庄福BICサイト 【禁無断転載】 H24・12・9製作開始 福岡県みやま市山川町北関 |
|
,
肥後国誌によると、もともと肥後の南関は熊本から言えば北ノ関と言わねばならず、筑後の北関は筑後から言えば南ノ関と言うべきであるが、ここ北関は中世期までは肥後領の白間荘・大津山であり、大津山の関(松風の関)より南を「大津山関の南」、北を「大津山の北」と呼んでいた。戦国時代においては佐嘉の龍造寺隆信が、この地を領有し、その甥の安房守家治を葛嶽(南関)の城主とした時、北関は筑後の内であったが、その時は家治が両国を領有していたので「南の関」・「北の関」と呼ばせたので、その名になったと言う。九州の南と北を結ぶ交通の要衝の為、当時の両領主にとっては最も重要な課題であった。従って両国の境界も多くの変遷をみている。南北朝や戦国時代は日当川(山川町立山)が国境となった時期もあり、合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりした。 天正14年(1586)、島津忠長が筑前の岩屋城を攻めた時には南関の大津山城主の大津山家稜を道案内者として通っている。天正15年(1587)には、九州征伐のために軍を進めた豊臣秀吉がこの道を通り、原町と清水に“太閣道”という名を残しています。慶長6年(1601)に田中吉政が、筑後国・32万5千石の領主として柳河城に入ると筑後領となったらしい。更に徳川家康の時代では天領とされ北の関番所を設け代官を置き幕府直轄にしたと伝えられる。北関は肥後と筑後の国境のみならず、肥後からの豊前街道が接続し、参勤交代の行列もこの街道から江戸に上ったと言います。また、明治10年(1877)の西南戦争の際には、官軍総督の有栖川宮熾仁親王が、福岡の本営から南下して、この道を通られ南関の正勝寺に滞在された。明治22年(1889)3月、北関村は真弓村・重冨村と合併して万里小路村が誕生し、役場は重冨村の物見塚にありました。山川村が誕生したのは明治40年(1907)1月1日である。今の国道443号は日露戦争の頃に旧街道を拡張建設されたが北関上地区の南からは旧街道から離れ、真弓川に沿って大谷集落の真弓橋の西横を通って大谷山の南に沿って南関方面に新たに建設されました。
, |
|
|
|
北関代官屋敷 北関 熊野宮 参道右脇 |
野町の名花野にあったという代官所に勤めていた車田氏の居館跡と言われている。今は井戸枠のみが当時の面影を茂こしているだけです。最後の代官と言われている。「車田敬蔵翁の碑」が熊野宮参道脇に建っています。車田代官については大牟田の武松文書の中にあり確認されています。ただし、居館の見取り図については聞き取り調査で龍新一郎氏によって復元された。
, |
|
|
熊野宮 北関 宮林 |
創建年代は不詳。楼門・拝殿・本殿と並んでいて、楼門は町内の中で最大で豪壮である。階段上の灯籠は明和2年(1765)、水盤は寛政4年(1792)、階段下の灯籠は寛政2年(1790)、鳥居は安政8年(1779)の奉納である。
, |
|
阿弥陀三尊板碑 北関 熊野宮 |
熊野宮の石段の中段の2基あり、梵字による阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩の三尊を刻んだ石の板碑です。室町時代の末期頃1450〜1500年間の建立と言われる。誰が誰のために建てたかは解っていないが、山川町では唯一の貴重な板碑である。
, |
|
地蔵堂 北関 熊野宮 参道左脇 |
7体の石像を祀ってある。台座に刻まれた年代は向って右より、@文政2年(1819)・A不詳B嘉永2年(1849)C文政11年(1828)・D文政5年(1822)・E宝永2年(1705)・F年代は不詳だが台座には五輪塔の水輪が使われていて、この近くに五輪の供養塔があったことが解る。
, |
|
|
|
かさ地蔵 北関 地蔵後 |
