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一、まえがき |
室町時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで約11年間、日本全国を巻き込んだ「応仁の乱」で足利将軍の後継者争いと、細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)らの権力争いで全国の大名が京都に集結し東西に分かれた戦かわれた。乱の首謀者であった細川勝元と山名宗全が相次いで病死しても、乱はなかなか収まらず、11年にも及ぶ戦いで、京都はすっかり焼け野原になりました。結局、足利義政の子の足利義尚が9代将軍を継ぐことになり一応終了した。足利義政は「銀閣寺」を建てるなど趣味の面では“侘び寂び”の観念を生み出して東山文化を誕生させたが、将軍の力は地方に及ばず形だけとなってしまった。幕府は領地も兵力もほとんど持たないまま、ひっそりと約100年後まで続きますが、元亀4年(1573)に織田信長によって滅ぼされます。
この応仁の乱をきっかけに、日本各地で戦乱が恒常化するようになります。東国では陸奥の伊達氏、相模の北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、中国では毛利氏、四国土佐の長宗我部氏、九州では豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏などの三大勢力であった。
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二、大友家の家臣達 |
豊後の大友氏は、相模国大友郷(現・神奈川県小田原市足柄上郡 東大友 西大友 )に住む武士であったが、当主の大友能直が源頼朝の寵愛を受けて豊後や筑後の守護に任じられ、以来世襲することになり22代続いた名門である。大友家2代親秀には 本家から分家した家筋の家臣団達が出来て、豊後国東郡筧に住みついた武将が吉弘家の祖、吉弘泰弘であり、大分郡字戸次に住みついた家臣が戸次純直で、戸次家をおこした。ただし大友6代藩主貞宗の時に。糟屋郡立花山に居城を構えた家臣が立花貞載である。しかし永禄11年(1568)に毛利方に寝返り戸次鑑連(のちの道雪)率いる討伐軍の前に敗死し立花氏は一旦滅び、その名跡は戸次鑑連が引き継ぐ事になった。
特に吉弘家12代鑑理の時、次男の吉弘鎮種が高橋家に養子に入り高橋招運と名乗る。この招運の長男が統虎こと立花宗茂である。
21代の大友宗麟は豊後を拠点にして豊前、肥後、筑前、筑後、日向と北九州6ヶ国を領し、一躍、島津、龍造寺と並ぶ戦国大名にまで、のし上がったのである。南筑後では、山門郡西部は蒲池氏、北部は溝口氏、壇氏、また東南部と三池郡東北部は田尻氏、南部は三池氏、西北部は永江氏が領有し、八女南部は五条氏、黒木氏、川崎氏および溝口氏の所領、三潴南部は蒲池氏の所領であった。
その頃、力で大友をくずせないと知った毛利勢は立花氏の第7代当主立花鑑載を宗麟に不満を抱く鑑載を抱き込んで謀反を起こさせ立花城に篭城させた。宗麟は、名将として名高い戸次鑑連(のちの道雪)を立花城攻略に差し向けて鎮圧し、鑑載は自刃し立花氏は一旦取り潰しとなった。元亀2年(1571)戸次鑑連は大友宗麟の命で立花城督に任ぜられ、立花氏の名跡を継いで、翌年正月に立花城に入城している。
戸次鑑連(のちの道雪)は豊後鎧岳城主、14代目戸次親家の嫡男であり、豊後の戦国大名・大友氏の家臣。臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。14歳で初陣を果たし敵将を捕えるなど、武功を立てる無敗の名将であった。豊後大友氏第20代当主大友義鑑・21代の大友義鎮(宗麟)の2代に渡って大友家に仕え義鎮(天正2年(1574)に入道して道雪と称しますが以後道雪と表記します)が永禄2年(1559)に豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の守護職となと、当主を補佐する加判衆(重役職)となる。毛利元就、小早川隆景、吉川元春ら中国勢との長年における戦で手柄をたてている。宗麟が悪戯でけしかけた猿を鉄扇で一撃で叩き殺して説教 する。酒に溺れる宗麟を嘘の宴会で誘い出して説教する。負け戦をした宗麟に無能ぶりを手紙で説教したなどの逸話が残っている。 |
