庄福BICサイト      【禁無断転載】         H24・10・18製作   H29・ 6・ 1更新     福岡県みやま市瀬高町松田

 松田村は明治9年松延(まつのぶ)村と北広田村が合併しで誕生しました。明治22年には大広園村と清水村と河原内村と松田村が合併して緑村となりました。明治40年の大合併で瀬高町に仲間入りしました。ここを通る薩摩連なる街道は(にぎ)やかな吉井の商家並びを過ぎ、松延城の北本丸〜南三ノ丸を通過して南に広がる田んぼ道には池の脇に休憩する「おつれ茶屋」がありました(.) 現在の国道443号は日露戦争の時に熊本までの輸送道路として整備建設されたという。最近の圃場整備で街道の道筋が消えてしまいましたが、明治15年頃に測量された古地図により街道筋が明らかとなりました(.)
   
    【松延村】
 
 松延遺跡は昭和60年の土地改良事業に伴って調査され弥生時代前期末から戦国時代にかけての幅広い時代の遺構・遺物が発掘された。遺跡は松延城跡の北方に300m程広がり、藤の尾遺跡との間には旧河川が流れていていたことが解っている(.)鎌倉初期には松延では30町、本吉では170町の公領があったが鎌倉末には本吉は香椎社領本吉庄となっている(.)松延30町のことは詳しくは分っていない。戦国時代において松延一帯を領していた土豪は樺島(かばしま)氏であった。平成15年(2003)の新幹線用地発掘調査では戦国期の遺構の溝3条(.)井戸10基、土坑3基、多数のピットが発掘された。溝は同一箇所に集中する(.)井戸の平面プランは円形か楕円形(だえんけい)で、径1〜1.5mと井戸に比してかなり大型である。これらもいずれも湧水層まで掘りこんでいることから( )井戸と同一の性格と考えられる。井戸から加工のある松の(みき)が出土した。この遺跡の井戸などは松延城関連の屋敷跡とみられる(.)国道443号バイパス建設前の発掘調査でも井戸や多数の陶磁器や瓦が出土し松延城廃城後もこの周辺で生活をしていたことが(うかがえ)える( )
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   【松延城と樺島式部物語】

   【松延城主・樺島式部】
 室町時代末期から安土桃山時代初期にかけては、戦乱の時代で織田信長が勢力を増大してた頃(.)九州地方でも豊前の大友・薩摩の島津・肥前の龍造寺の諸大名の争いが相次いだ(.)天正6年(1578)大友宗麟が日向耳川で島津に大敗すると南筑後のおける大友氏の勢力は急速に衰え、代わりに龍造寺隆信島津の影響が強くなり、上蒲池氏とその配下の瀬高の小豪族は大友龍造寺島津の支配力争いに翻弄(ほんろう)(思うままにもてあそぶ)される。当時、瀬高は上妻郡山下城を本拠とし氏に味方する上蒲池氏の支配下にあった(.)松延一帯を領していた土豪の樺島式部(しきぶ)少輔は上蒲池の蒲池鎮運を支援するために龍造寺勢の攻撃に備えて、松延城を築城しました(.)樺島式部大炊介(おおいのすけ)が松延城と本郷城に()龍造寺勢と対峙(たいじ)(にらみ合い)して活躍したのは、この時期である。天正9年(1581)5月に肥前の龍造寺隆信が蒲池本家(下蒲池)当主の蒲池鎮並(かまちしげなみ)を佐賀に招いて(だまし)()ちし、同時に蜷城の蒲池一族を抹殺(まっさつ)する山下城(立花町)の上蒲池の蒲池鎮運(しげゆき)は、龍造寺に攻められ天正10年には本郷の大炊介(おおいのすけ)を戦死させ、ついに降伏し保身の為しばらくは龍造寺に従っていた。天正12年(1584)3月に島原北部の沖田(なわて)の戦いで島津・有馬軍に包囲され龍造寺隆信は戦死した為に龍造寺勢力は急速に衰退する(.)蒲池鎮運はふたたび大友勢に味方して家の存続を図った。ところが島津軍が豊臣秀吉に対抗するために北九州平定を目論(もくろ)筑後に侵攻し天正14年(1586)6月蒲池鎮運は山下城を開き島津勢の傘下に入り(.)蒲池鎮運樺島式部ら一族郎党は他の筑後の諸将と共に島津軍に加わり多大な犠牲を払って筑紫広門勝尾城(かつのおじょう)(現・鳥栖市)高橋紹運(じょううん)の岩屋城を攻め落とし博多まで進出し、立花統虎(むねとら)(のちに宗茂に改名)が()もる筑前立花山を包囲した。しかし豊臣秀吉の派遣による毛利(もおり)勢が関門海峡を渡り立花山に迫って来た為に島津勢は九州制覇(せいは)を諦めて薩摩に退却、蒲池鎮運も山下城に戻った。天正15年(1587)3月秀吉は12万の大軍を(ひき)いて九州に入り4月島津氏が降伏して九州平定が成り、南筑後の争乱が終わった(.)

