庄福BICサイト 【禁無断転載】 福岡県みやま市山川町川原内 H23・11・10製作 H24・5・26更新 H24・10・14更新 |
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河原内は本吉村の南に連なる山里で、地元では「かわらうち」と呼んでいます。王侯貴族のものと云われる貴重な古墳「九折大塚古墳」があり、蓋埴輪や円筒埴輪が出土しました。蒲地山の大堤の北東の山には古代の製鉄や鋳造の遺跡がある古代ロマンを秘めた村です。山裾を通る道は豊臣秀吉が、薩摩の島津征伐のために軍を進め、江戸初期までは九州の大名の参勤交代としてた旧街道であった。当時の道幅は3mたらずで大正期からの道路整備事業で拡張され、現在では県道竹飯・長田線となっている。九折には立花藩主3・4代の墓所があり、九折から蒲池山にかけて、立花藩主代々、帰依した黄檗宗の寺院が5箇所もあります。明治9年では九折・蒲地山・河原内の村があり、明治11年の合併で河原内村となる。明治22年3月には河原内村・清水村・大広園村・松田村を合わせて緑村となる。明治40年1月1日の大合併で緑村の河原内村と清水村のみが山川村に、緑村のうち松田村と大広園村は瀬高町に編入されました。右白黒写真は昭和37年頃の九折の村内で狭い道路をバスが時々通っていましたが、すれ違いの車が来たら難儀していたでしょう。現在の県道・飯江・長田線の河原内付近は拡張・舗装され、本吉~長田間もやっと直線拡張工事中(平成25年1月)です。西側には高速道路とみやま・柳川インターチェンジ建設され頻繁に車が通ります。 |
昭和37年頃の九折の街角 |
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九折地区 |
九折をツヅラと呼ぶ珍しい地名に疑問と感心を持つが、ツヅラを辞書では「ツヅラフジのつるを編んで作った、衣服などを入れる蓋付きのかご 」とあり、漢字では九十九とも書く。小字では上九折と九折原と蒲池山地区に九折谷口がある。村の人に聞いても「珍しかですよね」の返事。思考したあげく、蒲地山池の大蛇伝説(民話)による起名ではと考えました。
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【九折大塚古墳】 河原内 九折小字大塚原 |
九折大塚古墳は春日神社の北、高速道路のすぐ傍で、竹林の茂ったところにある。周溝を持つ町内唯一の前方後円墳で南北径約44m、北側円径28m、南側方形部分1辺15m余り、高さ8m。帆立貝形前方後円墳と思われる。周溝の外側には、陪塚と考えられる小円墳が4基あります。昭和54年4月、郷土史家・村山氏がこの古墳より地位の高い人にさしかける傘の形をした「蓋埴輪」と「円筒埴輪」の破片が発見され、その重要性が見直された。さてこの「蓋(きぬがさ)」(衣笠・絹傘とも書く)とは絹又は織物で張った長袖柄の傘のことであり、昔天皇・親王・公卿などの貴人が外出する際に背後からさしかざしたものである。仏像などの上に、かざす天蓋のことでもある。講談社刊「埴輪と石の造形」によると「埴輪の列に、要所要所ひ配した威儀を示す用具として用いられている。「蓋」は、一般の列を示すものでなく、「貴人の列」を示すものである。単なる示威の表示に止まらず、列を作り最も重要な区域を画した。内なる聖なる力、壇の内なる神聖の表示であって、神聖を守ると共に、神聖を外に発露する機能を持ったものである」と記載されてある。この蓋の出土する古墳は、およそ王侯貴族のものと云われている。面の上古墳、クスワン塚古墳など、それに大塚古墳が近くに散在しているから、面上国の王の墓ではないかと云われている。因みに、この蓋が古墳に出土したのは、全国では11ヶ所で、この大塚古墳のものが、11番目の貴重な存在である。高速道路建設の際は、この古墳が予定線上に存在していたため、学者や識者らの陳情により、南側に道路は迂曲され、この開発から免れた経過があり、この古墳がいかに重要性のある古墳であるかを立証している。古老の話しによれば、この大塚古墳は昭和初期頃は山林・雑木林であったのを、畑として開墾、孟宗竹を植え付け今日に至っている。当時の様子は、石棺・埴輪の列が沢山出土し、約1尺(30cm)余りの土管のようなものが、ちょうどドラム管を並べたように出てきたし、後円の部分には平らな石で囲んだ中から石棺と人骨が出てきたと言う。戦後にも食料増産の為、開墾され大きく変形して往時の面影は殆ど無くなっているが底面だけはそのままの形を残していると考えられる。
