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【九品寺(満寿山)】 福岡県みやま市瀬高町大字本郷 |
地元なまりでは「ふっごんじ」と呼ばれていました。九品寺は 養老4年(720)の開基で、本尊の阿弥陀仏は行基の作であったとの言伝えがある。九品とは九品往生の考えから、九つの如来が生前の信仰と善行の度合い9通りで迎え、あまねくすべての人を救う。信仰度合いを上品・中品・下品、(品は濁ってぼんと読む)それぞれを善行度合いで上生・中生・下生と分け、この組み合わせで9通りになる。最上位の上品上生は如来・菩薩・比丘(出家修行者)が管絃つきの総出演でお迎えされるが、階位が下がるに連れ、菩薩がいなくなったり、阿弥陀如来だけになったり、ついには金の蓮華が現れるだけと、寂しくなる意味がある。日常語になっている上品、下品は、この九品から派生したと言われる。本郷の九品寺は戦国時代の兵乱の火災の為に寺院・旧記と共に焼失して当時を知るものはないが、境内には鎌倉時代に九品寺を開山した和尚の供養塔と伝えられる宝塔や、室町時代の天文8年(1539)に信心者69名が死後の冥福のために生前供養した梵字預修板碑が残されている。また境内には観音堂があり明応年間(1492~1501)の灯籠があったが紛失。観音堂も無くなっている。貞享3年(1686)に円爾(聖一国師)の末孫で京都の臨済宗大本山の東福寺の豊石和尚が、中興(復興)したとある。願主 本郷氏、本阿入道の建立とある。現在、本尊は須弥壇の正面中央に釈迦如来、右側に達磨大師ある。昔の本郷には末寺、末庵が多くあり、定林寺、満願寺、高源寺、延命寺、聖聚寺、常福庵、常心庵などがあったという。
【矢部川の治水事業などに大きな足跡を残した田尻惣助・惣馬 親子の墓】
田尻家は豊後国(大分県)大友氏の家臣で田尻鎮春の代に戸次道雪に仕えるようになり、その鎮春から5代目が立花藩普請役人の田尻総次で、寛永15年(1638)に蛇行した矢部川の直進化工事により鷹尾村は鷹尾と泰仙寺の二村に分かれた。正保2年(1645)にも津留村が東津留と西津留に分けた同様な大工事を成し遂げた。舟の通過が短縮され、洪水も減り、新しく耕地も増えました。6代目が田尻惟貞(通称・惣助)で元禄5年(1692)に藩より幕府に提出する「御国絵図」を作成し、普請役(建築や土木工事の責任役)となってから英山公(鑑虎)の隠居所(現在の御花の前身)を普請し、その褒美に別家をたてることを許されない二男の惣馬に書院番の役職を賜りました。元禄8年(1695)に八女郡北山村の曲松より山下までに至る御境川(矢部川)の1300間(2、3km)に高さ7m余もある壮大な堤防を普請役が惣助で地元農民の夫役により築かれました。引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱の長田土居を築堤し矢部川の流れが定まり水害から護り、荒田を良田に甦らせました。のちに千間土居と長田土居の補修強化をしたのが二男の惟信(通称・惣馬・惣次)です。これらが千間土居・広瀬河端・小田野林・長田孤林と呼ばれました。惣助は元禄13年(1700)9月26日に江戸で病死し、住いのあった近所の九品寺に墓が建立された。長男の新右衛門惟定が普請役を受継ぎ二男の惣馬は書院番として藩に仕えていた。
