庄福サイト                   【禁無断転載】                      .
       【九品寺(くほんじ)(満寿山)】         福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大字本郷(ほんごう)
 地元なまりでは「ふっごんじ」と呼ばれていました。九品寺は 養老(ようろう)4年(720)の開基で、本尊の阿弥陀仏は行基(ぎょうき)の作であったとの言伝えがある。九品とは九品往生(くほんおうじょう)の考えから、九つの如来が生前の信仰と善行の度合い9通りで迎え、あまねくすべての人を救う( )信仰度合いを上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)、(品は濁ってぼんと読む)それぞれを善行度合いで上生(じょうしょう)中生(ちゅうしょう)下生(げしょう)と分け、この組み合わせで9通りになる。最上位の上品上生は如来・菩薩・比丘(びく)(出家修行者)が管絃つきの総出演でお迎えされるが、階位が下がるに連れ、菩薩がいなくなったり、阿弥陀如来だけになったり、ついには金の蓮華(れんげ)が現れるだけと、寂しくなる意味がある。日常語になっている上品、下品は、この九品から派生(はせい)したと言われる。本郷の九品寺は戦国時代の兵乱の火災の為に寺院・旧記と共に焼失して当時を知るものはないが(,)境内には鎌倉時代に九品寺を開山(かいさん)した和尚の供養塔と伝えられる宝塔(ほうとう)や、室町時代の天文8年(1539)信心者69名が死後の冥福(めいふく)のために生前供養した梵字預修板碑が残されている。また境内には観音堂があり明応(めいおう)年間(1492~1501)の灯籠があったが紛失。観音堂も無くなっている。貞享3年(1686)円爾(えんに)聖一国師(しょういちこくし))の末孫で京都の臨済宗大本山の東福寺豊石和尚中興(ちゅうこう)(復興)したとある。願主 本郷氏、本阿入道の建立とある。現在、本尊は須弥壇(しゅみだん)の正面中央に釈迦如来(しゃかにょらい)右側に達磨大師(だるまたいし)ある。昔の本郷には末寺、末庵が多くあり、定林寺、満願寺、高源寺、延命寺、聖聚寺、常福庵、常心庵などがあったという(.)
 
