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 黄櫨(はじ・はぜのき)は、別名に「琉球櫨(りゅうきゅうはぜ)」、「(はぜ)」と呼ばれる。筑後平野にもまだ多くのハゼの木があった、幼年時代に木の下で遊んで、朝に櫨負(はぜま)けして顔や手足がむくんだ経験をしたシニア世代の方も多いではなかろうか。ハゼの原産地(げんさんち)は中国から東南アジア・インド一帯といわれ、日本には中国から琉球(りゅうきゅう)に渡来し、鹿児島に伝わったといわれる。晩秋(ばんしゅう)に収穫されたハゼの実は砕いて粉にされ、蒸して搾られ生蝋(きろう)ができます。生蝋を精製し、太陽に晒して、漂白したものを白蝋とか晒蝋(さらしろう)と言います。これらの蝋を総称して「櫨蝋(はぜろう)」または「木蝋(もくろう)」と呼ばれ蝋燭(ろうそく)などの原料になります。当初の木蝋は東北地方で(うるし)の実から精製されたが高価(こうか)で手に入りにくいものでした。会津(あいず)地方においての(うるし)の木蝋は、宝徳年間(1449(室町時代中期)~51)会津領主、芦名盛信(あしなもりのぶ)のころに始められている。江戸初期に木蝋造りの技法は薩摩藩に伝授されて櫨の実から精蝋(せいろう)されました。江戸時代中期頃から西日本各地の各藩は、(はぜ)の木栽培を奨励し、生産された木蝋(もくろう)は、莫大(ばくだい)な利益をもたらし藩の財政を(うるお)しました。

                     
 薩摩(さつま)(現・鹿児島県)における(はぜ)の木埴栽及び製蝋(せいろう)の起源は種々あるが彌寝家(ねじめけ)の伝承によれば、天正年間(てんしょうねんかん)(1573~91)頃、大隈(おおすみ)半島の南西海岸にある小根占(こねじめ)(現・南大隅町根占(ねじめ))の領主、彌寝重長(ねじめしげなが)が毎年、中国に渡航する商船に(たく)して櫨苗(はぜなえ)を取り寄せ所領地に植栽したとある。文禄(ぶんろく)4年(1595)に薩摩半島の西海岸にある吉利郷(現・日置市吉利)に領地替えされた彌寝家(ねじめけ)は、元禄(げんろく)(1688~1703)頃、彌寝清雄(ねじめせいゆう)が家老時代に旧領地の小根占(こねじめ)より櫨苗を移植栽培し、「櫨の強制耕作(きょうせいこうさく)制度」を設けて薩摩本土の農民に栽培をさせたという。この制度は後に農民を苦しめる結果となる(.)元禄(1688~1704)宝永(1704~11)の頃、会津出身の金山職人が(.)桜島の櫨の実は製蝋に適していると告げた(.)製蝋したところ大いに成功しました。薩摩苗の流通とともに(.)会津出身の金山職人の伝えた蝋絞り技術も伝播していきました(.)薩摩藩は初めの頃は地場産業として櫨を藩の専売とし、藩外への流出を厳しく取り締まっています(.)
 
別の資料に「正保(しょうほ)2年(1645)異国船が櫻島(さくらじま)に漂着し船修繕の間に、土人に黄櫨(はぜのき)種子(しゅし)を与え小河(おがわ)の地に植えしめ、実を取り(ろう)を製することを教へたり」。(草木六部耕種法・佐藤信淵・1832)(鹿児島県史昭和15年刊)とある。しかしこの(せつ)には「桜島には小河(おがわ)なる地名もなく湾口より遠く桜島まで漂着(ひょうちゃく)すること事態に疑問があり漂着したのは小根占村雄川(おがわ)のことであると思われる」(根占郷土誌・昭和49年刊)と指摘しているのが、正論と思われ大隈半島の小根占(こねじめ)は櫨の木栽培や精鑞の発祥(はっしょう)の地と言えるだろう(.)
 別の説では、江戸初期の寛永(かんえい)14年(1637)に薩摩の大島代官(おおしまだいかん)が、中国から琉球(りゅうきゅう)に持たらされたのち奄美大島にも自生していた櫨苗を持ち帰り指宿(いぶすき)山川(やまかわ)に植えてまったという。薩摩半島の開聞岳(かいもんだけ)の山麓を歩くと、櫨の巨木があちらこちらに見られるが、その頃のものであるという。琉球櫨の果実は実が大きく別名薩摩の実とも呼ばれ、栽培された櫨苗は「薩摩苗(さつまなえ)」といって良質であった(.)


 そのほかに博多(はかた)の豪商輸入説がある。豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下統一した翌年の天正19年(1591)に、博多の豪商・貿易商人である嶋井宗室(しまいそうしつ)神屋宗湛(かみやそうたん)(1551~1635年)によって精蝋(せいろう)目的で(はぜ)の種子を中国の南方から取り寄せ肥前(ひぜん)(佐賀県)唐津(からつ)において栽培し、そののちに筑前(ちくぜん)(福岡県北部)にも広げたといわれている。神屋宗湛天和年間(1615~23)に中国から櫨蝋(はぜろう)の製法を伝習し、自ら生産し、福岡藩から専売権をもらい大阪に出荷して利益を上げていたのが(はぜ)の導入の始まりという。のちの寛永10年(1633)鎖国令(さこくれい)が発布され博多の貿易港は地位が低下し長崎に移住する商人が増えている。嶋井神屋の二人は福岡藩の産業開発に貢献(こうけん)し、鎖国令発令の前後の年に天寿(てんじゅ)(まっと)うしている(.) 
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    【会津の製蝋技術が薩摩へ】
 元禄(1688~1704)・宝永(1704~11)の頃、会津(あいず)出身の金山職人が、会津(うるし)の実から(ろう)を絞る方法からみて、桜島の櫨の実は精蝋(せいろう)に適していると告げた。試みに精蝋したところ大いに成功したという。のちに薩摩の櫨苗は九州はもとより中国・四国地方へと伝播(でんぱ)されているが、薩摩苗(さつまなえ)の流通とともに、会津出身の金山職人(きんざんしょくにん)の伝えた蝋絞(ろうしぼ)り技術も伝播(でんぱ)していったとみられる。寛政4年(1792)に使用していた
会津蝋絞(ろうしぼ)り器と同じ(どう)島原(しまばら)で発掘されてている事からも理解できる。しかし薩摩藩は初めの頃は地場産業(じばさんぎょう)としての希少価値を守ろうと櫨を藩の専売とし、重要な産品として藩外に流出することを(きび)しく取り()まっていました。 
                      

福岡藩博多大浜町の北国(なにがし)という者が薩摩に行ったとき、櫨蝋(はぜろう)の利益あるのを見て櫨の実を持ち帰えようとしたが、薩摩藩では藩外(はんがい)に出すことを禁じていた為に、思いをめぐらし弁当箱の底に櫨の実を入れ、 その上に飯を盛って持ち帰り、その種子(しゅし)()き育てたとも言われる(朝倉町史)(.)