田尻惣馬は延宝6年(1678)に惣助の二男として生まれ、元禄5年(1692)15歳の時に書院番となり、元禄8年(1695)千間土居が築かれていた頃には、藩主のお供で江戸にいました。(柳川藩史鑑任記)その後病気になり暇をもらい元禄14年(1701)に柳川に帰郷し、浪人をしていました。宝永6年(1709)2月26日、病気も治り33歳で普請役に取り上げられました。正徳3年(1713)、藩内各所が大潮によって被害を受けた際、黒崎開の普請方に任ぜられて、その復旧に努め、さらに享保2年(1717)には蒲地山溜め池を構築しました。池は東西260間(約512メ-トル)、南北100間、周囲900間にもおよぶ大きなもので延べ7万6千人の手を要して完成された大堤です。大根川を流れ旧藩時代から300年近く4ヶ村の農業の水源として役立っています。また父が構築した千間土居には楠木・杉などの樹木や竹を植えて頑丈にし、川岸には対岸に突き出した石積や蛇籠で水流をやわらげる水刎を造り堤防を頑丈にした。享保2年(1716)には広瀬堰からの水路が完成した。惣馬の築堤・水利工事の指揮はきびし恨みをはらすために「切る時は、木六、竹八、葦九月(何れも陰暦)、惣馬の首は今が切り時」と噂され、鬼奉行と恐れられました。これらのほかにも、本郷権現(今の瀬高町)の水刎、磯鳥(今の三橋町)の井堰、浜武崩道(今の柳川市)の瓢箪開、唐尾(今の瀬高町)の井堰などの構築をおこなっており、さらに瀬高川の掘り替えも惣馬の偉業とされています。こうして、藩内のさまざまな水利土木工事を完成させて、郷土の発展に尽くし、後世に九州普請役の三傑(鍋田藩の成富兵庫茂安、細川藩の堀平左衛門)と言われる程の人物であった惣馬でしたが、宝暦10年(1760)7月16日に亡くなり九品寺の父の墓の隣に埋葬されました。
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田尻惣助・惣馬の墓

千間土居

蒲地山ため池 |
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【立花帯刀家の墓】 |
【帯刀家とは】
初代柳川藩主の立花宗茂には実子に恵まれなかった為に弟の立花直次(三池藩主)の4男立花忠茂を生後まもなく養子にして柳川藩2代藩主とした。忠茂の正室は永井尚政の娘・長子で、継室(後妻)は徳川秀忠の養女(伊達忠宗の娘)・鍋子であった。子供は側室の光行氏が生んだ鶴寿(後の茂虎)(三男)と継室の鍋子が生んだ、嫡男、鑑虎(四男)、貞晟(八男)などを儲けた。忠茂は伊達忠宗の娘・鍋子が産んだ鑑虎を藩主と考え、家督をめぐる争いを避けるために年長である茂虎を出家させ宗茂公の菩提を弔わせるように勧めたが、拒んだので茂虎を江戸から国元の家臣立花九郎兵衛預かりとして幽閉している。寛文14年(1664)に忠茂は隠居して鑑虎を3代藩主とした。
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【帯刀家の創設】
寛文12年(1672)に弟の藩主鑑虎は、父に幽閉されていた義兄の茂虎の不遇を憂い、領内の中山村(三橋町)に領地を与えた。父が死去した翌年には山崎村(立花町)も領地と優遇され2300石に加増され、立花内膳家と共に藩の信望を集めた立花両家の一つ、立花帯刀家が創設される。茂虎の幼名は鶴寿。通称、帯刀。号、好白で通称名から帯刀家と称された。
帯刀家2代目は長男の茂高が継ぎ,、正室の玉泉院(三池藩2代の立花種長の娘)とのあいだに嫡男の茂之と次男の貞俶を儲けている。次男の貞俶は、始め旗本寄合の大叔父の立花貞晟の養子となったが、享保6年(1721)5月の第4代藩主・立花鑑任の死により、その末期養子となり、柳川藩5代藩主となり最初の養父、貞晟の娘、松子を正室として迎えた。これにより栁川城中の席次は帯刀家、内膳家、監物家、大学家の順で柳川藩首席の御家柄となる。
帯刀家の3代目は長男の茂之が継ぎ、藩の上位となり20余軒もある本町の屋敷内に住む。邸内には講武場、騎射を設けた。中山村の農民も帯刀家の直支配となり、家臣に准ぜられ、他村の農民より威厳があった。茂之の次女は柳河藩女流歌人の玉蘭で、国内で2番目に漢詩集を発表している。後に矢島釆女の嫁となる。茂之は引接寺の15代住職一誉上人に帰依され浄土宗に改宗した。宝暦4年(1754)正月に60歳で世を去る。法名聖龍院。
立花家本家と内膳家・帯刀家の家系図
