庄福BICサイト          H26・3・29 製作  H26・4・22更新  H26・9・8更新     【禁無断転載】                   福岡県柳川市沖端
古地図に見る沖端村(おきのはたむら)の歴史 
 

 
南町の白秋通り
 

沖端川

 町名は沖の端あるいは沖端(おきのはた)と書かれ、沖端川の河口にあって有明海に近く、北の旧筑紫村は(あし)の広がる鬼童原(おんどうばら)と呼ばれた湿地の開墾地です。中心部の旧稲荷町や旧沖端町は柳川城の西裏門にあたる木戸門前から連なる商家・船大工・民家の多い漁村であった(.)旧矢留村は壇ノ浦で敗れた平家の落武者が漁師に変じ漁業を始めたという「六騎(ろっきゅ)伝説」が伝わるほど漁業者が早くから住みつき、昔はささやかな漁村であった(.)
沖端村明治22年(1889)、筑紫村(字元町を除く)・稲荷町・沖端町・矢留町・矢留村が合併して成立した村で(.)稲荷町・沖端町・矢留町の3町と筑紫・矢留の大字を編成しました。下の地図は合併に先立て明治20年頃に測量製作されたものです(.)昭和26年(1951)に城内・西宮永・東宮永・沖端・両開村と柳川町が合併し柳川町となる。昭和27年には柳川市の一部となった(.)
   
 井上勇氏著「柳川市内町名由来・郷土史」の記事には「旧沖端川は矢ケ城橋の上手から西流して枝光村の方へ流れていた。枝光の柳川井樋並石(なまし)で約120度曲って汐川の江篭となり沖端川に流入する。船津の沖端川も条里制堀に当たるが(.)秀吉の九州入り前の天正9年~12年頃鍋島直茂、在城時の柳川城絵図によれば(.)妙院江篭・信玄土居は条理制横堀の位置にあり汐入りであった。妙院隅で沖端川に直角の横土居で仕切って川北村に繋げ、埋樋(うめどゆ)を設けて上手に淡水を保持した。のちに仕切りを高畑村の(今の脇参道)の方に移したので磯鳥並石(なめし)堰まで汐入りとなった」とある(.) しかし、鍋島家所蔵の柳川城絵図は西側の外堀が描かれていないので、鍋島在城とも思われるが、町並みが不正確で疑問点が多く、江戸期の佐賀藩の作成との見解もある(.)
 郷土史家・堤伝氏による郷土柳川・観光編には「柳川城の外廓(がいかく)線に当たる、鋤先土居(国道橋の西岸にあって南北に走る土居)が出来る以前には、柳川は中町祇園社から上は今の隅町(明王院)下は鍛冶屋町方面に流れ、柳川病院西から南下し、現沖端川の東を流れていたようである(.)田町(柳河町西北部)から正段にかけての
沖端川の堀替えは田中吉政入国の慶長6年(1601)以後のことで、正段の東を流れる柳川の本流を田町で堰き止め、正段の西に堀替えたのである(.)この旧河道は柳川病院西方から城内西部に見ることが出来る。柳川の河口は、長善寺の西と東に出ていたであろう。」と記載されている(.)
   

堤伝著・柳川旧河川道より
 
 
                                    沖端村が誕生した明治20年半ば頃の測量地図 (上部が東方向)     
   筑紫町(鬼童村・端地村(はたじむら)・正段島村)
   沖端川河口の三角州に生じた正段島の地域は元、東浜武村であったが、慶長6年(1601)に筑後33万石の藩主となった田中吉政は沖ノ端川が柳川城にあまりに接近していて要害(ようがい)を欠くとして西方に城の西北の郭を広げ、西側の条理制堀に従って沖端川をほぼ直角に堀替えたので(.)東浜武村は消滅して西浜武村(現・昭代)だけになった。かくて内城の西郭北西部に低地下した元の川である古川に数軒の家ある鬼童原を形成した(.) 古川は現在の筑後中部魚市場付近を流れていました(.)正段島村は往時は三角州であったが、吉政公の沖端川の掘り替えにより陸続きとなっている。昔の正段の土居は松、楠、栴檀(せんだん)(あし)、すすき、竹やぶ等で茂っていて、夜はタヌキ、キツネが出来て、堤防には多くのガネ(蟹)が動きまわり、正段はガネの穴で有名だったという(.)明治8年(1875)に鬼童村・端地村(はたじむら)・正段島村が合併して筑紫村となる。明治22年には稲荷町・沖端町・矢留町・鬼童町・筑紫町が合併して沖端村になっています(.)昭和25年(1950)に辻町交差点から京町通りが西へ貫通した県道702号が新設され筑紫橋を渡り佐賀方面にも便利となる(.)沿線には若宮神社の東隣に昭和32年(1957)に県立柳川病院開院福岡県立病院が創設、周辺も住宅が増え続けた(.)昭和50年(1975)には稲荷町の正段前市場が魚臭くて観光の妨げになり、小字散田と東荒野の田んぼに筑後中部魚市場が開場した(.)
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        【正段島水軍基地】
 正段島村は柳川藩の要塞(ようさい)として水軍基地があり藩兵の船方たちが住んでいました。延宝8年(1680)の御船方は「南方」と「北方」の2組に分かれ合計で241名の船乗りで構成されていた。正段の水軍には2隻の御座船(おんざぶね)があり、多くの兵船があったという。古老の話しによると、北方の総指揮官は吉村氏、南方の総指揮官は風斗(ふとう)氏であったという。その下にたくさんの御船方がいたそうである。正段の船方は藩兵(海軍)は海からの侵攻に対する防衛に当った。船出の時には(.)船出のおはやしというか、楽隊というか、調子は、トコ、ドンデン、ドン、ドンデン、ドン、ツンドーン、と(はや)すと、お船方はエイホー、エイホーと()をこいだ。両岸の土居の上の、お先ばれ(お先き払い)は「下にー、下にー」と最初は威勢よく走っているが、船足が速いので遅くなっては一大事と、後には息が切れて、「ホーシ、ホーシ」と(あえ)ぎながら走ったということである。船方には十数人の唄方がいて、常にお船唄を練習していた。大阪より伝わったお船唄は33曲あって藩主が御座船で江戸へ上り下りされる時や、(かり)その他で乗船される時に、お船唄方がが唄っていました。8代藩主鑑道公の頃はお花畠の下に舟を浮かべて練習させられたと言う(.)また船方は水練といって水泳の稽古、水馬(すいば)(水中馬術)といって、馬に乗りながら沖端川を下る稽古が孫六渡から宇治番所までの620mが訓練水域で行っていた(.)ペリーが浦賀に来た嘉永6年(1853)、江戸幕府は大船製造の禁を解いた。柳河藩は6艘の大船を持ち、また西洋船運用のための教育・訓練技術を必要とした(.)安政5年(1858)に佐賀藩は柳川藩の大野島(大川市)の筑後川支流早津江川(はやつえがわ)河口対岸に三重津海軍所を設け海軍伝習所と西洋式蒸気船・帆船等の修理・製造根拠地とした(.)柳川藩は蒸気艦船「千別丸」を購入して、曾我祐準を船長に任命し慶応4年(1868)戊辰戦争(ぼしんせんそう)で軍艦攝津(総督府)・丁卯(長州)・輸送船千別丸(柳川)・大鵬丸(福岡)・錫懐丸(しゃっかいまる)(加賀)・萬年丸(広島)等6隻)で艦船隊を編成した越後戦線に参加して佐渡小木港で漁船を徴発。蒸気船にロープで縛り付けて曳航(.)翌日、太夫浜の沖合で輸送船と浜辺を往復して兵士・物資を揚陸した。また報知船として上陸展開の速報連絡を担当した(.)

