庄福BICサイト  【禁無断転載】 H・22・9・12製作   H23・4・24更新  H25・9・1更新              福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大字本郷(ほんごう) 
    .【郷土の変遷(へんせん)
 本郷は弥生時代に水稲栽培が開始され頃に、水害に安全な微高地に住み始めた集村とみられる( )大化の改新の地方制度として「およそ五十戸を(さと)となし、里ごとに(ちょう)を一人おく」の里は、霊亀(れいき)元年(715)(ごう)に改められました。本郷(ほんごう)の郷も大化(たいか)改新(かいしん)に由来するものでしよう( )当時に実施された耕地の改革、整理の条里制は筑後地区は50年遅れた和銅(わどう)8年(715)に筑後守となった道君首名(みちのきみの おびとな)により大事業が行われた。沖端川の北岸は条理制(じょうりせい)の実施をみた所で、下妻郡の条理に属する。6町(約654m)四方の区画を1里(地積)として(.)横のつながりをといい、縦のつながりをとした。本郷村では、おおかた幸作橋から本郷作出までの範囲を縦と横を二分した4区画の里(地積)となる(.)さらにその1区画の1里(地積)を縦と横を6等分し36区画とし、その1つ(地積1町歩・約1ha)をまたはといった( )この坪の名(江ともいう)が各地に残っている。本郷作出にも志ノ江(しのえ)が残っており、作出と下妻との境の条理で、北西の隅から読むと四ノ坪に当たる(.)

 
   
 本郷は古代より地方豪族の居城として、軍事政治の拠点であったと思われる。旧柳川藩志(はんし)によれば仁和(にんな)年間(885-888)、本郷村に岩神将監(いわがみしょうかん)なるものが居城したとある。その頃すでに本郷の地名は定着し、また岩神の地名(岩神堰)が今でも残っている。平安から鎌倉時代においては、文広(あやひろ)と同じく広田庄(ひろたしょう)でした。

戦国時代での成清(なりきよ)一族は豊後の大友宗麟(そうりん)の家臣で戦国時代の天正6年(1578)11月に薩摩の島津義久と耳川の合戦で敗れて本郷村に逃げ延びの家臣となっている。本郷城は天正(てんしょう)12年(1584年)肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)が攻めて来た時、それを防ぐために、山下城主の蒲池(かまち)に味方する意味で壇大炊助によって築かれている。松原堰(まつばらせき)は古くは「蒲池井手戸」と呼ばれ、近くには戦国時代から「道具小屋」があり、柳川城に敵が攻めて来たらを高くして矢部川の水の多くを沖端川(おきのはたかわ)に流し、外堀の水門を閉じた柳川城の周りを洪水にして敵攻めを防いだ重要な場所でした( )最下流にある蒲池組(かまちくみ)(旧藩時代蒲池昭代大川市南西部)によって堰は運用され「蒲池井手」と言った(.)

  徳川時代では居城を廃止され、軍事的色彩は薄れ、壇氏は立花藩内9組の大庄屋(おおじょうや)の一つ本郷組の要職にあった。壇大庄屋は上庄村( )中山村・木元村(きのもとむら)・吉開村・新村(みむら)五十町(ごじっちょう)村・上久末村(かみひさすえむら)・下久末村・東百町村(ひがしひやくちょう)・西百町村・( )上沖田村・下沖田村(以上山門郡は12村)本郷村・芳司村・吉岡村・禅院村・山中村・小田村・南長田村・下長田村( )上坂田村・下坂田村(以上下妻郡の10村計22村)である。( )大庄屋は、百姓の願いを取り次ぎ、公事訴訟(くじそしょう)、村人の出入りのことを司どり、その組の臨時の米や金を受持ち、百姓のの難事を救い導き、公役をつとめさせ、年貢(ねんぐ)諸納をすすめ、耕作を励ますことを職務とした。また籾蔵(もみくら)にかこい(もみ)(米)を貯えておき、翌年の非常用にあてた。当時の百姓は正税(しょうぜい)の外に、藩や組村の土木作業に夫役(ふやく)にかり出され過酷な作業に我慢できず、他藩に逃亡する者もあったという( )本郷組大庄屋日記の古文書は文化(ぶんか)文政(ぶんせい)天保(てんぽう)期の柳川藩の農村の状況や農政を知ることができる。
岩神水路記念碑がある壇大庄屋屋敷跡

 宝暦9年(1759)に7代藩主立花鑑通(たちばなあきなお)が、矢部川畔に別荘の水御殿を現在の八幡宮や下名鶴堰の付近に建てた。前の河原では柳河藩士の軍事演習として騎射(ぎしゃ)流鏑馬(やぶさめ)犬追物(いぬおうもの)などの馬術訓練を行っていた( )その時、殿さんは別荘からその様子を見るのが(なら)わしでした。隣接する久留米藩に対して、柳川藩の軍事示威の目的の為や、藩の財政難で年貢(ねんぐ)の引き上げが行われ、それに耐え兼ねた農民の一揆(いっき)を警戒する為とも碑文から解釈できる。藩士富士谷成章(ふじたになりあきら)の和文体の碑と柳川藩儒者安東間庵(あんどうけんあん)の漢文体の自筆の碑、各1個ずつある。明治維新後に洪水で流され所在不明になっていたが( )、後に発見され八幡神社境内に建立されている(.)

水御殿
も維新後養蚕所となり、その後、解体され本郷小学校の敷地となったが、昭和40年校舎新築移転して、現在畑地となっている( )瀬戸島の豪商、浅山家の天保7年(1836)の規定書や文化4年(1807)藩札裏書人の浅山平太郎文政4年(1821)藩札裏書人(はんさつうらがきにん)浅山平五郎の古文書があり、浅山家は酒造家でもあり、御用商人の一族であった(.)平太郎の屋敷は瀬戸島に六段歩(1800坪)あった。現在5・6の民家となっている。それから南にある一画が平五郎の屋敷跡である(.)この屋敷の南西部にくずれかけた土塀の一部が残っていた。両家とも子孫はこの地に現存しない(筑紫野市在住)為に当時の様子を(うかが)えない。明治8年本郷小学が旧郷蔵を利用して開校。同10年には教場2室,教員数は男4人,生徒数は男65人・女27人で女子生徒が少ない。同19年に本郷小学校簡易科を、逆瀬に設けている(.)明治12年本郷村など下妻郡の一部分が山門郡に編入されている(.)
 
