庄福BICサイト                    H24・11・18製作     【禁無断転載】            福岡県みやま市山川町真弓
 
 真弓村は、矢部川の支流、飯江川さらに真弓川をさかのぼった山間にあります。山ノ頭を源流とする真弓川は、なだらかな山々のふもとを巡って流れ、川にそって(のき)を並べるる59軒の小さな村です。肥後との国境ゆえに、南北朝時代の南朝の忠臣真弓広有が住んだという由緒深い伝承話しや、山で(しば)刈りをして肥後の南関の町で売って暮らしていたおじいさんが、売残りの柴を(ささ)げた水神様から、はなたれ小僧さんを頂き、村一番の大金持ちになた屋敷が真弓にあったという「はなたれ小僧さん」の民話が生まれています(.)真弓村の有力者は士族の上原氏と坂本氏で、坂本家の娘さんを「御姫様」と敬っていたという。昭和の初期頃までは萩ノ久保の山谷では白土が採掘され北関の大谷地区にある水車場2軒で粉砕し、精製(せいせい)した白壁用の白土を製造していました。現在はみかん畑の多い村です( )
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    【真弓の地名の起こり】
 真弓(まゆみ)氏はの第9皇子道豊事尊(みちとよことぬしのみこと)の8世の子孫で大弓音人と言う人が祖先とされている。射術の祖と言われるほどの弓の名人で神功皇后の三韓攻めで功があり日本射騎将軍の名を賜ったという( )その子孫は、武智と言う姓を称し、また隠岐に移住してからは隠岐を氏とした。

 鎌倉時代末期に第96代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の幕府討幕運動が発覚して捕えられ隠岐(おき)に流罪される。新田義貞(にったよしさだ)足利尊氏(あしかがたかうじ)らの支援で鎌倉幕府が倒れ、北条氏が滅亡すると後醍醐は京都へ帰還、元弘3年(1332)建武(けんむ)と言う元号に変え新しい政治を始められた。

