庄福BICサイト 【禁無断転載】 H23・5・5製作 H25・9・10更新 H30・5・17更新 福岡県みやま市瀬高町大字上庄 |

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瀬高は矢部川の川筋で、広大な平野と水路があり、和銅8年(715)には条理制の実施をみた。飛鳥時代以降の律令制の公地公民の制では民の多くは農民で、男女とも6歳以上になると、それぞれ一定の面積の口分田が与えられた。しかし奈良時代になると口分田も不足し、さらに重い税の為多くの農民が土地を捨てて逃げてしまった。養老7年(723)には三世一身法で新しく自分で土地を開墾した者には、その土地を3世代(孫の世代)まで土地私有を認めたが不評で開墾者がいなかった。そこで朝廷は天平15年(743)に開墾地の永世私有を認めた墾田永年私財法により、開発領主による活発な開墾により、大規模な土地私有が出現した庄園(荘園とも書く)ができる。 |
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【瀬高の庄】
瀬高庄の成立の時期は不明であるが、瀬高庄の領域は旧山門郡の三橋・柳川・大和にまたがる大庄園とみられる。三橋・柳川・沖端にある寺院の所蔵する曼荼羅・絵伝・半鐘の銘文に「筑後国山門郡瀬高御庄・・・」という記述が出てくる。開発領主は国司による重い税金をのがれるために、自分が切り開いた田畑を藤原氏などの有力な貴族に寄付し荘園(庄園)にしているが、瀬高庄も名門、藤原家に寄付した寄進地型の荘園であるが、寄付した領家は解っていない。平安時代の後期保安2年(1121)頃に京都の貴族であり歌人の藤原俊忠の荘園であつたことが、鷹尾神社の古文書(鷹尾文書)により解っています。俊忠は御堂関白藤原道長の五男長家の孫に当る。俊忠は都から大宰府に来て、晩年には大宰大弐・保安3年(1122)12月21日には中納言・大宰権師などに任じられている。上庄は行政の中心となり矢部川の住吉の浜にある庄館から西方面(柳川)に行く道が造られ、この道に架かる橋に御前橋(上庄出口二)、御仁橋(五十丁)、御三橋(現在の三橋)の橋名が付けられた。三橋町は御三橋があった名残りの地名である。 寄進地型の瀬高庄の成立は俊忠が大宰府の長官である大宰権師になった頃と思考されている。律令制度が乱れるに乗じて大宰府庁の官人、役人は、土着して土地を私有する者も出てきたとみれる。
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(瀬高庄の分割)
俊忠は保安4年(1123)7月9日に51歳で死亡。俊忠の所領は外祖母(母方の祖母)に移り、大治6年(1131)に瀬高上庄と瀬高下庄に分割された(年代不詳の後鳥羽院庁下文)。のちに瀬高下庄の分は俊忠の娘・豪子が相続した。豪子は徳大寺右大臣公能の室(奥さん)であり、嘉応2年(1170)頃に子供の徳大寺実定(1139〜1192)に継承されて後徳大寺領となった。(瀬高町誌)のちに実定は祖父の妹である鳥羽天皇の皇后で、崇徳天皇、後白河天皇の母である待賢門院(藤原璋子)(1101〜1145)に寄進して本家とした。久安元年(1145)8月22日に待賢門院(璋子)が亡くなったら、御願寺である六勝寺の一つ円勝寺(左京区京都市美術館が跡地)を本家とした。円勝寺は璋子の発願で大治3年(1128)に落慶供養されている。六勝寺(平安神宮の南周辺が跡地)とは、院政期,天皇や中宮の発願で建立された6つの寺院でいずれも「勝」の字がつく。上庄の分は俊忠の息子の忠成(1091〜1158)を経て、孫の妙法院僧正の昌雲に領家職が伝領された。天台宗延暦寺別院の妙法院(京都市東山区国立博物館東)の門主は後白河法皇(法名は行真)が15代で、法皇の護持僧昌雲が16代で17代の実全(1141〜1221)は昌雲の弟子で甥でもある。実全は建仁2年(1202)には天台座主となってる。永暦元年(1160)に昌雲は御所の鎮守社、新日吉社の初代別当(代表者、責任者)にも任命されている。昌雲は後白河院の保護などを受けていた妙法院に寄付して本家に仰いでいる。昌雲は下庄の本家の璋子(待賢門院)が亡くなったあとに本家を受継いだ円勝寺の寺職を相伝している。「尊卑分脈」によると昌雲の妹は徳大寺公能の側室となっている。仁平2年(1152)鳥羽院庁下文(吉田文書・平安遺文・2774号)によると前の下司(身分の低い役人)を他の下司に替えたところ、前の下司は領主の命に従わず、年貢を納めないなどの乱行が続いたので後徳大寺からの訴えを受けて鳥羽院庁の5名の院司が瀬高庄司などに、下司の不正行為を止めさせ、使召使の紀里次に正しい年貢運上を命じた。紀里次とはどんな人物分っていないが、あるいは都への年貢輸送などを専業とした海民集団の1人かもしれません(大和町史引用)。
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瀬高庄にみられる寄進地型の荘園は二重の領主を戴く場合が多く、最初の寄付者を領家と言い、領家がさらに上級の権門に寄付すると本家と言う。領家とは、実質的な荘園の持ち主である。荘官とは荘園の管理者である。領家は、不輸・不入の権のある都の大貴族や寺院に土地を寄付し、形だけ大貴族の名前を持つ荘園となることで、地方に送られた朝廷の役人(国司)の荘園への立入管理を拒否し、租の税を逃れることが出来た。しかし荘園の持ち主は貴族や大寺社が圧倒的に多かったのですが、農民の取り分以外に租として朝廷にもある程度の税を払っていました。ですから朝廷の収入はそれなりに確保されていた。京都にいる貴族たちは、これらの土地に「荘官」と呼ぶ使いを派遣しました。荘官は荘園の開墾を指揮し収穫された農産物を都へ輸送していました。しかし荘官の不正行為もあったようです。武士はまだまだ登場しません。現在の上庄や下庄の大字は、瀬高庄が分割され瀬高上庄・瀬高下庄という庄園の名になった事に由来し現在の下庄は古くは「下御庄」と書かれており、今でも「しもんしょう」と発音している。これは庄園時代の呼び名の名残ではないだろうか。 その荘域は矢部川を境としないで両庄の、あちこちに散在しそれぞれ地域的にまとまっていませんでした。
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(瀬高庄と黒木氏)
黒木氏については解らないことが多いが「黒木町史」には黒木氏の祖先は京都御所を守る武士であったが源助能の4代前の源高能は朱雀天皇の命により太宰府庁を焼き払った賊、藤原純友を討ち、四国へ追い払った功により大隅国の根占城主となると伝えられている。高能の代から京都在住の徳大寺家とは親交のある関係から、瀬高庄の紛争解決とその後の監督、支配の為、代官として父の能永と黒木庄に移ったのである。その年代は史料や系譜によって一致しないが、『根占文書(九州史料刊行会編、九州史料叢書)と「大根占町誌」により仁安元年(1166年)頃と推定される。」とある。仁安年中(1166〜1168)瀬高庄内の所有権について争論の結果は徳大寺家が領家と認められています。瀬高荘は、平氏滅亡直後の文治2年(1186)に鎮西奉行天野遠景の押妨を受けるが、領家の後徳大寺実定は、これを源頼朝に訴えて、その違乱を退けた(吾妻鏡)。同年、助能は黒木姓を名乗り黒木の木屋に猫尾城を構え、黒木六町、及び瀬高庄にて千町を支配あるいは管理するために瀬高に出城(瀬高城)を構えたではないでしょうか。その後、黒木助能は大番役として京都御所の警護を命ぜられ上洛し3年間を勤めます。
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『郷土の史話である貞享版 (1983年)の 『黒木物語』と題する写本が伝存している(八女市指定文化財)・・・その後、黒木助能は大番役として京都御所の警護を命ぜられ上洛し、後鳥羽院に横笛の才を認められ、褒美に「調(しらべ)」の姓と待宵小侍従を賜った。当時小侍従は徳大寺実定の愛妾(めかけ)で妊娠しており、在京中に黒木八郎と言う男の子を出産しました。実は後鳥羽院の落胤(おとしだね)であった。3ケ年のお勤めを終えた助能は待宵小侍従と黒木八郎を伴い帰国したのです。八郎丸は実定のもとで元服し、後堀河院より星野谷の領地を賜り、母小侍従とも再会、助能の猶子(養子)に迎えられ、星野氏の祖となった。」との伝承話が残されている。しかし当時の待宵小侍従の年齢は65歳であり子供を身ごもる年ではない、地元人にとつて別の女官をあこがれ的モチーフで扱われ後鳥羽院の落胤についても同じであろう。郷土史的伝承が派生して現代に伝承されたとみられるが黒木氏の歴史資料として考察に値する。
太宰管内志には助能の子に川崎三郎貞宗、次に星野中務大輔胤実、次が女子(肥後国和仁城に嫁ぐ)で、次が黒木四郎定善。胤実は星野氏の始祖で幼名 を八郎丸と云う。母者は待宵ノ小侍従といって京都樋口小路の産まれで、徳大寺実定の子か、あるいは 後鳥羽院の皇子にして実定に託して子と成したとか。」とある。定善は調姓を名乗り黒木荘を領し、これ以降黒木氏は代々猫尾城を417年間本拠としました。
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(鎌倉初期の庄園)
鎌倉初期の建仁元年(1201)、筑後の一の宮である高良大社の造営に必要な費用を筑後国内の荘園・公領のみ費用を分担させようとしたが、瀬高上庄は再三にわたり拒否した為、高良社の領家である醍醐寺の権威で朝廷に上申した際、参考書類として国衙の役人が作成した土地台帳である、荘園名称や田数を記載した大田文(図田帳)付加している。この「田数注文」には瀬高上庄・下庄を合わせると2,185町余におよび、竹野新庄(竹野郡)の1,300町、三潴庄の1,252町余をはるかに凌ぐ大荘園であったことが解る。(下図)横手庄は三橋町五十町の南にある横手の部落の周辺にあった平安期に成立した荘園と思われる。鷹尾別符は瀬高下庄の鎮守社・鷹尾神社のある鷹尾郷にある別納地の公領50町です。文永10年(1273)に、瀬高両庄とも、10カ年に限り、延暦寺の造講堂料所に指定されたこともあった(天台座主記)。これは瀬高上庄の本家が延暦寺の別院妙法院で領家が後白河法皇の護持僧であった妙法院16代が昌雲僧正で、下庄の本家の円勝寺の寺職もしていた縁が継承されたからであろう。昌雲の弟子でもあり甥の実全は延暦寺の貫主(住職)も務めている。 |