    【薩摩街道筋】
 江戸初期の田中藩主のあと、立花宗茂が柳川に再封され久留米の有馬藩とに分かれ今寺村が二分された(.) 元禄9年(1696)に柳川4代藩主立花鑑仁(たちばなあきさだ)の時に参勤交代の道となった薩摩街道は本郷村の逆瀬(さかせ)新茶屋町並の家並みを通り、行基橋から東に折れ北田榎町切目(きりめ)の土手道を通り久留米藩領と柳川藩領の今寺村に入った(.) 本郷の北田の土手に柳川藩の北田番所があったが柳川領との国境の今寺村に久留米藩の今寺番所が設置されていた(.)米・麦類の密輸出や不法入出国を監視した穀留(こくりゅう)番所である。諸大名の通過の際、番所の室内に掛けたる(やり)を外し、有馬家定紋入の幕を落し(.)勤番侍は戸外に出ず、定場所におり、足軽以下は表にて下座して迎え入れた。番所には、常時飾槍・鉄砲・火薬・火縄(ひなわ)が用意されていたなお藩境石や一里石があったが所在地は判明しない(.)
安政6年(1859)10月24日・長岡藩・河井継之助(かわいつぐのすけ)の日記には原町(山川町)に宿泊したのちに本郷で偶然行なわれてい田舎興業(いなかこうぎょう)の相撲を見物している( )本郷というところへ出る。此処(ここ)の様に覚ゆ(.)相撲あり。畑中に小屋あり、至って(にぎ)やかの様子、所の者の話に( )十年程も右様の儀は一切禁止( )万事倹約、近年(しばら)くお許しありて( )年に十ヶ所ぐらい御免あり(許しを請ける)( )その場にて売り物は一切ならず。畳代もなし。銘々(めいめい)家より食物、敷物など持参( )木戸銭(きどせん)五十文とか百文とかにて往く事なり(.)それにてよければ相撲をたてよ(興業せよ)(.)との事にて、皆々喜ぶとの話なり。「相撲芝居」という( )なおまた、芝居の事を聞けば、やはりそれもあり(.)後境を過ぎてよりは(.)柳川領少しあり、久留米領となる。暫く土手道を通るに( )僅かの中に度々領分が入り(まじ)じって「久留米領」「柳川領」あり(.)如何(いか)なる(ゆえ)か、肥後境より柳川領、並木の杉多くあり( )夜五ツ(八時)すぎ、(ようや)松崎(小郡市)に着く。」とある(.)
  九品寺(くほんじ)(満寿山)】    .
 地元なまりでは「ふっごんじ」と呼ばれていました。九品寺は 養老4年(720)の開基で、本尊の阿弥陀仏は行基の作であったとの言伝えがある。九品とは九品往生(くほんおうじょう)の考えから、九つの如来が生前の信仰と善行の度合い9通りで迎え、あまねくすべての人を救う( )信仰度合いを上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)、(品は濁ってぼんと読む)それぞれを善行度合いで上生(じょうしょう)中生(ちゅうしょう)下生(げしょう)と分け、この組み合わせで9通りになる。最上位の上品上生は如来・菩薩・比丘(びく)(出家修行者)が管絃つきの総出演でお迎えされるが、階位が下がるに連れ、菩薩がいなくなったり、阿弥陀如来だけになったり、ついには金の蓮華(れんげ)が現れるだけと、寂しくなる意味がある。日常語になっている上品、下品は、この九品から派生(はせい)したと言われる。本郷の九品寺は戦国時代の兵乱の火災の為に寺院・旧記と共に焼失して当時を知るものはないが(,)境内には鎌倉時代に九品寺を開山(かいさん)した和尚の供養塔と伝えられる宝塔(ほうとう)や、室町時代の天文8年(1539)信心者69名が死後の冥福(めいふく)のために生前供養した梵字預修板碑が残されている。また境内には観音堂があり明応(めいおう)年間(1492~1501)の灯籠があったが紛失。観音堂も無くなっている。貞享3年(1686)円爾(えんに)聖一国師(しょういちこくし))の末孫で京都の臨済宗大本山の東福寺豊石和尚中興(ちゅうこう)(復興)したとある。願主 本郷氏、本阿入道の建立とある。現在、本尊は須弥壇(しゅみだん)の正面中央に釈迦如来(しゃかにょらい)右側に達磨大師(だるまたいし)ある。昔の本郷には末寺、末庵が多くあり、定林寺、満願寺、高源寺、延命寺、聖聚寺、常福庵、常心庵などがあったという(.)
 