ところが、たまたま 建武元年(1334)、都には疫病が流行し、人びとはバタバタと病に倒れていった。折もおり、紫宸殿(ししんでん)には不思議な怪鳥が現れて「いつまでかぁ、いつまでかぁ」と不気味な声で鳴いた。この声を聞いて、新しい建武の政治が何時(いつ)まで続くのかと、あざ笑っているように思えてならなかった。「縁起(えんぎ)でもない」と皆恐れた。そこで天皇は側近の公家(くげ)さん達と相談されて、隠岐(おき)の住人で弓の名人・隠岐次郎左衛門廣有に白羽の矢を立て、その怪鳥を弓で退治するように命じられた。首尾よく射ち落してみれば、それは(ぬえ)(ヌエ)と言う怪鳥で、頭は人のようであり身体は(へび)、くちばしは先が曲がって歯はノコギリの刃のように鋭く足には剣のように鋭い「けずめ」があり羽を広げると5m程にも及んだと言う( )この功績によって、「五位」の(くらい)と「真弓」という姓を賜った。これより後は醍醐天皇の信任を得てお側近くに仕えるようになりました( )
廣有のヌエ退治( )
      【南北朝時代( )
 しかし建武の新政は失敗し、足利尊氏が離反し、(北朝)光明(こうみょう)天皇を即位させたので、幽閉されていた後醍醐は京都を脱出し吉野山で亡命政権(南朝)をたて、ここに南北朝が始まる。
延元3年(1338)、天皇の皇子、尊良(たかよし)恒良(つねよし)親王らを北陸へ、義良(よしのり)親王(97代後村上(ごむらかみ)天皇)を奥州へ、宗良(むねよし)親王を東国へ懐良親王を九州向かわせ北朝方に対抗させた。真弓廣有懐良(かねなが)親王征西(せいせい)将軍として九州に派遣されるに及んで随行を命じられ、九州に赴き、各地に転戦して軍功をたてました( )廣有正平(しょうへい)3年(1348)、松風の関に布陣し筑後一円を治めるとともに( )懐良親王に筑後地方の動静を報告する為、この地に留まっていました( )親王が九州に上陸してから19年目にして菊池氏や阿蘇氏、宇都宮氏の武力を背景に大宰府に懐良親王を首班とする 征西府(せいせいふ) (征西大将軍の政務機関)が誕生した。以後、11年間に及ぶ南朝勢力の全盛時代を迎えるのである( )広有は自分の務めは終わったと退役し、松風の関の近くの肥後との国境いの静かな村里に住み、一説によれば正平24年(1369)3月19日、静かに65歳の生涯を閉じたと伝えられている( )葬儀の導師は大牟田・今山の普光寺(ふこうじ)の僧・豪順と言われている( )(笠間益三・豪順聞書)そして、この村里を「真弓」と呼ぶようになったと伝えられている(伝承話し)( ) 南朝勢力は文中元年(1372)8月、将軍 足利 義詮(よしあきら)により九州探題に派遣された今川 貞世(さだよ)により菊池武光の軍勢は撃破されついに大宰府は陥落し南朝勢力は衰退し、高良山さらに菊池へと撤退した。親王は征西将軍職を退き筑後矢部(福岡県八女郡矢部村)隠退(しんたい)弘和3(1383)3月27日懐良親王55歳で九州の地で亡くなられている( )山川町真弓の中ほどにある真弓廣有の墓は没後500回忌の供養塔(墓)と言われるもので、これから考えると供養塔が建てられた年代は明治元年(1868)となります( )墓石には、向って左に「大五百遠忌供養塔」右には「音人(●●)六十八世、四位真弓次郎太夫左衛門尉廣有廟」とあり、正面には、南無妙法蓮華経、在勅射騎将軍の文字と共に( )「妙法経力病即消滅・上行無辺行菩薩・浄行安立行( )苦悩亂(乱)者頭破七分との有難い法華経の文字が、背面には( )為菩提智光院妙提目了大信尼 廣有二十三世胤大弓(●●)
(大弓家の末裔)筑紫祐是有建之 亦モ来シ例ヲ石ノ印験ニテ( )と刻まれている。廣有の23代の子孫の大弓家の筑紫祐是有と言う人が菩提を弔うために 村の小高い丘の上に建てたものである( )真弓地区には以前には真弓性の庄屋の子孫がいたが、北朝の天皇が続き、世にはばかり今は移転したり姓を変えたりして、名乗る家はない( )真弓の坂本家は大弓家の血筋で、昭和9年(1934)に600年忌をおこない坂本家では真弓広有を「坂本先祖さん」として( )1月29日に先祖祭を毎年、供養塔の前で行ってきている( )真弓広有の子孫ではと有名なのが元プロ野球選手の真弓明信(まゆみあきのぶ)南関(なんかん)生まれ・大牟田歴木(くぬぎ)出身・柳川商業卒)は、父親は真弓射道(いりみち)さんで東洋高圧の横須工場に勤務され米の山社宅住み、昭和50年に歴木中学校近くの戸建て住宅に移転され、のちに真弓明信氏が住む神戸に転居されている( )
 
真弓が射落した怪鳥の図
 
真弓広有公の墓と真弓神社
 
 
 
 
 
