【檀一雄の年譜・戦前編】
父親の参郎は柳川市沖ノ端で古賀という家の次男として生まれ、檀家の養子となったもので、詩人北原白秋の実家とは隣同士であり、祖父は沖端劇場を経営しており、活動大写真(映画)や芝居や新派の演劇などが上演されていた。
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生後6ヶ月の一雄 |
明治45年(1912)2月檀一雄は父参郎の赴任先である県立工業試験場のある、山梨県谷村町(現・都留市)で父31才、母トミが19才の時に長男として生まれた。参郎の退職で2歳の時、父の実家(沖ノ端)に移る。参郎は画業修行のため上京して谷中に住む。
大正5年(1916)生活が困窮し東京(谷中)から久留米へ引越す。妹三保出生する。
大正6年(1917)父の再就職により、福岡市鳥飼に住む。妹の寿美が出生する。 |
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大正7年(1918)父の転任の為に、兄妹は母の実家、福岡県三井郡国分町(現、久留米市)で木戸家の祖父・祖母と暮らす。4月、国分男子尋常高等小学校に入学する。
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大正8年(1919)両親の元に引きとられ父の転勤先栃木県足利尋常高等小学校2年生に編入する。
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大正9年(1920)母トミは三児を連れて帰郷、国分村の小学校に転校。妹久美出生する。
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大正10年(1921)父の転勤先栃木県足利尋常高等小学校に復校。母トミが妹久美を連れて実家に戻る。
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大正11年(1922)父親は一雄を連れて母トミを訪れ帰宅を説得するが母は妹、久美をおいて東京に出奔。
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大正12年(1923)この年より夏休みと冬休みに、妹たち3人が預けられている福岡県柳川の沖端の家への帰省が慣わしになる。関東から鉄道で瀬高駅まできて、柳河軌道(軽便鉄道)に乗り換え柳川の三柱神社の前の柳河駅で降りていた。
檀一雄の回想文「コウモリ(凧)とホンゲンギョ(焚火)」には次の柳河軌道の文節がある。
「実は私の母が、私の数え年10歳の時に家出した為に、私の妹達3人は柳川の祖父母の家にあずけられており、その妹達と一緒に正月を暮らす目的で、父は私を連れながら、毎年、無理な帰省をつづけていたものだろう。・・・・・・私の少年の頃は、例えば足利から、柳川までだと、乗りかえ、乗りかえ、たっぷり、二昼夜はかかっていたのである。しかし、その二昼夜の旅の果てに、関東とはがらりと変わってしまう風物と方言と食物と人情を経験することが出来るのも、やはり、幸福であったといえるかもわからない。例えば、瀬高から軽便鉄道に乗り換えて、柳川の三柱神社前の柳川駅に降りる。すると、「おうー、一雄ボッチ、帰り召したバイのも」車曳きの吉さんは、目ざくと私を見つけ出して、その人力車に乗せられる。」・・・とある。 |

柳河軌道(柳河駅) |
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大正13年(1924)足利尋常小学校卒業。県立足利中学校(旧制)入学。両親は離婚する。まもなく母は上海で貿易商を営む高岩勘次郎と再婚。 (12歳) |
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沖ノ端の祖父母の家はロッキュー(六騎伝説)の町だ、死んだアサリの殻ばかりだ、ミロクゲ(赤貝)の煮つけの匂い、ワケ(イソギンチャク)の味噌汁の匂い、シャッパ(シャコ)の匂い、ガネ(カニ)の匂い。食感で烈しい生の欲求が、様々の、色と、音と、匂いになってけしめいている。
年に3度の休暇の際の沖ノ端への帰省の時の漁港での檀一雄 |
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昭和3年(1928)足利中学校卒業。福岡高等学校(旧制)入学。 (16歳)
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東京帝国大学経済学部学生時代 |
昭和7年(1932)福岡高等学校卒業。東京帝国大学経済学部に入学。
昭和8年(1933)、在学中、小説「此家の性格」が同人雑誌に掲載され、尾崎一雄や太宰治らとの交流が始まる。暮に佐藤春夫の門弟となる。 母トミと再会する。 (21歳)
昭和9年(1934)小説家の坂口安吾(新潟県出身)、詩人の中原中也(山口県出身)を知る。
昭和11年(1936)『夕張胡亭塾景観』で第二回芥川賞候補。東京帝国大学卒業。 (24歳) |
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昭和12年(1937) 『花筺』を文藝春秋に発表。出版予定日に、日華事変初の動員令により久留米独立山砲兵第三聯隊に入隊。 (25歳)
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博多の太閤園での結婚披露宴 |
昭和15年、召集解除。朝鮮や旧満州地区を放浪。
昭和17年(1942)5月24日、母トミのすすめで福岡の開業医の娘、高橋律子と結婚。上京して東京石神井公園の池畔に居住。 (30歳)
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昭和18年(1943)8月29日長男、太郎出生。 (31歳)
(檀一雄による生後94日の太郎の絵・善光寺所蔵)
昭和19年(1944)7月、檀一雄は、妻リツ子と長男太郎を福岡に住む母の実家へ預けて陸軍報道班員として華北・華中・華南を旅した。
昭和20年(1945)漢口、北京を経て釜山から乗船し、福岡に上陸し4月20日帰国。すると律子は福岡伊崎浦(福岡市西公園近く)の実家で腸結核で病んでいた。 (33歳) |
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【リッ子その愛」 |