江戸時代後期の建立。板碑状の石に彫り込んだお地蔵さん。この近くでは珍しいものです。田尻種貞と並んで建てられていることは田尻氏の供養のために建てたものと考えられます。田尻因幡守種貞供養塔 供養塔は田尻因幡守種貞/圓寂鎮了安大居士/文禄二癸巳年春二月二一日/明暦二年忌日造立焉末孫田尻種元/と4行に刻まれています。田尻氏は北関の西側の飛塚(高田町)に本城を構え、代々ここを居城とするこの地方の豪族でしたが、永禄年間(1558〜1569)に城主田尻親種が鷹尾城に移り、ここは城番に守らせました。これより数百年間この城は続いたと言われています。種貞の事跡については明らかではありませんがおそらく文禄2年(1593)・文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)で戦死したものと考えられます。ここに供養塔があるのは、種貞が親種以下鷹尾城に移った後も飛塚城を本拠として活躍。飛塚城の見えるこの地に居城を構えていた為でないかと考えられます。 |
|
|
,
【大谷地区】
, |
薩摩街道から東に入り込んだ真弓に通じる旧道・右側の山裾を国道が通る |
,
真弓の谷間から流れ出た水は真弓橋で南関の山からの水と合流して大谷・北関上・下地区を流れ耕作地を潤おし、飯江川に合流します。また大正より昭和10年頃にかけて瀬高町より南関にかけて通っていた東肥鉄道の線路が西から東へ、東から南へ二度にわたり川を越えた鉄橋跡が残っている。又大谷地区には水車場2軒あり、昭和7〜8年頃まで22年間、真弓の萩ノ久保で採取された白土を粉砕し、精製した白壁用の白土を製造していました。
, , |
日吉神社(山王宮) 北関 大谷 |
御神体は自然石を祀る。柳川藩士の松浦家が柳川の日吉宮の分霊を大谷のに祀りった松浦家の神社であったという。大谷地区の住民も祭りや参拝していましたが現在は参拝者も少なく管理が行き届いていない。鳥居は明治34年(1891)の奉納であることが刻まれている。石灯籠は近隣に無いデザインである。拝殿には、第一次世界大戦中の大正3年(1914)に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した戦闘絵画が大正4年7月に奉納した額がある。
, |
|
|
松風の関(大津山の関) |
古代からの筑後国と肥後国を結ぶ唯一の街道筋で最も険しい天然の要害地でした。その険しいところに吹く風は松の小枝を撫で、心地よい美しい音を奏でた、「松風の関」の名が生れた由来だそうです。中世以前は、肥後領の白間荘・大津山であったので、“大津山の関”と呼ばれていました。のちに、筑後領となり「背戸口」とも呼ばれた。左右に山が重なりの最も険しく、わずかに此の所だけの通路であったから越え難い所であったという。平家物語に「寿永2年・・・・菊池次郎高直は都より平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にひっこもり、・・・・。」とあり、ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。寿永2年(1183)、当時既に関所として菊地氏によって守られていたこと、7世紀に作られた古代官道に関所を置いたものだと言うこと等が解っています。真弓廣有公が松風の関に布陣したのは正平14年(1359)頃でないかと思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。今は松風の関に通ずる旧道は、すぐ東側に国道443号線が走り、さらに西は切り通しの高速道路に挟まれ、その近くを通る旧道に残る「首切り地蔵」によって僅かに当時を偲ぶことが出来、この先は、高速道路の建設によって湯谷村の一部が消滅しています。ここの「首切り地蔵」とは、通行手形を持たず、昔、松風の関を破った旅人が水場に立ち寄ったところ、そこに隠れていた役人によって斬り殺された。土地の人々は、この旅人を供養するため、地蔵尊を立てて祀ったと思われます。 , |
|
|
|
|
松風の関の址 |
首切り地蔵 |
関所の街道 |
傍を通る高速道路 |
|
大津山関城址(北関城) |
