庄福BICサイト     【禁無断転載】       福岡県みやま市瀬高町河内  H23.8.15製作  H24・10・1寺屋敷追加更新

 河内村(かわちむら)は縄文時代早期は浜田や津留付近が海岸で海でした。弥生時代後期になり江浦あたりが海岸線となりました。矢部川や飯江川の川下にあたり、氾濫原である干潟の開墾地は平安時代には着工されたようです。江戸期になされた川の蛇行(だこう)を直線化工事した場所が多く存在する地域です明治9年(1876)7月に吉里村・開村・堀切村がが合併して河内村となりました( )当時の測量古地図により各村の歴史を探訪します。その後、河内村は明治22年(1889)に高柳・東津留・泰仙寺・浜田の村と合併して河沿村(かわぞえむら)となり、明治40年(1907)には瀬高町となりました( )
 
    【吉里村】
 吉里村(よしさとむら)長島村(おさじまむら)の西に位置し、長島と同じく弥生時代には人が生活し( )周囲は、まだ海だったと思われます( )有明海の水位が下がり、(あし)(よし)の茂る干潟と変化して、開墾が始まったでしょう( )平安から鎌倉時代の庄園制度での瀬高下庄(せたかしものしょう)の総鎮守社(ちんじゅしゃ)である鷹尾神社の古文書の寿永(じゅえい)元年(1182)「下庄公文所下文( )に吉里名・行武名・有富名・乙丸名など22(みよう)(名とは集落の意味))に鷹尾神社の饗膳酒肴(きょうぜんしゅこう)の調進が課されているとから、吉里村(よしさとむら)は瀬高下庄の開発農家であり、西側の(ひらき)周辺の干潟を開墾していったでしょう。鷹尾社の神人(じにん)神人とは神社に従属して社務や祭祀に奉仕する人)集団の中にも( )吉里・金栗・高柳・上庄・下庄・馬木(真木)などの(みょう)が見え、それらの集落は彼らの屋敷村であったと思われる( )吉里には天草神社と八郎宮と天満宮が鎮座している( )高田町誌(P585)によると、平安末期頃には島原( )天草などから舟が飯江川を遡上して( )吉里村の天草神社を伏し拝み、山浦、全仙寺山を右に、岩津、長島(おさじま)、古島を過ぎて海津(かいづ)の浜辺に達し、ここで海の幸、山の幸の物々交易が開かれていたとある( )当時は飯江川が村の南側を蛇行(だこう)して流れていたと推測される。現在の吉里の所帯数は6軒余である( )

    【開村】
 干拓により出来た開村は吉里村の農民が移り住んだ娘村である( )娘村の開村の世帯も多くなり、天満神社( )建て吉里から分霊された。しかし開のほうの所帯数が多くなり( )昭和の始め頃には吉里天満宮が逆に合祀された。( )国崎家一門の人達は祭日に( )親村の吉里に御参りに来ていたという( )
鉄道線路は明治22年(1889)に敷かれ、天草踏切が出来ました( )昭和15年(1940)には国道209号が通り( )開村のほうが便利になったが、交差点名は親村の吉里とされている( )

現在と弥生時代の対比





明治13年頃の測量地図(活字は追加文字です)
 陣ノ内
 陣とは軍備をもった場所の意もあり、古い時代からの開墾領主の吉里村(よしさとむら)の集落がある場所です。南方の旧河川跡の堀には、沈没船が埋まっていたと言う( )
 長町(おさまち)
  東の集落に長島(おさじま)があるので、そこに関係した田んぼでしょう( )
 開(ひらき)(行政区名)   
 瀬高町の南端になり高田町の岩津と接する所です。その開拓地の意の開を採用して集落の行政区名となった( )吉里開(よしさとびらき)とも呼ばれるのは、吉里村の開拓農民により開墾され、移り住んだ名残です( )
 中島 ・出島 (小字名)          
 開集落の西側の水田が中島、東側が出島の水田です。飯江川の州の状態の島を開拓した水田です( )
 篠葉原(しのはばる)(小字名)          
 開集落の東側の地名で笹薮(ささやぶ)が生茂った地帯の意です。「篠とは山野に群生し、クマザサ・アズマネザサ・ミヤコザサ・ネザサなど種類が多い( )葉は長楕円形で先がとがる( )かご・ざる、その他細工物を作るのに用いられていた。瀬高地方には河川や水田の微高地に群生しており、細く、しなやか形から俗名「おなご(女)竹( )と呼び、子供達が小刀を持って切り出しに行き、「突き鉄砲」の材料や七夕の飾り笹にしていた( )
 松ノ木(小字名)             
 開集落の北側の地名で松木の林があった事による起名と思われます( )
  久ヶ原
 山地を開墾した久ヶ原があるが、ここでは芦や葦の生茂る河原を開墾した土地です( )
  熊代(くましろ)(小字名)
  河内の東、209号国道近くにある。動物名が付く珍しい地名だが、神社がもっていた神田の意である。同じ神社の水田の意の神代や神稲の地名がある( )
  大町(うーまち)(小字名)
  大きな広さの田んぼによる記名です。
  中島(小字名)
  開墾される前は干潟あるいは洲の島の形状の飯江川の土地であったでしょう。
  船津(ふなつ)(小字名)
  吉里・開村の北方面に、舟着場の意である船津は、満潮時にはここの水路まで飯江川から潮が上がり、船着場があったのでしょう( )
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  天草神社(あまくさじんじゃ)・ 八郎宮(はちろうぐう) 吉里
 吉里集落内に天草神社と八郎宮を合祀した社がある。天草神社は、元は天草踏切の開村寄りにあった。吉里村の伝承によると、天草の船が難破し、同時に身分ある方が疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかった為に、吉里村に住みつき、完治した後に村に大いに貢献された。その方を祀る神社とある。疱瘡の病にご利益があるとして信仰されていた( ) 八郎宮は村の少し南の田んぼに鎮座していた。由来は不詳である。八霊宮とも書けるので難破して亡くなった8人の霊を祀る神社?とも思考する( )
 