鎌倉初期の庄園・公領 |
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庄館と住吉宮の跡
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「瀬高庄」が徳大寺大納言家領だった頃、行政中心は横町にあった庄館でした。この地は海が近く、海岸には白砂が遠くまで続き、波打つ潮も清く、青松も茂り、景勝の地であり、瀬高庄の年貢はこの浜から京都に運ばれていました。船の航海の安全を祈願する宮として住吉宮が庄館の敷地に祀らていた。船付場付近を住吉の浜と呼ばれた。庄館には矢部川の水流を利用した貯水池があり、池の中には祇園宮を祀ってあつた。庄の池は当時の灌漑用水の役目を果たし下流の住民に多くの恩恵を与えたでしよう。この池には白亀が住んでいた伝承があった。ゆえに久富酒屋の久富興二郎氏は自家醸造の清酒の銘柄を白亀としました。横町は河川堤防拡張工事で住吉宮・青光寺・本長寺も犠牲となり横町は消え去った小字名です。 |
庄の池の北隣の小字名の大昌地(おおしょうじ)とは大庄地とも書ける。瀬高庄の荘官の住いや役所の建物があったことから起名されたのであろう。
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【庄園の崩壊】
室町時代には、筑後は永享4年(1432)に菊池持朝が筑後守護職となり33年間菊池氏の守護領となるが、大友政親が抑え守護大名となり、その過程で筑後の荘園は殆ど大友の掌握下に置かれ、応仁・文明の乱(1467〜1477)を契機に庄園は崩壊したとみられます。
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【瀬高城と黒木氏】
戦国時代の九州では龍造寺氏、大友氏、島津氏の三勢力が拮抗していた。瀬高も度重なる戦いで寺や民家も焼かれ焼野原となる。上庄に瀬高城があり、黒木の猫尾城主黒木鑑隆の子、黒木兵庫頭家永(実久)の城であった。黒木家の系譜には瀬高城に肥前の龍造寺隆信軍に攻められ、援軍に駆けつけた父の鑑隆は永禄8年(1565)大塚村で戦いで戦死した。(墓は下庄の二尊寺にある)息子の実永はその時、猫尾城に逃げ、のちに猫尾城主(八女市黒木町)を引継いだ。上庄出口に薬師如来堂があるが土地の人に言わせると、お堂裏の古墳からは当時の戦いとみられる鎧や兜が発掘されたという。上庄の北西方向に小字・牛御前に森の地があり、この付近が瀬高城の跡ではないかとされている。また牛御前森は古戦場の跡といい、この城跡はまだ明らかでない。
猫尾城の家永は大友氏に忠義を尽くしていたが、ついに離反して龍造寺氏に従い今度は大友氏に睨まれる結果となる。天正9年(1581)佐賀の龍造寺隆信は佐嘉城に柳川城城主の蒲池鎮並を誘き寄せ謀殺すると、一気に柳川に攻め込み、蒲池氏のせん滅を企てました。この時、黒木の猫尾城の家永の弟の益種はある経緯があって蒲池氏とは親族関係になって下蒲地の家臣として蒲船津城を守っていました。しかし龍造寺氏の将、鍋島直茂はの猛攻にあい落城し、蒲池兵は囲みを抜けて塩塚城に逃げ込もうとしたが皆討ち取られた。天正12年(1584)に龍造寺隆信が島原半島の沖田畷の戦いで戦死し島津に敗北し衰退すると同年、猫尾城は大友軍に包囲され、さらに立花道雪や高橋招運らが駆けつけると抗戦を諦め、部下や家族の助命を条件に切腹し猫尾城を明渡している。実久の息子、延実(匡実)は猫尾城を一時、奪回したが、秀吉の九州征伐後に廃城となり、小早川隆景の家臣となったが隆景の死後継いだ秀秋が早世したため改易により浪人となったが、柳川城の立花宗茂に召し抱えられ、子孫は柳河藩士として続いた。江戸時代の黒木家の菩提寺は下庄の二尊寺となり当時の墓もある。
黒木家系譜 黒木定善−成美−基実−為実−之実−重実−親実−鑑実
−鑑隆(実隆)(肥前守初名実隆柳川大塚村戦死)−家永(黒木家没落す)−延実(匡実)
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上庄の商家・民家の並び(ギザギザ印)が描かれている。 |
,【藩政時代】
豊臣秀吉の九州征伐により天下統一され、天正15年(1587)、戦功のあった立花宗茂が港町博多を見下ろす立花城から移封となり柳川城に入城し、文禄5年(1596)に藩主、宗茂は上庄祇園宮に社領30石を寄進している。しかし、関ヶ原の戦いで味方の西軍が敗け、宗茂が改易されると、石田三成を捕えた勲功で徳川家康から田中吉政が筑後一国柳川城32万石を与えられる。慶長7年(1602)に田中吉政は上庄祇園宮に50石を寄進している。田中氏が無嗣断絶になると元和7年(1621)に立花宗茂が柳川城に再封され、翌年の正月には上庄祇園宮の社殿などが新築された。上庄町は立花藩時代では本郷組に属し、村高は、幕府が作成要請した「元禄国絵図」1,294石余、「天保郷帳」1,377石余、明治政府の明治初期の「旧高旧領」1,295石余、明治5年の反別は106町余である。「本郷組大庄屋記録」(文政4年(1821)〜天保14年(1843)によると、大庄屋は本郷の壇藤三郎であった。宿場町である上庄町の庄屋は農村方面の諸事を担当する庄屋の役と町部の諸事を担当する別当の2役があった。上庄庄屋・別当の伊原次郎吉は祖父の代にの文化元年(1804)に上庄町別当の役を仰せ付けられ、文化6年(1809)には上庄町庄屋を仰せ付けられ、4代、相勤め申し候とある。また上庄の宿駅の問屋場には帳付役の下にあって馬の稼働状況や助郷人馬の掌握し、不断に金銭を取扱い、武士に対する請引をし、旅客の為に人馬の用立て指示をする馬散使の儀作が役を担当していた。また藩主の参勤交代や代官・巡検使など身分のある人が御茶屋に宿泊したり休憩される連絡がくると、大庄屋は各村の庄屋に肥後堺から久留米境まで道案内させたり、瀬高本陣詰の役を担当させたことが記録されている。上庄の町並みは、「在町丁数家数覚」(伝習館文書・年代不詳)によると、本町入口(上庄入口)より御制札場(川渡し場)まで5町30間(600m)・家屋が143軒(出口・弐百町・本町合わせてだろう)、酒蔵・商家が並ぶ街道でした。上ノ横町1町50間(200m)・家屋が36軒、庄の池があり、青光寺・本長寺・住吉宮があり、庄園時代では行政の中心で庄館があり住吉の浜からは荷船が出ていました。今町(大昌地の事であろう)5町26間(約593m)・家屋が160軒、街道東入口で酒蔵・商家が並ぶ通り。瀬口56間(約102m)・家屋が23軒、倉ノ前1町2間(約113m)・家屋が27軒、いずれも職人の多く住む町人通りです。矢部川の清流と良質の米は「瀬高酒」を生み、水運にも恵まれ長崎・天草・五島まで販路を広めていました。江戸中期から創められた酒造業は江戸後期には下庄・上庄には酒造家が繁盛し30数軒を数えた。天保7年(1836)の酒造家同士の舟出荷の規定書には上庄では久富酒屋・浜武酒屋・川島酒屋・森酒屋・伊原酒屋らの名がある。
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「瀬高名物・およんさんおこし」 おこし・あめがた製造販売・與田商店 |
瀬高では江戸末期には40軒ほどの小さな酒造家があった。酒造の麹と米を使用して蒸し饅頭やおこし米を作る酒屋があり、甘いものがない時代重宝され人気があった。その後蒸し饅頭やおこし米を本業にする店が出現し、本格的に販売しはじめた。江戸期の瀬高の商店街の中心は上庄の祇園さんの通りで平日でもお寺やお宮の参拝客で賑わっていた。祇園宮の前の與田家は店を構え「およねさん」が「およねおこし」を製造販売し始める。参拝客のお土産に通称「瀬高名物・およんさんおこし」と呼ばれ人気であった。もち米製の「瀬高名物・糯飴」も人気で縦10cm横4cm位に伸ばした飴で「あめがた」の呼び名で良く売れた。妊婦の出産後の乳が良く出るようにと、贈り物にも重宝された。明治時代になると鉄道が開通し、弘済会でも販売していた。瀬高で何軒があつたおこし屋も無くなり昭和初期で最後の「およねおこし」も店を閉じた。現在では探さないと食べられない懐かしいお菓子であるが、あめがたは柳川市旭町の大松下飴本舗 と高田町の三軒屋の「池田飴店」で製造販売している。
