庄福BICサイト             【禁無断転載】   福岡県みやま市瀬高町小川字金栗   H24・6・1製作
 
 金栗は古代から返済川の恵みと洪水を受けながら、連綿と続いてきた集落です。昔から多くの古墳が点在し、田んぼからは土器がよく出土していました。昭和25年(1950)4月15日より瀬高中学校のグラウンド拡張(かくちょう)の際、金栗(アスタラビスタ南、あんざい歯科東側)より土を求め、地下げの際に弥生後期〜奈良時代の環濠集落(かんごうしゅうらく)遺跡発見されました。東西40m・南北30m環濠集落(かんごうしゅうらく)の内側に、井戸6基、()跡3ヶ所、灰のつまった竪穴4ヶ所、小形竪穴16棟が出土している。環濠集落の中央に全国でも珍しい2重の木枠(きわく)をつけた井戸で、内枠は木を()り貫き下部3ヶ所に穴をあけ、外枠として巨木を半切して内をくり抜いたものを抱き合わせた奈良時代の井戸1基が完全に近い形で発見され( )この井戸底より当時の(くし)と須恵器が出土した( )瀬高町でコンクリートの側壁が施工され金栗遺跡県指定遺跡となり井戸の横に案内板も設置された(.)円筒コンクリートの内部を覗くと水の中に先は朽ちて鋸状だが、木枠状の円筒が確認できる。奈良時代の釜戸土師器(はじき)須恵器(すえき)、平安時代の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)跡、鎌倉時代の「金玉満堂(きんぎょくまんどう)」の吉祥句(きつしょうく)刻銘(こくめい)をもつ輸入された宋青磁など発掘されたことから、弥生時代の環溝(かんごう)が鎌倉時代前期まで存在し、小形の住居を建設し、共同生活を営むという、弥生時代環溝集落の慣例と何ら異なるところのない(.)一般住民の生活があったことを知ることができます( )この遺跡の南30m地点の昭和62年に地下げ工事で発見された遺跡からも陶磁器、緑釉水差(りょくりゅうみずさし)滑石(かっせき)の権(分銅)などが出土している。さらに遺跡の東方200m地点に鉾田(ほこた)遺跡(小字鉾田)がある。高台を地下げして水田とする工事の際に発見され、弥生、中期初頭〜後期前半の50数基の甕棺(かめかん)埋葬の共同墓地が発掘された。大きな甕を組合わせてその中に死体を入れて葬った甕棺(かめかん)からは10cmの銅鉾片、また小型銅鏡、紡垂車(石)、弥生式土器の破片が多数出どしている(.)

   