   
【立花宗茂と大庄屋・樺島と壇】
 秀吉による新しい九州国割りにより(.)抜群の武勲により立花宗茂は、筑前の立花城より蜷城に入り13万2千2百石を拝領した。各支城に城番を置くが、松延城には宗茂の与力頭で、十家老の1人である、立花三郎右衛門臼杵新介(うすきしんすけ)改め)を赴任させた。また領内の民生を円滑に()り行う為に、本郷城・松延城・津村城(大川市)の城と土地は没収したが、地元の事情に精通した旧在地領主に知行(ちぎょう)として庄屋職と地主権(庄屋給)を与えた。椛島式部大炊介(おおいのすけ)の息子はこの時、宗茂に対して恩義を感じたであろう(.)庄屋職は農民側に属し、領主に直接使える身分ではなかったが、樺島の両氏は宗茂に忠義心を持つに至り、この事が「面の坂」刑の遠因(えんいん)となったであろう。宗茂は城主となると、すぐに肥後国人一揆に出陣、文禄元年(1592)慶長2年(1597)の2度にわたる秀吉の朝鮮出兵もあり、領内の治世(ちせい)に専念する暇がなかったが、2度にわたる太閤検地も留守居役(るすいやく)により順調に行われ、宗茂に恩を受けた樺島津村らの協力で収穫も順調で領民に対しても慈しみ、税の軽減に努めた宗茂仁政(じんせい)は領内4郡201村に行き渡った(.)
   
   【立花宗茂から田中吉政へ・松延城主松野主馬(しゅめ)
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた西軍(豊臣軍)に味方した立花宗茂は柳川城を東軍側の軍勢に包囲され籠城(ろうじょう)を決意したが、朝鮮の役で助けた加藤清正の熱心な説得により城を明け渡し清正の領地肥後に移る(.)柳川城には慶長6年(1601)10月、関ヶ原の戦いで徳川軍に抜群の軍功(ぐんこう)をたてた三河国岡崎城主、田中吉政は、家臣を引き連れて入城した。松延の支城は家臣の松野主馬(しゅめ)が城番となり、さらに造営され1万2千石の格式を持った城になった。城の規模は南北72m、東西90mで(やぐら)などがあった(.)本丸の丘陵を囲む楕円形(だえんけい)の小溝と、水田または、その外側の東三の丸、西二の丸、北三の丸、城内(しろうち)、近台寺を大きく囲む小川は、二重になり(.)平城の典型である内堀と外堀であったろう(.)また主馬は産業の発展に力を注ぎ、農地改善に努め、灌漑用の小川などを整備し、農作物の増収を図った。現在吉井との間に「主馬殿川(しゅめどんかわ)」として残っているのも、主馬の功績を(しの)ぶ名残であろう。