糸島の海岸 |
一雄は律子と太郎を松崎(現・小郡市)の母の家に移す。10月、律子の希望で海の見える糸島半島の西浦村小田(現、福岡市西区)の波左間スエ方の2階に間借りする。ここでの痛ましい闘病と献身的な看病の1年間を後に「リツ子・その愛」「リツ子その死」に書き記している。 |

太郎を抱く律子 |
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【リツ子の死と瀬高での暮らし】
昭和21年(33歳)4月4日、妻の律子死亡。3歳足らずの長男太郎を連れ御原郡松崎(小郡市)の母の家や山門郡沖ノ端(柳川市)の父の実家を転々とした後、沖ノ端の古賀家から嫁いだ叔母さんの家のある福岡県山門郡東山村(現・みやま市瀬高町)朝日の旧家である村山家を訪れ身を寄せる。元地主であった家の広い庭には泉水もあって、その池の側を囲むように庭石が2つか3つあった。 池には5,6羽のアヒルがいて、夏には子供達がよく潜ったり蛙取りをして遊んでいた。檀一雄も庭石によく腰掛けて考え事をし、機嫌の悪い時に悪さした息子の太郎を泉水(池)に幾度か投げ込んだことがあった。村山家には主人を亡くして帰省していた娘さんとの縁談話があったが別に好きな方がいて振られて居辛くなる。やがて、そこを出る事になり、戸主の村山健治氏の世話で書き物するに静かな場所として善光寺に疎開者7所帯が間借りし、終戦で帰宅した空き部屋あることを聞き、檀親子は東山村(瀬高町)小田平田の山間にある善光寺を訪れ、山寺の住職宅2階の借間を下見に行く。そこは畳も家具らしいものもない板の間20畳ぐらいの空間を荒壁で仕切った部屋であった。
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善光寺本堂 |
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【檀一雄の善光寺での暮らし】
一雄と太郎の親子は寺の庫裏(くり)2階のすきま風が通り抜け雨戸も障子も入っていない板敷20畳に畳2枚を置き薄い蒲団一重ねで暮らしが始まった。「間借り代が月に百円位で 食べるものは芋粥だった。人参や菜の雑炊だ。大根の葉。芋の茎。寺の和尚が分けてくれる山の畑の蔬菜)類を、胡麻で和え、煮干しで和え、時に豆腐を買い、また時に、鰯を五、六匹、瀬高や船小屋の辺りまで半日がかりで買いに降りて、太郎と二人、舌鼓をうって食ったものだ。その鰯と一緒にチリにしたシジミのうまさを覚えている。
収入は杜甫の詩を、月に一,二篇ずつ訳し、真鍋呉夫君の『午前』や大西巨人君らが編集していた『文化展望』に売り込んで、その詩原稿料が月に三百円から五百円ぐらいで事足りたと「帰去来」に書き記している。
朝は寺の庫裏の東に百米近くも離れた滝からの筧(竹樋の引水)の水をザブザブかぶていた。現在は水が枯れて無くなっているが、近年、講演会で檀太郎さんは懐かしく思い出深い場所であると語っていた。檀の『息子と共に』には「三歳の太郎までが、冷たい朝の水浴をたのしんで、自分からチンチクリンの洋服を脱ぎ捨てて真裸になったものである。狂気のようにはしゃぎ、私から水をかけられ、冷たさ半分、嬉しさ半分の顔と裸の表情がたまらなく愉快であった」と回想している。
部屋からの眺望は素晴しく、筑後平野の櫨が序々に紅く染まっていくのを太郎と二人、心ゆくばかり、眺め暮らしている。
朝日集落の親戚、村山家に届いた3通の手紙が善光寺に転送されてきた。檀にとって師の佐藤春夫の手紙、川端康成氏の手紙、尾崎一雄氏の手紙である。いずれも女房の死に対する懇篤な弔文と、執筆激励の書状であった。これにより「リツ子その愛」など一連の作品の発端は構想が練られたであろう。 |

善光寺の紅葉 |
寛照住職と一雄後は作家仲間 |

焼失前の寺の庫裏 |

現在の寺の庫裏と桜 |
部屋からは庫裏の玄関前の柿の木に熟した柿が見えていた。それを詠ったのであろうか。この柿木は現在も建替えられた庫裏の玄関前にあり、秋には檀親子が居た当時と同じく柿を実らせている。

