地図@玉垂神社(鳥居と大楠) 堀切 本社の由来は【総合編】へ |
玉垂神社は久留米市御井町の高良大社(昔は高良玉垂神社)の分社で高良玉垂命を主神として春日大神、住吉大神を祀る。平安時代の延久2年(1070)、後三条天皇の御代に建立されたもので、屋根は「よしぶき」であった。祭日は、古来旧9月9日(現在新暦9月9日)に行われていた。お祭りは七組に分かれ座元が9月1日におみくじがあって決まる。神社は神田をもち、稲作・麦作の収穫でお祭りの費用にして行われる。酒、米、柿、栗、魚、野菜などを座元から吊りふねに乗せて2人で荷なって神前に供えていた。参道入口の大鳥居は堀切に養子に来られた人達で奉納されたものである。境内入口にの鳥居は古代肥前様式という珍しい形式で造立年代は室町・安土桃山期(1338〜1600)の間と推定される。この鳥居は、柱や貫などの各部分が3つの石で構成され、高さは約2m半で柱は根元がふくらみ、次第に細くなり、笠木は反りが緩く、ほぼ直線的になっている。境内の大楠は高さ25m枝張35m胸高周囲8mという巨木です。神社建立以前からあったと言い伝えもあるそうです。二つ共、市文化財指定である。社殿のまわりの彫刻は堀切の名工(名不詳)により彫られたとのこと。再建は嘉永2年(1849)8月にされ、昭和4年(1929)に神殿を銅葺に拝殿を瓦葺に改修され、さらに昭和54年銅葺に改める。昭和24年9月、農村電化記念碑が建てられている。昭和54年神殿の大太鼓を下庄の野田(河野)巌さん(堀切出身)が奉納された。
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境内には荒仁宮・神馬石像のほか、田んぼや小路に鎮座していた太神さん・六体地蔵・若宮さん・天満宮・天御前社・社日さん・観音様・大日如来堂が田んぼや道端から境内に移され祀られてる。 |

玉垂神社本殿
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樹齢1千年と言われる大樟の木 |
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肥前式鳥居 |
A若宮神社 野集落。現在は玉垂神社境内に遷宮 |
百科辞典などの文献のによると若宮さんの神格は二つの解説がある。一つは大きな神格を有する神の御子神(みつかみ)が新しく土地を拡めた所(干拓地)に合霊を勧請して新宮を創るのを若宮と呼ぶ。二つは特に平安に流行した呪術で、災害異変が起こると神の御霊、怨霊のたたりとおそれ巫女の祈祷を行ない社を建てて悪霊を祀るこの時建てた社を若宮という。野小路にあった若宮は前者でなかろうかと思われる。玉垂神社境内に移され御神体の前には木の鳥居が作ってある。祭神は罔象女神の神で水を司る神、雨乞いの神である。祭礼は10月3日に行われる。
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B太神社 (通称・おおがみさん) 竹葉、川田。現在は玉垂神社境内 |
太神さんは以前は南の飯江川の近く川田にあった。古代、川田の地は海で低い所が川になり高くなった所は州となり船着場があったという。大和政権時代西暦660年頃天智天皇の西征の時、筑後の江の崎(大和町)から船で八才宮にお参りになり川田の州に船をとどめ仮の御室で航海安全を感謝され東に向って天照太神を拝み小祠をお建てになったという。後にお堂になり13人の関係者がお祭りをしていたが農地整備の為、玉垂神社境内に移されている。本尊は木像で弓を持たれた立像である。祭神は大日霎尊で祭礼は9月17日に行われている。 |
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疱瘡の神さん 玉垂神社境内・現仁神社拝殿前 |
昔は疱瘡が流行して感染すると大熱が出て顔にむくみが出て治ってもジャンコ肌になっていた。この頃は疱瘡の神様は大繁盛で大事に尊敬され人助けの神であった。御神体は大日如来で昔は神仏混同の時代であった由縁である。昔は黒崎山の大日如来に疱瘡が流行したらお参りしていたのも、うなずける。大正11年(1922)の山門郡に天然痘大流行したときは大勢の参拝者で繁盛したそうである。如来とは「光明があまねく一切の所を照らす。」密教の根本教主で宇宙の実相を霊化した仏格である。予防接種で疱瘡の病も無くなり信心するひとが人が少なく、薄らいだが大事に見直し残してゆきたいものである。 |