九品寺本堂
 
須弥壇

三十六仏群
           【田尻惣助・惣馬 親子の墓】
藩政時代、矢部川の治水事業などに大きな足跡を残した田尻惟貞(だじりこれさだ)(通称・惣助(そうすけ))、惟信(これのぶ)(通称・惣馬(そうま)惣次)父子の墓がある( )田尻家は豊後国(大分県)大友氏の家臣で田尻河内守鎮春(しげはる)の代に戸次道雪(べっきどうけつ)に仕えるようになり、その鎮春から6代目が惣助で、その次男が惣馬である。惣助元禄(げんろく)5年(1692)に柳川藩より幕府に提出する(御国絵図」を作成し、普請役(ふしんやく)(建築や土木工事の責任役)となってから英山公(鑑虎(あきとら))の隠居所(現在のお花)を普請し、その褒美(ほうび)に別家をたてることを許されない二男の惣馬に書院番の役職を賜りました(.)元禄8年(1695)惣助は八女郡北山村の曲松(よごまつ)より山下までのに至る堤防の苛酷(かこく)な大工事を成遂(なしと)げました(.)この高さ7m余で長さ千間余(実際は2、3km)あるために千間土居(せんげんどい)と称し、その補修強化をしたのが二男の惣馬です(.)惣助元禄13年(1700)9月26日に江戸で病死しました。(戒名専徳院活山自道居士)。よって長男の新右衛門惟定(これさだ)に普請役が命ぜられました(.)
 田尻惣馬延宝(えんぽう)6年(1678)惣助の二男として生まれ、元禄5年(1692)15歳の時に書院番となり、元禄8年(1695)千間土居が築かれていた頃には(.)藩主のお供で江戸にいました。(柳川藩史鑑任記)その後病気になり(ひま)をもらい元禄14年(1701)に柳川に帰郷し、浪人をしていました。宝永(ほうえい)6年(1709)、33歳で普請役に取り上げられました。正徳3年(1713)、藩内各所が大潮(おおしお)によって被害を受けた際、黒崎開の普請方に任ぜられて、その復旧に努め、さらに享保2年(1717)には蒲地山(かまちやま)溜め池を構築しました。池は東西260(けん)(約512メ-トル)、南北100間、周囲900間にもおよぶ大きなもので()べ7万6千人の手を要して完成された大堤です。大根川を流れ旧藩時代から300(.)近く4ヶ村の農業の水源として役立っています。また父が構築した千間土居には楠木・杉などの樹木や竹を植えて頑丈(がんじょう)にし、川岸には対岸に突き出した石積や蛇籠(じゃかご)で水流をやわらげる水刎(みずはね)を造り堤防を守った。引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田土居を築堤した。これが広瀬河端(かわばた)・小田野林・長田孤林(きつねはやし)と呼ばれた。矢部川の流れが定まり河原が干拓され村や田畑の拡大がなされました(.)享保2年(1716)には広瀬堰からの水路が完成した。惣馬の築堤・水利工事の指揮はきびし(うら)みをはらすために「切る時は、木六、竹八、(あし)九月(何れも陰暦)、惣馬の首は今が切り時」(うわさ)され、鬼奉行と恐れられました。これらのほかにも、本郷権現(今の瀬高町)の水刎(みずはね)、磯鳥(今の三橋町)の井堰(いせき)、浜武崩道(今の柳川市)の瓢箪(ひょうたん)開、唐尾(今の瀬高町)の井堰などの構築をおこなっており、さらに瀬高川の掘り替えも惣馬の偉業(いぎょう)とされています。こうして、藩内のさまざまな水利土木工事を完成させて、郷土の発展に尽くし、後世に九州普請役の三傑(さんけつ)(鍋田藩の成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)、細川藩の堀平左衛門)と言われる程の人物であった惣馬でしたが、宝暦(ほうれき)10年(1760)7月16日に亡くなり九品寺に埋葬されました(.) 

田尻惣助・惣馬の墓
 

千間土居
    
     
 【立花帯刀家の墓】
   【帯刀家(たてわきけ)とは】
 初代柳川藩主の立花宗茂(むねしげ)には実子に恵まれなかった為に弟の
立花直次(なおつぐ)(三池藩主)の4男立花忠茂(ただしげ)を生後まもなく養子にして柳川藩2代藩主とした。忠茂の正室は永井尚政(ながいなおまさ)の娘・長子で、継室(けいしつ)(後妻)は徳川秀忠の養女(伊達忠宗の娘)・鍋子であった。子供は側室の光行(みつゆき)氏が生んだ鶴寿(後の茂虎(しげとら))(三男)と継室の鍋子が生んだ、嫡男、鑑虎(あきとら)(四男)、貞晟(さだあきら)(八男)などを儲けた。忠茂伊達忠宗の娘・鍋子が産んだ鑑虎を藩主と考え、家督をめぐる争いを避けるために年長である茂虎を出家させ宗茂公の菩提(ぼだい)を弔わせるように勧めたが、拒んだので茂虎を江戸から国元の家臣立花九郎兵衛預かりとして幽閉している。寛文(かんぶん)14年(1664)忠茂は隠居して鑑虎を3代藩主とした(.)
    
 .   
    【帯刀家(たてわきけ)の創設( ) 
 寛文12年(1672)に弟の藩主鑑虎は、父に幽閉(ゆうへい)されていた義兄の
茂虎の不遇を(うれ)い、領内の中山村
(三橋町)に領地を与えた( )父が死去した翌年には山崎村(立花町)も領地と優遇され2300石に加増され、立花内膳家と共に藩の信望を集めた立花両家の一つ、立花帯刀家(たちばなたてわきけ)が創設される。茂虎の幼名は鶴寿(つるひさ)。通称、帯刀(たてわき)。号、好白で通称名から帯刀家と称された(.)

 帯刀家2代目は長男の茂高(しげたか)が継ぎ,、正室の玉泉院
(三池藩2代の立花種長の娘)とのあいだに嫡男の茂之(しげゆき)と次男の貞俶(さだよし)を儲けている。次男の貞俶は、始め旗本寄合の大叔父の立花貞晟(さだあきら)の養子となったが、享保6年(1721)5月の第4代藩主・立花鑑任(あきたか)の死により、その末期養子となり、柳川藩5代藩主となり最初の養父、貞晟の娘、松子を正室として迎えた(.)これにより栁川城中の席次は帯刀家、内膳家、監物家(かんぶつけ)、大学家の順で柳川藩首席の御家柄となる(.)

