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. 当初、藩の財政は農民による年貢米で賄っていました。武士の給料は米で貰っても米だけでは生活できないので余分な米を売って着物や野菜・日用品を買います。従って米を買いとる人や着物・魚・野菜を売る人や鍋釜などを作る人が必要となります。そこで、城下町には商人や道具などを作る職人が集まってきました。幕府が定めた金貨などの金属貨幣のほかに、約250藩が領内の通貨不足を解消する為、あるいは財政赤字の補填や借金の返済資金にする為、幕府貨幣と交換できる紙幣として、縦長の藩札を発行を許可した。柳川藩では3代藩主の立花鑑虎の寛文・延宝(1661~1681)の頃に立花孫左衛門は武家たちに、御蔵米渡し(現物支給)に際して手形(交換紙幣)を発行した。手形で譲与売買できるようにし便利になった。孫左衛門は大鶴の姓であったが、この功により立花の称号を許されている。 元禄元年(1688)頃に戸次数馬が「札遣役」となり正貨(金貨)と交換できる札を発行している。のちの藩札と同様で柳川藩札の始まりと言われている。江戸時代中期頃には、商人が扱う商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達し、貨幣が全国的に流通するようになった。商品の量や種類がふえ、複雑化していったので、商人も分業化するようになり、問屋や仲買や小売商の区別ができた。問屋どうしの中でも分業は進み、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、藩が専売特権を認めた「株」を授けた米問屋や、塩問屋、油(菜種油)問屋・茶問屋・紙問屋などに、専業化していった。造り酒屋も酒株が授けられ酒問屋仲間ができ、藩の規制の元、酒が造られた。富豪商人や在宅役人や富豪農民のなかには副業に積極的な金融・土地収集により大地主になる者もいました。藩の年貢米・専売品の流通に関与したり両替を扱う御用商人の中には苗字帯刀が許され、扶持米(給与)が与えられるなど、武士に準じた身分的・経済的特権を与えられる者もいた。でも、藩札発行では貧困な藩では信用がなく、裏書人(保証人)なったり、参勤交代のたびに上納金を要求された古文書を沢山見かけます。ここでは、藩の財政を支えた柳川藩札と藩札の裏書き人、あるいは私札に登場する御用商人らを取り上げます。 . |
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紅粉屋・後藤七郎左衛門 栁河町中町 | |||||||||||||||
紅粉屋(後藤)は藩内最高の富豪であった。後藤七郎左衛門は博多の商人で立花宗茂が立花城城主であった以来の問屋である。天正16年(1588)に立花宗茂公が立花城城から柳川に入城の時に一緒に来て紅粉屋(化粧品店)を開業したとみられる。後藤は上納金改役を仰せ付けられ藩納入の金員はすべて紅粉屋の印を必要とし、そこで紅粉屋はその金額に応じて手数料を受取っていた。今の銀行のような仕事をしていました。宗茂は関ヶ原の戦いで豊臣軍として戦ったが敗北し浪々の身となり、のちに徳川に仕え、奥州棚倉の領主となる。紅粉屋は奥州棚倉にいろいろな物を届ける。これが藩主の田中吉政に知れ商売を止めされていた。宗茂再城の元和7年(1621)2月12日に紅粉屋に御泊りになられた。紅粉屋の後藤七郎左衛門の妻は、すばやく宗茂公に御祝辞を呈し、熨斗(進物)献上した。以来代々の藩主の入城の節は、小道具町にある御客屋( . |
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島田六兵衛 . 栁河町西町(西魚屋町) | |||||||||||||||
島田六兵衛の家は、宗茂公が領していた陸奥棚倉(福島県)の魚商であった。宗茂公が柳川に再城される時に、柳川に来ないかとの仰せがあり、直ちに仕度をして、島田駅(宿)にて宗茂公に追いつき、お供して柳川に来た。よって島田の姓をもらって代々明治維新まで魚問屋の元締めである「魚問屋役」を仰せ付かった。ほかの魚屋販売業者は柳川に来れば、まず島田氏の店に置き、直接売ることはできなかった。勝手に売った場合は、魚類は没収され、柳川にて販売することを禁じられた。文化11年の(1814)発行の米札一升がある。女優の新珠三千代の母の里である。現在、当主は筑紫野に引越しされている。 |
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江口吉右衛門 栁河町 | |||||||||||||||
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佐谷儀兵衛 栁河町上町 | |||||||||||||||
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甲木藤右ヱ門 | |||||||||||||||
甲木氏の祖は蒲地鎮久といい、柳川の領主蒲地鎮並の長兄で、その子の鎮友という人がいる。鎮友は藤右ヱ門(法名宗徳)と言い、天正9年(1581)の柳川落城の際に乳母に抱かれて肥後に落延び、のちに柳川に帰り、立花宗茂の命で甲木を継ぐようになった。藤右ヱ門の家は代々問屋をして海外貿易に従事していたであろう。立花忠茂(宗茂の養子)から藤右ヱ門に宛てた書状に南蛮菓子二包み、胡桝一袋、丁子(香辛料として使用)一斤、唐墨一挺、豹革一枚、砂糖漬の菓子一箱等々献上品の数々の礼状が保存されている。甲木家は江戸初期に栄えた問屋であったが、享保12年(1727)正月晦日の蟹町の火事の為に一時没落し、安永元年(1772)に柳川から現在の瀬高町小田の地に移り住むようになった。小田への移住はこの火事から45年後で、商売も思うように、行かなかったのであろう。(昭和18年12月柳川市本船津町甲木興一郎氏調査)当家の古文書に「山門郡一木村之内 手前開之高 三十三石六升七合 寛永四年(1627)十二月十一日御書付」があるが、これが甲木開で3ヘクタール余の小さな干拓地で南本土居のすぐ外の甲木開とみられる。また大和町古開の北にある甲木開や同町の皿垣開の南にある甲木開も甲木家が干拓した土地であり末裔の甲木鎮衛氏によると、先祖が開いた土地で、同所の神社の祭礼には甲木部落から御酒御供が毎年届けられたと言う。 . |
