庄福BICサイト 古地図に見る原町村の歴史 H24・10・3製作 【禁無断転載】 福岡県みやま市山川町原町 |
【原町古墳群】
高速道路の東側の丘陵の古墳群で昭和30年から40年のみかん山造成が急速に進み、ほとんどの古墳が消滅したという。特別に大きな古墳か、「祟りがある」言われたものだけが残った。現在はみかん山に1基、墓地に1基が残り、いずれも未盗掘です。
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古代の官道は、近世には原町往還と称し、江戸初期までは原町より山門郡の東部山麓沿いに本吉・小田を経て久留米へ出たが、蜷藩主3代鑑虎の時、野町より吉井・下庄・上庄・本郷を経て羽犬塚(筑後市)・久留米に至るコ−スを九州大名の参勤道路に定めたといわれる。原町宿場には、旅人の便宜をはかるために御茶屋と宿駅(馬継斬・馬16頭が置かれた)が置かれていた。ただし、法令の伝達(竹井組の内、飯尾・飯江・佐野・原町・中原・小萩・三峰・北関・真弓の各村々への法令伝達の役目を兼ねた参勤交代の道中大名の休憩所であった。参勤交代の様子を「殿様行列の先頭の一人、行列の指揮者が下の町入口にて「下に下にといふ声」を聞けば、原町の人家は、皆一斉に表戸や窓を閉め切りて、路上にいる者は土下座する。人に見えないようにして行列を拝むのである。五十間ばかりの間隔をおいて、行列は進んでくる。むろん前日に馬上にて原町お茶屋に来たり、翌日の行列の次第一切を打ち合わせて通行準備を整えて待つから心配はない。お茶屋にて行列は止まり、一時くらい休憩後出発する。」とある。原町お茶屋跡は元郵便局跡にあり、下に南関茶屋があり、上に瀬高茶屋が上庄にありました。古地図では原町から北の薩摩街道には杉並木(道両脇の緑表示)が野町へと続いています。現在では民家や商店の町並みが続いています。
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原町馬役場は八幡宮入口の原町一九五番地にありて、牧馬養馬場に関する事業事務を司る役所であった。原町修道館というは、この役所を改修して文武修研所とした所。遊女を抱えておき、客を取らせることを商売とした原町小町女郎屋跡は、お茶屋付近にあり、宿場の宿屋を営業となせしが、屋号を桜屋と称していた。明治15年頃に測量された下図の地図では甲山寺の交差点を中心に南北の街道に家が建ち並び、北方の町はずれの道筋には杉並木が連なっている。明治22年3月今までの原町村・尾野村・立山村が合併して富原村になる。明治24年に村の東側を東肥鉄道の矢部川(現瀬高駅)〜南関間が開通したが、大正末期には経営不振で廃業となっている。明治40年1月1日に富原村・万里小路村・緑村(うち河原内村と清水村のみ)竹海村を併合して山川村が誕生した。昭和44年4月1日、町政施行により山川町が誕生しました。左の白黒写真は昭和30年(1955)に撮られた原町の町並みを原町納骨堂から撮った写真です。写真の右奥に原町観音(甲山寺多福院)が見えます。現在では多くの家が建て替わり町並みも大きく変化しています。 |
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郵便局の今昔 |
日本の郵便創業は明治4年4月20日で、明治6年3月10日に郵便事業が政府管掌となり、同年4月1日に郵便料金の全国均一制を実施した。山川地方に郵便局が出来たのは明治25年の頃であるが、元は原町郵便所とといっていた。その頃の逓送人は瀬高の郵便所から饅頭笠に法被姿、ワラジ履きに脚絆の出で立ち、棒の先に郵便袋を結び付けて、郵便持じゃと小走りに「郵便ホイ、また来たホイ、お上の御用でホイ、そらホイ」と威張っていた。郵便持ちさんやーと言っていると、さっそうと人垣の真ん中を突き抜けて小走りに去っていく。その後姿が面白い。郵便所は原町の中町の野田宅であったが、後に近所の松尾寿一宅に移り郵便局と言うようになった。 松尾龍城氏記事より
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西小路の旧薩摩街道には明治12年頃でも松並木が残っていた。 |