    
     【子爵・曾我祐準(すけのり)
  天保14年( 1843) 、柳川藩士祐興(すけおき) (七郎左衛門)の次男として、坂本小路( 現柳川市坂本町) に生まれた。元治2年(1865) 、洋式兵学修業を志して長崎へ赴き(.)砲術を学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。、慶応4年戊 辰(ぼっしん)戦争のさなか柳川藩も蒸気船千別丸(ちわきまる)を購入すると、祐準は船長を命じられた。その年、新政府の海軍御用掛(ごようかかり)となって軍人への道を歩み始め、海軍参謀として箱館戦争に出征し功績を挙げる。同16年陸軍中将に累進(.)同17年に子爵が授けられた。明治19年に軍職を離れるまで、近代軍制の創立にかかわりました。その後、明宮(はるのみや)( のちの大正天皇) の御教養主任となり、帝室の典範(てんぱん)儀式に関して諮問を受ける宮中顧問官を経て、明治31年から同39年まで日本鉄道会社社長を務めた()また明治24年から大正4年(1915) まで貴族院議員としても活躍しました(.) 昭和10年(1935)、熱海の小嵐亭で死去。享年93才(.)柳川市民会館の場所に「曾我子爵誕生之地」という石碑が建てられている(.)平成23年(2011)にひ孫にあたる熱海市の川原敏雄夫妻により遺品が柳川市に寄贈されて企画展が開催された()
 宗茂公ゆかりの西琳寺・白指山    真宗大谷派   筑紫町117(糀屋町の西隣)
 僧、順正は尾張春日部郡(現・愛知県)の生まれで、先祖からの武士であり長刀(なぎなた)の術の達人で故あって僧となる。尾張の西琳寺に住い、24ヶ所の巡礼の旅の途中に長雨の為に奥州棚倉(たなくら)(現・福島県東白川郡棚倉町)に滞留する。ある日、立花宗茂公を訪ね(.)意気投合してする。宗茂公は棚倉に寺を移すことを進め、順正は承諾する。宗茂公は白指山の山号を書き与え証拠とする(.)順正は尾張に帰り転寺の準備中に、宗茂公は柳川に再封された為に柳川に来ることになる(.)外小路に1寺を創建して順正を開山とする(.)その後、片原町に移築する。元禄年間に英山公が御花畠に隠居家を新築されたが、川向うの西琳寺から朝夕読経(どきょう)の声や鐘の音が聞こえるので、今の地に移る(.)西琳寺17代智猛は槍創馬術が得意で家中の武士と打交り勝負を競う。横山覚範筒井浄明と言う威勢(いせい)のある者がいたという。明和5年より蔵米10俵ずつ永代拝領する。宝物には島原の陣に用いた陣太鼓などがある(.) 
     若宮神社    (柳川病院の西隣り)
  田町・鬼童の産神。祭神は水象女命。祭礼は9月15日であった。以前の石鳥居は田町の氏子が寄付したものであったが、明治41年に出征軍人の発起にて新たに総氏子中により寄付されている.。神社の周りは田んぼと堀割りであったが(.)昭和初期になると参道入口前には辻町から突きぬけた国道702号が新設され筑紫橋を渡り佐賀方面に伸びて東隣が柳川病院の敷地となっている(.)
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    旧戸島邸住宅(鬼童町49
 戸島家住宅は寛政年間(1789~1801)に建築されたと伝えられているが、庭園に残る石碑などから文政11年(1828)、柳川藩中老職吉田かねもとが、隠居後の住宅として庭園と併せ建てた数奇屋風の意匠をもった茅葺入母屋(かやぶきいりもら)造りである。文人趣味の主屋に掘割の水を活用した庭園を配するという、水郷柳川の侍屋敷の特徴を備えている(.)後に柳川藩主立花家に献上され、明治時代に戸島氏の所有となり、平成13年にこの建物は柳川市に寄付された(.)座敷棟と仏間棟、武家住宅の造りをもつ茶の間棟からなっている(.)  
       (入場料は100円ですが、白秋記念館の入場券でも入れます。 (.)
     志賀神社        志賀開
 天正16年(1588)、豊臣秀吉は九州の国割りの総仕上げを行い6月11日に、立花統虎(のちの宗茂)に対し、柳河の13万2千石余の領地を与えられた。当時は肥前龍造寺政家が柳川城を管理していた。立花宗茂公が筑前立花城より柳河城に移封土時に、この地に筑前の志賀島の志賀明神を分霊して祭る(.)祭神は底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神の3柱の神である。のちの藩主の鑑通(あきなお)公は心願ありて用人をして祭日に代参させrていた。同所は往時の藩主坐乗の船を繋留(けいりゅう)した所である。
 
