庄福BICサイト H22・4・6制作開始 H22・7・2更新
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黄櫨(はじ・はぜのき)は、別名に「 ![]() |
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別の資料に「 別の説では、江戸初期の |
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そのほかに . |
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【会津の製蝋技術が薩摩へ】 元禄(1688~1704)・宝永(1704~11)の頃、 |
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福岡藩、博多大浜町の北国 しかし、時代が進むに連れ、櫨の有益性が他藩にも知られ、薩摩と海上交易が盛んであった肥後・島原・筑後・筑前などに櫨の種や苗が . |
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柳川藩(福岡県南部)は、海上交易により櫨の苗も薩摩あるいは島原から移入され |
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![]() ![]() 【本格的なハゼの木栽培】 同時に 農民達は最初のうちは有利な条件の櫨栽培に作間 ![]() ![]() |
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福岡藩での本格的な櫨栽培は、享保15年(1730)に筑前の那珂郡山田村(現・筑紫郡那珂川町大字山田)の庄屋の |
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寛保2年(1742)には丹波屋・ 【 櫨の植付に取組んだ 竹下武兵衛の郷里に近い農村地帯の 櫨栽培で始まった田主丸町は先人の
【伊吉櫨の発見】 木天明年間(1781~87)の頃に筑後国御原郡寺福童村(現・福岡県小郡市(おごおりし))の農民・ 久留米藩の幕末の主要品目生産高を見ると、久留米 久留米藩の輸出高は、1位種油、2位木蝋、3位藍染め、4位お茶と紙であった。久留米藩に集まる櫨から作った木蝋の半分は |
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佐賀藩では . |
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島原藩は安永4年(1775)には |
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![]() ![]() 島原城所蔵のロウ横木式絞り器 |
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蒸したての木の実を、ドウ(胴)と呼ばれる絞り器に入れて絞る。中央部が刳り(くり)抜かれており、そこにカタ(形)を入れ、左右二つのカタに麻袋に入れた蒸したての木の実を詰めそのわきにヤ(矢)とかシメヤ(締矢)と呼ばれる木のヤを打ち絞る。最初は、軽く左右対称に打ち込み、カタが安定したら強く打ちこむ。ドウの下の逆台形の溜箱に絞られた蝋が溜まり冷え固まると逆さにして抜きとる。(佐々木長生著・会津の漆蝋の歴史による) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【江戸末期編】 |
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【蝋で蒸気船を買う】 安政4年(1857)には外国船来航に備えてオランダの帆船 安政6年(1859)オランダ海軍伝習から伝習生が |
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![]() ![]() 佐賀藩三重津海軍所絵図 右・ |
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島原藩は寛政7年(1795)と享和3年(1803)に櫨の木を伐採時の注意を通達し櫨・木蝋の増産をしようと考えていたが文政2年(1819)頃には大坂で木蝋は半値に |
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柳川藩領の 嘉永3(1850)頃には古文書から江浦町(高田町)の荒木岩次郎が櫨蝋を生産していた |
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福岡藩は嘉永2年(1849年) 藩士上野 |
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熊本藩の記録によれば、弘化4年(1845)には、藩内の櫨の栽培面積は1297町歩にも及んでいます。安政5年(1858)には70万本もの櫨が植えられ、実の収穫高が約500万 |
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薩摩藩は造船事業では安政元年(1854)に外国船来航に備えて軍艦 |
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【薩摩軍艦特需】 柳川藩は維新前に薩摩藩からの
柳川市 みやま市高田町江浦で蝋屋「角屋」を営んでいた 安政6年(1859)以来、 藩主から藩政改革の全権一任を受けた家老の . |
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熊本藩にも「壱岐穂」が広まっている。 . |
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久留米藩は元治元年(1864)1月には、英国から蒸気艦船「雄飛丸」を購入して洋式海軍を創設、翌年に米国から木造帆船玄鳥丸を購入、英国からは木造蒸気船 . |