鉾田遺跡の甕棺墓
 金栗遺跡発掘土器     金栗遺跡発掘土器                       
 
釜戸、上の器で調理してた
金栗遺跡出土
 
 
竪穴住居(想像復元画)
金栗遺跡周辺   金栗遺跡の奈良時代の井戸 奈良中期の(かわら)金栗遺跡出土   鉾田遺跡付近
みやま柳川高速インターへのバイパス

 山法師塚古墳は金栗の南方水田中にあり高さ2m、直径10mの円墳である。付近にはもう一基あったが取り壊されている。傍の鉾田遺跡は、辺済川の旧河川が形成した、現標高5.5m前後を測る自然堤防上に立地しますが(.)遺跡周辺は土取りによる地下げが行われる以前は現在より標高が1m程度高かったと考えられます(.)昭和31,32(1956,1957)に土取りによる多数の甕棺墓・箱式石棺墓が発見されたことから、九州大学の鏡山猛によって記録作成と報告が行われた(.)第一区では、甕棺墓・箱式石棺墓数10基が出土、第二区では、甕棺墓48基を確認し、弥生中期中期初頭から弥生時代中期中葉の甕棺と想定された(.)そのほかの群とは空閑地があることから、一辺10m程度の方形区画(墳丘か)が存在し、その中に甕棺墓群が営まれた可能性がある(.)また、弥生時代中期初頭と推測される13号甕棺墓では細形銅剣切先一点、時期不明である10号甕棺では棺外で磨製石鏃(ませいせきぞく)一点の出土など(.)BおよびB’群でのみ副葬品が集中し、他の群に比べ優位な群と考えられることも、墳丘の存在を示す傍証(ぼうしょう)になると思われます。古代遺跡は東南の隣村の有富の大江北遺跡(小字石原栗ノ内・B・C海洋センターから線路沿いに南に600m))で弥生時代の甕棺墓が多数発見されあた金栗(小字鉾田)の鉾田遺跡(ほこたいせき)の南に連なった部分である。昭和31・32年の地下げ工事に伴った調査で(.)平安時代から鎌倉時代にかけての92基の土坑墓・副葬品の土師器・瓦器・白磁・青磁椀・銭(治平元宝)が出土している( )隣村の有富・大江・真木昭和31・32年の地下げ工事に伴った調査で(.)平安時代から鎌倉時代にかけての92基の土坑墓・副葬品の土師器・瓦器・白磁・青磁椀・銭(治平元宝)が出土している( )有富の南遺跡からは弥生時代中期後半の竪穴遺構、古墳時代中期の竪穴住居跡3軒、後期の竪穴住居跡7軒を発見出土し遺物は土師器の杯、小型丸底(つぼ)、椀、小型(かめ)、甕、高杯が出土している。真木遺跡(小字西屋敷付近)では(.)水道管埋設工事で発見され昭和59年11月に発掘調査され、古墳時代後期(6世紀末)の溝とピットの堀立柱の建物跡を発掘された。溝内からは水筒として用いた須恵器の提瓶(ていへい)、酒器、壺、杯、土師器の杯、(かめ)、高杯と平安時代の白磁椀などが完全な形で出土し、古代から連綿と生活を営んできたことが証明された(.)このことから、弥生時代から鎌倉時代と長い歳月、金栗から南に真木まで広範囲の集落の存在があったとみられる(.)

   平安時代の寿永(じゅえい)2年(1183)の鷹尾神社文書「下荘公文所下文写」によれば、下荘(下庄)の鎮守社である鷹尾社の神人(じにん)集団神人とは神社に従属して社務や祭祀に奉仕する人の中に( )金栗高柳上庄下庄吉里馬木などの村落名を苗字としている者が見られるが(.)金栗らは瀬高荘内に名主(みょうぬし)職を持つ開発領主であり、金栗遺跡は庄園時代の村の姿も垣間見ることができる(.)  
 
 藩政初期の柳川藩の8大庄屋組の小川組に属し、金栗村の村高は292石である。貞享2年(1685)頃は鍋田助右衛門 が、文化文政の時代では吉沢宗右衛門吉沢政次郎慶應年間の大庄屋役は今村嘉十郎が務めていた。大庄屋・庄屋にかなりの権限を与え(.)一定の自治権を認めていた村の行政制度は明治3年に大庄屋9組は廃止され庄屋は戸長と改称される( )明治9年大政官布告(だじょうかんふこく)「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」が公布され、これを契機に郷土の村の併合(へいごう)が行われ、堀池園村、上小川村、金栗村が合併して小川村となり、明治11年の戸数167戸、人口827人であった( )明治22年には太神村、大江村、小川村が合併して小川村となる。明治40年には1町4村の合併により瀬高町となる( )教育関係では文久3年(1863)西田幹治郎が金栗の自宅に私塾明倫堂(めいりんどう)」を開設していたが明治5年の学制公布に依って閉塾となり、明治8年(1875)金栗村に麗川小学校が出来る( )明治9年(1876)には、新たに金栗小学校ができ、土曜半休、日曜全休となる。明治18年(1885)金栗に(.)小川小学」が創立する(学区は有富・金栗・上小川・堀池園・大江・真木・高柳)。明治25年(1892)12月に金栗の「小川小学」が大江に改築移転し(.)小川村立「大江尋常小学校」となる。大正2年(1913)には金栗の児童は近い下庄小学校に就学することになりました(.)
 昭和44年(1969)瀬高町役場新庁舎(現・みやま市役所)が、昭和46年5月三山(みやま)消防署が完成し、国道443号三橋瀬高バイパスが開通し商業施設も増えましたが金栗の部落内は昔の面影を残しています(.)
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         【郷土の人物像】