     九社神社        正段 
 筑紫公民館の南隣にある。八十柱津日神・神直日神・大直日神・底津少童命・底筒男命・中津少童命・中筒男命・表津少童命・表筒男命の9柱の神を祭る。祭礼は9月21日に行われていた(.)石の鳥居は年号不明である。5月1日に川祭りが地元40軒余で行われ「ぼた餅を川に流し、「あとみんなー」という(.)
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     本誓山・等応寺    正段
 肥後の菊池氏の没落した後に、同族は宮崎の米良村に逃れたという。後に同族の納冨氏の兄弟が柳川に来る。1人は正段に住み、1人は真勝寺の傍にある正応寺に入り僧となる。のちに本願寺派に帰依して正応寺を出て沖端川に左岸の正段に寺を創立する(.)本尊を阿弥陀如来と寺号の「等応寺」を京都本山より賜る。時に寛永7年(1630)で代々、今日まで納冨氏が受継いでいる(.)山門には正段南組の木札や松屋デパートの南筑紫の懐かしいホウロウ金属板がある。御船大工頭だった芳司家の墓石や北原白秋が鶴田少佐遺族宛の弔電の記念碑がある(.)

山門 
 
本堂(左)と涅槃像がある納骨堂
 
北原白秋からの弔電記念碑
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                                            明治20年頃の測量地図
     稲荷町(稲荷町・札ノ辻・宗信町・北町・横町)
 柳川城外堀の西裏門にあたる木戸門(通称・竹門)から北町(稲荷町)と南町(沖端町)の間をお堀の水路が流れ稲荷宮(水天宮)を右折した「二丁井樋(いび)」の水門から東沖端川引込みに排水される。北町側を女井樋・南町側を男井樋と呼ばれ魚を東魚町へ運ぶ水揚げ場や法令を公示する制札場があった(.)東沖端川の引込みに沿って御船木屋付近までの両岸にある稲荷町と沖端町は藩政時代は北町と南町と呼ばれていた(.)明治元年の資料では北町側は稲荷町・札ノ辻・宗信町・北町・横町に分れていたが、明治8年の合併で稲荷町(いなりまち)となる。稲荷町の地名の由来は旧藩の時、「正一位稲荷大明神」が当地に勧請されたことによる。明治22年3月12日に周辺の町と村が合併して沖端村になっています()北町(稲荷町)と南町(沖端町)の間をお堀の水路が流れ「二丁井樋(いび)」の水門から東沖端川引込みに排水される。稲荷町の北西端に二宮神社があり、縁起のいい南向きで参道は極めて短く、参道入り口の鳥居から南方向には2本の道が延びて北町通りに出る(.)集落の殆どが漁師町の景観は大変珍しく(.)町名も「西横町通り、北町通り」と江戸時代からいう。二宮神社の東側は、その名の通り「東横町」である。すぐ近くにに柳河藩御用船製造の横山造船所がある(.)藩主より、この地に「初代横山勘太佐衛門」が拝領封ぜられたので、その姓から「横町」と称するようになったといわれる(.)横山家は本来、紀州(和歌山)で高瀬舟を造っていたが(.)初代の勘太佐衛門が藩主宗茂公に召し出されて柳川に来たという。横山家は南町の芳司家とならんで柳川藩の御用船大工をつとめた家である(.)昭和年代では、もう二軒、横山家の北隣の作業場と路地を同じくする南側に船大工の北野家があった。木造船が新造されて進水式の日を迎えると(.)いずれの船大工の作業場からこの路地からこの船溜りまで台車に乗せて新造船が運ばれば来て、満潮の時間に合わせて台車ごと海水に入れて船を浮かべていた(.)北町通りの土居下は「おこうや」と呼ばれていたが、藩御用達の船の材料の木材を集めた「御木屋」と思われる。浜辺では船材の木挽(こび)き(製材)や、潟から船を引き揚げて修理作業をしていたという。横山家では島原から船の受注も多く造船していた。木造船の最後頃の受注は大川や島原であったという(.)正段にある横山寛治製造所は先祖代々船大工棟梁を継ぐ12代目である。明治時代末から大正時代にかけて活躍しやアンコウ船団の外洋船も二丁井桶まで入り停泊していた(.)戦前までは、漁船も耐久6年位の木造船でフセンやミノブネと呼ばれる簡素な舟が造られていたが(.)昭和30年頃から耐久性が木造より格段に良い為に木造船からプラスチック船へと需要が移り変わり(.)現在では木造船の製造技術を受け継ぐ人も無く、和船の技術は消えてなりました(.)    .
 
   上測量図と下測量図は明治8年頃明治12年頃の「「土木取調」の関連と推測される地図で筑紫村・稲荷町・沖端町・矢留町・矢留村も制作されている(.)明治22年の合併で成立した沖端村「掲載分全図と上・下拡大図))も作成され山門郡の土木行政の資料として利用されています(.)寛政2年の絵図(下3番目図)では引込川の周囲は土居で囲まれているが、明治10年頃の測量地図では南町では(こわ)されており、明治20年の測量地図では北町の土居も4分の1が壊されている。現在では土居は宅地化され(.)西北町の通りの両脇には家屋が建ち並び、川岸はかさ上げされたコンクリートの護岸と防波壁が建造され浜は失われている(.)
西北町通り
 
      水天宮稲荷社
沖端の水天宮祭りの船舞台は、文禄3年(1594)に藩主、立花宗茂により稲荷神社が建立され、文化年間(1804~18)には京都弥剣神社の分霊が合祀された時に沖端の各町は小舟に船舞台を造り囃子(はやし)や余興奉納したのが始まりとされている。明治2年(1869)には子どもを水難から守る水天宮が合祀された。本社の久留米水天宮は、平家没落の後に、建礼門院(けんれいもんいん)に仕えていた侍女伊勢局(いせのつぼね)が、安徳天皇の霊を鎮め祀ったものと伝わる。川端は観光客の散策コースとして(にぎ)わっている(.) 5月の3・4・5日の祭りでは沖端水天宮から殿様屋敷の「御花(おなな)」までの200mを、川船6隻をつないだ舟舞台「三神丸」が(.)3日3晩、堀割を移動しながら水天宮囃子(別名・オランダ囃子)や芝居を奉納しています。文化年間から祇園祭として奉納したことに始まった舟舞台では舞踊(ぶよう)や浪曲・田舎歌舞伎・狂言が演じられていました。祭期間中に近隣の人々は、首から下げる瓢箪(ひょうたん)形をした木製のお守りを受けにきます各家庭では竹に稲わらで作ったタコと呼ばれる飾りものをさげ(.)カッポ酒を供えて川の神様を祀っている(.)これは瀬高町長島地域に見られる「河童さん祭り」の家庭での祭事に酷似している(.) 
 