 
左が天草神社・右が八郎宮

元の天草神社の場所
  天満神社  (ひらき)
 開の産土神、古くから伝わる奉納子供相撲(初相撲)は、その昔、年代は不明だが村に伝染病がはやり多くの子供が亡くなり、藁をもすがる思いで天満宮に祈願をかけた。一切を男衆の手で3升3合の米に増米を加え( )小豆をつけ、稲わらの穂で33本のくじ(1組の相撲毎に折り曲げて手の内に納める)を作りお供えする( )。生後1ヶ月から15才まで( )男の子の相撲を奉納し健康を祈願したのが始まりである。境内に若宮神社の小堂・お大師堂・十三仏・社日さん・猿田彦を祀る( ) 東方、線路傍に天草さんの小堂があった。旧柳川藩誌にみる「吉里の天満宮」は昭和の始め頃、開の天満神に合祀されている( )
              

明治13年頃の測量地図(活字は追加文字です)
    【堀切村】
 堀切村は何億年もの昔は海底であったものが地殻の変動により隆起して陸地となり、再び陥没した所で、弥生時代では島であったろう。堀切村は開墾の際に低湿地を排水する為に堀削(くっさく)した溝を意味した地名です。村中や田んぼには、いろんな神さまを祀る、小堂(しょうどう)がたくさん点在していた( )平安時代の延久(えんきゅう)2年(1070)に堀切に高良玉垂神社の分霊が勧請された頃には村の周りが開墾され所領も増えていたでしょう( )伝説によると元暦2年(1185)壇ノ浦の戦いで伊予国の河野四郎通信(みちのぶ)は勇敢な水軍をひきいて義経(よしつね)に加わり大活躍をした。頼朝(よりとも)の死後、承久3年(1221)後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取りもどそうして戦いを起こした「承久(しょうきゅう)の乱」で、上皇がわに味方したが敗北して幕府軍に追われ、九州に下り、堀切村に逃げて蟄居(ちっきょ)し、不遇の内に病を得て死亡し、後世に荒仁宮(あらひとぐう)に祀られている。堀切村に河野姓が特に多いのは、その末裔によるという( )武士による庄園の侵略が進み戦国時代では豊後の戦国大名・大友氏に従う田尻親種(たじりちかたね)の領地となり、正長(しょうちょう)2年(1529)に堀切城は鷹尾城の支城として、江の浦、津留、浜田、と共に築城された( )堀切の北(おっく)という地名に城跡があり、現在では三方掘割に囲まれた処である( )昭和55年からの、ほ(じょう)整備事業前の航空写真を見ると、(がた)ん土居から城址の周りに飯江川が蛇行した跡が見られる( )堀切城は川に囲まれた洲を利用して建てられた天然の要塞であったろうか。天正10年(1582)肥前(佐賀)の龍造寺との戦いの時( )田尻彦左衛門鎮永(南筑明覧、筑後将士軍談は福山将鑑)が城主となり肥前勢と戦った。その後、田尻龍造寺との間に和平が成立し( )田尻は本城鷹尾城を明け渡し、一時堀切城に入った。天正13年(1585)堀切の地元の人達が豊後の大友と通じ龍造寺に反抗した( )堀切の住民は戦に加わり大いに奮戦し、多くの戦死者を出したと聞く。その時豊後の侍、平井鎮経が城主となりこれを守った( )これを支援する戸次高橋及び山下城の蒲池家恒(鎮運)の軍勢が浜田村に布陣し、田尻龍造寺の軍と激しい攻防を繰り返した( )その頃、肥後を平定した島津は下筑後に侵入し三池河内守と話合し、平井弾正が守る堀切城を攻略した( )城兵は防ぎきれず平井弾正は城を捨て江の浦へ逃れ、やがて豊後へ引き揚げた。天正15年(1587)豊臣秀吉九州平定によって戦乱の世も終り、立花宗茂の柳川入城後、他の津留・浜田の支城と共に廃城となった( )
 江戸初期の寛永15年(1638)、柳川藩の2代藩主立花忠茂のときに、普請方役人田尻総次(そうじ)(惣馬の祖父)は堀切の西端(現・大和町島)に住み、中島川(矢部川)の蛇行(だこう)を直線とした一大工事でを行った。(大和町史P530より)鷹尾・泰仙寺や津留村、そして堀切村の直線化工事では( )西端(現・大和町島)と堀切村から分断され島堀切と村が造成された( )飯江側の河口は広大な洲を幾重の流れを一直線にした工事で南端(現・高田町徳島)( )洲が分断され裏堀切村が造成された。「潟ん土居」の外側の干潟や八歳島も開墾され、川内・八才島・壱町籠(いっちょうごもり)の田んぼが造成された( )田んぼ内に残された潟ん土居は、元禄(げんろく)(1688〜1703)頃から(はぜ)の木が植えられ、並木の土居上辺を( )馬を運動の為に走らせていた。近年、運動会の練習場としても利用していた土居は昭和55年からの、ほ(じょう)整備事業で壊されている( )工事された年代は不明だが少し上流で飯江川が堀切村の中心近くまで蛇行していたが直線化され、洲だった竹葉と川を埋めた川田(かわだ)の小字の田んぼができている。西隣の丁子や小開も開墾された田んぼです( )これらの一大工事の重労働には藩が周辺の農民の夫役(ぶやく)を使い一部金穀を支給した( )
 