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執筆記念碑と
原口博江さん |
【住職の娘さんの回想】
当時女学生(15才)の住職の娘で現在、坊守の原口博江さんは「檀さんの服装は茶褐色の詰め襟の国民服に軍隊用の靴で、頭は親子とも丸刈り、太郎ちゃんもお父さんと同じ詰め襟の国民服で手を引かれてあどけない足どりで山寺にみえました。父で住職の寛照とお互いに心がぴったり通じ合い檀さんは早速、寺に住むことに決められました。引っ越してみえましたが所帯道具らしい物はなく、ただ薄い夏蒲団、煮炊き用の鍋、まな板、包丁、ニクロム線の入った湯沸し器、電気コンロ、茶碗とお箸でした。
2階の借間の柱には短冊型の紙に「タロウのハハ」と書いた位牌が貼ってあり、朝、夕には「ハハにおまいりしょう」と言って、もみじのような手を合わせて拝んでおられる姿を鮮明に覚えています。『チチお山にのぼろう』と言って父の肩車に乗り、本堂の前から山の頂上までお父さんが大きな声で歌を歌いながら階段を昇り降りするのが日課でした。瀬高に出かけた日には、右に濁酒、左に鰯をぶらさげ大きな声で『和尚、今日はうまい物を持って帰ってきた』と、ご機嫌で帰宅し、鰯料理の刺身や煮物に取掛り、太郎ちゃんは、まな板の前からその包丁裁きを見入ってていました。」と語っている。
*現在、善光寺本堂下の檀一雄が間借りしていた建物(下写真)は火災により無くなっているが、当時を偲ぶ「りつ子その愛」の執筆の記念碑が立てられている。ここの寺は大正2年の春に信州の善光寺の別院として建立された。大正10年建立の本堂の上部の立派な彫刻は見もので正面の壁面の画も珍しいものである。 |
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寺の和尚から薩摩芋をもらい、それをふかして、本堂の南山頂で太郎と二人で筑後平原の一望の櫨(はぜ)の紅葉を眺めながら仲良く食べていたという。また周りの山を散策し山饅頭とか、山葡萄とか、栗の実とか、粟の実とか、それを拾って食べ楽しんでいる。朝は東からのぼる朝日をあびながら山頂を散歩、野山を駆け巡り湧水でのどの渇きを潤す。夕方は筑後平野の彼方にキラキラ光る有明海に沈む夕日を眺めながら太郎を肩に乗せ山を降りるのが日課であったようだ。 |
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善光寺への山道

真鍋呉夫・平成19年
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【真鍋 呉夫との交友】
作家仲間の真鍋 呉夫は善光寺を幾度も訪れ泊っている。当初の部屋の様子を「檀さんのあとから手さぐりでその屋根裏部屋への階段をのぼっていった時には、息をのまずにはいられませんでした吹きぬけの荒壁に囲まれた20畳前後のだだっぴろい空間に、ままごとめいた煮たきの道具がひとそろい。その奥に、古畳が2枚と綿がはみだした薄い蒲団。それから、小さな経机と文庫本の『杜詩』が1冊。そのほかには、畳もなければ、障子もありません。窓枠が腐っているので、雨戸を閉めることもできません。しかも、その腰窓からさしこんだ月光が、荒挽きの床板に分あつく積もった綿ぼこりを霜柱のように輝かせていた。
檀さんは善光寺への山道で『律子のことでは、書きたいことが頭の中でひしめきあっているような感じで、机の前にすわりさえすれば、すぐにも書きだせるような気がしてるんです。ただ、ぼくの従軍中の体験をどこでどう生かすかがむずかしくてね。そこを、どうしたらいいかと考えてるところなんです』と話してくれた」と語っている。
太郎との生活のなかで「リツ子」の構想は練られたという。こうした生活が続く間、友人や師の佐藤春夫から、妻に対する追悼や文学的再起を促す手紙をもらい再起し、「リツ子・その愛」の構想を練り始めたのもこの時期である。
*真鍋呉夫氏は大正9年(1920)1月、福岡県遠賀郡岡垣町の生まれで小説家・俳人である。父甚兵衛、母オリとも俳人で父は天門、母は織女と号していた。昭和14年(1939)阿川弘之・島尾敏雄・那珂太郎らと同人誌「こをろ」を創刊。檀一雄とは30年に及ぶ長い付き合いで逗留地の平田の善光寺にもよく訪問している。昭和24年(1949)に檀を頼って上京し師と仰いだ。作家になる事を薦め、練馬区南田中の自宅の傍に住居を勧めたのは一雄である。「露のきらめき」. 「評伝火宅の人檀一雄」など小説や句集を出版。平成4年(1992)句集『雪女』で読売文学賞を受賞した。平成20年1月時点で88才となられ、まだ執筆に大いに意欲をもっていられた。取材の電話では小説家として負け組みであったと重ねて語られたが、長い人生の勝ち組の真鍋呉夫である。檀一雄・生誕百年の平成24年(2012)年2月3日、檀の誕生日に合わせて、檀を主人公にした実名小説『天馬漂泊』(幻戯書房)を刊行した。しかし脊椎管狭窄(きょうさく)症で両足が不自由なベッド生活だったが6月5日、誤嚥性肺炎のため練馬の病院で92歳で永眠されました。 |
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本堂入口の大きな閻魔大王 |