甲山寺多福院(大慈山) 原町 原町下 |
元禄7年(1694)に本吉山清水寺の隆尚法印が建立。天台宗甲山寺は原町にあり、千手観音と馬頭観音をまつる。清水寺の末寺で、千手観音が代表の仏である。ここは筑後33箇所霊場の内27番札所として春と秋の時期には巡礼姿の人々と、それを迎えるお接待の方で賑わいをみせる。原町は徳川参勤交代の宿場であり、通行の殿様の行列が休憩した。その時お茶屋を召し上がった家をお茶屋と言い、元郵便局の家がそれである。この当時、地方で一番家屋が密集していて160戸以上もあったのであるが毎年旧暦8月17日18日の2日間は、観音様の後縁日で賑わったのである。町の両側に諸方から集まった色々の店がぎっしりと並んで、中にも遠目がねと言う珍しい時代囃子の歌入りもので、男女二人が掛け合いに竹ムチ、手拍子そろえて面白く時代の実活を見せる。例えばママ子イジメとか、仇討ちとかの劇物を、今の紙芝居のような仕掛けで非常に面白くやったが、見手が多かった。もう一つ珍しいのがある。これは男が女に買うてやらねばならない風習があって、年間に一口丈、話をしたばかりの男に娘の子は、この腕に下がる習慣である。「買うてくれんの十七夜」と広く地方に知られ、珍しい習慣であって、男は相当の金を一ヶ年間貯蓄して、この金を持って観音様参詣をしなければならない。女は夜の一時、二時頃友達と三々五々連れ立って帰途につく、そして17、18日のこの月影にお互いの風呂敷を広げて、もらい物の品比べをして、腕のよさを競う。そのうれしさは、一年中一番の娘子の楽しみであった。誠に奇な風習であったが、他郷に其の類例がないと云うことである。筑後、肥後、肥前から参詣が多かったので評判が高かったのである。(松尾龍城・山川町地方の歴史と伝承より)
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西楽寺(松林山) |
寛永14年(1637)に僧菊池教心により開祖創建された。真宗本願寺派である。薩摩街道から伍位軒に登る道沿いに参道と山門があり、原町宿を偲ばせる唯一のもので、参勤交代で島津藩の休憩所に利用されたり、江戸後期の1812年(文化9)2月に街道の測量の為に伊能忠敬一行が宿泊した寺です。寺地4反9畝18歩、村誌に東西30間、南北29間、面積885坪とある。現在では婦人会で1か月ごとに寺の清掃と講話やおこもりが行われ交流の場となっています。東側には当寺運営の西楽寺保育園がある。写真は昭和27年(1952)頃に撮られた、赤坂の石井石油で給油する西楽寺保育園のスクールバスです。バスはオート三輪車のトラックを改造したもので、保育園らしく、かわいい動物の絵がえがかれている。 |
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顕忠寺けんちゅうじ(真弓山) |
昭和5年(1930)に南朝の忠臣、真弓広有の菩提寺として松尾龍城・栄によって真弓に顕忠寺は創建された。その後原町西楽寺の隣にのお堂を創建されている。真弓集落にあった顕忠寺は砂防ダム建設のために解体されて更地となり原町が主体となっている。よって明治初期に測量された古地図には当然ない。日蓮宗である。故松尾龍城氏は郷土史家でも有名で「山川町地方の歴史と伝説」などの著書がある。 |
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原町八幡神社 |
八幡神社の総本社・宇佐八幡宮の末社で応神天皇(誉田別命)を主神として創建はかなり古いと思われるが不詳。奉納鳥居には「文政七年甲申九月吉日氏子中」(1824)とある。原町の産土神で年末には町内の有志が手掛けた二基の門松が奉納されている。旧柳川藩志には例祭10月24日社地3畝9歩。村誌に社地東西16間、南北16間、面積235坪とある。白黒の写真は昭和30年(1955)に南側から撮影。楼門横にあった天満宮は本殿横に移転しています。今は傍を高速道路が前を横ぎり、境内に植えられた木々も繁って成長しています。 |