戸次道雪の前妻の父である、入田親誠は大友義鑑の重臣で、義鑑と共謀して嫡男・義鎮(のちの宗麟)を廃嫡とし、義鎮派の主要人物を次々と誅殺して3男・塩市丸を後継者にしようとした。これに反発する義鎮派の重臣の一部により大友館の二階で「二階崩れの変」のお家騒動が起きると塩市丸は殺害され、義鑑も重傷を負い2日後に死亡。塩市丸支持の入田親誠は、天文19年(1550)の入田征伐で、宗麟の命令を受けた娘婿の戸次道雪などに討伐されて、妻の実家である肥後国の阿蘇惟豊の元に逃亡したが親誠の行為を嫌悪され殺害された。このあと大友家は嫡男の大友宗麟が継いだ。道雪は入田氏と不縁になったので、夫人は実家に帰ったと推測される。もしこの時に離婚されたとすれば、38歳から、禅僧と交わり麟白軒道雪と称する55歳までの18年間、妻帯しなかったと思われる。50歳の時、筥崎座主麟清(大友宗麟の従兄弟)の家臣で道雪の与力として派遣され、肥前・筑後の「耳聞」(情報収集役)として活躍していた城戸知正(主水正)に「その方、近ごろ近国の様子を見聞するため、各所を周っているのであれば、誰かの娘か、または若い後家などを、世話してくれないか」と頼んだ。知正は道雪の後妻に門註所の娘の仁志姫の仲介を取り持った。 |
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二、誾千代姫の母・仁志姫(宝樹院満誉慶国大姉のこと |
道雪の後妻となる仁志姫は、永禄2年(1559)に筑後国三潴郡安武城主の安武鎮則(政)に嫁いで一男一女を産みました。子供の兄を亀菊丸、妹を於吉(吉子)といいます。鎮則は大友家に叛き竜造寺隆信に従った為、父の門註所三善鑑豊に離縁させられ、兄の門註所鎮連の(筑後長岩城主)のもとに、身を寄せた。別の説では安武城主の安武鎮政に嫁いだが、夫が早世したので、夫の父の鑑政の養女となったとあるが、義父は永禄2年に死亡した説もある。(離婚説や死亡説などが混在している)。永禄10年(1567)11月に筑後赤司村(現・三井郡北野町)の筑後赤司城にて戸次道雪と再婚した。2人の子は戸次家(道雪)に迎えられ、男の子亀菊丸は後の元亀2年(1571)に筥崎宮座主の麟清の養子となり僧名を方清と称する。天正14年(1584)から始まる島津氏の筑前侵攻時には、道雪の命令により、自身の組織する箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に籠城した。秀吉に大僧正に任じられ博多で仕え、のちに安武茂庵と名乗り、子孫は柳川藩士として仕えた。茂庵の名は現在も柳川市茂庵町(茂庵小路)として残っている。女の子於吉は、後に米多比鎮久の妻になりました。鎮久は宗茂が柳川に領地を得ると、立花丹波鎮久と名乗り鷹尾城を任される。末裔は大組頭として立花家に元禄期まで仕えている。 |
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三、誾千代姫の誕生から統虎との結婚 |

荼枳尼天 |
永禄12年(1569)8月13日に筑後国山本郡(現・福岡県久留米市草野)の問本城にて仁志姫は道雪との間に女の子を産みました。父の道雪は縁談を紹介した城戸知正にお守役を仰せ付けられた。そして肥前の僧侶、増吟に頼み誾千代姫と名付けることにした。誾」とは「和らぎ慎む」という意味であるという。元亀元年(1570)8月に問本城から赤司城(久留米市北野赤司)に在城しました。道雪夫妻の愛情は、いや増して春には庭の前の花を摘み、秋ともなれば一つの窓から月を見て楽しみ、四季が移り変わろうとも夫妻の思いは変わることがありませんでした。永禄12年(1569)、宗像氏貞は大友氏に降伏して元亀2年(1571)、自身の妹の色姫を人質として道雪(59歳)のもとへ側室に差し出した。この年鑑連は大友宗麟によって筑前の重要拠点であった立花山西城の城督を任じらている。