りつ子その愛の構想を練った地の記念碑 |
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「つくづくと 櫨の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の 有りと云はなく」
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この悲詩は平田・善光寺の山から筑後平野のハゼの紅葉を眺めながら檀一雄が妻律子の死を悼んで詠んだ歌です。瀬高町下庄の俳人・上津原猛さんに解釈をお願いしました。
つくづくと はじのはあかく そみゆけど したてるいもの ありといわなく
「櫨の木が真っ赤に染んで来たが、今その下に佇(たたず)んで自分に見せてくれ。最愛の妻は逝って悲しく切ない」
一雄は「部屋からの眺望は素晴しかった。筑後平原の一望の櫨(はぜ)が序々に紅く染まっていき太郎と二人、心ゆくばかり、眺め暮らした」と短篇小説「帰去来」にも書いているが亡き妻を想い失望してこの悲歌を詠っている。痛ましいほどの哀切さがより一層心に強く迫ってくるようである。
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*善光寺の奥山の広場は息子の太郎と遊んだりした場所である。現在、この場所には善光寺に来る前に逗留していた朝日部落の村山家の庭石を使い、児童文学者与田準一の書「壇一雄逍遙の地」の碑が筑後平野を見渡せる、しだれ桜の咲く静かな広場に建てられています。
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逍遙の地の碑 |
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【待鳥サロンと檀一雄】
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檀は太郎を肩車に山を下りては、瀬高の賑やかな商店街を散策、帰りには魚屋で一番安い鰯を買っていた。そんなことで瀬高に疎開していた児童文学者の与田凖一と出会い、その時に、檀を下庄上町にある文学好きが立ち寄る「待鳥サロン」に誘つた。与田は敗戦後の昭和21年、疎開のため幼年期をすごした上庄祇園宮のある山門郡(現・みやま市)瀬高町上庄本町の南側、土居町に小さな家を見つけ住んでいた。そこへ、白秋全集を借りに檀は幼い太郎を自転車の前に乗せて訪ねている。当時の土居町は魚の行商人など暮らしていた裏町が、檀の実家のある柳川沖ノ端の魚臭さが漂う漁師町と雰囲気が似ていたのであろう。町裏のあばら家暮らしなど、いっこうに頓着しない風であったそうだ。 |

