庄福BICサイト 【禁無断転載】  古地図に見る東津留の歴史  みやま市瀬高町東津留
 津留村や周辺の浜田村などは古代は海だったと言われる。有明海の水面が下がり水鳥の生息する(かや)(あし)の茂る沼沢地となり微高地に人が住んでいたとみられる。近年、ほ場(田んぼ)整備事業で田んぼを掘下げて、大量の二枚貝の貝殻(かいがら)が出土したことから、海か河辺の開墾地(かいこんち)であることが確認される。奈良時代からから開墾が始められ、庄園時代では下庄(しものしょう)の開発領主により盛んに行われ、鷹尾神社が瀬高下庄の総鎮守社(ちんじゅしゃ)となった。戦国時代では田尻氏の領地となり、津留城(西津留公民館周辺)は、永禄3年(1560)田尻親種(たじりちかたね)によって築かれた。親種は、天文17年(1548)に本城鷹尾城(たかおじょう)を築き、その支城として江浦城(えのうらじょう)・浜田城・堀切城(ほりきりじょう)と共に築かれ、天正の頃は親種の一族田尻鎮直と家臣津留因幡守が守将であった。天正12年(1584)に大友方の立花道雪(どうせつ)高橋紹運(しょううん)によって鷹尾城が落城した後、津留城も廃城となった( )
   【ヤナ城の目付役・石橋重四六(じゅうしろく)
江戸時代初期、元和7年(1621)立花宗茂(むねしげ)が再び柳川城主になり、家臣の石橋重四六「津留の渡し」の目付け役で矢部川の左岸、津留村の柳瀬野に屋敷を構えていた( )現在その地を「ヤナ(じろ)と呼ぶのも、そこから起ったものと思われる。寛永14年(1637)島原の乱が起り( )藩主から緊急に登城せよ、との下命を受けたのは、旧暦12月29日の暮れもおし迫った時のことであった。「ヤナ城」の重四六の家では、正月を迎えるためのすす払いも終わり、(もち)をつくために五段せいろうで餅米をむしていたそうだ。下命を受けた重四六は、至急に出陣の用意をして登城せねばならないから( )餅をつく余裕などなかった。彼はとっさの思いつきで、大きな「ばら」にきな粉をしき、その上に「おこわ飯」を乗せ( )またその上にきな粉をふりかけ、手でそれを叩いて袋の中に入れ、馬に乗って登城の道々、自分の家来(けらい)も、それを手でひきちぎって食べながら行ったとのことである。それ以来、石橋家一族は毎年旧12月29日には、おこわ(めし)「ひやぞうさん」をつくり、先祖をしのびながら正月三ヶ日は御飯を()かず鉄キュウ(鉄網)でそれを焼いて食べた、ということである。柳川藩兵5500人と出陣し翌年2月28日に制圧して帰城している( )


   【津留村の分村】
 矢部川は川底( )の浅い天井川であり、かつ津留村でも急に西に蛇行(だこう)していたため、少量( )の降雨によっても水害をもたらしていました( )正保2年(1645)( )柳川藩主立花忠茂の時に、普請役人田尻総次(たじりそうじ)により津留村~鷹尾村間の蛇行部を、ほぼ直線( )掘り替える大規模な本流改修(かいしゅう)工事によって鷹尾村鷹尾村泰仙寺(だいせんじ)堀切村島掘切(しまほりきり)掘切村に分かれ( )それぞれ独立した( )津留村でも正保2年(1645)( )工事が完了し、東津留村西津留村に分かれた( )この新川に対し( )旧河道を古川と言い、藩は( )この時30町歩(約30ha)を田畑にした( )
 
 東津留の渡( )   東津留⇔西津留(大和町)
 江戸初期の藩主立花宗茂時代(1621~)は津留の渡しがあり( )藩の家臣石橋重四六が津留の渡しの目付け役を仰せつかって東津留の柳瀬野(ヤナ城)に住んでいた( )正保2年(1645)矢部川の流れ変更工事により津留村が二分され、東西にわかれた。この辺の川の改修は享保5年(1720)以降であろう( )この改修によって、津留村の南端の六合古川(現・西津留)にあった渡しがここに(現在の津留橋下流約100m地点)移されたと考えられる( )したがって享保年間(1720~)から渡しが始まったと思われる。明治末期から大正期の渡しには左岸を護岸して刎(は)ねがあり、右岸は葦野(よしの)が広くあって桟橋(さんばし)があり、約2時間おきに渡していた。渡し守は「タンさん」と言っていた( )朝6時から夕方8時までが渡しの時間でそれ以外の時間は特別相談して渡してもらっていた( )昭和7年(1932)に長さ85間、幅2間半の木造の津留橋ができて渡しは廃止されたが( )昭和28年の大洪水で流出した為、昭和33年11月の橋開通まで約5年間渡しが復活しその時の渡し守は「シッちゃん」という人だった( )

   【行商(ぎょうしょう)の村】
 明治初期の下図の古地図でも東津留の河端には( )江戸時代に堤防を守る為に水流を対岸側に押しやる為の石積の(はね)が11ヶ所も造られている( )古くからから津留の浜から天草や島原の海産物の塩物やイリコなどの乾物が陸揚げされていた( )部落の大正初期生れの年寄りの話しでは、この付近には商店はなかったが( )現在のごみ焼却場の南に瓦工場があり、瓦を島原・天草に運び、帰り船には魚の塩物や乾物などが運ばれ、その品を集落の人達は昔は車力(しゃりき)を引き、大正時代からは自転車で筑後福島は勿論( )星野村まで行商人して塩物・乾物などを売りさばいていた( )帰りには星野村のお茶などを仕入れて帰りながら売りさばいていました( )天満宮近くの民家前にある恵比寿さんを祀る祠は商売繁盛を願い建立されたという( )現在の祠は明治42年5月に再建されたものであり、多数の寄進者名と再建日が基台に彫り込んである( )