 
        【地名のはなし】
 堀切(ほりきり)(行政区名)       
  河内の堀切には堀切城の所在した所として有名である( )堀切とは掘割、切通しの意がありますが、軍事上の自然水路が巡らされ要塞の役目をしてたでしょう( )飯江川の南対岸の高田町にも堀切集落があるが、二つの集落は元々、一つの集落の堀切が飯江川の延長工事で切り離されて出来た( )または瀬高の「堀切」を本堀切と呼び高田町の方を裏堀切と呼んで区別していた( )
  堀手ノ内(ほってのうち)(小字名)  
 中世において、荘園や公領を基盤として成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したものです( )その屋敷を堀切城といっていた。豪族屋敷を中心として、下人、作人の住居があり、事が起きれば、屋敷を拠点として兵火を支えたのです( )
北(通称・オック) (通称名) (堀切城址)        
 享保2年(1530)鷹尾城の支城として堀切城跡です。ほ場整備前の航空写真を見ると、飯江川の蛇行が周りを取り巻た痕跡が確認できる。「北」ホクが転訛してホックと呼ばれたのでしょう( )天正15年他の支城と共に廃城となった。城と呼ぶより小さな砦の出城で戦があれば普段は農業を行う武士を集めて戦っていたであろう( )現在の河野健一宅の敷地になり屋敷の周りに堀があったが北側のみ残っている( )
   田中(小字名)
  筑後藩主、田中吉政忠政の父子による、「慶長本土居」の完成により、有明海沿岸の高潮被害も減少 し、慶長本土居の外側に、新田を開発 して行きました。大和町鷹尾の慶長本土居の外側「現、瀬高町 大字河内字田中小路(しょうじ)」にも吉政が開いた新田があります
  松原(まつばら)(小字名)   
 堀切集落の北部の公道沿いにある。宗高神社に祀られている竹迫(たかば)種重の宝永3年(1706)の墓が松原の地にあり、古くからの松の木がある墓場の地名と思われます( )
  寺屋敷(小字名)
小字の松原の県道から(ひらき)部落に通ずる新道を入った右に、新しい「寺屋敷」の石碑がある.南北朝争乱の頃から南筑後において有力国人として活躍した三池氏の末裔で( )立花藩臣となった第35代、三池又右衛門親正から江戸期の文化7年(1810)までの三池家の墓があった所です。親正の子、親重の嫡男で柳川藩士の親次(伊兵衛)は第37代を継ぎ蜷領本堀切村に住している。同族の三池親符も唐津藩を浪人して、宝暦7年(1752)親次を頼り、住み、宝暦7年(1757)には柳川藩士となり、御分米三十俵、同10年には給卯人格となる。しかし当墓所は臨済宗妙心寺派の二尊寺の末寺であったが、三池家は嘉永2年(1894)には蜷の天叟寺(てんそうじ)に寺替えしている。昭和62年11月、改葬に伴い墓標の・副葬品の発掘が行われた( )その後、この土地は大阪在住の末裔の三池鎮昭氏がみやま市に寄贈されている( )
            
