庄福BICサイト 【禁無断転載】 H24・12・24製作 福岡県柳川市三橋町五十町 |
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三橋町の五十町は北東側に瀬高町上庄の五十丁(出口二)が隣接する。呼び名が同一なので昔は五十丁も五十町村内と思える。五十町の歴史は、発掘調査で出土した土器から古墳時代にさかのぼることができる。村の西に広がる水田の小字名に、長八坂、東長八坂、三町分があることや、ほかの古い地形などから、古代に条理制が施行されていたことが解る。平安時代には瀬高の庄園として、南隣の横手と同じく米所として栄え鎌倉時代の鷹尾文書には「横手庄200町」とある。村落の中世を知る史料はほとんど見当たらなが、村落内に共同墓地のある元屋敷、西光寺北側の外屋敷があるが、中世の武士の屋敷跡に似た環濠屋敷(外敵の侵入を防ぐ為に回りを掘でかこった屋敷)となっている。宝満宮の南側の小字名で土居は旧河川の土居があった所で、さらに南の中川原、上浜、中浜田、中浜、浜脇の小字名は矢部川が横手や五十町の村落の東側を蛇行して流れていた頃の名残りで矢部川の河床跡です。寛永15年(1638)頃、鷹尾・泰仙寺・島堀切と同じく普請方役人の田尻総次による江戸初期の掘替工事(直進化工事)により、鷹尾文書にも出てくる高柳村の西郷高柳集落が分断され五十町の領分となったと思われる。その後、明治初期に三潴県から福岡県になった頃に棚町の領分に変更された。 文禄4年(1595)12月の柳河藩知行目録によれば、五十町の石高(1石=米150kg)は、258、54石であったが、万治3年(1660)には岡田修理充の知行地400石となり、されに安政年間(1854〜1859)には711.268石となっている。(1石を現在に換算すると7万5千円)このことから260年余年の間に於ける五十町村の膨張の様子が解る。(1石=10斗=100升)柳川藩は藩内の村々を治めるのに7組、後に9組も大庄屋を置き、その下の村々に小庄屋を置いた。五十丁は本郷組に属し、小庄屋は菊池家(旧柳川農協組合長、菊池藤市氏)が代々、庄屋職を勤め、なかでも菊次藤七は40年間庄屋を勤め、時には新村、東百町の庄屋を兼ね、文政2年(1819)苗字帯刀御免、御役所御支配を仰付けられている。その子藤助、孫が藤蔵その息子藤助が代々、庄屋役を勤めていたことが本郷組大庄屋記録にある。文政4年(1821)には本郷村の沖ノ端川から岩神水路ができ、中山村を通り五十町の取水口検校堰も作られた。五十町村は水利慣行が極めて複雑なこの水路の中で、優越権を持っていました。文政6年(1823)、本郷組大庄屋覚書によれば、五十町村落庄屋の菊次藤七および息子の藤助が新村、東百町の庄屋を兼ね、翌7年(1824)10月に高畑三柱神社の造営にあたっては、当集落から2石6斗5升を寄進したとある。安政4年(1857)12月、五十町開地の地頭が自営の井樋を藩営に組み入られんことを願ったとある。明治37年には矢部川の大和堰が完成し上庄北部からの水田に水路が整備されなお安定した水利となった。
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宝満宮 五十町宮丸 |
北原の宝満宮は創建年代不明であるが荘園時代ともいわれる。北原の宝満宮が矢部川の氾濫によって五十丁に流され止どまれたので、祀ったと言う伝説がある。よって北原の宝満宮は五十丁の人々によって戦前までは境内の掃除、供花などをされていた。五十丁の宝満宮は旧記によれば慶長2年(1597)の創建とあり、北原の宝満宮の創建はそれ以前にさかのぼる。大宰府の宝満山麓にある九州総鎮守の竈門神社(別称宝満宮)の末社である。宝満信仰が盛んになり神社の多くが修験者により勧請されたものであるといわれているが、荘園制によるものもあると言う。五十町の宝満宮の主祭神は海神の娘で神武天皇の生母である玉依姫神で、五穀豊穣、荘園鎮守の氏神ともなっていた。子供の行事に宝満神社の清掃を一週間くらいかけて行う「ボンザレ」がある。旧盆の8月13日の晩、半切に水を1杯入れ、タワシ、ソーラなどを作って用意し、「出るかん、出んかん、どうでも出んなら引き出すばん」と言いながらふれをまわす。翌日「もう出ろ、今出ろ、引き出せ」と呼び合い、集まって氏神社の建物、境内を清掃する。板壁は女子が洗い、男子は後から一升ますで水をかけてきれいにし、それが終わると十文字の水路に飛び込んで水浴する。水浴後、「そーめん」を食べてしめ祝いをする。子供社会にも秩序があり、子供頭、頭脇、コモズミ、ホイヤホイヤ などの位があった。この子供の行事は長く続いていたが少子化で思い出の行事となった。境内の北脇には天満神社、八歳神社、社日さんが合祀された小社がある。