 帯刀家の3代目は長男の茂之が継ぎ、藩の上位となり20余軒もある本町の屋敷内に住む。邸内には講武場、騎射を設けた。中山村の農民も帯刀家の直支配となり、家臣に准ぜられ、他村の農民より威厳(いげん)があった。茂之の次女は柳河藩女流歌人の玉蘭(ぎょくらん)、国内で2番目に漢詩集を発表している( )後に矢島釆女の嫁となる。茂之は引接寺の15代住職一誉上人帰依(きえ)され浄土宗に改宗した。宝暦4年(1754)正月に60歳で世を去る。法名聖龍院(.)


            立花家本家と内膳家帯刀家の家系図

       ①内膳家政俊(まさとし)②内膳家種俊(たねとし)
         |
 ①宗茂──②忠茂(弟・だだしげ)─┬─③鑑虎(あきとら)──④鑑任(あきたか)──
(帯刀家の貞俶を養子とする)
           
帯刀家茂虎(しげとら)──帯刀家茂高(しげたか)─┬─⑤貞俶(・さだよし)─┬─⑥貞則(兄・さだのり)
                          主水家茂之(・しげゆき)  ⑦鑑通(弟・あきなお)──鑑門(長男・あきかど)
                              |           ├─ 鑑一(4弟・あきかず)  ⑨鑑賢(あきかた)──⑩鑑広(・あきひろ)
                          主水家茂矩(しげのり)       , |               └─ ⑪鑑備(・あきのぶ)
                                          └─⑧鑑寿(5弟・あきひさ)── 寿俶(ひさよし) ── ⑫鑑寛(あきとも)
鑑備の養子となる) 
    .
                            帯刀家茂親(しげちか) 
                                 

                            帯刀家茂旨(しげむね) ― 

                                     

                              
 帯刀家茂教(しげのり) ― 〇帯刀家茂漚(家督継承前に没す)―  松千代家茂尊(しげたか)
 

 【立花内膳家(ないぜんけ)とは】
祖は柳川藩2代目藩主立花忠茂の実兄の政俊(まさとし)で南関に近い国境の上内(じょうない)の1000石を知行した通称は内膳(ないぜん)、号は宗繁(そうはん)寛文4年(1664)、57歳で逝去。墓所は柳川の法華宗台照院で「台照院殿瑤雄日源宗繁大居士」である。内膳家2代目は種俊(たねとし)が跡を継ぎ寛文9年(1669)上内村(じょうないむら)(大牟田北部高田町に接す)に黄檗宗(おうばくしゅう)法輪寺を創建し、上内内膳家代々の菩提寺とした。元禄10年(1697)54歳で逝去。法号「法輪寺殿嗣法雪関元徹大居士」( ) 
    . 
 

清光院殿の位牌
 境内の重なる墓標は立花帯刀(たてわき)家の祖、立花茂虎(しげとら)と最初の奥方の清光院の墓。帯刀家2代目の立花茂高(しげたか)と側室の香桂院(未確認)の墓とみられる。最奥の墓には茂虎の戒名「国融院殿洞雲一花大居士霊」が彫られている(.)左側面の俗名・没年は風化の為に読取れず。旧柳川藩志には元禄14年3月13日好白茂虎)卒す。之を福厳寺(ふくごんじ)に葬る法号「春林院」、別に本郷九品寺に石塔位牌を安置す。」とある。右隣の清光院最初の奥方の墓で25年も夫より早死にしていることから九品寺に最初に埋葬(まいそう)されたとみられる。本堂には清光院殿の大きな位牌が祀られている。茂虎は継室として栄林院を迎えている。3番目の墓は「磐光院殿朽才常写大居霊」の戒名(かいみょう)と左面に「立花源茂高」の俗名、右面に「正徳四年六月」の没年が彫られている茂高の墓である。( )茂高のことは余り知られていないが、夫人は三池2代藩主立花種長の娘・国子玉泉院(ぎょくせんいん)で子供は嫡男で帯刀家の3代目となると、次男の貞俶(さだよし)は、はじめ大叔父で旗本寄合の立花貞晟(さだあきら)の養子となり、享保6年(1721)5月に柳川藩4代藩主立花鑑任(あきたか)が死去した際に末期養子となって柳川藩5代藩主の家督を継いでいる。右隣の墓は娘の香桂院である。茂高の正室である玉泉院寛保(かんぽう)元年(1741)に亡くなり墓は下庄上町の引接寺(いんじょうじ)に、柳川藩第5代藩主となった次男の貞俶により建立された。嫡男で帯刀家3代目にあたる立花主水茂之夫妻の墓の正面にある(.)

九品寺の半鐘
   【満壽山 九品寺の半鐘】
 茂親が九品寺に奉納した半鐘で、いつの頃からか、本郷の聖母宮(しょうもぐう)境内の火の見(やぐら)に架かっていたが道路拡張計画の為に降ろされたものです(.)4面に細い字で陰刻された銘には「孝孫立花茂親公丁 韜光院殿(立花茂高の戒名)七十年遠忌 辰再爐鞴裡・・・・」 「天明第三発卯年 四月吉祥日 筑後州下妻郡本郷村満壽山 九品禅寺(くほんぜんじ) 見住嗣法比丘 爾層山 謹記焉」 (.)・・・・鐘者住大檀越立花好白(帯刀家初祖立花茂虎の号)大居士所寄付・・・・」などが書かれている(.)
 解明できぬ文字も多いが要約すると(.)帯刀家初祖立花茂虎の正室の清光院が早死にして九品寺に葬られた頃に茂虎好白)が半鐘を寄付したとみられる。長い年月の使用で、ひび割れで音がでなくなっていた。帯刀家5代目の茂親(しげちか)天明3年(1783)4月曽祖父(そうそふ)茂高(帯刀家2代目・戒名韜光院殿朽木常安大居士)の七十周忌の法要を本郷の九品寺で行い、高祖父、茂虎好白)が寄付した半鐘を再鋳造して寺に奉納して冥福(めいふく)を祈っている。当時の住職は
層山とみられる。鋳造(ちゅうぞう)の職人名は記入されていない(.) 