①内膳家政俊─②内膳家種俊―
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①宗茂──②忠茂─┬─③鑑虎──④鑑任──(帯刀家の貞俶を養子とする)
①帯刀家茂虎──②帯刀家茂高─┬─⑤貞俶─┬─⑥貞則
③主水家茂之 ⑦鑑通──鑑門
| ├─ 鑑一 ― ⑨鑑賢──⑩鑑広
④主水家茂矩 , | └─ ⑪鑑備
| └─⑧鑑寿── 寿俶 ── ⑫鑑寛(鑑備の養子となる)
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⑤帯刀家茂親
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⑥帯刀家茂旨
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⑦帯刀家茂教― 〇帯刀家茂?(家督継承前に没す)― ⑧松千代家茂尊
【立花内膳家とは】祖は柳川藩2代目藩主立花忠茂の実兄の政俊で南関に近い国境の上内の1000石を知行した通称は内膳、号は宗繁で寛文4年(1664)、57歳で逝去。墓所は柳川の法華宗台照院で「台照院殿瑤雄日源宗繁大居士」である。内膳家2代目は種俊が跡を継ぎ寛文9年(1669)に上内村(大牟田北部高田町に接す)に黄檗宗法輪寺を創建し、上内内膳家代々の菩提寺とした。元禄10年(1697)54歳で逝去。法号「法輪寺殿嗣法雪関元徹大居士」。
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清光院殿の位牌 |
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境内の重なる墓標は立花帯刀家の祖、立花茂虎と最初の奥方の清光院の墓。帯刀家2代目の立花茂高と未確認の室の香桂院の墓がある。茂高の奥方の玉泉院の墓は帯刀家3代目茂之の菩提寺引接寺にある。最奥の墓には茂虎の戒名「国融院殿洞雲一花大居士霊」が彫られている。左側面の俗名・没年は風化の為に読取れず。旧柳川藩志には元禄14年3月13日、好白(茂虎)卒す。之を福厳寺に葬る。法号「春林院」、別に本郷九品寺に石塔位牌を安置す。」とある。右隣の清光院は最初の奥方の墓で25年も夫より早死にしていることから九品寺に最初に埋葬されたとみられる。本堂には清光院殿の大きな位牌が祀られている。茂虎は継室として栄林院を迎えている。3番目の墓は「磐光院殿朽才常写大居霊」の戒名と左面に「立花源茂高」の俗名、右面に「正徳四年六月」の没年が彫られている茂高の墓である。茂高のことは余り知られていないが、夫人は三池2代藩主立花種長の娘・国子(玉泉院)で子供は嫡男で帯刀家の3代目となる茂之と、次男の貞俶は、はじめ大叔父で旗本寄合の立花貞晟の養子となり、享保6年(1721)5月に柳川藩4代藩主立花鑑任が死去した際に末期養子となって柳川藩5代藩主の家督を継いでいる。右隣の墓は香桂院で、茂高の娘の墓である。茂高の正室である玉泉院は寛保元年(1741)に亡くなり墓は下庄上町の引接寺に、柳川藩第5代藩主となった次男の貞俶により建立された。嫡男で帯刀家3代目にあたる立花主水源茂之夫妻の墓の正面にある。帯刀家4代目以降の墓は山川九折の宗永寺にある。 |

九品寺の半鐘 |
【満壽山 九品寺の半鐘】
帯刀家5代目立花茂親が九品寺に奉納した半鐘(喚鐘ともいう)で、いつの頃からか、本郷の聖母宮境内の火の見櫓に架かっていたが道路拡張計画の為に降ろされたものです。4面に細い字で陰刻された銘には「孝孫立花茂親公丁 韜光院殿(立花茂高の戒名)七十年遠忌 辰再爐鞴裡・・・・」 「天明第三発卯年 四月吉祥日 筑後州下妻郡本郷村満壽山 九品禅寺 見住嗣法比丘 爾層山 謹記焉」 「・・・・鐘者住大檀越立花好白(帯刀家初祖立花茂虎の号)大居士所寄付・・・・」などが書かれている。
