庄福BICサイト 【禁無断転載】 福岡県みやま市山川町甲田 H24・12・1製作 |
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大字の甲田は明治9年の町村合併で佐野村と中原村が合併して甲田村誕生した事に起源します。佐野集落の、さらに山奥には標高405mのお牧山の中腹、標高250m付近にある谷軒に10軒程と上五位軒・下五位軒に30軒程と日の浦に3軒、さらに下五位軒の手前南奥には青青に10軒程の小さな集落があり、いずれも平家の子孫であると言う伝承が残されています。東の標高405mのお牧山は、みやま市の中の最高峰です。江戸初期に3代柳河藩主の立花鑑虎が開設した、軍馬・農耕馬の育成の放牧場があり村人達も牧場作業に従事しました。現在は景観に優れた日当たりの良い山の斜面にみかん畑が広がる人情ある山村です。これらの山から流れ集まった川水は佐野・中原集落の待居川に集まり飯江川に合流します。
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【民話・谷軒ばあさん】 甲田字谷軒 |
むかし、平家の血筋を引く民が住む谷軒部落に色が白く夜叉(鬼神)ような姿の老婆が住んでいました。神呪を唱え、不思議な霊験で未来を予知したり、里から訪れる病人の病を治していました。 山に入ると猿のように木から木へ、枝から枝へと飛び、木の実や薬草を採り、家に持ち帰り霊験あらたかな秘薬も作っていた。泣き止まぬ子供には「南無大師遍照金剛」と三度唱えては、左から右へ、右から下へと十字を切り「エイッ」と大きな声で一喝されると子供は泣きやんだ。麓の野町や原町などで悪いことをした者が、ときどき山に逃げ込んだ時には、じっと目をつぶり「今、どこの山のどこそこにいる足止めの術をかけたので逃げることは出来ない。早く捕まえに行け。」と命じていた。泥棒がよく逃込んで捕まる東の山に「盗人道」と名付けられた。里の百姓たちが訪ねて、その年の気象や農作物の作柄を占ってもらっても一度も間違ったことはなかったという。柳川の殿様が、山にウサギ狩りに来て、近郊で評判の老婆なので呼び寄せられ、「何か面白いものはないか?」 と尋ねられた。柳川の殿様の前で、谷軒ばあさんが目を閉じていると1羽の雀がパタパタと飛んできて、近くの木にとまった。谷軒ばあさんがツカツカとその木に近寄って、雀がとまったままの枝を折って殿様に献上した。殿様がしばらく見つめていると、雀は何事もなかったかのように、ふたたびパタパタと飛び去っていった。谷軒ばあさんの気合術は,まさに神技との評判が立ち、祈祷にくる村人も多くなり裕福な暮らしをするようになった。谷軒ばあさんが臨終の時、皆を集めて「遺言がある。昔から金の茶釜を隠している。それは,うめー・・・」と言ったところで息を引き取った。皆は,梅の木の下やら山のあちこちを掘ったが、金の茶釜を探し出した者はいない。しかし、金の茶釜探しで掘起した土地の梅やその他の作物は数年は豊作が続いたと言う。 |
,明治10〜15年の測量地図 |
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【いっちょ願い地蔵】 甲田字谷軒 |
「いっちょ願いのお地蔵さま」は、お牧山に至る蜷の殿様が通った道の脇に立つ。昔はこのあたりの山々は、うっ蒼と大きな木々が生い茂り、昼でも暗い山奥であった。ある時、その山中を旅人が道に迷い途方にくれ困り果てていた。そこで、日頃から信心しているお地蔵様への祈りの言葉『オン カカカ ビサンマエイ ソワカ』と、一心に祈り続けると、不思議なことに天より一条の光が差し込み、祈る旅人の足元を照らし、いかにも旅人を導くように光は動き出した。そこで旅人は、その光を追うようについて行くと、自分の行き先であった里に無事たどり着くことが出来たという。元来お地蔵様は地蔵菩薩といい、仏陀の次に位し里人や旅人の安全を守り、人々の願い事を聞き届け、また苦しんでいる人々がいればそれを救うという有難い菩薩様である。その山奥の里にも、そのお地蔵様が里の守り神として鎮座されており、その旅人の話を聞いた里人たちは、その旅人の難儀を救って頂いたのはこのお地蔵様に違いないと思った。その後、『迷ったときの道明け地蔵様』として、また一つのことを一心にお祈りするとその願いごとを叶えて頂く有難い『いっちょ願いのお地蔵様』として、その里だけでなく近郷近在より日清・日露戦争,さらに第二次世界大戦などで兵士が出征したときには、残された家族が武運長久を願いお詣りに訪れたという。 |