      【【宝塔】
 本塔は本堂の裏の竹藪にあったもので、九品寺の開山(かいさん)和尚の供養塔と伝えられる。相輪・笠・塔身・基礎という構造で屋根上の相輪(そうりん)は九輪の先細りであったが、7輪を残して上部が欠損している(.)塔身四方の円相中に四仏の種字を刷毛(はけ)書き薬研(やげん)彫りした梵字(ぼんじ)「ウーン」阿閃如来(あしょくにょらい)「ア」大日如来(胎蔵界)・「キリーク」阿弥陀如来・「アーク」胎蔵界大日如来を配置してある( )多田隈豊秋(ただくまとよあき)著の「九州の石塔」には「全体感として安定した好塔というべく、無銘ながら基礎と相輪(そうりん)下部の露盤(ろばん)の四面の香狭間(こうざま)一つを見ても鎌倉時代の遺例として差し支えあるまい。」と評価している(.)

 
    預修板碑】
 本堂階段横の梵字(ぼんじ)預修板碑は室町時代の天文8年(1539)2月彼岸に建立されたもので、風化の為に読取り難いが4段に(えが)かれ、最上部には円相の中に梵字(ぼんじ)キリーク(阿弥陀如来)を陰刻し、右に「預修善根為現當二世(.) 賤同心勠志彫喪弥陀尊字 以伸供養功徳不可勝形者也」 預修とあるから現世には宿命が変わって幸せになり、後生(こうせい)においても大楽を得るために心を一つにして生前供養した時の碑です。逆修碑(ぎゃくしゅうび)とも言います。左端に( )旹天元八年亥巳二月彼岸初日建之」と建立の日付けがの陰刻がなされている(.)2段目には、妙苑禅定、妙金禅定、正泉宗明のあと(.)寺関係者とみられる禅師1名・律師1名・記室2名と禅宗の僧の階級である座元(ざげん)の5名と寺院内にある経典や論書を管理する僧の知蔵(ちぞう)の4名が陰刻されている。3段目は信者とみられる( )水谷・久富・壇・国武の陰刻の下に約30名の禅尼(ぜんに)禅門(ぜんもん)禅定(ぜんじょう)の修行者名が陰刻され、4段目にも禅尼・禅門の39名の修行者名が陰刻されている。庫裏(くり)に通ずる境内にあったが車の出入りの為に現在地に移されている(.)
       廻国成就塔(かいこくじょうじゅとう)
明治までのわが国は、出羽の国、長門(ながと)の国、肥後の国というように、国と呼ばれる単位が六十六か国に
分れていました。廻国巡礼は世情が安定し、18世紀前半以降に流行し身辺整理をし、先祖供養のため、信仰のために大乗妙典(だいじょうみょうてん)法華経(ほけきょう))を六十六部書写して、これを持って村の人たちに別れを告げ、生きて帰れるとは限らない全国六十六か国の巡礼の旅に出かけました(.)国ごとに、代表的な寺社一ヶ所に一部ずつ経典(きょうてん)を奉納することを六十六部廻国供養といい、その巡礼者たちを六十六部と呼び、略して六部と呼んだ(.)また廻国行者を助力することが先祖供養であり、それによって功徳が得られるとする考えから、六部(ろくぶ)を泊めたり金銭的援助協力する人が多かったとみられる。廻国塔は廻国納経を無事達成した記念に建てられましたが(.)無念にも廻国中に他国で亡くなった六部を葬り供養してあげた廻国塔もあるようです(.)本堂前の天保11年(1840)廻国塔は上部に弘法大師立像、塔身中央に「開眼(かいげん)石佛供養寳塔」両脇に「天下泰平」「国土安全」右下に「廻国願主伊豫州(いよしゅう)善作」とある(.) 
   弘法大師を信仰する伊豫(いよ)の国(愛媛県)の善作さんが、筑後の国、本郷の九品寺で廻国納経を無事達成した記念に建てられた廻国塔です。開眼とは新たに作られた仏像を供養し、眼を点じて(たましい)を迎え入れることである(.)当山8世の大秋和尚により完成した石塔の弘法大師像の開眼法要(かいげんほうよう)(入魂式)を営んでいる世話人とし(.)正面に江戸の駒吉、相州(神奈川)の宣平( )右側面に内証の世話人として大阪の定次郎、長門(山口)の丈右衛門(.)江戸の源作、肥后(熊本)の薆助、江戸の源兵エ、奥州(岩手)の倉吉(.)とあり、これらの人物は旅先で宿泊や金銭的に援助してくれた人達であろう。左側面には「当山八世大秋和尚代」(.)当村の世話人名と建立日、「門前加録村中」「講中」と陰刻されている( )この廻国塔の建立に本郷村の信心者たちが協力したとみられる(.)下の台座には正面から左面に「助力連名」信劦(しなの)(山梨)の太左エ門、長州(山口)丈太郎、同 金蔵(.)越后(新潟)の吉兵エ、上州(群馬)の源八、肥州(熊本)の清吉、長州(山口)顕三(けんぞう)、羽州(出羽国で秋田・山形)の源蔵、長州の弥次平、左面に奥州の作松(.)豫州(愛媛)の清兵エ、同 徳治郎、長州のす江、大坂のくよ(.)江戸のぎん、長州のたき、イヨ(愛媛)のかね備后(びんご)(広島)の久水と女性6名も刻まれている(.)これらの他国の人達は一緒に廻国した人でしょう。最下の石台には「十方施主(じっぽうせしゅ)」が大きく彫りこまれている。十方(じっぽう)とはあらゆる方面の意味があり、つまりたくさんの人のカンパで建てたことを表している(.)近世の巡礼行者信仰のあり方を考えるうえで、重要な史料である(.)

