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大牟田市内の三池街道から千渡橋を渡るとみやま市(旧・三池郡高田町)の渡瀬町の宿場になります。 |
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【渡瀬町】高田町上楠田・渡瀬 |
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渡瀬町は商人宿・木賃宿・旅籠屋・車力屋・馬車屋・桶屋・米屋・呉服屋・髪結屋などが軒を並べて栄えた宿場町です。三池街道(国道208号線)沿いの福正寺の参道入口に「三里」、下部に「江浦道」と刻まれた三里石がある。ここの福正寺は伊能忠敬の測量隊が小休止した所です。
街道沿いの渡瀬八剣神社の大蛇山車は江戸時代の元禄年間の創始といわれ最も古く、三池町、江浦、中島のものと同じ型で三池街道筋に見られる独特の型である。祭事の開眼後、大名行列が出発し、大蛇山が続き、町内を巡回していた。町の広場で大蛇を取り壊し、青年たちによる目玉、各部分の争奪戦が祭りの最大の醍醐味であった。
この先、下楠田の信号の先のガソリンスタンドを左に反れた三池街道を入ると昔ながらの商店があり、そこには二川役場跡があり向えには料亭堺屋がある。この先は楠田川の左岸(西側)を通ります。 |
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二川役場跡(左) 料亭堺屋(右) |
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【北新開】高田町北新開 |
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三池街道の西側一帯は江戸初期には海を盛んに干拓開発されており、よって地名も開(かい)の名が付けられた所です。近くにある宝満神社は文録元年(1592年)の「朝鮮の役」のさい、当時の柳川藩主立花宗茂公祈願成就のため、「能楽」を奉納したのが始まりと言われる。現在の能楽師ではなく地元の人が奉納するようになったのは、明治以降宝満神社の氏子の自主運営により演能されようになった。謡は喜多流で、面や衣裳は柳川二代藩主の夫人が奥州伊達家から輿入れしたものを譲りうけたものもあると言われる。毎年10月17日の祭礼には、昼ごろから境内の野舞台で夜中まで奉納される。街道筋には屋須多さんや恵比須さんの祠がある。 |
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【三軒屋】高田町濃施三軒屋 |
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高田町の三軒屋の楠田川に架かる柳川橋から柳川城下までの道を「柳川街道」(江之浦街道)、薩摩街道の瀬高宿までの道を「瀬高街道」とも呼ばれた。この橋のたもとには「道標」が建てられています。疑灰岩の角柱で、「やなかわ道」と「せたか道」の陰刻字がある。道標には、荷車の軸が当たって欠けた跡や、子供達の草遊びの跡がそのまま残っている。
西濃施村の三軒屋集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所で、菓子屋、饅頭屋、日用品屋などの店があっって、活気に満ちた地域であった。現在も三軒屋もち飴を製造販売している店があり昔の面影を残している。
明治24年には濃施に鉄道の渡瀬駅が新設され、駅を中心とした道路が出来て、三池より三軒屋を経て瀬高に行く人はなくなった。
現在は楠田川の川幅改修工事により川沿いの家がなくなり大きく様変わりして、道路も流れも変り、二つの橋も一つに整備されてしまった。瀬高への街道は柳川橋を渡り国道209号線を横切り今福方面にゆく。
柳川橋 道標 |


三軒屋もち飴
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【加藤清正・立花宗茂会談への瀬高道】
慶長3年(1598)5月、朝鮮の蔚山城の戦い(ウルサンじょうのたたかい)(秀吉の慶長の役)で守備に当たった加藤清正を明軍の5万余騎が包囲して窮地に陥っていたところを高橋統虎(後の立花宗茂)はわずか5百の兵を率いて夜襲を行い、明軍の包囲網を突破し、加藤清正を救出いたしました。
秀吉が死去した後の慶長5年(1600)の「関が原の戦い」では清正は徳川軍についたが、敗北した豊臣側西軍(石田三成側)の立花宗茂は帰国して隣国の鍋島家に攻められ柳川城に篭城した為に、朝鮮の役で宗茂に命を救われた、律義者の清正(家康側)はこの時の恩に報い、鍋島家との仲裁と開城の説得の為に熊本から三池街道を利用しました。渡瀬から柳川城下へ入るのに清正は家臣の小野作兵衛に相談すると、「江ノ浦街道は人数越え難い川があり、その上、途上に宮永館という左近将監(宗茂)殿の妻女の居館があり、陣を張っております。この奥方は、左近将監殿の養父道雪殿の娘にて、立花家中の者はこの奥方殿を殊の外尊崇しております。もし宮永館の近くに軍勢を派遣すると知れば、多くの武辺功労の者たちが馳せ参じ抵抗するでしょう。構えて、瀬高街道を通る方がよろしかろう。」と答え、宗茂の妻ァ千代姫の居館の宮永館で警戒する陣営のある柳川道を避け瀬高道を選び、瀬高(上庄の田中内科北800m)で宗茂と会談している。清正の進言により柳川城を開城し、宗茂は肥後高瀬(熊本・玉名市)に、夫人の闇千代は肥後腹赤村(玉名郡長洲町)に移り清正は家臣達を熊本城に引取っている。まもなく家康に陸奥棚倉に1万石を与えられて大阪陣での軍功を認められて宗茂は元和6年(1620)再び柳川藩主となりました。 |