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【本郷組】 山中村・禅院村・小田村・南長田・下長田・上坂田・吉岡・芳司・本郷・上庄町・五十町・
上久末・下久末・西百町・東百町・下沖田・上沖田・木元・新村・吉開・中山。 |
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薩摩街道二百町付近 |
(薩摩街道と上庄宿) |
元禄9年(1696)柳川四代藩主、立花鑑仁が就任した時に薩摩街道は野町〜本吉〜小田〜長田から野町〜下庄〜上庄(本陣)〜本郷〜羽犬塚宿(久留米藩領)の西寄りのコースに変更された。瀬高の渡しを渡った住吉の浜には柳川藩の法令の公示に用いた高札(制札場)があり、今町(大昌地の事であろうか?)と称し、家屋が160軒あった(旧柳川藩志)。安政3年(1856)の熊本藩家老八代の殿様の松井章之の参府日記には「吉井の町並を通り、いよいよ瀬高の町に至る。中程に瀬高川の仮橋あり、川の左右に川方役人が麻の上下を着用し平伏(額が地面や床につくほど体を平たくする)いたし居候。町中に人馬方役人で、帯刀の者も平伏いたし居り、通り筋は形儀砂を敷き詰め、ひときわ念の入れようである。」と記載ある。祇園宮前通りの本町にあった「福島屋」には馬継場があった。柳川への賃金の記録では「柳川〜上庄間は1里24町45間(6.63Km)あり、駄賃(荷物や人を駄馬に乗せて運ぶ際の運賃のこと)56文,乗懸荷人ともに同じ、尻馬(他の人の乗っている馬のうしろに乗る)33文,人足(荷物の運搬人)28文」とある(旧柳川藩志)。天保9年(1838)の本郷組大庄屋覚書によると、上庄駅の本馬(定馬)は10疋(頭)で、下馬(補助的役目の馬)が27疋(頭)とあり、その下馬は助郷から、本郷村9疋・新村3疋・坂田村1疋・芳司村1疋・島村1疋・中島村1疋・吉岡村1疋・江浦町10疋が用立てられた。また日記の続きには「夕七ッ半前(午後5時前)に柳川藩の御茶屋に着き、直ちに宿泊する。茶屋番は中村直次という。」 と書かれており、翌朝六時(6時)に出発している。この本陣の「御茶屋」は、大名及び幕府の旗本、日田の代官等の高級武士の宿泊、休憩所として用いられた。大名の宿泊、通行は前もって南ノ関、又は原町から連絡があり、それによって町役人、別当、庄屋、問屋等は宿泊人数の割当、人馬の差配に追われ、町の警備を厳重にし、特に火の用心には町中で気を配った。当日になると、町役人、別当、庄屋は上下姿に威儀を正し渡し場まで出迎え、殿様から別当、庄屋にお目見えが許され、何がしかの御祝儀が下された後、本陣(御茶屋)まで案内する。当日の宿の使用人は食事、宿泊の世話で徹夜で、目の廻る忙しさであった。明和2年(1765)薩摩藩の大名行列の供揃人数は507人、寛政11年(1799)の人吉藩では202人とある。島原藩は多比良から有明海を渡り長洲〜三池(三池街道)〜瀬高〜宿町(羽犬塚)〜府中(久留米)−秋月街道を通過し、小倉を通っていることが古文書に見える。瀬高宿は薩摩の島津藩や人吉の相良、肥後の細川、肥前の島原藩などの参勤交代の宿に利用されていました。
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復元江戸生活図鑑より抜粋 |
文化9年(1812)には伊能忠敬の一行が測量の為に2月と10月の2回宿泊した。本陣竹次郎、別宿喜三右衛門、平嶋屋、鉄屋に宿泊。伊能忠敬の測量日記に、「筑後山門郡瀬高町上庄村字出口、追分碑より初め・・・」とある。文政11年(1828)信州飯田郡新野村の広吉さんは四国巡礼のため手押車で諸国を巡るうち、熊本まで足を伸ばす為上庄までたどり着いたが病気になり、薬や食物,衣類を与え介抱してもらい、快復後、上庄庄屋、別当の世話で往来手形の手続きをしてもらい帰国しているが無事出来たかは解らない。昔の人の旅は命懸けであり、旅の途中で亡くなった記録は多い。
天保3年(1832)9月、琉球の王様、船より参勤、9月12日晩、10代薩摩藩主、島津斉興、瀬高御止宿、先の道中で御同道か。(本郷組大庄屋記録)天保4年(1833)1月に江戸高輪邸大奥寝所で89歳で死去した島津氏第25代当主、薩摩の第8代藩主、島津重豪の遺骨が薩摩の墓に安置する為の江戸からの旅の途中、同年3月23日に宿泊その間、遺骨は来迎寺に安置された。通棺の節は火の用心や道、橋詰の掃除を徹底し、町内の沢山の職業を休止させ、店の魚、鳥の売り物・行商・見せ物・芝居を御出離れまで差し止めた。御止宿の手数ひかえ(宿泊代金を遠慮する)とある。明日、まだ暗い早朝に高提灯の灯かりで御遺骨は薩摩に向け出発した。
天保11年(1840)6月3日、11代柳川藩主、立花鑑備が宿泊。翌日に柳川城に着かれた。参勤交代の江戸からの帰りには瀬高御茶屋にお泊りになるのが通例となっていた。
天保12年(1841)10月、江戸の下屋敷にて69歳で亡くなれた島津斉宣の遺骨が翌年正月2日に江戸より瀬高町上庄の来迎寺に到着。翌3日の、まだ暗闇の七ッ半(朝5時)に竹竿を使った高提灯や松明に火を灯し行列は薩摩に向かって出発した。御遺骨は法要後、薩摩の菩提寺である、池之上町にある玉龍山・福昌寺の墓所に納められた。
嘉永6年(1853)8月30日薩摩の第11代藩主島津 斉彬の養女、篤姫は第13代将軍徳川家定にに嫁ぐためにお泊りになる。 安政3年(1856) の小川組大庄屋の「瀬高下庄駅人足継立書上帳」によると、薩摩から御先荷として蒲団20枚が運ばれ通過している。篤姫の輿入れ道具とも、考えられる。
安政6年(1859)越後長岡藩家老、河合継之助が宿泊。
万延元年(1860)3月島津第29代当主、薩摩藩第12代藩主島津忠義は参勤交代のため、瀬高に止宿、翌日松崎宿に止宿中、江戸からの急使により3月3日に、桜田門の変を知り、元藩士有村治左衛門が加わっていた事を知り、引き返し再び上庄お茶屋に宿泊、その夜はお茶屋周辺の警戒は厳重であったという。翌日、早々鹿児島へと出立していった。当時、藩主忠義の父の島津久光は後見人として慶応4年まで藩政を代行していた。
文久2年(1862)島津久光は小松帯刀・大久保一蔵(利通)ら藩兵1000人を率いて上洛の途中に瀬高に宿泊して、800人が旅籠に宿泊している。200人は船を利用して船内に宿泊している。鹿児島〜3/15瀬高〜3/16松崎〜3/17飯塚〜3/18黒崎。 (大久保日記、文久2年天下の機勢風聞諜)。文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が、島津久光によって粛清された事件「寺田屋事件」を起している。
慶応2年(1866)に熊本藩家老、長岡監物が宿泊し、慶応3年(1867)新選組参謀の伊東甲子太郎、新井忠雄などが宿泊している。宿泊や休けいの用途のほか、貢租の納期がせまると柳川藩内9組を担当する各代官・大庄屋が上庄御茶屋に会合し、年貢米の蔵入れについて協議していました。
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(御茶屋とは)
旅人が団子をたべたりお茶を飲んだりする、時代劇によく出てくるような茶店ではなく、藩主が狩りなどの時に宿泊したり休憩したりするほか、殿様の参勤交代や代官・巡検使など身分のある人が宿泊したり休憩したりする施設のことを御茶屋と言いました。上庄御茶屋のほか、街道の上り側には羽犬塚御茶屋(久留米藩)、下り側には南関御茶屋(肥後藩)があった。上庄御茶屋は祇園通りから出口の三叉路を右に曲った宿町通りの東側に表御門があった。表御門の右の長屋は使用人たちの家で早朝から晩遅くまでの宿泊客の世話には敷地内で住む必要があったであろう。殿様は玄関から左奥の専用の便所・風呂場付きの上間に案内れ、次間は付き添いの家来が警護していた。台所・土間で食事の用が行われ南側に使用人用の裏御門あり、下を流れる用水路は現在も残ってその位置を推測できる。敷地774坪、建坪158坪の御茶屋で周囲は塀で囲まれていた。かくて賑わった瀬高宿駅も明治初年、「宿駅制の廃止」によって役目を終え、御茶屋は明治4年の廃藩置県後は一時、知事の茶屋となっていたが翌年9月、用を終り入札され、御茶屋の建物一部が三橋町新村の浄蓮寺に移築され、庫裏として利用された。敷地は川島・村石・久富・浜武の上庄の酒屋が購入したとみられる。現在、お隣りの熊本県南関町に嘉永5年(1852)に建替た御茶屋が修理保存されている。 |