 野()(小字名)(集落名)        
 河内の北部にある小集落名で、世界で一番短い地名です( )水田化される前の野原の状況を示したものです。集落には子授け・安産の神様、木玉宮が祀ってある( )
 苅分野(かりわけの)(小字名)   
 年々の収穫が不安定なために地主と小作人で成熟した作物を折半(せっぱん)して刈取る方式の土地ではないかと思います。高柳の会田(あいだ)も似た起因をもつ地名でしょう( )
 対米(ついごめ)(小字名)     
 堀切の北側の「対米」は「対籠」から来たもので、やはり開拓地名です。東南方向にある「向籠(むかいごもり)」に対しての地名です( )
芳野(よしの)(小字名)     
 八歳島集落北側にある地名で、芳は葦の当て字で葦の茂った河川敷を開拓した湿地帯地名です 。
 枝(えだ)
 堀切集落の東部にある小字名。湿地の意味のエダ(エタ)の意でしょう( )本郷に三ッ枝、大草に七ッ枝、松田に八ッ枝、高柳に投枝(ナゲシ)があり同類の地名であろう( )
 八歳島(はっさいじま)(集落名) ・二・三(小字名)       
 昔は初瀬島(はっせじま)と呼んでいました。河内の八歳島→初瀬島は矢部川に入港する舟がはじめて瀬に出会ったことによる地名でしょう。この地域も開拓地です( )河内の西側の飯江川沿いに八歳島・八歳島二・八歳島三の地名が連なっている。原亀男氏の瀬高地名考には「八」には崖や端を意味する場合やほかに八幡神のように用いられる場合があり( )歳には塞や斉田の意味があるようで、八幡社の祭田であったとも考えられるが、ここでは矢部川の端にある斉田の島という意味か。」とある( )
 川内(かわのうち) 一・二  (小字名)  
 八歳島の東側に南東に飯江川(はえがわ)と並行して長い3つの水田の区画が北から川ノ内三・川ノ内二・川ノ内一ある。地元では川ノ内をカワチと呼んでいる。(ひらき)などと開拓を意味する語尾はありませんが現地の状況からして旧飯江川、矢部川の河床か低湿地帯の開拓され水田となった所です。大字の河内の名称の発祥の地とも思えます( )
 壱町籠(いっちょうごもり)(小字名)  
川ノ内と八歳島に接した飯江川の開拓地名です。「籠」は筑後川下流に多い開拓地名です( )
 向籠(むかいごもり)(小字名)    
 飯江川の州であった竹葉の北側にあり、やはり「籠」は開拓を意するので飯江川の開拓地名です。籠の開拓地名は筑後川の周辺に多く見られます( )
 竹葉(たかば)カワダ(小字名) 
 堀切集落の南側の飯江川の州の遺名で、その地名域を通称地名としての「カワダ」が取り囲んでおります。これは、飯江川の蛇行(だこう)を直線化する為の工事によって出現した地域です。工事前はカワダに川の流路があり竹葉は州であったのです。竹葉(たかば)の由来は、柳川藩主立花鑑虎の重臣で鳥見役であった竹迫種重(たかばたねしげ)である。勤め後半に病身になり、4丁6反を拝領して堀切村に居住す( )現在の竹葉という字名がこれである。松原には竹迫種重を祀った宗高神社がある( )
           

宗高神社
 小路(こうじ)(小字名)(集落名)        
堀切集落を小道を北西に入った集落で、数本の小道を入り込むので小路の名が付いたのでしょう。裏小路入口の掘割には山森神社(やんぼっさん)が祀ってあります( )
 矢城(やかしろ) (通称名)        
江戸初期に造られた飯江川の堤防の傍にある。城の付く地名から津留村の「ヤナ城」と同じく、ここにも堀切の渡し・川通行の目付け役の屋敷があったであろう。八歳宮の飯江川50m上流の古賀正巳宅の敷地である( )
 船津(ふなつ)(小字名)          
 河内村にはには西部と飯江川の丁字橋の西側に2ヶ所あります。津は港の意で舟着場のことです。潟ん土居横に飯江川が流れていた頃には、そこが舟着場だったでしょう( )江戸初期の堀替え工事で新しい土居が造られ丁字橋の西側に舟着場が移動して江浦(えのうら)への往来が出来るようになった( )
丁子(ちょうし)(小字名)          
 飯江川に架かる丁子橋の北側の水田です。丁は古語辞典によれば「公用の労働に使われるもの」とあり、丁子は「ようろご」といって公用の労働に従事する人夫達の意で、その人達が居住していた所であろう。しかし手水(てうず)常路(じょうじ)(傾斜地のこと)からの転訛も考えられる。江浦への往来の丁子橋はこの田んぼから起名されたものです( )(原亀男氏の瀬高町地名考より引用)
 小開(こびらき)(小字名)          
 飯江川の丁子橋から西北に延びる開拓地です。「開」は開拓を意味する語尾です。飯江川の堀切の舟渡しはこの地の河岸の船津から江浦(えのうら)へ渡っていました。傍には舟の安全を祈り金毘羅が鎮座していましたが現在は公道に遷宮してあります( )
          