 しかし、時代が進むに連れ、櫨の有益性が他藩にも知られ、薩摩と海上交易が盛んであった肥後島原筑後筑前などに櫨の種や苗が(ひそ)かに移入され、櫨栽培が広まったとされている
 
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島原藩(長崎県南東部)での櫨栽培が始まった時期は『長崎県の歴史』では島原の乱(しまばらのらん)後の慶安(けいあん)4年(1651)、藩主に移封(いほう)された高力忠房(こうりきただふさ)の時代から櫨栽培が始まったという。
万治(まんじ)3年(1660)頃には他藩に先駆(さきが)け櫨の栽培を奨励(しょうれい)したという。宝永(ほうえい)6年(1709)島原村では櫨苗1(たん)()12()(約60m四方)を営んでいた。藩は全体で精蝋事業で2万1864(きん)余(13トン)の生産をあげている(被仰出書)延享(えんきょう)元年(1744)に領内に5万本を植え、のちには、さらに5万本を増殖(ぞうしょく)している(深溝世紀)


 
柳川藩(福岡県南部)は、海上交易により櫨の苗も薩摩あるいは島原から移入され元禄(げんろく)(1688~1703)の初め頃から櫨を植え生蝋や白蝋の生産をしていたと考えられる(.) 精蝋事業が広まった事から元禄16年(1703)に「櫨運上の制」を定めている(.)
柳川藩で早くから木蝋製造を手がけたのは、享保(きょうほ)2年(1717)瀬高町八幡町の武田蝋屋と言われている。また出来た生蝋を瀬高町下庄田代晒業者(さらしぎょうしゃ)たちにより天日にさらされ加工し白蝋(はくろう)(さらし蝋)となり特産物となった(瀬高町誌)。生蝋(きろう)や白蝋は柳川藩の統制下で沖ノ端や談義所の浜から帆掛舟(ほかけぶね)で長崎や大坂などに運ばれました。製蝋業は後に武田蝋屋に雇われた高田町海津江崎宗四郎(えざきそうしろう)などによって、益々発展したといわれる。高田町江浦の荒木精鑞の先代の荒木岩太郎や息子の順治により高田町の山間部で収穫された櫨で蝋を製造していたと推測されている( )
 

 熊本藩享保8年(1723)薩摩から1石9斗(3,500リットル)の実を仕入れ、本格的に苗を作り櫨の木の栽培を始めました。延享2年(1745)には財政の危機を救うために本格的な(はぜ)の植え付けを始め、柳川藩に櫨の視察(しさつ)に訪れ、ハゼを密集させて植えることなどを学び堤防のハゼは生垣のごとく繁殖したという。菊池川(きくちがわ)流域でとれた櫨の実は、舟で下って運ばれ大浜町(現・玉名市大浜町)の廻船問屋大坂屋に集められ精蝋(せいろう)されて大坂に積み出されました。藩主細川重賢(ほそかわしげかた)はさらに財政再建を目的とした宝暦の改革(1752)をおこない、殖産興業(しょくさんこうぎょう)の”目玉作物”として水俣をはじめ、田浦南関小田(現・玉名郡)大津など県内一円で川や井手の堤防、道沿い、さらに畑に10万本を超す櫨の木が植えられ、民間の製蝋所(せいろうしょ)はすべて禁止され櫨方役所の直営の製蝋施設とし、藩による櫨蝋(はぜろう)の専売制がしかれ、熊本の特産品として藩外に売り出して収入増をはかった。熊本城にはその名残(なごり)の「
櫨方門(はぜかたもん)」がある。水俣市(さむれ)地区には当時植えられた「宝暦櫨(ほうれきはぜ)」という大きな櫨の木が残っている。現在、近くには「侍街道はぜのき館」という櫨蝋(はぜろう)資料館(しりょうかん)があります( )

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  【本格的なハゼの木栽培】
 (はぜ)栽培と精蝋(せいろう)技術を最初に確立したのは薩摩藩だが、将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)は財政の再建のため享保の改革享保元年~延享2年(1716~1745))を断行し殖産興業政策をとり、甘藷(かんしょ)さつまいものこと甘蔗(かんしゃ)さとうきびのこと(はぜ)の木・朝鮮人参(ちょうせんにんじん)などの栽培を奨励した。これにより柳川藩、久留米藩、熊本藩、福岡藩、長州藩、萩藩、紀州藩(きしゅうはん)などが競って、薩摩藩から種子を譲り受け、あるはいは苗木を買い受けて櫨の木が川や井手(いで)の堤防、道沿い、さらに畑にも植えられました。
 同時に(はぜ)の研究もなされた。新品種は遺伝的に固定せず、種から育った木は実が悪かったり収穫にむらができ、結実(けつじつ)までは10年程かかるために櫨の苗は優秀な枝を接木(つぎき)した苗が植えられた。接ぎ木苗を仕立(した)てて植えると、何本植えても全て上々の実が付き2~4年で収穫(しゅうかく)できる。その収穫量は10年木で5~10斤(3~6kg)、20年以上の木で30~50斤旺盛(おうせい)な木では150斤(90kg)にもなる。接ぎ木の新品種が増殖され、品種改良や突然変異(とつぜんへんい)により優秀な品種も発見さた。芽をもった枝を穂木(ほぎ)にして、ほかの多くの台木に接木され優秀な櫨の遺伝子を受継いだ苗木が増殖され各地に広まった(.)これは出度末期に江戸の染井村(そめいむら)東京都豊島区駒込)の植木職人が開発した1本の染井吉野桜(そめいよしのさくら)が大島桜の台木に接木増殖され、全国に広まった植木のクローン技術と同じです( )
農民達は最初のうちは有利な条件の櫨栽培に作間(かせ)ぎに協力したが、櫨栽培が定着すると藩の統制はきびしくなり櫨の増産や収穫を強要(きょうよう)され買上価格は極端(きょくたん)に低く抑えられ他の作物の収穫時期とも重なり、櫨の収穫でも2~3ヶ月を要して農民を苦しめるようになりました(.) 
       
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 福岡藩での本格的な櫨栽培は、享保15年(1730)筑前那珂郡山田村(現・筑紫郡那珂川町大字山田)の庄屋の高橋善蔵(たかはしぜんぞう)(1708~1761)に始まるとされる。善蔵は櫨栽培の薩摩や肥前を訪れ栽培法を視察し、にぎり飯の中に(はぜ)の実を入れて持ち帰り栽培し研究したという。享保17年(1732)飢饉(ききん)で総人口の
1/3を失ない、福岡藩は農村復興・荒地復旧に櫨栽培を奨励(しょうれい)し、元文5年(1740)頃より郡奉行管轄下(かんかつか)使役(しえき)で荒地に櫨を栽培させ、その地を10年間無税とした。高橋善蔵山田村模範栽培(もはんさいばい)の見学地として藩から指定され、来訪者の質問に応ずるため延享4年(1747)(.)39才の時に櫨栽培の手引書『櫨植遺言書』別名窮民夜光の珠(きゅうみんやこうのたま)』を書き、藩の実植奉行の命で郡役所で写して40人の大庄屋(おおじょうや)に配布し、さらにここで必要部数を写し庄屋(しょうや)に配布され栽培法が普及した。宝暦元年(1751年)藩は上座郡内(現・朝倉市)の櫨畑に櫨樹を植えさせて栽培普及にあたった。寛政8年(1796)には櫨実木蝋奉行を置いて博多植木甘木に蝋座(藩営専売所)を設置した(.)文政9年(1826)には博多植木甘木黒崎芦屋などに生蝋会所を設置し、会所に生蝋を集め、大坂に送って売り(さば)きました。
 

 久留米藩
(福岡県南部)でも享保15年(1730)
竹野郡亀王村(現・田主丸町大字秋成)庄屋・竹下武兵衛周直(たけしたぶへいしゅうちょく)(1704ころ~1781)初めて櫨の木を植え始め熱心に取り組んでいる(.)
 寛保2年(1742)には
丹波屋鞍打(くらうち)甚四郎国分村九郎兵衛の3名が城下辺りの西久留米村鞍打(現・久留米市西町)国分村(現・久留米市国分町)などに櫨を植付した。寛延2年(1749)に藩の家老有馬主膳(ありましゅぜん)山守鑓水九左衛門を薩摩に派遣して唐櫨苗(からはぜなえ)1万本を購入して、生葉郡山北村大野原(現・浮羽郡三春)に植え付けている(石原家記)。この頃から久留米藩は「櫨方(はぜかた)」をおき、空地や荒地に櫨栽培を奨励し、のちには藩は川堤や官道(かんどう)の縁にも植え付け、手入れや収穫は農民にゆだねて3年ごとに検査し、収穫の3分の1の櫨実代銀を上納させている(.)
  