水天宮


    昭和初期の水天宮の船舞台
 

現在の船舞台
    二宮神社         西北町    
   祭神は柳川城主蒲池鎮漣鎮並)と弟の統安の2柱である。天正9年(1581)5月27日蒲池鎮漣龍造寺隆信に殺され柳川城を守った弟の統安も戦死し一子蒲池宗虎丸は沖端の漁師の家で殺され一家全滅となった(.)戦後この地を治めた龍造寺一門に度々不吉の兆候がおこったので肥前方は、鎮漣統安の霊を慰める為に、三潴郡(みずまぐん)酒見村の摂取院座主に命じて、この地に社を建て(.)その冥福を祈ることとなった。秀吉に柳川城に立花宗茂が封じられ肥前方が退いた後は(.)蒲地氏の旧臣は自ら祭礼をつかさどる。参道には漁師町らしく、縁起の良い亀に乗った「浦島太郎」とか鶴の石造物があり(.)当神社を信仰する町民が海に生活を求める漁師の人々(.)そして造船所など海に関する「柳河城下町沖の端川北」の姿は昔のままである(.)また2人の軍服姿の石像は日露戦争記念碑である(.)
     慧光院・長善寺   真宗本願寺派    西北町
   往時は端地村(筑紫村)にあったという。創建は不詳であるが、鐘の銘に「柳河瀬高の庄 筑紫 長善寺」とあり、あるいは藤原時代の創建とも思われる(.)慶長年間に僧了順を中興開山とする。伝説に従前は端地村の内鬼童小路に一小庵があり、これを長善寺と称する。後の島原の役の柳河人夫(にんぷ)などの戦死者を沖端村の葭原イツサキ(血溢れ出て、よって血崎ともいう)の(はな)に埋葬する。後にその地に寺を移したのが、今の長善寺という。吉弘加兵衛は島原の役の守り本尊仏を当寺に勧請したという(.) 
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    宝珠山・光国寺     真宗本願寺派        東北町
  元は城内村本町の佐野問注所2氏の屋敷地にあり、光円寺と号していた(.)柳川城主の蒲地氏滅亡の後に廃寺となる。天正年間宗茂公が入城した後に中興する。宝珠山伊予守光国天正14年に岩屋城において戦死する。その子の光信は父の菩提を弔う為に剃髪して了俊と号し本寺の中興となる(.)宗茂公に三の丸に寺地を賜り建立する。元和7年に宗茂公の再封後に寺地を郭内の外小路に賜り再建する(.)その後に英山公により今の地に移される。村誌に寺地面積535坪9合とある(.)
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  寛政2年の絵図では土居の上の御制札場には屋根付きの板面に藩の法令などを民衆に周知するため高札が掲げられていた(.)石場は使用目的が解る史料はないが、魚を東魚町へ運ぶ水揚げは二丁井樋で行われたとあり、満潮時に船の荷物(魚)を陸に揚げるために(.)岸から突き出した石組みの水揚げ場と推測される。御船木屋は御船大工頭である芳司家の造船所とみられる(.)図には沖端川からの二丁井桶までの引込川の周りには土居が築かれているが(.)下に示す明治10年頃の測量地図では西南町通りの北側の堤防は壊され、後に宅地化され家屋が建ち並んだと推測する(.)現在では、さらに川幅が狭くしてコンクリートで遊歩道と防波壁が造られている(.)
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    沖端町  (南町・石場町・田代町・片原町)

北原白秋(右)と弟・鉄雄(腰掛)明治36年2月
  沖は岸から遠い奥の沖合を言い、端は物のへり・はしの意で、ここでは海辺・うみべたなどの意である。海からの交通の要衝で藩政時代、商業の許可の駅町は、城下では柳河町と沖端の二か所だけであった(.)魚を東魚町へ運ぶ水揚げは二丁井樋で行われた。元禄時代の沖端風景を詠んだ省菴(せいあん)の集景亭八景「沖端返照(夕映)」には魚貝水揚げ時の人々の雑踏、市場の賑いの光景である(.)沖端の人口が増えたのは宗茂公が柳川に入城後、藩の海上基地に定められてからで、ここに藩の造船所を設けてから(.)船材は藩内の山間から伐りだされ、沖端川を筏で流されきた。御船頭と大工達、御木屋頭と人夫達により(.)藩の運搬船、軍船、小早船、急小早船、十八反帆の96挺の大船、廻送船(.)猟船、御座船が造られていた。町の周辺には船奉行と諸役人、舟を操る水夫、舵取り方など舟に関係の人々が住んでいました(.)明治11年当時の戸数・人口は矢留町が258戸・1207人、沖端町179戸・837人(.)稲荷町289戸・1352人、であった(福岡県史より)。明治元年の資料では東沖端川の引込みの南側には南町(.)石場町・田代町・片原町に分れていたが、明治8年の合併で沖端町(おきのはたまち)となる。明治22年3月12日に周辺の町と村がさらに合併して沖端村になっている(.)南町の路地には詩人北原白秋の生家が(記念館)ある(.)白秋は明治18年(1885)1月25日に母の実家の南関で産まれれ、まもなく沖端の家に戻る。家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し(.)海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。明治24年(1891)、矢留尋常小学校入学(.)明治30年(1897)、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現・伝習館高等学校(.)に進むも 成績不振で落第する。明治34年(1901))、大火によって北原家の酒蔵が全焼し(.)以降家産が傾き始める。傷心の白秋(16才)は詩歌の創作に熱中したといわれる(.)早稲田大学に入学た頃から早くも、詩壇に知られるようになる。明治・大正・昭和と生き、57才で亡くなるまで日本の近代文学に偉大な足跡を残した(.)沖端で生まれ育った白秋はこの地をこよなく愛し(.)柳川の風景をつづった「思ひ出」「水の構図」の詩集など、数多く残しています(.)弟の北原鉄雄は写真・文学系出版社アルスを、北原義雄は美術系のアトリエ社を創業している(.)また戦後、作家の檀一雄も南町にある親戚の家に長逗留して丹前姿で昔水天宮の近くにあった魚市場で買い物をしてこの付近をぶらぶらしていたという(.)