九品寺本堂
 
須弥壇

三十六仏群
 矢部川の治水事業などに大きな足跡を残した田尻惣助・惣馬 親子の墓
 田尻家は豊後国(大分県)大友氏の家臣で田尻鎮春(しげはる)の代に戸次道雪(べっきどうけつ)に仕えるようになり、その鎮春から5代目が立花藩普請(ふしん)役人の田尻総次(そうじ)で、寛永15年(1638)蛇行(だこう)した矢部川の直進化工事により鷹尾村は鷹尾と泰仙寺(たいせんじ)の二村に分かれた。正保2年(1645)にも津留村(つるむら)が東津留と西津留に分けた同様な大工事を成し()げた。舟の通過が短縮され、洪水も減り、新しく耕地も増えました。6代目が田尻惟貞(だじりこれさだ)(通称・惣助(そうすけ)元禄(げんろく)5年(1692)に藩より幕府に提出する「御国絵図」を作成し、普請役(ふしんやく)(建築や土木工事の責任役)となってから英山公(鑑虎(あきとら))の隠居所(現在の御花の前身)を普請し、その褒美(ほうび)別家(べっけ)をたてることを許されない二男の惣馬に書院番の役職を賜りました(.)元禄8年(1695)八女郡北山村の曲松(よごまつ)より山下までに至る御境川(矢部川)の1300(けん)(2、3km)高さ7m余もある壮大な堤防を普請役が惣助で地元農民の夫役(ふやく)により築かれました(.)引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田(ながた)土居を築堤し矢部川の流れが定まり水害から護り、荒田を良田に(よみがえ)らせました(.)のちに千間土居と長田土居の補修強化をしたのが二男の惟信(これのぶ)(通称・惣馬(そうま)惣次)です(.)これらが千間土居(せんげんどい)・広瀬河端(かわばた)・小田野林・長田孤林(きつねはやし)と呼ばれました。惣助元禄13年(1700)9月26日に江戸で病死し(.)住いのあった近所の九品寺に墓が建立された。長男の新右衛門惟定(これさだ)が普請役を受継ぎ二男の惣馬は書院番として藩に仕えていた(.)
 田尻惣馬延宝(えんぽう)6年(1678)惣助の二男として生まれ、元禄5年(1692)15歳の時に書院番となり、元禄8年(1695)千間土居が築かれていた頃には(.)藩主のお供で江戸にいました。(柳川藩史鑑任記)その後病気になり(ひま)をもらい元禄14年(1701)に柳川に帰郷し、浪人をしていました。宝永(ほうえい)6年(1709)2月26日、病気も治り33歳で普請役に取り上げられました。正徳3年(1713)、藩内各所が大潮(おおしお)によって被害を受けた際、黒崎開の普請方に任ぜられて、その復旧(ふっきゅう)に努め、さらに享保2年(1717)には蒲地山(かまちやま)溜め池を構築しました。池は東西260(けん)(約512メ-トル)、南北100間、周囲900間にもおよぶ大きなもので()べ7万6千人の手を要して完成された大堤です。大根川を流れ旧藩時代から300(.)近く4ヶ村の農業の水源として役立っています(.)また父が構築した千間土居には楠木・杉などの樹木や竹を植えて頑丈(がんじょう)にし、川岸には対岸に突き出した石積や蛇籠(じゃかご)で水流をやわらげる水刎(みずはね)を造り堤防を頑丈にした。享保2年(1716)には広瀬堰からの水路が完成した。惣馬の築堤・水利工事の指揮はきびし(うら)みをはらすために「切る時は、木六、竹八、(あし)九月(何れも陰暦)、惣馬の首は今が切り時」(うわさ)され、鬼奉行と恐れられました。これらのほかにも、本郷権現(今の瀬高町)の水刎(みずはね)、磯鳥(今の三橋町)の井堰(いせき)、浜武崩道(今の柳川市)の瓢箪(ひょうたん)開、唐尾(今の瀬高町)の井堰などの構築をおこなっており、さらに瀬高川の掘り替えも惣馬の偉業(いぎょう)とされています。こうして、藩内のさまざまな水利土木工事を完成させて、郷土の発展に()くし、後世に九州普請役の三傑(さんけつ)(鍋田藩の成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)、細川藩の堀平左衛門)と言われる程の人物であった惣馬でしたが、宝暦(ほうれき)10年(1760)7月16日に亡くなり九品寺の父の墓の隣に埋葬されました(.)


田尻惣助・惣馬の墓
 
千間土居

蒲地山ため池
   

 
     
 【立花帯刀家の墓】

   【帯刀家(たてわきけ)とは】
 初代柳川藩主の立花宗茂(むねしげ)には実子に恵まれなかった為に弟の
立花直次(なおつぐ)(三池藩主)の4男立花忠茂(ただしげ)を生後まもなく養子にして柳川藩2代藩主とした。忠茂の正室は永井尚政(ながいなおまさ)の娘・長子で、継室(けいしつ)(後妻)は徳川秀忠の養女(伊達忠宗の娘)・鍋子であった。子供は側室の光行(みつゆき)氏が生んだ鶴寿(後の茂虎(しげとら))(三男)と継室の鍋子が生んだ、嫡男、鑑虎(あきとら)(四男)、貞晟(さだあきら)(八男)などを儲けた。忠茂伊達忠宗の娘・鍋子が産んだ鑑虎を藩主と考え、家督をめぐる争いを避けるために年長である茂虎を出家させ宗茂公の菩提(ぼだい)を弔わせるように勧めたが、拒んだので茂虎を江戸から国元の家臣立花九郎兵衛預かりとして幽閉している。寛文(かんぶん)14年(1664)忠茂は隠居して鑑虎を3代藩主とした(.)
    
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    【帯刀家(たてわきけ)の創設( ) 
 寛文12年(1672)に弟の藩主鑑虎は、父に幽閉(ゆうへい)されていた義兄の
茂虎の不遇を(うれ)い、領内の中山村
(三橋町)に領地を与えた( )父が死去した翌年には山崎村(立花町)も領地と優遇され2300石に加増され、立花内膳家と共に藩の信望を集めた立花両家の一つ、立花帯刀家(たちばなたてわきけ)が創設される。茂虎の幼名は鶴寿(つるひさ)。通称、帯刀(たてわき)。号、好白で通称名から帯刀家と称された(.)