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【柳川藩札発行】 江戸中期には柳川藩では藩の財源を図り酒造業を推奨したとみられる。元禄15年(1702)5月に山上九左衛門が勘定所に報告、更に高畠友右衛門が幕府筋に報告した記録には、柳川藩内の酒造米、4053石、酒屋115軒とあり、藩の生産石高は5000石ほどで、1軒あたりにすると、42石ほどで親樽2本に入る位の少量で、家族で造り店頭で販売する規模の酒屋であったろう。翌年元禄16年には櫨運上制を定め木蝋の製造を促進し、田畑や道筋には、木蝋の原料となる櫨(ハゼ)の木が多く植えられた。船に依る各地との交易が盛んになり、産物や商品を取扱う問屋、そしてこれを売り捌く商店が出没し、貨幣の流通も増えてきた。 宝永元年(1704)7月20日に新銀札が通用となり、宮川市郎左衛門を「札遣い元締役」とし、三池茂兵衛正利を「札役所目付役」とした。藩の財政は貧しく、金を富豪に借りて正金の引換えなど対応した。しかし幕府による藩札への対応は二転三転している。翌年宝永2年に幕府は諸藩が競って紙幣を乱発した為に札遣停止される、宮川武固を「札取仕舞役」として、その跡始末をさせた。しかし翌年宝永3年には再び札遣を始めたようである。翌年宝永4年(1707)7月25日には幕府発行の貨幣の流通が滞るとしてすべての銀札通用が停止されてた。10月には立花自楽が江戸から帰って「金銀札遣用掛」となった。10月22日に幕府は諸藩の藩札使用を禁じた。立花自楽は「札仕舞役」であったろう。 【米価の低落による藩の金貨不足】 . 享保2年(1717)8月、藩の財政は逼迫につき、会所から取替え銀は堅く停止の令が出された。藩は極秘に胴金(準備金)を他用に使用したと思われる。享保4年(1719)藩は参勤交代の金不足につき有力商人に上納金を命じ、不納の者を罰した。享保7年(1722)幕府は参勤交代の在府年限を半年に短縮する代わりに、万石以上の大名に1万石に付き100石の上納米を課して米価の引き上げを狙ったが効果なし。享保15年(1730)、享保の改革で米の価格が大幅に下落し、さらに藩の金貨が不足する。結局は豪商に頼るしかなかった。幕府は諸藩の財政を救済する目的で領国の石高が20万石以上であれば通用期間25年、20万石以下であれば通用期間15年などの条件付きで藩札の発行が再解禁された。享保17年(1732)夏、西日本で梅雨の長雨と冷夏により例年の3割弱の収穫となり藩内の飢民(飢えている人々)は4万5千人に達する享保の飢餓が起きる。幕府は幕府米1万5千8百石を貸与した。享保19年(1734)11月に家老の矢嶋菜女は内証方の困難を幕府に申し立てている。この混乱のもと吉宗の改革は途中で終わってしまいまい、しかも、その低落状態は、豊作の続いた文化・文政期(1804~1829)まで続きました。 . 延享2年(1745)12月23日に柳川藩は幕府に銀札発行を了承してもらい、藩札数種を製して15ヵ年の有効期を以て発行し、財政経済の救済策とした。藩札には貨幣ではなく物品との兌換(引き換えること)を明示した預り手形(現在の商品券に相当)形式のものもあり、この種のものでは米札が多かった。また商家や豪農などが発行した私札もあります。藩札は、和紙に木版刷りが基本であったが、手書き墨書の札も少なくない。 寛延元年(1748)は豊作となる。 宝暦3年(1753)3月18日、上庄吉郎右衛門は物成および郡役所に献金し賞されている。幕府は各藩からの大坂送りの米が大量になると、米の価格が下がるので、高1万石につき籾1000俵の割合で藩内の蔵に貯蔵するよう諸大名に「囲い米令」が出された。本来、酒造用の米の使用は贅沢なこととして幕府は抑制していたが、藩のは物成役は有余る蔵の米を酒造家に買取らせ無制限に酒造りを推励し、さらに新規免許を認めて消費拡大に努めた。山川町清水の徳永家に伝わる文書によると、酒造りを行っていた時代に、藩の物成役は製造できる蔵の能力以上の大量の白米の払下げを命じ金貨の調達をしている。この頃に柳川藩の酒造家が増えたとみられる。ただし不作の年では、食糧に廻され酒造りを禁じられ、不安定な経営を虐げられている。この年の米価は米1石に付き45匁。50年前の元禄16年(1703)の1石に付き92匁の半値である。 宝暦3年(1753)に銀札で弐文目と壱文目を発行している。引換者名(裏書人)に甚八・小田村新兵衛の銀札が見つかっている。 天明7年(1787)に柳川米札「壱斗」を発行、引換所は御米役である。 寛政元年(1789)に幕府は、米価調節を目的として高1万石につき50石ずつの囲米を翌年より5年間続けるよう令し、同時に旗本に対しても囲米を奨励している。 . |
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寛政3年(1791)「弐斗5升」の米札を柳川御米役所札が発行。 寛政4年(1792)3月15日に柳川御米役所は「五升・壱斗」の米札を発行。墨書。表に「御物成之内可相渡候」とある。 . . |