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【御牧山放牧場跡】 甲田 小字金山 |
御牧山放牧場跡は谷軒集落と上五位軒集落の斜め東にあり海抜409mでこの一帯の山では最も高いのみならず、山嶺からの傾斜はゆるやかで古来から甲塚山、兜山、佐野山、峡野山などと名称をもっています。谷軒や五位軒集落の農民が牧場の仕事に従事していました。江戸幕府の掟では、藩内に牧場がなければ「馬市」を開くことができなかった。天和3年(1683)、3代柳河藩主の立花鑑虎は思い立ち、郡内でいちばん高い甲塚山に、軍馬・農耕馬の育成の放牧場を設けました。これが「お牧山」の始まりで、鑑虎公の母里である奥州仙台より種馬を譲り受け、9ヵ年の歳月を費やして、土塁を築き柵を設け、馬の飼育に必要な人材を配した。人馬の飲料水は欠くことができないので馬頭観音の社殿の北西60m程に湧水池を作った。ここの水は万病に効く霊験あらたかな為「金霊泉」と言われた。藩から家臣の築地原らを仙台に遣わし種馬を引いてこらした。元気で肥えた赤馬・黒馬・白馬を乗せた帆船は無事意気揚々と沖端港に着いた。黒山のような見物人の驚きと称賛の声に迎えられた馬は宮永の仮の馬屋に納められ、南国の空気を、いっぱい吸いながら甲塚山に運ばれすくすくと育ち年と共に馬は成長した。当時に唄われた子守歌に、「赤馬10匹、黒馬10匹、白馬10匹、30匹の馬はどこに繋いでおいたろ。三本松(上宮永)の木の下に何食わせて置いたろ。去年の栗がら、今年の稗がら、十杷ばかり食わせた。」は奥州産の種馬を珍しく感じて謡ったものです。鑑虎は毎年、馬肥ゆる秋の一日に、供人を従えてお牧山へむかいました。馬追いの勢子の若者衆はそろいの法被に、鉢巻姿も、りりしく、手には取り縄を持って殿様をお迎えします。若駒を集め、馬草を与え「駒取り」行事が始まるのです。若者衆は殿の殿前で功名を立てようと懸命に捕縄を繰ります。馬を捕らえ、“ハミ”を馬の口にかませたら競技は終了。山野に木霊する馬のひずめの音やいななき、若者たちの歓声が聞こえてきそうなお話です。旧柳川藩志によれば、開設当時の役人は、奉行・四ヶ所藤左衛門。小頭・順太平、厩方支配・荒木善兵衛支配・山下久次とあります。また佐野村や、中原村などの百姓から山林や田畑を馬が荒らしたり、苦役に駆り出される苦情がいろいろと藩に出された様子を、うかがう事の出来る文書も残っています。しかし年月がたつにつれて軍馬になるような良馬を産出できなくなり、何度か種馬を購入して立直しが図られたが、ついに天保年間(1830〜1843)に、160年程続いてきた牧場の歴史を閉じました。牧場は閉鎖されても野町の馬市だけは盛んになり繁盛して明治の終わりまで続いたそうです。
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五社宮 お牧山 |