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宝満宮鳥居と日露戦争戦没記念碑(左) |
楼門 |
宝満宮社殿 |
本殿入口上の虎の彫刻 |
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八歳神社 五十町宮丸 |
白雉5年(654)に泰仙寺の八歳島に創建された、八歳神社の分社であろうか。祭神は豊玉姫命で海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても有名である。往時は矢部川を上下する船は必ず八歳神社に参拝し、海上安全を祈願している。江戸初期に熊本県玉名郡江田村(現・玉名郡和水町)の帆掛船が矢部川を遡上する航海日記によれば「船は横手の天神、五十丁村の八才様を拝み、右折し上庄東右岸談議所バ市に着く。」とあり、当時は五十町の中洲または小字土居の川岸に下流の泰仙寺の八歳島と同じく八歳神社が祀られ天草・島原などから談義所の浜までの積荷の船が安全祈願した神社とみられる。しかし江戸初期の正保2年(1645)頃の掘替工事(直進化工事)により矢部川から離れた場所となり、役目を終わり後に宝満宮の境内の天満宮との合祀社に移されとみられる。祭神は鷹の尾の楢尾家に移転祀られている八歳神社と同じく豊玉姫命と左右に社日さん(穀物の神)とかっぱ(水の神)が安置されているとみられる。右側の社に合祀されているの天満宮は菅原道真を祀る。現在は学問の神様として信仰されている。 |

八歳神社と天満宮の合祀社 |
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八歳神社祭神 |
社日さん(穀物の神) |
八歳神社の祭神・豊玉姫命 |
かっぱ像(水の神) |
天満宮祭神・菅原道真公 |
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【郷土の人物伝】
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綿貫吉直は、天保2年(1831)1月に三橋町五拾町に生まれました。藩士の子どもとして生まれ、幼い頃から暑い日も寒い日も剣術道場に通いました。そして、最終的にはその流派の大事なところ全てを伝えられるところまでになります。蜷藩士として幕末、外国船に対応するため江戸の海岸沿いを守ったりしました。明治に入ると反政府軍を鎮圧するために明治政府軍の一員として戦います。明治2年(1869)、函館で参謀として土方歳三ら新撰組を倒した。明治10年(1877)の西南戦争時も少警視(上から4番目の階級)として警視隊400人の隊長として熊本城などで西郷軍と戦いました。自決を図ったほど激しい戦いでしたが、吉直の仲間を鼓舞する体力と沈着冷静な判断により役目を成し遂げた。その後は、警視副総監を9年務め近代警察の基礎を作りました。明治19年(1886)元老院議官となる。明治22年(1889)6月に死去、享年59歳。宝満神社の北側にあ吉直のる墓地にある顕彰碑は死後3年に有志によって建てられました。 |
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西光寺 五十町元屋敷 |
正保年間(1644〜47)に僧教心が宝満神社の北側の寺屋敷に開祖し、享保21年(1736)5代目の住職了覚が、「ここは氾濫が多い」ということで現在地に移したと言われる。浄土真宗本願寺派である。この寺には宝暦10年(1760)正月、棚町の森田清助が釣鐘を寄進していたが戦時中の金属供出で失われ戦後に新しく造られた。境内の古木の空洞に祀られていた阿弥陀如来像は保存の為に門信徒会館に移動されている。
土居小路にある、お堂には薬師如来、観音菩薩、弘法大師が合祀されている。また元屋敷にあった初瀬地蔵も天満宮の隣に移っている。ほかに山伏塚がある。 |
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参考引用文献 鷹尾文書 三橋町発行「故郷を知る」 柳川藩志 やながわ人物伝 |
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