田主丸(たぬしまる)から伝わった櫨栽培の技術
 櫨の植付に取組んだ
竹下武兵衛(たけしたぶへい)は20年にわたる体験により 寛延3年(1750)に櫨栽培の技術書農人錦の嚢(のうみんにしきのふくろ)を世に出し「櫨の実は袋の中から金貨をとりだすようにたやすく富を手に入れることができる」と櫨栽培が多大なる利益をもたらすと増殖(ぞうしょく)を奨励し、実の良し悪しと種実の選び方、よい苗木の見分け方、()ぎ木や栽培方法を指導した。武兵衛宝暦(ほうれき)2年(1752)に久留米藩から検分方下役という士分役をもらい、同4年(1754)、宝暦一揆(いっき)の責任を負って辞めされた田主丸の石井(いしい)氏にかわって大庄屋職(おおじょうやしょく)についている。宝暦年間には耳納山麓(みのうさんろく)松山(現・森部地域)において櫨の自然変異の一品種を発見し「松山櫨(まつやまはぜ)」と名付けている。この「松山櫨」は、当時の農学者大蔵永常(おおくらながつね)による大著「農家益」の中で「七種の銘柄(めいがら)のうち最上である」と賞される程の逸品で、筑後一円に広く普及(ふきゅう)した。
 竹下武兵衛の郷里に近い農村地帯の吉井町(よしいまち)は櫨蝋の製造者や蝋商人も生れて筑後木蝋は日本で生産高、品質ともに第一位となる。(はぜ)の国であった筑後の名声を(にな)い、蝋屋(ろうや)の益金が金融市場に流れて「吉井銀(よしいぎん)」を生みだし、繁盛し白壁の土蔵商家の町並みが生れたともいう。明治の中頃でも15軒が蝋屋(ろうや)を営み、職人が竹にさした芯に手で蝋を塗り付ける「蝋燭(ろうそく)かけ」の風景があちらこちらで見られたという。耳納連山から北流する川の曽根(そね)にはどこもかしこも植栽され、櫨並木は耳納北麓の景観を彩っていたが、現在は櫨に生産上の利益がなくなり伐採されて、延寿寺(えんじゅじ)曽根の櫨並木がかろうじて(のこ)っている。
櫨栽培で始まった
田主丸町は先人の偉業(いぎょう)が受け継がれ植木の町として発展し、日本三大植木(うえき)の生産地となっている(.) 
 
宿場町吉井町の白壁の商家

延寿寺曽根の櫨並木

    【伊吉櫨の発見】
天明年間(1781~87)の頃に筑後国御原郡寺福童村(現・福岡県小郡市(おごおりし)の農民・内山伊吉(うちやまいきち)(1730~1814))によって松山櫨をさらに品種改良した低木で実の多い優良品種( )伊吉櫨(いきちはぜ)」を発見する。九州一体から四国にまで流行した優良品種であり筑後は櫨栽培の先進地として有名となる。伊吉櫨は地方経済を左右し、「小郡銀(おごおりぎん)」を生み出し筑後経済に威力(いりょく)をもち櫨の大産地として発展(はってん)していった。

 天保(てんぽう)3年(1832)亀王村(現・田主丸町)の亀王組一揆では一揆側に加担したとして七郡追放となった庄屋の竹下武兵衛周直に代わり、人望の厚かった秋山勘九郎(あきやまかんくろう)正明亀王村の大庄屋となります。勘九郎は、松山櫨の改良種である「伊吉櫨(いきちはぜ)」を福童村(現・小郡市)から取り寄せ、繁殖を奨励しました。久留米藩南部、八女地方では初め岡山村今福( )室岡(現・八女市西部)に伊吉櫨を畑の周囲の所々に植樹されたが、成績が良いので次第に林野を開墾して櫨畑( )が作られていった。1反歩(いったんぶ)(300坪)当たりに40本を栽培されたという。現在、筑後地方に残っている櫨の木は、伊吉櫨(いきちはぜ)だと見られています。櫨の木は専用畑の他に道路に沿って植えるのではなく、( )が繁る分だけ、手前にひっこめて植えた。当然枝の下は陽当りが悪くなるので、畑は日陰(ひかげ)でも育つ、らっきよう、みょうがなどを植えた(.)
久留米藩の幕末の主要品目生産高を見ると、久留米(かすり)9万両に対し、木蝋(もくろう)36万両と、櫨の木が生む蝋が、いかに藩制を支える産物(さんぶつ)であったかを物語っている()

 久留米藩の輸出高は、1位種油、2位木蝋、3位藍染め、4位お茶と紙であった。久留米藩に集まる櫨から作った木蝋の半分は小郡産(おごおりさん)だった。櫨の実の買付け資金を上方商人より融資(ゆうし)を受け大量の蝋製品が大坂方面に輸出されている(.)

 佐賀藩では延享(えんきょう)の頃(1744~1747)から櫨栽培を奨励し、櫨実を藩で買い上げ、藩直営の製蝋所を開設した。最も盛んな頃は1000haに及び、優良種の植栽の努め、藤津郡太良町(たらちょう)あたりから出たといわれる辰江櫨があった。
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 【櫨の木の品種】
  松山櫨(まつやまはぜ)(福岡県久留米市田主丸町(旧・浮羽郡)原産)
品種のうち最も古く発見された。果肉が多く、蝋分も多い。やせ地の栽培にも適するので、全国各地に普く栽培されている。

  伊吉櫨(いきちはぜ)(福岡県小郡市原産)
小郡町庄屋 池内孫左衛門(1693~1771年)によって農業書孫左衛門の櫨木仕立覚が書かれ、この本をもとに内山伊吉(1730~1814年)が松山櫨からの品種改良で発見している。
葡萄櫨に次いで硬質、色づきが良好の製品になる。筑後地方の櫨の木はは伊吉櫨が多い。

  
ヌメラ櫨(福岡県筑紫野市原産)
果実は中粒で枝がよくしなり、採取しやすい。

  
平迫櫨(福岡県旧嘉穂町原産)
果実は小粒で枝がよくしなり、大きくならないので採取しやすい

  昭和福櫨(しょうわふくはぜ)(長崎県島原の原産)
寛政2年(1790)、島原市千本木町(当時の杉谷村)で発見された品種でその当時「新古ロウハゼ」という昭和2年に昭和福櫨と命名された品種。
茎房が短く、果実は中粒で核が細い。果肉豊富で柔らかく色はよい。木蝋の含有率が35~40%もあり高品質。

  群烏(むれからす)(大分県宇佐市原産)
豊後国宇佐郡上田村(現・大分県宇佐市)の庄屋 上田俊蔵 が山野に自生する櫨木を台木に接木を繰り返し、天保12年(1841)頃に大房の実がつく多収穫の新優良品種「群烏」を開発する。大房の実がつく多収穫の新優良品種