ふるさと関所まつり・南関

南関御茶屋(参考写真) |
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浄蓮寺に移築された瀬高御茶屋の上間
(H10年撮影) |
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出口 |
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出口は薩摩街道と柳川への分岐点で北に曲ると薩摩街道で直進すれば柳川です。曲がり角には追分碑ありました。 東面に「是(これ)より北 宿町(羽犬塚)通り」南面に「是(これ)より西、柳川通り」と刻まれている。(高さ186cm幅30×30cm)(現在・近藤宅庭に保存)
直進した右手の出口公民館には恵比須の祠があり、右脇に鯛を抱いた恵比須と篭か丸袋を持った女性像が祀ってある。
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町人通り |
身分の低い町人たちは南側の町人通りを利用し宿泊したようだ。西念寺の前には昭和まで木賃宿の建物が残っていたという。この通りには刀鍛冶や筑後一帯の鋳物商を仕切った鋳物職人「平井家」があり柳河藩お抱えの「職人の町」でもあった。また現在の西新町には、江戸初期に藩の米倉で、いわゆる「在の三倉」の1つ瀬高倉が設置され、矢部川畔の御倉浜から米・麦・辛子(菜種のこと)などを藩船で大坂その他へ廻送し売払い藩財政を豊かにした。15日潮には300石船が,小潮には100船が出入した(旧柳川藩志)。瀬高御倉の敷地は小高く周りは掘割で囲まれ警備され、お倉の横と川岸には精米用の水車小屋があった。現在、字の地名で「御倉前」として残っており、お倉の小高い敷地は民家が建ち並び廻りの用水路が昔の名残りを留めている。積み出しや搬入のは南側の矢部川の川岸に石垣で港が造られた。その頃は大阪へ寿司用の上質米(大阪回米)として出荷され評判がよかった。 |
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八坂神社(上庄祇園宮) |
地元では「上庄の祇園さん」と親しまれている神社で、祭神 須佐之男命(素戔嗚尊とも表記)・応神天皇・武内宿禰命を祭ってある。上庄八坂神社の社記によると安元2年(1176)6月11日に、この地に鎮座されているが、祭主は宇都宮弥三郎の子小太郎藤原中次と弟の重国とある。この両人は京都祇園の分霊を奉護し、筑後へ来て持参した藤鞭を3つに切り、久留米、柳川、瀬高に植えたところ、瀬高のものが繁ったので、この地に社を建てて祀ったという。郷土史家の堤伝氏によると「宇都宮小太郎藤原中次と弟の重国というのは宇都宮系図にはないが、宇都宮朝綱(うつのみや ともつな)の子朝重の兄弟と考えられ、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)により藤原氏は勢力を失い、世はまさに平清盛の全盛の時に九州に下ることは不可能であり、平家没後の寿永2年(1183)に下ったのではなかろうか。あるいは瀬高庄は往時嘉応年間(1169〜1170)徳大寺実定の領地であったから、庄館に仕える庄司か雑掌として下ったとも思える。」と説明している。戦国の乱世には美しい社殿も多くの戦火にあい大破され、荒れ果た。文禄5年(1596)に藩主立花宗茂は社頭30石を寄進し、宗茂改易後は、慶長7年(1602)に田中吉政が50石を寄進している。元和7年(1621)立花宗茂が柳川城に再封され、翌年の正月には社殿などを新築された。現在の鳥居も立花宗茂の寄進であり、途絶えた祭礼を初め、大人形の神事も始めた。旧暦の6月15日は多くの参拝者が集まるので上庄街道の一般の通行を禁止することを幕府に願いを出す程に盛大であった。立花宗茂が柳川再城の時、この社の社殿を新築して祀ったのは宗茂・奥州棚倉在城の元和6年(1620)正月元旦の夢の御告げ(祇園神ノ符扇上ニ在リ)によって、再度柳川に帰れたことによるものであると伝承されている。立花家は家紋に祇園紋を用いている。元文2年(1737)上庄祇園宮境内に火災除けの神・屋須多神社が建立され、のちに筑後一帯に分社が建立されました。しかし文政5年(1822)2月に上庄大火があり、矢部川対岸の下庄にも飛び火して両町町の大半を焼失しまた。当時の民家は麦藁屋根だったので燃え移るのも早かったのでしょう。
祭礼の前の7月21日には「大提灯まわし」という献灯の神事大提灯は人物、風景等が描かれ、材料に、魚鱗・魚皮・虫の羽・貝殻・木皮等が使われている高さ2,5m直径1mの大提灯(県指定有形文化財)です。大提灯の由来は、安元2年(1176)上庄に祇園宮が勧請された際に、白武三郎兵衛という貧しい武士が、雨の降る闇の夜に粗末な提灯と破れた傘をさして御神霊を迎え、崇拝したという話がある。心から神を崇敬する彼の行為に感激して、後世に彼が使用した提灯や傘にちなんで大提灯を作成し祭礼の初日(7月21日)に大提灯は氏子の若者によって町内を練り歩き祇園の祭礼期間(7月21日〜25日)に献灯されるようになったとある。 |