五社宮の前一帯を「桜馬場」と言って馬の飼育をした馬場跡です。牧場の跡を残すものに、馬場跡・馬止めの土塁・金霊泉があり、往時を偲ぶことが出来る。五社宮は、これまで、この連山に点在していた桜馬場之社(2祭神)・植松之社・(3祭神)・兜山之社(3祭神)・黒岩之社(2祭神)真弓塚之社(馬頭観音)をここに合祀したものです。建立は棟木銘文に書かれた「奉造営〇〇〇〇〇〇〇〇年〇柳河城主 従四位下左近将鑑 立花氏源朝臣鑑壽」の判読によれば、寛政9年(1797)〜文化11年(1814)に柳川藩8代藩主立花鑑壽の造営であることが解っています。五社宮の馬頭観音を除く7祭神は、いずれも製鉄に関連した神々であり、これらの神を祀っている事は、ここより少し南に下った辺りに金山、そこから西に下がった谷に金糞谷と呼ぶ地名がある事から、古代から製鉄や鍛冶が行われていた地域と考えられている。ここが北隣の平安時代の「たたら製鉄跡」が確認された「本谷・イモジ」と並んで「金山・金糞谷」という地名と合わせ考えると製鉄の一大産地であったことを伺わせる。五社宮の裏山にはまだ十三仏・兜山稲荷・弁財天が祀られている。左隣の広場にはキャンプ場が整備されています。 |
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五社宮 |
馬頭観音を祀る五社宮 |
祭殿 |
十三仏・地蔵像 |
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金霊泉 お牧山 |
立花鑑虎公はお牧山の人馬の飲料水のために、山頂近くの馬頭観音の脇に涌水池を堀らせました。人びとはこれを「殿様の井戸」と呼んでいましたが、この水が万病に効くと評判になり、いつしか霊験あらたかな「金霊泉」と呼ばれるようになりました。現在はこのお牧山の中腹に町で井戸を掘り、野外活動などに利用する一方、遠方からわざわざこの水を汲みにこられる方も多いようです。 |
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【五位軒集落】 甲田 小字五位軒 |
五位軒集落は平家の落人が逃込んで隠れ住んだ伝承のある山間地です。江戸時代ではお牧山の馬の世話をしていたという。今はみかんの産地として名を誇っている。温暖な気候が栽培に適し、甘くておいしい山川のみかんは、東京、大阪方面へ出荷されています。 秋、てっぺんまで黄金色に染まったみかん山からは、さわやかな甘い香りが漂ってきます。「山川早生」は味もよく、全国でもトップ銘柄。有明海、雲仙を眺めながら、みかん狩りが楽しめる。みかんの樹のオーナーにもなれます。
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みかん集荷場よりの眺望 |
五位軒集落からの眺め |
天保13年(1842)建立の地蔵尊 |
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【淀姫神社】 甲田字五位軒 |
村に疫病(伝染病)が流行し病魔退散の祈願の為に天保9年(1842)に創建されたと言われる。祭神は淀姫命で、干満二珠を龍王より賜り、戦いのために海を割ったりするけれど、戦い終えた後は、民と共に暮らし、慈しみの雨を降らせ、病を癒したという。御神体は白蛇を踏んだ女神だそうだ。白蛇は最高の霊力を持ち、特に霊験あらたかな神様として、信仰されてきました。それは、脱皮を繰り返すことから抜け変わると言われ、災いを取り除いて下さることにより、厄払い、病気全快のご利益があり、また、生まれ変わる力があるとされ、子宝を授け、健康長寿、さらに出世、繁栄をもたらすと信じられて来ました。本殿屋根には立花藩の祇園紋が捧げられている。五位軒の人達は藩のお牧山の放牧場の仕事に従事していた事と、肥後との国境の警備を重んじて淀姫神社の建設に藩が援助してあげたと思われる。
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【青青集落】 甲田字青々・城尾 |
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甲田の最南東に位置する青青集落は10軒程の農家がある。集落入口に鎮座する弘法大師を祀るお堂がある。春と秋のお彼岸にはお遍路さんがお参りに立寄る。青青集落のみかん農家は、将来の後継者が居ないのが悩みの種。「青々谷城尾大桜」は平家五大山桜の一つとして花見のシーズンには訪れる人が多い。 |
