庄福BICサイト 【禁無断転載】 古地図の見る海津村の歴史 みやま市高田町海津
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古代において海津は、大根川と飯江川の氾濫によって土砂が堆積した有明海が入り込んだ海岸線で次第に浅瀬から潟となり、陸が出来て人が住んだとされている。飯江川の川底からは貝殻の化石や完全な弥生土器が、古川の大木貞夫宅前の畑からは弥生後期の土器片が沢山出土している。隣の古川あるいは古島(長島)から北小路を経て海門に通ずる道が出来ると新たな文化が入り、人家も増え、海津は元は貝ノ浦と呼ばれ、天草や島原との交易の港として栄えた村となる。戦国時代では古川村は大木城や宮園城、海津村では田尻城の支配を受け、海津には田尻城より宮園に進めば向田地区、曽里町~向畠~飯江川橋~(現在の橋より50m上流)~川の端~道手~江越橋~江越~一ッ橋~七庄司~水落~古川前~耳切橋(越せば宮園)の約全長1500mと続いている北海津の東方を通る田尻丹後守往還道が利用されていた。この沿線の肥前竹の林は調査により昔の住居跡であった。海津は北海津村と南海津村に分かれ、さらに北部には古川村と散田村がありました。 明治9年の合併で海津村とされ、明治22年3月に竹飯村と海津村を合わせて竹海村とされている。明治40年1月1日の大合併で山川村の誕生で一員となり、昭和34年4月10日に、竹飯・海津・飯尾が山門郡山川町から三池郡高田町に分村編入されています。
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【古川・早鷹宮】 |
瀬高町大広園字宮園の南に堀を隔て隣接する海津字古川は南北朝時代の末期に今村大隅が築城した「宮園城」の東二の丸があった場所で、迷路みたいな堀があり敵の侵入を防いでいました。本丸跡の堀を隔てた南に早鷹宮(阿蘇神社)という小さな小堂がある。由来は肥後阿蘇神社の大宮司で武将の恵良(阿蘇)惟澄は菊池武敏と共にと戦った「多々良浜の戦い」(1336年)で足利尊氏に敗れて、ようやく辿り着いた宮園城の北に位置する大木城主の大木(宇都宮)貞久に手厚いもてなしを受け、暫く滞在して休養をとった。惟澄は城主の誘いもあって、阿蘇神社の分霊を海津字古川村の郷に祀ったお宮です。恵良の子孫は代々神社に奉仕して村民の信仰を集めたという。現在の神官は末裔の江良氏である。朝鮮の役に出兵した立花宗茂の配下の小野鎮幸(和泉)は、早鷹宮にお礼言上参拝し、元和8年(1622)に海津北阿蘇田に、社殿並びに神田を献納し、感謝の辞を捧げている。現在の海津の氏神である阿蘇神社である。
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古川・八幡神社 |
早鷹宮の西隣に鎮座している。最後の大木城主の大木統光は柳川城主蒲池鎮漣の老臣であったが、柳川城は攻め落され下蒲池は滅亡し、統光は肥前に移り佐賀藩の鍋島 直茂に仕えたが、その際に家臣達の中には刀を捨てて農民となり古川地区や海津北地区に移住し大木の姓を名乗ったとある。その後の慶長5年(1600)に大木城の八幡宮の分霊を祀ったと考えられる。
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阿弥陀如来自然板碑 海津字古川前(共同墓地敷地) |
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板碑というのは、石で造った塔婆のことで、鎌倉時代中ごろから室町時代末期にかけて流行した供養塔です。宮園城址(東照寺大悲殿)の南側の古川集落の納骨堂の右後ろ正面に2基の板碑がある。左の板碑①は苔に覆われた阿弥陀如来五尊座像があり、阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩を左脇侍、勢至菩薩を右脇侍とする。下段は地蔵菩薩と龍樹菩薩であろうか。右の板碑②は上部は苔で判別しにくいが阿弥陀如来像が蓮花台に立ち光芒を放つ頭光を負って、その下に道弥禅門と妙慶禅尼と思しき人物が線刻で、描かれている。下段の碑文によると、禅宗に帰依し、在所出家した両親の道弥禅門と妙慶禅尼が阿弥陀如来名号を百万遍読誦供養し、それが成就したことを記念して、考子(親孝行な子)が両親の為に、室町時代の大永6年(1526)8月に建立したとある。 この碑は宮園城に関わる人物の建立と考えられる。 |