上庄祇園宮 |
後日、与田は善光寺の檀の住いに訪れている。「部屋には数冊の白秋全集は机に積まれたままで、仕事らしいものにかかっている容子のなかったそうだ。まだペンを執る心境にはまだ達してはなかったようだ。窓から展望される八女、山門の両郡にまたがる筑後平野の広がりに点在するハゼモミジの林は素晴らしかった。檀氏は浪漫のこころざしをもてあますかの行脚僧じみた骨相もっていた。」とも感想を述べている。
【待鳥文学サロン】
戦後の瀬高町下庄上町に長男の基を亡くし(昭和12年)、文学(作家)志望の待鳥京子(26才)と妹の波江と富士子それに母・春野の女4人が住む待鳥邸(現・甲木・井上宅敷地)があった。待鳥家は東京代々木に住み父・清九郎は旧東京高校(現・東大)の国文学教授だった。しかし昭和7年に長女たえ子を亡くし、昭和8年4月17日には父が45歳で亡くなった為に、母は旧制中学を卒業したが結核病に罹ったの長男基と娘の4人を連れて母の実家である瀬高町の阿部家に戻る。不憫に思った兄の太郎は上町広い屋敷を妹待鳥春野家族の住まいに譲り、長男の治療の為の離れ部屋を造ってあげ、満州に志を立て旅立った。当時12歳の京子は文学者の父の影響で文学好きな少女であった。のちに妹の波江は橋本家に嫁ぎ北海道で暮らしていたが結核を患い上町の実家に戻り女所帯の4人家族であった。終戦後の物資のなかった昭和21年(1946)には長い髪を後ろに垂らした話しや、もてなし上手な気品のある娘となり、待鳥家は気兼ねせずに長居ができる文学愛好者が集まる文学のサロン化となっていた。詩人の山本太郎(まだ学生で北原白秋の甥)、歌人松島正夫(松島カメラ店の弟)、西原長太郎(傘屋)、与田準一などの文学者や文学愛好者が集合していた。与田準一に紹介され檀一雄も作家仲間中谷孝雄、伊藤佐喜雄、真鍋呉夫、を連れ訪れるようになる。京子は隣の松尾酒造(一角)に電話を借りて肉屋にテール牛を注文し、皆が食べたことのないテール鍋の御馳走をを振る舞ったりしている。回想話では普段はクジラの肉か食べていないのに、奮発して御馳走していたことを語っている。しだいに慣れ親しんだ檀は待鳥家の長男が住んでいた離れ部屋に居候し知人を呼寄せたりし、家族が留守の時でも療養中の波江に食事を作らせるなど待鳥家に迷惑をかけるようになる。母の春野は困りはて、与田準一に相談し檀を善光寺の仮住まいに戻し見合い話を持ち込む。
【待鳥京子の回想】
「私の父は現在の金沢大の前身、第四高等学校、次が現在、一高と共に東大教養学部となっている旧東京高校の国文学の教授でしたので、生れた時から遊び相手に生徒の彼等に恵まれ旧制高の空気、気風にどっぷり浸かり続けていました。実は、檀さんの微笑ましく又、哀しい面は、旧制高校の教育と切り離して考えられるものではありませんでした。”人間形成”が教育の一つであった旧高の理想と、檀さんご自身の生まれつきの御性格の一部、との美事な一致・・・と申せましょうか。お人柄と、受けた教育の不思議な解け合い・・・と申しましょうか?、旧制高卒者の持つ独特な美がありました。最初は絶好状態で始まった九州の待鳥宅での居候時代の檀さんは、待遇的に、運命的に、決して良い状態ではなく、むしろ惨めで、相貌は汚れてゆき、態度行為、言葉、に荒みが見え、声迄が野卑になって行くと言う有様でした。食客として招いた私一家が散々厭な思いをし、私も彼に意地悪を致すなど、お互いに不幸な時代だったと言えましょう。粗暴、粗野、エゴのかたまりから不図した折、まる反対の雰囲気、微笑ましい善意を宿す人に豹変して、それこそ檀さんの本性と感じさせるのです。・・そしてそんな時の檀さんの言葉、行為の傍らには、必ず美しい心の持ち主、深い情熱の持ち主、清純な人の姿・・・と申すべき”美”の存在がありました。若くして亡くなったリツ子さんを愛する檀さんの、しおらしい迄の深い想いを不図漏らされるのもそんな折でした。」