大塚原には円墳の大塚原1~4号墳が扇端に立地しているが、破壊しかけている。早急な調査と保護が必要である。下側にある春日神社の丘腹に春日神社1号墳と2号墳の円墳がある。
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北東の上九折には九折1~4号の円墳があり1号~3号墳は扇央に立地しており、1号墳は消滅している。2号は径約20m、高さ約3mある。3号は板石を平積みした竪穴式石室で人骨が出土している。しかし現在消滅している。4号墳は扇端に立地しており、円筒埴輪と象形埴輪が出土している。
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【河原内弥生遺跡】 河原内 九折小字上ノ原 |
春日神社の東の大根川の北側にあり、昭和34年に九大の鏡山猛先生らにより調査された。石包丁・石斧などが発掘されている。
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【九折と大蛇伝説】
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山川町の「ツヅラ」の集落名は難解な地名である。辞典には①ツヅラフジのつるを編んで作った、衣服などを入れる蓋付きのかごとあり、昔の九折は葛籠の産地だったか?。②坂道などでカーブの多いこと・つづらおり。とあるが、そんな感じの坂道は九折には見当たらない。③数字の九十九が当てはまりそう。それは山川や東山などの山の途中や麓には堤がたくさんある。これは田に水を引き入れる為である。このため池(堤)の長さはどんなに長くとも百間(約200m)は無いと言われている。それ以上長い堤でも人々は『九十九間以上は無い』と言うことにしている。それには次のような訳がある。伝説によると「ある年の夏、蒲地山の堤の傍の家に1人のおじいさんが現れた。真白のひげを生やし、真白な着物を着て、目つきの鋭い怖いようなおじいさんであった。家の人が何だろうと思って出てみると、おじいさんは「この堤の長さは百間あるか。深さはどれくらいか」と尋ねる。薄気味悪く思った家の主人は「この堤はとても浅く百間はありません」と、嘘を言った。これを聞いたおじいさんは、がっかりした様子で「九十九間か、それではとても住めない」とひとりごとを言いながらパッと姿を消してしまった。その後で大きな大蛇が堤の中から現れてザワザワと草木を押し倒して山の方へ消えていった。『このシロヒゲのおじいさんこそ、大蛇の化身にちがいない』と家の人は後々まで恐ろしげに話し合ったそうです。雲を呼んで天駆ける竜は、地上に三千年住むと言う。竜の落とし子やワニに化けて、海に千年。家グチナワ(青大将)や短い縄切れに化けて、人家のかまどの傍に千年。(だからかまどの傍の縄は燃やさない)二千年の劫(きわめて長い年月)を経たのち大蛇になって山の堤や樹海に住み、さらに千年の行を積み三千年を費やして、やっと天に昇る。雲に乗り、風を呼んで竜巻となって、地上の人々には尻尾だけしか見せない。一度天に昇った竜は、もう絶対に地上に降りてくることはないそうです。干天に慈雨(日照り続きのときに降る、恵みの雨)を降らせ、田植えの水を恵んでくれる有難い竜神も、まだ大蛇のうちに傍におられては怖くてたまらない。それで人里近い所では御遠慮願おうと、嘘をつくのである。」この蒲地山に限らず、この地方では、どんな大きな池(堤)でも九十九間以上はないと言うことにしていると言う。山里の九折にも3か所のため池(堤)があり、ため池のことを九十九間以上はないと言っているうちにため池を九十九と呼ぶようになったと思考する。蒲地山の大堤の水門側が小字名で「九折谷口」とある事からも納得できよう。伝説の九十九に九折と漢字が宛がわれたのが山川町の九折の地名の由来と思われます。(山川ゆずりは風土記20参照)
また別の伝説でも九十九が登場する「河原内の入り江に美人の小舟が流れつき、村の若者衆に「私は龍神の使いです。蒲池山というところに行きたいのですが、どう行ったらいいのでしょうか」と尋ね蒲池山の方に消えていった。そん晩は、特に蒸し暑くなった。そして、夜中から闇を切り裂くごつ稲妻が走り、雷鳴がとどろき、豪雨となった。明け方に昨日の美人の女性が少しやつれた様子で、小舟でやってきた。村の若者たちが名前を尋ねると「「私は、昨日申し上げたように、龍神の使いの者です。蒲池山には、龍神の住むのに都合のいい大きなため池と深い谷がたくさんあると聞いて見に来ました。しかし、立派な溜め池はありましたが、谷が一つ足りませんでした。明け方まで探して、九十九まで谷を見つけましたが、どうしても、一つ谷が足りませんでした。それで、あきらめて、帰るところです。」と言うと、小舟をさっと沖へこぎ出した。そして、「昨晩は、皆さんを大変驚かせて申し訳ありませんでした。」と言うが速いか、はやてのように沖へ消えてしまった。後には、若もの達が呆然とたたずんどったげな。(山川町の民話・伝説・伝承 創設二十周年記念より抜粋)