 金栗の部落西入口の阿部家の庭に樹木の幹が太くなり隣の墓が傾いた為に大正4年10月に位置をずらして建替えた先祖の墓がある。自然石の正面に天正元年没 阿部源之十墓 ・ 大正4年10月建之  阿部熊市 天正(てんしょう)元年(1573)とは織田信長が延暦寺も焼き打ちをし、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、室町幕府滅亡した年であり、この源之十が金栗の阿部家の始祖とみられる。瀬高は酒どころで有名であったが(.)最も古い酒蔵は阿部酒屋であった。酒造業創業者の阿部利左ヱ門江戸中期金栗から下庄新町に移り、酒造業を創めた( )屋号の亀屋は下庄新町で酒造を始める以前は金栗で酒や味噌・米などの容器の(かめ)の製造を( )あるいは多くの甕による酒造をしていた時のなごりとみられる。かめ屋発祥の金栗部落には先祖の供養塔(くようとう)天正元年(1573)に没した阿部家の先祖・源之十の墓があり( )近年まで代々番頭が管理・お参りしていました( ) 
      
天正元年没の阿部家初祖・源之十の墓



阿部酒屋(かめ屋)発祥の地・金栗の供養塔

 
      西田幹治郎(にしだかんじろう)(1831-1908)

 天保2年(1831)に金栗村庄屋の西田寛忠の子として生まれた( )幼い頃から学問が好きで、飯田、金森、大屋、大藪などの諸先生に学び、嘉永元年(1847)、吉井村の壇秋芳(だんあきよし)の家塾、鶴鳴堂(かくめいどう)に入門し文学を学び、嘉永6年(1853)23才の時に三池郡銀水村倉永の横地玄蕃助(よこちげんばのすけ)龍山書院で論語、四書、五経などの漢学を学ぶ
(.) 


明倫堂跡
 文久3年(1863)、藩に過激な勤王思想を取締る為に龍山書院の閉熟を命じられる( )幹治郎は先生の横地玄蕃助に私塾開設を強く勧められ金栗の自宅横に私塾・明倫堂(めいりんどう)を開設し幕末から明治期初めにかけて数100名の塾生を指導した( )後に龍山第一書院麗川(浦川)義塾と呼ばれた漢学塾である。明治4年(1871)4月戸籍法(こせきほう)の公布にともない庄屋職が廃止され幹治郎は11第49区戸長に任ぜられる(.)明治5年の学制公布によって閉塾(へいじょく)されたが、その後も先生の学徳を慕って習いに来る者が毎日30数名もあり、翌年には開塾願を提出している(.)明治8年(1875)に東津留・金栗・上小河村戸長に任ぜられる( )明治11年(1878)大蔵省の依頼で旧柳川藩・三池藩の貢租(こうそ)関係の調査に従事。明治17年(1875)6月に火災により明倫堂塾舎が全焼した為に8畳5部屋の塾舎を新築(.)8月、幹治郎は小川村村会議員と(山門郡)町村連合会議員になる。明治27年に塾内の祠堂(しどう)に藩校の孔子像(こうしぞう)を祀り、春秋二回の祭奠(さいてん)を続け、その儀礼を現代に伝えたことは著名である。また、漆塗細工(うるしぬりさいく)に巧みで、聖牌祭器等を自製し、それらは現在の伝習館高校での祭奠(さいてん)でも用いられている明治41年(1908)78才で没した(.)
  【 明倫堂を卒業した有名人】
  明倫堂を卒業した人物では( )水野澄治(田尻)はのちに長崎師範を卒業し中学校校長・郡書記を経て明治初年野田卯太郎(うたろう)(岩津)永井純一(江浦)佐々木七五三(上楠田)などと自由民権の思想の運動をおこなった。のちに大牟田町々長を務めている(.)
       永江純一(ながえじゅんいち) (1853-1917)
 嘉永6年(1853)三池郡江浦村生れ。西田幹治郎に学んだのち、長崎、東京と遊学し、帰郷して野田卯太郎(号・大塊(たいかい)らと共に自由民権運動に参加,明治19年(1886)に福岡県会議員となる。石炭業を通じて三井財閥と関係を深め,(.)三池で三池銀行三池土木三池紡績会社を会社を創立する一方、鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)取締役として日本の綿業発展に尽力。また政治家としても明治31年に代議士に当選(立憲政友会所属),明治41年および大正4年(1915)に政友会幹事長(.)明治25年の総選挙で吏党側運動員と揉み合って左足を負傷するなど,闘士であるとともに,実業と政治の掛け橋となった。大正6年12月19日、没する(.)
   