 帯刀家2代目は長男の茂高(しげたか)が継ぎ,、正室の玉泉院
(三池藩2代の立花種長の娘)とのあいだに嫡男の茂之(しげゆき)と次男の貞俶(さだよし)を儲けている。次男の貞俶は、始め旗本寄合の大叔父の立花貞晟(さだあきら)の養子となったが、享保6年(1721)5月の第4代藩主・立花鑑任(あきたか)の死により、その末期養子となり、柳川藩5代藩主となり最初の養父、貞晟の娘、松子を正室として迎えた(.)これにより栁川城中の席次は帯刀家、内膳家、監物家(かんぶつけ)、大学家の順で柳川藩首席の御家柄となる(.)

 帯刀家の3代目は長男の茂之が継ぎ、藩の上位となり20余軒もある本町の屋敷内に住む。邸内には講武場、騎射を設けた。中山村の農民も帯刀家の直支配となり、家臣に准ぜられ、他村の農民より威厳(いげん)があった。茂之の次女は柳河藩女流歌人の玉蘭(ぎょくらん)、国内で2番目に漢詩集を発表している( )後に矢島釆女の嫁となる。茂之は引接寺の15代住職一誉上人帰依(きえ)され浄土宗に改宗した。宝暦4年(1754)正月に60歳で世を去る。法名聖龍院(.)






            立花家本家と内膳家帯刀家の家系図

       ①内膳家政俊(まさとし)②内膳家種俊(たねとし)
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 ①宗茂──②忠茂(弟・だだしげ)─┬─③鑑虎(あきとら)──④鑑任(あきたか)──
(帯刀家の貞俶を養子とする)
           
帯刀家茂虎(しげとら)──帯刀家茂高(しげたか)─┬─⑤貞俶(・さだよし)─┬─⑥貞則(兄・さだのり)
                          主水家茂之(・しげゆき)  ⑦鑑通(弟・あきなお)──鑑門(長男・あきかど)
                              |           ├─ 鑑一(4弟・あきかず)  ⑨鑑賢(あきかた)──⑩鑑広(・あきひろ)
                          主水家茂矩(しげのり)       ,                └─ ⑪鑑備(・あきのぶ)
                                          └─⑧鑑寿(5弟・あきひさ)── 寿俶(ひさよし) ── ⑫鑑寛(あきとも)
鑑備の養子となる) 
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                            帯刀家茂親(しげちか) 
                                 

                            帯刀家茂旨(しげむね)  

                                     

                              
 帯刀家茂教(しげのり) 〇帯刀家茂?(家督継承前に没す)  松千代家茂尊(しげたか)
 


 【立花内膳家(ないぜんけ)とは】
祖は柳川藩2代目藩主立花忠茂の実兄の政俊(まさとし)で南関に近い国境の上内(じょうない)の1000石を知行した通称は内膳(ないぜん)、号は宗繁(そうはん)寛文4年(1664)、57歳で逝去。墓所は柳川の法華宗台照院で「台照院殿瑤雄日源宗繁大居士」である。内膳家2代目は種俊(たねとし)が跡を継ぎ寛文9年(1669)上内村(じょうないむら)(大牟田北部高田町に接す)に黄檗宗(おうばくしゅう)法輪寺を創建し、上内内膳家代々の菩提寺とした。元禄10年(1697)54歳で逝去。法号「法輪寺殿嗣法雪関元徹大居士」( ) 

 