金毘羅神社
 三ノ家(みちえ)(小字名)     
開拓により出来た土地に3軒移住して分村してできた地名ですが、現在集落の痕跡は認められず水田化しています。水害などにより住居は安全地帯に移住したのでしょう( )
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       【堀切の神社】 
 地図@玉垂(たまたれ)神社(鳥居と大楠) 堀切    本社の由来は【総合編】へ 
 玉垂神社は久留米市御井町(みいまち)の高良大社(昔は高良玉垂神社)の分社で高良玉垂命を主神として春日大神、住吉大神を祀る( )平安時代の延久2年(1070)後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の御代に建立されたもので、屋根は「よしぶき」であった( )祭日は、古来旧9月9日(現在新暦9月9日)に行われていた( )お祭りは七組に分かれ座元が9月1日におみくじがあって決まる。神社は神田をもち、稲作・麦作の収穫でお祭りの費用にして行われる( )酒、米、柿、栗、魚、野菜などを座元から吊りふねに乗せて2人で荷なって神前に供えていた( )参道入口の大鳥居は堀切に養子に来られた人達で奉納されたものである( )境内入口にの鳥居は古代肥前様式という珍しい形式で造立年代は室町・安土桃山期(1338〜1600)の間と推定される( )この鳥居は、柱や貫などの各部分が3つの石で構成され( )、高さは約2m半で柱は根元がふくらみ、次第に細くなり、笠木は反りが緩く、ほぼ直線的になっている( )境内の大楠は高さ25m枝張35m胸高周囲8mという巨木です。神社建立以前からあったと言い伝えもあるそうです( )二つ共、市文化財指定である。社殿のまわりの彫刻は堀切の名工(名不詳)により彫られたとのこと( )再建は嘉永2年(1849)8月にされ、昭和4年(1929)に神殿を銅葺に拝殿を瓦葺に改修され、さらに昭和54年銅葺に改める( )昭和24年9月、農村電化記念碑が建てられている。昭和54年神殿の大太鼓を下庄の野田(河野)巌さん(堀切出身)が奉納された( )
境内には荒仁宮(あらひとぐう)・神馬石像のほか、田んぼや小路に鎮座していた太神さん・六体地蔵・若宮さん・天満宮・天御前(あまごぜ)社・社日(しゃにち)さん・観音様・大日如来(だいにちにょらい)堂が田んぼや道端から境内に移され祀られてる( )

玉垂神社本殿

樹齢1千年と言われる大樟の木
 
肥前式鳥居
 A若宮神社(わかみやじんじゃ)  野集落。現在は玉垂神社境内に遷宮
 百科辞典などの文献のによると若宮さんの神格は二つの解説がある。一つは大きな神格を有する神の御子神(みつかみ)(みつかみ)が新しく土地を拡めた所(干拓地)に合霊を勧請して新宮を創るのを若宮と呼ぶ( )二つは特に平安に流行した呪術で、災害異変が起こると神の御霊( )怨霊のたたりとおそれ巫女の祈祷を行ない社を建てて悪霊を祀るこの時建てた社を若宮という( )野小路にあった若宮は前者でなかろうかと思われる( )玉垂神社境内に移され御神体の前には木の鳥居が作ってある( )祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)の神で水を司る神、雨乞(あまご)いの神である( )祭礼は10月3日に行われる( )
    