  葡萄櫨(ぶどうはぜ)(和歌山県原産)
茎房が長く、実は最大。蝋質は硬く粘靱性に乏しい。隔年豊凶の差あり。実が落ちにくく、強風地域に適し九州では宮崎県が多い。

  王櫨(愛媛県の原産)
原木は同県周桑郡中川村にある。
形は松山櫨に似ているが、茎房は長く、果実は中粒である。蝋分が多く、蝋質も優良である。

  利太治櫨(愛媛県の原産)
原木は同県宇和郡宮内村にある。
小粒多産で隔年結果もなく、蝋分も比較的多い。愛媛県宇和郡宮内村で発見されたもので、愛媛県下で、多く栽培された。


  南京櫨(なんきんはぜ)(中国・台湾原産)
鍋島藩が蝋を採るために栽培を奨励したので、佐賀平野には多くみられる。紅葉が綺麗で街路樹に見かける。植物学的には全くの別物。蝋は採れるが蝋燭にならない。 

  壱岐穂(いきほ)福岡県柳川市原産)
柳川藩の家老立花壱岐が自分で櫨を植え、渡辺律次郎に櫨のよい事を話し、池辺は櫨の小枝を接木開発した。それが藩内に次々に伝わり。「壱岐穂」と呼ばれた。





櫨の実




木よりも高い竹はしごを倒れないように
三方から縄でひっぱって固定し、その上に
登って「かぎんちょ」で引っぱりちぎった。

 島原藩
安永4年(1775)には櫨方役所(はぜかたやくしょ)が設置され専売制度を敷き、藩財政の増収策としていた。天明(てんめい)8年(1788)には約170両の益金を生出している。寛政(かんせい)4年(1792)の「島原大変、肥後迷惑」の雲仙普賢岳の噴火および眉山(まゆやま)の崩壊で櫨の木や民家も倒壊された。その時の火山灰で埋もれた製蝋所の「ロウ横木式絞り器」が白土湖(しらちこ)で発掘されている。現在、島原城キリシタン史料館に展示されているが、会津資料館所蔵の蝋絞(ろうしぼ)り器と同型で会津の蝋絞り技法が薩摩に伝播し島原・その他にも伝わっていたと思考(しこう)される。寛政8年(1796)には40万斤の木蝋を大坂に送り1万2千両の収益を出し、翌9年に(かわ)された大坂の蔵元油屋彦三郎(あぶらやひこさぶろう)との覚書では、年間5千両から7千両を納金するようになっていた。これらの益金(えききん)が「島原大変」の災害復興資金に大きな役割を()たしたのである(.)
   
島原城所蔵のロウ横木式絞り器 
蒸したての木の実を、ドウ(胴)と呼ばれる絞り器に入れて絞る。中央部が刳り(くり)抜かれており、そこにカタ(形)を入れ、左右二つのカタに麻袋に入れた蒸したての木の実を詰めそのわきにヤ(矢)とかシメヤ(締矢)と呼ばれる木のヤを打ち絞る。最初は、軽く左右対称に打ち込み、カタが安定したら強く打ちこむ。ドウの下の逆台形の溜箱に絞られた蝋が溜まり冷え固まると逆さにして抜きとる。(佐々木長生著・会津の漆蝋の歴史による)  
     
 櫨の実から搾った木蝋は、燈明(とうみょう)用として固形のローソクがそれまでの菜種油(なたねあぶら)と共に使用されてきた。当初(はぜ)ろうそくは10(もんめ)(約38g)の大きさのもので24(もん)し、これは職人さんの一日の賃金と同じくらいで、高額なために主にお城や富裕層(ふゆうそう)、寺社仏閣でしか使われませんでした。のちには(ろう)から作ったビンツケ油は、髪結(かみゆい)に使用されるようになり、次第に木蝋の需要が増し、木蝋製造業や蝋商人(ろうしょうにん)が増え続け本格的に盛んになりました(.)幕末には禁止されていた外国との密貿易により蝋の利益が莫大な金額となり、各藩は軍艦を購入するなど軍事費にあてました( )
     

和ろうそく職人
 
     【江戸末期編】

   【蝋で蒸気船を買う】
 佐賀藩天保14年(1843)筑後から仕入れた苗木2万5千本を筑後国に隣接した三養基郡(みやきぐん)神埼郡(かんざきぐん)などの村々に配布し、生産された佐賀産の蝋は大阪市場で好評で、早速、藩は大阪の蔵屋敷(くらやしき)を通じて売る専売制を敷いた。
安政4年(1857)には外国船来航に備えてオランダの帆船飛雲丸(ひうんまる)(木造外輪蒸気船 150馬力、全長51.8m 船幅9.1m )を銀千貫分(十数億円相当)の蝋で支払う契約(けいやく)で購入し、翌年にも木造艦電流丸(でんりゅうまる)(300トン)を購入している。(ろう)の需要は増え、この年の櫨の本数は60万本に達した。その4割が植樹(しょくじゅ)間もない若木だったという。蝋のほかに松浦郡山代炭坑(現:伊万里市)や、高島炭坑(現・長崎市高島)杵島郡福母(きしまぐん ふくも)炭坑杵島郡大町町大字福母などの石炭の採掘で、これを輸出して大きな利益も上げ軍事費に当てている( )
安政6年(1859)オランダ海軍伝習から伝習生が帰還(きかん)するや
筑後川の支流早津江川の河口、三重津(みえつ)(現・佐賀市川副町早津江)に海軍学寮と海軍基地「三重津海軍所」が設置( )され、慶応元年(1865)には国産初の小型蒸気船凌風丸(りょうふうまる)(出力10馬力)が建造された
 
           
                    佐賀藩三重津海軍所絵図              右・国産初の蒸気船凌風丸  (佐野常民記念館蔵) 
藩は御用問屋を9軒指定し蝋や石炭などの移出商品の生産や流通を統制した。江島村(現・鳥栖市江島町)の藩の有力な御用問屋の犬丸(いぬまる)家は鳥栖市から神埼郡(現・佐賀県神埼市)にかけての二十数村での(ろう)生産を統括し、出来た木蝋を大坂(おおさか)長崎に運んで海軍所や大砲の製造資金の為に稼いでいました(.)
 

 
島原藩寛政7年(1795)享和3年(1803)に櫨の木を伐採時の注意を通達し櫨・木蝋の増産をしようと考えていたが文政2年(1819)頃には大坂で木蝋は半値に下落(げらく)して1斤8文6分となった。藩は勝手に櫨の木を伐採(ばっさい)しないように各村に通知している。しかし天保9年(1838)には大坂で蝋が高騰(こうとう)し翌年には国益増収の祝いをしている。同12・13年には3千両の益金を出している。嘉永6年(1853)には益金(えききん)2千500両で藩御招船「栄寿丸」を建造したとある。(藩御日記妙)安政元年(1854)には櫨方(はぜかた)より2千500両を生出し、1千両で武器を購入、翌年には夏秋2度にわたって3千500両砲台(ほうだい)築造などに当てている。慶応2年(1866)には生蝋(きろう)1万2900斤、ロウソク1千200斤を出荷し、この年の益金1千両で鉄砲100(ちょう)を購入するなど藩益を上げている。藩では享保元年(1716)延享2年(1745)に年間13トンほどの製蝋(せいろう)だったが、幕末にはこの10倍近い年間約120トンの大阪送りが約定(やくてい)されている。(島原城資料館・松尾卓次著書)
 