結婚披露宴の時 |
ヨソ子(24才)は山田酒造(山田清太郎)の六女で、女学校を卒業して3年目に結婚したが、夫を戦争で亡くし実家の兄、山田賦の酒造業を手伝っていた。待鳥家とは次女の波江とは柳河高等女学校時代の友達であり度々遊びに訪れていた。檀とヨソ子は与田準一の世話で待鳥サロンでお見合いをし、交際し始めた。檀は善光寺から自転車の前に太郎を乗せて、山田酒造や待鳥サロンに立ち寄り、夕食をごちそうになり薄暗い山道を上り寺に戻っていたという。ヨソ子も善光寺を訪れ筑後平野や有明海を見渡せる高台でデートを繰返し、二人は結婚を取り交わしている。
檀は結婚して福岡で設立した「珊瑚座」の劇団員と一緒に待鳥サロンに遊びに来ていた。のちの『火宅の人』の矢島恵子のモデルで浮気の相手、入江杏子も一緒である。 |
昭和22年に妹(3女)の波江を亡くし、昭和26年母・春野を亡くし妹の富士子(長崎・活水女学校卒)と2人暮らしとなる。東京に戻った与田準一夫妻から上京して文筆家として働くことを勧められた手紙をもらい、叔父さんに金を借り、9歳も年の離れた妹の富士子と東京の阿佐ヶ谷に上京し、小石川の出版社に勤めた。石神井の檀一雄や吉祥寺の与田準一との交流があったが、檀は自宅に呼ばず、待鳥宅に来ていた。その後、富士子は日本証券代行の湯が原寮に勤め、京子は鎌倉にある灘の酒造家が持つ鎌倉山の別荘で執筆活動をしながら管理人として働いていた。鎌倉山に引越した後も檀やローマン派の文士達を招き、得意のテール鍋を御馳走して楽しんでいる。当時の回想では「お持ち帰りいただく品はうなぎの佃煮、ほかに春は野の土筆、蕗のとう、初夏には若い筍・・・やがて実山椒。すべて佃煮にかわり、いずれもいづれも、文士の方々の思い出が伴い、当然のことで檀一雄は主役となります。彼は手料理を楽しむ人で、食べることにも御熱心なだけに私の佃煮には大いに関心があったばかりでなく、夫婦間をとり持つ役目も致しました。」とある。京子は書き終えた小説の評価を檀に依頼したりしている。檀は大衆作家として売れ始め経済的に恵まれた頃、鎌倉に住む京子を新橋の馴染みの小川軒に呼出し食後に、清瀬の結核養療所に入院いている、妹の富士子の病院費用を渡すつもりだった。純文学派の京子は檀が純文学から離れ大衆小説で儲けた金の施しを受けるのを断り、檀の金儲けの為の執筆を非難したという。檀が昭和31年に新劇女優入江杏子と浮気し山の上ホテルで暮すようになり妻のヨソ子は家出を決意し、清瀬で養療している富士子を訪れ、京子の住所を聞き、鎌倉山の別荘を訪れてしばらく滞在して気を休め、その後湯河原町吉浜の知合いのみかん農家のに移り住む。その間、長男の中学生の檀太郎は住所を頼りに鎌倉山の顔見知りの京子に会いに訪れている。檀は体調が崩れてきた昭和47年頃に能古島に住居を構える前に、待鳥邸の隣の旧酒造家の川岸の別亭を貸してくれるように依頼したが、丁度、事業再開準備の為に果たせなかった。想い出深い矢部川を眺め病気の養生をしながら、文壇復帰の糧となった待鳥サロンを想い出しながら「火宅の人」を書き上げるつもりであっただろうか。佐藤春夫を師とし、純文学を志した檀は太宰治・中谷孝雄らのローマン派に傾倒した作家仲間と交わり、昔の亭主関白の気質と好きな愛人を持ち、自身の本能のままを尽くして、あとはただ滅びるだけだという自由奔放な生き方をした檀一雄の『火宅の人』は最終章を九州大学病院の病床で口述筆記にて完成させ愛した小説と共に波乱の生涯も終わりを告げたました。の『火宅の人』は最終章を九州大学病院の病床で口述筆記にて完成させ愛した小説と共に波乱の生涯も終わりを告げたました。
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待鳥京子が住んでいた瀬高町上町は「田中屋酒造」「池田屋酒造」「瀬高酒会社」「大坪酒造」「松尾酒造」の5軒の酒蔵が建ち並び、酒の香りと酒造りの職人が行き交う通りで、引接寺入口前の観音堂が見守る場所にありました。京子姉妹が引越してからは、酒造業界にも不景気の風が吹くようになり、廃蔵が多くなり静かな通りになり待鳥の屋敷は取壊され、別の方の住宅2軒が建っている。
【お知らせ】 待鳥姉妹は千葉市の市営住宅の自宅において、妹の富士子さんは平成21年にお亡くなりになり、姉の京子さんは平成23年3月2日に死去されました。遺骨は両親が眠る山川町の墓に納骨されました。 |

待鳥サロン跡 |
矢部川から見た上町・河川が拡張され堤防が高く築かれ酒蔵や家屋が壊され当時の面影は無い |
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【檀一雄の年譜・戦後編】
昭和21年11月24日、檀一雄(34才)とヨソ子(24才)との結婚式は松崎(現・小郡市)の実の母トミの家で与田準一の仲人で行われた。暮れには、母親トミの同族が福岡市網場に起業した塗装商会「隆記洋行」の店舗の2階に一家は住み仕事を手伝った。 (34歳) |
昭和22年(1947)眞鍋呉夫、北川晃二、与田準一、大西巨人、松竹研治(草場)らと福岡で劇団「珊瑚座」を設立し座長となる。第2回の打ち合わせ会の時に、のちの『火宅の人』の矢島恵子のモデルで浮気の相手、入江杏子と始めて会う。しかし、公演がGHQの検閲で禁止となり、さしたる活動もせず解散した。 (35歳)
手伝っている「隆記洋行」の事業も不振になり、10月単身上京して「終りの火」を書き小説仲間の川端康成に原稿を託す。
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昭和23年(1948)6月、太宰治、死亡、哀悼の長歌「さみだれ挽歌」を書く。 (36歳)
8月、東京都練馬区南田中に家を購入10月に家族で居住する。
この年より「リツ子」連作を「人間」「改造」「群像」などに発表を始める。
昭和24年(1948)月刊「少女クラブ」11月号に長編締切小説「ナ子の笛」を掲載。
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昭和25年(1950)に刊行した『リツ子 その愛』『リツ子 その死』で本格的に文壇に復帰。次男、次郎出生。
【内容】敗戦のあとさき、惑乱と混濁と窮乏の時代状況下、最愛の妻リツ子が結核に倒れた。あどけない息子を抱え、看護、食料調達、借銭、医者探しに奔走する夫。救いを求める魂の叫びも病魔には届かず、リツ子はしだいに衰弱の度を深めてゆく……。全てをむしりとられ、全てをなげうって懸命に生の再建を目指す夫婦の姿を通し、裸形の魂の美しくも凄絶な昇天を捉えた昭和文学の記念碑的長編。(新潮社出版) |
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昭和26年(1951)『長恨歌』と『真説石川五右衛門』で第24回直木賞を受賞。賞金5万円。
南氷洋捕鯨船団に参加(12月~翌27年4月)帰国後、体験を基にした小説『ペンギン記』を出版。 |
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純文学作家としての檀が生活費を稼ぐためとはいえ、大衆小説で流行作家になっていったのに、純文学作家仲間から批判も浴び純文学作家としての評価は低下した。檀は「身から出た錆、堕落小説と自嘲しながら、この日頃、俗悪の文章を流布したが、まさか、石川五右衛門まで堕ちてゆくとは、自分ながら知らなかった」と書き残している。 |
昭和28年三男、小弥太出生。 昭和29年長女ふみ出生。 (41歳)
檀ふみはのちに女優として、 長男の檀太郎は食に関するエッセイストとして活躍する。 |

