庄福BICサイト                      【禁無断転載】              現・みやま市高田町飯江   H23・10・29製作
                                                                    旧・山門郡飯江の集落
  飯江(はえ)集落一帯は飯江川(はえがわ)に沿う階段状の地形、いわゆる河岸段丘(かがんだんきゅう)による小平地が広がっています。山川町の真弓集落に源を発し、北関亀谷重冨の両岸を流れ、待居川(射的川)の支流を併せて約4Km北流して、高田町の舞鶴(まいづる)で西流に転じ、両岸の飯江集落群を横切り合流する矢部川方面に流れていきます。流域の山川町一帯の山地はミカン園、谷底平野では水田が開けています(.)山川町の中心地の野町から竹飯一帯は飯江川が搬出した土砂によって形成された扇状地で肥沃(ひよく)な畑となっています。その扇状地は海水によって侵蝕され急崖をなして平野に没しています。飯江川の両岸からは弥生時代の古墳・人骨・土器・刀・(ほこ)などがが出土しており古代から人が住んでいたとみられる(.)
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   飯得庄(はえのしょう)
 弥生時代に飯江川などの谷間の平地や低湿地に稲作が始まったと想像される。律令(りつりょう)時代から荘園時代には、川に土居を造り農地を拡張した開墾がなされ、飯江川(はえがわ)の上流の現在の高田町の東部にある飯江(はえ)一帯に安楽寺(あんらくじ)天満宮領の飯得庄(はえのしょう)があったとみられる。飯得庄は得飯庄と逆に記した史料が多い。「天満宮安楽寺草創日記」にも得飯庄と書かれている(.)飯得庄は43町2反あまりの田積を持ち、治安3年(1023)、大宰大弐藤原惟憲(これのり)菅原道真公の霊を(とむら)うために道真公が903年に逝去されるまで謫居(たっきょ)された場所(当時、府の南館であったといわれ、大宰府政庁跡の南・太宰府市朱雀6丁目)に建立された淨妙院(じょうみょういん)」に寄進された(.)淨妙院の境内には榎の大樹があったので榎寺(えのきでら)と呼ばれ、榎寺(現・榎社)の裏にひっそりとたたずむ「浄妙尼社」には、「浄妙尼(じょうみょうみ)」あるいは「もろ尼御前(あまごぜん)」ともよばれる老婆が祀られている。左遷されて、この地で食べるものにも事欠く暮らしを強いられていた道真公に、(こうじ)の飯や(もち)を焼いて差し上げたりして日夜世話したという老婆です。この餅が後に太宰府名物「梅ヶ枝餅」となったと言われています。高田町の舞鶴(まいずる)字城道・上飯江字宮原・田浦(たのうら)字浅井・飯尾(いいお)の安楽寺天満宮領であった部落には菅原道真公を祀る老松宮が創建されており村の氏神とされてきた(.)
   
鳥居と楼門

田浦の老松宮 
 
祭神・菅原道真公
   安楽寺天満宮領の成立(.)
 延喜元年(901)菅原道真(すがはらみちざね)公は、昌泰(しょうたい)2年(899)に右大臣となるが,左大臣の藤原時平の中傷により無実の罪で太宰府に左遷されました(昌泰の変)。延喜3年(903)年2月15日に道真は京都に戻れないまま失意の内に59歳をもって没した。轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言で、安楽寺の門前で動かなくなったので、これはそこに(とど)まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年(905)8月、同寺の境内の場所を墓所と定め遺骸が埋葬された。その場所は、都府楼(とふろう)(大宰府政庁)の北東(丑寅(うしとら))の方である。都の朝廷では道真左遷(させん)に関係した者が死亡したり、清涼殿の上に雷を落とし、神火を放って貴族・女官が死傷する事件が起きる(.)また疫病や干ばつなどが相次いで起こるなど天変地異(てんぺんちい)が続いたため、遂に朝廷は菅原道真怨霊(おんりょう)の仕業と考え、御霊を鎮める為に北野天満宮などの神社や寺院において道真が祀られた。延喜19年(919)後醍醐(ごだいご)天皇の命で御霊を鎮めるために道真の墓所の上に社殿が造営された。これが安楽寺天満宮創祀(そうし)です。京都の北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神(てんじん)を以て文道の祖、詩境の主」と語られたことからこの後、菅原道真は「火雷神」ではなく「学問の神様」として祀られるようになったんだそうです(.)死後において道真は、延長元(923)年正二位右大臣(しょうにいうだいじん)正暦4(993)年・正一位左大臣、さらに同年・太政大臣(だいじょうだいじん)を贈られ、名誉回復が完全になされた。この頃から安楽寺天満宮は隆盛(りゅうせい)に向かい筑前博多庄、酒殿庄、大浦寺庄、肥前唐津庄など40におよぶ荘園を経営するまでになるみやま市には飯得庄(はえのしょう)(高田町飯江)と長田庄(ながたしょう)(瀬高町長田)の2箇所があった(.)庄園は鎌倉を経て戦国時代まで続いたが、守護大名が戦国大名に変ると完全に消滅する。郷土では南部は田尻・中部は下蒲池(しもかまち)・北部は上蒲池の戦国武将の国人が支配し、勢力の強大な豊後の戦国大名の大友氏の幕下に入り大名的な独立性を持ち支配しました(.)