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清光院殿の位牌
 境内の重なる墓標は立花帯刀(たてわき)家の祖、立花茂虎(しげとら)と最初の奥方の清光院の墓。帯刀家2代目の立花茂高(しげたか)と未確認の室の香桂院の墓がある。茂高の奥方の玉泉院の墓は帯刀家3代目茂之(しげゆき)の菩提寺引接寺(いんじょうじ)にある。最奥の墓には茂虎の戒名「国融院殿洞雲一花大居士霊」が彫られている(.)左側面の俗名・没年は風化の為に読取れず。旧柳川藩志には元禄14年3月13日好白茂虎)卒す。之を福厳寺(ふくごんじ)に葬る法号「春林院」、別に本郷九品寺に石塔位牌を安置す。」とある(.)右隣の清光院最初の奥方の墓で25年も夫より早死にしていることから九品寺に最初に埋葬(まいそう)されたとみられる。本堂には清光院殿の大きな位牌が祀られている。茂虎は継室として栄林院を迎えている。3番目の墓は「磐光院殿朽才常写大居霊」の戒名(かいみょう)と左面に「立花源茂高」の俗名、右面に「正徳四年六月」の没年が彫られている茂高の墓である。茂高のことは余り知られていないが()夫人は三池2代藩主立花種長の娘・国子玉泉院(ぎょくせんいん)で子供は嫡男で帯刀家の3代目となると、次男の貞俶(さだよし)は、はじめ大叔父で旗本寄合の立花貞晟(さだあきら)の養子となり、享保6年(1721)5月に柳川藩4代藩主立花鑑任(あきたか)が死去した際に末期養子となって柳川藩5代藩主の家督を継いでいる。右隣の墓は香桂院で、茂高の娘の墓である。茂高の正室である玉泉院寛保(かんぽう)元年(1741)に亡くなり墓は下庄上町の引接寺(いんじょうじ)に、柳川藩第5代藩主となった次男の貞俶により建立された。嫡男で帯刀家3代目にあたる立花主水茂之夫妻の墓の正面にある。帯刀家4代目以降の墓は山川九折(つづら)宗永寺(そうえいじ)にある(.) 


九品寺の半鐘
 
  【満壽山 九品寺の半鐘】
 帯刀家5代目立花茂親が九品寺に奉納した半鐘(喚鐘(かんしょう)ともいう)で、いつの頃からか、本郷の聖母宮(しょうもぐう)境内の火の見(やぐら)に架かっていたが道路拡張計画の為に降ろされたものです(.)4面に細い字で陰刻された銘には「孝孫立花茂親公丁 韜光院殿(立花茂高の戒名)七十年遠忌 辰再爐鞴裡・・・・(.) 「天明第三発卯年 四月吉祥日 筑後州下妻郡本郷村満壽山 九品禅寺(くほんぜんじ) 見住嗣法比丘 爾層山 謹記焉」 (.)・・・・鐘者住大檀越立花好白(帯刀家初祖立花茂虎の号)大居士所寄付・・・・」などが書かれている(.)
 解明できぬ文字も多いが要約すると(.)帯刀家初祖である立花茂虎の正室の清光院が早死にして九品寺に葬られた頃に茂虎好白)が半鐘を寄付したとみられる(.)長い年月の使用で、ひび割れで音がでなくなっていた。帯刀家5代目の茂親(しげちか)天明3年(1783)4月曽祖父(そうそふ)茂高(帯刀家2代目・戒名韜光院殿朽木常安大居士)の七十周忌の法要を本郷の九品寺で行い、高祖父、茂虎好白)が寄付した半鐘を再鋳造して寺に奉納して冥福(めいふく)を祈っている。当時の住職は
層山とみられる。鋳造(ちゅうぞう)の職人名は記入されていない(.) 

行基菩薩堂 
    【行基橋】
 寺の近くにある行基橋は沖ノ端川に架かる橋名でもあり、地名でもある。僧の行基(668-749)は律令時代の人で、百済(くだら)の帰化人の子孫で日本全国を歩き回り、日本最古地図「行基図」や橋を作ったり用水路などの治水(ちすい)工事を行った伝承が残され、全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在する(.)近くでは瀬高下庄・宝聚寺(ほうしゅうじ)や筑後市津島西・光明寺がある(.)しかし筑後地方に来た史実はないので本郷の行基橋は仏教信者か弟子が
行基の徳に、(あやか)って行基橋になったのでしょう。橋の近くには「行基菩薩堂」が祀られています(.) 
 