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C天御前神社 船津(須崎との境)。現在は玉垂神社境内 |
創建の年代は不明。「昔、堀切村お開き御築立築き止め成就されたので、上筑後天ノ御前海辺に勧請を初められた。これで御開地が成就した。御開地の内3町3反が御供田となり庄屋代々御帖面に毎年さし上げている」と記録がある。堀切村の干拓工事が完成して天ノ御前の分霊を祀りお宮に土地を持たせ庄屋が代々出来た作物を祭りに供えたとのことである。昔は今の小開の水門の所から中堤防ができ潟より下畑に通ずる「潟ん土居」と言って内側を川の内と言っていた。はぜの木土居で馬を運動の為に走らせていた。船津樋管(といかん)のそばに天御前神社があった。昭和年代に堤防拡張の為玉垂神社境内に移転された。祭神は旧暦の9月11日で天災を防ぎ新開地を護る天水分神の鎮守の神として祀った。 |
天満宮 玉垂神社境内 |
瀬高町誌には産土神、東西17間南北10間、面積355坪、神田1反5畝とある。しかし玉垂神社境内の小堂として鎮座している。江戸期では社殿を構えていたであろうか。菅原道真を祀る本尊は大宰府天満宮で昭和初期頃までは歩いて参ったのは水田天満宮であった。天神信仰が堀切でも盛んに行われたお宮である。堀切の天満宮も受験シーズンには学生の合格祈願を4月の入学式にはランドセルを背負った子供と共に両親が参りられてきた。 |

天御前神社と天満宮(右) |
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六地蔵菩薩 玉垂神社境内 |
地蔵菩薩は梵名はクシチガルブハにて佛の附属を受けて弥勒仏の出世に至るまで五濁悪世において六道の衆生を教益する能化の尊なりと伝えれている。由来を解り易くいうと、六地蔵とは六道(前世の6つの困難・苦痛)に現れて苦しみを救うと言われている。人間の様々な悩み苦しみをお参りすることで地蔵様が身代わりになり災難からのがれることができるとの教えである。
毎年お盆には小学生が地蔵さんの供養をする。地蔵さんに新しい胸掛け、けさをかけ、祭棚を作り、すすきを切って棚の周りに囲いをして準備する。村の家々から寄附を集めお供えや接待の地蔵豆を用意する。低学年は村内を回りお参りを促しす。15日は精霊が西方浄土に、お帰りになるから参拝人も夕方から増え子供達は御賽銭が増えるのを楽しみに客を呼ぶ。十五夜の月が川の水に浮かび精霊送りの人達が帰る9時頃には終り子供達は分けあった賽銭を持ち、名残り惜しげに帰路につく。遠い昔から受け継がれきた子供達のまつりである。
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観世音菩薩 玉垂神社境内 |
松原組の人達が十七夜のお観音さま祭り、お彼岸の巡礼さんの、お接待やあるいはお説教を行っている。観世音菩薩は大慈大悲をもって人々を救済することを本願とする菩薩である。迷える人を救う為に色々姿を変える阿弥陀仏の脇士となる。供養をすることによって我々は救われるのである。 |
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D荒仁宮 |
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荒仁宮の祭神河野四郎越智通信は伊予の国(愛媛県)の名族の出で、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた鎌倉時代の名高い武将です。元暦2年(1185)4月25日壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦の時、勇敢な水軍をひきいて源義経に加わり大活躍をしました。鎌倉幕府をひらいた源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝のそばで仕え、鎌倉幕府の御家人となり伊予国内の一部の御家人を統括する強い権限を認められていた。 |