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         【御船木屋】
   南町(沖端町)の芳司家は柳川藩主宗茂公にお供して大阪から瀬高を経て沖端の土地に住み御船大工頭に任命され(.)代々造船家として、技術において並ぶもののない程優秀で御船大工頭として武家に採りたてられ知行を与えられていた家柄である(.)藩政時代では。江戸時代、各藩主は御船大工を召抱えて藩船を造らせ、また御木屋頭には船の材料となる良質の杉材を集めさせた(.)芳司家は「御船木屋」を屋号としており、御船大工頭と御木屋頭の両職を兼ねていたと思われる。龍神社の北側には藩御用達の造船所「御船木屋」がありました(.)江戸後期の沖端南部の絵図には御船コヤと書かれている。柳河藩の御座船やイクサブネという(やぐら)のたくさんついた船(2人乗りで太鼓の合図に合わせて漕ぐ舟)を手がけており、御座船の図面や古文書が現在も残されています(.)元禄6年(1693)11月吉日、播磨国能勢郡天満の人(.)高橋善右衛門重次より芳司孫兵衛に造船技術を譲られた古文書があり、芳司家が造船した7~18反帆の藩船も記載され(.)で龍席丸(96)・神田丸(26)・青龍丸(40)・飛龍丸(40・日吉丸(60)・稲荷丸(50)・日和丸(50)・明石丸(40)・明神丸(40)・福島丸(48)・宮市丸(48)(.)住吉丸(21)・祇園丸(28)・愛宕丸(28)・新宮丸(28)・小鷹丸(38)・山王丸(26)・春日丸(18)・天神丸((26)・龍宮丸(.)坂本丸(48)・八幡丸(22)・風浪丸(20)・徳丸(24)などが見える(.)( )の数字は挺立で一挺の櫓をこぐ時は2人向き合ってこぐ。60挺の船は120人の人が()ぐのである(.)他に10挺小早船3(せき)・8挺小早船5隻・6挺小早船6隻・急小早船2隻や伝馬船13隻が記載されている(.)藩政時代では筑後一円の船大工が沖端に集まり、久留米有馬公の藩船を始め豪商その他の船をも造っていた(.)芳司家は明治維新後の今日まで18代造船一筋に続き昭和17年に(有)柳川造船所になった(.)戦時中の物資の少ない人出の足りない時でも、島根県の水産会社の底びき網船を海運局の依頼で、家族や大工一同の真心込めた努力により造りあげた(.)幅18尺(5,5m)、長さ75尺(22,7m)、55トンの船2隻が完成。「あいこう丸」53号・55号と名づけた。九州で検査を受けた船は62隻であったが「あいこう丸」は大変優秀と認められた(.)芳司さんは「あいこう丸」を海運局に納める時、試運転の際、生徒200名を修学旅行に連れて行かれた。楽しい修学旅行もできない時期に生徒は大喜び、父兄の感謝もはかりしれなかった(.)
     

御座船


造船図面(板書き)・芳司家所蔵
昭和時代の完成船の進水の様子  船大工小屋   
 
    西福寺    田代町
   真宗西派。寛永18年(1641)に筑後稲荷村の士族の杉森丹波は剃髪して行誓と名乗り、寺を創建する。村誌に寺地17間7合、南北19間6合7勺、面積335坪8合9勺と(.)寺院帳に寺地9畝歩とある。表門は御門と呼ばれており、全て(けやき)材を用いたもので、紫雲山の額がある。屋根は茅葺である(.)一軒の単純な構成をした四脚門であるが(.)当初の在り方を良く留めている。立面構成が立ちの高いまとめ方となっている(.)角柱である脚柱の面幅から19世紀中期のものと思われる。脚元の切り縮めもないようである(.)本堂は新築工事中(平成27年現在)柳川川下りの舟の到着場で観光客の往来が多い(.)  
    專念寺   專念寺町
 浄土宗善導寺末寺である。往時は弥四郎村にあったが、元久3年(1206)、中興とされている。天正の頃(1573~1592年)に肥前佐賀より龍造寺軍が攻めて来て戦火にかかり消失する(.)その後、現在の地に移る。表門は重層であり、上階には梵鐘を吊った鐘楼門として機能していた建築(.)阿弥陀如来像を祀り、右は閻魔像、左は地蔵菩薩像を祀る(.)本寺あるを以って町名を専念寺と称する。旧地には観音堂のみ残れる。矢留の観音堂は当時住職の管理する所なり(.)又矢留の耳塚地蔵堂は有馬の戦没(島原の乱)に雑兵を埋めし所にて本寺が管理するなり(.)村誌に寺地31間半、南北20間5合5勺、面積207坪とある(.)旧記に享保17年(1733)の大飢餓の時、住職は(かゆ)を煮炊き出して、毎日飢民を救助することに努めれば、当時寺地2反5畝18歩の内、9畝13歩は年貢なるも、褒美(ほうび)として(ことごと)く御免地となった。また寛政3(1792)年3月、藩より白米10俵を寄付せられていたが、維新後廃止となる(.)境内の重なる墓は渡辺又右衛門百武藤弾介中野南強、又北原家(白秋)の先祖等ある。閻魔堂(えんまどう)は本堂の左手前にあり、本堂とは廊下伝いに繋がり、本堂左手の幼稚園舎の一部として使用されていた(.)
  *江戸期の沖端南部の絵図には御花の南側の吉冨町まで描かれているので、西宮永の編集が出来るまで吉冨町の寺社を掲載します。
    八幡神社    吉冨町
   祭神は応神天皇、本社の勧請年月はは未詳。本社の往時は現今の城内村大字新外町の立花邸内にあった。同所は元吉冨村の地域に属せしが柳川城が築かれた後、城郭に編成される(.)寛文年間(16661~1672)忠茂公は同所を会所役場とした時、社殿を今の地に移し、新築せらる(.)鑑虎公は社殿を再建せられ、高10石を寄付する。現今の社殿即ちこれなり。安永6年(1778)9月鑑通(あきなお)公は御供料白米2俵を寄付する。水路に囲まれた八幡宮の東の町並みをヤワタ町と称していた。旧藩時代、社寺奉行が代参する(.)当社には立花家が奉納した杉板に描かれた三十六歌仙絵(47×31.4cm)の扁額(へんがく)18枚入りの2箱が残されている(.)
 