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文化4年(1807)5月柳川両替所は米札「米五升・弐升を発行した。表に御物成之内上納之米と記載されている。 【柳川藩の六四銭藩札とは】 . 西日本では、「銀○匁」でもなく、「銭○文」でもなく、「銭○匁」という単位で取引する(銭匁勘定)習慣がありました。 金1両=銀60~65匁 銀1匁=銭80~120文と相場は毎日変動する為に藩によって銀札1匁に付き10~100文の違った値を付けました。柳川藩では銀1匁=銭64文とし「六四銭五匁預り」は、銀1匁=銭64文ですから、銭拾匁は640文 銭5匁は銭320文になります。一見銀貨単位の呼称ですが、実態は銭貨での取引です。これは西日本の商人は「銀」で勘定することが多かった。一方、庶民は「銭」を使うことが多かった為と思われます。柳川の郷土史研究家・故武松豊氏の論文では、徳永正治氏所有の文書の記載「代六四七拾貫五百目壱両に付き弐百三拾五匁かえ」の文章を見出し、金貨1両が64銭札では235匁であるならば、銀硬貨1匁で購入できる物品を64銭札で買う場合3.62匁を必要とする。(金1両=64匁として)235÷64=約3.615匁を必要とする。単純な計算ではあるが、江戸期の商人は相場変動により計算していたのである。阿部文書などの交換割合でも交換割合は、ほぼ一定している。この比較的価値が安定した64銭の名の紙幣で、その点が変動幅の大きい、次の天保時代の主流である米札との違いであろう。(コインの散歩道、柳川藩の藩札・武松豊著、参照) 。 . 同年の文化4年、柳川両替所より銭札の64銭藩札「壱拾匁・5匁・弐匁五分、1匁(144×40)、五分(141×36)、二分五厘」の6種類の銭札を発行した。 銭64文を銀1匁と仮定してこれを発行し、裏書人47名の御用商人に換両替の義務を負わせ、その額は富力に比例させた。御用商人の筆頭は柳川中町の紅粉屋五郎兵衛で、金銀改役も勤めた。見つかった銭札の裏には藩の御用商人の江口勘右衛門・西嶋利平次・田中藤三郎・志岐平左衛門・吉原正左衛門・永江七郎兵衛・原田伊兵衛・田嶋利左衛門・四ケ村勝右衛門・両替所沖端矢野藤太・家永九右衛門・富安長右衛門(京町)・諸藤弥平次(酒屋・片原町)・堤源次(酒屋・新船津)・堤九左衛門・大坪權内(庄屋・江浦)・田中重右衛門・福島惣兵衛・高柳村伊平次・田中康三郎・松尾卯平太・中村次郎右衛門・安(阿)部善蔵(酒屋・下庄)・石橋文蔵(瓦製造・下庄)・石橋藤七・板橋伊右衛門(庄屋・芳司村)・浅山平五郎(酒屋・本郷)・中嶋次七・河野順内・伊原次郎吉(上庄)・森喜兵衛(問屋・上庄)・久富勘右衛門(酒屋・上庄)・伊原次郎吉(別当、庄屋・上庄)・石井治平・田中正左衛門・(他にあり)総人数47人を裏書きさせて藩札を発行した。赤字の人物は所在や経歴が判明し紹介する特定御用商人や大地主です。 |
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文化6年(1809)両替所は文化4年の藩札の64銭藩札「銭壱拾匁、五匁、弐匁五分、弐分五厘」などの6種の銭札に「巳甲改別段」、「巳(文化6年)五月改」を加印して追加発行した。 . |
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【偽造札防止策・透かしの採用】 文化・文政年間は米札が主流として発行されている。文化・文政時代の藩札製造で偽造防止の為に透かしを入れた。透かしは紙をす漉く過程で、部分的に紙の繊維が薄くなるように工夫することで、紙幣に文字や絵柄を透かして出す技術だ。 .
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【米札の発行】 文化7年から米札が御物成役所から発行され、しだいに64銭紙幣が影を消していく。 文化7年(1810)御物成役所は「壱斗・5升弐升・壱升・五合」の米札を発行.。発行の「米5升」の米札(薄茶藩札)の表に「上納米之内可相渡候」とあり、裏に「五月廿三日」「両替所下庄本田又兵衛」の記載がある。ほかに「米弐升」の藩札に大坪權内(江浦)の名がある。 文化11年(1814)柳川元締は手書きの「弐升・壱升・五合」の米札を発行。通用期間は2年で3月限りであった。裏書人に西町の島田六左衛門の名がある。 |
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. 文政3年(1820)8月、柳川藩は大坂加島屋から金二万両、また茨屋ほかから三万五千両を借用して、一時の急を救い、領内の産物、米・麦・辛子(菜種)を大廻し、これを売却した。 文政4年(1821)5月柳川元締は「弐升・五合」の米札発行。通用2年で文政6年3月限りとした。裏書人に諸藤弥平次(酒屋・片原町)・浅山平五郎(辻町)・広田七衛門(細工町)・習小屋次兵衛・田中常右衛門・高橋村治三郎・源之助・中村伊兵・松尾喜兵治・中端江町茂兵衛・新吉・勘右衛門・中島清助・矢野万歳・新町七兵衛・細工町多吉・材木町庄之助・松尾町平次・辻町茂助・坂木東町忠吉・原町弥兵衛・船津町伊兵衛・細工町彦次などの裏書人が見つかっている。 文政5年(1822)2月2日、柳川元締から発行され「一升」の米札で文政7年3月限りの期限付きで、裏書人に矢野万歳の名が見つかっている。 文政7年(1824)同所の「五升」の米札で文政9年3月限りの期限付きで、裏書人に中島清助の名が見つかっている。 文政9年(1826)2月11日同所発行の「米壱斗・壱升・五合」があり裏書人に松尾喜平次の名がある。同年、3月7日発行は「米壱斗」は文政11年3月限りで裏書人に本田新兵衛、渡り所は沖端徳三郎。本田新兵衛は瀬高下庄の人であろう。同年、3月14日発行の「米五合」札で見つかった札裏に兼松町喜兵衛、渡所○○○○○とある。兼松町は八女郡立花町兼松である。 文政10年(1827)にも同所から「弐升・壱升・五合」の米札で見つかった札の裏書人に永江七郎兵衛門の名がある。 文政11年(1828)11月、田町御蔵(柳川市田町に沖端川の左岸、柳川出橋下流堤防上に7棟の米倉庫があった)の田町会所から「弐斗・五合」の藩自体発行の米札がある。 文政13年(1830)5月、米会所発行の「弐斗・壱斗・五升・弐升・壱升・五合(150×40サイズ)」の米札がある。 同年、両替所から「弐斗・壱斗・弐升・壱升」の米札がある。 文政年間は米札が主流として発行されている。五升札は銭200文に相当させたという。 |