3歳の誾千代は母と共に赤司城から立花山城へ移りました。道雪は以前から信仰している荼枳尼天稲荷を城の守護神として祀った。荼枳尼天は闘戦に勝利するため白狐にまたがる天女で道雪は怨敵退散を祈願されました。縁起には「道雪公この明神を尊崇し誓って護軍神とせり、永禄8年(1565)5月、道雪公が戦に臨みし時、夜々白狐燃火の瑞を示し、遂に勝利を得る。天正9年(1581)に秋月種実と戦しとき、白狐が戦陣に出陣して、我勝を得たり。」とある。白狐とは加持祈祷を得意とする密教の修験者(戦陣においても陣貝役として出陣した)であろうとされている。現在、荼枳尼天稲荷は柳川市京町の金剛院に受け継がれています。 |
天正2年(1574)に曹洞宗の医王寺(福岡県古賀市筵内)を菩提寺とし、のちに剃髪得度し義鎮の名から道雪と号する。誾千代は色白の大変な美形であったが気性激しく家臣を手こずらせた。男子に恵まれない道雪は、大友宗麟から戸次家の家督であった鎮連の子息からしかるべき人物を選び養子とすることを勧められた。
天正3年(1575)5月28日、道雪は宗麟からの養子話しに従わず、娘の誾千代に城督・城領・諸道具の一切を譲りました。ここにわずか7歳の女城督が誕生することになったのです。これから6年間、大友領国は拡大安定し、父の手助けもあり、立花城の女城督として君臨した誾千代姫は普段は強気に家臣達を指揮する一方、時には可愛らしく深い情けを掛ける城主と育った。
天正6年(1578)に大友氏は日向の「耳川の戦い」で島津に大敗して多くの有力武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで衰退した為に九州では龍造寺・島津の二強が並立して覇権を争うことになり戦乱はさらに激しさを増した。道雪は戦場で家中を率いて戦うには胆力・知略のすぐれた後継がどうしても欲しいと考えました。
天正9年(1581)、13歳の時に、同じく、大友家の家臣だった岩屋・宝満城の城主、高橋紹運(鎮種)の息子・統虎(のちの宗茂)15歳を婿に迎えることができ、誾千代は城主の座を降りる事になる。
天正10年(1582)、婿の統虎は立花姓を大友本家から許され「御名字の祝い」が行われたが、落ち着く間もなく筑前・筑後は戦乱のるつぼと化となる。
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関係地元に送られた「歴史秘話ヒストリア」の番宣葉書
誾千代役は元宝塚歌劇団宙組トップ娘役の陽月華 |
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2012年6月にNHK(大阪放送局制作部)「歴史秘話ヒストリア」で戦国時代に実在した戦うお姫様の物語が紹介された。渡邊 あゆみ案内役で
「戦国時代、戦場に身を置き武器をとったのは男子だけではありませんでした」と立花城の女ボスとして君臨した誾千代姫として紹介された。
2014年2月13日他界された山本兼一氏の時代小説『まりしてん誾千代姫』を追悼の意味で脚本化した 大河ドラマを製作すれ
視聴率の高い番組となると期待しているのは私だけであろうか。たのしみに首を長くして待つことのしよう。
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四、父道雪の病死と島津軍の進撃 |
天正12年(1584)、島原半島の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まるなか九州の統一を目論み、北上する島津軍に対して、父の道雪は立花城の守りを夫・統虎に任せ、高橋紹運とともに筑後地方の攻略にあたり、上妻郡猫尾城を落として黒木氏を滅ぼし、同郡山下の蒲池氏を降します。さらに、龍造寺が謀略によって蒲池から奪い取った柳川城を攻めますが、自然の要害にて攻略できずに高良山へ陣を移します。しかし長期の在陣がたたったのか73歳の道雪はついに筑後北野天満宮陣中において病没します。道雪は「我が死んだならば、屍に甲冑を着せ、高良山の好己の岳に、柳川の方に向けて埋めよ。これに背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう」と遺言したという。しかしその遺骸は家臣たちによって立花城に運ばれ、立花城下の梅岳寺養孝院(福岡県糟屋郡新宮町立花)に葬られました。法名は「福厳寺殿梅岳道雪大居士」。誾千代17歳の時です。