       渡辺村男(わたなべむらお) (1857-1935)
 蜷城下に生まれたた渡辺村男はのちに東京師範(しはん)学校を卒業したのち、校長や学務課長を歴任し、大正9年(1920)の皇太子殿下(のちの昭和天皇)の御前で「碧蹄館(へきていかん)の戦い」を進講する栄誉に浴した。退官後は15才頃からの趣味の郷土史の研究を続け「征西将軍懐良親王御陵墓考(せいせいしょうぐんかねながしんのうごりょうぼこう)(1934・著)碧蹄館大戦記(へきていかんたいせんき)(1922)旧柳川藩志(1957)邪馬台国探検記(1917)八戸聞見録(1942)などを著す( )昭和10年(1935)に没する。これらの著書は今なお郷土史研究の貴重な文献(ぶんけん)として重宝されている(.)
        成清博愛(なりきよひろえ)(1864−1916))
小川村堀池園の成清博愛は明倫堂の西田幹治郎に学んだのちに慶應義塾に進学し福沢諭吉(ふくざわゆきち)の教化を受けるが病気の為に中退し帰郷し政治の世界へ足を踏み入れ大隈茂信を中心に結成した立憲改進党の九州での結成に尽力した(.)村会議員から小川村の村長に選ばれたが村長の椅子は小さすぎると経済界や政界で活躍したく、わずか1年で村長を辞任し筑豊の炭界に進出するが失敗して(.)借金や先祖からの資産を使い果たし一家離散の破産寸前に明治44年(1911)に大分県の馬上金山(ばじょうきんざん)で掘り当てて日本一の金山王となる( )大正4年(1915)大分県区から念願の衆院議員となるが翌年1月17日に病死する(.)詳細は堀池園の金山王 成清博愛(.)
         阿部暢太郎(あべちょうたろう)(1884-1966)
  明治17年(1884)1月、明倫堂のある小川村金栗の農家の阿部弥七(あべやしち)の次男として育つ。本名長太郎、号は麗湖。少年期に西田幹治郎について漢学を学び、上京して明治法律学校(明治大学の前身)に入る傍ら英数学館(.)正則英語学校に出入した(.)明治36年(1903)に帰郷し農業に励むかたわら社会主義活動に執着(しゅうちゃく)する。翌年に日露戦争が勃発し徴兵されて満州北安省の鉄嶺(てつれい)まで出兵した(.)日露戦争後の兵役のちも社会主義活動に深入りする暢太郎を心配した父親の弥七は県議の富安保太郎と明倫堂の先輩である成清博愛に相談し(.)政友会系の新聞、福岡日日新聞社(西日本新聞の前身)の征矢野半弥(やそのはんや)社長に暢太郎を推薦してもらい明治41年(1908)3月21日に入社させることができた。暢太郎23才であった。福日の主筆、猪俣為治(いのまたためじ)に目をかけ引き立てられ記者修行に身を投じることになる(.)昭和7年の5・15 事件で、福日紙が社説で軍部を批判した際は、編集長として社説を執筆した菊竹六皷(ろっこ)(本名(すなお)編集局長を助けて軍部の威嚇(いかく)と闘った。昭和12年7月21日に喉頭結核で亡くなった六皷あとを引継いだ暢太郎の論説は中央マスコミ界で話題を呼び(.)九州に阿部暢太郎ありとまで非常な評判を受けた。昭和20年に西日本新聞社社長に就任( )のち同社相談役となる(.)引退のちには、故郷の瀬高町の太田龍一町長時代の財政が大赤字を出し(.)副議長の川原喜代治らが福岡の自宅に町長選挙に出馬を要請に来られ、町長選に当選した昭和30年1月から任期の34年1月までに黒字に変え健全財政(けんぜんざいせい)の見本を示す。昭和41年(1966)に83才で没した(.)自由のために一身をペンにささげた新聞人たちを顕彰(けんしょう)する昭和30年に建立した東京・千鳥ヶ渕(ちどりxがぶち)公園の「自由の群像(.)に電通の5年ごとの創立記念事業として新聞人顕彰選考委員会により菊竹淳六皷)(西日本新聞社副社長兼主筆)は昭和41年(.)阿部暢太郎(西日本新聞社長)は昭和46年(1971)に碑に名を刻み永く後世に伝えられている(.)3人の男性ブロンズ像3体は「自由」「自尊」「進取(しんしゅ)」を表わしているという。作者は、広島平和記念公園の「原爆の子の像」と同じく菊地一男である(.)

