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浜田は古代では海だった所でしょう。有明海の水位が下がり、矢部川が浜田の西側を流れるように定まり始め、川辺に生息する葦や荻に埋め尽くされた干潟でした。向う岸の鷹尾村では欝蒼と木が茂る鎮守の森で古くから人が住んでいました。ここの粘土層(がた)の地下から大量の貝殻が出土しますが干潟だった証しです。干拓が始まったのは荘園時代で瀬高下庄の名主により開拓された現在の瀬高町西部、大和町鷹尾、一帯に広がる千町にも及ぶ大荘園でした。武士の力が強くなった戦国時代の永禄年間(1558〜1570)に田尻氏の居城、鷹尾城が建設されると支城(砦)として、享保2年(1530)に江の浦、津留、堀切、と共に浜田城が築城されています。 天正年間家臣田尻大蔵之助が城番となった。天正10年(1582)、田尻鑑種は龍造寺隆信に対し反旗を挙げる。龍造寺軍は、嫡男:政家が率いる2万の兵が4つの支城を囲み 1年以上籠城した田尻氏の諸城は落ちることなく 和議を結び龍造寺軍は撤退したその後、田尻氏の没落と共に廃城となる。掲載の古地図は明治初期に測量され浜田村です。ほとんどの道があぜ道や車力がやっと通れる道でさらに迷路のように曲がりくねり、土地勘のある者しか村に到達できません。浜田村に容易に辿り着くのに困難な道は戦国時代の名残りであろうか。江戸期になると浜田村側に湾曲した矢部川の流れは、直線化工事により鷹尾村を分断して流され、旧河川跡は埋められ田んぼに開墾され、新たに鷹尾村東部だった「泰仙寺」名称の隣村が出現しました。近くの農民は、この普請の強制的な労働に使われ、苦しい生活の連続でした。沖田と浜田西にある小字の野田は旧河川敷を埋立てた粘土地であり、地面は低く、大雨のたびに水が入りこみ、満足な収穫は望めなかったでしょう。
浜田村は沖田、散田沖田、浜田北、浜田南、野田の区割があり、明治3年では北浜田村と南浜田村に分かれていました。明治9年に両村は合併して浜田村となっています。明治22年には高柳・東津留・泰仙寺・河内・浜田は合併して河沿村となり、さらに明治40年に合併して瀬高町となる。戦後の昭和21年頃は60軒位の村であったが、現在は沖田付近の外部からの入村者で160軒位に増加している。
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【平家落人伝説】
平安末期に壇ノ浦で敗れた平家の残党は、源氏の追っ手に逃げ惑い、隠れ場所を探した。浜田村に逃げ込み、武器を捨てて農民に変装して隠れ住み世を忍んで農耕に精を出すことで、源氏の追手から逃れた。村人たちも、突然入ってきた彼らが平家の落人だろうとは思っていたが、皆んなして必死に開墾する姿を見て様子を窺っていた。彼らが厄介な野盗を追い払ったり農繁期には手助けをし、村人は感謝し親しくなっていた。しばらくすると、どう捜してきたのか、乳母に連れらた6人の娘たちが落人たちを尋ねてやってきた。一行は、乳母の手で養育されていた落人の娘6人の姉妹で親と一緒に暮らし始めた。ある日、源氏の追っ手が、やってきた。鍬を剱に持ち替えた彼らは、必死で戦った。だが多勢に無勢、一人また一人と斬り殺された。その時、6人の姉妹は物陰で息を殺して追手の去るのを祈るばかりだった。生き残った男らは、「必ず戻ってくるゆえ、ここを動くでない」と言い残して、津留川(矢部川)を泳いで逃げた。追手も、それ以上の追撃を諦めて引き揚げにかかった。そのときである。「コーッコッコー」と雄鶏が甲高い鳴き声で騒ぎ出した。驚いて振り返ると、敵の退散に安堵して立ち上がった姉妹たちに白い鶏(源氏の象徴)が鶏冠を立て大きく羽ばたいて娘たちに飛びかかった。「我らは誇り高き平家の女ぞ。源氏に捕まって辱めを受けるくらいなら…」姉妹たちは大きな古井戸に次々と飛び込んだ。村人は6人の姉妹は白鶏から井戸に追い込まれて死んだと伝え、それからというもの、浜田の村人は、決して白い鶏を飼わなかった。その6人の霊を祀ったのが六体神と言われ、井戸のあった場所に6人の塚を造り、赤旗を立てて供養をしてあげた。もちろん旗の赤色は、壇ノ浦合戦時に平家と源氏がそれぞれ赤旗、白旗を掲げて戦った時の平家軍が掲げた色である。浜田南の天満宮に合祀されている六体神の御神体は緋の袴を着け、平家の落人か悲哀を思わせる。浜田北の平高神社(平高神社会館)の揚羽蝶紋(平家の紋)の石祠には、浜田村に逃込んだ平家の落人の祖先を祀ってある。
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【平家ゆかりの神社】
六体神(ろくてさん) 浜田南 |
浜田南の氏神として旧暦の11月15日(現在12月15日)霜月祭りに赤旗を立てる慣わしがある。白鶏、赤旗というと平家の落人でもあろうか、昔ここで乳母の手で養育されていた平家の6人の姉妹がある時、白鶏(源氏の象徴)に井戸に追い込まれて死んだという。その6人の塚を造り霊を祀ったのが六体神といわれている。竹藪に囲まれた塚には「六体神の碑」と彫られた石碑と周りに高さ30cm程の小さな人形のような姿をした石の像3つと、同じ高さの墓3つが高さ3m程の墓が残されている。3m程前方の小さな木の根元に同じ大きさの一体があります。これを「ろくてさん達の乳母」と言われています。石碑の付近から、多くの白骨が掘り出されたとき、それこそ平家落人の激闘の跡だと言う人多かった。ろくてさん達の命日の供養が毎年9月15日に塚の上で塩5kg、米2kg、塩鯖2匹、ごぼう、人参、大根など根菜を供えて、お坊さんにお経をあげてもらい仏式で行われている。