解明できぬ文字も多いが要約すると、帯刀家初祖である立花茂虎の正室の清光院が早死にして九品寺に葬られた頃に茂虎(好白)が半鐘を寄付したとみられる。長い年月の使用で、ひび割れで音がでなくなっていた。帯刀家5代目の茂親は天明3年(1783)4月に曽祖父の茂高(帯刀家2代目・戒名韜光院殿朽木常安大居士)の七十周忌の法要を本郷の九品寺で行い、高祖父、茂虎(好白)が寄付した半鐘を再鋳造して寺に奉納して冥福を祈っている。当時の住職は層山とみられる。鋳造の職人名は記入されていない。 |

行基菩薩堂 |
【行基橋】
寺の近くにある行基橋は沖ノ端川に架かる橋名でもあり、地名でもある。僧の行基(668-749)は律令時代の人で、百済の帰化人の子孫で日本全国を歩き回り、日本最古地図「行基図」や橋を作ったり用水路などの治水工事を行った伝承が残され、全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在する。近くでは瀬高下庄・宝聚寺や筑後市津島西・光明寺がある。しかし筑後地方に来た史実はないので本郷の行基橋は仏教信者か弟子が行基の徳に、肖って行基橋になったのでしょう。橋の近くには「行基菩薩堂」が祀られています。 |

九州・部分拡大図 |

行基図の写本 |
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【【宝塔】
本塔は本堂の裏の竹藪にあったもので、九品寺の開山和尚の供養塔と伝えられる。相輪・笠・塔身・基礎という構造で屋根上の相輪は九輪の先細りであったが、7輪を残して上部が欠損している。塔身四方の円相中に四仏の種字を刷毛書き薬研彫りした梵字は 「ウーン」阿閃如来・ 「ア」大日如来(胎蔵界)・ 「キリーク」阿弥陀如来・ 「アーク」胎蔵界大日如来を配置してある。多田隈豊秋著の「九州の石塔」には「全体感として安定した好塔というべく、無銘ながら基礎と相輪下部の露盤の四面の香狭間一つを見ても鎌倉時代の遺例として差し支えあるまい。」と評価している。 |

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【預修板碑】
本堂階段横の梵字預修板碑は室町時代の天文8年(1539)2月彼岸に建立されたもので、風化の為に読取り難いが4段に描かれ、最上部には円相の中に梵字 キリーク(阿弥陀如来)を陰刻し、右に「預修善根為現當二世貴 賤同心勠志彫喪弥陀尊字 以伸供養功徳不可勝形者也」 預修とあるから現世には宿命が変わって幸せになり、後生においても大楽を得るために心を一つにして生前供養した時の碑です。逆修碑とも言います。左端に「旹天元八年亥巳二月彼岸初日建之」と建立の日付けが陰刻されている。2段目には、妙苑禅定、妙金禅定、正泉宗明のあとに寺関係者とみられる禅師1名・律師1名・記室2名と禅宗の僧の階級である座元の5名と寺院内にある経典や論書を管理する僧の知蔵の4名が陰刻されている。3段目は信者とみられる、水谷・久富・壇・国武の陰刻の下に約30名の禅尼・禅門・禅定の修行者名が陰刻され、4段目にも禅尼・禅門の39名の修行者名が陰刻されている。庫裏に通ずる境内にあったが車の出入りの為に現在地に移されている。 |
【廻国成就塔】
明治までのわが国は、出羽の国、長門の国、肥後の国というように、国と呼ばれる単位が六十六か国に分れていました。廻国巡礼は世情が安定し、18世紀前半以降に流行し身辺整理をし、先祖供養のため、信仰のために大乗妙典(法華経)を六十六部書写して、これを持って村の人たちに別れを告げ、生きて帰れるとは限らない全国六十六か国の巡礼の旅に出かけました。国ごとに、代表的な寺社一ヶ所に一部ずつ経典を奉納することを六十六部廻国供養といい、その巡礼者たちを六十六部と呼び、略して六部と呼んだ。また廻国行者を助力することが先祖供養であり、それによって功徳が得られるとする考えから、六部を泊めたり金銭的援助協力する人が多かったとみられる。廻国塔は廻国納経を無事達成した記念に建てられましたが、無念にも廻国中に他国で亡くなった六部を葬り供養してあげた廻国塔もあるようです。本堂前の天保11年(1840)の廻国塔は、上部に弘法大師立像、塔身中央に「奉開眼石佛供養寳塔」両脇に「天下泰平」「国土安全」右下に「廻国願主伊豫州善作」とある。 |