    【米の仕送りと面の坂の処刑】
 加藤清正に一時預かりにの身となった宗茂は随行した20名程の家臣連れ高瀬(玉名市)蟄居(ちっきょ)し、正室の闇千代(ぎんちよ)は実母宝樹院と肥後の赤腹(あから)(長洲町)の庄屋・市蔵屋敷に移り住んだ。不自由な生活を過ごす闇千代(ぎんちよ)が住む肥後に松延村の樺島庄屋の嫡男樺島彦左衛門と本郷村の壇大庄屋2代目の七郎兵衛忠重は旧主を(した)い定期的に危険を犯して米や金品を仕送っていた(.)瀬高町吉井の壇家には宗茂の高瀬蟄居中に立花家から密かに壇・椛島家に出された礼状が残されている。礼状@「樺島殿、壇殿より音信、塩六俵受取り上げ候たびたびの事にて(.)お喜びなされて、こかう(女性の名)より礼儀を申せとの事、幾久しくめでたく。かしこ・・・九月八日」礼状A壇、樺島、度々の音信これまで届け候由、上より心喜びなされ、褒美(ほうび)として遠州(東江)国隆(刀の銘)の小脇差上様より進上候方へ下されて、幾久敷祝ひ参らせ候、親方へも喜びの文進じ度く品々もそへ奉りて申入候(.)・・・九月十六日」この二つの礼状が出されたのは吉政が柳川城に入った慶長6年の秋と思われる(.)慶長7年4月宗茂は20人余りの家臣を連れ京へ浪々の旅に出た。慶長7年7月ついに樺島の2人は国境で警備侍に捕えられてしまった。そして「糧米(りょうまい)を国外へ持出した罪」で面の坂刑場で樺島彦左衛門壇七郎兵衛忠重はは処刑された。大庄屋樺島式部(かばしましきぶ)も自宅で切腹した。この3か月後に、腹赤村の闇千代姫はこの世を去った。樺島・壇両家は庄屋禄を没収されて断絶(だんぜつ)させられた。非業の死を遂げた樺島式部彦左衛門の霊は松延の大祥寺の境内に眠っている(.)墓石には慶長七年寅七月十一日、法名は三室幻世居士(式部)と心月幻安居士(彦左衛門)と記されている(.)
 
 三室幻世居士 心月幻安居士  
 【樺島式部彦左衛門の墓がある大祥寺】(霊松山)  松田
 
大祥寺
 元禄14年(1701)大竹の二尊寺の依頼により、鷹尾村の大祥寺(1324年頃の創建)を松延村へ移転したと立花家の記録にある。中間不詳であるが、明和8年(1771)久留米梅林寺(ばいりんじ)の和尚が再興して開山祖となり聖観音菩薩の坐像が本尊として祭祀されている。臨済宗妙心寺派。境内には寛政3年(1791)建立の法華塔、閻魔堂(えんまどう)、大師堂がある。樺島家、壇家の主な墓がある(.)
     法泉寺】
 処刑された樺島式部には次男の彦右衛門がいた。樺島家断絶後に出家して覚賢(かくげん)という僧になり、諸国をめぐり非業の死を遂げた父と兄の菩提を弔っていた。立花宗茂が柳川城に再封後の寛永(かんえい)4年(1627)2月26日北広田村大石(現在地)に法泉寺(大石山)を開祖創建した(.)法泉寺は浄土真宗西本願寺派として現在に至っている。写真は北広田の現在の法泉寺(.)
 松延城に一大異変を来たした樺島大庄屋親子の処刑は領民との確執(かくしつ)を生じたであろうか、松延城主は松野主馬から在職数年後に上田清左衛門引き継がれ、僧興専が門徒一同と共に現在の吉井に移るのを歓迎して慶長12年(1607)満福寺を建設させている(.)寺記に「松延城主、上田清左衛門剃髪して仏門に入った」とあり松延城は廃城し、田中吉政藩主が亡くなったあとは仏門に身を置いたと見られる(.)
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 元和元年(1615)、幕府は「一国一城令」を出し、また領内の城砦(じょうさい)も不要の時代となり廃城(はいじょう)となった。また同年2月28日田中吉政は東上の帰途死去し、跡を継いだ4男の忠政は大阪夏の陣の後(ゆえ)あって家康より閉門を申し付かったが他の兄弟も死去して田中家は取りつぶしとなった(.)

    【立花宗茂の柳川城・再封】  
その後、立花宗茂は江戸へ出て家康に呼ばれ五千石の禄で御書院番頭に任じられた。将軍職を継いだ徳川秀忠の信頼を得て慶長11年(1606)奥州棚倉(福島県)1万石を賜りさらに2万石加増され3万石の大名となる。元和(げんな)元年(1615)大坂夏の陣徳川の軍加わり豊臣家を滅ぼす(.)元和6年(1620)再び柳川城主になる宗茂は樺島家と壇家の遺族を城中に呼び恩義と忠誠心の褒美(ほうび)として翌年、檀家は本郷組大庄屋職を樺島家は楠田組大庄屋職の永代世襲を賜った。樺島家には他に楠田組や田隈組の大庄屋を勤めた子孫が相次いでいる(,) 大庄屋樺島家の旧屋敷は、松延城の東二の丸跡にある天満神社の東南の掛畑にあった。昭和7年頃までは白い土蔵や瓦茸の門と塀、大きな庭木と池を有する豪壮(ごうそう)な屋敷があり昔の栄光が偲ばれていたが、昭和49年頃以降は空き家となり現在は宅地造成と九州新幹線の工事が施行されていて失われた(.)
樺島大庄屋屋敷があった掛畑
      (木村精二著・田中吉政と「面の坂」引用