平高神社 北浜田(公民館) |
浜田北の氏神として信仰されてきた。天満宮の南にお堂があったが古くなり、県道通りに平高神社会館として建て替られ浜田北の公民館としても使用されている。浜田の若宮さん・六体神と同様、平家の落人伝説にまつわる神社とされているが詳細な由来は不明であるが、石祠の屋根には平家の蝶の家紋が刻まれている。祭礼は4月9日に行われている。蝶紋は平氏一門・一族が多く用いたことから、蝶紋が平氏の代表紋として見られるようになった。壇の浦で平家一門が海に沈んだとき、男の魂は抜け出して蝶になったという伝説がある。平家の落武者部落とよばれる所があり、平家の子孫を証するものとして平家の公達に発する系図一本と平家の赤旗、蝶紋を伝えている。蝶紋は250種類もあるという。浜田村でも追い来る源氏の恐怖にさらされながら、世を忍んで生き延びた落人の末裔たちが赤旗と蝶紋を伝えている。
社の上部の梅紋は天満宮の紋で間違いでは? |
平家の蝶の家紋 |
平家代表紋・丸に揚羽蝶 |
束帯姿の御神体 |
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【浜田城】 |
鷹尾神社の古文書により思考すると、平安時代から鎌倉時代にかけて、干潟は下庄の開発名主により干拓され田畑に変えられ、庄園が構成され、浜田村もその頃に出来たと推定します。しかし武士による庄園の侵略が進み戦国時代では豊後の戦国大名・大友氏に従う田尻親種の領地となり、浜田城は鷹尾城の支城として、江の浦、津留、堀切、と共に永禄年間(1558〜1570)に築城され、鷹尾の本城と共に鷹尾五城と称した。浜田城は浜田南の天満宮から西に50m行った左側にあり、東西19m、南北39m平地より3m高く周りに小堀がある。現在は浜田の城址に内藤さん宅の2軒がある。堀に沿った道の北側の土地は侍屋敷呼ばれ、当時の家臣たちの住いがあったといわれる。 |
浜田城跡 |
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浜田(大字名)(行政区名) |
地名語源辞典には浜は「土堤。岸。」とあります。矢部川の河原周辺の湿地帯開拓水田の意です。現在、浜田一(南浜田)・浜田二(沖田・北浜田・野田)の行政区名があります。
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沖田(おぎだ)(集落名) |
浜田の北部の集落名です。オギ(沖)=オギ(荻)の当て字で、辞書には荻は「イネ科の多年草。原野の水辺に群生する。高さ2メートル内外。茎の下部は露出する。花穂はススキに似るが、大形で小穂に芒(のぎ) がない。メザマシグサ。ネザメグサ。[季]秋。」とある。矢部川の荻の茂る湿地帯を開拓して出来た集落です。
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揚柳 |
柳の木が茂っていた事による開墾地名です。
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野開(小字名) ・沖田 |
野は葦や萩が生茂った湿地帯の意見で、開は開墾を意味し、開墾地名です。
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細工町(さいくまち)(小字名) 沖田 |
細工町とは発音に近い斎宮町の当て字の変化であろう。神社のある集落または神領の意の地名です。
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井釜口(沖田散田)小字名) 沖田 |
井は水路の意で釜は洞穴、滝の意もあります。灌漑用水路の水が吹き出る水路口のある所の意味です。開拓によりできた土地で浜田から分村した小集落で沖田散田とも称し、南小学校の南側に現在4軒の民家がある。
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沖田の天満神社 |
5月第2日曜日と10月第1日曜日に祭礼が行われる。秋の祭礼には4kgのもち米で「おごつくさん」(先のとがったおにぎり)を作る。宿と神主と世話役には特大のおごつくさんを、沖田50所帯には祭礼後配布して家庭でありがたく御利益を頂く。また田植えあがりには野菜と塩さばをささげ豊作の祈願が行われる。8月15日にも沖田の小学生により各家庭から小銭を集め駄菓子を買って参拝者でお賽銭をあげた人に駄菓子をふるまう。祭りの後集まったお賽銭を山分けして小使い銭をかせぐ。伝統的子供の祭りである。古地図では沖田の天満宮の正面に地主の永江屋敷に通じる参道がある。現在、祭日に旗上げ用の石柱が残されている。西脇を通る県道は大正期からの道路整備事業で堀切まで建設されたものでしょう。沖田公民館は、県道が建設された後に、昔の参道に建てられたものです。北浜田にある平高天満神社の支社になり本社の氏子である。
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権明(小字名) |
戦国末期の兵火により焼失した権明寺があった場所です。
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南里(なんり)(小字名) 南浜田 |