 B太神社(おおじんじゃ) (通称・おおがみさん) 竹葉、川田。現在は玉垂神社境内
 太神さんは以前は南の飯江川の近く川田にあった。古代、川田の地は海で低い所が川になり高くなった所は州となり船着場があったという( )大和政権時代西暦660年頃天智天皇の西征の時、筑後の江の崎(大和町)から( )で八才宮にお参りになり川田の州に船をとどめ仮の御室(おもむろ)で航海安全を感謝され東に向って天照太神を拝み小祠(ほこら)をお建てになったという( )後にお堂になり13人の関係者がお祭りをしていたが農地整備の為、玉垂神社境内に移されている( )本尊は木像で弓を持たれた立像である。祭神は大日霎尊(おほひるめのみこと)で祭礼は9月17日に行われている( )
 疱瘡(ほうそう)の神さん 玉垂神社境内・現仁神社拝殿前
 昔は疱瘡が流行して感染すると大熱が出て顔にむくみが出て治ってもジャンコ肌になっていた。この頃は疱瘡の神様は大繁盛で大事に尊敬され人助けの神であった( )御神体は大日如来で昔は神仏混同の時代であった由縁である( )昔は黒崎山の大日如来に疱瘡が流行したらお参りしていたのも、うなずける( )大正11年(1922)の山門郡に天然痘大流行したときは大勢の参拝者で繁盛したそうである。如来(にょらい)とは「光明があまねく一切の所を照らす。」密教の根本教主で宇宙の実相を霊化した仏格である( )予防接種で疱瘡の病も無くなり信心するひとが人が少なく( )薄らいだが大事に見直し残してゆきたいものである( )
 C天御前(あまごぜ)神社   船津(須崎との境)。現在は玉垂神社境内
 創建の年代は不明。「昔、堀切村お開き御築立築き止め成就されたので、上筑後天ノ御前海辺に勧請を初められた。これで御開地が成就した( )御開地の内3町3反が御供田となり庄屋代々御帖面に毎年さし上げている」と記録がある。堀切村の干拓工事が完成して天ノ御前の分霊(ぶんれい)を祀りお宮に土地を持たせ庄屋が代々出来た作物を祭りに供えたとのことである。昔は今の小開(こびらき)の水門の所から中堤防ができ潟より下畑(しもはた)に通ずる「(がた)ん土居」と言って内側を川の内と言っていた。はぜの木土居で馬を運動の為に走らせていた( )船津樋管(といかん)のそばに天御前神社があった。昭和年代に堤防拡張の為玉垂神社境内に移転された( )祭神は旧暦の9月11日で天災を防ぎ新開地を護る天水分神の鎮守の神として祀った( )
 天満宮(てんまんぐう)  玉垂神社境内
 瀬高町誌には産土神、東西17間南北10間、面積355坪、神田1反5畝とある。しかし玉垂神社境内の小堂として鎮座している。江戸期では社殿を構えていたであろうか。菅原道真(すがはらみちざね)を祀る本尊は大宰府天満宮で昭和初期頃までは歩いて参ったのは水田天満宮であった( )天神信仰が堀切でも盛んに行われたお宮である。堀切の天満宮も受験シーズンには学生( )合格祈願を4月の入学式にはランドセルを背負った子供と共に両親が参りられてきた( )
天御前神社と天満宮(右)
 六地蔵菩薩  玉垂神社境内
 地蔵菩薩は梵名はクシチガルブハにて佛の附属を受けて弥勒仏の出世に至るまで五濁悪世において六道の衆生を教益する能化の尊なりと伝えれている( )由来を解り易くいうと、六地蔵とは六道(前世の6つの困難・苦痛)に現れて苦しみを救うと言われている( )人間の様々な悩み苦しみをお参りすることで地蔵様( )身代わりになり災難からのがれることができるとの教えである( )
毎年お盆には小学生が地蔵さんの供養をする( )地蔵さんに新しい胸掛け、けさをかけ、祭棚を作り、すすきを切って棚の周りに囲いをして準備する( )村の家々から寄附を集めお供えや接待の地蔵豆を用意する( )低学年は村内を回りお参りを促しす。15日は精霊が西方浄土に( )お帰りになるから参拝人も夕方から増え子供達は御賽銭が増えるのを楽しみに客を呼ぶ( )十五夜の月が川の水に浮かび精霊(しょうろう)送りの人達が帰る9時頃には終り子供達は分けあった賽銭(さいせん)を持ち( )名残り惜しげに帰路につく。遠い昔から受け継がれきた子供達のまつりである( )