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【商社による輸出】 木蝋の最盛期は幕末から明治時代であったが、明治の初め頃の輸出用木蝋(白蝋)は主として貿易商社によって取り扱われ、日本特産の「Japan Wax」として輸出され外貨獲得上かせぎの商品であった。明治6年では 明治6年(1873)の蝋価格の大暴落で櫨の木が伐採され久留米県・三池県・柳川県が合併した 明治34年(1901)に瀬高町下庄の武田蝋屋に筑後木蝋同業組合の本部が創設され久留米市京町に事務所が、2市6郡には支部が置かれ、 |
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昭和62年の木蝋の生産量は全国で169トンでした。福岡県111トン、佐賀県24トン、愛媛県20トン、長崎県12トン、大分県1トン、鹿児島県1トンでした。製蝋業者数は全国で12軒で福岡県6軒、長崎県2軒、愛媛県2軒、佐賀県1軒、鹿児島県1軒であった。最盛期の明治時代には年間1万3千トン以上も作られていました。 平成2年の櫨の実の収穫量は福岡県150トン、熊本県150トン、長崎県120トン、愛媛県100トン、佐賀県90トン、鹿児島県32トン、宮崎県30トン、大分県20トンなどで全国で692トンである。衰退した木蝋であるが植物性油脂は鉱物性油脂に比べ、良き特性があり、人体に害がないので再び見直され工業用原料のほか、身近では和ロウソクで雰囲気をかもし出す明りや香りを楽しんだり、高級なパンやお菓子の仕上げ剤に用いられ上品な照りを出すのにも役立っているという。 |
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【日本一であった三橋町の白蝋】 柳川藩の山門郡三橋村(現・柳川市三橋町)では白蝋の加工が盛んであった。初めは資本がいるので地主・富裕層に限られていたが後には中農・小農も加わり生産が盛んとなり明治後期でも12軒あったという。
再び天日晒された粗製白蝋は製蝋工場に集荷され精製され角型の型に流しマーク入りのきれいな白蝋に製品化された。明治時代では神戸・大阪の輸出業者によってアメリカや西欧に送りだされていた。大正時代に入ると電気やパラフィン蝋の普及とともに、木蝋産業は急速に衰退したが昭和10年には町の予算が14万5717円だったのに対し、生産額はその3倍近い43万2200円。昭和20年代には日本一の生産量を誇りました。白蝋は蝋燭のほか、日本髪や大相撲力士などの鬢付け油や化粧品(ポマード、口紅、クリーム)文房具(鉛筆の芯、クレヨン、朱肉、カーボン紙)繊維用(ノリ剤、仕上げ用蝋染、光沢剤)、家具類の艶付用、医療用、石鹸 原料、飛行機塗料、靴墨原料として用いられてきた。戦時中の物資不足の時は蝋が代用石鹸、ポマードとして使用され蝋価格が暴騰した時期もあった。当時百町島町の目野賢氏は蝋に苛性ソーダと水を加えて柔らかい石鹸を製造されていた。晒専門の業者が多いなか、三橋町役場の東にあった橋本蝋屋は生蝋の生産工程もあったという。現在はすべての業者が廃業している。(写真は柳川市教育委員会所蔵資料提供)
【みやま市の製蝋業者】 最も老舗である瀬高町下庄八幡町の武田蝋屋(筑後木蝋工業所)は明治維新後、藩の専売制度が無くなり、明治18年(1885)より瀬高の浜から長崎に運ばれ三井物産により海外に輸出されていた。 武田蝋屋は大変、宮地獄神を信仰され毎年正月22日の祭には奉納相撲や鷽(うそ)という鳥の木型に番号を書きミクジの鷽替(うそかえ)行事で商品が当たっていた。明治13年(1880)4月に下庄八幡神社の境内の東側に宮地獄神社を建立されている。昭和11年(1936)、輸送手段が矢部川の船運から鉄道便を利用するようになり瀬高駅に近い矢部川三丁目にに移転した。駅からは福井県へ絹織物用の仕上げ用の蝋などを出荷していた。のちに日本木蝋の名でも出荷している。数少なくなった業者の中でも昭和50年頃までは繁盛を続けていた。武田蝋屋はその後、後継者が途絶え廃業されている。創業の地、下庄八幡町の旧三池街道の思案橋の袂には先代偉業を称える顕彰碑が残されている。 蝋造りも時代の流れと共に姿を消し、瀬高町吉井の旧薩摩街道の亀崎製蝋所は明治34年に亀崎鶴松さんが創業。子息の亀崎友男(大正9年生)は昭和17年から20年の出征中を除き、ずっとこの仕事を続けてこられ、最盛期には常勤の人も雇用されていた。最近年は京都・会津若松に蝋燭用、長岡に煎餅焼用に出荷されていた。ここでは粉砕した櫨の実を、蒸して油圧機で搾る玉搾りの伝統的に近い製法を守り続けていた。使用した櫨の品種は主に久留米市山本町御坂の「伊吉櫨」を25年間使用していた。この櫨は多品種に比べ、一定量が取れる上に、粘りがあり、割れることが少ないという優れた品質を持っていました。しかし平成14年3月(2002)に廃業され平成21年に永眠されている。
①櫨の実を俵のまま水に漬け一夜おき、翌朝取りあげ、よく水を切り、連架(からさお)で操り返し打って、実を房から落す。 ②蝋を抽出しやすくするために碓(うす)で搗(くだ)いて細粉とし、ふるったものを蒸し器で蒸します。 ③蒸し器で蒸した櫨実は熱いうちに布に包んで玉締め式圧搾機で搾って蝋を搾り出します。 ④圧力を加えられた櫨実から茶色く液化した蝋が流れ出します。その蝋を大鍋で熱して不純物を取り除く。 この工程で得られる櫨蝋は生蝋(きろう)と呼ばれます。 ⑤得られた生蝋は陶器製のドンブリの型に流し込んで冷え固まるときれいなうぐいす色になる。 ⑥冷え固め、製品とします。さらに白蝋にするには削って天日で晒す。
【荒木精蝋】 かつては九州各地に製蝋所があり現在、九州で唯一残っているのは高田町江浦にある寛永3年(1850)創業で、昭和10年に本家と分家が合併して荒木製蝋合資会社となっている。荒木製蝋は圧搾法(最初の櫨実)と粕取りの抽出法(3番蝋のこと)から昭和28年から全部をヘキサンを使った抽出法(溶剤抽出製法)で製蝋されている。特製白蝋・化粧品用白蝋・特用価格に設定したM白蝋・和ろうそく・整髪料の鬢附油の木蝋を製造されている。予約すれば工場見学もできる。電話0944-22-5313
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