県指定有形民族文化財 大提灯 |
7月24〜25日の祭日の「うう人形さん」の名で呼ばれた大人形は平安時代の英雄とされる、白旗を小わきにはさんだ源義家(八幡太郎義家)を向って右に安倍宗任もしくは安倍貞任を毎年交互に左にたて、そして中央に社壇を安置して祇園の神を祭ってある。立花宗茂の奇夢に現れたる徳川家康を宗任に、宗茂公自身を八幡太郎義家に擬し、武運長久を祈願せられたるに基づくものとする。人形の股をくぐりぬけると病気にならないと言われている。明治の神仏分離令により名称を八坂神社に変更されている。
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八坂神社(祇園宮) |
祭礼日、御仮屋に鎮座した大人形さん |
最終日深夜に御仮屋から筍山(櫓)に移される |
大正期の造花・提灯・人形で飾られた祭礼山車
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立花宗茂公寄進の祇園宮鳥居 |
 昭和42年の筍山の大人形さん |
屋須多神社 上庄八坂神社境内 |
元文2年(1737)12月1日に屋須多宮建立。御神体を木元村のかくたに頼み彫刻し鎮座し奉る。14年後の寛延3年(1750)8月に新たに筑前国福岡の仏師の左田ノ文蔵により御神体を製作、鎮座して奉ったとある。藩政時代は家中の武士は馬上より御幣を受けて帰るのを慣例としていた。明治維新後、罔象女神(水神)、國狭槌神(草の茂る丘を守る神)を合祀。神額は12代藩主であり伯爵の立花寛治書である。社殿は元祇園宮と新宮の間にあったが、大正12年(1923)祇園宮改築の際、新宮跡に移築され現在に至る。伝説によれば昔、修験山伏が上庄を訪れ、老婆に一夜の宿を請いました。老婆は貧しかったけれども快く労をねぎらい丁重にもてなしました。翌朝、修験行者は老婆に「この地に火事があった時の為に、水神様のお守り札を納めておきましょう。もし火災が発生したら我が名の『屋須多』を唱えると火が消えるであろう」と言って別れを告げたので祇園宮の大楠の辺りまで見送りましたが、いずれともなく行方がわからなくなったということです。そのあまりの不思議さに、祇園宮祭神の再現であろうと今日まで語り伝えられています。その後、町内に火災のたびに、屋須多さんと呼べば鎮火したので不思議な語り草として広まり、お札や御幣を家々に祀って信仰し大難を免れてきたと言われている。旧藩時代の家中の武士は、馬上より御礼、御幣を受けて帰るのを慣例としたということです。(郷土史家樺島不二夫書より)
火難除けの神として12月1日の祭礼には参拝者で賑わう。屋須多神社は瀬高は勿論、筑後・筑紫・肥後などに広まり祠や分社に祀られて信仰されている。昭和55年には朝倉町に当社の御幣を受けて分社が建てられ崇拝されている。なお下庄八幡宮でも氏子中に屋須多座を設け祭りを行い、文広橋口、吉岡など各々祠を構えて祭りをとり行っている。 |
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屋須多さん由来(河野覚・画) |
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屋須多宮 |
合祀の各神社 |
新宮社 上庄八坂神社に合祀 |
創建は鎌倉時代中期頃と考えられる。1340年(南北朝時代)の古文書(大善寺の梅津家)に瀬高新宮に関する文書がある。久留米高良玉垂宮の別宮として祀られたもので祭神は玉垂宮、八幡宮、住吉宮又は春日宮で故に新宮三社と称した。大正12年祇園宮改築の際取り壊し八坂神社に合祀された。慶安4年(1651)に柳川二代藩主立花忠茂公の寄進の鳥居だけが昔の名残りを止めている。銘文に「奉彫建石華表雙国主左近将監従四位下源朝臣忠茂」 「慶安四年辛卯九月上澣氏子中建立」とある。祇園宮の鳥居も新宮社の鳥居も三百数十年の星露を経た肥前鳥居の様式をそなえている。
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印鑰社 (八坂神社境内西に合祀) |
当神社の金庫番として鎮座され、勝運守護の神でもある。契約成立、証文印鑑作製時の信仰ある。昭和初期に西側の宮地獄神社に合祀された。
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諏訪神社 (八坂神社境内西に合祀) |
長野県諏訪の諏訪大社の分霊を祀る。大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に共に宮地獄神社内に合祀された。
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宮地獄(みやじだけ)神社 (八坂神社境内西に合祀) |
福岡県福津市宮司の宮地獄(みやじだけ)神社の分霊を祀る。
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生目神社 (八坂神社境内西に合祀) |
本社は宮崎市生目にあり、創立年代は不明だが宇佐八幡宮崎荘の神社として発展したものといわれている。昔は目の病気を治すことが出来ず、神頼みとして目の神様として信仰されてきた。昭和初期に西側境内に合祀された。
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天満宮 (八坂神社境内西に合祀) |
学業の神様、菅原道真を祀る。大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に西側境内に合祀された。
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八鉾神社 (八坂神社境内西に合祀) |
祭神は八鉾神である。大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に西側境内に合祀された。
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稲荷神社 (八坂神社境内西に合祀) |
祭神は宇賀魂神である。天明6年(1786)4月に塩谷吉兵衛によって勧請された文書があり、現高光稲荷神社がこれであろう。新宮社境内神社として祭祀あったのを大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に西側境内に合祀された。
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金剛勝寺(廃寺) 上庄本町祇園宮境内 |
現在の祇園宮の境内にありました。養和元年(1081)(平安後期)創立。金剛勝寺の末派で各国に建立されたが、本寺は、筑後国内真言宗の触頭で、密教経義を談論する道場であった。後年、京都、大覚寺の末派となり、瀬高祇園の別当であった。寺宝に三千仏曼荼羅、弘法大使親筆の6字の名号、金泥法華経7の軸1巻、光明皇后の金泥大品経14の軸などがあったが、遺物に一つとして観喜天像が残っている。現在上庄祇園宮の境内にある堂の本尊となっている。境内に阿呼庵があり、末寺に山門山・青光寺、白毫寺などがあったが今はない。明治5年の廃仏毀釈で廃寺となる。末寺だった円鏡寺は現在も祇園宮北側に現存する。 |

寛政12年(1790)の古図には祇園宮の境内外の北東側にある。 |
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円鏡寺(普門山) 上庄八坂神社北側 |
大永3年(1523)に上庄の金剛勝寺(真言宗高野山の末寺)に属し、祇園宮の新宮社の社僧六坊の一つで、寺号を延慶寺と称した。天和3年(1683)に僧鉄門(別号、鉄分・海津出身)によって、黄檗宗に改宗し、寺号も円鏡寺と改められ柳川の福厳寺の末寺として開祖された。福厳寺の住職の鉄門は元禄元年(1688)住職を玄堂禅師に譲り法雲寺(倉永)に退隠し、その年9月に亡くなっている。境内墓地に鉄門禅師の墓がある。 現在の円鏡寺の建物は明治時代に13世の和尚が再建されたものである。お寺入口左手には地蔵像群と境内には創建時代のものと推測する石の延命地蔵と十三仏がある。右手のお堂内には小安観音像と弘法大師像とえん魔像が安置されている。弘法大師像は以前の真言宗・金剛勝寺の遺物であるまいか。
【黄檗宗とは】禅宗の一つで江戸時代の承応3年(1654)福建省福州の黄檗山萬福寺の住職や多くの弟子や職人が渡来し徳川家綱に寺領10万坪を与えられ京都・宇治に中国の黄檗山萬福寺を模して渡来の職人により明朝様式の禅寺「萬福寺」を創建した。江戸中期までは中国の僧侶により教えを広めていた。従って、朝夕のお勤めをはじめ、儀式作法や法式・梵唄はその中国寺院の伝統が受け継がれておる。
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来迎寺(正覚山・聖衆院) 上庄二百町 |
創建は不明だが縁起書には1300年前聖徳太子の時代に創建されたため、聖衆院来迎寺と称えられ、九州では最古で、筑前、筑後肥前、肥後はもとより、越前国まで末寺があった。古くは瀬高寺といっていた。「上ノ庄内道場瀬高来迎寺田下ヶ名」と言っていたと記録されている。本堂正面には阿弥陀如来が安置され、脇侍として右側には観音菩薩を、左側には勢至菩薩をまつり、下段には浄土への来迎の菩薩として二十五菩薩がまつられている。天正年間(1573〜1591)大友宗麟が九州下向の時、兵火のため、殿堂、僧舎、寺記、焼失した。その時の一部の古文書の残片あり。天正15年(1587)浮羽郡の善導寺の方誉上人は、この古跡の絶えること当寺を再興され第一世となられた。第二世の誠誉(せいよ)上人は立花宗茂の夫人吟千代)が肥後玉名郡腹赤村で死去に際し、現地に於いて引導して百性の市蔵の屋敷に葬った。
境内には天正15年(1549)の板碑がある。阿弥陀さんぞん来迎図を線刻している。その右中央に立花宗茂の妹で小田部統房の妻となった、俗名松春大姉(ばいがんしょうしゅんたいし)の墓。右に豊後大友氏の屋形城落城の時難を逃れ鷹尾村で疱瘡を患い慶長元年(1596)僅か7才で去った大友義統嫡子(二男)大友男也の墓があり、無縫塔台座に「豊州大友當君.月窓照芳大童子」の銘がある。御法事記録お戒名名付(両掛箱763)古文書には月貞照芳大禅定門 文禄3年(1594)11月柳川瀬高上荘葬千来迎寺とある。
来迎寺第4世の應誉上人は柳川の人で姓は藤氏であり、蒲池鑑久の孫である。柳川城主立花宗茂の亡き夫人のため、元和7年(1621)柳川に良清寺を創建、第1祖となられた。また境内には瀬高町女山出身の松尾竹後の歌碑「秋高し思へる今が過ぎてゆく」がある。
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左端小田部殿氏女の板碑、右端大友男也の墓
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来迎寺楼門 |

本堂 |
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正覚寺(瀬高山) 上庄二百町 |
真宗東派、天正年間(秀吉の時代)蒲池鎮並の家臣 島添図書が剃髪して道喜と称して、白鳥村に正覚寺の古跡があったのを再建した。慶安2年(1649)に四代目の時今の地に移して建立した。初めは浄土宗だったが享和元年(1801)改宗して真勝寺の配下になった。
本堂の東側には、下庄上町の田中酒造「都の月」の酒蔵を移築されている。しかし残念なことに酒蔵の面影はない建築物になっている。 |
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遠成寺(廃寺) 上庄二百町 |
文化4年(1807)僧遠成により開祖。遠成は正覚寺の弟子となり大音と号していた。正覚寺の本堂の再建、東本願寺への転派に際しては大いに勤功を尽くし、本山より利刀を頂戴し、坊号遠成坊を許され、大品本尊を頂き、正覚寺門前に一寺を開祖した。当年46才の時という。通称門前という名でよばれていた。
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土居町観音堂 |
元井泉山・智善院と称した。開祖不詳。柳川藩三代鑑虎(英山公)の代より、藩主の飲料水を献上する。ゆえに米5表を寄附せられる。寺内に観音堂、不動尊、がある。堂内には如意輪観音、左右には不動尊、毘沙門天が祭られている。そばにえん魔堂がある。
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青光寺(山門山青泰院)跡 「住吉宮跡の碑」の後ろを降りる 廃寺 |
かって庄の池のほとりにあって大伽藍であったと言われている。寛政5年(1793)社寺帳に高8斗2升5合、畝5畝15歩、寺屋敷が洪水に崩れ、その跡を開き住むとある。畝5畝21歩、高5斗7升、年貢御免寺領とある。延宝8年(1680)と延宝9年に農民とトラブルがあったことも記されている。その後文政5年(1822)2月に上庄大火の折に焼失した。地蔵堂や1.14m程の安山岩の阿弥陀独尊立像を線刻し道金禅門、妙栄禅尼の銘があり、また永禄3年(1560)の年号がある。銘は夫婦のものであろうか。また境内に阿呼庵があったという。地蔵像は昔は庄の池の中程にあり、歯痛を鎮める御利益があると信仰されていたが庄の池の埋め立ての折に当境内に移された。台座正面に新宮寺老隠、裏には享保■■大阿闍梨法院宥■の銘があった。昭和41年の矢部川改修の折に台座は紛失している。当寺は蒲船津村熊野神社・正行村熊野神社・東開の海童神社・上庄浜王宮・住吉宮・鷹尾村八幡宮などの社僧を勤めていたという。昭和41年矢部川改修工事の為、寺地に縮小され現在はお堂があり、弘法大使像が安置されているお堂の周りには石仏が数多く並んでいる。 |