     
 観世音菩薩  玉垂神社境内
 松原組の人達が十七夜のお観音さま祭り、お彼岸の巡礼さんの、お接待やあるいはお説教を行っている( )観世音菩薩は大慈大悲をもって人々を救済することを本願とする菩薩である。迷える人を救う為に色々姿を変える阿弥陀仏の脇士(きょうじ)となる。供養をすることによって我々は救われるのである( )
 D荒仁宮(あらひとぐう)
  荒仁宮の祭神河野四郎越智通信(みちのぶ)は伊予の国(愛媛県)の名族の出で、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた鎌倉時代の名高い武将です( )元暦2年(1185)4月25日壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦の時、勇敢な水軍をひきいて義経(よしつね)に加わり大活躍をしました。鎌倉幕府をひらいた源頼朝(みなもとのよりとも)の妻、政子(まさこ)の妹を妻とし、頼朝のそばで仕え、鎌倉幕府の御家人となり伊予国内の一部の御家人(ごけにん)を統括する強い権限を認められていた( ) 
 しかし頼朝の死後、承久3年(1221)後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取りもどそうして戦いを起こした「承久(しょうきゅう)の乱」のとき、上皇方について、ことごとく敗北し幕府軍に追われる身となる。(嫡子通久(みちひさ)は幕府方に味方して細々と家名を伝え元寇のときには勇将・通有(みちあり)が活躍してその武名を()せ、河野氏の最盛期を築き上げている。通信家臣25士と嫡子の三郎通秀と共に九州に下り筑後国山門郡堀切庄に逃延び、蟄居(ちっきょ)し、不遇の内に病を得て死亡した。その後、家運も衰え路傍の墓となった( )ある時墓の傍を武士が馬で通りがかり家来に「この墓は誰のものであろうか。生前は身分の高い人であったろうに今は死んで馬蹄(ばてい)にかかる」と笑いながら過ぎた時、この墓がたちまち鳴動(めいどう)して殺気が起こり人馬悶絶(もんぜつ)し。とも息絶えた( )それより昼夜もうもうとして殺気が絶えずその地に一宇を建てその霊を祭り四郎大明神と号し( )後に荒仁社(あらひとしゃ)と改める。嫡子の通秀は河原内村(現・山川町河原内九折(つづら))に移り住み、通秀より25代のちの寛文8年(1668)河野磯之助通種は河原内村の長照寺と言う庵寺に住居してたところ立花鑑虎(たちばなあきとら)公が長照寺を覚成寺(かくじょうじ)と改め寺を建立して下賜(かし)されたとある。通秀の次男の河野兵衛介通頼(みちより)は堀切に帰居する。以来後世の河野通清は立花藩の儒官となし、のちに肥後国玉名に居住し肥後第1世となり( )12世の河野司さんは現在大牟田に住まれ代々医者の家であった( )例祭には出席され、毎年10月20日におごつくさん(もち米4升白米4升)( )お供えし祭を行っている。祭事後に村全戸に配られ、災難・魔よけに頂く習慣がある( )玉垂神社の神職も河野通信の末裔であり境内西側に荒仁宮の社殿を設けて祀られている( )社記には後醍醐天皇が起こした元弘の乱(元弘元〜3年(1331〜33))に活躍した伊予国の得能弥三郎(とくのうやさぶろう)の嫡子河野伊予守が筑紫に下向し堀切村に築城したとある( )その子孫の河野出雲守道弘大永年間(1521〜)に祖神を祭祀したという( )(注・古い時代の為確たる古文書はなく宮の縁起や伝承により編集・研究中ですので錯誤を承知でお読みください。( )
道一つ隔てた南西には南筑後において有力国人として活躍した三池氏の末裔で( )立花藩臣となった第35代、三池又右衛門親正から江戸期の文化7年(1810)までの三池家の墓があった。南の竹やぶの中には、刀匠三池典太光世(みいけてんたみつよ)の弟子の墓と言い伝えられる石碑10基分位がある( )


荒仁社の鳥居 荒仁社の塚  塚の碑  玉垂神社境内の荒仁宮
 E八歳宮(はっさいぐう) (初年宮) 堀切字八歳島
 長島の各宮と同時代この地、八歳島は大陸からの渡来人の船着き場でここに滞留、生活を始めた地に縄を張り榊を立て神の降臨を願った自然崇拝の宮であったろうとの伝承がある( )西暦944年頃の天慶神名帳に「初年宮」とあるのは八歳宮のこどである。1716年、社殿が建築されたの記録有り( )矢部川の合流点から飯江川を200m上流の堤防傍、河野栄宅に祀られ、氏子七戸で9月12日(本来は9月3日)に祭典( )が行われ地元では八歳島を「はっせじま」八歳宮を「はつせさん」と呼んでいる。創建は白雉5年(654)の飛鳥時代である( )祭神は豊玉姫命「綿津見国の姫で神武天皇の祖母」である。寛永15年(1638)矢部川が堀りかえられた。当時の和歌に次のように詠まれている( )「すみの江の岸による波千代かけて神こそまもれ言の葉のみち」当時は三反五畝(役1千坪)の神田(しんでん)があったそうだが飯江川改修工事があり移転され現在の祠となっている。本尊は鷹尾の楢尾宅にある( )綿津見は(わだ)つ待つ、または海住(わだずみ)の意である。上古の海岸部族であり海の神様である。当時矢部川は泰仙寺と浜田の間を流れ「島」「中島」間を曲りくねって流れていた( )往時矢部川を往来する船は必ず八歳神社に参り海上の安全を祈願したと伝えられている( )寛永15年(1638)矢部川が掘りかえられた。当時の和歌( )「すみの江の岸による波千代かけて 神こそまもれ言の葉のみち」とある( )当時は3反5畝の神田があったそうであるが飯江川改修工事があり現在河野栄氏の宅地の東に移転している( )毎年9月12日に祭典を行っている。本尊は現在大和町鷹尾の楢尾氏宅に祀られ左右にはカッパと社日(しゃにち)さん(穀物の神)が安置されている。詳しくは楢尾氏宅に記録残る( )
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 F宗高神社(むなかたじんじゃ)    堀切竹葉
 祭神は柳川藩3代藩主立花鑑虎の重臣で、鳥見役(鷹狩場の管理や鷹狩の準備役)であった竹迫(たかば)種重である。勤め後半病身になり、4丁6反を拝領して堀切村に居住す。現在竹葉という字名がこれである。剃髪(ていはつ)して浄哲と号す。宝永3年(1706)11月22日に92才で他界している。その墓松原の地にあり( )宗高神社に祀られ松原の氏子祭りを続けており竹迫家より祭料が送られている。現在土地名が字竹葉として現存している( )昭和56年に275年祭に当たり竹迫家の子孫で熊本市の内科医をされている竹迫三也夫妻により社が銅葺に改築され毎月命日に参拝される( )
堀切公民館南側にある。境内に樹齢500年以上のクスドイゲの神木(しんぼく)が茂り地元で文化財級と話題になっている。専門家は九州に植えてあるだけで本数も少なく珍しい木だと解った( )幹の周りは1m位で針のとげが出ており樹皮はうろくの様にかさなって、いかめしい形をしている( )社前に天保年間に建てられた地蔵様があり、竹迫家の人が不治の病にかかり毎月21日にお参りしていたら夢枕(ゆめまくら)に神木の葉を煎じて飲ませよとお告げがあり飲ませて病気が治ったと言い伝えがある。最近では願事が叶う噂で、受験合格の祈願の神さまとしてお参りする( )が多くなりクスドイゲの葉を合格のお守りに持ち帰る受験生もいる。祭礼は8月28日である( )
 