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   多福寺    吉富町81
   安永8年(1780)、僧教林が開基創建する。明治44年に更に御堂を新築する。真宗東派(.)
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    矢留(やどみ)(平川町・裏町)・矢留村(矢留本町)
 沖端町の南の水路を隔てた矢留村は漁業基地として使用された漁民の多い集落でした。矢留の地名の由来は土地の伝承では有明海海岸では海賊の被害が甚だしく土地の人々は略奪に来た海賊の矢を防ぐため板や(むしろ)を海岸に張り巡らせて矢を留めた。賊は(かす)め奪う事ができずに退いた。それで矢留村と名がついた始まりといわれる(.) 矢留村は明治8年の合併で沖端川に沿った平川町と南町本通りの南裏手にある浦町が分離され矢留町となっている。矢留村の家屋は多くが村中・宮ノ篭に集中している(.)明治22年3月12日には周辺の町と村が合併して沖端村になり、矢留村は矢留本町と改称した(.)有明海の潮が満ちてくると、帆船が沖端川の河口の宇治番所で取調べられ沖端川を(さかのぼ)って、沖端孫六(まごろく)~井出橋(しも)~港橋下~明王院(みょうおういん)(隅町)の小河港に荷の積み降ろしをしていました(.)明治時代になっても物資の輸送は船が中心で、遠く関西や博多・長崎・また天草・島原・鹿児島方面へ往復していました(.)鹿児島県の川内や熊本県の長島から、家庭燃料として一尺五寸切りの松や樫の丸太、薩摩芋(さつまいも)、西瓜などが運ばれて来ていました。また、佐賀県、長崎県、大牟田からは石炭や石材、肥料が運ばれて来ていました。帰り荷として柳川の線香・バケツ・下駄(げた)、あるいは大川の家具など、長崎の五島や天草、島原、鹿児島県方面へ輸送していました(.)昭和の初め頃から帆船からエンジンを搭載した機帆船に変わり、潮や天候に左右されず通行出来るようになった(.)しかし鉄道の開通やトラック輸送の普及により運搬船は消え漁船の行き交う姿のみになった(.)明治43年に水産橋が東沖端川の引込み口に架けられ水産試験場(あげまき実験場)が創設されました(.)昔の有明海は豊穣の海であったが、しだいに漁獲量が減り、あげまき貝や天然うなぎは絶滅、あさり貝、タイラギ貝、むつごろうなどの魚介類も減少しています。明治末から昭和30年頃まで牡蠣(かき)養殖が盛んに行われた。行商人はあさりや牡蠣をリヤカーに積んで三橋・瀬高・八女付近まで売りにきて(.)客の前で牡蠣の殻を開いてくれました。生で食べる牡蠣は美味しくて忘れられません。昭和30年頃から牡蠣から海苔(のり)の養殖に移り現在盛んとなっている(.)
 
 

江戸後期の沖端南部の御船木屋付近
 
明治10年頃の測量地図
       【孫六渡しから三明橋
 藩政時代では軍事的配慮により川には、ほとんど橋がなく舟渡しであった。龍神宮(龍神社)前の道から沖端川に下ると、宇治(渡し場)があって西岸の古賀に渡るのに渡船賃を取っていた。「孫六渡(まごろくわたし)」という。孫六とは昔の渡しの船頭に名であったがその名が引き継がれて渡し舟の愛称となった。柳河明證證圖會(下図)は矢留村から見た絵で門の手前に瓦屋根の番所がある。ここは渡し場のほかに小河港で荷の積み降ろしで賑わった所です(.)明治31年(1898)に、渡しの場所に木造の三明橋(みあけばし)(沖端町~古賀)が架けられ渡り賃は2銭であった。帆船(はんせん)帆柱(ほばしら)が橋に当たる為に、通過する度に、木造の跳ね橋(開閉橋)は手動の歯車式変速機で橋げたを吊上げていました(.)
 
柳河明證證圖會の孫六渡
 
帆船の帆柱が通過できた明治頃の三明橋 
 
橋の上からの沖端川・手前の歯車で橋が開閉する 
 
    【六騎伝説】
 伝説では寿永(じゅえい)4年(1185)3月壇ノ浦で敗れた平家の落武者の難波善長加藤権内浦川天ヶ左衛門鳴神藤助是永多七若宮兵七の6名は、源氏方の追及の手が厳しく矢留部落に逃込み漁師に変じ漁業をはじめたという(.)当時、6名の落武者は海賊が海岸に攻めて来た時に率先して海賊退治に貢献し、(もっぱら)ら漁業を営み努力した。土地の人々は尊敬して平家の身分の高い人たちとして、6名の騎馬武者の意味で「六騎(ろっきゅ)」と称したという。江戸時代になって立花宗茂公が千代の杉原(現・沖端片原町付近)に漁に出かけ、付近の海岸を荒らしてしまった(.)その時六騎の子孫たちが、住民の代表となって宗茂遺憾(いかん)の意を伝え、その勇気を藩主に認められ銀五百両と有明海の「漁業権」を獲得したとも言われている(.)こうして「六騎」が沖端漁業の創始者とも言われ基礎を築いたので、沖端の漁業者のことを「六騎(ろっきゅ)」と呼ぶようになりました(.)

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【柳川城主蒲池鎮並の嫡男・宗虎丸の墓伝説】
 沖端村大字矢留にあり。父の蒲池鎮並が龍造寺隆信に佐嘉城で謀殺された後、幼い嫡男の宗虎丸は柳川城から逃げ出し沖端の漁師の家に隠れた(.)里の者は、龍造寺軍の探索から海桶を(かぶ)せて宗虎丸を(かくまう)うが、密告する者があり、宗虎丸は龍造寺氏に殺される。密告者の子孫は、その(たた)りにより癩病(らいびょう)者を出す云われる。一説に宗虎丸は逃れて津留城に至りし時、近侍の山伏宝器を奪い去り、宗虎丸は賊に殺されると。また一説に長巌城主の問注所氏(もんちゅうしょし)により、後に大友氏の旗下に属すると。(柳川藩誌参照(.)