 柳川藩領の上妻郡北山村国見(こうずまぐんきたやまむらくにみ)(現・八女市立花町北山国見)の商人の惣七天保15年(1844)11月甚四郎の船に白蝋37箱(2,775斤)を積み長崎に移出していることが古文書で解る(.)その外に弘化2年(1845)正月から5月にかけて、1万1500斤が移出され、冥加銀(みょうがぎん)(租税)287(もんめ)5分を納めている( )長崎からは薩摩の砂糖を同村の佐兵衛と共同で1,750斤を移入し代金78両6合を支払っている。この頃の古文書では蝋・茣蓙(ござ)・茶・和紙を移出し、砂糖(薩摩産)・魚の干物を移入していることが解かっている( )
 嘉永3(1850)頃には古文書から江浦町(高田町)の荒木岩次郎櫨蝋を生産していた(.)荒木製蠟で製造された「白蝋」を、江浦の廻船問屋・角屋(大坪)儀兵衛が買い付け(.)長崎の山口屋駒之助に出荷していた。 高田町江浦の大坪家には(.)安政2(1855)年から明治11(1878)年までの「売仕切覚(.)などが保管されています。この文書群の中に、江浦の角屋(大坪)儀兵衛が白蝋24箱(正味2019斤・122kg(.)を長崎油屋町の山口屋駒之助へ、矢部川河口域の徳永河港から移出し、その代金270両を、山口屋角屋に支払ったという内容の記録があります(.)


 
福岡藩嘉永2年(1849年)莫大(ばくだい)な借金解消のため櫨蝋の一手買占め、販売のため、生蝋御仕組の指導を天領日田の富商広瀬久兵衛(ひろせきゅうべい)(ゆだ)ねる。安政4年(1857年)広瀬は総支配人となり博多の有力商人瀬戸惣右衛門(そうえもん)釜惣(かまそう))と甘木の商人佐野半平(さのはんぺい)(佐野屋)の両人に領内の櫨・蝋買占め業務を担当させ、藩独占の販売が改めて実施された。藩内の窮乏(きゅうぼう)を救うため、藩に対し日田の広瀬2万5千両を、甘木の佐野半平は金1万4千両を博多の釜惣(かまそう)4千両もの大金を用立てている。
藩士
上野勝従(まさゆき)が残した『存寄書(ぞんじよりしょ)』には幕末の藩の移出品の第1位が白蠟4百万(まる)(19万2千トン)20万両。2位が鶏卵1万5千籠、8千8百23両。3位が焚石(たきいし)(石炭)で1千万両であり蠟が移出品の大部分を占めている。また移入品の1位は木綿(衣類用)で、100万5千反、20万1千5百両、畳表(たたみおもて)140万枚、3万2千6百両。藍染(あいぞめ)料が3万両、(くじら)(田んぼのいなご幼虫退治用)が6千4百丁で8千両などとなっている藩は艦船「日下丸(くさかまる)」を購入している(.)
佐野半平は幕末には蒸気船
寛永丸(かんえいまる)を購入したと伝えられており、佐野屋は明治6年に船を払下げ申請して海運業も行っている。慶応2年に藩の御用達(ごようたつ)方、翌3年に甘木村の大庄屋に、明治2年3月に財政顧問(こもん)たる御銀用受持に就任し地元地域は勿論、藩の財政建て直しのために貢献(こうけん)している。
跡継ぎした息子の佐野弥平と博多のは順調に資本を蓄積し、
明治10年(1877)3月第十七国立銀行(現・福岡銀行)を発起、設立し、福岡商法会議所(福岡商工会議所の前身)の創設にも努力している。
 

 熊本藩
の記録によれば、弘化4年(1845)には、藩内の櫨の栽培面積は1297町歩にも及んでいます。安政5年(1858)には70万本もの櫨が植えられ、実の収穫高が約500万(きん)(約3000トン)(ろう)の生産高が約75万斤(約450㌧)、売上高は1万7千両にのぼったと言います。同年、山鹿(やまが)鍋田村(現・山鹿市鍋田)に製鑞所が新設され高橋(現・熊本市高橋町)水前寺・新三丁目(現・熊本市内)八代(やつしろ)と合わせ5カ所になり、製蝋は専売制度(せんばいせいど)をとられ、藩の財源を潤し元冶元年(1864)、艦船万里丸(ばんりまる)(600トン・備砲4門)を購入し2年後には凌雲丸(りょううんまる) (鉄製スクリュー汽船, 160馬力)と、奮迅丸(ふんじんまる)を購入している。
 

 薩摩藩
造船事業では安政元年(1854)外国船来航に備えて軍艦昇平丸(しょうへいまる)(帆船370トン、全長31メートル、砲16門)桜島瀬戸村(さくらじませとむら)造船所で建造し幕府に献上した。翌年には我が国初の蒸気船雲行丸(うんこうまる)などの建造を手がけている 
英国などから蒸気艦船など17(せき)を購入し費用は112万4千ドル。現在の361億2千万円相当になる(.)元治元年(1864)9月付の「軍艦購入計画書」によると藩は特産品である砂糖(さとう)大坂で販売し、その金貨(幕府通貨)柳川藩から(ろう)お茶宇和島藩から干藻土佐藩から樟脳(しょうのう)生糸(きいと)を購入して、長崎経由で上海(しゃんはい)に送り、ヨーロッパ人などに販売して多額の利益(りえき)をあげて軍艦資金(ぐんかんしきん)にしている。(右絵・洋式軍艦・昇平丸)慶応3年(1876)、薩摩藩はパリ万国博覧会に木蝋(もくろう)を出品しています
昇平丸

     
【薩摩軍艦特需】
 
柳川藩は維新前に薩摩藩からの( )やお茶の特需にわいた。現・立花町域の蝋を扱う商人は地元だけでは需要に応じきれず、久留米藩内の蝋も仕入れ小舟に乗せて矢部川を下り、瀬高(せたか)の浜から河口に近い鷹尾泰仙寺島堀切(しまほりきり)などの海運業者に(ゆだ)ねて長崎に運んでいる。出荷が急がれる時には、臨時の保管庫として瀬高酒蔵(さかぐら)を使用している。(大和町史)この商いに携わったのは上妻郡北山村国見(こうずまぐんきたやまむらくにみ)光友村兼松(現・立花町)の商人と思われる( )
上妻郡光友村(こうずまぐんみつともむら)兼松(かねまつ)(現・八女市立花町)は久留米から肥後(熊本)へ抜ける脇街道の宿場町でした。宿場の柳川藩の御用商人「松屋(まつや)」(松延(まつのぶ)氏)や「
芥屋(あくたや)」は矢部川山間部の産物の木蝋・お茶・紙を長崎( )のルートを通じて大坂京都などに販売していた豪商です。
大正6年に編纂された「稿本(こうほん)八女郡史」によると代々商いを営む「芥屋(あくたや)」の店主高橋治平の息子善助は17歳にて海外貿易を( )したが父の反対にあい、知人から若干の資金を得て下関( )にて地元の木蝋(もくろう)・お茶・百田紙(ももだがみ)など販売して利益をあげる。遂に父に認められ資本を( )してもらい大阪長崎鹿児島四国豪商( )と商いを行い芥屋は益々繁盛した。さらに英仏に開港されていた琉球(りゅうきゅう)(現・沖縄)に秘かに出向き海外貿易を試さんと活動している。しかし高橋善助(たかはしぜんすけ)慶応3年(1867)に46才で病に倒れ亡くなり芥屋も廃業となっている( )向え側の商家「松屋」の松延(まつのぶ)家は文政5年(1822)には商いをしており、柳川藩の山間部の特産品である百田紙(ももだがみ)・茶・櫨などを買集め、瀬高柳川あるいは長崎の商人に納めていました。( )の重要文化財(建物)に指定されて、当時の商家の面影を残しています( )
立花町兼松の国指定重要文化・松延家
藩はこの特需に対応するため統制(とうせい)をきびしくして特定業者のみに蝋の取扱いをさせた。榎津(えのきず)(現・大川市)の大庄屋・吉原(よしはら)家はこれに反して蝋の販売をした為に藩から厳重な取調べを受けている( )
柳川市保加町(ほかまち)武松豊(たけまつゆたか)氏所蔵の文久四年(1864)の武松家「大福日記帳(武松文書)などの資料から、幕末(文久・元治・慶応年間莫大(ばくだい)な量の(ろう)お茶(おちゃ)が貿易品となり長崎の貿易商・松尾屋伊助(まつおやいすけ)に送られていたことがわかる。武松家の長崎の取引は殆んど松尾屋伊助であり柳川藩から出向いた御用商人で物産の仕入れや薩摩藩などへの売込商人と思われる(.)また武松虎吉(たけまつとらきち)が父甚吉(しんきち)に宛てた手紙には蝋を長崎の「グラバー商会」に売込み高値で売れて、3千両を送った内容がある。外国商人と密貿易(みつぼうえき)までして、死を賭けて藩の財政貢献のために働いている( )(武松豊・柳川藩の藩札参照) 

