庄福BICサイト         【禁無断転載】      H・26・4・18制作  H26/9・1更新        福岡県柳川市三橋町藤吉
   藤吉は柳川城外郭の御門外の東に位置する立花通りや藤吉小学校のある行政区と、御門内の新町の南に位置した風浪神社が鎮座する藤吉集落の2区があり(.)東と西をそれぞれ大字今古賀と大字江曲に挟まれている(.)この付近は古代に筑後川、矢部川が造った三角洲の軟弱な地盤である(.)藤吉村の起源は解っていないが、奈良時代の条里制の縦堀が南北に横たわっていること(.)藤吉の文化遺産の集まっている産土神風浪神社の大改築の際に発見された「天文16年(1547)、時の領主である蒲地近江守鑑盛(あきもり)が風浪神社を再建」と書かれた戦国時代の棟札ある。元和7年(1621)立花宗茂が再封され藩主となった時に、藤吉村の北西部を開発造成し(.)現在の新町をを設け、造成した土地に柳川城の9門、12番所の瀬高町(現・京町)にあった瀬高御門(.)新町の出はずれ、藤吉村との境に移された。三池街道を通る旅人は、この門を経て、御門外の道標「猿田彦道祖神」を拝み、旅の安全を祈ったであろう(.)幕末、この門に勤めていた藤吉の江口長兵衛らが、荷のお初穂料を徴収していたという(.)伊能忠敬の測量日記には、文政9年(1826)9月13日、瀬高町上庄出口から三橋、瀬高御門まで測量、刻印が残されている(.)明治41年(1908)に町村合併で三橋村藤吉となる。現在は柳川城跡の本城町から東の今古賀橋交差点(柳川総合庁舎)まで幾つものクリークを横切った橋の多い県道が設置され農村から市街地と変遷(へんせん)している。平成17年(2005)柳川市・大和町と合併「柳川市」となる(.)
三界萬霊のお地蔵様(風浪神社側の集落(.)
あらゆる霊やさまよう霊を供養する為に建てられた地蔵尊
     【柳川城外曲輪土居(そとくるわどい)
  この土居(堤防)は、柳川城の東大手瀬高御門より真勝寺土居の南に続く藤吉、今古賀の土居として江戸時代には()柳川城総曲輪の「外曲輪の土居」と言われた貴重な遺跡です。曲輪とは、城の周囲に築いた土居や、かこい、領域のことで、惣領分曲輪、城中惣曲輪、町惣曲輪、外郭曲輪等があります(.)柳川城は、永禄年間(1558〜69)に、蒲池鑑盛によって築城され、総曲輪は鶴の形をしていました。慶長6年(1601)には、田中吉政が柳川城の天守閣を築き(.)四方に城堀を巡らし、石塁を高くして城の防衛を強化しました。その後、元和6年(1620)11月27日、柳川城主に再任された立花宗茂および歴代藩主によって外郭曲輪も改良(.)整備されました。『柳川城沿革』によると、「瀬高御門北の際から北の角まで424間(763メートル)、鋤崎東の角から井出橋門東の際まで353間(635メートル)(.)外郭曲輪土居の総合計7163間(12893メートル)、即ち3里11町23間とす」とあります。こうして、明治4年7月14日の廃藩置県までの約400年間、柳川城外郭曲輪の土居は(.)西原一甫著『柳川名勝図絵』にあるような松並木の土居でした。しかし、歴史の流れの中で、いつしか大部分はなくなりこの土居も変貌し、今は櫨・榎木の喬木(きょうぼく)や雑木が繁茂する土居となっています。この藤吉・今古賀の土居は、柳川城の外郭曲輪の中でただ一ヶ所残っているもので、かけがえのない貴重な文化遺産です(.)土居の長さは土居丸堰(藤吉水鳥取り)より今古賀番所まで約500メートル、今古賀番所より今古賀橋まで約200メートルある(.)(旧三橋町教育委員会案内板)
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   【猿田彦大神の道しるべ】
  瀬高門の外(藤吉)には文政11年(1828)歌人大村春樹によって建てられた道しるべ」(道祖神)が残されています(.)正面は東を向き中央に「猿田彦大神」右横に「すぐ北 せたか道(.)左横に「右西 やな河まち すぐ南 ミケ道」と刻まれていますミケ道は三池街道のこと。猿田彦大神は「古事記」に登場する神で猿田彦が、ニニギノミコトが天孫降臨する際(.)道案内に現れた国つ神(地上神)である。それゆえ道祖神信仰の一つ「道の神」とされ、(.)疫病や悪霊の侵入防止、旅の安全祈願の柳川の東の守りとされた現在、道路拡張で道しるべは藤吉小学校に移されています(.)
                