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      【あんこう船団】
 明治16年(1883)に日朝間に通商条約が結ばれると、九州・中国地方の西海岸から多くの帆船の漁船団(朝鮮海出漁)がアンコウ網漁法でタイ・グチ・タチウオを捕獲に出漁してた。沖端港からも出漁し、最盛期は明治時代末から大正時代にかけてで、昭和5・6年頃から下火となった(.)獲った魚は朝鮮の港で水揚げされるほか、四斗(たる)に塩漬けされて沖端港に運ばれていた。1週間から10日の間隔で日本から運搬船が行き、海上で漁獲物の受渡しと生活物資の搬入を行っていました(.)アンコウ網は口が幅広く先細りの筒状の網を海底に埋設し、潮に乗って移動する魚を捕獲する漁具です(.)船は排水量20トン以上で3本のマストを装備し、乗組員は5~6人で船頭の要職は日本人が就き、あとは現地で人を雇っていた(.)出漁する時期は3月から10月までで、1ヶ月かけて朝鮮半島の西海域(木甫(もくぽ)仁川(いんちょん))に行き、西海岸を北上するように漁場を移動していました(.)沖端港から出漁する時は、漁船員とその家族は一昼夜、矢留の大神宮にこもり、漁の安全と豊漁を祈願し、無事に日本に戻ると、お礼の参拝をし、お宮で御神酒をあげていました。 (.)     .

朝鮮半島の延坪島で潮を待つ間、網を修理する
 

沖端出港直前のアンコウ船団
 矢留大神宮で安全を祈願
    龍神宮(龍宮)   矢留町  
 孫六渡の舟で宇治(渡し場)を降りて番所で調べられ本土居を越え、龍神宮(ぢゅうごさん)前の道は枡形となりコの字に曲り浦町あるいは沖端町に入った。これは敵の急激な侵入を防ぐ為で街道筋の宿場には良く見かける()龍宮を地元では「ぢゅうごさん」と呼ぶ。江戸期から続くかなり古い神社であるが創建は不詳である。祭神は綿津見神(わたつみのかみ)で海をつかさどる神さまで、大漁と航海安全を祈願されてきました(.)境内入り口に建つ石造鳥居は昭和8年(1933)建立(.)そのすぐ後ろに建つ少し小さめの石造鳥居は明治19年(1886)の建立(.)拝殿の鬼瓦は祇園守の紋があり、藩からの寄進があったであろう。宮の北隣は柳川藩の重要な港で藩の「御船木屋(おふなごや)」がある。村誌に小社社地東西9間半、南北11間半、面積96坪とある(.) 

龍神社
 拝殿
    萬延元庚申年(庚申塔(こうしんとう)
寛政2年の絵図では龍神宮の向かえは桝形の道で、、別称かぎ形という。道を90度に折り、さらにまた折り、コの字として、人馬の突進を防ぐため、警備上の道路普請の方法で作られている。この場所に約2,5mの年号入りの庚申塔が立っている(.)こんなに高さがある庚申塔は、めずらしく孫六の渡し場からでも目立つ為であろうか。物置側(西側)から見た正面には「萬延元庚申年」の陰刻がある(.)庚申塔は村の辻の守り神といった道祖神である。萬延元年は(かのえさる 庚申)で西暦1860年で桜田門外の変があった年です。裏面には■■藤原■■の銘がある(.)庚申とは、十干十二支の組合せでできる六十干支のうちの一つで、年や月日を数えるのに用いられるものであり、すなわち庚申とは『庚申の日の信仰』ということである(.)庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の日に体内から三尸(さんし)虫が出てきて天帝にその人の悪行を報告し、怒った天帝はその人を早死にさせてしまうので、庚申の日は寝ないで夜通し起きていて(.)三尸虫が体内から抜け出さないようにします。これが仏教と融合してわが国渡来し、古来の(あま)(かみ)を祭る、おこもりの習慣と結びつき、江戸時代では盛んになった民間信仰です。2ヶ月に一度の庚申の夜は般若心経を唱え夜通し飲んだり、食べたり、語り合って過した(.)庚申の神はここでは漁業の神あるいは泥棒除けの神、火防の神など万能の神として庶民の現世利益の『福の神』であった(.)60年に一度の庚申の年は一生の内に一回体験する記念すべき年で、庚申塔を建立することを原則としました(.)最近訪れた庚申の年は1980年(昭和55年)で次に訪れる庚申の年は2040年となる (.)
 