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①阿弥陀五尊来迎板碑 |

②阿弥陀如来来迎自然板碑 |
②阿弥陀如来は苔で判別不能(線上描き処理) |
【散田・天満宮】 |
古川村の住民が水田耕作の都合によって、今の散田(生江越民)の地に移住して、小部落ができたのは数百年前と思われる。阿蘇神社の社前の大きな献灯は明治25年7月に古川、散田の全戸の青年たちが揃って英彦山神社参拝を無事終えて記念に建てたもので古川、散田の深いつながりが想像される。散田天満宮は村の産土神として建てられる事になり、佐藤家から無償で敷地を提供、部落の東端、金甲山、清水山の連山を近くに仰ぐ好地に全戸の寄進浄財を集めて、古川天満宮の分霊を奉祀した。時たま大東亜戦争(第2次大戦)の折、昭和19年5月15日の午後3時頃米軍のロッキード5機が散田の上空より低空機銃掃射され天満宮と佐藤家の屋根に浴びせられ火災を起こした。天満宮社殿には今も弾痕が残っている。 |
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【海津村】
海津は景行天皇や天智天皇の巡幸や、大和朝廷の創生期に貢献した古代豪族物部氏の伝承がある長島に接し、田尻物部との係わりが考えられる。8世紀の律令国家が中央政府と地方との交通・連絡機関として制定した、古代の水路の水駅と言われ、東隣の竹井が陸路の陸駅であったろう。その海津と竹井を一つにして狩道と言ったようである。極応寺のある小字の海門は港があった場所とされている。文治元年(1185)3月、源平の合戦で敗れた平家の残党の中に、或いは 四国に、或いは九州に逃れ、山中に身をひそめ、或いは海浜で漁夫に変じて身の安全を計った。筑後路に入った平家の一族は、水の駅、貝の浦(海津の旧名)に来て、戦いの疲れをいやししばしの休息をとり、戦陣立て直しを計った。病におかされ、或いは深手の傷が因となって一命を落とし、、葬られた人々もかなりの数にのぼり、その塚が転々と残り、在りし日の事実を物語っている。休息にて精気を取り戻した平家の武士達は川を遡り、上流の要川の地にて源氏の追撃を待待受け、平家は押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、中原の戦いで決定的な敗北を喫した。残った者は山川町の五位軒谷・デ-ラ・栁川の沖端・肥後五ケ荘などに逃れ、再び海津小字茂出の土地を踏んだ者達は、ここに薬師如来堂を建立し、戦いの傷を神仏に祈った。又当時の野戦病院が設けられ、数十隻の船は脱出せんとする人々のために近くの海につながれていたという逸話がある。
戦国時代においては南の山の山頂には田尻城があり、海津には田尻氏ゆかりの供養板碑もあることから、海津の港で交易による利益を得て、のちに利便性の良い鷹尾に城と港を移転したと思われる。
明治10年4月、茂出の上津原宗夫宅付近に海津小学校が創立している。海津は標高4メ-トルの低地で、飯江川と大根川にはさまれ、クリークが縦横に走り、昔から洪水の常習地帯であった。明治15年5月、大洪水があり、飯江川に架かった海津橋が流失し、堤防は決壊し海津の6割が床上浸水し陸の孤島となる。明治24年(1891)国鉄鹿児島本線が瀬高町大江から大神長島にかけて開通するや、大洪水になると線路に排水が遮られ、海門地区は浸水し住民は難渋を味い、結局住いを高い場所に移転し低地の人家は無くなった。昭和10年頃までは学童の通学や緊急事態に備え小船が置かれ、人々は古材木等を利用して筏を組み連絡用にしていた。昭和28年・昭和37年の大洪水の記録を残し、さらに昭和48年の大洪水では飯江川が両岸数ケ所決壊し、海津は洪水により孤立し全くの孤島と化すこと数日に至り、自衛隊出動を要請して決壊箇所応急修復し、老人子供は舟によっ台地にある竹海小学校に避難した。大根川と飯江川の大改修工事が進められ、合流部に浸水被害を防止しる為に平成15年5月に大根川排水機場が完成し、水害からから免れるようになった。