檀ふみ |
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昭和30年(1955)『誕生』発表。この作品は『火宅の人』の第一章「微笑」の一部となる。 (43歳)
坂口安吾が死亡する。
次男の次郎、日本脳炎の病になり寝たっきり状態となる。
『夕日と拳銃』を読売新聞連載小説に掲載。12月、新潮社より正篇を出版。 |
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昭和31年(1956)「夕日と拳銃」の続編と完結編出版。佐伯清監督、東千代之介主演で東映で映画化もされ、“恋と冒険の一大メロドラマである。 (44歳)
次女のさとが出生する。
「オレは馬賊だ」を同光社より出版。
檀は「火宅の人」矢島恵子のモデル新劇女優入江杏子と浮気し山の上ホテルで暮す。妻のヨソ子は怒り、石神井から鎌倉に家出している待鳥京子宅や知人の紀宅に世話になり2週間後に石神井の自宅に戻る。しかし檀は入江杏子と暮す。
10月1日、文芸家協会の文化代表団として檀や詩人の草野心平、児童文学者の与田準一、写真家の浜谷浩など、中国の国慶節に招かれる。この時に檀は仲人の与田準一の部屋でヨソ子との離婚を相談している。檀を諫めたあとホテルの夕食会で「郷里へ疎開していた時、奥さんを亡くしたあの人が自転車に子供を乗せて買い出しにいく姿が哀れで、紹介したのでしたがね」と落胆して語っていたという。
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入江杏子と十和田湖にて |
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昭和32年(1957)、浅草のマッサージ屋の2階に転居 (45歳)
昭和33年(1958)、目白の安アパートの一室を購入し仕事部屋に改装。11月に欧米の各地を周る。
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昭和34年(1959)、欧米旅行より帰国して麹町三番町のアパートに移り住む。
昭和35年(1960)杏子と掴み合いの喧嘩して、福岡に飛び、柳川の「御花」に長逗留して報知新聞連載中の「国定忠義」の執筆を続ける。 |

柳川・御花 |
昭和36年(1961)「火宅の人」の最初の一編「微笑」を発表。 (49歳)
吉祥寺に住む与田準一の家とは石神井に近く、互いの家族同士の往来があった。長男の与田準介は良く遊びに来て「第1のコース、檀太郎君。第2のコース檀次郎君」などと大声で遊んであげていたという。
浮気相手の入江久恵との関係が冷えて、檀は石神井の自宅に戻る回数が増えてくる。
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昭和39年(1964)5月6日、師である佐藤春夫が心筋梗塞で亡くなる。
11月28日には闘病中の次男の次郎が村山市の秋津療養園で亡くなる。 |
檀一雄原作の映画化された作品は次の通りです。
昭和26年(1951)11.30 真説石川五右衛門 東映東京
昭和31年(1956) 9.18 夕日と拳銃 日本篇 大陸篇 東映東京
昭和33年(1958) 2.05 少年猿飛佐助 東映京都
昭和33年(1958) 2.12 少年猿飛佐助 牢獄の姫君 東映京都
昭和33年(1958) 2.19 少年猿飛佐助 天空の白馬 東映京都
昭和34年(1959) 5.31 山と谷と雲 石原裕次郎主演 日活
昭和34年(1959)12.25 少年猿飛佐助 東映動画
昭和36年(1961) 3.14 無鉄砲社員 東映東京
昭和37年(1962) 7.29 愛と悲しみと 松竹大船
昭和37年(1962) 9.01 かあちゃん結婚しろよ 松竹大船
昭和61年(1986) 4.12 火宅の人 緒方拳・いしだあゆみ・檀ふみ 東映京都
昭和28年(1953) 5.07 もぐら横丁(新東宝)に原作の尾崎士郎らと特別出演している。 |
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昭和41年(1966)この頃から檀の体調が崩れ何度か倒れる。自動車を買った与田準一の長男準介(橋本淳)にも病院に運んでもらったりし、与田家と家族ぐるみの付合いがある。 |
昭和43年(1968)1月季刊同人誌『ポリタイア』を創刊 (56歳)
体調不良のために祖師谷の大蔵病院に入院、20日後に退院する。
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昭和44年(1969)2年半ぶりに『火宅の人』の断続連載を再会する |
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昭和45年(1970)「檀流クッキング」(サンケイ新聞社出版局)を出版。檀が料理が上手なのは、9歳の時に実母が出奔し、また父が料理を作れなかったこと、そして小学校に上がっていない妹が3人いたことからやむなく料理を始めたからであろう。そのおかげで文壇屈指の料理人として名を通した。ほかの著書に『美味放浪記』などがあり、その造詣が深いことが伺える。また、檀は旅先でも地元の食材を買い求め、自宅に来る編集者や友人らに自ら腕をふるって料理を振舞っていたという。
11月よりポルトガルのサンタ・クルスに行き1年2ヵ月滞在。 |
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昭和46年(1971)妻のヨソ子が体調を心配してサンタ・クルスに様子を見に来て2か月半滞在。
「火宅の人」の執筆を中断(九大病院に入院する4年間)。スイス・オーストリア・ドイツ・北欧・モロッコを旅行する。 |
昭和47年(1972)2月に60歳の還暦の前日に日本に帰る。 (60歳)
6月、金木町での講演の際、弘前城にヨソ子と旅行する。 |
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昭和49年(1974)夏、博多湾に浮かぶ能古島に転居、住居を「月壺洞」と名づけた。しかし体調が悪く家族がいないと生活できない状態であった。
12月31日、長女ふみがNHKの「紅白歌合戦」の審査員として出場する。 (62歳) |
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昭和50年(1975)6月、悪性肺腫瘍のため九州大学病院に入院。
8月、病床で20年にわたって書き継いだ「火宅の人」の最終章「キリギリス」を口述筆記にて完成させた。 (63歳) |