しかし頼朝の死後、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取りもどそうして戦いを起こした「承久の乱」のとき、上皇方について、ことごとく敗北し幕府軍に追われる身となる。( 嫡子通久は幕府方に味方して細々と家名を伝え元寇のときには勇将・通有が活躍してその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げている。)通信は家臣25士と嫡子の三郎通秀と共に九州に下り筑後国山門郡堀切庄に逃延び、蟄居し、不遇の内に病を得て死亡した。その後、家運も衰え路傍の墓となった。ある時墓の傍を武士が馬で通りがかり家来に「この墓は誰のものであろうか。生前は身分の高い人であったろうに今は死んで馬蹄にかかる」と笑いながら過ぎた時、この墓がたちまち鳴動して殺気が起こり人馬悶絶し。とも息絶えた。それより昼夜もうもうとして殺気が絶えずその地に一宇を建てその霊を祭り四郎大明神と号し、後に荒仁社と改める。嫡子の通秀は河原内村(現・山川町河原内九折)に移り住み、通秀より25代のちの寛文8年(1668)、河野磯之助通種は河原内村の長照寺と言う庵寺に住居してたところ立花鑑虎公が長照寺を覚成寺と改め寺を建立して下賜されたとある。通秀の次男の河野兵衛介通頼は堀切に帰居する。以来後世の河野通清は立花藩の儒官となし、のちに肥後国玉名に居住し肥後第1世となり、12世の河野司さんは現在大牟田に住まれ代々医者の家であった。例祭には出席され、毎年10月20日におごつくさん(もち米4升白米4升)をお供えし祭を行っている。祭事後に村全戸に配られ、災難・魔よけに頂く習慣がある。玉垂神社の神職も河野通信の末裔であり境内西側に荒仁宮の社殿を設けて祀られている。社記には後醍醐天皇が起こした元弘の乱(元弘元〜3年(1331〜33))に活躍した伊予国の得能弥三郎の嫡子河野伊予守が筑紫に下向し堀切村に築城したとある。その子孫の河野出雲守道弘が大永年間(1521〜)に祖神を祭祀したという。(注・古い時代の為確たる古文書はなく宮の縁起や伝承により編集・研究中ですので錯誤を承知でお読みください。)
道一つ隔てた南西には南筑後において有力国人として活躍した三池氏の末裔で、立花藩臣となった第35代、三池又右衛門親正から江戸期の文化7年(1810)までの三池家の墓があった。南の竹やぶの中には、刀匠三池典太光世の弟子の墓と言い伝えられる石碑10基分位がある。 |

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荒仁社の鳥居 |
荒仁社の塚 |
塚の碑 |
玉垂神社境内の荒仁宮 |
E八歳宮 (初年宮) 堀切字八歳島 |
長島の各宮と同時代この地、八歳島は大陸からの渡来人の船着き場でここに滞留、生活を始めた地に縄を張り榊を立て神の降臨を願った自然崇拝の宮であったろうとの伝承がある。西暦944年頃の天慶神名帳に「初年宮」とあるのは八歳宮のこどである。1716年、社殿が建築されたの記録有り。矢部川の合流点から飯江川を200m上流の堤防傍、河野栄宅に祀られ、氏子七戸で9月12日(本来は9月3日)に祭典が行われ地元では八歳島を「はっせじま」八歳宮を「はつせさん」と呼んでいる。創建は白雉5年(654)の飛鳥時代である。祭神は豊玉姫命「綿津見国の姫で神武天皇の祖母」である。寛永15年(1638)矢部川が堀りかえられた。当時の和歌に次のように詠まれている。「すみの江の岸による波千代かけて神こそまもれ言の葉のみち」当時は三反五畝(役1千坪)の神田があったそうだが飯江川改修工事があり移転され現在の祠となっている。本尊は鷹尾の楢尾宅にある。綿津見は海つ待つ、または海住の意である。上古の海岸部族であり海の神様である。当時矢部川は泰仙寺と浜田の間を流れ「島」「中島」間を曲りくねって流れていた。往時矢部川を往来する船は必ず八歳神社に参り海上の安全を祈願したと伝えられている。寛永15年(1638)矢部川が掘りかえられた。当時の和歌に「すみの江の岸による波千代かけて 神こそまもれ言の葉のみち」とある。当時は3反5畝の神田があったそうであるが飯江川改修工事があり現在河野栄氏の宅地の東に移転している。毎年9月12日に祭典を行っている。本尊は現在大和町鷹尾の楢尾氏宅に祀られ左右にはカッパと社日さん(穀物の神)が安置されている。詳しくは楢尾氏宅に記録残る。
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F宗高神社 堀切竹葉 |