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弘法大師堂 |
青々谷城尾大桜 |
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【佐野集落】 甲田字佐野 |
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【佐野天満宮の佐野浮立】 小字内畑 |
佐野天満宮は文化9年(1812)の創建と言われ、徳川時代末期、当時の若者たちが、年に1度の秋の天神祭で、五穀豊穣を祈って奉納したのが始まりと伝わる。子供たちが打ち鳴らすテコテンヤに始まり、5部の打ち方と共に、10種類の打法がある。神前太鼓ならびに座元での打ち出し、打ち込み太鼓、マクリ太鼓、道中太鼓(みちがく)などがそれである。昭和30年頃までは、小学生と若者で舞われていたが、一時中断し30〜50代の人達により略式で維持されてきたが、昭和61年に有志の手で浮立保存会が設立し、子供達を中心とした太鼓の舞が復活した。11月の例祭には1日中、鉦・太鼓の音が響き「むらし」と呼ぶ小太鼓を叩く大人の調子に合わせて大太鼓が舞い叩かれる。赤熊「しゃぐま」をかぶった男達の勇壮な踊りが五穀豊穣・家内安全を願って家々を回ります。安政年間の刻印が残された鐘は現在も使用している。昔の例祭は旧暦の12月18日であった。平成15年10月に再建されている。 右隣には観音堂があり春と秋のお彼岸にはお遍路さんが高い石段を登ってお参りに来る。 |
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観音堂 |
千手観音 |
弘法大師像 |
お宮からの佐野の集落眺望 |
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明治10〜15年の測量地図 |
【中原集落】 甲田字中原 |
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【白山宮の中原風流()】 小字本村 |
白山宮の創建年代は不詳であるが、七霊宮に奉祭された白山宮祠内書きには享保7年(1722)の年号が見える。境内の奉納鳥居には「文政五歳(1822)」の年号が見える。祭神は菊理姫命。毎年11月の第1日曜日の例祭には五穀豊穣を願い、子供たちが舞を踊りながら太鼓を打ち鳴らす神事、中原風流は。数百年におよぶ歴史があるが、大正期に、中原風流に関する巻物などの資料が全て焼失し、詳細は定かではない。近隣の八女橘松尾部落の神社の古文書に、中原風流を伝承したとの記載が残っている。 大太鼓 1、鉦1、鼓2、横笛8、小太鼓4。元来風流は男性だけで行っていたが、横笛と小太鼓は小学生の女子が受け持っている。風流の所作は昔ながらであり、素朴な動きが特徴。風流の謡曲は11種あり、時と所により使い分ける。奉納する時や各地区にて舞う時は、「テコテンニャ、」「サデンコデン」、「ドンドコドン」、「タンタンタカンハ」、「テコテンテコテン、」「デンデンデコデン」。まくりの「ドンドコドン」と「タンタンタカボコ」の8種の謡曲を一連の流れとし、約20分かけて舞う。移動中は「みちがき」、「あとすざり」の時は「1234567」、「カーネガバーサン」の2曲を使用。「あとすざり」とは、白山宮から天満宮までと、要川公園(旧道)で行なう後向きに進む所作のことで、神様に後ろ姿を見せないためのものと言われている。昭和35年〜40年までは途絶えていた。その後、地域住民が芸能を伝承すべく努力を続け、平成10年に保存会を発足し再開した。
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白山宮鳥居 |
参道石段と楼門 |
本殿 |
中原風流 |
中原風流 |
拝殿内 |
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【観音堂】 白山宮境内
白山宮の左脇に観音堂がある。創建年代は不詳。 |