天正14年(1586)誾千代・統虎との婚姻から5年後、九州全域に勢力を伸ばしていた薩摩の島津軍が北上して攻撃を開始。4月に立花家の主君大友宗麟は自らが、大坂城にて豊臣秀吉に対面し、島津討伐の救援を願い出す。しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し大友家の領地を次々と奪って行き、やがて高橋紹運の護る筑前岩屋城を攻撃。豊臣軍が来援するまで徹底抗戦、立花城からも吉田左京ら20余人が援軍に向かった。島津軍は戦に、てこずり島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛け多数の死者を出し城に攻め入り、半月も経過した7月末に、ついに高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死した。その後、紹運の次男高橋統増(立花統虎の弟)の籠城する宝満山城も島津氏の降伏勧告により開城となった。
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これで島津軍は立花山城への攻撃が遅れ残りの軍勢で攻め込み城の明け渡しを要求した。誾千代と統虎が下した決断は籠城による徹底抗戦。誾千代は男の部隊とは別に侍女達を集め、女だけの部隊を組織し、この女子の軍を自ら率い、戦力の増強を図りました。島津軍は立花城を包囲したが、統虎と誾千代は徹底抗戦を行い立花籠城は20日間近くに及びます。しかし、豊臣軍20万が九州に上陸を知った島津軍が包囲を解いた、その時、夫の統虎は城を飛び出し、島津軍を追撃し、島津方の星野氏が守る高鳥居城を落とし、また宝満・岩屋の両城も奪取します。このあとも秀吉のもとで島津攻めに加わることになるのです。肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とし,、島津忠辰の出水城(現・鹿児島県出水市)を攻め落としました。
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戦国時代、生きるか死ぬかの一瞬を生きた武将たちは、我が身の安泰や一族の存続を切実に願っていました。阿弥陀如来・千手観音・弁財天・・不動明王などを守り神として戦に挑んだとされる。統虎(宗茂)がお守りとしたのに、祇園神・八幡大菩薩・春日大明神・将軍地蔵(勝軍地蔵)・祇園神・摩利支天の軍旗・軍神掛物などが残されているが、摩利支天は本来、猪に乗った女神で、進路の障害になるものや厄を除き勝利を導く軍神で太陽や月の光を神格化した自在の通力を持ちます。実体が無い為に捉えられず、傷つかないことから武士の崇敬を集めました。現在、立花家資料館保存されている宗茂から2代藩主忠茂へ伝えられたとされる全長20Cmの摩利支天(右写真)の携帯用掛軸は猪でなく虎に乗ぅているように見える。
「浅川聞書」には人質として誾千代が大阪城に出向かれたことが書かれているが、太閤秀吉は薩摩を降して九州平定した時は柳川に居られたのでなく、まだ立花城に住んでいたので間違っているので注意を要する。 |

将軍地蔵


虎?に乗る摩利支天 |
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五、柳川城入城と朝鮮の陣 |