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田尻氏供養板碑(永禄12年1569) 海津1637 (阿弥陀堂背後) |

阿弥陀堂
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阿蘇神社の南の案内板のある路地を入った阿弥陀堂の後ろにあり、中央の一基は、戦国時代中程の大永8年(1528)に建てられたもので上部に卍字を、その下に3つの楕円形の中に梵語を、下段の横線内に文字と年号を掘り込んである。この頃の田尻城主、田尻親種の頃は歴代最大の所領で、田尻45町・岩津27町・海津66町・竹井33町・大塚12町・波江6町・浦6町の従来の所領に鷹尾250町・本吉北12町・下妻郡の中牟田5,5町が増え総計462,5町の歴代最大の所領を持っていました。天文17年(1548)頃に、親種は田尻城の不便を感じ、大規模な守りの堅い城を考え、恩賞地の鷹尾村に鷹尾城を築城している。 左右の二基の、向って左基は円形の中に梵語(劣化の為に不明)を、下に供養文字と年号が刻まれている。右基は卍字の下に文字と年号が刻まれており、永禄12年(1569)7月13日に、田尻親種の息女および嫡男鑑種.次男鎮種らが、それぞれ妙忍大姉の25回忌に当たって、大乗妙典1千部看読の大法要を営んだ記念して造立したものである施主が田尻親種の子供達であることから、被供養者の妙忍大姉は彼らの母、すなわち田尻伯耆守親種の妻と思われるが、左側の碑に「先妃妙忍大姉」ともあるので、あるいは親種の先妻であろうか。天文7年(1538)生れの鑑種はこの年33歳。8歳で実母と死別したことになる。また、鎮種はその弟で、「田尻系図」(親種寺所蔵)には「薩摩ニ住ム」とある。ここに田尻氏ゆかりの板碑があることは、この付近に当時、田尻氏の菩提寺があったではないだろうか。 |
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卍字自然板碑(貝浦碑)(永禄12年1569) 海津1727茂出 (観音堂うしろ) |
極応寺の向えで天満宮の東隣に薬師瑠璃光如来堂があり、その左後にひっそりと目立たない所にある。中央正面に大きく卍字を掘り込んである。近くにある田尻供養塔とそっくりで、卍字の輪郭を彫り込んだもので同一時代に同じ石工によって製作されたものと考えられる。上部卍字の下に貝浦、その左下に永禄□□の年号が、かすかに読みとれる。貝浦とは海津の旧名で、この板碑のある付近が港であり、交易港で繁盛していた当時感じさせる。永禄の年号は田尻氏供養板碑と同じであるが人物建立由来については不明である。 |
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この地は元暦2年(1185)3月24日、平家は壇の浦に於いて源氏と戦いで敗れ、筑後路に逃れて来た幾百人の平家の残党は水の駅の貝の浦(海津の旧名)に来て、戦いの疲れをいやし、ここに戦陣立て直しを計った。戦病者を手当する野戦病院を設け、ここに薬師瑠璃光如来と十二神将を祀り戦いの傷の快復を、また亡くなった戦友の冥福を祈ったという。病におかされ深手の傷が因となって、一命を落して茂出に葬られた人々の塚が点々と残って在りし日の事実を物語っている。 |
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北・若宮神社 海津・小字北 |
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文明13年(1481)創建。祭神は水に関係深い神様である水波売神。河童も合祀されている。
海津の形成は先ず大木地区の南にある古川から茂出に人家ができ、次は北において東方の山地から流れる水をクリークによって溜め水田を開拓したものである。立堀と北堀が中心となって海津の北半分をうるおしている。その北部の水の支配権を握って、北の若宮神社を祀り水の神と仰いだ。 |