東京・千鳥ヶ渕公園の自由の群像
 
柳河春三     中外新聞社社長      1832〜1870
成嶋柳北     朝野新聞社社長       1837〜1884
子安峻      讀賣新聞社社長       1836〜1898
福沢諭吉     時事新報社創立者     1835〜1901
岸田吟香    東京日日新聞社主筆     1833〜1905 
福地源一郎   東京日日新聞社社長     1841〜1906
陸實        日本新聞社社長       1857〜1907
征矢野半彌    福岡日日新聞社社長    1857〜1912
上野理一     朝日新聞社社長       1848〜1919
黒岩周六     萬朝報社社長         1862〜1920
島田三郎     東京毎日新聞社社長    1852〜1923
阿部宇之八    北海タイムス社理事     1861〜1924
一力健治郎    河北新報社社長       1863〜1929
三木善八     報知新聞社社主       1856〜1931
矢野文雄     報知新聞社社長       1850〜1931
本山彦一     大阪毎日新聞社社長    1853〜1932
村山龍平     朝日新聞社社長       1850〜1933
岩永裕吉     同盟通信社社長       1883〜1939
大島宇吉     新愛知新聞社社長      1852〜1940
光永星郎     日本電報通信社社長    1866〜1945
        
1955年 新聞人顕彰選考委員会選
奥村信太郎   毎日新聞社社長        1875〜1951
進藤信義     神戸新聞社社長       1878〜1951
簗田金久次郎  中外商業新報社社長     1875〜1954
緒方竹虎     朝日新聞社副社長      1888〜1956
馬場恒吾     読売新聞社社長        1875〜1956
徳富猪一郎    国民新聞社社長       1863〜1957
          
1960年 新聞人顕彰選考委員会選

藤田茂吉     報知新聞社主幹        1852〜1892
箕浦勝人     報知新聞社社長        1854〜1929
安藤和風     秋田魁新報社社長      1866〜1936
菊竹淳      西日本新聞社副社長兼主筆 1880〜1936
下村宏      朝日新聞社副社長       1875〜1957
伊達源一郎   島根新聞社社長         1874〜1961
板倉卓造     時事新報社社長        1879〜1936
野村秀雄     熊本日日新聞社社長     1888〜1964
阿部真之助   毎日新聞社取締役主筆     1884〜1964
         
1966年 新聞人顕彰選考委員会選

古野伊之助   同盟通信社社長        1891〜1966
城戸元亮     大阪毎日新聞社会長     1881〜1966
阿部暢太郎   西日本新聞社社長       1884〜1966
高石真五郎   毎日新聞社社長        1878〜1967
与良ヱ   中部日本新聞・東京新聞社社長  1908〜1968
正力松太郎   読売新聞社社主        1885〜1969
 上野精一     朝日新聞社社主         1882〜1970 
一力次郎    河北新報社社主         1893〜1970
      