      【民話・はなたれ小僧さま】
  むかし、真弓村に正直者のお爺さんとお婆さんがおりました。お婆さんは小さな畑を耕し、お爺さんは山で(しば)刈りをして、肥後の南関の町で売って暮らしていました。ある日、お爺さんがいつものように南関の町で柴を売り行きました( )「しばえ~、しば。しばはいらんかんも。しばえ~、花しば。柴ばこうてはいよ。」一日じゅう売って歩いたばってん、どげんしたっちや(どうしても)今日ばっかりゃ一束でんも売れんじゃった( )お爺さんは「きょうは、どげんしたこっじゃろか(どうしたことだろうか)。」と疲れた足ばひきずって重たい柴を担いで帰ることになりました。大橋の上まで来ると、ふと立ち止まって( )「柴が売れないのは、おり()が日ごろ信心の足らんにちがいなか。ひとつ水神さんにでん、お参りしていくかの」とお爺さんは、川渕に降りて「残りものですみませんがの…」と担いできた柴を川に流し( )水神様にお祈りしました。そして帰ろうとしたところ、そこには真っ白な衣、濡れたようなしっとりした髪を持つそれは美しい女性が立っていました。「先ほどはきれいな柴をくださりありがとうございます( )お礼に水神様が、この小僧さんを差し上げたかとおっしゃってます。この小僧さんな、はなたれ小僧さんと言って、お爺さんの願いは何でん聞いては叶えてくれらっしゃる( )ただ小僧さんなエビなます(エビの酢もの)しか食べらっしゃれん。毎日新鮮なエビを採ってエビなますを差し上げてくだはらんか。」といってその小僧を差し出しました( )器量(きりょう)んようして愛らしか小僧さんですが、なぜか鼻ん下ににゃ汚い二筋の鼻汁ば垂らしとったげな( )お爺さんは、「こりばっかりが、ほんなこて水神さんのお恵みばい。大事にお育てなはらんとでけん( )」と大事に抱いて帰り、お婆さんに、この経緯を話して聞かせました。お婆さんも、ばさろ(たいへん)喜び二人で大事に育てることにしました。なんでも願いを聞いてくれるはなたれ小僧様( )二人は不自由なものは何でもお願いして楽に過ごすことができ、そしていつしか村一番の大金持ちになっていました( )ところが二人はだんだんと、このご恩を忘れて我がままを言うようになりました( )「わしゃ近頃毎日冷たか川に入ってエビば採っとん、とても体にこたゆるごつなってのう…」「そうじゃろ、あたしゃ、鼻水を見るのも気持ちわるうなってなぁ」そこで二人相談して( )とうとう、はなたれ小僧さんに帰ってもらうことにしました。「わしもこの年で、冷たい水に入ってエビを採るのも最近体に、こたえますのじゃ。申し訳ないのじゃが、はなたれ小僧さん( )水神様の元へ帰ってくだはらんか…」とお爺さんは申し訳なさそうに言いました。すると、はなたれ小僧は大変悲しそうな表情を浮かべ、そして鼻汁をズルズルとすすりながら姿を消されました。すると、どういうことでしょう( )村一番のよか屋敷も、いくつでん(いくつも)あった米倉も、あっというまに消えてししもたげな。あとにゃ広か野原まん中にぽつんと朽ち果てた一軒家が残るだけじゃったげな( )
 
