庄福BICサイト 2013年1月31日〜2月1日観光 |
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5日目 【モン・サン・ミッシェル】
この島は元々、モン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、(修道院の次の間への通路にこの伝説の彫刻がある)ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。英国との百年戦争中は島全体が、要塞として機能してました。18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され司祭や反革命の王党派など反体制派の多くの人たちが囚人として送り込まれ、1863年まで国の監獄として使用された。その後荒廃したが、1865年に再び修道院として復元され、1879年には陸から堤防づたいに道が作られ、直接島に渡れるようになり、当初は鉄道も走っていたという。観光客も気軽に訪れるようになり、島の入り口と修道院を結ぶグラン・リュ通り付近には多くの宿やお土産店などが軒を連ねるようになった。1979年には、ユネスコの世界遺産に登録され、年間約350万人が観光に訪れている。
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モン・サン・ミッシェルの周辺の海は、潮の満ち引きの差が激しく、満潮の時には、島が海に囲まれる美しい景観が見られた。ところが、今から120年ほど前に、島へ通じる道路が造られ、さらに駐車場もできた結果、潮の流れがせき止められて、砂がたまり、かつての光景は見られなくなってしまった。このため、本来の姿を取り戻す為に道路や駐車場を撤去して、新たに橋をかける工事が2015年の完成を目指して行われている。現在、観光客は島から2.5キロ離れた駐車場に車を止め、約1キロ先のシャトルバスの乗り場まで15分程歩いて行かなければならない。バスが到着するのは島の入り口の手前、約400メートルの地点。ここから、再び歩かねばならず年寄りにとっては不便な観光地となっている。橋が完成したら改善されるかな?。 |
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架橋工事が進んでいる(2013年1月31日)
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橋が完成したら土砂を無くし海に囲まれた元の島となる。この光景も消え去る |
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島の入口門を通ると、お土産店・ホテル・レストランが並ぶ。モン・サン・ミッシェルの名物料理オムレツは19世紀に島で宿屋をやっていたプラ―ルおばさんが、島内ではなかなか食材が満足に手に入らず、手に入り安い卵を使って、命がけでやって来る巡礼者たちを元気づけ満足させようと考え、巨大で中が泡状になったオムレツを作ることに成功し満足させた。その伝統が今に引き継がれ島のレストランで売られている。
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大通り門 |
街の入口・王の門は、堀と跳ね橋・堕格子で守られた |
モン・サン・ミッシェル名物のオムレツ |
サン・ピエール教会 |
大修道院長住居棟 |
修道院付属教会堂 |
哨兵の門 |
のぞき窓からの干潟 |
きっぷ売り場 |
船の底のような丸い天井をした食堂 |
修道院付属の教会 |
修道院長が身分ある訪問者を迎えた迎賓の間 |
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11世紀に完成した修道院付属の教会は、何度か崩壊して手直しされ、本堂北側は12世紀のロマネスク様式。内陣と後陣は15〜16世紀、ゴチック後期のフランボワイヤン様式。身廊の比率はノアの方舟と同じとされ、この修道院がアララト山に漂着した方舟に例えられる説がある。 |
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天国を象徴する中庭と列柱廊は僧の憩いと瞑想の場だった |
ピエタ像 |
大天使に指を指し込まれるオベール司教 |
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死を嘆くピエタ像が置かれている部屋は1830年まで死体を安置する場所でした。次の間への廊下には伝説の話、大天使・ミカエルから聖堂を建てるように3度目のお告げの際、オペール司教の頭に指を指し込まれる姿のレリーフがある。これとは別に剣を掲げる聖ミカエル像がここの教会に1877年から飾られている。知力だけでなく武勇にも優れた天使とされている、聖ミカエルは彫刻像や宗教画として数多くのカトリック教会などに掲げてある。日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師ザビエルが、大天使ミカエルに日本の守護を祈願したことから日本でも知られるようになっています。 |
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天守塔にある聖ミカエルの像 |
西テラスから見たサン・マロ湾の干潟 |
西テラスから見た教会外観・尖塔はネオ・ゴチック様式 |
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6日目パリ観光 【エッフェル塔】 |
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フランス革命から100年を記念して、1889年にパリで開かれた第4回万博博覧会のために、ギュスターブ・エッフェルらによって設 計され、2年2ヶ月かけて築かれました。建設当時の高さは312.3mで当然世界一高い建造物だった。万博後は、入場者も減り、その奇抜なデザインのため、エッフェルを嫌う人たちもでて一時は解体の危機にもさらされましたが、後に収益を上げるために、小さな気象観測所を手始めに、軍用の無線電信アンテナ、テレビ放送用アンテナなどが設置され解体を免れました。海外旅行が盛んになってきた、1991年にはエッフェル塔をはじめとしたパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。現在は入場者数は年間600万人を超えパリのシンボルとなっている。
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【エトワール凱旋門】 |
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高さ50m、幅45mのエトワール凱旋門は、1805年のアウステルリッツの大勝利を祝して1806年にナポレオン・ボナパルトの命により着工された。ナポレオン失脚後に工事が中断しましたが、王政復古とともに工事も再開し、着工から30年を経て完成したのが1836年であるが、そのときナポレオンはすでに死去、その後 ナポレオンがパリに改葬されるとき遺体となって門をくぐったという。エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられ、アドルフ・ヒトラーが戦車で凱旋した。この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場)
」と呼ばれていた。現在は「シャルル・ド・ゴール広場」と名称が変更になっている。
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凱旋門の南から眺めたシャンゼリゼ通り・ 凱旋門の右のレリーフは 「1814年抵抗」 左は「1815年平和」 |
「1810年勝利」
勝利の女神がナポレオンに月桂樹を捧げている |
エトワール凱旋門(北側) |
「1792年出発」
翼を持った女神、勝利の女神ニケに導かれ、遠征に出発するフランス帝国軍の姿 |
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パリ・オペラ座 |
ルーヴル美術館 |
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シャンゼリゼ通りにはグルメから雑貨やブランドの店が並ぶ |
朝食はエスカルゴ料理を堪能 |
エスカルゴ |
四ッ星のグランドホテルパリ |
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フランス観光を終え、パリ北駅で出国検査を受けて国際高速列車「ユーロスター」で英仏海峡を越えロンドンに移動。ホームが低く荷物や乗降が大変。走行方向に対してすべての座席が逆向きの2時間15分の列車の旅でした。やはり細かく配慮された日本の新幹線が優れていますね。
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パリ北駅通路 |
パリ北駅テナント |
ユーロスターのホーム |
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スイス・ユングフラウヨッホ観光 イギリス・ロンドン観光 |
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