庄福BICサイト                H26・4・29制作   H26・9・1更新        【禁無断転載】   福岡県柳川市三橋町今古賀
 今古賀は西鉄柳川駅前の南側約800mの国道208号線沿いが今古賀で(一部藤吉)、行政区は今古賀西と今古賀東に分れる(.)旧集落の中心は今古賀南の信号を東に路地を入った場所で昔と変わらぬ田舎の雰囲気が残っている(.)今古賀村の起源は次第に有明海の潮位下がり平安時代には土砂が堆積しさらに湿地帯の干拓が進み集落が形成されたと思われる(.)村の周りの小字名に中無田・鬼クリ・嶋田・長フケ・柳原は、ぬかるんだ湿地を意し、開田・井桶田・十郎町・ロノ坪・五反田は干拓地の地名です(.)集落の周りは塩塚川と無数の堀で囲まれ、迷路のような道は天然の要塞で、戦国時代に柳川城の支城・今古賀城(砦)がありました(.)そのほか三橋町地域には蒲船津城・白鳥城・垂見城の蒲池氏の柳川城の支城がありました。柳川城主・蒲地鑑盛(あきもり)が創建した平浄庵(へいじょうあん)廃庵・現在の今古賀コミュテイセンター敷地)には室町中期・永正15年(1518)天文8年(1539)の陰刻された自然石梵字板碑(ぼんじいたび)が2基①残されている慶長12年(1607)、当時の柳川藩主の田中吉政が本土居(干拓堤防)完成した時、この本土居築堤に関連してさらに干拓されたのが今古賀集落とも言われる(.)寛文(1661~1672)の頃、今古賀は垂見組(たるみくみ)に属し、後に宮永組に移る。しだいに集落も整備され、二ッ川夕手樋管から取水し、水田を(うるお)し、集落の用排水を伴って晴天橋の上流二か所に排水するようになった(.)藩政時代は村の西部を三池街道が通り、現在の国道208号今古賀南信号の場所には、柳川藩12番所の一つ「今古賀番所」が置かれていました(.)「新郷土第八集」には嘉永(かえい)3年(1850)建立の常夜灯の道しるべ②写真は両徳益村から建てたものとあり、集落口を守る弘化3年(1846)建立の庚申尊天(こうしんそんてん)写真は今古賀村から建てる、とある。推測であるが昭和28年(1953)、国道208号が三池街道沿いに建設された際に古い三池街道があった内村宅(正寿寺址?)に移されたではないだろうか。新郷土では今古賀の村中の寺に移された(写真有)、現在は光野宅の玄関前に移設して残されている()道しるべの正面には「常夜灯」と刻まれ下部には「左 瀬高通り、右三池通り」と刻まれています(.)今古賀番所の近くには殿様の水として知られた良質の水源があり、後に柳川水源地の水となり(.)柳川町内に水売りされる水ともなった。街道の南方面には塩塚川の河港(現・晴天大橋下)があった(.)
 
 ①平浄庵・旧・今古賀公民館敷地頃の板碑・2基
 
②道しるべ
 
寺にあった頃の道しるべ
笠の積立位置が違っていた

寺にあった頃の新郷土第八集の写真)
 
③庚申尊天
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 下図は明治10年頃の今古賀村の測量地図である。柳川市新町の瀬高門から左折した、三池街道が外堀に沿って(一部旧道が残っている)今古賀を通り晴天橋に通っている(.)この瀬高門前の敵の侵入を妨げた枡形に曲った旧道は正面から斜め直線に変更した(鉛筆書きで予定線が書き込まれている)道とされた(.)昭和28年(1953)、柳川駅前方面から国道208号が接続、(今古賀信号)旧街道の東に沿って国道が新設された(.)昭和12年(1937)、九州鉄道(現・西鉄、天神ー大牟田線)の大善寺 - 柳河(現・西鉄柳川)間が開通し三橋町下百町に柳河駅(西鉄)が開業た(.)さらに今古賀の東の田圃に線路が敷設され翌年には中島駅が開業した。後に今古賀村の東に車庫・整備工場が建設されている(.)小字十郎町や五反田は柳川駅前の南側にあたり、急激な市街化が進みました(.)
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    今古賀城
 城は、戦国時代に蒲池氏の柳川城の支城として建てられたと言う。天正9年(1581)蒲池鎮並(かまちしげなみ)が佐嘉城下で龍造寺隆信により謀殺され、龍造寺氏により柳川城を落とされた時に、今古賀城も落城した。天正15年(1587)立花宗茂が柳川城に入ると家臣立花了均が城代として入りました(.)その後、宗茂が関ヶ原で西軍につき敗れた為に除封され、藩主・田中吉政の時代元和3年(1615)の一国一城で今古賀城廃城となった。現在では(.)城の場所すら謎であり、また塚も数か所あり、無数の堀で囲まれた今古賀集落の中心部と想像するが、今後の発掘調査を期待したい(,)
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    平浄庵・釈迦堂  廃庵  今古賀コミュテイセンター敷地内
 平浄庵は、浄土宗善導派で、かっては柳川の片原町の瑞松院の末寺であったと思われる(.)今は無住で今古賀コミュテイセンター敷地となっている。旧柳河藩志には柳川城主・ 蒲地武蔵守盛入道の創建とあり、柳河名勝図絵には、蒲地因幡守鑑憲の墓をつくり、臣何某主君菩提のためにこの庵をつくったと書かれている。
 釈迦堂(しゃかどう)蒲地因幡守鑑憲(あきのり)廟所(びょうしょ)であったという。柳河藩寺社帳に釈迦堂・般若林(はんにゃりん)の寺号があるが具体的には良く解っていない。蒲地入道鑑盛が高畑の別荘に居た時に創建された。天正6年(1578)に日向(宮崎県)耳川(みみかわ)の合戦で鑑盛が戦死した後、当庵に葬られた。しかし寺は衰え天正年間に僧紅誉によって中興され柳川・片原町の瑞松院の末庵となる(.)紅誉は下妻郡古嶋村(現・筑後市)の浄念寺の住職で、瑞松院の開山をした人でもある。境内には2つの自然石板碑があり、左側の高さ70cmの阿弥陀種字碑には「時永正(えいしょう)十五年(1518)大乗妙典一千部(梵字キリーク)三月吉日」と銘文がきざまれている。一方、150cmの乙鶴姫(おつつるひめ)鑑憲の妻)予修碑(生存中に自分の供養のために建てたもの)には「天文八年(1539)己亥十一月二十四日誌施」と銘文が刻まれている(.)平浄庵(公民館)境内に建ち並ぶ墓は宮永組大庄屋で下川茂左ェ門一家の墓である(.)集落には下川姓の家が20軒余あり宮永組大庄屋の末裔であろうか(.)