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立花藩主の墓所・霊明寺(雪峰山) 廃寺 |
雪峰山麓の「立花家の墓所」は柳川3代藩主の立花鑑虎公と柳川4代藩主の立花鑑任公の墓が、九折の南の集落の坂道を上った「雪峰山霊明寺」敷地跡地にあります。
元禄9年(1696)7月に鑑虎公は家督を次男の鑑任に譲り、剃髪して英山と号された。隠居後の夏の暑さを厭わる為に、元禄11年(1698年)に、涼をもとめて、山紫水明の里である、この地に別荘「雪峰軒」をもたれ、季どきに訪れ静養されました。ある冬の朝、峰々に積もる雪の美しさに感動された英山(鑑虎)公は、「自分が死んだらこの地に葬れ」と言い残され、元禄15年(1702)6月に柳河にて58歳で逝去された折、その遺言通り、この地に眠られたのです。戒名は「雪峰院殿英山性俊大居士」。みやま市の案内板には「鑑虎公が死去される際の遺言により、雪峰軒を建てられた。」とあるが大きな間違いである。また「鑑虎公の母君が仙台伊達正宗公の孫娘であったことから、お牧山に牧場を開き、仙台駒を飼育したいきさつで度々この山川の地を訪れられたのである。」とあるが英山公はすでに現役は引退しており、むしろ剃髪後は清水寺に参拝に訪れ、その際に願望で清水寺本堂と愛好している能の舞台の建立を思いたたれている。寺の帰りは九折の雪峰軒で休養されたと考える。しかし、翌年の元禄16年(1703)に逝去され、そして清水寺本堂と能舞台が完成している。4代藩主立花鑑任公は父の英山公の墓参りの時には藤ノ尾(瀬高町山門)にある父が下賜した勝萬寺に立ち寄られ休息をとり、九折の墓所に参いられている。鑑任公も別荘の雪峰軒での四季の景観を楽しまれたでしょう。鑑任公は享保6年5月(1721)、柳河にて39歳で死去され、父の墓所の隣に眠る。戒名は「霊明院殿常心法鑑大居士」。墓所の廻りは瓦吹きの土壁で囲まれ入口は石の門構えで木の扉があった。この墓所の北隣に3年後の享保9年(1724)に栁川の立花家菩提寺福厳寺の鉄文和尚を開山として親子2代藩主の霊を慰めるために、戒名の頭2字ずつをとり「雪峰山霊明寺」を創建した。当時は臨済禅宗黄檗派で、寺院には釈迦牟尼仏(釈迦如来)を祀ってあった。慶応3年焼失した為に、明治6年に当寺第15代田中実存が再建した。明治9年(1876)臨済禅宗黄檗派から黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立後の住職は結婚がゆるされ世襲制となったが、霊明寺の住職は黄檗宗大本山の京都宇治にある萬福寺に戻った為に無住職となり、九折の黄檗宗の吉祥寺、宗永寺、正法寺が職務を兼任してきたとみられる。昭和37年頃に老朽化の為に廃寺となり今は梨畑となり寺の礎石を残している。古文書は1部吉祥寺に残され、御本尊や位牌は北側にある宗永寺に移されている。南側に道路沿いには立花家ゆかりの人々の大正時代までの墓が並んでいる。
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左が鑑任、右が父親の鑑虎の墓 |
立花鑑虎公の墓 |
南下隣の立花家のゆかりの人々の墓 |
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釈迦牟尼仏像(宗永寺移転) |
臨済三五世雪峯中興悦堂逸大和尚 覺位(宗永寺移転) |
立花家累代 霊位 (宗永寺移転) |
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宗永寺(春林山) 黄檗宗 無住職 |
立花帯刀家の祖、立花茂虎公の臨済禅宗黄檗派の菩提寺として、亡くなった44年後の延享2年(1745)に玄堂和尚が開山している。茂虎公は傍の霊明寺跡地に眠る3代藩主の鑑虎公とは異母兄であり、第2代藩主立花 忠茂の庶長子といわれる。しかし実母は父の側室であった為に仙台藩の第2代藩主、伊達忠宗の娘で徳川秀忠の養女として嫁いできた継室の法雲院が生んだ異母弟の鑑虎公が3代柳川藩主となる。茂虎公は父に京都の寺で出家するように勧めたが、拒否した為に激怒し、国元(柳川)の家臣に預け謹慎させた。しかし、茂虎公は寛文12年(1672)に同情した藩主である弟の鑑虎公から中山の領地を与えられ、さらに山崎村(立花町)と合わせて2300石に加増され、立花内膳家と共に藩の信望を集めた立花両家の一つである立花帯刀家の祖となる。