天正14年(1586)島津降伏の後、秀吉から西国一の武将として褒め称えられ、立花山城4万石であった封土は、秀吉の島津征伐の先陣を賜った武勲から筑後柳河13万石に大加増され、秀吉の直臣大名となった。この時、誾千代、18歳、宗茂、20歳という若さでした。思えば柳川城は父、道雪が筑後遠征で落とすことが出来ず、筑後北野の陣仲で病没する際に「我が遺骸は、甲冑を着せ柳河の方に向けこの地に埋めよ。・・」と父を死に追いやった因縁の城です。誾千代は父道雪や祖母(養孝院)の眠る立花の地を離れることを躊躇したとも言われる。天正15年(1587)、柳川城に入城まもなく夫の統虎は、肥後北東部の国衆が「太閤検地」に不満をいだき起きた「肥後国衆一揆」では弟の高橋統増(直次)と出陣され活躍された。天正16年(1588)、肥後の親領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命された。統虎は大阪に出向き秀吉から豊臣姓を賜りました。天正18年(1590)、小田原征伐に従軍し、秀吉は諸大名の前で宗虎を、「東の本多忠勝、西の立花宗虎、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた。文禄元年(1592)、秀吉により朝鮮役が起こり統虎(のちの宗茂)は朝鮮に出兵するがこの頃、宗虎と名乗りを改めている。一説に 宗虎が文禄・慶長の役で不在の間、豊臣秀吉は誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ手込めにしようとした。それに感づいた誾千代は女性のお付きの者に鉄砲を構えさせて自分を護衛させ、また自らも武装をして城に乗り込んだ。突然すぎてそれにビビった秀吉は手も足も出なかったという逸話がある。豊臣家の家譜に、大名の妻子を人質にとったという記録はありません。
朝鮮の蔚山倭城で守備に当たった加藤清正が明・朝鮮2万9500人に包囲され窮地に陥っている時、立花宗虎はわずか1千の兵を率いて救援に駆けつけ夜襲を敢行して助けた。慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると兵を本土に帰還させた。この戦いで朝鮮から陶工が技能者として優遇されてやって来て有田・伊万里・薩摩で磁器が焼かれるようになりました。また柳川には綺麗な白と黒緑色のツートンカラーのコウゲガラス(高麗烏・かささぎ)や朝鮮松を持ってきたとか朝鮮姫・官女を連れてきて妻にした伝承が残されている。
(統虎は幼名は千熊丸でのちに彌七郎・統虎・宗虎・親成・尚政・政高・俊正・宗茂と改めています、ここから最後の名、宗茂と表記します。)
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六、関ヶ原の戦いでの敗戦と離別 |
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて西軍(豊臣)・東軍(徳川)どちらにつくかで誾千代夫婦は対立したといわれる。これが原因で誾千代は城を出て、城下の宮永に建てた館に別居したとあるが、本当の原因は古庄が宮内から連れてきた京女葉室中納言頼宣の娘・菊子(長泉院)という説と、矢島勘兵衛秀行の娘で後室の八千子とする説がある)を 宗虎が寵愛されたのが不和の因であるされている。今度の不和(宗虎からの縁切り)の使いは十時右衛門です。誾千代は、それは不届きな、とおもわれましたが、右衛門は父、道雪に忠義を尽くした重臣なので、お許しになりました。関ヶ原の戦いで宗茂が不在の間、城の守りは正室である誾千代が任せられていた。その時は侍女たちとともに武装し、いつ何があってもいいよう敵からの攻撃に備えていたという。宗虎は関ヶ原の戦いでは西軍につき本戦には参加できず大津城を攻め落したものの西軍が敗れ帰国の途へ。しかし鍋島勢が舟を隠したので筑後川を渡れません。これを知った誾千代は「私は捨てられた身ですが、立花家のために4隻の舟を渡すのです。」と舟を廻送されたが、宗茂には場所の検討がつきません。その時、12~13歳の化女が現れて渡船の案内をするといって、どてを先立って進みました。そして舟を見つけた時、女の姿はありませんでした。現在、柳川・京町の金剛院に祀られている稲荷がこの化女なのです。(金剛院の修験者といわれる)