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阿蘇神社 海津1669 小字北 |
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朝鮮の役に出兵した柳川藩家老小野鎮幸(小野和泉守)が、早鷹宮(海津阿蘇神社)に神田3田3畝を奉納し、御礼言上の参拝をした。元和8年(1622)海津北阿蘇田の現在地に移転し、南北海津の氏神として今日に到っている。海津の御田植祭は神田を賜った折、本社阿蘇神社より豊作祈願のための御田植祭を受けたのが始まりといわれる。神田の田植えを奉仕するに当って、初春から心構えに始まり、耕地、種まき、苗作り、早乙女の田植えと秋に五穀豊穣を祈り奉納される。神主、田打ち男、馬草刈り、畦塗り、早乙女の掛け合いや田植え歌を交え、『やーらやら目出度やな。めでたき御田植えに、千町や萬町のおん田を、植えて、君も豊かに国土安堵、国も豊かに国土安堵、治まる御代こそめでたけれ』で終わる。この掛け合いの歌の形態には、当地独特のものがある。この神事は毎年旧2月の初丑の日に行われる。元禄13年(1700)社殿建立の記録あり。 |
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生目八幡 阿蘇神社境内 |
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創建は天保13年(1843)、祭神は平景清、海津北阿蘇神社の拝殿の南脇に鎮座されている。茂出の佐戸元蔵家の先祖に眼病を患う人がいて、志をたて諸国の社を拝み廻り、平景清が自分の目をくり抜いて空に放り投げ、その目が落ちた場所といわれ、昔から「日向の生目様」といわれ、眼病の神様として有名な、宮崎の生目大社の分霊を海津村に奉祀したら、眼病がついに治ったという。洪水の多い海津では眼病に苦しむ人が絶えなかったので。朝夕参拝者が絶えることは無かったという。 |
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七霊神社 阿蘇神社境内 |
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海津北阿蘇神社の拝殿の北脇に鎮座されている。創建は正保2年(1644)で山川町中原の七霊社の分霊を祀る。要川の近く中原の滝に身を投じた平家の7人の女官の霊は滝近くに、七霊神社と して奉祀され、村民の尊崇を受けている。7人のうち、1人は竹飯の堰に、1人は海津の下井手の付近で拾い上げられ、竹飯では門前に、海津では北阿蘇神社横に一堂宇を設けて奉祀した。また干ばつの時に雨乞いを雨を降らす霊験すぐれた効があるとして近隣からの参拝者が多かった。海津でも干ばつの時は、村人達が夜に、裸の業といって、子供から老人まで、海津の橋に勢ぞろいして、指揮者の合図と共に一斉に駆け出し、飯江川の南堤防を東に向い、竹飯橋(賃取り橋)、下飯江橋、地蔵渡し城道橋を横目に見て、原ノ町の往還から佐野に登り中原の七霊の滝・七霊社へ雨乞いの祈祷を終えて、夜の闇をつきながら来た道を引き返えしていた。その工程約3里(8Km)。 |
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水天宮 海津小字海門 |
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明治15年5月に大洪水があり、飯江川に架かった海津橋が流失し、堤防は決壊して一面濁流の海となり、住家の6割程は床上まで浸水しました。海津橋流失現場において水流の状況等調査の為に青年数名を泳いで飯江川を横ぎらせ、そのうち一人が流されて水死した。翌明治16年5月5日、村内男女・子供水難に会わないことを念願して、全国水天宮の総本宮である久留米の水天宮の分霊を受けて、村の中央海門の江越川の一小島を拡張して橋に結び社殿を建立して水難の守護神として奉祀しました。昭和10年代までは、5月5日の祭礼日には道路に数十軒の露天商が並び賑わった。水天宮横の田の中に舞台を掛け、芝居が5から6日興行された。家々では、祝宴が続いた。