祭神は柳川藩3代藩主立花鑑虎の重臣で、鳥見役(鷹狩場の管理や鷹狩の準備役)であった竹迫種重である。勤め後半病身になり、4丁6反を拝領して堀切村に居住す。現在竹葉という字名がこれである。剃髪して浄哲と号す。宝永3年(1706)11月22日に92才で他界している。その墓松原の地にあり、宗高神社に祀られ松原の氏子祭りを続けており竹迫家より祭料が送られている。現在土地名が字竹葉として現存している。昭和56年に275年祭に当たり竹迫家の子孫で熊本市の内科医をされている竹迫三也夫妻により社が銅葺に改築され毎月命日に参拝される。
堀切公民館南側にある。境内に樹齢500年以上のクスドイゲの神木が茂り地元で文化財級と話題になっている。専門家は九州に植えてあるだけで本数も少なく珍しい木だと解った。幹の周りは1m位で針のとげが出ており樹皮はうろくの様にかさなって、いかめしい形をしている。社前に天保年間に建てられた地蔵様があり、竹迫家の人が不治の病にかかり毎月21日にお参りしていたら夢枕に神木の葉を煎じて飲ませよとお告げがあり飲ませて病気が治ったと言い伝えがある。最近では願事が叶う噂で、受験合格の祈願の神さまとしてお参りする人が多くなりクスドイゲの葉を合格のお守りに持ち帰る受験生もいる。祭礼は8月28日である。 |
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G木玉宮(キダマグさん) 堀切 野 |
祭神は句句迺馳神(くくぬちのかみ)(木を司る神でククは木々の意、ノは助詞、チは霊威、精の意味)で堀切の野地区に祀ってある。木玉さまと呼んでいる。木玉は子玉である。おなかが大きい神で柔和な神である。子授け、安産の神様として参拝者多く、子供のできない人がお願いまいりして子供が授かったと言って、お礼まいりにみえるとの事。この野地区には1年中誰かが妊娠して御腹の大きい女性が詣るそうです。お堂の天井横に木玉宮と書いてあった。昭和63年度に小路の人達が同位置にお堂を新築された。小路一同相集まり改築祝いをして神霊の供養をし子供達の安全を祈願された。祭礼は9月14日である。
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H山森神社(通称・やんぼっさん) 堀切 裏小路(堀切集落の西部にある) |
英彦山権現の修験場本山の山伏さんが堀切の裏小路を宿として一生を終ったので、お堂を建てて霊を祀ったもので、堀切の村人の温情の厚さによる建立である。山伏はごまをたき呪文を唱え祈祷を行ない、山中で難行苦行をして神験を修得して地方に下りほら貝を吹き、家々の厄払いをして災難がないように家内安全を祈祷して廻る。その為に堀切に宿を持ち、頭に兜巾をいただき篠懸及び結び袈裟を着け笈を背負い金剛杖をつき、ほら貝を鳴らして周辺の農家を訪れながら祈祷していたであろう。現在はその姿を見ることができなくなった。山法師さんは裏小路の護り神である。祭礼は11月25日で大正時代は浪花節の興行を行ない霊の供養をしていた。また裏小路の角には、お地蔵さんが鎮座している。
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I龍宮神 堀切 小開(川土手にある) |
小開の水門のそば飯江川の岸に海神さんの石の祠があった。川の改修工事の際、元の石で組み立て直し祀られている。竜宮さんは雨を意のままにし水族を支配すると言う海神すなわち竜宮神である。旧藩時代に海面を埋め立て、一つの新開を造ると必ず海神を祀った。川や海で魚をとったり海苔をとりに行く人達はこの神にお神酒を捧げたり魚をお供えしてお祭りをしている。祭礼は9月13日である。 |
J金毘羅神社 小開・船津 |
本社は香川の金刀比羅宮で海上の守護神や五穀豊穣を祈る、仏教の伝来に伴って我が国のも伝来した神様である。海の船着場の船津に船の安全を祈願して建立された。現在は公道脇に遷宮して、小開の田を作っている人達で9月16日に祭りをされている。小開も海を干拓して水田に変わっているので家内安全と五穀豊穣を祈る神として崇拝している。祭神は崇徳天皇である。天保7年建立・明治42年7月再建・昭和25年2月新築・平成4年10月新築の木札がある。
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