九州・部分拡大図
 
行基図の写本

          【【宝塔】
 本塔は本堂の裏の竹藪にあったもので、九品寺の開山(かいさん)和尚の供養塔と伝えられる。相輪・笠・塔身・基礎という構造で屋根上の相輪(そうりん)は九輪の先細りであったが、7輪を残して上部が欠損している(.)塔身四方の円相中に四仏の種字を刷毛(はけ)書き薬研(やげん)彫りした梵字(ぼんじ)「ウーン」阿閃如来(あしょくにょらい)「ア」大日如来(胎蔵界)・「キリーク」阿弥陀如来・「アーク」胎蔵界大日如来を配置してある( )多田隈豊秋(ただくまとよあき)著の「九州の石塔」には「全体感として安定した好塔というべく、無銘ながら基礎と相輪(そうりん)下部の露盤(ろばん)の四面の香狭間(こうざま)一つを見ても鎌倉時代の遺例として差し支えあるまい。」と評価している(.)

 預修板碑】
 本堂階段横の梵字(ぼんじ)預修板碑は室町時代の天文8年(1539)2月彼岸に建立されたもので、風化の為に読取り難いが4段に(えが)かれ、最上部には円相の中に梵字(ぼんじ)キリーク(阿弥陀如来)を陰刻し、右に「預修善根為現當二世(.) 賤同心勠志彫喪弥陀尊字 以伸供養功徳不可勝形者也」 預修とあるから現世には宿命が変わって幸せになり、後生(こうせい)においても大楽を得るために心を一つにして生前供養した時の碑です。逆修碑(ぎゃくしゅうび)とも言います。左端に( )旹天元八年亥巳二月彼岸初日建之」と建立の日付けが陰刻されている(.)2段目には、妙苑禅定、妙金禅定、正泉宗明のあと(.)寺関係者とみられる禅師1名・律師1名・記室2名と禅宗の僧の階級である座元(ざげん)の5名と寺院内にある経典や論書を管理する僧の知蔵(ちぞう)の4名が陰刻されている。3段目は信者とみられる( )水谷・久富・壇・国武の陰刻の下に約30名の禅尼(ぜんに)禅門(ぜんもん)禅定(ぜんじょう)の修行者名が陰刻され、4段目にも禅尼・禅門の39名の修行者名が陰刻されている。庫裏(くり)に通ずる境内にあったが車の出入りの為に現在地に移されている(.)
                             廻国成就塔(かいこくじょうじゅとう)
明治までのわが国は、出羽の国、長門(ながと)の国、肥後の国というように、国と呼ばれる単位が六十六か国に
分れていました。廻国巡礼は世情が安定し、18世紀前半以降に流行し身辺整理をし、先祖供養のため、信仰のために大乗妙典(だいじょうみょうてん)法華経(ほけきょう))を六十六部書写して、これを持って村の人たちに別れを告げ、生きて帰れるとは限らない全国六十六か国の巡礼の旅に出かけました(.)国ごとに、代表的な寺社一ヶ所に一部ずつ経典(きょうてん)を奉納することを六十六部廻国供養といい、その巡礼者たちを六十六部と呼び、略して六部と呼んだ(.)また廻国行者を助力することが先祖供養であり、それによって功徳が得られるとする考えから、六部(ろくぶ)を泊めたり金銭的援助協力する人が多かったとみられる。廻国塔は廻国納経を無事達成した記念に建てられましたが(.)無念にも廻国中に他国で亡くなった六部を葬り供養してあげた廻国塔もあるようです(.)本堂前の天保11年(1840)廻国塔は上部に弘法大師立像、塔身中央に「開眼(かいげん)石佛供養寳塔」両脇に「天下泰平」「国土安全」右下に「廻国願主伊豫州(いよしゅう)善作」とある(.) 
   弘法大師を信仰する伊豫(いよ)の国(愛媛県)の善作さんが、筑後の国、本郷の九品寺で廻国納経を無事達成した記念に建てられた廻国塔です。開眼とは新たに作られた仏像を供養し、眼を点じて(たましい)を迎え入れることである(.)当山8世の大秋和尚により完成した石塔の弘法大師像の開眼法要(かいげんほうよう)(入魂式)を営んでいる世話人とし(.)正面に江戸の駒吉、相州(神奈川)の宣平( )右側面に内証の世話人として大阪の定次郎、長門(山口)の丈右衛門(.)江戸の源作、肥后(熊本)の?助、江戸の源兵エ、奥州(岩手)の倉吉(.)とあり、これらの人物は旅先で宿泊や金銭的に援助してくれた人達であろう。左側面には「当山八世大秋和尚代」(.)当村の世話人名と建立日、「門前加録村中」「講中」と陰刻されている( )この廻国塔の建立に本郷村の信心者たちが協力したとみられる(.)下の台座には正面から左面に「助力連名」信劦(しなの)(山梨)の太左エ門、長州(山口)丈太郎、同 金蔵(.)越后(新潟)の吉兵エ、上州(群馬)の源八、肥州(熊本)の清吉、長州(山口)顕三(けんぞう)、羽州(出羽国で秋田・山形)の源蔵、長州の弥次平、左面に奥州の作松(.)豫州(愛媛)の清兵エ、同 徳治郎、長州のす江、大坂のくよ(.)江戸のぎん、長州のたき、イヨ(愛媛)のかね備后(びんご)(広島)の久水と女性6名も刻まれている(.)これらの他国の人達は一緒に廻国した人でしょう。最下の石台には「十方施主(じっぽうせしゅ)」が大きく彫りこまれている。十方(じっぽう)とはあらゆる方面の意味があり、つまりたくさんの人のカンパで建てたことを表している(.)近世の巡礼行者信仰のあり方を考えるうえで、重要な史料である(.)
    【立花壱岐(いき)の旧邸跡】    
 