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海門神社(帝神社) 海津小字海門 |
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弘治元年(1555)、長島の釣殿宮の神霊を分霊して海門部落に祭祀された。祭神は景行天皇。祭礼は座組の人々が座元で前座式を行い、鐘と太鼓をたたき礼服の神課の人々が宮入りし、祭礼が行われる。式が終わると、村の子供たちに投げ蜜柑と言って、お接待の意味の投げ餅であり、最後に神徳を祈って万歳三唱があった。 |
天満宮 海津小字茂出 |
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ここ茂出の地は平家の侍が敗戦の痛手でたどり着き、傷病の手当てする野戦病院があったとされる。のちに天満宮が創建された。祭神として菅原道真公を祀っており、学問の神様として尊崇を集めています。
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極応寺 海津1598小字海門 |
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海津村には寺院ないため、文化7年(1810)に海津村民の信仰の殿堂として当時の庄屋、永江市助(北)・松尾庄右衛門(南)などの尽力によって中牟田村(高田町今福・中牟田)から海津村茂出の地に極応寺を移転しされた。移転前の極応寺は江の浦の光万寺、第3世・祐願の第3子・祐護は中牟田村に創建し、第13世まで信仰されていたが第14世の智山の時に海津村に移転している。極応寺には創建時に2名の庄屋の銘が印刻された文化7年鋳造の半鐘が残っている。 |
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【郷土の人物像】
高僧、鉄文道智は、寛文10年(1670)に海津村町口の西原種考の次男として誕生する。正保元年(1644)の11歳の時に柳川の天叟寺に入り学ぶ。承慶3年(1654)、21歳の時に長崎の興福寺に渡日した隠元を訪れ師事す。宇治の黄檗山万福寺の2世住持、木庵性瑫禅師の法弟であったが、立花家3代鑑虎により、栁川藩主立花家の菩提寺曹洞宗立花山梅岳寺を黄檗宗の寺院として改め寛永14年(1637)に創建された時に鉄文和尚が福厳寺の開山和尚として迎えられました。江戸時代を通じて、鉄文和尚自身やその弟子を開山として、山川町河原内九折や大牟田の三池などに黄檗宗寺院が次々と開かれました。梅岳寺が黄檗宗の寺院として改められた背景には、前藩主立花忠茂の黄檗宗に対する深い帰依(高僧を信じてその力にすがること)があったと推測されている。栁川の福厳寺の境内にある開山堂には開祖の鉄文和尚の木造が安置されています。 |
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古川前・古川内 (小字名) |
宮園城の東二の丸があった地域です。 |
生江 |
古川村の住民が水田耕作の都合によって移住した部落です。 |
溝ノ口 (小字名) |
清水山方面から流れてくる「溝」のような細幅の小川が姿を現す場所、つまり「溝」の入口となることから、「溝口」(みぞのくち)と呼ばれるようになったと考えられている。 |
元牟田 (小字名) |
牟田は湿地を意味するので、昔は水はけの悪い湿地だったでしょう。 |
散田 (通称名) |
散田の集落であり、竹飯村からの分村と推測します。 |
海津 (大字名・行政区名) |
海津は元は貝ノ浦と呼ばれ、古き時代においては、有明海が入り込み天草や島原との交易の港で栄えた村です。北海津村と南海津村に分かれていました。さらに北部には古川村と散田村がありました。 |
阿蘇田 (小字名) |
海津阿蘇神社の神田であった田んぼです。 |
前田 |
茂出地区・佐戸八蔵氏の先祖は敬神の念厚くして、海津の七霊神社に神田として、 海津前田2番地8畝17歩を寄進している。 |
北 (小字名) |
海津の中心的場所で若宮神社や阿蘇神社のある地域です。 |
海門 (小字名) |