12月、見舞いに来たふみと |
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昭和51年(1976)1月2日九州大学病院において死去。
辞世の句は モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん
*もがり笛とは、風が電線などにふれてヒューヒュー鳴ることである。
正月開いていた柳川の火葬場で火葬、墓はリツ子も眠る柳川市の福厳寺に埋葬。
没後、 「火宅の人」に読売文学賞、日本文学大賞を受賞。 |

檀一雄の墓 |
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昭和52年(1977)「檀一雄全集」発行される。
柳川市の川下りコース沿いに檀一雄文学碑建立。碑には
「ムツゴロ、ムツゴロなんじ佳き人の潟の畔の、道をよぎる音ささやきたるべし、かそけく、寂しく、その果てしなき想いのきゆる音」
と有明潟睦五郎の歌が刻まれている。「ムツゴロウ」とは有明海などに生息している魚で、潮が引いた干潟の上で生活する魚として知られている。
能古島の思索の森入口に文学碑建立「モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん」が刻まれている。 |

柳川の文学碑 |
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平成7年(1995)沢木耕太郎が妻、ヨソ子の視点に立って檀一雄の姿を描いた「檀」が出版される。待鳥京子の沢木耕太郎宛の手紙ではヨソ子の手記の間違いを指摘し「”火宅の人”にも”火宅の母の記”にも表現されなかった檀さんの一面をお話し、微笑ましく又哀しい姿となるべきそれを「続・檀」書いていただけると考えています。」と続編の執筆を沢木に促している。 |
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平成19年5月20日福岡ドームの見える能古島の住居「月壺洞」の北側の丘に檀一雄文学碑建立。碑には善光寺逗留時代の歌が刻まれている。説明書きは友人の真鍋呉夫氏による。
福岡の大都市が目の前にありながら姪浜港から10分の船旅で檀一雄が晩年を過ごした島に着きます。思索の森入口と檀一雄の自宅横には文学碑があり、毎年5月の第3日曜日には彼を偲んで「花逢忌」が営まれる。現在、檀太郎さんが建替えて住まれている。
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ザボンの木が帰らぬ主人を待っている
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能古島の家月壺洞 |

檀一雄裏の文学碑 |
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*各人の敬称は略させてもらいました。
参考文献・リツ子その愛・その死・火宅の人・新選現代日本文学全集・青春放浪・わが青春の秘密・小説太宰治・ボリタイヤ檀一雄追悼号・沢木耕太郎檀(檀一雄の妻)・「檀一雄」新潮日本文学アルバム・檀ふみ 父の縁側私の書斎・檀 沢木耕太郎・檀一雄全詩エッセイ・西日本シチイ銀行地域貢献活動
取材協力関係者・善光寺坊守・原口博江氏・作家・真鍋呉夫氏・瀬高町松島カメラ・与田準一顕彰会・上町と千葉市稲毛区の待鳥京子ゆかりの方々・上庄の皆様・能古の島の皆様 |
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