はなたれ小僧さん
 
はなたれ小僧さんを祀るお堂(真弓橋そば)
真弓の水神様
 この話に登場します水神様は北関(きたのせき)の大谷から真弓橋を渡った右手の川の渕で、昔は深い渕であり、エビが沢山獲れたという。ここに「はなたれ小僧さん」の石像を祀るお堂がある。毎年8月28日が民話まつりの日で、大谷地区の人々の接待で賑わっています( )上流へ1キロ程登ると、民話に出てくる水神様が祀られています。正直者の老夫婦の家は真弓村の小字・屋敷谷にあったとされている( )この話が放送局の調査取材と、きもいりで世に広まり、真弓に限られた民話であると言うので、区の有志の方々の芳志により、真弓の奥まった釈迦院(しゃかいん)に、池の前に水神さまとして祀り、その石祠が昭和38年9月1日に建てられた。この民話を永久に記念する為に( )この石祠の側面には「日本民話の中に(うた)われているハナタレ小僧様は、真弓に限られた唯一の尊い水神様である。最近その由緒がわかり、ここにお祀りした」と刻まれている( )
     真弓山顕忠寺釈迦院(まゆみさんけんちゅうじしゃかいん)   屋敷谷
  昭和5年(1930)に郷土史家・住職の松尾龍城氏により、真弓廣有公の供養のために廣有が住まいがあった伝承の地に建立された。説明によると「真弓釈迦院の古仏のお釈迦様は、建武元年後醍醐天皇の勅願寺、京都大本山妙顕寺(みょうけんじ)の釈迦仏の御分霊のお釈迦様であります。真弓公が天皇の命により( )征西将軍懐良親王の九州下向に随従して九州に下り、松風ノ関の守護職となり、役宅を真弓屋敷の谷に定められた( )ここに自家信奉として祀り信仰せられてので、一門の福山ヒサノ家に於いて、釈迦院様と崇めて子孫に伝えられていたのであります。昭和9年は釈迦院正六百年に当たりましたので( )六百年祭を営み、其の記念として六百年の釈迦院大石碑五尺の楕円形自然石が建立せられています。」とある( )昭和28年に宗教法人真弓山顕忠寺設立。民話「はなたれ小僧」ゆかりの水神さまも、ここにある。現在砂防ダム建設のために真弓の釈迦院は解体され( )原町にある真弓山顕忠寺が主体となっている( )
屋敷谷
     真弓の天満宮    屋敷谷
  創建年代は不詳である。境内の灯籠は慶應2年(1866)の奉納である( )ここには立派な絵馬も奉納されている。昔は4月の花見時期と秋には赤ちゃんから子供たちの相撲奉納があった。地元消防隊員による相撲もあった賑やかな時代もあった( )現在は毎年10月第2日曜日が例祭で、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願して江戸時代から始まったと伝わる太鼓打ち「風流太鼓」は甲田地区から習得したと云われるが( )熊本県南関町から習得したという曲も、一部取り入れられている。元々は本座が風流(太鼓打ち)を担当していた。女装や羽織、(はかま)、面などで仮装して町内を練り歩いたという。明治時代から使われていた(かね)が、第二次大戦後に盗難に遭い、集落の火の見(やぐら)の半鐘を使うようになったという話が残っている( )戦後まで行われていたようだが一時中断していた。昭和50年頃から有志7名が( )地元の明治生れの古老3名から聞き覚えを始め、昭和51年に15名で保存会が発足した( )太鼓の音を言葉で表し、譜面として残し、真弓風流保存会が地元の小学生に伝承し稽古に励んだ。昭和59年からの祭りには子どもたちが太鼓を打ち鳴らしながら練り歩き( )希望の家の庭先で子供達が円形に並び、舞を踊りながら次々に太鼓を打ち鳴らしている( ) 
      えん魔堂      
  真弓集落は谷間(たにあい)にあり、朝日が出るのも遅く夕日は早く降ります。近頃では勤めたり、外に出て畑作を行う家が多い。真弓川の橋のたもとに閻魔(えんま)大王を祀るお堂がある。仏教では死んで地獄に行った人間は( )閻魔大王を含む十人の王の法廷に順繰りに引き出され、そこで生前の行いを審査され裁判される。おおむね十三回忌までには最終結審するとされている( )  
   旧柳川藩主・田中吉政を祀る真弓
 関ヶ原の戦いで敗れた豊臣軍の立花宗茂が柳川城を明け渡したのちに、徳川軍に軍功のあった田中吉政が筑後国32万石の城主となった( )山川では重冨の小萩以南の土地(肥後領)を筑後領とし、真弓に重臣を置き国境警備の任に当たらせた。これが真弓の田中竹内家の祖先であると言われている( )グラウンド上の昭和2年(1927)の建立の記念碑の碑文には( )田中吉政 慶長年間ニ軍功ヲ以テ筑後ノ国主トナル ソノ時国境ニ重臣ヲ移シ要害ヲ堅固ニス ソノ田中家ハ祖先ヲ追慕シ記念碑ヲ建建( )と刻まれている。田中・竹内家では記念碑の隣にある宝暦10年(1760)の建立の石塔を、ご先祖田中吉政公として毎年1月30日におまつりをしています( ) 
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地名のはなし
  真弓
  故・鶴記一郎氏の真弓(マユミ)の地名についての解説では、「旧柳川藩志に『隠岐次郎広有後醍醐天皇より真弓の姓を賄う。征西将軍に従い西下す。宮後、本郡東南隅の山中に世間を離れ隠れるようにひっそり暮らす。後其の部落を真弓と称す( )其の子孫今尚仝所にあり。』この集落の人々も前述の地名考を信じています。つまり、人名から真弓の地名が起ったというのです。ところが、地名が人名から起ることは極めて稀です( )特に中世において国取り合戦の頃は一定の領地支配の証として、旧来の地名を姓とする傾向にありました。隠岐次郎という姓も隠岐(おき)の島と関係したもので、真弓の地に腰を下してから真弓の姓を取ったものです。すなわち真弓の地名は古くからあったものです。では真弓の地名の由来をどうみるべきでしょうか。真弓とは上等の弓、二流は梓弓(あずさゆみ)というそうですが、この付近に弓矢の製造所でもあったのでは?中世にはこの地帯が肥後、筑後の国境の要地であったため幾度か戦乱の場所となったでしょうが、その戦は一過性のもので( )多くの武士が長期に屯していたこともなく、弓矢製造所の言い伝えもないようですから、弓矢との関係地名でないようです。やはり地形地名と(にら)んでおります。地名辞典によると、マミ、マミヨウは山のがけ、窪地を指します。この集落は四方が山に囲まれた小盆地で( )マミに当たる地形です。このマミに真弓の字を当てたものです。飯江川が北流から西流に転ずるところに豆塚または馬見塚(まみずか)(マミヅカ)などの地名がありますが、これらの地名も真弓と同語源のマミ、マミョウから起ったのでしょう。一説には馬の市があって塚の上から馬を見ていたことに由来する地名ともいわれています( )
 山ノ頭(やまんかしら)
 小字名として甲山ノ頭と乙山ノ頭がある。甲山ノ頭には3軒位の農家があったが、今では不便な為に真弓集落の北側などに移転されている。 
  桂原
 桂の蔓が生茂っていた山
  