清正
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宗茂 |

加藤清正陣営跡
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【今福村】高田町今福 |
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鎌倉時代の正治元年(1199)、三池摂津守師貞が三池(三毛)郡の地頭職に任ぜられ、今福城(高田町今福)を築き入城しました。翌年三池師貞は大間城(大牟田市三池)に移り家臣がまもりました。戦国時代の天文19年(1550)、蒲池鑑盛は田尻親種と連合し、数千の兵で三池氏の家臣小山氏の守る今福城に攻め寄せ、支えきれず落城しました。
街道の南側には昭福寺と今福溜池があり街道の旅人も、ここで一休憩し溜池の景色を堪能したでしょう。池にはスイレン科の一年草で葉の大きさが1m位の鬼蓮(おにばす)が生息しています。 フキに似て水草のところから「ミズフキ」の別名もある。(市指定天然記念物)釣り人も多く真ブナや鯉、へら鮒などが釣れます。
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【岩津村】高田町岩津 |
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街道は山裾を通る清水寺方面(直進)と瀬高宿方面に分伎する岩津村の手前を北に曲がり古賀村を通り、飯江川を渡る。古賀の渡しは小川庄や瀬高庄に往来する為の重要な地点にあり、戦国時代には番人がいて、確か禄を給せられていたらしい。文化9年(1812)2月の伊能忠敬の測量日記に、長島本村宇津川十二間とあるが、渡しのことは記されていない。しかし三池街道(三池〜瀬高)であるので渡しはあったと思われる。その時期は明らかでない。江戸の初期の参勤交代が始まって以来のことであろう。大名がここを渡る時は臨時に漁船が徴用されたかも知れない。 |
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【高田町での伊能日記】
高田町地域の伊能忠敬の測量日記には「文化八年二月九日朝曇晴六ツ頃、瀬高町を出発、三池郡古賀村より初め、宇津川(飯江川)川幅12間枝下古賀、岩津村枝高木の宗平方で休む。今福村字城下 西濃瀬村、北新開村、柳川街道、追分三軒屋、西濃瀬村字三軒屋、東濃瀬村枝迎田(右南新開、左楠田村)両村枝渡瀬左右楠田村枝渡瀬左右楠田村枝渡瀬にて、小休しは東派一向宗福正寺」とある。
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岩津交差点 飯江川 |
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【瀬高町での伊能日記】
瀬高町での伊能忠敬の測量隊の日誌には文化9年(1812)2月8日九ツ前(12時まえ)瀬高町柳川領に至る。同所にて中食。下庄町村(下庄新町)三池街道追分(3又路)、高印(瀬高基点)より始め、土居(八幡町一)〜一里木(中絶)〜真木村〜井出ノ上村〜長嶋村〜下小河村〜鬼木〜長嶋本村。山門郡長嶋村・三池郡古賀村界まで測る。高印より一里○三町五十七間」とある。長嶋本村の三池郡古賀村境界まで測量して瀬高に引換している。宿泊は瀬高本陣竹次郎方(上庄御茶屋?)や上庄本町、平島宿屋(菊美人西隣・現山田宅)・田代の光源寺その他に分宿している。 |
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【長島村(おさじま)】瀬高町太神・長島 |
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長島の地名は古代は周りが海であった島であったことから付けられたのでしょう。東方にある釣殿宮は昔には腹赤宮(はらあかみや)と呼ばれ、天智天皇(皇太子の時)が西国修業の折、筑後江の崎(大和江崎)より船で小佐島(長嶋)に着かれた時、里人が網を引き赤い腹の魚を食事に出し気に召されとの伝承がある宮です。周辺には先祖代々氏神として祀り続けている海や水に係る宮や祠が点在し渡来人が移り住んだ古代ロマンを掻き立てる集落です。 |
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【下小川村鬼木(おにき)】瀬高町太神・栗の内 |
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こうやの宮がある所で異国風の服を着て「七支刀」を持った男神が祀られて鬼木部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている。泰和4年(369)に百済の太子から倭国王旨に献上された七支刀をを持つ神像を祀っていたことからマスコミで話題となり古代ロマンを追って見学人で賑わったこともある。明治18年に太神小学校(現太神保育園)が設立し、前の街道を渡瀬に野菜を運ぶ車力が往来していたそうです。 |
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こうやの宮