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【天保時代の米銀札について】 天保時代には完全に米札が主流にとなった。米札には弐斗札は銀10匁、壱升札は銀5匁、弐升札は銀1匁として使用される。しかし、藩外から物を輸入する場合、幕府発行の通貨でないと通用しないので、両替商などで両替をする必要があったが、現在と同じく為替相場が毎日変動するのと似た状態がみられ正銀との間には大きな差があった。 天保3年(1832)柳川札役所から、「銀拾匁・五匁・壱匁・五分」の銀札を発行。保証品として米のほか生蝋を提供し大坂で改印して為替手形の様式を取り、領内の不信用を大坂引請の形式で補充し、大坂に対しては領内の重要産物である米と生蝋の販売を広めようという信用持続の策に出たのである。しかしこの札を産物方一手の支配に委ねたために弊害が続出した為に、十時摂津惟恵や吉弘儀左衛門、戸次親道が産物方の運用に対して苦言を書いた古文書が残されている。また各藩は藩札の信用を落とす偽造に手を焼いたようだ。柳川藩はサンスクリット文字を札に刷り込み、文字知識がないと偽造できないようにしていました。サンスクリットは古代インド・アーリア語に属する言語で、古代インドでは宗教、文学、哲学にとどまらず、数学、天文学、医学、建築学などの分野の文献もサンスクリット語で書かれています。仏教やジャイナ教でもサンスクリット語と俗語が併用されていた。日本では、近代以前から梵語としても知られて、今日でも墓の卒塔婆に見ることが出来ます。なお弁財天の背後の図柄に「ヤナカハ」の隠れ文字が一字ずつ配されている。また裏面上段は太上神仙霊符十二文字の一字で「複」を図案化してある。現在、柳川商工会から発売されている「プレミアム柳川藩札」はこの天保3年の藩札を模してあります。
天保4年(1833)、藩は天草の豪商の石本平兵衛から急場凌ぎに干拓地を保証(担保)として3500両を借用せねばならない程、財政が悪化していた。 天保5年(1834)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札がある。両替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。ところが、これは大坂の鴻池庄兵衛(鴻庄)から借用した金の為に発行されたもので、鴻庄で引換える際は大坂蔵屋敷で改める事との但し書きがある。(為替の形式) |
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諸藤弥平次 栁河町片原町 | |||||||||||||||
諸藤弥平次は上久末(現・三橋町)の出身で、若い頃に筑後川下流の大善寺の西黒田で船乗りをしていた。その後、船主となって問屋を始め、のちに片天保年間、柳河町片原町で問屋(酒造業)あるいは問屋を営んでいた富豪である。諸藤は藩の家老や権力家に、下女下男まで必ずお土産を差し上げ、その家の夫人や子供には、菓子箱の下に金銀を敷き贈るなどとして信用を得て、藩政の枢機に参加し、大阪船積廻し、物品販売上にて利益をあげていたという。藩札64銭の裏書人になっている。諸藤弥平次は藩令を受け決壊した本郷の矢部川堤防工事を行った。屈曲した所で川底深く、水流強く堰き止めるのが困難であったが一計を案じ酒桶数十個に石を入れて川底に沈め遂に難工事を成功した。今に至るまで、この付近を弥平次開(三本松)と称されている。五十町などに建立した地蔵尊、上久末天満宮の鳥居がある。墓は上久末の共同墓地に立派な墓(屋根付、胴体円筒)がある。 . |
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相浦專内 栁河町中町 | |||||||||||||||
相浦專内は柳川市中町衣料品の大商店だった相浦醇氏の祖で、代々衣料品を取り扱った問屋である。文化3年(1806)、相浦專内は福厳寺の御用御買入米のほか、前年度からの受払に大変な働きをしたことで、翌年に藩より褒美として上下( 精を出して物事を行ったのか
、当年の10月14日の御用方再任状には、相浦專内、中村次郎右衛門、富安長右衛門、諸藤弥平次、永江九左衛門の5人が再度御用聞に仰せ付けられ5人扶持を頂いている。專内は嘉永6年(1853)5月17日に没している。. |
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富安長右衛門 栁河町瀬高町(京町) | |||||||||||||||
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迎定次郎 栁河町瀬高町(京町) | |||||||||||||||
天正9年(1581)、柳川城主の蒲池鎮漣は肥前(佐賀)の須古城に向かう途中、肥前の龍造寺隆信軍に殺され、下蒲地家は滅び、龍造寺家晴が佐嘉から柳河城に居城したが、それに伴い迎家の先祖は佐嘉から柳河に移り住んだと言い伝えられている。いつ頃から商人として活躍したかは不詳であるが、過去帳による家系図では元禄年間頃には1代目(仮定)迎半左衛門( ?~享保元年・1716)が商売をやっていたと推測される。2代目半左衛門( ?~1720)3代目半左衛門( ?~1747)4代目半左衛門(1751~178?)と続き、同名を名乗っているところから藩から任命された御用商人であったと、推測される。いずれも本光寺に葬られている。5代目は迎治右衛門( ?~寛政2年・1790)で西方寺に葬られている。6代目迎松衛門(1760~1822)から西町(西魚屋町)の日蓮宗・台照院の信徒に変更している。