 G木玉宮(キダマグさん)   堀切 野
 祭神は句句迺馳神(くくぬちのかみ)(木を司る神でククは木々の意、ノは助詞、チは霊威、精の意味)で堀切の野地区に祀ってある。木玉さまと呼んでいる。木玉は子玉である。おなかが大きい神で柔和な神である( )子授け、安産の神様として参拝者多く、子供のできない人がお願いまいりして子供が授かったと言って( )お礼まいりにみえるとの事。この野地区には1年中誰かが妊娠して御腹の大きい女性が詣るそうです( )お堂の天井横に木玉宮と書いてあった。昭和63年度に小路の人達が同位置にお堂を新築された( )小路一同相集まり改築祝いをして神霊の供養をし子供達の安全を祈願された。祭礼は9月14日である( )
                
 H山森神社(やまもりじんじゃ)(通称・やんぼっさん) 堀切 裏小路(堀切集落の西部にある)
 英彦山権現の修験場本山の山伏さんが堀切の裏小路を宿として一生を終ったので、お堂を建てて霊を祀ったもので、堀切の村人の温情の厚さによる建立である( )山伏はごまをたき呪文を唱え祈祷を行ない、山中で難行苦行をして神験を修得して地方に下りほら貝を吹き、家々の厄払いをして災難がないように家内安全を祈祷して廻る( )その為に堀切に宿を持ち、頭に兜巾(ときん)をいただき篠懸(すずかけ)及び結び袈裟(けさ)を着け(おい)を背負い金剛杖(こんごうつえ)をつき、ほら貝を鳴らして周辺の農家を訪れながら祈祷していたであろう( )現在はその姿を見ることができなくなった。山法師(やまぼうし)さんは裏小路の護り神である。祭礼は11月25日で大正時代は浪花節の興行を行ない霊の供養をしていた( )また裏小路の角には、お地蔵さんが鎮座している( )
  
        
 I龍宮神(りゅうぐうじん) 堀切 小開(川土手にある)
 小開の水門のそば飯江川の岸に海神さんの石の祠があった。川の改修工事の際、元の石で組み立て直し祀られている。竜宮さんは雨を意のままにし水族を支配すると言う海神すなわち竜宮神である( )旧藩時代に海面を埋め立て、一つの新開を造ると必ず海神を祀った。川や海で魚をとったり海苔(うみのり)をとりに行く人達はこの神にお神酒を捧げたり魚をお供えしてお祭りをしている。祭礼は9月13日である( )
 J金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)  小開・船津
 本社は香川の金刀比羅宮で海上の守護神や五穀豊穣を祈る、仏教の伝来に伴って我が国のも伝来した神様である。海の船着場の船津に船の安全を祈願して建立された( )現在は公道脇に遷宮して、小開の田を作っている人達で9月16日に祭りをされている( )小開も海を干拓して水田に変わっているので家内安全と五穀豊穣を祈る神として崇拝している( )祭神は崇徳(すいとく)天皇である。天保7年建立・明治42年7月再建・昭和25年2月新築・平成4年10月新築の木札がある( )
               
 実求寺        河内開
 法名誠誉実求随応明和(めいわ)4年(1765)に亡くなっている。実求は浄土宗庵として開村(ひらきむら)に開祖した。下庄上町の引接寺(いんじょうじ)の末寺であったが( )明治初年、真宗西本願寺に転宗する。後年東本願寺に転派する。その後都合により数年間空白ありて( )平河唯信法師となり、平川普行が継ぎ現在平川政義師と受けつがれている。実求寺の寺号は( )開祖した住職の法名よりとられている。猶、繹尊涅槃図掛軸、寺宝として保存されている( )   
 
.引用文献・故鶴記一著「地名の話」・瀬高町誌・瀬高町の文化財(南部編)・田尻文書・鷹尾文書・大和町史・平家物語・太平記 
玉垂神社、神職の河野一昭さまに資料提供・取材協力いただきました。
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