 松延天満神社        松田東
  松延城跡の東二の丸に鎮座している天満神社は一条天皇の御代、寛弘2年(1005)に創建されているので、この地は当時、一国の文武行政の地であったろう( ))この社は松延城の守護神として古くから崇拝(すうはい)されてきた。永禄から天正にかけての戦火にかかり、旧記、蔵宝などはほとんど焼失したといわれる。それまでは、余程の大社であったらしい(.)現在は社宝として、銅鏡1個、短刀2本、掛軸1軸が残っている。銅鏡は直径9.2cm厚さ0.3cmで、「抱き茗莪(みょうが)」の紋所と「信心大施主立花右近将監源朝臣忠茂」の文字が刻まれ2代柳川藩主立花忠茂が奉納したものであろう。掛軸は損傷がひどく(.)むかし、戦国の武将が神社に寄進した「祈願文」のようである。秀吉の九州平定により天正12年立花宗茂は柳川に入城したが、その年、筑前大宰府の神霊を松延に遷し(.)天満神社の中興を図った。そして、領主立花宗茂祈願所として、社領15石を寄進した。本殿や楼門(ろうもん)は改築されているが、正面の紋所は、立花家の「祇園守」の紋で、歴然と立花宗茂公再封後のものである(.)そして柳川藩の年中行事では、寺社奉行が11月20日に代参するのが恒例であった(.) 鎌倉時代以降より民衆的な講が始まり江戸時代には天神信仰が深化し下坂田・松田・大木集落でも天神講社が盛んになる( )新年には大宰府天満宮に詣で大麻頒布式(御札を頒布するお祭り)を終え、自宅神棚に大麻札をお供えて信仰していた(.)近年まで、天神信仰の「飛梅講社」は続いていた。境内には稲荷神社商売の神様.農耕の神様)、森山神社山の神様若宮神社水や馬の神様屋須多(やすた)神社火除けの神様)、(たき)神社お産の神様弁財天音楽.弁舌.福徳.知恵.財宝を司る美しい女神井手天神(昭和59年他所より遷祀)がある(.)
松延天満神社鳥居  境内  本殿
稲荷・森山・若宮・屋須田の神社     (たき)神社
 
2代柳川藩主立花忠茂が奉納した銅鏡
 
戦国武将が寄進した掛軸
 
  明浄寺   松田

慶長13年(1608)
に僧西道法師により開祖創建された。安芸国の住人であり、寛永18年(1641)5月命終する。真宗大谷派。

 
松田(大字名)(行政区名)
明治9年(1876)に松延村と北広田村が町村合併により、松延の松と北広田の田を取り松田村が誕生したものです(.)松延城には松並木があり、城下町の風格があり、周りには条理制時代からの田んぼが広がっていたのでしょう。ちなみに南広田は在力(ざいりき)村と合併して清水に変わりました(.)
本丸・東二の丸・西二の丸・北三の丸・南三の丸・城内・近代寺・今屋敷・北屋敷(小字名)  松田
 今に残る城の所在を示す小字名で松延城の構成が解る。この広大な城内を囲む外堀の南部には、今屋敷と掛畑(北屋敷)があり樺島家・中山家・古賀家・金子家・峰谷家の武家屋敷があったが維新後は生活も困窮し、皆この地を去られた。ざるを作ったり(.)魚売りをしていたと伝えられている。樺島家は立花家に忠節を尽くしために、大庄屋の永代世襲の待遇を受けて勤めた(.) 
             