7代目迎定治郎(正信)は安政2年(1855)に迎半左衛門と迎定次郎の2氏の名で台照院の本堂前に大きな一字一石塔の供養塔を建てている。(一説には天正15年(1587)に肥後国人一揆の首謀者である隈部親永一党を放し討ちを行い見事全員を討ち取った時の城内・黒門橋の供養塔を台照院に移設したという。)半左衛門とは先祖から藩から賜った名である。また本堂内の右座には迎正信が目の病が完治した御礼に寄進した三十番神の仏像30体がある。当時かなり繁盛した豪商で、嘉永5年(1852)の柳川藩の「永代扶持拝領者名」の記録では藩に米700石を寄進した新船津町の森繁和吉の10人扶持に次ぎ、米600石と金100両を寄進して9人扶持を賜っている。(扶持とは藩からの俸禄・給料)8代目迎治三郎(1856~1916)で幕末から明治の混乱の中活躍している。迎家には西方寺、本光寺、台照院と長い年月に渡り先祖を葬った菩提寺がある。迎定次郎の屋敷は富安長右衛門の店の道を隔てた西隣(現・亀屋、佐賀銀行柳川支店)の場所に古舗であり、向え側には隠居屋敷があった。迎家は古文書などから、立花藩の御用商人として両替商・薬・材木の商を営んでいたとされている。元治元年(1864)に田町御蔵から今摺米三百俵を11月25日限り引取で買入れた米切手で、その内の180俵を藤市、儀右衛門、今村治左衛門、木下庄右衛門の4氏に分売し、残り12俵を売り払ったと見られる裏書きの銀会所発行の米切手がある。明治5年(1872)の旧柳河町の酒造家の免許税(5分税)によると、迎半次郎は一番高額の37円6銭3厘を納めており豪商ぶりが解る。店舗の東側の並びには酒蔵が並んでいたという。維新後は佐賀出身の大隈 重信と交友があり、筆不精の重信の直筆の手紙が残されている。曾孫の定次郎は柳川商工会儀所専務であった。佐賀県には今も迎姓が多い。 | |||||||||||||||
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石本平兵衛 天草 支店・栁河町瀬高町(京町) | |||||||||||||||
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永江七郎兵衛 現・柳川市南浜武 | |||||||||||||||
古文書によると永江氏の先祖は永禄3年(1560)の築城の江浦城主の永江勘解由左衛門である。文化7年(1801)、父親の永江九左衛門は柳川藩の御用聞5人のうちの一人であった。文政11年(1827)発行の「銀壱匁」の銀札の裏書人に永江七郎兵衛があり、現・柳川市南浜武、十四町開の地頭であった。天草の豪商石本平兵衛が幕府の処分を受け、柳川地方の商家からも、しばし金を借りたが、天保14年(1843)、獄中で病死した後に連鎖的に豪商の永江七郎兵衛も倒産している。
明治24年(1892)に高田町江浦町に末裔の永江氏が薫蘭酒造「薫蘭」を創業している。 . |
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井出善兵衛 肥前早津江(現・佐賀市川副町早津江) | |||||||||||||||
佐賀藩の井出善兵衛は親戚の弥富元右衛門と共同事業で筑後川の河口近くの肥前早津江で「かね善」の屋号で酒造業、両替業を営む県下屈指の富豪でした。佐賀藩の天保の改革で農地を失った上に「相対借銀猶予令」により痛手を受け、その難局を乗り切る為に柳川藩に接近し、以前から海運業者だった彼は、天草の魚の干物などを柳川藩内に持込んで販売したり、藩の蔵米の払い下げを受けて、大坂の堂島で換金し、その金で帰りの船で瀬戸内海沿岸の原綿を仕入れて柳川藩内で販売するなど、佐賀・柳河両藩の御用商人となり活躍しました。安政3年(1856)に藩の財政に寄与したことで柳川藩の家老の立花壱岐から「かね善」は、それぞれ三人扶持の追加増を受けています。 . |
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高椋新太郎 文化14年(1817)~明治14年(1881)9月12日 栁河町瀬高町(京町) | |||||||||||||||
高椋新太郎は20歳で父の許可をうけ、豪家から30両を借り受け、八百屋町に魚問屋を開き、商才に優れ藩内で評判となった。当時の「魚百五十目也預かり」の魚問屋の私札を発行している。その才能を買われ、天保7年(1836)、天草の幕府御用達の松坂屋の石本平兵衛が藩主に会う時に高椋新太郎は随伴して藩主に見出され、大いに経済財政の手腕を発揮し、石本平兵衛失脚後は新太郎が藩命を受けて日田、天草、長崎などに往来して、柳川藩の藩財政の建て直しを委ねられるようになり各地の豪商を訪ねて金策に努めた。家老の立花壱岐の命を受け、新太郎は大阪の鴻ノ池や加島屋の大富豪から1万両という大金を借りようと、料亭で彼らを接待した。その際に、相撲界入りに当たって世話になった義理を果たすべく一肌脱ぎ、巨額融資の白星に貢献したのが伝説の柳川藩お抱えの第10代横綱・雲龍だった。当時大関だった雲龍は弟子と共に料亭に乗り込み、待機していた。そして宴たけなわのころ、ふすまがパーツと開けられると、雲龍らは揃い踏みを披露した。鴻ノ池や加賀屋は、それに度胆を抜かれて大金を融資したという伝説が残っている。新太郎の奇策とふるさとを想う雲龍の勇気が柳河藩の窮地を救ったと言われており、その功績により新太郎は年行司格として帯刀が許され商族から士族に列せられ12人扶持を頂いた。明治になり三瀦県庁為替方。醤油の醸造業を営み、また第九十六国立銀行設立、初代頭取となる。明治14年(1881)9月12日に亡くなり西方寺に墓を建て葬られている。 | |||||||||||||||
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田中惣右衛門 栁河町細工町 | |||||||||||||||
