庄福BICサイト     【禁無断転載】        古地図に見る白鳥村の歴史    福岡県柳川市三橋町白鳥
 
  白鳥村落周辺からは、弥生、古墳時代の土師器、須恵器の破片が出土することから、起源は古い時代にさかのぼる。
 
      【白鳥合戦】
旧柳川藩誌によると戦国時代の天正7年(1579)5月5日肥前(佐賀)龍造寺家治(いえはる)鍋島直茂(なおしげ)の軍勢は筑後の支配をねらって、兵1万を率い山下城(立花町)蒲池鑑広(あきひろ)を攻めてきました。このことを予期していた鑑広は、肥後の大津山河内守資冬(すけふゆ)和仁丹波守(わにたんばのもり)に援軍を求め、筑後の緒将とも連合し、蒲池勢は瀬高下庄に陣を敷きました(.) 
 蒲池鑑広先鋒(せんぼう)上庄に入った。肥前勢はこれを破って下庄に進む。松延に陣した援軍の肥後の大津山和仁の兵( )矢部川の下流を渡って肥前勢の後方との間に別け入ったので肥前の軍勢は白鳥(.)まで退却して陣を立て直したが、そこへ鷹尾城(大和町)に待機していた田尻鎮種(しげたね)と大間城主三池鎮実(しげざね)が、すかさず攻撃を仕掛け、勝敗が決らないまま日没なで死闘が続きました( )この戦いを考えると下庄上庄白鳥と、瀬高から三橋東部にかけてが古戦場であり(.)その最後の戦いが白鳥城中心に行われたのであろうが( )これを守ったのは白鳥兵庫である(.)
   白鳥城跡は本丸、二の丸、出の丸があり、周囲を堀で囲み、西に入口がある。現在は陸続きとなっているが当時は堀が連なり(.)橋を架けていたであろう。白鳥村の東に白鳥神社は白鳥兵庫が、おそらく信仰した社であろう。日本武尊(ヤマトタテルノミコト)を葬った伊勢能保野から飛び立った一羽の白鳥が、ここに来て遂に 見えなくなったという言い伝えがあり( )日本神話の日本武尊を祀る神社です(.)天正9年(1581)柳川城主の蒲池鎮並(かまちしげなみ)肥前龍造寺隆信のために佐賀で誘殺された(.)柳川城を守った弟の統安一族はすべて討死し鎮並の子供の宗虎(ムネトラ)沖ノ端で捕えられ殺された( )垂見城もこの時に攻められ垂見常陸介も戦死したであろう(.)白鳥城白鳥兵庫もおそらくこの時に戦死したであろう(.)こうして蒲池氏は没落し、柳川城は肥前龍造寺氏の家臣鍋島長門守が城番となった(.) 
 

白鳥神社

白鳥城址
 
白鳥戦場址
 
 
 
 
 
      【島田天満宮】
  古くから驚風(けいれん・ひきつけ)高熱の神様として名高い神社です。 「山門郡誌(.)によれば享保年間に大宰府天満宮の分霊を奉祀、守護神とした。後日( )氏子の子供が筋引の疫病かかり祈願して病気が全快( )その事が嘉永慶応の時代に四方に伝わり(.)明治に至り参拝者が激増した(.)例祭(毎月25日)当日は柳川軌道も臨時列車を出したとある(.)現在も島田の世話人の奉仕で毎月25日には祭礼が行われ、祭日には子供の安全祈願や安産、、学業成就(じょうじゅ)を祈願する参拝客で賑わっている(.)境内には八坂神社這鷹(はいたか)神社があります。這鷹神社はもともと同地方の氏神(うじがみ)として崇拝されたものといわれる(.)
 
 
 
 
 元禄(げんろく)14年(1701)に藩は、筑後柳川城の辻門前の札の辻を基点に藩内に一里石などの道標を築いたとある。三橋(みつはし)御仁橋(おにばし)の中間の一里石はこの時に立てられたものとみられる。題して「柳川より一里」とある(.)瀬高街道は柳川から上庄の薩摩街道と交わる出口迄であるが、薩摩街道を上り本郷から東に伸びる矢部(やべ)往還を通り藩領の東端の矢部村があり、上庄から薩摩街道を下り肥後(熊本)南関(なんかん)の手前の湯谷(ゆや)が藩境である。これらの街道は藩行政にとって大切な道路であった(.)
瀬高街道の一里石
 御仁橋村垂見の分村で垂見散田といった。この村の鎮守八幡宮は垂見八幡宮の分社で室町時代後期の創建と言われている(.)
八幡宮