弘法大使像 |

石仏群 |

阿弥陀独尊立像 |

地蔵像 |
西念寺(大心山) 上庄東新町 |
天正3年(1575)真宗東本願寺派の僧浄安が建立開基した。昔、家伝薬として小児のカンの薬が製造されていた。俗に「西念寺さんのカンの薬」有名であった。幕末には町人の子供に基礎的な読み方・習字・算数を教えていた。明治5年(1872)の学制発布ともに西念寺の寺子屋の児童を祇園通りの小学校に引率していったという。境内に一石有蓋の笠塔婆、高さ40cm、正面笠下に浅い室に尊名不詳の二尊並坐を浮き彫りにし、左端に妙金大姉の銘あり。側面に妙来の立像を線刻してあるが無銘である。これを林操の両親の墓ではと思考する人もいる。傍には烈女、林操の墓が並んでいる。(由来は清水寺の千体仏堂で)現在の墓は昭和8年に復元再建されたものである。 |
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(奥)笠塔婆(前)如来の立像 |
林 操の墓 |
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金刀毘羅神社 上庄新町 |
崇徳天皇、大己貴命(おおなもちのみこと)を祀ってある。創立年代は不明だがお倉浜に出入りする船の航海安全を祈念するために建立されたものと思われる。1840年(天保11)に大風の被害にて11年後再建、1866年(慶応2)には大洪水で流され1872年(明治5)に再建され現在に及んでいる。(外川文書)境内の右側には民衆を救う神さま権現神社と奥隣には大黒・恵比須神と矢部川水神さんが祀られている。 |
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金刀毘羅神社 |
大黒・恵比須と矢部川水神 |
権現神社 |
観音堂・十王堂 土居町 |
来迎寺の納骨堂の西側にある。もと井泉山智善院と称した。開祖不明。柳川三代藩主鑑虎(英山公)の代より、院内より藩主の飲料水を献上す、ゆえに米5表を寄附されている。観音堂には本尊の如意輪観音、左右に不動尊、毘沙門天が祭られている。如意観音とは観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一つでもある。如意とは如意宝珠で全ての願いを叶えるものであり、輪とは法輪を意味し、煩悩を砕く宝輪で衆生の苦しみを救い、福と智慧を授けて下さる。像容は、東大寺の大仏脇士像や石山寺像などの、二臂像も、まれには造られたが、平安時代あとは普通見る六臂像が多く造られたという。当堂のものは二臂像である。写真の左の大きいお堂が観音堂である。右側の小堂は十王堂(閻魔堂)である。
十王堂とは仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔大王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官である。この十王をおまつりして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想である。判決は、6段階の刑になっており、最悪は「地獄」、次は「餓鬼」、「畜生」、「阿修羅」の順で、人間世界の「人道」と天人の住む「天道」が善人の行く世界である。再審制度が完備しており、地獄や餓鬼道に落ちたものは百日目、1年目(1周忌)、3年目(3回忌)に救われる道が開けている。この3回の裁判官を合わせると十人の王となる。お彼岸にはお参りするお遍路さんで賑わう。 |
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観音堂 上庄西新町 |
天保年間に三潴郡の方が五十丁村(三橋町)の筑後33観音霊場のお堂の分霊をこの地に持って来た観音堂である。春と秋のお彼岸には観音霊場巡りの方が訪れる。.
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浜王宮 上庄土居町 |
創建年代、由来など明らかではない。この祠に男女二体の像が祀らてている。明治4年の「新宮三社之由緒覚」に浜王宮とあり、この祠が明治4年以前からあったものと考えられる。この祠の中には「め」の字をいくつも書いた紙が納められており、眼病に対する民衆の信仰もあるようである。郷土史家の大江考祥氏によると祭神はおそらく真言宗の守護神、観喜天を祀っていると思考できるそうだ。富を司る現世利益の神様として、また学問の神様として祀られ、 特にお仕事やお金に関してはありがたい神様である。元はインドの神ガネーシャで日本に仏教とともに渡って来た神様であるが御神体は日本風に祀られ信仰されている。
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愛染明王堂 上庄瀬口土居町 |
来迎寺の東門脇にある小堂で昔の共同井戸があり、周辺住民の井戸端会議の場所であったろう。傍の大城宅の先祖が京都より持ち帰り祀った社で彫刻が素晴しい。小堂には石造に着色した愛染明王が安置されている。愛染明王とは梵名をラガラジャの意でラガとは赤色愛情、愛欲貧染をそのまま浄菩提心にせしめる明王で、煩脳即菩提の本尊とみられるものである。明王は空海が唐から伝来したもので、平安時代にもしばし制作されたが現存する像は少ないという。また愛を授ける神として信じられている。愛染明王は、”藍を染める”と愛染をかけて染物業者に信仰された例があります。上庄には秀吉の時代には高良玉垂宮の市の座があり紺屋(染物座)も存在して、染色業者に愛染明王信仰があったかもしれません。
ご真言
おん まかあらぎゃ ばさら うしゅにしゃ ばさら さたば じゃうん ばんこ ウウ-ン
オン マカラギャ バゾロウシュニシャ バザラサトバ ジャク ウン バク
オン マカラギャ バゾロウシュニシャ バザラ サトバ ジャク ウン バンコク |
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十王宮 横道 |
創建年代は明らかではないが、かってこの祠の側にある井戸を掘った時、土中から一体の像を掘り出し、これを十王として祠を建て祀ったものという。十王とは冥界にあって亡者の罪業を裁断する。没して後、7日ごとにそれぞれ泰広王(初七日)・初江王(十四日)・宗帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)・追加の裁断が平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)・の10人を十王と称し、仏事の法要は大抵7日ごとに七回あるのは十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためである。それは唐の末期(中国)に道教の思想から十王信仰は成立したと伝えられてる。日本では平安時代後期頃より信仰されて、鎌倉時代には思想的にも作品にもきわめて充実した。江戸時代には数が増えて(七回忌・十三回忌・三十三回忌)十三仏信仰なるものが生まれる。
ここの祠の主も十王の1人であり、この地がかって青光寺の境内にあり、そこに祀られていたものと考えられる。 |
高明(こうめい)神社 上庄横道 |
堤防の上に鎮座していたが矢部川堤防改修工事の為、下にこの場所に移設された。地元では「こうめいさん」と呼ばれ信仰されている。その左に石碑があるが水難事故で亡くなった方の霊を祀る為に建立されたと思われる。左側には珍しい夫婦像のエビス神を祀る石の祠がある。古い時代から矢部川を舟で渡り柳川に行く街道の入口で商店や宿が建ち並び、賑わっていた時代を思わせる。さらに左の石碑には末広大神跡・高明大神の銘がある。末広神社の存在していた事を表している。 |

高明神社 |

恵比須神 |

末広大神跡の碑 |
薬師如来堂 出口、上庄小学校前信号西寄り川口食品隣 |
江戸時代の建立と言い伝えがある。疫病が流行し、厄除けのために薬師如来堂を建てたという。入口左には榎木の神木があり、お堂裏に古墳がありそこから移植されたという。古墳からは鎧や兜が発掘されているが創建時代は不明。近所の彫り師によるお堂の彫刻の獅子は他にない、めずらしい他にない、たて髪のある雄のライオン像である。お賽銭箱を積み立てお堂の補修をされている。お堂左側には弘法大師の石の立像や13仏像が並び、お彼岸にはお遍路さんが参拝に訪れる。西隣の小柳元之宅では、お花を上げたり、毎日お堂の扉の開閉をおこない賽銭により建物も立派に管理、補修されている。 |
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お地蔵さん 二百丁 |
上庄二百丁のお地蔵さんである。往時には向え側の水路には桜庭酒造の酒造米を精米する4連水車があったという。