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武松甚吉 栁河町外町 | |||||||||||||||
武松家は天保年間初め頃に分家し城下の外町に店を構え綿・紙・茶・菜種・白蝋・米を手広く扱う豪商だった。幕末には柳川藩の御用商人を勤めた。武松甚吉は専売・藩札発行をおこなう札座役所(札役所)・銀会所への胴金上納を行ったり、藩士給米手形の預託を受けたりしている。明治4年(1871)に新政府は、これまでの酒造株(鑑札)制度を廃止し、太政官布達「清酒濁酒醤油鑑札収与並収税方法規則」を発布し、営業税さえ納めれば、自由に酒造業を営むことができるようになる。武松甚吉も地主酒造家として起業した。子供の虎太郎、さらに孫の茂久太郎に引継がれている。虎太郎は明治8年(1875)暮以降に業務開始された郵便為替制度で柳川郵便局の為替掛屋を制度が終わる、明治17年(1884)まで勤めている。末裔の税理士を営む武松豊氏は柳川史談会において江戸期における経済学を研究されている。 .. |
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吉原正左衛門 現・大川市小保町 | |||||||||||||||
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北原嘉左衛門 沖端 | 近藤伊之助 沖端 | ||||||||||||||
酒造家。嘉永5年の永代扶持拝領者の記録には、藩にそれぞれ米400石を寄進し5人扶持を賜っている。 | |||||||||||||||
大坪權内 現・高田町江浦 | |||||||||||||||
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藩政時代では農民の納付した物成(年貢)の米を、藩の御蔵の浜から船で大阪中ノ島常安町の「柳川藩蔵屋敷」に収められ藩米を売却された。その時に発行された有価証券を米切手(蔵米札)と言った。蔵屋敷には派遣された役人が販売・金融業務を担当していたが、その地元の有力や豪商(古切手に大坂の鴻池などがある)を掛屋と定め産物を販売し、金貨などに交換する勘定に当たらせていた。また柳川藩内の御用商人にも販売し、長崎交易などにより金貨を入手させ、その金で江戸藩邸の費用や参勤交代その他の費用に使っていまいた。当事、江戸では「金」が流通通貨だったのに対して、大坂では「銀」が流通していました。通常の受け取りは「金」でした。当時の両替商での交換比率は「金一両が銀60匁」でした。今でも領収書の金額に「金○○円也」と書くのはこの名残りです。 . |
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文久3年(1863)、銀会所から「米450俵」の手書きの米切手が発行されている。買受人に森恵吉(瀬高上庄の酒造家)とある。(下記説明) 元治元年(1863)、銀会所から「今摺米300俵」の酒切手が発行されている。買受人に迎定次郎とある。 慶応年間(1865~1867)に家老の立花壱岐から600両の資金調達の要請で、高椋新太郎は220両、武松甚吉は160両、迎家・中島家がそれぞれ110両の合計600両の調達をしている。 慶応元年(1865)、銀会所から「酒7梃・酒粕3000斤」。慶応2年(1866)、「酒50梃」。慶応3年、「酒50梃」の酒切手が発行され、買受人は森恵吉である。 明治元年(1868)、銀会所から「酒110梃」の酒切手が発行され、買受人は石橋文蔵(瀬高町下庄)である。 明治元年(1868)、銀会所から「油14梃」の油札が発行され、買受人は川原三次郎(瀬高町下庄)である。 明治2年(1869)、銀会所から手書きの「壱五匁・拾匁・五匁」の銀札が発行された。 . |
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久富勘右衛門 瀬高上庄 | |||||||||||||||
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森喜兵衛 瀬高上庄 | |||||||||||||||
森家は藩の御用聞の米問屋であった。藩の米倉であるお倉の浜(上庄西新町)の番人、管理人の役目でもあり、大地主でもある森家は藩に資金の融通をし、酒造りの免許を得て酒造業を創める、江戸末期には藩内の酒屋の元締め的立場になった酒屋である。幕末には柳川藩に相当額の融資を行ない藩の財源を援助している豪商であった。明治に入り新通貨制定に伴う藩札の引換え時点で損害を被ったであろう。酒蔵は明治(年数不明)になり閉じている。幕末の天保7年(1836)の規定書や文化4年(1807)の森喜兵ヱ裏書きの藩札が森正道氏宅に残されている。襖の下張りからも酒屋当時の古文書が見つかっている。 慶応元年(1865)銀会所(柳川藩発行)の藩札の保証人となっている。明治21年(1888)に酒屋であった森豊蔵氏宅に郵便局が移転し郵便業務を請負う。当時は名誉職であった為小学校学務委員を兼任していた。明治33年頃も大地主で瀬高でトップクラスの富豪家であった。森喜兵ヱは文化4年(1807)発行の藩札の裏書人でもある。 |
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伊原次郎吉 瀬高上庄 | |||||||||||||||
伊原次郎吉は上庄の別当(瀬高駅駅主)および同町の庄屋で、別当は文化元年(1804)に別当役となり、文政6年(1822)まで20年間、庄屋職は文化6年(1810)庄屋となり15年間勤めている。次郎吉の祖父は次郎吉と言って別当、庄屋職を勤め、それまで4代を重ねている。文化7年8月に御染地を拝領している。それは御郡代様ならびに御手代三池御領へ年々お越しの節に御休み儀につき心配した御褒美として拝領したものである。(本郷村大庄屋日記参照)文化4年(1807)5月柳川両替所から米札が発行された裏書人に名がある。 . |