 山畑の意味でしょう
  鷲ノ巣
  鷲ノ巣山はお牧山連山中にして、南方の高峰である。昔、大樹が欝蒼(うっそう)と繁茂して鷹が巣を造り、民家や畑に飛来して餌を探していた。泣く子を黙らせるために、「鷹ノ巣から鷹が来よる」と言えば泣く子は黙ったと言う( )
  荒谷
  険しい谷間につけられた地名です。
  萩ノ久保
 昭和初期まで白壁用の白土が採掘されていた山です。
  火ノ口
 ヒノクチと呼ばれていた地名に燃える火の漢字をあてがったのであろう。地形から川の合流や分水点があることから正しくは樋ノ口の意味であろう。樋管や水門との関係地名です( )
  寺屋敷元
  昔にお寺があったのでしょうか。
  屋敷谷
  民話「はなたれ小僧さん」のおじいさんが建てた屋敷があった場所と伝承されて地名が残っています。
  清水元
  清らかな水が流れ出る場所です。
  森 
 ここに初めて出来た稲田があり、真弓の「飯田の所有者」と」申す特別扱いの田面である。所有者1枚分の面積は昔より限られたるもので、約数坪である。所有者は公式会合の場合に上席に座ることに決まっていた( ) 
  春ノ田(はるのた)
  日当たりの良い田んぼの意味です。
  山木元
 
 
  小坂(こざか)
  小さな坂を登る山でしょう。
  白石
 白土がある谷間の記名でしょう
  浦田
 日当たりの悪い場所
  盗人坂(ぬすとさか)
 泥棒が国境のここまで逃込んだ所でしょう。
  赤谷口(あかんたにぐち)
  2軒の家があり、国境である為に南関の学校に通学していた。今は家はない。
  古道(ふるみち)
 
  関山口
 
  櫛引(くしびき)
 
  イラン谷
 難解地名である。
  笹の元
 
  檀鶴(だんづる)
  ツルとは朝鮮から来た言語といわれ、川の淀んだ所ということです。耕地・畑を意味する説もあるが、川の淀みが付近の田畑まで拡がったものと思います。おめでたい意味ではなく、水の曲流部にできた小平地を指す( )
  貝城(かいじょう)
 北関まで続いた山の小字名であるが、真弓部落の入口にあたり見張に適した場所だが城があった伝承もないことから、山の形からこの地名が付けられたのかと思います。
  地蔵前
 この付近には墓場が存在していたので、供養する為の地蔵尊が祀られていたのでしょう。現在は納骨堂とグラウンドに変っています。 
  岩渡瀬
  浅瀬の川に岩があり渡れる状態の場所だったのでしょうか。
  中原(なかんはる)
  すこし開けた畑地や田んぼがあった場所です。今は工業団地があります。
 
 
 ①古地図に見る河原内の歴史 ②古地図に見る清水村の歴史   ③古地図に見る尾野の歴史 ④古地図に見る立山の歴史   ⑤古地図に見る原町村の歴史
⑥古地図に見る甲田の歴史   ⑦古地図に見る重冨の歴史  ⑧古地図に見る北関の歴史  ⑨古地図に見る真弓の歴史 地域をクイック 
 参考・引用文献  松尾龍城著「山川町地方の歴史と伝承」  山川ゆずりば風土記20 山川歴史散歩(南関街道を探る) 山川町の民話・伝説・伝承・ みやま市観光課写真提供 鶴記一郎「地名のはなし」

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