 


 
      風浪(ふうろう)神社】
 
  地元の人から「おふろうさん」と呼ばれている。古老の話しでは、「風浪神社は神功皇后が九州入りの折り、吉の葦野原の津(小字「鴨イカリ」)に(下地図)御船(大木のイカダ。境内の神の池にその木と言われる浮木が現存している)を寄せ給うとき(.)高葦(小字「高吉」)の繁みから白鷺が飛び立って先導を務め、戦勝された(.)この為、この里を聖地として綿津見命をお祀りになり、神のイカダ、すなわち御船を残された」と言う()藤吉風浪宮宮司の姉妹がいて、妹が大川の酒見風浪宮に嫁いだが(気が利いていた為(.)藤吉にあった古文書を持って行き、酒見の方が本家になったと言われる(.)いずれにしても、村人の言い伝えによる長さ一間(1.8m)余、幅3尺(90cm)の神のイカダ(浮木)の伝説からも(.)往古はこの辺は海岸であり、その海岸の葦の生えた地域が開発され、船着場などが出来たであろう。小字の鴨イカリ・中島・大嶋・土居丸などからも想像される(.)北の新町の風浪神社は元は藤吉村の風浪神社の神幸所だった所です。境内の池の西岸には天満神社が鎮座している(.)
         【藤吉風浪宮棟札(.)(柳川市有形文化財)
 
昭和58年(1983)の神社の大改修に際し建物内部の高所から棟木が発見された。天文16年(1547)から昭和3年(1928)までの6本の棟札が残されていた(.)この中で、特に貴重なものは天文16年の棟札です。銘文には柳川城を築いた蒲池鑑盛(かまちあきもり)が風浪宮の惣領主となり、蒲池鑑憲(あきのり)が願主となり神社の改修を行った記載があった。境内には宮地嶽神社および海神あり。風浪宮拝殿の額は沙門金海の書である(.)伝説の「浮木」は文政年間に書かれた「柳河明證證圖會」に藤吉の外曲輪の土居や村の浮木が描かれ紹介されている(.)またその中に「この村に限り白馬、油売買、紅花を植えること、井戸を掘ることを忌む、この事由あり、俗説とるに足らずと言えどもこれを守ること厳なり」とあっる(.)なぜ藤吉村の人々が、白馬、油売買、紅花を植えること、井戸を掘りを縁起が悪いと嫌ったのは定かでない(.)藤吉の風浪宮は、本殿を蒲池鑑盛が再建したとする酒見風浪宮と起源の由来が同じであることからさらに調査・研究を要する(.)
     
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鳥居
 
楼門
 
本殿
    楼門内の随神様と狛犬

 石造随神さん

 神を守護する霊獣・肥前狛犬
      【藤吉風流】
 藤吉風流は、村の守護神「竜神」に五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願して奉納するもので、室町時代から伝わり(.)江戸時代に今の形になったといわれる。毎年10月12日には鉦と太鼓で「ドン・キャン・キャン」と打ち鳴らす道ばやしの行列は(.)藤吉地区一帯の神々に奉納しながら(.)天狗面を先頭に練り歩く。頭に赤熊(しゃぐま)、背に五色のてばそ、袴姿の子供が三名一組になり、万葉集からとった謡曲に合わせて、飾り太鼓を打って舞う。それに合わせて(おきな)(爺さん)、(おうな)(老婆)、きつね、鬼が舞いまわる。子供たちが、頭につけた赤熊を振り、お謡に合わせて踊りながら太鼓を叩く。お謡は、「おんがみの」「きみがよは」「かささぎの」の3 種類(.)道中は「みつばやし」。(かね)は 3 つあり、2 つはリヤカーに乗せ、1 つは2 名で担う棒に下げて後の人が打ち鳴らす(.)
 
藤吉風浪宮の池の浮木
 

藤吉風流の行列
 

子供達のドン・キャン・キャンの舞い
   藤吉風浪宮の浮木
 藤吉村の古老の伝承によれば、今から1800年前の頃、神功皇后が瀬高、東山にいた土蜘蛛(つちぐも)(天皇に恭順しなかった土豪)、田油津媛を征伐される時、有明海岸の藤吉の鴨碇の茅野原の津(港)に御船を寄せられた。(この時の船は、神の船((いかだ))として今も風浪宮の境内池に残る。)ところが、高葦(藤吉、高戸)の茅の茂みから白鷺が飛び立ち、そして白鷺は東の方へ飛び、女山方面の神功皇后の征伐軍の道案内を務めたという。神功皇后は、田油津媛と戦い、媛を(ころ)され、この地方を大和朝廷に服属せしめたと言われている。藤吉村の人々は、この白鷺の飛び立った所を聖地(縁起がよいところ)と考え、海の神「綿積見命」を祀り、今の風浪宮を建てたと言う(.)

 
柳河明證證圖會(赤丸内に浮木が描かれている)

  古老の話しでは明治時代頃は鋤崎土居、そして瀬高御門の南に連なる真勝寺土居には大きな松、榎などの高木があり(.)カラスの止まり場になっていた。土居もん(乞食)の仮小屋も何件かあったと聞く(.)映画「からたちの花」(昭和29年(1954)制作)の中で宇野重吉(.)土居もん役を真勝寺土居で演じて(.)撮影していたことが印象的に思い出されると言う(.) 
 
 
 藤吉村の南端の塩塚川にかかる「御仮橋」は、藩主が狩の折、仮にかけた橋で、夜間は通行を禁じ、火急の折は、いつでも切って落とすようになっていた。抜荷番所(密輸取締番所)もあった。こうして藩政時代を通じ、藤吉村は御門内にあった(.)村落の小字土居丸には、元禄11年(1697)9月、射的場が作られた()おそらく馬場は、柳川城内にあった西宮永馬場小路の所や、藤吉の土居丸が利用されていたと思われる(.)
 
 .    引用文献・     三橋町教育委員会「故郷を知る」「故郷の文化に希望を」   西原一甫著・南汀(富次郎)画「柳河明證證圖會」
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