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【弘法大師堂】 甲田字中原小字石坂
中原集落の曲がり角の上に鎮座している。地元の信者により世話されており、春と秋にはお遍路さんがお参りに立寄る。 |
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【天満宮】 甲田字中原小字川原
天満宮の創建は不詳。左には日露戦争の戦没記念碑がある。 |
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【天保古山(てんぼくやま)の平家一本桜】
要川を見下ろす東の天保古山の山頂にそびえる、樹齢200年を超える高さ18m・幹周り2.5m枝の広がりは約20mの見事な山桜です。春の3月にもなると、夜半にライトアップされた花びらの一枚いちまいが平家伝説の語り手としていっそう輝きを増し、人々を惹きつけて放しません。
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【中原の地蔵堂】 甲田字南松
後背をつけた座像の地蔵さんで、台座には「三界萬霊」「嘉永六年丑三月吉日」(1853)と刻まれている。
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【中原のお岩様】 甲田字中原・向江
入江長者なる者住せしとの口碑山川字中原向江に巨石を神として堂宇を設けてこれを祀る。この石に触れば祟りをこうむるとの伝説あり。巨石は、二門四面の堂宇をおいてこれを覆い、その岩間より大樹茂り、お堂の屋根を貫く。正月24日例祭を行う。巨石の高さ3.3m幅1.6mある。それより西20mの所に民家の庭前にも同じ大きさの巨石あり。石の配列は、まったく堤古墳、および飯尾赤池のものと同一型の邪馬台国式古墳で、迷信的伝説もあったと言う。また佐野に奥堂の大石に月日を刻んだ石窟があったが、その石材が良かったので、近年これを破壊して土木用に転用したと言う。 |
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(伝承) 萬里小路藤房(藤原藤房)の館 要川公園南 |
万里小路藤房(集古十種より) |
伝承話しとして、南北朝時代に京都の後醍醐天皇に使えていた萬里小路藤房(藤原藤房)(1295〜1380?)という貴族が、「天皇の討幕計画に主要な役割を果たし、建武元年(1334)天皇が政治を顧みないのを諌めたが聞き入られず、北山の僧となりその後行方をくらまし姿を見る事はなかった」と言われてきたが山川に萬里小路(まてご)・萬里の森(までのもり)・藤原館という地名を残し墓があったという。藤房は後醍醐天皇の皇子、懐良親王が九州に赴かれるのを知り、親王を慕って密かに九州に下り南朝軍の根拠地である菊池(征西軍の根拠地)と筑後矢部(懐良親王の隠居地)を結ぶ唯一の街道が通る、ここ中原の地に住んだという。しかし親王に会えることを期待しながら暮らしたがその時は訪れなかった。ここ中原の藤原の館で静かに余生を送り天授6年(1380)に85才で亡くなられたと言う。この伝承話しにより、菊水の紋の入った墓が萬里小路橋のたもと藤原館にあつたとも言い、飛塚(高田町)にある五輪塔が藤房の墓とも言われて、未だに解っていない。 |
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【待居川の閻魔堂】 甲田字待居川 |