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①墓所の一番左奥には立花帯刀茂虎公(帯刀家初祖)、戒名は宗永寺殿李渓好白大居士(元禄14年辛巳(1701)3月13日逝)、隣には2番目の奥方の栄林院殿心華浄芳大姉(享保9年甲辰(1724)10月11日逝)の墓がある。(瀬高町本郷の九品寺にも帯刀家初代、茂虎公の墓(戒名・国融院殿洞雲一花大居士)が先の奥方の清光院(延宝4年(1676)9月逝)と並んである。帯刀家2代、茂高の墓も九品寺にあり、帯刀家3代、茂之と盛亮院の夫妻2基の墓と母親の玉線院殿(5代藩主貞俶の母)の墓は下庄上町の引接寺にある)。
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④昭和38年(1963)・昭和40年の帯刀家(故立花三郎夫妻)の墓を挟んで左には帯刀家4代、立花主水茂矩公、 瑞雲院殿悟眞哲ノ玄大居士(明和6年巳丒(1769)3月21日逝)(茂親造立)、隣に奥方の超勝院殿瑞譽妙然襡峯大姉(文化4年丁卯(1807)8月21日逝)(立花帯刀源茂親造立)の墓。その左隣に茂親の子供であろうか、立花熊壽の墓、清林院殿玉峯淨榮大童子(天明元年(1781)辛丒5月21日逝)。墓所東北角には、時晃院殿妙慧大信■(延宝4年丙辰(1676)11月逝)は宗永寺開山以前の古い墓であるが由緒不明。
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⑤墓入口左には帯刀家5代、立花帯刀茂親公(養源院殿俊徳宣明人居士(文化12年戌寅(1829)6月14日逝)、隣に奥方の俊光院殿明與圓月智照大姉(文政8年乙酉(1825)8月3日逝)の墓がある。
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⑥墓所西3基には左から定静院殿妙心精通大居士(天保14年癸卯(1843)11月初4日逝)(立花帯刀源茂教建之)、信證院殿清譽不染浄心大姉(嘉永4年(1852)亥9月17日寂)(立花帯刀源茂教謹建之)とあるが、この2基が嫡男の茂教が建立した帯刀家6代、立花茂旨夫妻の墓である。また下庄の引接寺の御霊屋の西右端に茂教が建立した娘の墓の宝珠院殿(嘉永7年(1854)寅6月24日逝)と法林院殿の大童女の墓がある。
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⑦西3基の並びの右端(入口右)には覺了院殿一如天眞大居士(万延元年庚申(1860)5月29日逝)(立花松千代源茂尊敬立)57歳卒はが帯刀家7代の立花茂教の墓である。
東の並び中間に廓宗院殿圓應智鑑大居士(安政6年巳未(1859)5月18日逝)(立花松千代源 敬立)38歳卒があるのは立花茂教の嫡男茂漚の墓であるが、父より1年早く亡くなった為に家督を継ぐ事はなく9歳になる息子の松千代が継ぐ。
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⑧早世した茂漚の嫡男での立花松千代源茂尊(嘉永3年(1850)2月15日誕生)が帯刀家8代となり家督を継ぎ立花松千代家とする。栁河藩立花家分限帳の第三集の資料によると文久元年(1861)の侍帳では高二千石・立花帯刀殿と立花枩(松)千代殿の記載。文久年間頃の惣侍分限では高二千石・立花松千代殿の記載があり立花藩の御三家・帯刀家の領地は立花松千代源茂尊が家督を受継いでいる。古文書「文久・慶應・明治 家中変遷」によると江戸期最後の慶應年間(1865~1867)に元の立花帯刀家に改めている。明治2年(1869)総師職、翌年3月に辞職。遊学の為に上京し、のちに浪華青年舎兵事学1年となり10月に伍長兼伝習役となる。明治6年(1872)6月に上妻郡山崎村に転居すると記載あるが大牟田市歴木に柳川の屋敷を移築して引越している。また明治29年(1896)10月の項に松千代から茂樹と改名している。墓所は調査中。