慶長5年(1600)10月20日、肥前の兵が柳川城を攻めましたが、宗茂は小野鎮幸・立花右ェ門大夫・立花三大夫などを出撃させて、城の北方の八院で鍋島勝茂と戦いました。誾千代は「女人なれどの道雪公の名を下してならない。討死のみ」と、紫威の鎧を召して薙刀を取って床机に腰を下ろし鍋島勢を待受け指揮を執りました。鍋島勢は必ず来襲すると考えて、南の海岸線を守備する家臣に命じて、農夫を使い南浦関を護らせたので、敵は攻めてきたけれども諦めて退却しました。一方、加藤清正が朝鮮の役では宗茂に助けられた恩もあるのでどうにかして宗茂を助けたいと思い開城を説得すべく柳川に進軍した時、三池街道を江の浦に進むと宮永という地を通ることになり、ここは誾千代姫の御座所です。柳川藩の領民は立花家を大変に慕っておりますから、宮永館に軍勢が接近したとあればみな武装して攻め寄せてくるでしょう」と聞かされた為、わざわざ宮永村を迂回して瀬高方面に行軍し中山村の黒衣(三橋町)に陣営をしいた。加藤清正が幾度も和睦を告げてきたので同年11月11日、宗茂はこれを受けいれ、柳川城を明渡し、玉名の高瀬へ移りました。誾千代姫も宮永を去り、玉名腹赤村(現・熊本県長洲町)の、農夫市蔵の家に身を寄せました。ときに誾千代、32歳でした。
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七、誾千代姫・赤腹村で病死 |
誾千代姫が数名の侍女と共に肥後の腹赤村に行かれた時、お供の者を付けることができず、しばらくして、道雪公よりお守役を仰せつかっていた十時連貞の嫡子、十時八衛門がお供することになりました。旧藩から不自由な生活を過ごす闇千代が住む肥後・腹赤村には加藤清正からの食糧援助もあったが、旧領の松延村の樺島庄屋の嫡男樺島彦左衛門と本郷村の壇庄屋の嫡男壇七郎兵衛は旧主を慕い定期的に危険を犯して国越えして米や金品を仕送ってもらっていたので大変助かったが、彼らは関所で見つかり新しい藩主、田中吉政に処刑されました。
姫は毎日、立花家の守護神・荼枳尼天稲荷(太郎稲荷)に拝んで無病息災を願っていましたが、慶長7年(1602)7月15日より誾千代姫は瘧(マラリア)にかかり、日増しに衰えられ、秋には腫気を発せられ金剛院からの医薬祈祷の甲斐なく、10月17日、34歳で逝去された。夫の宗茂は清正の元(肥後・高瀬)を離れ、由布惟信、十時連貞の家臣らを引き連れ浪人の身で江戸に上洛の途中で京都にいました。誾千代の死により、父道雪の血筋は途絶える事となった。葬儀は山門郡瀬高上庄の来迎寺の2代、誠誉上人が引導され、法名は光照院殿泉誉良清大姉。遺骨をを肥後腹赤の市蔵という百姓の屋敷内に葬りました。来迎寺では誾千代姫の遺品の衣服や御道具をお金に換えて、田を買い、永代供養料することができました。その田んぼからの上がりは姫の供養をする来迎寺分、お寺分と呼ばれた。現在、寺の北西方面に小字名で来迎寺とある田がそれであろう。宇田市右衛門は、誾千代姫の遺命を受け、姫の墓の傍に庵を設け、供養の花や線香を供えました。
慶長8年(1603)、宗茂は江戸に上洛し、翌年には本多忠勝の推挙で江戸城に召し出される。家康は宗茂の実力を見込みの御書院番頭に召し出され5000石を賜う。
慶長11年(1606)、宗茂は陸奥国棚倉(福島県)に1万石を拝領し大名に復帰する。慶長13年には3万石に加増される。
慶長17年(1612)、実子がなかった宗茂は実弟直次の4男千熊丸(のちの忠茂)を生後まもなく養嗣子として迎えました。継室の瑞松院が江戸で千熊丸を養育したとされる。誾千代が亡くなって10年経っていました。
慶長19年(1614)と慶長19年(1614)の大坂の陣では、 宗茂(49歳)は将軍徳川秀忠の指揮下で活躍していました。 |
誾千代肖像(良清寺蔵)

長洲町赤腹の墓(ぼたもちさん) |
元和2年(1616)5月28日、闇千代の実母仁志姫(宝樹院)は肥後藩に仕官していた先夫の娘の於吉の婿、米多比 鎮久(のちの立花三左衛門鎮久)宅にひきとられていたが、肥後(熊本の柳川小路)にて亡くなった。命日の供養には、門註所家・米多比家・安武家(仁志姫の最初の嫁先)・城戸氏(道雪との媒酌人)・御信仰の荼枳尼天稲荷の守護、金剛院の密乗・宇田氏(誾千代が居住した腹赤村の市蔵の子孫で、誾千代の墓守)が招待されている。