石像の閻魔像1体が祀られている。8月15日の例祭では地獄・極楽の2幅の掛軸が飾られ大勢の人で賑わう。堂内には優美な顔立ちのお地蔵さんが祀らていて、台座には「文化七庚午年」(1810)「三界萬霊」「季節冬中旬」「待居川子供中」と刻まれている.。「三界萬霊」とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、供養することで、ここは薩摩街道があり、旅先で亡くなられた方や争いが起こらないようにと願いを込めて、村人たちがさまよう無縁の霊を供養するために閻魔堂を建立したのでしょう。「三界」とは、、「欲界」、「色界」、「無色界」の三つの世界で、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指す。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指します。村人の純朴で親切な心が感じとれるお堂ですね。 |
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【平家の落人伝承】
平安時代の末期、寿永4年(1185)3月、平家一門は壇ノ浦で源氏との決戦に及んだが平家は、二位尼に抱かれて幼い安徳天皇が海の藻屑と消えた瞬間に滅亡した。生き残った者は戦えば敗れ、落ち行く先は九州であった。九州には太宰府をはじめ各地に平家の一族が重要な地位と政権をにぎっていた。筑後の守は平貞能、肥後の守は平貞家と言ったふうに。しかし予想と願いは裏切られた。頼みの綱は、切れ果てて、太宰府にも露命をつなぎ得ず、そこで久留米の草野氏を頼ったが相手にされず筑後の山門郡本吉山にある清水寺に加勢を求めた。清水寺の僧兵数千人は、平家の恩義を忘れずに船小屋の北方の尾島において源氏の大群を迎撃した。しかし、時の運に乗じた源氏の軍勢の前にもろくも敗れ去り、ここ山川が最後の激戦地となり要川付近の戦闘で終わりを告げた。ここ要川一帯はこの戦いによって、草も木も川面も血に染まり屍は、あたり一面に重なり合い、目を覆うばかりであったという。このため要川一帯を血波川とも呼ばれた。鎧はちぎれ錦の衣は綻び、矢尽き刀折れ生き残れた者は、気の向くままに散り去っていった。難波善長(平益信)、加藤権内(平正勝)、浦川天ヶ左衛門(平高矩)、鳴神藤助(平親英)、是永多七(平清政直)、若宮兵七(平清貞)の6人の落人は柳川市沖の端の漁村に逃れ余命を漁業に求めた。当時の人々は平家の身分の高い人たちとして、6名の騎馬武者の意味で「六騎」と呼んだことから、今でも漁業や海苔養殖業の人を「六騎」と呼んでいる。瀬高の浜田北に逃込んだ落人は農民に身を隠して生き延び、後裔たちは先祖の苦難を忘れぬ為に平高神社を建立して祀った。浜田南には平家の落人の6人の娘が井戸に身を投げて果てた。その死体を塚に懇ろに葬り、「六体神」(ろくてさん)と祀って、命日の供養を9月15日、霜月祭りを赤旗を立てて12月15日に行っている。さらに、落ちのびることもできず南下した落人は、障子岳の山深くに分け入って、身分を匿し、里人とも交わらず、こっそりと山の中に隠れ住んだ一党は、数年の間昼は洞窟に隠れ、暗くなると食べ物を探しに山を降りるという生活を続けた。障子岳下の洞窟に隠れたる一人の格式武士は、平家塔を始め戦跡各地の戦死の英霊を祀ったと言う。やがて、追捕の手がゆるむ頃になると里の人とも言葉を交わすようになった。しかし、名前を正直に言うこともできずに、平姓を「坂無」という名に秘したと言う。現在、高田町亀谷地区に「平」デーラまたはテーラという集落があり、20戸のうち18戸が坂梨姓である。子孫である坂梨姓一族の人は、洞窟の祖先を現人神と祀って、毎年4月16日赤旗を立てて祭礼を行っている。山川町甲田の山中に「五位軒」「谷軒」という集落があるが、ここも平家残党の住み着いたところと伝えられている。 谷軒は、平家谷として知られています。平家谷とは? 源氏に破れた平氏が、人里離れた山中の谷に住んでひっそりと暮らしてきた集落です。南方の山里にある青々谷には源氏に追われた七人の女官たちが入水し、果てた滝を七霊の滝と、女官たちの霊を祀る七霊宮があります。さらに追手を逃れて肥後の山に逃れ身を隠しながら平家の落人は遠く九州中央山脈の奥深くまで潜んだ。その5人の平家武士は熊本県の山奥の五家荘へ、さらに他の者は宮崎県の椎葉村へ。椎葉村の民謡「ひえつき節」には(3番〜)「♪Bおまえ平家の公達のながれ おどま追討の那須の末 C那須の大八 鶴富置いて 椎葉たつときゃ 目に涙 D泣いて待つより 野に出て見やれ 野には野菊の 花盛り♪」は、源氏の追手である那須大八郎(あの那須与一の弟)は、平家残党の追討で宮崎の椎葉村で残党を発見するのですが、その痛々しさに同情し、そして、あろうことか、逃込んでいた平清盛の末裔・鶴富姫に恋をして結ばれる。やがて幕府から、「すぐに兵をまとめて帰れ」という命令が届き鎌倉へと帰ることになる。このとき鶴富姫はすでに身ごもっていました・・・。源平の恩讐を越えた恋物語が抒情詩的に綴られています。 |