玉名郡史によれば、「弘安年中(1278〜1287)、赤星有隆(菊池武房の弟・赤星氏の祖)は蒙古襲来のときの文永・弘安の役に功有り、肥後玉名郡700町を賜り、玉名郡本郷臼間庄大津山の関に城を築き移住す」とあり。旧柳川藩志(上・P33)によれば「天文13年(1544)小田山城守親元は菊池義武に味方し、北関城を修理し、ここに拠り、豊後の大友氏に対抗す。城主小田氏以下一族郎党数十人奮闘するも、かなわず戦死、よって落城。高さ50丈、周囲30丁の堅城なり」と伝えられています。現在ここも高速道路により削り取られて、当時を偲ぶことが出来るのは今でも城山と呼ばれる山頂のみであり、松風の関と共に要害の地であった面影を残している。
, |
明行寺 北関 → 湯谷 |
本尊は阿弥陀如来で真宗本派本願寺派です。この寺の創立は、元肥後国大津山8代城主家稜(いえかど)の重臣であった福山出雲が、大津山氏が滅亡した後、断髪して号を了雲と改め、元和6年(1620)に北関に寺を創建して、明行寺と号しました。その後、寛永年間(1630年頃)に隣村の湯谷(大牟田市四箇字湯谷)に移転しました。移った明行寺は風格あるお寺で街道から長い参道が延び、高い石段の上には文政4年(1821)に建立された楼門がある。楼門内の階段を上ると天女が刻まれた梵鐘が吊られています。明行寺の入口の向えには薩摩街道の旅人が泊まる藁屋根2階建の旅籠(福島宅)が昭和30年代まで残っていました。
, |
明行寺の楼門 |
|
四箇村湯谷 柳川領境界石 大牟田市大字四ヶ字湯谷 |
|
湯谷は大牟田市の東端に位置し陸の孤島ともいわれる山間の部落で、太古温泉が湧き出していた伝説があります。参勤交代の道、薩摩街道は集落の中心を通っております。部落の中心部には産土神である天満宮があり宝暦12年(1762)社殿再建の棟札が保存されていており、古くから建立された神社です。
長岡藩・河井継之助が残した、安政6年(1859)10月の道中日記には南関から「山を下りて休みければ、石炭多く積み置けり。「何れより」と聞くに、「三池より出づ」と。一度焼いて固めしもあり(コークスの事でしょう)、これは煙なき由。脇に小なるあり、これを焼固めし者の由。」とあり当時、湯谷周辺でも三池炭鉱で採掘された石炭やコークスが運ばれ、燃料として使用されている。湯谷の北端の背戸(瀬戸)が、南北朝時代の頃から肥後領の関所が設けられて「松風の関」とか「大津山の関」といわれていた伝承がある。戦国時代の元亀2年(1571)肥後大津山資秋の娘の恵牟が、三池郡の今賀城主、三池鎮実と結婚した時に化粧田(持参金)として湯谷、中尾、中原、川床の四ヵ村を持たせました。それ以来四箇村は関所ともに筑後領となりました。そこで肥後側は関所の役を勤める御番所を南関町上町に設けました。しかし、秀吉が九州平定の後の領地替のたびに幾度か返還の話しがありましたが、筑後領から変ることはありませんでした。
|
|
南関町大字関外目と大牟田市大字四箇(筑後柳川藩)の湯谷小字石原の県境に新旧二本の境界石標が残っています。ここの新旧2本の境界石は、江戸時代に筑後領と肥後領の国境を示すために建てられたもので、古い方Aは、一辺36cmの四角柱の花崗岩で、江戸初期に建てられたと思われ、それが折れたため、幕末の頃に新しく道路反対側に建て替えられたといわれる。古い方は3つに折れて中段と下段だけが残り3mで文字は判明しにくいが「従是西北筑後国立花飛弾守領内柳河札辻ヨリ四里二十町余」と推定される。新しい方@は一辺35cm、高さ3.7mの良質砂岩の四角柱材で、表面には肉太の文字で「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」と刻まれている。肥後側にも現在は無いが、木製の標柱があり「これより南 細川越中守領分 熊本札の辻より十一里八丁二十間」と書かれていたそうです。近頃、熊本県側に新しい豊前街道の標石Cが建てられている。境川の下流と国道に達する場所に筑後と肥後の国境の「境木」が再現されて立っています。 |
|
|
|
参考・引用文献 松尾龍城著「山川町地方の歴史と伝承」 山川ゆずりば風土記20 山川歴史散歩(南関街道を探る) 山川町の民話・伝説・伝承・ みやま市観光課写真提供 鶴記一郎「地名のはなし」
庄福BICサイト 掲載記事や地図・写真の無断掲載はお断りします。 ご意見・感想・情報提供はこちらへ shofuku21@yahoo.co.jp |
|