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乙丸さん 出口 |
出口集落の西の田んぼの中に小さな祠があり、古墳の上に造られたと思われる。平安時代上庄には乙丸の名(部落名)の庄園があったことから、それに関係ある名の祠で自然信仰されたと思われる。乙丸の小字名は現在も残っている。 |
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八坂神社 上庄御前橋 |
素盞鳴命(すさのおみこと)を祀ってあり、境内は12坪で上庄の御前橋にある。 |
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宝満神社 北原 |
大宰府政庁ができた時、鬼門(東北)よけとして竃門神社が建立された。宝満山のふもとに下宮、中腹に中宮跡、頂上に上宮がある。別名を宝満神社と呼ばれ、玉依姫命を祭神としている。天台宗の修験道があることから、福岡県にある、この神社の多くが修験者により勧請されたものであるといわれているが、荘園制によるものもあると言う。北原の宝満宮の創建年代は明らかでないが、三橋五十丁の宝満宮の旧記によれば慶長2年(1597)の創建と言われ、同社の楼門の棟書に瀬高五十丁とあり、北原の宝満宮の創建は慶長以前にさかのぼるものと思われ荘園時代に創建されたと思われる。また五十丁の宝満宮は昔北原の宝満宮が矢部川の氾濫によって流され止どまれたので、五十丁に祭られたとゆう伝説がある。戦前は五十丁の人々によって境内の掃除、供花などをされていたと言う。
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牛の御前 上庄字牛御前 |
昔から何の神であるか明らかでない。上庄の北原の県職アパートの西北約500mの所に小字名を牛の御前という所の田んぼの真ん中の杉の木立ちの寂しい森に石祠に神体を彫んだ(元禄時代の奉納)牛御前さんが西方を向いて鎮座しています。現在でも献花はもとより、酒、お菓子、果物など奉納され上庄の人に愛され、おまいりに来た方々が清掃され生き生きと信仰の対象となり守られています。この付近から平安鎌倉室町各時代の磁器片や古代土器が発掘され上庄の中心部であった証である。
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天満宮 上庄三軒屋 |
三軒屋集落の氏神さんで公民館横、県道沿いに天満宮がある。菅原道真公を祀る。 |
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山免の神 上庄西新町 |
山免と言う古地名が上庄の矢部川下流端にある。文禄5年(1596)に藩主立花宗茂は上庄祇園宮に社領30石を寄進し、宗茂改易後は、慶長7年(1602)に田中吉政が50石を寄進している。その時に寄進された田畑であるという。免とは税を免ぜられた所で山とは古墳の意味ではないだろうか。古老によると昔は古墳があり神を祀ってあり、恐ろしく祟りのある場所として人々は寄り付かなかったという。別の説に矢部川の堤防を築こうとしたけけど、相次ぐ大雨で工事が進まず、縁起しきたりに従い水神さまに人柱をたて完成したという。その人柱になり犠牲になった方を祀った場所であると言う。そばに新しく置かれた山神・水神・地神の石碑がある。 |
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上庄小学校・沿革
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瀬高小学校舎

瀬高学校の瓦 |
明治4年(1871)に六大学区三瀦県第二中学区山門郡瀬高第四番小学設立。
明治6年(1873)2月、元、上庄陣屋(御茶屋)跡を借り受け同、山門郡瀬高第四番蒙正小学と改称する。生徒数、男72人・女22人で教員数4名、主者(校長)は下村八郎。
明治9年(1876)第五大学区福岡県筑後国山門郡上庄町村第百三番瀬高小学と改称。
明治17年(1884)4月、福岡県山門郡十一番瀬高小学校と改称。
同年9月本町(樺島不二夫宅の隣地)に二階建て校舎が新築される。、
明治20年(1887)4月、尋常、簡易の両科を併置、上瀬高小学校と改める。
明治26年(1887)4月、福岡県山門郡上瀬高小学校と改称。
明治37年(1898)4月、福岡県山門郡上庄尋常小学校と改称。
明治41年(1898)1月、実業補習科を置く。
明治44年(1901)10月、現在地に校舎新築され移転する。
大正14年(1925)、高等科女子部を併設し、上庄尋常高等小学校と称す。
昭和16年(1941)、福岡県山門郡瀬高第二国民学校と改称。
昭和22年(1947)、福岡県山門郡瀬高町立上庄小学校と改称。
昭和24年(1949)、校歌制定。作詞与田準一・作曲平井保喜。
昭和29年(1954)、児童急増の為に、校舎改増築(第1棟)。運動場拡張。
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明治維新後、目まぐるしく変化する。明治4年(1871)に本町の森田新三郎宅に郵便取扱所設置される。のちに警察・学校・銀行・も軒を並べた。
明治11年(1878)には大昌地に巡査屯所開設された。同年の戸数564・人口2,731人、耕宅地121町余。
明治18年(1885)に祇園宮の北側に、旧国道(現・県道)の柳川・南関線が建設され木橋の瀬高橋が架けられた。
明治22年(1889)に町村制が実施され、矢部川河川敷の下庄町の泉・干出・西川原・東川原が合併吸収され、上瀬高町となる。
明治27年(1894)に江崎酒造横に瀬高銀行が創設される。
明治34年には下瀬高町(以前の下庄町)と合併して瀬高町となる。
明治37年に矢部川の大和堰が完成し、上庄北部にある水田に水路が整備された。

明治42年には柳川〜矢部川駅(のちの瀬高駅)間の柳川軌道が国道に敷設され便利となる。
大正元年(1912)上庄二百丁の東部医学研究所内に山門産婆養成所が創立した。
大正2年(1913)に郡立瀬高技芸女学校(現・山門高校)が創立し、
大正8年(1919)に相次ぐ洪水の為に矢部川の拡張改修工事で上庄「庄の池」を埋め立て、本長寺は下庄恵比須町に移転する。
大正11年(1923)上庄祇園宮道場にて、瀬高町弓術大会開催。
大正12年(1923)には県立山門実業女学校として(現・山門高校敷地)に本館を新築された。
大正13年(1924)大洪水、上庄堤防決壊。
大洪水で木造の瀬高橋が流された。
昭和3年(1928)上庄の堤防が洪水で300m以上決壊する。上庄八坂神社が新築落成され、同境内の新宮社は廃止された。
昭和4年(1929)上庄尋常高等小学校に佐世保海軍より飛行機のプロペラが海軍思想普及用に無償提供された。
昭和6年になり矢部川に2連の鉄橋で橋脚は鉄筋コンクリート製の瀬高橋が完成した。
昭和10年上庄郵便局が下庄恵比須町に移転し瀬高郵便局が新築された。
昭和19年(1944)には太田(瀬高)堰が完成した。
昭和26年(1951)、山門高校正門西側に山門青果市場が創業した。資本金60万円、従業員50名、せり参加組合員81名。
昭和26年(1951)、上庄の円鏡寺に保育園創設。山門保健所新築落成。上庄に酒造会館落成。
昭和41年(1966)にも矢部川堤防改修工事で横道の一部が移転、住吉宮は八坂神社に移転され堤防を高くし、川幅が拡張された。
昭和46年に瀬高橋の架け替えが完成した。同63年には下流に新瀬高堰が完成し、水遊び場や洗濯場として親しんだ旧瀬高堰は撤去された。 |
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大正期の祭りハッピ姿の町内のみなさん
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大正13年山門実業女学校(現・山門高校)の第2回運動会 |

昭和6年に鉄橋二連・鉄筋コンクリート橋脚に |

木造の柳川軌道専用橋(昭和6年) |

柳川軌道 |

現在の瀬高橋(川幅も広くなり堤防の高さも高くなった) |
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【瀬高上庄八坂神社御大典記念写真】
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昭和3年の御大典(昭和天皇)奉祝典に参加した氏子、老若男女の晴れ姿。神官・巫女・稚児姿に威儀を調えた晴れやかな顔々が見える。 |
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【地名の話し】 |
三軒屋(行政区名) |
上庄の北端にある。開拓により出来た土地に移住分村し、当初は3軒の家があった事による起名です。現在は行政区名になり、40軒以上の集落になっています。 |
北原(行政区名)上北原・東北原(小字名) |
ハル、バル、ハルは開墾の意味で瀬高地方では今でもよく使用される言葉です。上庄の北にある北原の原は野原の意味でなく、開墾を意味する、ハリ、ハルに宛てたものと思います。 |
夜失永(小字名) 三軒屋 |
原亀男氏の瀬高町地名考によると「永は「ナガ」で「ナカ」からの転訛であろう。地名語源には「那賀」などがあり「土地」という意味がある。したがって夜失われる土地と理解できる。」とある。矢部川河岸にあった低地で、矢部川が増水氾濫すると一夜のうちに田や畑や家屋が流失した低地であったから、こうした珍しい地名が名付けられたのだろう。ちなみに倉永(大牟田市)宮永(柳川市)などがあり、永を土地の意味に解釈するとこれらの地名を理解できる。 |
水洗・東水落・西水落(小字名) |
洪水のたびに水に浸る田畑からの起名でしょう。鬼橋に伸びる矢部川からの大和水路は昭和19年に建設されている。 |
京床(小字名) |
周りの田畑からみて洪水のたびに水に浸る所でしょう。 |
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祇園田(小字名) 三軒屋 |
上庄北原の夜失永の北側にあり祇園宮の神領で免税された地名です。祭事の費用をこの田で賄っていたのでしょう。 |
秀(小字名) |
山門高校の場所で現地の状況からして、磧、川原に類するもので、よく乾燥する地域につけた地名と思います。矢部川沿岸か旧河川跡にあります。日がよく当たるなどの気象的地名ではないと思います。1996年の発掘調査で平安末期の遺跡があり土師器(皿)や磁器、井戸、溝が確認されています。掲載の明治12年頃の古測量地図西側には旧堤防が構築されている。 |
泉・干出・西川原・東川原(小字名) 下庄町領域 |
現在の山門高校(小字秀)の東側から三軒屋までの河川敷は明治13年までは下庄町の領域になっていました。天保年間の本郷組大庄屋日記にも小川組の下庄町域として扱われていました。 |
松原(小字名) |
上庄小学校の付近です。矢部川が蛇行してこの付近が河畔の松原であった意の地名です。しかし西側を通る薩摩街道は本郷組大庄屋日記で通行の邪魔になった杉枝の伐採の願書から杉並木であったことが解かっています。山川町の原町の薩摩街道筋も杉並木でした。 |
東鶴崎・西鶴崎(小字名) 出口 |
鶴の舞い降りる岬の意で縁起に良い地名ですが、語尾につく鶴の地名と同じく水の曲流部にできた小平地を指し付近の田畑まで拡がったものと思います。この地の周りには原野の意味の松原の地名や腐道ががあるのでやはり湿地帯であったろう。 |
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住吉(行政区名) |
瀬高橋の南側の堤防にあった住吉宮の所在する場所にちなんで近年に起名された行政区名です。元は小字名の大昌地のあった場所です。 |
大昌地(小字名) 住吉 |
おおしょうじとは大庄地とも書ける。瀬高庄の庄官の住いや役所の建物があったことから起名されたのであろう。
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横町(小字名) |
横町は河川堤防拡張工事で消え去った小字名です。 |
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本町(行政区名) |
「本町」とは元の町の意味であるから、上庄の中心となる意の地名です。八坂神社(祇園宮)を中心として栄えた町です。多くの店舗が並ぶ繁華街で夏の祇園祭りは人が通れない位、賑やかでした。西村酒屋、山田酒造、大正酒会社の酒蔵がありました。 |