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阿部善蔵 瀬高下庄新町 | |||||||||||||||
阿部酒造(甘露)の先祖は宝暦元年(1751)には |
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石橋文蔵 瀬高下庄談義所 | |||||||||||||||
石橋家に伝わる古文書によると石橋彌八郎は永禄12年(1569)8月13日豊後国玖珠郡筧村吉弘館で生まれた。天正年間(1580~)筑前三笠郡岩屋城主の高橋招雲に仕え、50町歩を領し銅百貫文を賜り、土木権介(権官)に任じられ粘土を煉り、山間で瓦を焼くことを業とした。後年、肥後国阿蘇郡で瓦工業の家に客食し、製瓦の法を実地に研究すること数年、技術を体得して去り諸国を歴遊した。たまたま長州下関にて柳河藩の老臣の十時摂津に面会し、それが機縁となって立花家に迎えられた。元和8年(1622)に老臣は石橋彌八郎と計画し瓦製造に着手した。まず場所を瀬高下庄談義所に設け、この場所を瓦田・河原田と呼んだ。石橋家はその道に従事すること13代、子孫相次いで他業に転ずることが、できなかった。そのかわりに藩内で他藩製の瓦を用いた家があれば、これを剥ぎ取る権利を与えられた。(高田町誌参照) 初代石橋彌八郎は、さらに瓦職人の . |
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石橋家古文書・一部分(柳川古文書館寄託) | |||||||||||||||
池田彦太郎 下庄・上町 | |||||||||||||||
天保7年(1836)酒造組合規定書に池田彦左衛門の名がある。代々酒造業を営む。池田又左衛門は天保10年までに新船津の森繁和吉。細工町の永江七郎兵衛などの御用聞の仲間と蔵米販売の実績を残しました。江戸末期の嘉永5年(1852)の永代扶持拝領者名の記録に、池田彦太郎は藩に700石の寄進米を差し上げ褒美に8人扶持を授かっている。当年では阿部酒造の370石寄進・4人扶持拝領を抜いて上位の記録であった。残念なことに当家には歴代の古文書が残っていないとの返事であった。 | |||||||||||||||
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星隈慶次郎 下庄・談義所 | |||||||||||||||
談義所の浜の周辺の土地を所有し、藩の特産物の交易に関わり財をなした商家です。柳川藩は百田紙・明治以降は紙問屋を営んみ、後に栄町の劇場前で文房具店を営んでいる。 | |||||||||||||||
牛島竹次郎(米宗) 下庄・中町 | |||||||||||||||
牛島家は談義所から地元物産を長崎・京浜地方に売り、帰り荷は京浜より呉服を仕入れて店売りを始めた呉服問屋として栄えた商家とみられる。 |
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久富徳蔵 下庄・田代 | |||||||||||||||
田代は江戸期において白蝋の生産地でした。武田蝋屋や小規模の蝋屋などで製造された生蝋(黄色)は、さらに下庄田代の晒業者(さらしぎょうしゃ)に委託し、カンナで削られ天日に晒しを繰り返して再精製した上質の白蝋(はくろう)も作られた。これらの白蝋は柳川藩の統制下でお蔵の浜(上庄)から帆掛舟で長崎や大坂などに運ばれ、ロウソクや髪結いの鬢付(びんつ)け油の原料になっていました。幕末には大量の櫨蝋を薩摩藩が買い占め、上海のヨーロッパ人に密貿易して、軍艦輸入や軍備の資金を稼ぎました。久富家も藩の御用商人として白蝋の生産や長崎・下関との交易に関わったと推測する。大正・昭和初期では草履の製造を営んでいられた。最後の当主は久富勲商店であった。保育園の敷地に売却されている。 |
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川原三次郎 下庄新町 | |||||||||||||||
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本田又兵衛 瀬高下庄中町 | |||||||||||||||
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板橋伊右衛門 下妻郡芳司(現・瀬高町文広) | |||||||||||||||
板橋伊右衛門は先祖から村の庄屋を相勤めており、その系図は不明である。安永3年(1774)芳司村庄屋御役を仰せ付けられ、寛政5年(1793)に同村御役御免。天明7年(1787)上坂田村庄屋兼役を仰せ付かり、寛政7年(1795)吉岡村庄屋兼役を仰せ付られ、翌年に御役御免となる。文化2年(1805)下長田村庄屋兼役を仰せ付られ、文化3年(1806)9月に名字帯刀を許された。(本郷村大庄屋日記参照)文化4年(1807)5月柳川両替所から米札が発行された裏書人に名がある。文化11年に御役御免となる。文政6年(1823)9月12日の御役所への書出しに名がある。 . |
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浅山平太郎 現・瀬高町本郷 | |||||||||||||||