 

旧・飯江村字田(.)
   
   【山門郡飯江村について】

 元禄14年の作図(上図)によると現在は高田町である飯尾、竹井、海津は山門郡に属し飯江(はえ)は両郡にあります。上飯江・中飯江・下飯江は山門郡の配下の属した時代もあったが、明治8年の地租改正の際に亀尻村、谷川村の2村を合わせて三池郡亀谷村(かめたにむら)と改め、上飯江村、中飯江村の2村を合わせて三池郡舞鶴村(まいつるむら)として、下飯江村を三池郡下飯江村とし、飯田村と浦村の2村を三池郡田浦村とされた。唯一、山門郡飯江村三池郡に囲まれた飛地(とびち)として存在していました。下図の明治14年頃の測量地図は当時の山門郡飯江村で現在の山川町の河原内と清水(しみず)の東部(旧在力村)と同じく春日神社を氏神とする飯江川の左岸にあり、当時、戸数27戸・人口128人でした。飯江川の川端には水車小屋があり精米、製粉がなされていました。飯江川の東側は日当川側に蛇行(だこう)しており、カーブには石積みで土手を補強してある。明治22年(1889)の町村合併では舞鶴村では隣接する現・山川町との生活基盤があり山門郡に分割編入したい請願(せいがん)も、あったが全村の承認に至らず、亀谷、舞鶴、下飯江、田浦、山門郡飯江村が合併して三池郡飯江村となり、浦と飯田の村は合併して三池郡田浦村(たのうらむら)となり、岩津・田尻・原・今福の村が合併して三池郡岩田村と称した。大正6年3月に大牟田の市制施行により、隣接の町村は合併吸収され三池郡はわずかに飯江・岩田・江浦(えのうら)(ひらき)二川(ふたかわ)の5ヶ村となった(.)昭和6年10月に岩田・江浦・二川が合併して高田村となり、昭和17年4月にはさらに飯江・開が合併して全国(まれ)にみる一郡一村であった。昭和33年8月に高田町となり、平成19年1月に高田町・山川町・瀬高町が合併してみやま市が誕生し、三池・山門の郡は消え去った(.)
 
 
    【春日宮】
昔の山門郡飯江村の氏神で、田んぼの中心に鎮座しています。祭神は春日大明神とも呼ばれる天児屋根命(あまのこやねのみこと)。雷神、かつ剣の神である武甕槌神(たけみかずきのかみ)この武甕槌神と関係が深いとされて両神対で春日大社で祀られる経津主神(ふつぬしのかみ)です。いずれの神も日本神話に登場する神です。現在でも昔からの部落民で祭りがおこなわれている(.)
 
    金比羅さんと舞鶴城址

 琴平山(舞鶴字一里崎)に白峰神社が鎮座されている。金比羅さんという。この山は今から1200年前の奈良時代、大宰府より九州各地に官道を通し筑後地方の野原庄に「狩路駅」を置き、竹井に陸の駅、海津に水の駅を設け、この官道で最大の駅であった(,)そして、各駅には駅長をおき、貢ぎ物の監視、地方の政治、通行人や放浪者の取締りに任じた(,)この狩路の駅の駅長が「牡丹長者」である。また、牡丹長者は九州探題か土豪である説もある。牡丹長者は竹井に館を構え戦争に備え琴平山に城を築いたという(,)当時、海津まで海が入りこみ、懐中には大小多数の島があり、海津は物責集積の港であった。琴平山に金比羅(こんぴら)さんを祀ったのは何時からか定かでではないが、金比羅神は航海安全を司る神であるから、海津が港であった頃であろうと思われる(,)琴平山は北や西方面を見渡すことのできる位置にあり、要川の源平決戦の時は、平家方の大物見が置かれたところである(,)應永年間(1394〜1427)、筑後柳川の領主であった蒲池久憲(かまちひさのり)が、この地方を治めているとき、肥後菊池軍の進行に備えて、琴平山の砦を修築したという(,)蒲池の家紋が、鶴が大空を舞う舞鶴であったので、舞鶴城と名づけた。その周辺の地を舞鶴と称し、琴平山のすぐ下の小字を城道と名づけた(,)

 
 参考・引用文献  『太宰府発見』森弘子著・『太宰府市史民俗資料編』『福岡県誌』・ 『三池郡誌』・『高田町誌』・『筑後市史』 
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