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⑨帯刀系譜は8代で終わっているが、帯刀家9代を継いだのは、小野家第28代小野隆基の5男の小野三郎で、立花三郎は三池小学校の教師となったが、のちに三池銀行や柳河銀行に勤め、三池町の町会議員となる。夫人の愛は上内の立花守雄の娘である。夫妻の真新しい墓は帯刀家初祖、茂虎公夫妻の墓の手前左隣にある。霊岳院殿秀道貫徹大居士・俗名立花三郎昭和38年2月5日逝去。愛光院殿貞室妙照大姉・俗名立花愛・昭和40年4月23日逝去の墓がある。子息の禎二は福岡県試験場に勤務していた資料あり。 (人名の敬称は略させていただきました。)
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立花柳川家系図
①内膳家政俊─②内膳家種俊
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①宗茂──②忠茂─┬─③鑑虎──④鑑任──(帯刀家の貞俶を養子とする)
①帯刀家茂虎──②帯刀家茂高─┬─⑤貞俶─┬─⑥貞則
③主水家茂之 ⑦鑑通──鑑門
| ├─ 鑑一 ⑨鑑賢──⑩鑑広
④主水家茂矩 , | └─ ⑪鑑備
| └─⑧鑑寿── 寿俶── ⑫鑑寛(鑑備の養子となる)
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⑤帯刀家茂親
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⑥帯刀家茂旨―
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⑦帯刀家茂教 ―帯刀家茂漚(家督継承前に没)― ⑧松千代家茂尊(幕末・万延・文久年~)明治29年に帯刀家茂樹と改名
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①立花帯刀家初代茂虎公(1701年逝)と栄林院・奥方の墓 |
④立花帯刀家4代茂矩公(1769年逝)と奥方の墓 |
⑤立花帯刀家5代茂親公(1815年逝)と奥方の墓 |
墓所東側の並び |
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⑥立花帯刀家6代茂矩公(1863年逝)と奥方墓
⑦立花帯刀家7代茂教公(1860逝)の墓 |
立花帯刀家茂漚公(8代茂尊公の父親)(1859逝)の墓 |
⑨立花帯刀家9代立花三郎夫妻の墓 |
宗永寺は宝暦10年(1760)に僧金海によって再建されている。庭奥の一地蔵尊の台座に「一切有情」「地蔵菩薩結縁願主中」 「宗永山圓如謹誌之」 「時天明元年辛丑年閏月吉日立」(1781)と刻まれている。「一切」はすべてのことで、「有情」は、生きている者で地蔵菩薩と結縁して、「不老長生蓬莱の天国」を願い、老いることなく長生きすること願ったのでしょう。現在は寺の姿の建物では無く農家風情である。仏間には廃寺となった霊明寺の御本尊や位牌も残されている。
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宗永寺入口 |
宗永寺 |
地蔵尊 |
祈祷を行う建物 |
宗永寺仏間 |
立花帯刀家4代茂矩公の位牌 |
立花家の位牌 |
本尊・千手観音像 |
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常楽寺の跡 黄檗宗 河原内 |
寛永元年(1624)に柳川の福厳寺2代の玄堂が開山したとある。 |
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正法寺(佛頂山) 黄檗宗 河原内 九折 |
享保3年(1718)柳川の旧柳川藩主立花家の菩提寺福厳寺の3代悦堂和尚の隠居地として、三池の内山村より移転建立された黄檗宗の寺である。「臨済三五世雪峯中興悦堂逸大和尚 覺位」が宗永寺仏壇に残されているが雪峯山霊明寺(享保9年(1724)創建)は何かの事情で一旦廃寺となったのを悦堂和尚により中興されたとみられる。当寺は現在、霊明寺の代表でもある。 西隣では山川東部保育園を経営されている。 |
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覚成寺(九折山) 真宗大谷派 河原内 九折 |
松尾龍城氏が著した資料には「寛文八年二月十四日 開基慶専創立通照今号越智末孫四国伊豫城主河野四郎仁宮源平戦之後当国に下着堀切村に住居成氏神嫡子三郎通秀河原内村に住居通秀より二十五代磯之助通種長照寺と云う庵寺住居致候処、立花鑑虎公の懇命に依って長照寺を覚成寺と改め建立す。」とある。寛文8年(1668)2月14日に慶専和尚が開基創建した。伊予水軍を率い、源氏方として四国伊豫城主河野四郎通信は源平戦の後に堀切村(瀬高町河内)に住居した。嫡子の三郎通秀は河原内村(山川町)に住居し通秀より二十五代磯之助通種は長照寺と言う庵寺に住居してたところ立花鑑虎公が長照寺を覚成寺と改め建立して下賜されたとある。真宗大谷派である。 (河野四郎通信については古地図に見る河内村の歴史を)