祇園池 |
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二百町(小字名)(行政区名) |
二百町とは領地面積を示す地名であるが現在の当敷地では狭いので、鷹尾文書に上庄周辺の横手庄二百丁とあり、この面積で起名したのではないだろうか。横手(三橋町)とは上庄の西南にある地名で二百町と一連のつながりがあったと思われる。上庄の西側には五十町や百町の開拓地名があります。明治時代では村石本家、村石商店、馬場酒造、川島酒造の酒蔵が建ち並んでいました。酒造の麹と米を使用して蒸し饅頭やおこし米の店もありました。参拝客のお土産に通称「瀬高名物・およんさんおこし」と呼ばれ人気であった。 |
新町(小字名)(行政区名) |
藩政時代商業の発展した名残の街区名です。お蔵の浜の柳川藩の米の積み出し港としても栄えた町です。航海の安全を祈る金毘羅神社があります。瀬口からの、この通りには職人の多い町でした。西念寺の西側には秀吉の時代から藩内の鋳物師を賜ってきた平井家がありました。行政区名は西新町・東新町があります。 |
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横道(小字名)(行政区名) |
矢部川の横にある道の意の地名で藩政時代商業が栄えた町です。稲荷神を祀る高明神社は堤防の上に鎮座していたが矢部川堤防改修工事の為、堤防下の現在の場所に移設された。 |
松土居(小字名) |
元々土居は城郭・豪族屋敷・集落周囲に築造された土塁を称していました。それが次第に河川の堤防の名詞になりました。矢部川の水流制御の堤防に関係した地名です。南方の矢部川の傍にあり、松並木でもあり優美な景色であったでしょう。 |
瀬口(小字名) 瀬口土居町(行政区名) |
瀬口は 矢部川のちなんだ地名です。平安時代から明治時代まで栄えた町です。来迎寺の門前町でもありました。来迎寺の東門脇にある共同井戸の横には愛染明王堂の小堂があるが染物業者に信仰されたり、愛を授ける神として信じられてきた。近年に松土居と合わせて瀬口土居町の行政区名となりました。 |
出口(小字名)(行政区名) |
集落としての位置を示すもので今は行政区名になっています。この地は柳川往還と薩摩街道の分技するところから起名されたのではないでしょうか。大名はここにある、お茶屋(陣屋)に宿泊して、明朝出発した所です。酒蔵では桜庭酒造、浜武酒造がありました。
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お茶屋前(通称名) 出口 |
江戸幕府の交通政策により参勤交代の街道に宿場を設け、大名は必ず本陣(お茶屋)又は脇本陣に宿泊することを要求した。本陣の事をお茶屋と称し、お茶屋番がおかれ、大名および幕府の旗本、日田代官の高級武士の宿泊、休憩所として用いられた。県道423号の御茶屋前の信号から南に旧薩摩街道を入り20mから63m位までの東側一帯の敷地774坪にあった。建物は本棟と別棟の長屋があり、本棟は22室程あり建坪は157坪程であった。詳しくは街道編瀬高宿を御覧ください。 |
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御倉前(小字名) |
「瀬高倉」は江戸初期に柳川藩の税収(上納米や麦)を集めたり売り払ったりする為に設置された。瀬高御倉の敷地は小高く周りは掘割で囲まれ警備され、お倉の横と川岸には精米用の水車小屋があった。現在、小字の地名で「御倉前」として残っており、お倉の小高い敷地は民家が建ち並び廻りの用水路が昔の名残りを留めている。積み出しや搬入のは南側の矢部川の川岸に石垣で御倉の浜が造られた。その頃は大阪へ寿司用の上質米(大阪回米)として出荷され藩財政を豊かにしていた。金比羅宮はお倉浜に出入りする船の航海安全を祈念するために建立されたものです。 |
山免(小字名) 西新町 |
文禄5年(1596)に藩主立花宗茂は上庄祇園宮に社領30石を寄進し、宗茂改易後は、慶長7年(1602)に田中吉政が50石を寄進している。山免はその時に寄進された田畑である。 |
中河原(小字名) |
矢部川が蛇行して流れていた頃の河川敷であったでしょう。
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重春・乙丸小字名) 五十丁 |
荘園制度の下部組織をなすのが名田制度です。名田とは、一般農民が土地の私有権を強化する為に、自分の名を付けたものです。鷹尾文書によれば、瀬高庄の下に22の名があって、その中に吉里名、有富名の名田がありましたが、重春・乙丸も名田の遺名です。「読本旧柳川」に「上庄の繁栄したのは、鷹尾別府10名の米満・小法師丸・三郎丸・田吉・一在・倉光・弥吉・末吉・小太郎丸・乙丸の役所、倉庫があったからである。小法師丸と乙丸の両名が荘園と別府のどちらにも入っているのは、瀬高上庄分と、下庄の鷹尾別府と二つあったことがわかる。」とある。乙丸は人名に由来するものでしょう。 |
鍛冶屋給(小字名) 五十丁 |
鍛冶屋職人にが住んだとも言われるが、この土地は水田地帯だから、職人の仕事がない時に野良に出て働いたとも考えられる。 |
牛御前(小字名) 北原 |
県職員住宅の西側にあり、牛御前の神社が祀られている所を意味する地名です。牛御前は疫神や悪人の進入を防ぐ神様であったろうか。上庄の牛の御前は江戸元禄時代に石塔に神体を刻み奉納されておりこの時代信仰が盛んだったことを物語っている。 |
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一条寺(小字名) 北原 |
牛御前の北側で条理制の遺名でしょう。
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宮手(小字名) 北原 |
宮の神領で牛御前の西隣にあるので牛御前の宮の神領とも思える。
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腐道(小字名) 出口 |
上庄の腐道は地名として汚名の最たるものです。土地に対して、申訳ない気がしませんか。ここはかって、湿地帯でゴミ捨て場でもあったのでしょうか。 |
吉田(小字名) 出口 |
吉田は一面に葦が生い茂っていたらしく、入植して開拓を始めた人たちは、ここを葦田と名前を付けました。しかし、葦田は悪し田に通ずるということから、葦を吉と呼び替え、願望を込めて佳名好名の吉田と決めたのでしょう。 |
江湖橋(小字名) |
江湖とは海水が出入りする川を称した。灌漑水の乏しい時代に樋門を設け満潮時は海水の上部にある淡水を水田に引水した。下層の海水が浸入し始めると樋門を閉める。江湖に設けた井堰による灌漑法がとられ、その遺名が残ったのでしょう。上庄の江湖橋は矢部川の本流か支流が上庄を中心として迂回していた頃、江湖があった所でしょう。
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鬼橋(小字名) 五十丁 |
上庄の西端にあり、御二橋のある所であるので、オンニハシがオニハシに転訛して鬼橋の漢字の地名を宛がったのだろう。平安時代の荘園時代に柳川に行く道路に架かる橋に上庄の庄館から御前橋→御二橋→御三橋(現在の三橋町)の名が付けられた歴史がある。
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筑後市史・大和町史・立花町史・旧柳川藩誌・黒木町史・瀬高町誌参照・堤伝著、柳川の民話・柳川藩本郷組大庄屋記録(上庄関係)河野覚解読編集。
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