1971年 新聞人顕彰選考委員会選
小汀利得     日本経済新聞社社長      1889〜1972
田中寛次     神戸新聞社社長         1900〜1972
美土路昌一   朝日新聞社社長         1886〜1973
松方三郎   社団法人共同通信社専務理事  1899〜1973
萬直次      日本経済新聞社社長       1902〜1973
御手洗辰雄   東京新聞社論説委員長      1895〜1975
            
1976年 新聞人顕彰選考委員会選

 ほかの卒業人では、高柳村の大地主の馬場義勝はのちに県議を務め、東肥(とうひ)鉄道K・K社長、九州製炭株式会社社長、両筑軌道(りょうちくきどう)株式会社監査役を歴任。北大木村の庄屋の田崎庸造らがいる(.)
 
 金栗八幡宮   金栗小字板瀬川
昔の鳥居には文久癸亥(みずのとい)年(1863)と銘刻があり、さらに丸い鳥居一面に、銘文を刻み込んである珍しい鳥居で、さすがは漢学者西田先生が住んでおられた金栗のお宮である。なお神主石川信濃守藤原敬徳と銘刻あり、この神主石川信濃守とは(.)現下庄八幡宮の薬局だった三小田幸吉さんの先祖(.)現在の神官外河家の着任前の代々の神主さんであったことが記録にある。三小田家の系図並に各種の古文書は(.)同家に所蔵されている。平成元年9月に新しい鳥居に建て替えられている。鳥居の脇には猿田彦の石碑がある(.)道の神、境の神でもある道祖神とされた猿田彦神は、江戸時代の中期頃から庚申信仰(こうしんしんこう)とも習合して信仰されるようになった。これは「猿と申」の共通性から、神道家によって結びつけられたものといわれている(.)社殿の北側には高良さんを祀ってあるが久留米の高良大社の分社であろう(.)
 
猿田彦碑と鳥居
 
高良さん
 宝塔院     金栗字道条
鎌倉時代末期、建武元年(1334)名僧鉄山士安禅師が開基創建した。大竹の二尊寺の末寺であった。その後世代は幾変遷して周辺部落の寺とともに衰退(すいたい)し廃寺同然となり(.)大日堂を残して細々と今日に至った(.)大正5年建立されたお堂は朽果て、昭和51年仏像の修理、お堂の新築され金栗部落の人々により信仰されている(.)
 牛の御前    金栗小字板瀬川
鉄道線路の近くの田園のちいさな境内(30坪余)に石の祠に自然の団子石が祀られているだけで午頭(ごず)大王(スサノオノ命(みこと)が祀られています。941年(天慶(てんけい))の天慶神名帳にも記されている「己止真神」の宮で金栗集落の人々の大自然の神として深い信仰のもと守られています(.)この地は金栗遺跡の中心部に位置し弥生時代から奈良時代の住居跡、甕棺、磁器、井戸、分銅器、鏡など発掘されており広大な集落地帯であった所である(.)またここにまつわる民話もあり一つは明治に鉄道が敷かれ当時汽車がこの付近にさしかかると線路に大入道が立ちふさがる話(.)二つは牛を大変酷使する百性さんが牛が暴れ狂い飼い主を角で突き殺す寸前村人多数で牛をとり押さえ助けられた(.)それから飼い主は深く反省して「牛の御前」に参り深く信仰した話がある(.)
 【牛の御前の謎】
 「牛の御前(うしのごぜ)」変な呼び名で、一体何だろう。瀬高に金栗、上庄、真木の3ヶ所に昔から何の変哲もない小さな塚がある。自然崇拝の古代の人は日の出の太陽を拝み自然石などを大地の神に見立たりして感謝のお祈りをしていたでしょう(.)その後支配者や権力者に利用された神殿をもった宗教に変化しましたがそのなかでも「牛の御前」はあい変らず水田地帯の真ん中で今日まで部落の人の信仰の対象となり、守られていると思います(.)昔より何の神たるか知らず信仰され、「牛」とはその地の主をも意味し大地主の神であって鎮守の神さまで村落の入口にたち、すべての疫神(やくじん)や悪人の進入を防ぐ役目と捉えておこう。でも「昔から何の神か明らかでない(.)とあるようにそんな謎につつまれた神さまはそっとしておいた方が夢があってよいのではと考えます(.)
御前という呼び名は一千年も昔の天慶年間の神名帳に神社を表わすのに「前」を使っていて十社を十前と記録している(.)一説には「御前」は大人の夫人を尊称して使った向きもあり、例えば「静御前」と呼んだような表現の方法である( )また西暦860年(貞観2)円仁(えんにん)牛頭天王(ごずてんのう)を勧請した記録もあり、当時は神仏も混合して信仰されてたようである(.)上庄の牛の御前江戸元禄時代に石塔に神体を刻み奉納されておりこの時代信仰が盛んだったことを物語っている(.)鷹尾神社の牛の御前も見逃せない(.)
 