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おこぼさん(弘法大師御堂) |
真言宗の開祖である空海を祀る大師堂です。御堂内には石の弘法大師像と地蔵像が祀られている。お彼岸には、お遍路さんがお参りに訪れる。 |
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若宮神社 |
みかん畑と杉林に囲まれたひっそりとした場所にある。祭神は調査中です。九折の数軒の氏子により秋に祭りを行っている。まだこの付近には猪が畑荒らしに出没します。 |
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妙見神社 |
九折の南の路地入口にある。 妙見信仰は、北極星あるいは北斗七星を崇拝する信仰。天の中心の星であり、天帝の星。また、北は水を意味し、北斗七星も柄杓の形であり、司水の神でもある。 |
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淡島社 |
妙見神社 の細い道を登ると小さなお堂がある。紀州和歌山の加太神社を本宗として近世淡島願人という乞食坊さんが、婦人たちからいろいろの物を集めて歩く風習があり、淡島様の縁起を唱えて諸国を巡歴して堂を建ててきたのが、何時からか婦人達の信仰につながった。淡島神の由来については天照太神第六の姫宮が16才で住吉の一の宮の后となったが、婦人病に苦しみ祈願の為、綾の巻物その他二、三の品をそろえ、空舟に乗せて堺から流した。舟が3月3日に淡島に着いたと言う故事から舟に乗せたという品にあやかり髪や衣類を持って参拝し、それを持ち帰ると婦人病が治るという信仰になった。 |
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九折の地蔵尊 |
①雪峯山入口、4体を祀る。右端の地蔵さんは延享2年(1745)の建立です。
②雪峯山中腹ため池堤防下、3体を祀る。左端の地蔵さんは寛保2年(1742)の建立です。その他は不詳。
③雪峯山中腹ため池横、等身大の地蔵尊1体を祀る。寛保2年(1742)の建立です。施主、立願趣旨が刻まれているが読み取れない。台座正面には「一切有情」と刻まれていて、宗永寺境内のものと2体のみで、何か特別な意味をもって建立されたかもしれません。
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【地名のはなし】 |
上九折 小字名 |
九折集落の東の低い山の上の所です。 |
不計田 小字名 |
湿地のことでドブ、ガタ、ジュツタンなどとも呼びます。漢字だと婦計とカタカナだとフケと書いたそうです。 |
小川原前 小字名 |
九折の北側の集落のある地域で、溜池から流れる川の近くの意味の起名です。 |
梅田 小字名 |
本吉側の梅ヶ谷の下にある条理制が行われた田んぼの意です。湯庵・廻ヶ町・水町・下水町・立石・ロノ坪なども条理制が行われた田んぼです。 |
湯庵・廻ヶ町・水町・八幡田・下水町・立石・ロノ坪 小字名 |
和銅8年(715)頃実施されたに本吉から続く条理制遺構の南端側の各水田です。今は圃場整備で失われている。 |
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八幡田 小字名 |
本吉西部に広がる条理制が行われた田んぼの南部にあり。北広田八幡宮の神領田です。 |
赤坂 小字名 |
赤土の坂に由来すると解されている。傾斜地や丘陵端にある。 |
大塚原 |
九折大塚古墳がある場所です。 |
九折原 小字名 |
山地であるがなだらかな畑や原の形状です。 |
堤ノ上 |
九折の部落には表堤と裏堤と呼ばれる溜池が小谷にも堤ノ脇池があり、その上部にある山畑の意です。 |
小太郎 |
小太郎さんが開墾した畑で人名地名です。 |
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【蒲地山地区】 |
地元では蒲地山をカマジヤマと呼ぶ。麓の九折から大根川に沿って上っていった山村で上流には国の「ため池百選」に選ばれ蒲池山池があります。