みやま市高田町江浦
で蝋屋「角屋」を営んでいた大坪富美雄(おおつぼとみお)氏所蔵の安政2年(1855)から明治11年(1878)の「角屋」の角屋儀平儀平衛(大坪氏)の33通の長崎方面の交易の文書には生蝋7~15(かます)が高砂屋吉平衛へ、白蝋22~80箱が定期的に長崎の売込商人である武若屋太七鍛冶屋町)・山口屋駒之助油屋町)・福島屋太郎左衛門本篭町(もとかごまち))・松尾屋伊平恵美須町)に送られている。移入したものには干物の魚類や黒砂糖である(.)薩摩から長崎に移入された砂糖が各地に売られたと思われる( )(堤伝、柳川と長崎の交易参照)

安政6年(1859)
以来、 藩主から藩政改革の全権一任を受けた家老の
立花壱岐(たちばないき)は借金の藩財政の建直しに取組み、準備金の無い藩札(はんさつ)(空札)を御用商人に買付金として発行し、御用商人は特定集荷人(しゅうかにん)から藩札で(ろう)を買い集め、船で長崎の売込商人に納め、受取った金貨(幕府通貨)は藩の銀会所(ぎんかいしょ)に上納された。藩札は金貨に変じる循環を繰返し、しかもインフレのために藩札の発行と金貨の流入は鰻登(うなぎのぼ)りに増加して財政が(うるお)い黒字財政に転じている。家老の立花壱岐は藩の約30万両の借金を改善し2年間で14万両(そな)えた。また輸送艦船「千別丸」を購入している。慶応4年(1868)戊辰戦争(ぼしんせんそう)越後(えちご)戦線では兵員輸送と上陸展開の速報連絡役を務めている(.)
立花壱岐は殖産振興にも力を注ぎ
万延元年(1860)に彼が開発した(はぜ)の新品種は、「壱岐穂(いきほ)」と名付けられ、接木で増殖された苗は藩内で植えられ、農民たちから「生神様(いきがみさま)」、「有難い壱岐様」などと(した)われた。
  
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熊本藩にも「壱岐穂」が広まっている。肥後布田(現・熊本県阿蘇郡西原村布田)横井小楠(よこいしょうなん)の弟子・竹崎律次郎(たけざきちつじろう)は同じ門弟の筑後柳川藩の池辺という人から、同藩の立花壱岐が仕立つる櫨のよい事を聞ました。その櫨は壱岐穂と称えて盛に接木(つぎき)されたものです。立花壱岐横井小楠とは関係が深く、福井藩の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)公から招かれる際にも仲介している。(招かれた横井小楠は福井藩の改革とか、幕政改革などに大きな功績を残している。)その縁で紹介され、息子の新次郎にその壱岐穂(いきほ)を貰いに柳川に旅出させ「穂を日にあててはいけぬ、夜道を帰れ」と言いつけました。布田(ふた)から柳川への二十里を旅して(もら)い受けた櫨の苗は植樹され増え続けられ、現在の布田の山上に残っている櫨の木はそれらの名残(なごり)です。
 
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 久留米藩元治元年(1864)1月には、英国から蒸気艦船「雄飛丸」を購入して洋式海軍を創設、翌年に米国から木造帆船玄鳥丸を購入、英国からは木造蒸気船晨風丸(しんぷうまる)(100馬力)・木造帆船翔風(しょうふうまる)遼鶴丸・蒸気艦船神雀丸(8馬力)の3隻を購入して兵式も西洋方式とし、幕府薩摩藩佐賀藩につぐ強力な海軍力をつくり上げた。(.)
 
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久留米藩の木蝋の生産高は寛政9年(1797)には3,000(まる)程度であったが、幕末の慶応3年(1876)には4倍の11,077(まる)を生産し全国でも主要な木蝋の生産地となりました(.)明治3年(1880)見込高(みこみだか)(右表)では19,200丸と記されている(.)
櫨栽培の進展に(とも)い、製蝋業者(せいろうぎょうしゃ)も増大し、専門的に独立して板場(はんが)(製蝋場)を経営する者、他の商品も扱う大商人で板場(はんば)を経営する者、副業として板場を経営する農民などが成長した。特に問屋(とんや)は、小生産者に資金を前貸(まえか)して櫨の実や蝋を独占し、独占的な生産と販売により巨利(きょり)を得たと言われる(.)(久留米市史より)

久留米藩の櫨蝋生産高
  慶應3年 明治元年 明治2年
櫨実収穫高   .  . 960万斤(5760トン)
木蝋生産高  11,077丸
13,442丸 19,200丸(921.6トン)
(1丸は80斤入で48kg)
(内 明細)
蝋屋敷自家消費高  .     400丸( 19トン)
領内消費・その他     10,523丸(505トン)
大阪出荷高 11,077丸 12,780丸  6,559丸(314.8トン)
長崎出荷高   .   662丸  1,718丸(82.5トン)
  『明治三午年三月成産方変革存寄見込書』より作製
 
   【商社による輸出】
木蝋の最盛期は幕末から明治時代であったが、明治の初め頃の輸出用木蝋(白蝋)は主として貿易商社によって取り扱われ、日本特産の「Japan Wax」として輸出され外貨獲得上かせぎの商品であった。明治6年では生糸(きいと)720万円)・茶(470万円)・蚕卵紙(さんらんし)306万円)・石炭(64万円)・銅(61万円)・昆布(53万円)・米(53万円)・木蝋(42万円)で木蝋は第8位であった( ) 明治10年頃は三井物産・三菱商事・浅野物産などの商社が輸出していました( )
 明治6年(1873)の蝋価格の大暴落で櫨の木が伐採され久留米県・三池県・柳川県が合併した三潴県(みずまけん)は伐採禁止令を出したが効果はなかった(.)