九品寺の北を流れる沖端川対岸の岩神には柳川藩最後の家老、立花壱岐(いき)が晩年を(.)過ごした家があった所です。立花壱岐は天保2年(1831)に柳川で生まれた。名は親雄壱岐は通称名である。幕末には熊本の横井小楠(よこいしょうなん)や福井の橋本左内(はしもとさない)らと国事に奔走し開国通商を唱え天下国家に目を向けることとなった。26歳で家老に抜擢され、殖産振興にも力を注ぎ、彼が開発した(はぜ)の新品種は、「壱岐穂」と名付けられ、肥後にも広まった。明治維新機には岩倉具視に対して新しい国家体制についてさまざまな提言を行ないました(.)幕末・明治の激動期において藩主とともに柳川藩家老として斬新な藩政改革を断行した。明治5年1月に士族の反乱を防止するため、柳川藩のシンボルである柳川城を炎上(えんじょう)させた。これにより、藩論は一変し、これ以降各地で士族の反乱が頻発(ひんぱつ)したが、柳川藩のみはそういった反乱を見ることなく、新しい時代を迎えることができた。岩神(いわがみ)の小さな家に、家族だけのささやかな生活を送り、貧乏であったものの、家庭的で幸せな晩年を送ることができた。自叙伝(じじょでん)を書き、小説などを作り、たまには幼い子供たちの手を引いて川の土手を散歩したり(.)釣りをしたり、夕食の時には幼い娘を膝に乗せて、箸で茶碗や皿などを(たた)いて、自作の歌を歌って楽しんだりした。壱岐は明治14年7月24日、51歳で亡くなった。墓は柳川の福厳寺(ふくごんじ)にある。家があった岩神に平成10年9月に立花壱岐研究会で記念碑が建てられている(.)
 

明治13年(1880)頃に土木事業計画のために測量さたた地図

         【本郷村の沿革】
 本郷は古代より地方豪族の居城として、軍事政治の拠点であったと思われる。旧柳川藩志(はんし)によれば仁和(にんな)年間(885-888)、本郷村に岩神将監(いわがみしょうかん)なるものが居城したとある。その頃すでに本郷の地名は定着し、また岩神の地名(岩神堰)が今でも残っている。平安から鎌倉時代においては、文広(あやひろ)と同じく広田庄(ひろたしょう)でした。