新築された今古賀コミュテイセンター
(旧公民館敷地)
 
阿弥陀種字碑
 
乙鶴姫鑑憲の妻)の予修碑
    三島神社
  三島神社の祭神は日本神話に登場する大山衹命(おおやまずみのみこと)で山森農産の守護神、また事代主神(ことしろぬしのかみ)は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけて来た(.)本殿には海の神・航海の神である住吉神と神道の神である春日神を合祀してある。今古賀集落の氏神であるが、往時は日吉神社が氏神であったという(.)三島神社が氏神となったのは、古代勢力の衰退、武家勢力の進出(.)特に戦国武将の蒲地氏の力が今古賀に伸びたのではないかと思われる。神仏と言えども時の政治権力の盛衰(せいすい)と共にあることは事実である。明治10年頃の測量地図を見ると数多くのお宮さん(紫彩色)があるが宮の名は記載されてないが日吉神社や熊野大明神などであろう(.)三島神社の境内も現在とは違って西に広がっている。付近には天満神社も四社あり、藩政時代に天満信仰が盛んになった事が解る(.)今古賀の西方にある天満宮の裏には、船の帆柱が埋もれていると言う伝説がある。他に熊野大明神がある(.)
   
 三島神社鳥居    三島神社
 
竜神宮
 
昭和27年頃の風流の赤鬼、青鬼、小面
 
    竜神宮の今古賀風流
  竜神宮は三島神社社殿の左奥の道路側に鎮座し、70cm余の石積み台座に古風な石碑で祀られている。由来は梅雨期になると、有明海の逆流潮による川の氾濫で凶作となることもあった為、農民が村守護神として綿積命(わたつみのみこと)を祀る龍神宮を設けて、毎年穏やかな天候を祈願したと伝えられている。今古賀の風流は三島神社境内にある竜神宮に奉納される祭りで(.)室町時代に始まった今古賀風流は江戸時代初期に現在の型になったといわれる。別名「どんきゃんきゃん」と言う名で親しまれています。悪疫(あくえき)退散、五穀豊穣、家内安全の祈願、感謝を表すお祭りである(.)祭礼当日は、座元から「道ばやし」で竜神まで行列し、先導の天狗(猿田彦神)、赤鬼、青鬼、小(おもて)33人、(かね)打ち、(うたい)方など総勢40人余りが神前で舞った後(.)太鼓:長胴太鼓の上に羽織をまとった御神体(男神)を乗せる。鉦を縄でぶら下げ、槌型のバチで叩きながら村中の家々を回る。頭にしゃ熊、(はかま)、手甲、脚絆(きゃはん)姿の太鼓打ち3 人1組が、御神体の着座する太鼓を、(うたい)に合わせて打ち舞う。現在は毎年10月第2日曜日に行われており、今古賀風流保存会によって、今日まで継承されている(.)昭和51年4月、福岡県無形民俗文化財に指定された(.)
 
    天満宮・観音堂
 
天満宮
    天満宮は菅原道真を祀る社で学問の神として信仰された。平浄庵の南側の藪観音や加賀小路のホヤケを直す観音と知られているホヤケ観音は(.)二か所の地蔵堂と共に集落の人々と深いつながりをもっている(.)
     正寿寺   廃寺
   正寿寺は今古賀集落の西南にあって、昔の三池街道に沿い、天台宗系の寺院と御祈祷寺といわれる(.)寺領内には、この寺から南進する古い時代の三池街道があったという(.)付近の角地の民家には地蔵堂が祀られており、三池街道の道しるべと庚申尊天が移設されている(.)
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  参考資料 渡辺村男著「旧柳河藩誌」  明治12~26年頃の「土木取調」の測量地図  三橋町教育委員会「故郷を知る」 新郷土第八集(三橋町)  柳川市教育委員会生涯学習課から写真提供
   
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