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弘法大師を信仰する伊豫の国(愛媛県)の善作さんが、筑後の国、本郷の九品寺で廻国納経を無事達成した記念に建てられた廻国塔です。開眼とは新たに作られた仏像を供養し、眼を点じて魂を迎え入れることである。当山8世の大秋和尚により完成した石塔の弘法大師像の開眼法要(入魂式)を営んでいる。世話人として正面に江戸の駒吉、相州(神奈川)の宣平、右側面に内証の世話人として大阪の定次郎、長門(山口)の丈右衛門、江戸の源作、肥后(熊本)の?助、江戸の源兵エ、奥州(岩手)の倉吉、とあり、これらの人物は旅先で宿泊や金銭的に援助してくれた人達であろう。左側面には「当山八世大秋和尚代」、当村の世話人名と建立日、「門前加録村中」「講中」と陰刻されている。この廻国塔の建立に本郷村の信心者たちが協力したとみられる。下の台座には正面から左面に「助力連名」信劦(山梨)の太左エ門、長州(山口)丈太郎、同 金蔵、越后(新潟)の吉兵エ、上州(群馬)の源八、肥州(熊本)の清吉、長州(山口)顕三、羽州(出羽国で秋田・山形)の源蔵、長州の弥次平、左面に奥州の作松、豫州(愛媛)の清兵エ、同 徳治郎、長州のす江、大坂のくよ、江戸のぎん、長州のたき、イヨ(愛媛)のかね、備后(広島)の久水と女性6名も刻まれている。これらの他国の人達は一緒に廻国した人でしょう。最下の石台には「十方施主」が大きく彫りこまれている。十方とはあらゆる方面の意味があり、つまりたくさんの人のカンパで建てたことを表している。近世の巡礼行者信仰のあり方を考えるうえで、重要な史料である。 |
【立花壱岐の旧邸跡】
九品寺の北を流れる沖端川対岸の岩神には柳川藩最後の家老、立花壱岐が晩年を、過ごした家があった所です。立花壱岐は天保2年(1831)に柳川で生まれた。名は親雄、壱岐は通称名である。幕末には熊本の横井小楠や福井の橋本左内らと国事に奔走し開国通商を唱え天下国家に目を向けることとなった。26歳で家老に抜擢され、殖産振興にも力を注ぎ、彼が開発した櫨の新品種は、「壱岐穂」と名付けられ、肥後にも広まった。明治維新機には岩倉具視に対して新しい国家体制についてさまざまな提言を行ないました。幕末・明治の激動期において藩主とともに柳川藩家老として斬新な藩政改革を断行した。明治5年1月に士族の反乱を防止するため、柳川藩のシンボルである柳川城を炎上させた。これにより、藩論は一変し、これ以降各地で士族の反乱が頻発したが、柳川藩のみはそういった反乱を見ることなく、新しい時代を迎えることができた。岩神の小さな家に、家族だけのささやかな生活を送り、貧乏であったものの、家庭的で幸せな晩年を送ることができた。自叙伝を書き、小説などを作り、たまには幼い子供たちの手を引いて川の土手を散歩したり、釣りをしたり、夕食の時には幼い娘を膝に乗せて、箸で茶碗や皿などを叩いて、自作の歌を歌って楽しんだりした。壱岐は明治14年7月24日、51歳で亡くなった。墓は柳川の福厳寺にある。家があった岩神に平成10年9月に立花壱岐研究会で記念碑が建てられている。
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明治13年(1880)頃に土木事業計画のために測量さたた地図
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