元和4年(1618)、肥後の加藤家の牛方馬方騒動の後、米多比親子が宗茂公預かりとなる旅の途中に実母仁志姫の源覚寺に在った遺骨を、お里である久留米善導寺(浄土宗)へと改葬している。その時に闇千代の墓も建てられ親子そろって供養されている。さらに米多比親子は亡き誾千代姫が柳川城から持ってきて拝んでいた太郎稲荷を誾千代姫の遺言により棚倉へと遷宮され奉祀せられた。
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誾千代姫の墓石(久留米善導寺) |

中央に泉誉良清・右に慶長7年・左に10月17日と刻まれている |
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元和7年(1621)、大坂の陣の活躍後、宗茂が柳河城主に返り咲くと、正室の誾千代を弔うために、山門郡瀬高上庄の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である応誉上人を招き、城の北側に良清寺を建立して、光照院殿(誾千代姫)の菩提寺となし、年貢30石を寄付しました。また棚倉太郎稲荷は柳川城の中の島に遷宮された。寛永11年(1634)、33回忌を迎えるにあたって腹赤村の遺骨を良清寺に移しました。そして、それまで墓があった場所に供養等が建立された。形状から「ぼた餅様」と呼ばれている。墓守をしていた宇田市右衛門も移したときに同道し、柳川に居住し、数代まで御墓所掃除番を務め毎年米17俵を賜った。 |

良清寺 |

真ん中が誾千代の墓
向かって左は、5代藩主 貞俶の室、珂月院の墓、
向かって右は、珂月院の父、立花弾正貞晟(3代藩主忠茂の子)の墓 |
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赤腹村の誾千代の供養塔・「ぼた餅様」 |
八千子姫を祀る瑞松院 |
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肥後(熊本県長洲町腹赤に伝わるは伝承では柳川の立花氏の伝承といささか異なり、慶長7年(1602)10月17日、阿弥陀寺の住持淡海が、庄屋の許へやって来て言うには、柳河の女が寺前の古井戸に身を投げて死んだという。知らせを受け見に行くと本当であった。庄屋は村の者と寺の住持立会いのもと、哀れな柳河の女をこの古井戸に葬ったという。
寛永元年(1624)に宗茂公の継室の八千姫(矢島氏の娘)は江戸下谷邸で亡くなり、その遺髪が瑞松院に葬られ、その院号の瑞松院殿英誉春峰光森大信女にちなんで瑞松院と改められた。八千姫(瑞松院殿)を祀ってある瑞松院と誾千代姫(光照院殿)を祀る良清寺は、道を挟んで向かい合っている。、柳川では夜になると、良清寺と瑞松院から火の玉が飛び上がって上空でぶつかり合う光景が見られ、柳川の人々は「千代姫と矢嶋の娘が喧嘩している!」と噂していたそうな。なお、誾千代姫と千代姫とは生前の面識はない。
寛永19年(1642)、宗茂は江戸柳原の藩邸で死去した。享年76歳。戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。継々室の菊子(長泉院)は晩年の宗茂に寄り添い、その最期を看取ったとある。のちに長泉院は義嫁である2代藩主立花忠茂公の正室の玉樹院を大変可愛がっていたので、亡くなったのちに、玉樹院の眠る、柳川・蟹町にある玉樹院のおなじ墓所に葬られました。 |

玉樹院 |
元禄14年(1701)、第4代藩主の鑑虎(英山)の代になって不幸事ばかり相次ぎ。そんな中、第4代藩主の鑑虎は毎夜枕元に白い女性が立つのを見るようになる。思い悩んだ鑑虎は、当時80歳にもなっていた柳河藩の儒学者・安東省庵を召し出して、夢の事を相談した。思い当たる事があった省庵は衿を正して恭しくこう答えた。「私が思います所、その御方は誾千代姫でありましょう。2代藩主・忠茂公以来、御当家では誾千代姫を尊敬する事が薄いように思われます。姫は藩祖道雪公のご息女であり、宗茂公は高橋家から来た婿養子で、立花家にとって姫は国母と申すべき御方です。他の奥方たち(宗茂の後室、忠茂の室)とは異なり、国母として敬うべき御方であるのに、忘れられているかのようです。宗茂公とは不仲となり別離し、また開城の折、姫の幼少よりから慈しんできた、道雪公から仕えてきた老臣達の遺憾の念は山のようでした。他の奥方と違い、国母として大切にお扱いになれば、姫もご満足かと思います。」と言われ、鑑虎は大いに驚き、墓所の改修と寺への寄進を増やし、その年の10月17日に新しく墓所を造営。石塔を立てて、2つの甕に入れた姫の遺骨を地中の霊室に納めました。また新しく仏殿を造営し、新たに本尊の阿弥陀尊像を安置。20石を寄付したので寺領は50石になりました。それ以来、藩内での怪異は無くなったそうである。