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【原町の人物伝】
中村祐興 |
中村祐興は文政12(1829)7月10日に山川町原町に生まれる。生家の中村家は原町郵便局の裏手で櫨櫨を製造していた。母・千代子は柳川藩第9代 藩主・立花鑑賢の側室で猷子姫を出産。実家の中村家が、後継不在のために、側室を辞し中村家に戻り西田一甫と結婚し、2男4女を授かる。その長男である祐興は、唐尾の藩札発行所に任務、慶応元年、柳川藩士として長崎に遊学の後、明治元年に徴士となって大津県(現・滋賀県)の権判事に就任。明治3年に大蔵省に転身して監督正(現在の会計検査院の長)に任じられ、日本で初めての官営模範工場となる富岡製糸場に関わった。明治7年、初代紙幣寮(後の大蔵省印刷局)抄紙部長に任じられ、紙幣の原紙の問題に取り組み、改良して新しい紙幣の製造に尽力し、透かし入れに最適な「中村紙」を開発。これは証券や公債にも用いられた。幕末から明治への新旧交替の時代、贋札造りの横行や旧幕府以来の各種硬貨・藩札などの流通による混乱の中で、貨幣制度の統一・近代化に貢献した。その後、明治31年に官を辞して福岡に隠棲。明治33年に中村紙の開発と紙幣用紙の改良が評価されて正五位勲四等瑞宝章を受け、明治42年(1909)10月14日に81才で没した。中村三郎(天風)は祐興の3男である。
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中村天風 |
中村三郎(天風)は中村祐興と妻の長子の三男として明治9年(1876)に現東京都北区王子に生まれる。祐興の九州男子の剛毅、長子の江戸っ子の気丈を譲り受け、少年時代は手のつけられない暴れん坊で柔道で、ずば抜けた強さを誇る。幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い堪能となる。両親は、小学校を終えた三郎を福岡市の知人の家に預け、そこから修猷館中学に入学した。立花家伝の隋変流と居合や柔道も修行した。25歳の時に秘密情報部員(軍事探偵)として満州へ赴く。明治37年(1904)3月21日コサック兵に捕らわれた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。しかし日露戦争後、当時不治の病といわれた粟粒結核を発病。幾多の名医の治療を受けるも病状の好転はなく、新たな治療と精神的救いを求めてアメリカへと密航する。にもかかわらずアメリカでの成果といえば、華僑の息子の身代わりとしてコロンビア大学で医学を学んだことぐらいであった。アメリカからイギリスを経てフランスへと渡った三郎は、大女優サラ・ベルナールの邸宅に寄宿し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。 |
明治44年(1911)日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師に出会う。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行い病をも克服し、母の居る日本へと生還したのである。またインドから日本へ帰る途中、上海にて孫文の革命運動に協力を頼まれて「中華民国最高顧問」として参加しています。帰国後、三郎は事業家となり、銀行頭取、会社重役の地位にありながら、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、「天風哲学」として大成されました。その門下には、東郷平八郎、原敬、山本五十六、そして昭和天皇、北白川宮などの皇族方まで含まれ、会は発展した。昭和16年(1940)「統一哲医学会」を「天風会」に改称。昭和37年(1962)国の認可により「財団法人天風会」となる。近年では、松下幸之助、稲盛和夫、双葉山、長島茂雄等大勢の知識人、著名人が薫陶をうけています。昭和43年(1968)12月1日死去。享年92才。 |
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