東津留には地主である石橋家の本宅と新宅があり40町歩の田んぼを所有していました。小作人(こさくにん)のほとんどが貧乏百姓だったそうだ。しかし、昭和22年 (1947)から昭和25年(1950)まで( )3年間かけて、 農地開放(改革ともいう) が行われました。政府が農地を、地主から 安い価格で強制的に買いあげた後に( )それを、これまで地主から借りて耕作していた小作人に安く売り渡されて、自作農家が増え、小作料を払う必要がなく、人並みの生活が出来るようになりました( ) また、戦後には東津留から井手ノ上(南瀬高)まで3尺(90cm)の両脇を石積した道路が鍋田組により建設され自転車も楽に走れるようになった( )昭和36年には自動車も通れる県道・原町沖端港線が供用された( )
 
明治13年頃の測量地図

(じょう)整備事業前昭和53年頃の航空写真
東津留(大字名)(行政区名)
ツルとは朝鮮から来た言語といわれ、水の曲流部にできた小平地を指し川の淀んだ所ということです。木に巻つく(つる)と両語源がある。耕地・畑を意味する説もあるが、川の(よど)みが付近の田畑まで拡がったものと思います( )正保2年(1645)に矢部川の蛇行(矢部川七曲りの一つ)を直線とした一大工( )矢部川堀替工事)が行われ津留村が西津留(大和町)と東津留村に分断されたものです( )鶴の付く地名も同じ意味の地名で長田の後鶴(うしろつる)・文広の名鶴・上庄の鶴崎がある( )
 水町
 大雨のたびに水に浸かる河川敷の畑です。現在は(あし)の生茂る河川敷で晩秋には野焼きが行われます( )  
矢部川河川の野焼き
 江潮
高柳の江湖と地続きで同じく意味の地名で( )灌漑水の乏しい時代に樋門を設け満潮時は海水の上部にある淡水(アオ)を水田に引水した。下層の海水が浸入し始めると樋門を閉める( )江湖に設けた井堰による灌漑法がとられ、その遺名です。 
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 二ノ坪  五ノ溝
筑後地方で和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工された、灌漑水路の遺名です( ) 
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柳瀬野(小字名)・ヤナ城(通称地名)     東津留南
漁法の(やな)に関係した地名です。梁とは、川の瀬などで、杭を打ち並べ水が一ヵ所だけ流れるようにして、斜めに張った木や竹の篭で魚を受け捕らえる仕掛から地名が起こったでしょう( )また江戸時代初期に柳川藩主宗茂の家臣の石橋重四六が津留の渡しの目付役(めつけやく)を仰せつかって柳瀬野に住んでいた( )寛永14年(1637)の暮れ12月に島原の乱が起こり藩主から出陣の用意をして家来と登城する際に緊急に作った食料のおこわ(めし)「ひやくぞうさん」の語り草がある。柳川藩目付役重四六が住んでいたこの地を村の人は「ヤナ(じろ)と呼び続けられている( )
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蜘手分(くもでぶん)(小字名)        東津留南
矢部川の堤防近くにあり、クモデの漁法から起こった地名と思います( )地域がクモデに似ているからではの説もありますが、やはり漁法のクモデによる地名でしょう( )
            
金附免(かねつけめん)(小字名)        東津留南
寺の鐘や鐘楼の費用を捻出し、免は免税された土地の意で、この地名は寺院などの免税された土地の遺名です。泰仙寺にも鐘ノ免があり同じ意味の地名です( ) 
衣掌町(いしょうまち)(小字名)      東津留
お坊さんの衣類費を調達した所の地名です( )
 
48天満宮       東津留
江戸初期に矢部川の堀替えで津留村が分断され西側が対岸の大和町側になり東津留が瀬高側に残った集落である。菅原道真を祭る天満宮で鳥居や狛犬が二基もあり歴史を感じる境内である( )社殿の彫刻も立派な装飾である。昭和期までの祭りには子供奉納相撲があって、夜は東津留の「よど」で浪花節、夜店が並んで賑やかであった。祭りは8月15日に行われている( )
        
 観音堂      東津留北
 天満宮の参道入口前付近にお堂があり、中央に観音像、右には地蔵像、左には不動明(ふどうみょう)が祀られている。後ろには矢部川が流れており( )藩政時代までは津留の渡し舟があ( )対岸からの通行人のお参りも盛んであったろう( )
            
49石橋神社(ひやぞうさん) 東津留643
。重四六の墓は石橋広喜氏宅の裏庭に屋敷神、石橋神社として祀られ、春と秋のお彼岸に祭礼を行っている。祠の下には重四六夫妻の遺骨が埋葬されている。( 東津留の石橋弘氏の史記より( )右奥の墓石の文字は風化して読取れないが左奥の墓石には享保2年(1717)6月7日、繹教因 の文字がある( )
   H・22・10撮影
 
 
.引用文献・故鶴記一著「地名の話」・瀬高町誌・田尻文書・大和町史
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