寺田・前田(小字名)            松田
県道沿いにある大祥寺の寺領の小字地名です。大祥寺は元禄14年(1701)大竹の二尊寺の依頼により、鷹尾村の大祥寺(1324年頃の創建)を松延村へ移転したと立花家の記録にある(.)
佐ノ恵・大坪・六反田(小字名)     松田
松田の西一帯にある水田に存在する小字名の田んぼです。筑後地方で和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工され、班給された水田の遺名です( )
八ッ枝(やつえ)小字名)            松田
開拓して出来た土地に8軒が移り住んで分村した地名です。大祥寺の南側に当たりますが水田化して住居はありません。古老によると住居の存在した記憶はないが墓地跡があるから人家があったと思われるそうです。ここは微高地が残っており昔の住居を(しの)ぶことができます
鎧町(よろいまち)鍛冶町(かじまち)(小字名)  松田
農具、鎧の職人が住んでいた町、または彼らに耕作させていた土地からの起名と思います。松延城の南方にあることから武士の戦の道具などの製作もしていたと考えられる(.)
 
    北広田村
   

 「宇佐大鏡」には「国々散在常見名田」という項目があり、宇佐神領の大半が、これにふくまれている。その中には、筑後国常見名田として(.)「小広田」が見える。「北」の字の草書体では「小」と似ていて誤読しやすい(.)よって山門郡北広田と読むべきであろう。したがって、広田八幡宮は、本来、常見名田北広田の地に勧請(かんじょう)された社領鎮守社に、その起源があると考えられる。この本来宇佐八幡宮領の広田庄として広大な耕作地を持った豊かな村とみる。 (.) 瀬高町誌には広田村(ひろたむら)が藩政時代に南北に別れて北広田村と南広田村が誕生したとある(.)さらに明治9年南広田村在力村(ぜいりきむら)と合併して清水村(しみずむら)になりました(.)







 北広田八幡神社      北広田 

 944年
の神名帳に「泉澄神」があり当社付近に祭祀されたものと考えられる。「泉澄神」というのは、この地に清水が湧き出る(清水山の副流水(.)泉があったことから、きたのであろう。そして古代の駅家もこの近くにあったと考えてよいだろう。現在の神社の祭神は仁徳天皇(にんとくてんのう)で、創建は不詳であるが(.)瀬高町文広の広田八幡神社(広田庄)との歴史的関わりを研究する必要がありそうだ。広田村(ひろたむら)が藩政時代に南北に別れたとあるので、西清水(.)旧南広田)の八幡神社はここのお宮の分社であろう。明治6年に村社に被定(.)社殿は権現造り、敷地202坪。境内には天満神社(菅原道真)、宮地獄(みやじごく)神社(商売の神様)、猿田彦大神(道祖神)、社日神(しゃにちかみ)保食神.穀物の神様)、馬頭観音(御牧山馬頭観音の分霊)が祀られている。例祭は10月15日に行われる(.)

 
扇子町(小字名)  松田
鎧町や鍛冶町のある地域で扇子職人が住んでいた地名でしょう。
長別当(小字名)  松田
山川方面に行く県道443号の近くの地名です。役人が住んでいた地名です。
北広田(行政区名)
広い田の意の地名です。藩政時代は北広田村と呼んで歴史ある村です。
大町(小字名)                北広田
広い町の意もあるので薩摩街道筋で栄えた宿場町ではないでしょうか。
前町(小字名)                 北広田
名主などの有力者が領主から免田として認められた肥沃な土地の遺名です。
栗田(くっだ)(小字名)                北広田
松田の西部の水田にあり、ぐり石、つまり砂原ではなく礫がごろごろしていた原に付けられたものです。
野間(小字名)                北広田
北広田の北東端、朝日集落の南方にあります。ノマとは沼地、ヌマの転訛したもので沼地だった土地の名残りです。
五安田(ごあんだ)(小字名)                北広田
北広田の北東端の野間の西側の地名です。地名の語源にはヤ(沼地)ス(州)から沼地とある。湿地を開拓した水田の意でしょう。
(小字名)                北広田
ミドリは@緑して存在する集落A風が激しく耳が取れそうな所Bミドロ(湿地)の意があるが周辺の地形からみて湿地を意する地名です。
鳥町(小字名)                北広田
鳥=鳥居のことで、鳥居のある所の意の地名です。944年の高良神名帳
 
   引用文献  田中吉政と「面の坂」・木村精二著  参考文献   瀬高町誌  旧柳河藩志  創立100周年記念誌大江小学校の歩みと郷土

 
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