海への出入り口を意味し、この周辺に有明海からの交易の港があったと推測します。 |
茂田 (小字名) |
稲の生育の良い田んぼの記名でしょう。 |
町口 ・ 市場 (小字名) |
町口は市場の入り口の意で市場は有明海からの海産物と地元の山や田の特産物の交換が行われたでしょう。 |
金蓮輪 (小字名) |
仏教的な地名から、大きな寺の寺領であったで、ないだろうか。または蓮の生息する湿地の意では。 |
川端 (小字名) |
飯江川に沿った田んぼです。 |
杦蓮輪 (小字名) |
仏教的な地名、または蓮の生息する湿地の意では。 |
千度林 |
船頭林の漢字が昔の字であろう。海岸線で原始的な船で漁がおこなわれた所の起名でしょう。 |
南・大神宮 |
祭神は天照大神で寛永7年(1630)の創建。千度林(船頭林)などの船着き場が出来て海津が次第に陸となり農耕と共に商業も行われ交易が盛んになるにつて家屋も増加していった。ここに潟(大神地区)の大神宮の分霊を拝受して小社殿を建て信仰した。現在は阿蘇神社内に合祀されている。 |
南・若宮神社 海津1483小字千度林 |
茂出~北~海門~南~向田と開け、北の若宮神社より120年後の慶長4年(1599)に創建された。南と向田部落の人々が海津北には若宮神社が奉祀されてあるからには、我々の地域にも若宮神社を祀り、水の健全なる運営を神力によって解決を図ろうと創建された。 |
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ちょうど慶長年間に肥後菊池の住人、西原石見守武雄の築いた竹井の今城が5代、武範の時に落城し、その子の種俊は海津南(町口)の地に居を構えていた。そして農民の長として農民の指導に当り、一方柳川藩40石の武士として藩政にも携わっていた。自分の屋敷の溝1つ隔てた位置に土盛りを施して住民の寄付によって若宮神社を建立した。ここの土地は非常に低地で下りと呼んでいる。藤岡伊三郎の住宅がこの社の南側にあり、昔は前に池があった。昭和20年(1945)の改築の際、棟木に南庄屋・佐藤亮之助、北庄屋大城太郎七(忠左衛門)の名が記されていた。飯江川橋の傍の地蔵尊立像の堂は川幅拡張の為に境内に移転している。 |
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向田の社日社(碑) 海津小字曽里町 |
向田・曽里町の江崎ツヤノ宅の前庭に昭和9年(1934)に奉納された、大きな碑石が建てられている。碑面に大字で「社日」と刻まれ、注連縄が張られ巌然としている。昭和9年夏、田尻田代方面から水田に稲の害虫が発生し当時は傍観するしかなく、社日さんを祀り神力で被害をなくそうと、南地区の若者が飯江川から岩石を拾い上げ、大勢で大八車で運び、原町の石工・吉川一男に石組をした上に碑石を建てた。落成日には江良惟征神主を呼び、夜は江崎虎松宅の庭に舞台をかけて浪花節の余興が催された。 この年から被害もピタリと止まったという。社日さんは土地の守護神で春と秋のお彼岸に近い戌の日に田畑の神・食物の神としてを祀って祈っている。
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向畠 (小字名) |
現在の向田集落がある小字名です。 |
海添 (小字名) |
海の面した意の地名です。 |
釣殿 (小字名) |
長島の釣殿宮の神田だったでしょう。 |
横島場 (小字名) |
微高地の畑地であり、現在は竹海小学校のある地域です。竹飯集落に食込んだ土地で南北朝時代の竹井萱津城があった場所とされている。当時、海津のことを萱津と称していたと思考される。南北朝期の康永2年(1343)、南朝の中院侍従義定、菊池武茂、大城藤次(草野一族)らが筑後の竹井城にたてこもったので、鎮西管領の一色範氏)が大友・少弐らの軍勢を差し向けてこれを攻略し、落城させたことが「龍造寺文書」や「筑後近藤文書」などによって知られる。 |
富七 (小字名) |
富七さんが開墾した田んぼの意であります。 |
参考資料 海津郷土史・高田町の文化財 |
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