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平家の七人の女官を祀る七霊宮(しちろうぐう) 甲田字松葉谷 |
山川町原町の観音堂から東に入り佐野の出外れ五位軒への分岐点のすぐ右側田んぼの中に小さな森がみえる。ここは山川町大字甲田中原村の青々谷と言われる地に七霊宮はあります。要川の合戦で敗れた平氏は、ちりじりになって落延びる以外に道はなかった。多くの女官達も彼らと運命を共にしました。その女官達の中の七人の上臈達(身分の高い女官)にも、追手が迫り、これまでと覚悟を決め要川から待居川(平家が源氏を待ちうけたことによる命名)をさかのぼり、昼なお暗い森の中の滝壷に身を投げて果てました。里人達はその死を哀れんで、瀧のそばに祠を建てて祀りました。それから誰言うとなく瀧を「しちろうの瀧」、社を「しちろうぐう」と呼ぶようになった。言い伝えによると、この七人の女官は滝壷に身を投じた後、「なまず」に化身したと言われて来ています。後に里人が大水でこの社のご神体が流されたとき「なまず」がくわえて助けたと言う話が残っていて、それ以後この地方では「なまず」を食べない風習が、待居川は元より飯江川中流域まで残されています。また、一人の女官の遺体が田鶴の瀬川(現在の飯江川)を流れ下り海津村に流れ着いたので、村の人たちはこれを葬り祠をたてました。
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右に曲がった森の中に七霊宮がある |
七霊宮 |
七霊の滝 |
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甲田村 |
明治9年(1876)に中原村と佐野村が合併し甲田村となる。掲載の古地図は三潴県により当時測量された地図です。明治22年(1889)には甲田・重冨・北関・真弓が合併して萬里小路村となりました。明治40年(1907)に萬里小路村・冨原村・竹海村と緑村の1部が合併して山川村が誕生しました。
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待居川 |
平家が源氏を待ちうけた伝承による命名。 |
王家ノ元 |
身分の高い方が住んでいたような地名ですね。調査中 |
町口 |
原町と甲田の境で街の入口の意味です。測量した明治時代初期の古地図には杉並木が描かれています。 |
物見塚 |
西側の旧小萩村の独立した小高地を指し、ここから要川を眼下に、遠く野町・竹飯方面を望むことが出来る絶好の物見の場所であり、この名が付けられた。 |
南松 |
昔は松林があったかも知れません。行政区名の南待は待居川の頭文字「待」と組合わせて命名されたのでしょう。 |
本村 |
中原村の集落中央の意味です。原を昔から、「ばる」・「はる」の呼びかたがありったようです。 |
七霊宮ノ前 |
平家の7人の女官を祀る七霊宮のある土地の名です。 |
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参考文献 松尾龍城著「山川町地方の歴史と伝承」 ・山川ゆずりは風土記20(山川町商工会)・山川歴史散歩(山川町歴史研究会編集)・ 旧柳河藩志・ みやま市観光協会祭り写真提供 |
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