「天草の乱」の後に人口が減り四国松山地方から移住された人々から伝わったといわれており、夏場に腐りやすくなってしまうあげを長期保存できるように、よく水切りした豆腐を薄くして、水分含有率の低い油で揚げています。常温で3ケ月程度は保存可可能です。そのほか農産物、鮮魚、精肉、弁当総菜、湧水豆腐、豆乳うどん、パン、菓子などがあり、観光客の人気のスポットです。ここからすぐ先の左の路地を入り(J地図)九州自動車道路とインターの陸橋を渡ると、細い山道Fになります。この先には「十一里木跡」Gがあります。畑地の細道には丸山神社Hがあり、旅人もここでひと休みしたのでは。この先の外目(ほかめ)の集落には歌人北原白秋の母の実家石井家)があります。柳川の家から黒塗りの駕籠で母に連れられ里帰りしては、外目あたりの野原や小川で遊びました。湯谷(大牟田市)は肥後と筑後との国境Iです。吉田松陰の「西遊日記」には「領界に二柱あり。一は木柱なり。書して曰く『是より西南は細川越中守領分』と。一柱は石柱なり。刻して曰く『是より東北は筑後国立花左近将鑑(さこんしょうげん領分」と記録しています。

J

K

L

Fふたたび山道

G十一里木跡

H丸山神社

I国境
熊本県地域振興局資料・「豊前街道散策ガイド」案内地図・資料.熊本城総合事務所資料・植木町観光課資料・
山鹿市観光振興課資料・和水町教育委員会資料・植木町教育委員会資料・まちのあゆみふるさと南関・各地の旧豊前街道案内板

ご協力有り難うございました。

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続き 薩摩街道をゆく みやま市編 を御覧下さい。

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