 
【水御殿(みずごてん)


拡大図
 本郷は久留米藩と陸続きの藩境で厳重な警備を行う目的で宝暦9年(1759)に7代藩主立花鑑通(たちばなあきなお)四ヶ所藤左衛門に命じて別荘の水御殿の(やかた)の南方に陸戦隊の演習場の駒射ち・犬追物・流鏑馬の練習をする本郷馬場が建築された。現在は八幡神社境内となり記念碑がある(.)夏には殿さんの鵜飼(うかい)の川遊びが行われた。水御殿の前では大きな敷網(しきあみ)を川底に敷いて、川下をせき止め、川上と川下から数百人の鵜匠(うしょう)が鵜を操りながら一斉に(あゆ)を網の上に追い込み四方から大勢で網を引上げると、1度に数百匹の鮎が獲れたという(.)館の前では殿さんや招待客がその勇ましい様子をご覧になり、()れた鮎はまず殿さんがとり、あとは招待した人達に分けられ、網から漏れた鮎は鵜が捕らえ、鵜匠のものとなった(.)
場所は現在の幸作橋から南へ中土居八幡宮のある広場の一帯で本郷小学校があった所である(.)明治22年本郷小学校建設のとき取り壊されたとされている(.)
 
天保7年(1836)完成の三重塔が描かれた本郷の図(梅沢晴峩/筆)
     【立花壱岐(いき)の旧邸跡】    本郷岩神
 
柳川藩最後の家老、立花壱岐は晩年を(.)岩神(九品寺の北の対岸)の住居で過ごしました。立花壱岐は天保2年(1831)に柳川で生まれた。名は親雄、壱岐は通称である。幕末には熊本の横井小楠(よこいしょうなん)や福井の橋本左内(はしもとさない)らと国事に奔走し開国通商を唱え天下国家に目を向けることとなった。26歳で家老に抜擢され、殖産振興にも力を注ぎ、彼が開発した(はぜ)の新品種は、「壱岐穂」と名付けられ、肥後にも広まった。明治維新機には岩倉具視に対して新しい国家体制についてさまざまな提言を行ないました(.)幕末・明治の激動期において藩主とともに柳川藩家老として斬新な藩政改革を断行した。明治5年1月に士族の反乱を防止するため、柳川藩のシンボルである柳川城を炎上(えんじょう)させた。これにより、藩論は一変し、これ以降各地で士族の反乱が頻発(ひんぱつ)したが、柳川藩のみはそういった反乱を見ることなく、新しい時代を迎えることができた。岩神(いわがみ)の小さな家に、家族だけのささやかな生活を送り、貧乏であったものの、家庭的で幸せな晩年を送ることができた。自叙伝(じじょでん)を書き、小説などを作り、たまには幼い子供たちの手を引いて川の土手を散歩したり(.)釣りをしたり、夕食の時には幼い娘を膝に乗せて、箸で茶碗や皿などを(たた)いて、自作の歌を歌って楽しんだりした。壱岐は明治14年7月24日、51歳で亡くなった。墓は柳川の福厳寺(ふくごんじ)にある。平成10年9月に立花壱岐研究会で記念碑が建てられている(.)
 
 
本郷(ほんごう)(大字名)本郷(行政区名)
    
 「本郷」とは元の村の意味であるから、付近では重要な役割を果たしていた集落であったろう。明治13年(1880)下妻郡のうち、山中村広瀬村小田村長田村坂田村文広村本郷村山門郡に編入されました明治40年(1907)本郷瀬高町と合併しています( )
 外村(ほかむら)
 北東端の飛び出した所で2~3軒の住宅と畑があり、お宮が祀られているが、現在は田地のみである。
 伏木(ふしのき)
 .
 丑町(うしまち)
   .
天神田(てんじんだ)(小字名)        本郷作出
佛町の田んぼの北側にある。神社の経営田で免税された土地の遺名です。
三穂(みほ)(小字名)
良き米が育つ田んぼから起名されたのでしょう。
 稲葉(いなば)(小字名)
 稲穂を干す場所の意の地名です。
佛町(ぶつだ)(小字名)          本郷作出
行基橋を北に渡り100m先の右の田です。寺院の経営田で免税された土地の遺名です。
津久田(つくだ)(小字名)     本郷作出
行基橋を北に渡り北東の一画で佛町の田の東側にある。地頭の直轄地で、年毎に農民に分与して耕作させていた土地の遺名です。
馬渡(まわたし)(小字名)     本郷作出
行基橋を北に渡った一帯の東端にある馬でなければ渡れなかった湿地帯だった所です。新船小屋駅の近くの田んぼです。
尾虎町(おとらまち)(小字名)       本郷作出
馬渡の土地の南側にあり、この辺りは条理制遺構のあるところですが( )矢部川氾濫原の湿地帯です。古語辞典によると「おどろ」は草の乱れて茂っていること、またはその場所とあり、「おどろ」が転訛し「おとら」になり虎の漢字を当てたと考えられます( )この地は村はずれで寂しく、かっては雑草、灌木の密生する荒廃地だったでしょう。現在は水田化され、ハウス栽培の盛んな所です( )
 今寺(いまでら)(小字名)
久留米藩の今寺とは、津島西の旧名であが( )村内には天平年間(729)創建の光明寺があり筑後市内二十二ヶ寺院中最古の歴史を有する寺である。天正年間に藩主田中吉政により本末寺領残らず没収されている(.)
 切目(きりめ)
 薩摩街道が柳川藩領から久留米藩領になり柳川藩領と切れ目のある地名です。
 塔後(とうのうしろ)
 岩神将監を祀る石塔があった事からの起名であろう。
 岩神(いわがみ)(小字名)
岩神将監を祀ったお宮があったのだろうか(.)石塔が残されている。神岩堰は下流の柳川城に流す水量調節の重要な役目をしていました。分水路には水車小屋があり、少し下流にもありました(.) 