明治34年(1901)
に瀬高町下庄の武田蝋屋に筑後木蝋同業組合の本部が創設され久留米市京町に事務所が、2市6郡には支部が置かれ、
販売斡旋( )製造研究に努めた。経営改善と合理化のため、人力による蝋の搾取(さくしゅ)は蒸気力利用の機械搾りが取入られ零細業者から大工場に集約されて行った。明治35年(1902)以後も、櫨裁培、木蝋生産が減少した。以前は百(きん)につき15~16円であったものが、その後、時には40円前後まで高騰(こうとう)したが、明治44年(1911)には9円に下落している。原因は中国産生蝋の輸入が激増したのによる( )


【第五回内国勧業博覧会筑後地方の出品業者数】
  
明治36年(1903)に大阪の天王寺会場を中心に開催された「第五回内国勧業博覧会」に出品した福岡県の各市町村の櫨実・生蝋・白蝋の業者数の統計図を見ると福岡県筑前地方は筑後に隣接した朝倉町3、甘木市6など全部で30の業者にすぎないが、筑後地方では小郡市13、久留米市11、太刀洗町6、甘木町6、田主丸町5、吉井町16、杷木町(はきまち)4、浮羽町2、黒木町3、広川町25、八女市17、瀬高町6、山川町7、高田町6、三橋町12、と139の業者が出品している事から、当時の櫨蝋に係った業者の分布がおおまか理解できる。伝承された記録の通り、小郡市の生蝋生産者が多く、吉井町の白蝋生産者が多い。山間部に近く耕作面積の広い広川町や八女市は生蝋生産者が多いのが目立つ。三橋町は白蝋生産業者が占め日本一の粗製白蝋の生産を記録している。
 大正期(1879~1926)には石油合成品であるパラフィン、 西洋ローソク 、安価な輸入蝋に押され、石油ランプ 電灯の普及によって次第に衰退し、生蝋の生産量は明治32年と比較すると半分以下に下がっている。(右表)博多の商人は蝋から将来の花形商品である石炭の取扱商人と変革していった。

 第二次大戦(1939~1945)の物資不足で生蝋の生産は一時増え価格も暴騰したが、戦時中の食料増産や終戦後の農地解放により、戦前までは1,339町歩あった櫨の作付面積は櫨の木は伐採されていった。

 筑後地方の地場産業として栄えた
ハゼ蝋(櫨蝋)生産は、昭和30年(1955)頃から安価な石油製品に押され、さらに時を同じく進められた日本の貿易自由化政策によりミツロウ(蜂の巣)など海外産天然ワックスの流入もハゼ蝋(櫨蝋)産業を圧迫する要因となる。

■全国生蝋生産量■
生産年 生産量(千斤) 作付面積
明治32年
(1899)
22,190
(13300トン)

大正元年
(1912)
11,064
(6650トン)

大正11年
(1922)
9,803
(5880トン)
10,431町歩
昭和5~10年
(1930~1935)

5,500町歩
昭和17年
(1942)

13,399町歩
*生産高・作付面積共に減少傾向にある。特に、昭和初期に入ると激減する
 昭和62年の木蝋の生産量は全国で169トンでした。福岡県111トン、佐賀県24トン、愛媛県20トン、長崎県12トン、大分県1トン、鹿児島県1トンでした。製蝋業者数は全国で12軒で福岡県6軒、長崎県2軒、愛媛県2軒、佐賀県1軒、鹿児島県1軒であった。最盛期の明治時代には年間1万3千トン以上も作られていました。

 平成2年
の櫨の実の収穫量は福岡県150トン、熊本県150トン、長崎県120トン、愛媛県100トン、佐賀県90トン、鹿児島県32トン、宮崎県30トン、大分県20トンなどで全国で692トンである。衰退した木蝋であるが植物性油脂は鉱物性油脂に比べ、良き特性があり、人体に害がないので再び見直され工業用原料のほか、身近では和ロウソクで雰囲気をかもし出す明りや香りを楽しんだり、高級なパンやお菓子の仕上げ剤に用いられ上品な照りを出すのにも役立っているという。
 

   【日本一であった三橋町の白蝋】
柳川藩の山門郡三橋村(現・柳川市三橋町)では白蝋の加工が盛んであった。初めは資本がいるので地主・富裕層に限られていたが後には中農・小農も加わり生産が盛んとなり明治後期でも12軒あったという。
櫨の実を搾ったばかりの未漂白の木蝋は緑色で「生蝋(きろう)」とも言います。生蝋を何度も天日で干して精製する「白蝋」の晒(さら)し技術は、古くは江戸時代に遡ります。特に三橋町百町地区を中心に日本一と言われる程に農家の晒(さらし)業者がいました。晒(さらし)業者に委託さた生蝋は摂氏50度位で溶解し、それにアルカリ性の漂白剤を加え(昔は灰汁を加えて大釜で煮る)乳化・凝固され、それを小さくカンナで切削り、農家の作業庭にて天日で晒す、晴天で20日位干し、不純物を取り除くために、また溶解、切削り、天日晒をして粗製白蝋を作った。    (写真・ロウ干し)
 初夏の畑の莚の上に晒された生蝋が太陽にまぶし照り輝く情景を北原白秋の詩集「思い出」にも「春も半ばとなって菜の花も散りかかるころには、街道のところどころに木蝋を平準(なら)して干す畑が蒼白く光り」とあることからからもうかがわれる。
 再び天日晒された粗製白蝋は製蝋工場に集荷され精製され角型の型に流しマーク入りのきれいな白蝋に製品化された。明治時代では神戸大阪の輸出業者によってアメリカ西欧に送りだされていた。大正時代に入ると電気やパラフィン蝋の普及とともに、木蝋産業は急速に衰退したが昭和10年には町の予算が14万5717円だったのに対し、生産額はその3倍近い43万2200円昭和20年代には日本一の生産量を誇りました。白蝋は蝋燭のほか、日本髪や大相撲力士などの鬢付け油や化粧品(ポマード、口紅、クリーム)文房具(鉛筆の芯、クレヨン、朱肉、カーボン紙)繊維用(ノリ剤、仕上げ用蝋染、光沢剤)、家具類の艶付用、医療用、石鹸 原料、飛行機塗料、靴墨原料として用いられてきた。戦時中の物資不足の時は蝋が代用石鹸、ポマードとして使用され蝋価格が暴騰した時期もあった。当時百町島町目野賢氏は蝋に苛性ソーダと水を加えて柔らかい石鹸を製造されていた。晒専門の業者が多いなか、三橋町役場の東にあった橋本蝋屋は生蝋の生産工程もあったという。現在はすべての業者が廃業している。(写真は柳川市教育委員会所蔵資料提供)
生蝋型容器1個1キロの木蝋の塊ができる 商標DIAMONDの白蝋輸出用型容器

   【みやま市の製蝋業者】
 最も老舗である瀬高町下庄八幡町の武田蝋屋(筑後木蝋工業所)は明治維新後、藩の専売制度が無くなり、明治18年(1885)より瀬高の浜から長崎に運ばれ三井物産により海外に輸出されていた。
 武田蝋屋は大変、宮地獄神を信仰され毎年正月22日の祭には奉納相撲や鷽(うそ)という鳥の木型に番号を書きミクジの鷽替(うそかえ)行事で商品が当たっていた。明治13年(1880)4月に下庄八幡神社の境内の東側に宮地獄神社を建立されている。昭和11年(1936)、輸送手段が矢部川の船運から鉄道便を利用するようになり瀬高駅に近い矢部川三丁目にに移転した。駅からは福井県へ絹織物用の仕上げ用の蝋などを出荷していた。のちに日本木蝋の名でも出荷している。数少なくなった業者の中でも昭和50年頃までは繁盛を続けていた。武田蝋屋はその後、後継者が途絶え廃業されている。創業の地、下庄八幡町の旧三池街道の思案橋の袂には先代偉業を称える顕彰碑が残されている。