戦国時代での成清(なりきよ)一族は豊後の大友宗麟(そうりん)の家臣で戦国時代の天正6年(1578)11月に薩摩の島津義久と耳川の合戦で敗れて本郷村に逃げ延びの家臣となっている。明治44年(1911)に馬上金山で金鉱を掘り当てて日本一の金山王になった成清博愛(ひろえ)の先祖は本郷出身です。本郷城は天正(てんしょう)12年(1584年)肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)が攻めて来た時、それを防ぐために、山下城主の蒲池(かまち)に味方する意味で壇大炊助によって築かれている。松原堰(まつばらせき)は古くは「蒲池井手戸」と呼ばれ、近くには戦国時代から「道具小屋」があり、柳川城に敵が攻めて来たらを高くして矢部川の水の多くを沖端川(おきのはたかわ)に流し、外堀の水門を閉じた柳川城の周りを洪水にして敵攻めを防いだ重要な場所でした( )最下流にある蒲池組(かまちくみ)(旧藩時代蒲池昭代大川市南西部)によって堰は運用され「蒲池井手」と言った(.)

徳川時代では居城を廃止され、軍事的色彩は薄れ、壇氏は立花藩内9組の大庄屋(おおじょうや)の一つ本郷組の要職にあった。本郷組は上庄村( )中山村・木元村(きのもとむら)・吉開村・新村(みむら)五十町(ごじっちょう)村・上久末村(かみひさすえむら)・下久末村・東百町村(ひがしひやくちょう)・西百町村・( )上沖田村・下沖田村(以上山門郡は12村)本郷村・芳司村・吉岡村・禅院村・山中村・小田村・南長田村・下長田村( )上坂田村・下坂田村(以上下妻郡の10村計22村)である。( )大庄屋は、百姓の願いを取り次ぎ、公事訴訟(くじそしょう)、村人の出入りのことを司どり、その組の臨時の米や金を受持ち、百姓のの難事を救い導き、公役をつとめさせ、年貢(ねんぐ)諸納をすすめ、耕作を励ますことを職務とした。また籾蔵(もみくら)にかこい(もみ)(米)を貯えておき、翌年の非常用にあてた。当時の百姓は正税(しょうぜい)の外に、藩や組村の土木作業に夫役(ふやく)にかり出され過酷な作業に我慢できず、他藩に逃亡する者もあったという( )本郷組大庄屋日記の古文書は文化(ぶんか)文政(ぶんせい)天保(てんぽう)期の柳川藩の農村の状況や農政を知ることができる(.)
宝暦9年(1759)に7代藩主立花鑑通(たちばなあきなお)が、矢部川畔に別荘の水御殿を現在の八幡宮や下名鶴堰の付近に建てた。前の河原では柳河藩士の軍事演習として騎射(ぎしゃ)流鏑馬(やぶさめ)犬追物(いぬおうもの)などの馬術訓練を行っていた( )その時、殿さんは別荘からその様子を見るのが(なら)わしでした。隣接する久留米藩に対して、柳川藩の軍事示威の目的の為や、藩の財政難で年貢(ねんぐ)の引き上げが行われ、それに耐え兼ねた農民の一揆(いっき)を警戒する為とも碑文から解釈できる。藩士富士谷成章(ふじたになりあきら)の和文体の碑と柳川藩儒者安東間庵(あんどうけんあん)の漢文体の自筆の碑、各1個ずつある。明治維新後に洪水で流され所在不明になっていたが( )、後に発見され八幡神社境内に建立されている(.)
水御殿
も維新後養蚕所となり、その後、解体され本郷小学校の敷地となったが、昭和40年校舎新築移転して、現在畑地となっている( )瀬戸島の豪商、浅山家の天保7年(1836)の規定書や文化4年(1807)藩札裏書人の浅山平太郎文政4年(1821)藩札裏書人(はんさつうらがきにん)浅山平五郎の古文書があり、浅山家は酒造家でもあり、御用商人の一族であった(.)平太郎の屋敷は瀬戸島に六段歩(1800坪)あった。現在5・6の民家となっている。それから南にある一画が平五郎の屋敷跡である(.)この屋敷の南西部にくずれかけた土塀の一部が残っていた。両家とも子孫はこの地に現存しない(筑紫野市在住)為に当時の様子を(うかが)えない。明治8年本郷小学が旧郷蔵を利用して開校。同10年には教場2室,教員数は男4人,(.)生徒数は男65人・女27人で女子生徒が少ない。同19年に本郷小学校簡易科を、逆瀬に設けている(.)明治12年本郷村など下妻郡の一部分が山門郡に編入されている