 行基橋(ぎょうぎばし)(小字名)            
本郷の行基橋は沖ノ端川に架かる橋名でもあり、地名でもある。役場の台帳には行ヶ橋(ぎょうがはし)となっている。僧の行基(668-749)は律令時代の人で、百済(くだら)の帰化人の子孫で、諸国を廻って民衆教化と共に社会事業をし、交通、灌漑(かんがい)工事にも手をつけました。ところが、残念ながら、瀬高地方に来た史実はありません。巨刹九品寺(くほんじ)の僧達は仏道精進の為、沖ノ端川の河辺で「行」をしていたのです。その「行」にちなんで「行ヶ橋」と呼んでいたのを仏教信者が行基の徳をしたい、行基橋に昇華させたものと思える( )京都の真言律宗・九品寺は8世紀初期に行基が創建しましたが、本郷の九品寺もその寺名にあやかったのでしょう(鶴記一郎・地名のはなしより)( ) 
門前(もんぜん)(小字名)            小路
九品寺のある寺領の敷地の意の地名です( )お寺の創建が奈良時代の養老4年(720)ですから、当時の起名でしょう。 藩政時代にも武家層の菩提寺として、広くその名を知られ、境内の墓地には、立花帯刀家(たちばなたてわきけ)茂虎(しげとら)茂高(しげたか)などの墓があります。その一角に田尻惣助(たじりそうすけ)惣馬(そうま)父子の墓があります( )
瀬戸島(せちじま)・南瀬戸島(小字名)
開墾前は矢部川の瀬が入り込み水が浅く歩けるような所に名付けられたのでしょう(.)瀬戸島に屋敷を構えていた江戸期の浅山一族は酒蔵家であり、柳川藩の御用商人であった。明治37年には瀬高で初めて自転車店を開業している(.)児童文学者の与田準一は浅山家の分家の血筋で1歳で親戚の与田家の養子になったが半年で養父母が亡くなり、瀬高駅前の実親の浅山家で育っている(.)
    .
町並(まち)(小字名)
町とも表示されている。本郷村の1番栄えた町並からの起名でしょう( )
 
 
 北受場(きたうけば)南受場(小字名) 小路
 九品寺の西側の一帯にある。平安末から、鎌倉時代にかけて、開墾を奨励する意味から、開墾田を免税したところを請所(うけどころ)と呼んだ起名です。現在の元、大庄屋檀氏の居宅のあった所です( )開墾当時は湿地帯の荒廃地を檀氏が開墾して免税田とした土地だったでしょう( )
 西日出(にしひいで)(小字名)
 日当りの良い所の意の地名です。薩摩街道の本郷の入口で中山からの道に橋がかぎ形に架けられ、これを桝形(ますがた)という。道を90度に折り、さらにまた折り人馬の突進を防ぐため、警備上の道路普請(ふしん)の方法で各地の街道に造られた。ほかの街道筋にも多くみられます( )
逆瀬(さかせ)(小字名)           
洪水時に水が逆流していたことから起名されたものです( )明治19年に本郷小学校簡易科を、ここ逆瀬に設けている( )
新茶屋(小字名)         本郷町
藩政時代の参勤交代の薩摩街道沿いで、旅人の旅籠(はたご)か休憩所があった所です。上庄の御茶屋は身分の高い人が宿泊した屋敷です。
小路(こうじ)(小字名)(行政区名)
本郷組の大庄屋の檀屋敷への通路に起名された地名です。
上川原(かみごうら)中川原(なかごうら)(小字名)
中土居の北側の地域でさらに北側に瀬戸島があり川に関係した地名です( )川原は本来の呼び方は、ゴラ、ゴウラ、コウラ、コラなどと言います。これらの意味は石のゴロゴロしている所に付けた地名です。現在は香椎聖母宮(かしいしょうもぐう)から直進した道路が幸作橋に通じています( )
 中土居(なかどい)(小字名)
中土居八幡宮のある一帯の地名です。中世から江戸期の矢部川の土居工事により出来た土地に起名された地名です。

小出口(こいでぐち)(小字名)
小出(こいで)は「近くの出村」の語源があり、口は端の語源がある(.)近くには上開ちいう小字があり、近くへの出村への出入り口という語源とも考えられる。小出口は矢部川に面し、付近には3箇所の堰がある。したがって「コイデ」は堰を作って設けられた分村(出村)と考えられる(.)
上開(小字名)          瀬戸島
矢部川から沖ノ端川の分水口付近の土地名で、潟地の開拓地名です。開は開拓の意である(.)
権現山(ごんげんさん)(小字名)   瀬戸島
山に付けた地名ではありません。矢部川の松原堰の沖端川分水口の三角地形の名です(.)権現とは仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れること、また、その現れたものとある(.)重要な三橋や柳川方面の灌漑用水口で権現さんを祀っていたのだろう。山は地形語でなく尊敬語のサンに(あて)がったものである
松原・四本松・(小字名)
 松原、四本松の地名は、鹿児島本線の西部一帯で、昔の朝鮮松原にちなんで起名されたのは当然です。柳川藩主・立花宗茂豊臣秀吉の朝鮮征伐に参加して(.)朝鮮から捕虜として連れてきた、布織、印刷、医学の技術者を領内に住まわせた。その時に本郷の川堤に朝鮮松を植えたとある( )その松原は大正時代までは百本を超えていたが、太平洋戦争中(.)燃料用に松脂を取り枯死し、現在三十本位補植、してある。さらに幸作橋の下流にも三本松の地名があります(.)
 
戦前の朝鮮松原

現在の朝鮮松原
 古川
昔に三ノ瀬からの水路があった事からの起名と思われる(.)
 中野
 瀬高町の水源地と浄水場があり、鹿児島本線と九州新幹線が通っている。対岸に新船小屋駅がある(.)
 
 ホコリ(小字名)
 まだ開墾されずにホコリの舞う土地だったでしょう。洪水のだびに川になっていたと想像します(.)