天保7年(1836)の規定書(上表示)や文化4年(1807)藩札裏書人の浅山平太郎、文政4年(1821)藩札裏書人の浅山平五郎は共に瀬高町本郷の酒造家でもあり、御用商人の一族であった。平太郎の屋敷は行基橋の上流側の瀬戸島に六段歩(1800坪)あった。現在5・6の民家となっている。それから南にある一画が平五郎の屋敷跡である。この屋敷の南西部にくずれかけた土塀の一部が残っている。各藩が財政改革で苦心していた安政5年(1858)3月12日に熊本藩の横井小楠が福井藩に招かれ、旅の途中に寄り、藩の「肥後学派」(小楠学派)のものたちによる盛大な送別会が開催された。ここには柳川藩から壱岐の実兄である十時雪斎(摂津)・池辺藤左衛門・十時兵馬ら数十名が集っている。浅山家の子孫はこの地に現存しない為(筑紫野市在住)当時の様子を伺えないが、橋のたもとにある恵比須宮は豪商であった浅山一族が商売繁盛を当時から祈願したものではなかろうか。星隈酒屋(星隈国太郎)の「創業80周年・優秀盃受領・金婚賀莚に際して」(昭和8年4月16日)には、創業の際に安政2年(1853)10月2日に本郷浅山の蔵、道具を買い入れ・・・5日より蔵解きに、かかり10日夜中の大雨の中、蔵道具を本郷川原に出して、又14日に残りの道具、親桶一同を川を流して談議所に運び、15日基礎固め、11月4日に蔵を談議所(借地)に移築仕上げている。この資料から浅山酒屋は安政2年(1853)には、すでに酒造業を廃業していたと思われる。 . |
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中嶋幸左衛門 立花町山下 | 池末善右衛門(肥後屋) 立花町山下 | ||||||||||||||
旧柳川藩志によると天和元年(1681)に商家数10軒を上妻郡山下び移し、一新市街を設け、堀孫助を町の支配役とするとある。こうして兼松町と共にこの地域の物産の集散地として発展し、中嶋家や池末家も物産問屋として活躍したであろう。 | |||||||||||||||
惣七 立花町国見 | |||||||||||||||
天保15年(1844)11月に甚四郎の船に白蝋37箱(2,775斤)を積み長崎に移出していることが古文書で解る。その外に弘化2年(1845)正月から5月にかけて、1万1500斤が移出され、 . |
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徳永弥左衛門 (勢田丸) 立花町国見 | |||||||||||||||
調査中 | |||||||||||||||
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江戸時代では農民は労役、年貢、小作料支払に苦しみ、相次ぐ災害により穀類不足に悩んだ。「谷川組御用日記」には万延元年(1860)には食糧としての米が不足し百姓難渋のため、谷川組内の村々が合計700俵の 大正6年に編纂された「 . |
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松屋 立花町兼松 | |||||||||||||||
松延家はこの兼松のほぼ中央に位置し、柳川藩の御用商人として、松屋を屋号とし、3代にわたり松延荘次の名を賜った家柄である . |
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その他、兼松には国盛助右衛門と大竹茂八郎の商家があった。(調査中) | |||||||||||||||
. 【銀行の設立】 明治4年(1871)、廃藩置県により三潴県を設置、三潴県庁を榎津に庁舎を設置するも、翌年に久留米に移転。明治新政府は当初、通貨制度を整備するまでのゆとりがなかったため、銀会所は安政・万延の銀札に大蔵省の朱印を捺した、3銭7厘(三匁)・1銭2厘(1匁)7厘(五分)・3厘(参分)の銀札を発行している。 しかし、この年、新政府は貨幣制度の統一を目指して、「新貨条例」を制定しました。金貨を貨幣の基本とし、単位も「両」から「円」にあらため10進法を採用することにした。 . 明治5年(1872)、明治新政府は藩札および政府紙幣の整理と為替会社に代る金融機関の必要性から国立銀行条例を設立した。資本金を5万以上とし、紙幣の発行を許可する代わりに紙幣の兌換義務を負わせた。国立銀行と言うが、団体によって設立した私立銀行で、柳川では明治12年(1879)1月4日に第九十六国立銀行が瀬高町(現・京町)の野田屋を借受けて設立された。頭取に立花8代帯刀家の立花弘樹氏、取締役・小野隆基・高鯨新太郎・十時一郎・大村務で支配人は高鯨新太郎が兼務した。株主総数は86名で平民は待鳥竹次郎と下川源太郎の2名のみで典型的に士族銀行色の強い銀行であった。立花寛治氏(元藩主)が149株、小野隆基氏が110株、高鯨金次郎氏が70株、立花弘樹氏が56株が上位を示していた。明治18年に同町1丁目に土地を買収し、店舗の新築をした。明治30年(1897)4月に資本金16万円の株式会社柳河銀行として発足する。後に福岡十七銀行、現在の福岡銀行との合併で、柳河銀行本店の跡は福岡銀行柳川支店が置かれた。下の壱円貨幣は全国の国立銀行に第○○国立銀行と発行銀行を印刷して発券された。 明治9年(1876)-、三潴県が廃止され、福岡県となる。 . |
全国的に発行された壱円水兵券 | |
明治9年(1876)-、三潴県が廃止され、福岡県となる。 . |
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柳川藩の御用商人は明治維新を迎えると、扶持の報酬も無くなり藩などに貸付けた膨大な貸付金の踏み倒しにより、倒産する店が続出している。明治39年の柳河・沖端の実業家の一覧表を見ると江戸期の多くの豪商の姿が消えていることが解かる。 | |
参考文献 ・ 栁川の藩札・筑後の藩札(百田米美) ・ 旧柳川藩志下巻(渡辺村男) ・ 高田町誌 ・ 大和町史上巻 ・ 柳川藩関係資料集(武松豊) ・ 図録「日本の貨幣」 ・ 柳川藩札資料(堤伝) ・ 天草の豪商・石本平兵衛(河村哲夫) ・ 阿部家・武松家文書目録・ 石橋(田鶴子)家文書目録・ 武松家文書目録(柳川古文書館発行) |
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