 蝋造りも時代の流れと共に姿を消し、瀬高町吉井の旧薩摩街道の亀崎製蝋所は明治34年亀崎鶴松さんが創業。子息の亀崎友男(大正9年生)は昭和17年から20年の出征中を除き、ずっとこの仕事を続けてこられ、最盛期には常勤の人も雇用されていた。最近年は京都会津若松に蝋燭用、長岡に煎餅焼用に出荷されていた。ここでは粉砕した櫨の実を、蒸して油圧機で搾る玉搾りの伝統的に近い製法を守り続けていた。使用した櫨の品種は主に久留米市山本町御坂の「伊吉櫨」を25年間使用していた。この櫨は多品種に比べ、一定量が取れる上に、粘りがあり、割れることが少ないという優れた品質を持っていました。しかし平成14年3月(2002)に廃業され平成21年に永眠されている。

蝋を搾る油圧機(亀崎製蝋所)

左が荒木製蝋様、右が亀崎友男氏
滋賀県・和ろうそく
「大輿」大西さま撮影
    【木蝋の伝統的な玉搾り製造法】
①櫨の実を俵のまま水に漬け一夜おき、翌朝取りあげ、よく水を切り、連架(からさお)で操り返し打って、実を房から落す。
②蝋を抽出しやすくするために碓(うす)で搗(くだ)いて細粉とし、ふるったものを蒸し器で蒸します。
③蒸し器で蒸した櫨実は熱いうちに布に包んで玉締め式圧搾機で搾って蝋を搾り出します。
④圧力を加えられた櫨実から茶色く液化した蝋が流れ出します。その蝋を大鍋で熱して不純物を取り除く。
  この工程で得られる櫨蝋は生蝋(きろう)と呼ばれます。
⑤得られた生蝋は陶器製のドンブリの型に流し込んで冷え固まるときれいなうぐいす色になる。
⑥冷え固め、製品とします。さらに白蝋にするには削って天日で晒す。


玉搾り
   
搾った生蝋を餅型容器に注ぎ冷え固める。1個1キロの木蝋の塊ができる
     
    【荒木精蝋】
 かつては九州各地に製蝋所があり現在、九州で唯一残っているのは高田町江浦にある寛永3年(1850)創業で、昭和10年に本家と分家が合併して荒木製蝋合資会社となっている。荒木製蝋は圧搾法(最初の櫨実)と粕取りの抽出法(3番蝋のこと)から昭和28年から全部をヘキサンを使った抽出法(溶剤抽出製法)で製蝋されている。特製白蝋・化粧品用白蝋・特用価格に設定したM白蝋・和ろうそく・整髪料の鬢附油の木蝋を製造されている。予約すれば工場見学もできる。電話0944-22-5313








溶剤抽出製法

荒木製蝋の白蝋


和ろうそく(荒木製蝋型流し製法))
   
   コラム 【櫨並木の名残】

 大正時代
の回想によると、みやま市瀬高町下庄新町の東側の薩摩街道から分伎してから吉岡に延びる吉岡土居上辺の道路の両側の堤防敷には、櫨の木が植林された。はぜが密生し、枝は道路に迫りトンネル状になり樹間から洩れる陽光、青葉を渡る風は通行人にとって、こよなき慰めとなったという。三橋町では二ツ河堰上流あたりの沖端川堤防にも櫨の木が多く、秋になると葉が赤く色づき「ハゼもみじ」として目を楽しませてくれた。そのほか多くの場所に植林され櫨の木は秋には筑後平野を赤く染め尽くしていたという。現在ではみやま市山川町清水付近の大根川の堤防沿いや久留米市山本町
柳坂曽根櫨並木うきは市吉井延寿寺曽根櫨並木(曽根とは自然堤防の地を言います。)熊本県では和水町豊前街道玉名市菊池川などに残っている。筑後市の北端,赤坂から蔵数にかけての一帯には、櫨の木が今でも畑栽培されている。晩秋の筑後平野の櫨もみじの景観は文学や美術の世界に存在している。
 『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』の作品で知られ、明治44年に28歳の若さで没した久留米出身の洋画家・青木繁が、異郷の地で病の床に伏し、「わが国は 筑紫の国や 白日別(しらひわけ) 母います国 (はぜ)多き国」と故郷を思い、母への思いを詠んでいる。*「しらひわけ」は、筑紫の国・北部九州を指す枕詞。

柳川出身の北原白秋の詩「帰去来」の一節に「山門は我が産土、雲騰がる南風のまほら、・・・・帰らなむ、いざ鵲(かささぎ) 、かの空や(はじ)のたむろ、待つらむぞ今一度(いまひとたび)故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童こころ。」とあり、カササギが舞い(はじ)の木が群生する懐かしい故郷柳川への思いを綴っている。

 小説家の檀一雄は終戦後に逗留していた瀬高町平田の山あいの善光寺で「部屋からの眺望は素晴しかった。筑後平原の一望の櫨(はぜ)が序々に紅く染まっていき太郎と二人、心ゆくばかり、眺め暮らした」と短篇小説「帰去来」にも書いている。「つくづくと (はじ)の葉朱(あか)く 染みゆけど 下照る妹(いも)の 有りと云はなく」と、櫨紅葉(はぜもみじ)を眺めながら妻の律子の死を悼んで詠んでいます。

柳坂曽根の櫨並木(久留米市山本町)


柳坂曽根の櫨の実から抽出した木蝋による、
高さ103cm、重さ75kgの日本一の和ロウソク
(平成9年久留米市総合管理公社10周年記念制作)右写真→
  


 荒木製蝋の白蝋は滋賀県でも使用されている。滋賀県大興(だいよ)伝統と技を引き継いで近江手造り和ろうそくを製造・販売されています。ハゼ蝋の原料価格は、例の白いパラフィンの15~20倍、手掛けで作ったときの手間は時間で8倍、手造りの純正の和ろうそくは、手間がかかり高価であるが油煙が少ない為、金箔の仏壇を使用する浄土真宗の寺や檀家で重宝されている。      
 製鑞業者が消え行くなか、2007年の秋に「くまもと櫨蝋製作所」を設立された岩本芳寿さんは、熊本市十禅寺2丁目で手作りの和蝋燭製造・販売で活躍されている。        

近江手造り和ろうそく「大興」
ハゼ復活団体・木蝋資料館一欄
みやま市 みやまいいまち会 みやま市でまち作りの一環として和ろうそく作りによる学習会・展示会で活動しています。
久留米市田主丸町・松山櫨復活委員会     
松山櫨を故郷である耳納山に復活させるため、櫨全般に関する広報活動や、櫨を使った商品開発をしています。
山口県田布施町・ハゼの実ロウ復活委員会 田布施町で、残る「一白」のロウを江戸時代の方法で再現しようと活動されている。
島原・本田木蝋動く資料館  家業であった木蝋の工場を「動く資料館」として引き継いでいます。
水俣侍街道はぜのき館 はぜの実から精製される製品が展示してあり、和ろうそく作りの体験学習もできます。
愛媛県内子町木蝋資料館 晒蝋生産で財をなした商家上芳我邸見学と木蝋生産や内子の晒蝋について紹介しています。
 参考資料 根占郷土誌・鹿児島県史・会津の漆蝋の歴史と技術佐々木長生・御井町誌・久留米市史・田主丸町誌吉井町誌・松山櫨便り・小郡市史・久留米商工史・三橋町の白蝋について・やながわ人物伝・三橋流文化創造記・高田町誌・瀬高町誌・島原ハゼ・ロウ物語(松尾卓次著)   資料提供協力 柳川市役所生涯学習課三橋庁舎文化係・島原市島原城資料館久留米市文化観光部・荒木製蝋合資会社・元亀崎製蝋所・武田蝋屋ゆかりの方


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