名鶴・下名鶴(小字名)
幸作橋の下流名鶴堰の東側の本郷小学校付近の地名である。鶴は湿地の意であるので湿地帯で洪水により被害を受けた耕地です(.)

一本木(小字名)
名鶴の土地の北側にあり、大きな松の木があったことを意する地名です(.)
   .
北燈油(とうゆう)南燈油小字名)
本郷集落の幸作橋を東に渡った東部のはずれにある。お寺に供える燈油代の供給田である。大広園の「油田」も同じです(.)

坂田原(さかたばる)(小字名)
バルは開墾の意もあったが、後に範囲、領域を示すようになった(.)坂田原は行政的に本郷圏であるが、その領有権は坂田集落にあったことを示すものです(.)

    【本郷の渡し~幸作橋】
  宝暦9年(1759)柳川7代藩主立花鑑通四ヶ所藤左衛門に命じて建築された陸戦隊の演習場の水御殿と館の南方に駒射ち・犬追物・流鏑馬(やぶさめ)の練習をした本郷馬場(ほんごうばば)があった場所です。江戸時代の末期の絵には朝鮮松原付近に仮橋が架けられ鵜飼(うか)い漁(下妻アユ)が描かれている。川底に大網を敷き、上流から鵜匠(うしょう)が鵜を使って鮎を追い、網に集まった鮎を引きあげる漁法でした。本郷から橋を渡り下長田を通過して、壇ノ池(瀬高町下長田)小田村唐尾(瀬高町)山下町(立花町)黒木町矢部村(柳川藩領)の矢部往還(やべおうかん)が利用されていた。矢部村周辺では柳川城に通じることから柳川街道と呼ばれた(.)
昭和初期でも橋梁(きょうりょう)は橋桁が2間くらい(3.6m)の間隔で並び、水面上に5尺くらい(1.5m)が出て、その上に横幅1間(1.8m)長さ3間(5.5m)の板がのせられ、雨季(うき)には太いシュロ網がかけられ、洪水の時は、中間から切れて、両岸に流れ着く仕組みであった。板橋が流され架け直す迄は「団平舟」と呼ぶ渡し舟で往来していた。昭和19年には吉岡から直線の5m道路が本郷左岸の堤防まで開通し、現在地の幸作橋(こうさくばし)は最初は筑後川の豆津橋(久留米駅の西方)の廃材を貰い、(いかだ)を組み筑後川を下し、矢部川をのぼり、上庄の御蔵浜かで回送し、部落民が現地に運んで苦労して組立てて架けている。写真(下右)昭和27年撮影(さつえい)されたもので、「ドンキャンキャン」の中世の神事と近世の大名行列を組み合わせた祭りの行列が橋を渡っている。この橋は昭和28年洪水(こうずい)で流され、しばらくガタガタ橋であったが昭和32年11月に現在の橋が完成した。
     

松原堰と幸作橋
ここから右に沖の端川で柳川に分流されている
 昭和27年撮影の幸作橋  昭和28年の洪水で破壊  
 
本郷の矢部川河畔での下庄小学校のサマースクール。町営プールもあったが
水遊びには良き場所だった。当時は赤べこ(ふんどし)がまだ主流であった


【本郷の寺社仏閣】
 香椎聖母(しょうも)神社 本郷小字町
 本郷部落の産土神、祭神は神功皇后である。子供の応仁天皇を祀る芳司の広田八幡神社の祭礼の時、聖母神社に神幸がある(.)神功皇后は夫の仲哀天皇と熊襲征伐後、朝鮮出兵し、凱旋後に応仁天皇を生んだ(.)文広(芳司)」の広田八幡宮の祭礼の時、本郷からお迎えの人が来てから行幸の式がある( )即ち、広田八幡宮の祭神応仁天皇が御母君(.)神功皇后の所へ、年に一度行幸になるという「ドンキャンキャン」の祭りの行列である(.)
 川端八幡宮(中土居八幡宮)  本郷小字仲土井
 祭神は仁徳天皇で水難除けの神である。広田八幡宮社伝に、長徳元年(995)本郷の東方松原(権現松原)に勧請さ(.)水難除けの神としとして信仰されたとある。延宝元年(1673)5月の大洪水にて流されて(.)旧宮地の権現松原の地より中土居に社地を定め鎮座する(.)旧本郷小学校運動場の南東に東向きに建立されていたが、後に現在地に移転している。宝暦(ほうれき)9年(1759)柳川藩主立花鑑通が四ヶ所藤左衛門に命じて建築された陸戦隊の演習場の水御殿(やかた)の南方に駒射ち・犬追物・流鏑馬の練習をした本郷馬場の碑が境内にある。境内には神木(しんぼく)のいちょうの大木がある。11月3日「ドンキャンキャン」の祭りの行列もここで行われる(.)
 
本郷馬場の碑
 
いちょうの大木
  徳円寺(本誓山)
天正年間(1573~1591)に豊前の国浪人荒川氏が帰依発心出家して、下妻郡本郷村に来て、僧亮喜と名乗り、開祖建立したといわれている(.)昭和30年4月より境内に保育園(慈光園)を開設する。真宗大谷派(.)
  定林(じょうりん)寺   廃寺
 行基橋の東の沖ノ端川の堤防下にあり、廃寺になった跡に観音堂を祀ってある。お堂の外には弘法大師も祀られお彼岸にはお参りのお遍路さんで(にぎ)わう(.)
  この外に満願寺 ・ 高源寺 ・ 延命寺 ・ 聖酬聚寺 ・ 常心庵 があったが廃寺となっているとある。
  参考文献 旧柳川藩志・立花家記・瀬高町誌・本郷小学校100周年記念誌・瀬高町の地名の話(鶴記一郎)転写承諾済・山門郡測量古地図 
    庄福BICサイト   御意見・感想・をお願いいたします。shofuku21@yahoo.co.jp
          ホームページ記載の記事・写真等の転載はご遠慮ください