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禅林寺(円通山) |
高速道路に沿って緩やかな山道を蒲池山池方面に行き、途中路地を入り込むと、黄壁宗の禅林寺(円通山)がある。元禄2年(1689)に立花家の菩提寺福厳寺の鉄文和尚が開山創建したが一時廃寺同然となり、寛保2年(1742)に僧泰陽が中興している。裏手には泰陽和尚から後の歴代和尚の墓があり、この墓石の前には座禅石が据えられているものもあり、禅宗の厳しい修行僧の姿を想い浮べることが出来るが現在空院となり、地域の人々によって守られてきている。寺は当時の建築仕様を残して庭も残っているが、かなり痛んでいる。近くからは縄文中期の遺跡があり土器が出土している。 |
旧田北邸 つるべ井戸 禅林寺近く |
立花藩の槍指南役「田北親為」を祖とする、田北氏の屋敷があり、肥後口からの不審者から蒲池山の大堤の警護や栁川城を援護する役目を持って居住していたとみられる。九折から蒲池山に連なる、黄檗宗の5か所の寺もその役割をはたしていた。 邸宅の庭に掘られた、深さ9mの石組み井戸。つるべ式のくみ上げ井戸で、現在も水が湧き出しています。 |
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江月寺(松濤山) |
登り坂道の蒲池山公民館を左折、蒲池山の天満宮の少し先の案内板を左に入り込むと江月寺がある。江月寺(松濤山)は江戸初期の万治2年(1659)に鉄文和尚が開山創建した、黄檗宗の寺院です。鉄文和尚は筑後山門郡海津村出身の高僧で、柳川藩主の菩提寺の福厳寺の初代和尚である。江戸時代を通じて、鉄文自身やその弟子を開山として、九折・蒲池山や三池郡一帯に黄檗宗寺院を次々と開いる。現在の江月寺は江戸時代の末期の元治元年(1864)に本山第35代住職になった独唱和尚が中興して、後に隠居地とした寺です。江月寺本堂は、書院、庫裏とともに一連の棟続きの建物の中に納まっています。隠居寺だけあって黄檗宗寺院の本堂というよりも住宅の様式で、本堂が日本家屋のなかに組み込まれた、いわゆる座敷本堂であります。立花藩主だけが通る事が出来たという門が当初の隆盛を伝えて残っている。花々・植物に囲まれた情緒豊かな庭園は四季折々の魅力があり、毎年10月に開かれるお茶会では、美しい琴の音が和の神髄を感じさせてくれる。鉄文和尚の墓が、すぐ脇の山の山腹に寺院を見守り静かに立っている。
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蒲池山天満宮 (花岩) |
蒲地山集落の産土神で菅原道真を祀る。旧石段を登り鳥居(天保11年建立)をくぐると左に地蔵像を祀る。さらに石段を登ると山に囲まれた広場に本殿がある。
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九折の湯 |
蒲地山池の手前の小字の九折谷に老婆がいた。歯はかげ髪白く少なく、シワばかりという。さらに貧乏で、顔には吹き出物がデコボコに出来ていた。道下の小藪の間から、こんこんと湧き出る清水が、何と言えぬ良い香りがしたので、手ですくって嗅ぎ、顔の吹き出物を撫でると気持ち良くなり、毎日接せと、そこに来て香りを味わっていた。2~3日すると、熱もとれ、顔が軽くなったようである。鏡を見ると何と驚いたことに、ザラザラがパサパサになって半分剥がれていた。それからは神仏の御恵みじゃと、夢中になって喜んで、毎日毎日熱心に、この香りの清水で顔を撫でていると、全部けろりと良くなり、顔の八万ジワまでも伸びて若々しくさえなった。これが非常に評判になった。これが九折の鉱泉の起こりである。のちに1軒の湯屋が出来て皮膚病を治す客が集まっていたが、明治末頃になると、他郷の鉱泉に客が行くようになったので、九折の湯屋は閉じたのである。 |
蒲池山池 |
蒲地山池は蒲池山池の表示もある。上流の蒲地山と大尾蒲池山や鷹取山に水源を持ち、享保2年(1717)柳川藩命により、田尻総助を創始し、その子田尻惣馬が、延べ7万6千人の手を要して完成された大堤です。大根川を流れ旧藩時代から300年近く4ヶ村の農業の水源として役立っている。現在、国の「ため池百選」に選ばれ、梅雨前からゲンジボタルが乱舞する。 蒲池山の大堤には、このような民話が残されている。「ある年の夏。蒲地山の堤の側の家に一人のおじいさんが現れた。真っ白な長いひげと真っ白な着物。目つきの鋭いおじいさんで、家の主に「この堤の長さは百間(約200m)あるか。深さはどれくらいか。」ときいた。うす気味悪く思った主は、「この堤は浅く、長さも九十九間で、百間はありません。」と嘘をいった。これを聞いたおじいさんは「それでは、とても住めない」といってパッと姿を消した。実はそれは大蛇の化身だったそうな」 |