現在の道路から見た庚申塔の側面

駐車場車庫裏側から見た正面の「萬延元庚申年」の陰刻
   矢留大神宮六騎神社・観音堂   矢留本町
 貞応年中(1222~1224)六騎の浪士当村に居住し産神なきを嘆き、朝夕心魂を(くだ)き産神を得て宮殿を造営せんことを願う。ある夜、霊夢を(こうむ)り地下に半鐘あり、之を掘出し以って奉祀すべしと。お告げの地を掘ると半鐘があり、これを御神体となし宮殿を創建した(.) 一説には難波加藤の両士は急ぎ伊勢に上り御師の人に、しかじかの由を語り神鏡を拝受して御神体となし、応永(おうえい)2年(13495)11月15日天照皇大神を奉祀し鎮座祭を行う。掘割に面した階段は、禊ぎ(みそぎ)のために用いられるので、門の両袖には脱いだ着衣をおく場所が設けられた(.)境内の鐘の池は半鐘を掘り出した所という。加藤藤内(今木下宮師)先祖祭主となりそれより毎年11月15日大祭を行う。又明治30年10月17日に3日間御鎮座五百年大祭との本社建立の功労を()め称え大祭執行と同時に六騎の霊を祀り域内にある六騎神社は沖端村村長三田村外有志一同にて(.)ご造営毎年11月15日大神宮大祭の時に六騎神社の大祭も共に行われた(.)また伝説では、この地に端地山竹林寺という真言宗の大伽藍あり。旧記に創建の年月未詳、最も振古の寺院にして宗派は不詳なり。今は太神宮社地または民家の敷地となっている(.)奈良時代僧の行基が自作?の観音菩薩を大同2年(807)に、この竹林寺に置く。貞応年間の頃までは寺領あり。永禄年間に佐嘉の龍造寺軍の為に、兵火に(かか)り旧記什物供に燃えて跡形もなく灰になってしまう。天正年間に沖端人民により再興す。然るに文政11年(1828)の暴風のため倒壊(とうかい)する。その後小宇を建立し「矢留の観音菩薩」となる。平家の浪人六騎はこの地に来て氏神(大神宮)を祭る以前は、この観音像が矢留の氏神であったという(.)( 平益信 直系 難波善長 書の説明板・柳川藩誌より引用) 下の古絵図は製作日不明の旧藩主立花家史料で寺社、町屋(.)屋敷の屋根を簡略に描いた沖端南部の大神宮付近で町屋の様子が浮かぶ。大神宮の参道の西隣に剣術家の十時恰の屋敷が描かれている(.)十時恰は十時惟充の4男として宝暦5年(1755)9月に矢留村に生まれる。7代藩主立花鑑通(あきなお)の時に寺社奉行となり大屋小路に住まう(.)寛政8年(1796)に豪傑組崩れに連座して失脚する。その後に復帰して禄を賜り、この地に住んだと思われる。弘化(こうか)3年(1846)11月に92歳で世を去る。この図は再び禄を賜った頃から住んだ、寛政時代から天保時代の江戸後期に沖端南部を描いたものと推測される(.) 
 
矢留大神宮鳥居

六騎神社

矢留大神宮

観音堂
      矢留町白秋公園(北原白秋の母校矢留小学校と大神宮に隣接)
 白秋の“帰去来”の詩碑が童謡「からたちの花」にちなんだからたちの生垣に囲まれて立つ(.)文学碑前の広場では、毎年1月25日に白秋生誕祭、毎年11月2日に白秋祭式典が開催されている(.)

 「帰去来」

山門は我が産土、雲騰る南風のまほら、飛ばまし今一度、

筑紫よかく呼ばへば、恋ほしよ潮の落差、火照り沁む夕日の潟

盲ふるに、早やもこの眼、見ざらむ、また葦かび、籠飼や水かげろふ。

帰らなむ、いざ、鵲、かの空や櫨のたむろ、待つらむぞ今一度。

故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ。

 帰去来の詩碑(白秋詩碑苑)

                                 .
(現地案内板解説-藪田義雄氏より参考)


 山門(やまと)は自分の生まれ故郷である。雲は湧き騰り南風(はえ)は常に吹き通う明るい土地柄である。かって自分は飛行機で訪問したことがあったが、ああもう一度、あの空を飛びたいものだ(.)

筑紫よ、国の名を呼び掛けると、もうそれだけで、落差激しい潟海が思い出のなかに見えてくる。夕日の反射を受けて光っているあの海が恋しくてならぬ。

だが、今の自分の両眼は早や盲いて、二度とそれらをうつつに見ることはできないであろう。あの水辺の(あし)の芽だちも、籠飼(ろうげ)も、水かげろうも・・・

それにしても帰ろう。鵲(かささぎ)よ、さあ、お前と一緒に帰ろう。あの空、あの群れ立つ櫨(はぜ)の木が今一度、待っているであろうよ。

ああ、故郷。昔馴染みの誰彼(だれかれ)もみな年老いてしまったし、それに海山を遠くへだてて年ごろ疎遠(そえん)になっているというのに、どうしてこうも子供のように分別なく、故郷に心ひかれる自分なのであろう(.)

 
   興福山・常願寺(旧・浄満寺)     矢留町21
  元和2年(1616)7月、僧教順の開祖。享保7年(1722)に再建する(.)以前は浄満寺と称し寛政2年(1790)の沖端町絵図や旧藩主立花家史料の地図にも浄満寺との記載あり。後に今の寺号となる。村誌に寺地473坪とある(.)
 
    .【宇治番所】
 矢留村の南に広がる小字のイカリの沖端川に突出した場所は「宇治番所(遠見番所)の跡で(.)藩政期には通行や抜け荷などを取締っていました(.)右図は柳河明證證圖會で「この高灯籠は潮時によりて船の入来る目あてにこれを点す」とあり(.)いわば番所を知らせる灯台で、高い棒のさきに高灯籠が描かれている(.)海上の関所手形である(.)川口通行切手」の改めを行って物資の移出入の監視をし、(.)海上通行税である津口運上を徴収した(.)乗船者の取り締まりをしていました(.)番所は幕に提灯が掛けられ飾槍・鉄砲・火薬・火縄が用意されていた(.)番所の燈籠は一対あり、1つは沖端川の中に建つていたという(.)番所の東南に広がる干拓地の小字の草野開・大城開・早川開(はやかわびらき)・市之進開・八反三畝(びらき)は、干満の差が3mもある有明海の海岸縁を干拓した所です。干拓者の名や面積が小字地名となった(.)干拓は江戸期以前から始まり江戸期を通して明治初期頃までが一番盛んでした(.)重機のない時代、干潮時に(かや)や材木、時には大きな石を干潟の中に投込み(.)潮が干満を繰返すうちに、障害物に泥が詰まり(.)次第に堤防の基礎が出来、両側から伸びた堤防を繫ぐ潮止めを行ったとされる(.) 
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    早川龍神宮   矢留本町
  正徳5年(1715)11月20日建立。2年前の正徳3年7月13日に大風大潮にて堤防63ヶ所が破壊(はかい)する。藩庁は感応院の豪運に依頼し汐留の祈願を行う。その効験により早川龍宮社が造営された。藩主は金幣を同社に献ずる。地元の貧民22人に交番せしむ。のちに喜右衛門なる貧民に託す(.)これを竜宮喜右衛門という。後年になり風流囃子方22人を選ぶ時には喜右衛門の縁故者による。享保元年(1716)9月13日に初めて祭礼が行われた(.)
 

      参考・引用文献   渡辺村男著「旧柳河藩誌」  明治12~26年頃の「土木取調」の測量地図   新柳川明証図会  柳川地名調査報告書  読本 旧柳川  

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