文政3年(1820)に故人の立花宗茂に「松陰霊神」が、道雪の娘にして宗茂の妻の誾千代に「瑞玉霊神」の神号が贈られる。文政9年(1826)8月、宗茂公と誾千代姫の実父道雪の「梅岳霊神」と共に新しく造営された三柱神社(柳川市三橋町高畑)に祭神として祀られました。 |
三柱神社 |
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小説の冒頭は、誾千代の侍女であった女性の語りから始まります「摩利支天が、梵天よりこの地上に降り立たれたのが、誾千代姫様ででございます。・・・艶やかな絲で縅した甲冑を着けて薙刀をすっと構えられますと、それは神々しく、思わず頭を垂れてしまうほどいでございました。」から始まる。立花城の場面では「満月の夜誾千代姫が吹く龍笛は、いつものように静かに始まりましたが、やがて、狂わしいほど激しい調べとなって、聴いている女たちが「・・・夜叉が吹いているような」「夜叉などあるものか。天界の摩利支天が、姫様のおからだに降臨なさったのじゃ。・・・満月の夜なればこそ摩利支天が降りてこられた。」「、誾千代姫様が摩利支天になられた」と囁きあっている所に千熊丸が登城してくる。千熊丸がまりしてん(摩利支天)はイノシシの背に乗る唯一の海運勝利の女神であるが、千熊丸は猪乗った摩利支天では野暮くさいので、手彫で自作した虎の背にのった摩利支天をプレゼントする。」神を心の支えとして「噂に違わぬ武者ぶりよ」と猛将・加藤清正、豊臣秀吉にも一目置かれた誾千代姫。関ヶ原以降の立花氏の盛衰の歴史を丹念に描写しあり、柳川城を明け渡し肥後の赤腹村での最終編では、侍女のはつは子供の弥吉が病死してため苦にして古井戸に身をなげて自殺。誾千代は長い髪を切り、二つに分け和尚にひとつをはつと弥吉の亡骸と一緒に墓(古井戸)に一緒に埋めてもらい「宗茂様には私はあの井戸に身を投げてなくなつた」と伝えてほしいと言って、尼となって旅にでる、涙をさそう場面は史実と違うが良くできている。
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立花邸御花・西洋館で開催されたポスター |

(コーエー発売)戦国無双・立花権千代のポスター |
若者の人気ゲームソフトに「戦国無双」(コーエー発売)や「戦国大戦」(セガ発売)があるが目を見張る綺麗な画質で西洋風のキャラクター等を駆使して戦うのだが爽快でストレス発散によく楽しく夢中になる。難解な戦国武将の名前を覚え込むにはもってこいだ。私の好みは「戦国無双4 九州の章4「柳川の戦い」完 」である。この画質で4K高画質で立花宗茂と誾千代姫のアニメ時代劇を製作したらどうだろうか。直木賞作家・山本兼一氏の時代小説『まりしてん誾千代姫』(PHP研究所)の主人公・誾千代姫は、立花初代柳川藩主となった戦国武将・立花宗茂の正室である。人気イラストレーター・ワカマツカオリ氏の秀麗な挿し絵の表紙(装画)と「まりしてん」の題名にひかれ購読した。ワカマツ氏の描く凛とした誾千代姫の絵姿は、戦国ゲームソフトでも人気のキャラクターを意識してのことであろうか好感がもてる。 |

(コーエー発売)戦国無双・立花宗茂のポスター |
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引用文献:柳川藩私誌第2-1・2-2渡辺家文書 参考文献 吉田塾資料 良清大姉伝記 浅川聞書 瑞玉霊社記 「図解 仏像の見分け方 増補新装版」 大法輪閣編集部編/大法輪閣> |
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