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【花田谷古墳群】 河原内 蒲地山小字花田谷 |
大根川の上流の北側の天満宮や江月院の近くにあり、平成6年(1994)から調査され、須恵器の出土から6~7世紀の古墳群と見られる。 |
【タタラ遺跡】 |
蒲地山の大堤の北東の山にイモジ・鍋谷の地名があり、この付近は古代からの製鉄や鋳造の遺跡がある。現在は開発によって全貌を知ることが出来ないが、平成10年の調査で鉄滓、炉壁、鞴の羽口が出土している。2ヶ所から「鉄滓」や「炉壁」や「ふいごの羽口」が出土している。たたら製鉄とは直径70cm、高さ1mの炉でできており、竹の筒を長く継ぎ、「ふいご」を作って送風した。また山の崖の上昇気流を利用したと思われる。高田町の田尻、田浦からも出土している。弥生後期から古墳前期の遺跡と思われる。山道を立花町方面に少し登ると、地下117mから湧き出る「加茂川の名水」があり、ペットボトルを持参して水汲み(無料)に訪れる人も多い。 |
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蒲池山 行政区名 |
蒲池山の内にカナチの地名があり、古くは鹿待山とも書く。周辺に製鉄や鋳造の遺跡があり、古代の鉄の産地からカナチ山と呼ばれたであろう。カナチ山が転化して鹿待山となり蒲池山の起名になったといわれる。地元の古老は カマジヤマと呼ばれましたが、若い方はカマチヤマと言います。 |
鍋谷 小字名 (鍋谷製鉄遺跡) |
蒲池山池の上流口の北側、丘頂に立地した古代から中世期の製鉄や鋳造の遺跡があった場所です。 |
カナチ原 小字名 |
カナチはカネウチの意があり、鍛冶職人の屋敷跡があった伝承あり。 |
中ノ原 小字名 |
縄文・弥生遺跡があり、古代人が生活を営んでいました。黄檗宗の禅林寺があります。立花藩槍指南役田北家が代々住んだ所です。 |
兵五郎原 小字名 |
兵五郎さんが開墾した畑で、人名地名です。 |
九折谷口 小字名 |
蒲池山の大堤が築造される前はここの九折谷池が水源地として重宝されたと推測する。その池の谷口の意です。 |
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【河原内地区】
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河原内の地区には大根川の傍に出来た集落で清水村と接する。大根川は河原内の奥谷にある周辺1里の蒲池山大溜池より発して、瀬高町大木部落へ流れていくのだが、清水部落を流れるので清水川と言っていた。河原内水車小屋は大正時代まで利用されていました。 |
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春日大明神 |
御祭神は春日大神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)と思われますが、勧請年月・縁起・沿革等については案内がなく不明です。鳥居は安政9年、燈籠は天保4年、狛犬は明治2年と刻まれている。平成13年(2001)県道拡張工事の為に両脇の木が伐採され石段改修などが行われている。急な階段を登ると鳥居そして楼門があり、昔の社殿の周りは欝蒼とした木が茂っていました。 |
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河原内 大字・行政区名 |
蒲地山の大堤が築造と同時に新築造した大根川に沿った部落です。明治11年の九折・蒲地山・河原内の各村の合併で河原内村となり現在は大字としても使用されている。 |
屋敷ノ内 |
河原内部落の意です。 |
明神川原 |
春日大明神の神領です。 |
山ノ下・平ノ山 |
田んぼや 畑の形状を表す地名です。 |
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参考文献 松尾龍城著「山川町地方の歴史と伝承」 ・ 栁川歴史資料集成 第三集 栁河藩立花家分限帳 ・ 大牟田市史 補卷 ・ 旧柳河藩志 |
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