 
 金栗(かなくり)(行政区名)西金栗(小字名)   
小川の金栗は地名であり集落名であります。歴史地名の武士団の屋敷または領地の意の栗ノ内と同類ではないかと思います。すぐ傍に栗ノ内があるのに金栗と別名をつけたのに何か意味がありそうです。ここは、砂鉄の産地か、農具を製造する鍛冶屋があった所ではないかという人がいます(. )栗はグリ石からでたもので、製鉄の残滓(のこりかす)がゴロゴロしていたかも分りません(.)
  壱町畑
 金栗集落の北の畑地名で現在は踏切手前の大竹交差点からみやま市役所前の交差点までの道路が出来、消防署や商業施設のある通りに変化している(. )
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  小川口
 上小川や堀池園集落からの入口の意の地名でです(. )
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  内畠
  金栗集落の北の畑地名で集落内の畑の意味の地名でしょう(. )
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  道条
   金栗集落の中心部であり、鎌倉末期から二尊寺の末寺である宝塔院の寺がありました(. )
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  池田
 池田に関する地名は下庄にまで広がっています。瀬高中学校の東の田んぼの前池田の地名や下庄元町の松尾宮から新町の中心までの西池田の地名があるが、大雨時には広大な池みたいになる、湿地であったと考えます(.) 
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 上園(かみぞの)     
「園」地名は大広園、小川、太神地方に偏在しているのは、広田氏の領地だった、広田(あがた)との関係でしょう。「園」とは大化改新前代からの土地制度で、私有土地とされる宅地園地から発したものです。広田氏は自力によって(.)課税義務のない広大な園地を開拓して経済地盤を築いたものと思います。金栗集落に八幡神社があるのは広田八幡神社との関係があるかも知れません(.)
               
  板瀬川
 金栗集落の東の鹿児島本線の一帯の水田地帯の地名で洪水時に水が逆流したことから起名されたとのことです(. )
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  有富前
 有富集落の領地の手前を意する地名です(. )
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 鉾田(ほこた)     
 この地は古代の墓地跡であり、副葬品の銅鉾が出てきたことによる、記名であろうか。
 栗ノ内(くりのうち)
 金栗の西方、みやま市役所のある地域で大字小川は広い範囲にあります。中世において(. )荘園や公領を基盤ちして成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したもので、金栗にも豪族が居たであろう。大字の太神や長田にも同じ栗ノ内の地名があります(.)
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 庄福BICサイト 参考文献 瀬高町誌 ・ 瀬高町文化財調査報告書 ・ 近藤靖文著「阿部暢太郎・評伝」 ・ 福岡県史 鶴記一郎「地名のはなし」承諾引用
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               小字地名解説文は故鶴記一郎氏の承諾で「地名の話し」を引継いで編集いたしました。本ホームページ掲載記事の無断掲載はお断りします。