南浜田にあり集落の南部を意味する地名です。
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古城 (小字名) 南浜田 |
浜田城址であり浜た南の天満宮の西50mの内藤宅辺りに堀でコの字形に囲まれている。
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芦原(あしはら)(小字名) 北浜田 |
北大木の北側にあり、芦は葦(あし・よし)の当て字で湿地帯に葦が茂っている所の意の地名です。「葦」は辞典には、「イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落をつくる。高さは二〜三メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長い葉が互生する。穂は秋に出て紫色から紫褐色に変わる。若芽は食用になり、茎ですだれを作る。」とある。
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吉原(よしはら)(小字名) 北浜田 |
浜田の西部にある。吉とは葦(よし・あし)のことで湿地帯に葦が茂っている所の意の地名です。葦(アシ)が「悪し」に通じるので反対語で言い換えた語である。ヨシの語は平安末以前には見えない語源とあります。
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野田(小字名) 野田 |
ノダ(野田)は「ニタ・ヌタ・ムタ」(地名用語)の転訛したものです。ヌタとは今でも、汚いこと、汚いところを言います。結局湿地帯から生まれた地名です。
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会田(かいだ)(小字名) 浜田 |
浜田の会田(かいだ)の会は開に通じることから開田で新開地の地名です。
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江越(えごし)(小字名) 浜田 |
江は水路の意で越は水があふれる状態です。矢部川の水が満潮時には逆流する湿地帯の意です。
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野田の若宮さん 浜田西 |
浜田の西端、堀をめぐらした竹藪の中にあり、カッパさんの姿が雄々しく、珍しい。斧(おの)と竹筒らしきものを持っている。
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野田の薬師堂 |
薬師如来の脇侍十二神将あり。地元では十二薬師と呼ばれている。
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南浜田の天満神社 南浜田 |
南浜田の産土神である。六体神(ろくてさん)の御神体も合祀してある。鳥居は天保3年(1832)建立。面積328坪ある。 |
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天満神社 北浜田 |
北浜田・西浜田(野田)・沖田の産土神である。鳥居は天明元年(1781)建立。境内に社日さん(穀物の神)の石祀があり西方に観音堂がある。祭礼は5月の日曜日に行われる。また北側の墓地でも5月に先祖祭りが行われている。
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観音堂 北浜田 |
北浜田の天満神社の西側に田んぼの傍にある観音堂である。古地図では墓地の片隅にあり、墓地の死者の供養を目的に建てられたものでしょう。
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観音堂 浜田西(野田) |
浜田西公民館の横にある観音堂である。
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観音堂 浜田南 |
龍本寺の前の道路の南東にある観音堂である。
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龍本寺(洞雲山) 浜田南 |
真宗大谷派。慶長7年(1602)豊後(大分県)の大友の家臣、川上源右衛門の弟仁兵衛が浜田村に移住し、信心あつく剃髪して法名、宗圓と改め念仏三昧に入る。この年は徳川家康が東本願寺を創建し、東西本願寺が分立した年にあたる。寛永元年(1624)上京し、本願寺門主宣如上人より御本仏並びに龍本寺の寺号を賜り、帰郷して同年10月、浜田に開祖する。寺の釣鐘は宝暦4年(1754)の上庄の平井家鋳造であったが戦時中の金属供出で失われた。昭和30年頃に京都の鋳造所で製作された梵鐘が貨車で南瀬高駅に着き砂利道を紅白の綱で大勢の人達のより、龍本寺の鐘尽堂に運ばれた。境内には浜田保育園があります。 |
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.引用文献・故鶴記一著「地名の話」・筑紫次郎の伝説紀行第321話・瀬高町誌・田尻文書・大和町史 |
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