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【井出の上(いでのうえ)村】瀬高町井出の上 |
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井手の上は水郷の集落で北から流れる立派な水路がある。南方100m位の所に木立ちに囲まれた池あり。大日如来堀と呼ばれている。木立ちの中に石の碑があり、以前、大日如来を祀ってあつたと思われる。井手ノ上には八幡神社と観音堂があり旅の信仰者がお参りしていました。昭和10年3月23日に井出の上簡易乗降場(現南瀬高駅)の無人駅が開業し、南瀬高地域の中心となった。 |
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【真木村】瀬高町大江真木 |
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三池街道は真木村の西外れを通っています。真木村は領主の直系牧場で年貢の減免された所です。牧(まき)の制度は律令時代に始まり中世、近世おいても、軍馬、駅馬を飼育していました。牧(まき)であったことから真木(まき)の集落名となったのでしょう。
真木出身の「御所ヶ浦磯右衛門」が250年ほど前の宝暦10年(1760)に江戸番付けの最高位の東大関として活躍しました。大関が最高位であったのは、当時はまだ横綱制がなかったからです。寛延・寛歴(1748〜60)の全盛期には「相撲にかけて仙なり」と評された名人で、173cmの小兵ながら、11年間に7敗しかしなかったという。御所ヶ浦は本名を倉吉と称し、享保3年(1718)に山門郡牧村(瀬高町真木)の大庄屋・九郎左衛門(きゅうろうざえもん)の五男として生れたが、20才で親が亡くなって没落したので元文3年(1738)に相撲界に入門している。九州相撲の呉服織右衛門の弟子で、上方が勧進相撲の中心だったころから取り、大灘・荒灘と名乗っていた。江戸には宝暦10年(1760)10月、御所ヶ浦礒右衛門で大関として登場。 宝暦11年10月小結に下って下の名を平太夫と改める。数え52歳まで取り、晩年は二段目に落ちるなど負けが込んだ。力あくまで強く、頭を胸に付けて牛のように押す戦法を考案し「牛の押しきたるごとし」と絶賛され、関東方御所殿の牛首という異名があった(「相撲今昔物語」)。親が質入れした田畑を倹約の末に8年で取り戻したと伝わる。旅中でも、いつも氏神さまに詣り、師匠の恩に感謝していたので、心掛けに皆が感心していたと伝わる。明和6年(1769)11月前頭で引退、御所ヶ浦(筑後)部屋を設立している。真木の倉吉家では御所ヶ浦磯右衛門から引き継いだと思考される相撲軍配を形取った「片胴うちわ紋」の家紋を継承しており、踏み切りの東の共同墓地(明治初期に移転)には片胴うちわ紋の倉吉家先祖の墓があります。真木の北西の田圃には江戸期まで利用した墓地跡が残っています。 |
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江戸・延享年号のある旧墓地

明治に移設された墓の碑 |

墓の家紋 |
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【一里木(いちりき)】瀬高町下庄仲絶 |
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道路標識などない時代に通行人の目印になるような木を柳川城から二里(8km)の地点、仲絶に植えたのでしょう。通行する人々にとって周りの風景とこの一里木が場所の目安となりここの集落を「一里木」と呼ぶようになった。正確には二里木(8km)になり、後に二里石に改められました。
戦国時代の天正年中、肥前勢となった、元大木城主の大木統光が宮園城を攻めたが,逆に城主の今村舎人(とねり)に、ここの街道で追い討ちにされ惨敗。統光は命からがら矢部川に追い込まれて川中にて追い付かれ右足を高股より切り落とされている(今村家記)。江戸初期の貞享4年(1687)の観世音菩薩の石像と十坪余の仏堂がある。「夜鳴き観音」と呼ばれ近隣からの参拝客で賑わった。前の道が三池街道で行き交う旅人も参拝し休憩したであろう。江戸後期から下庄の八朔祭り時には恭(うやうや)しく神を迎える門「ちょうぎり」が部落に建てられました。
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【土居】瀬高町下庄八幡町(やはたまち) |
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八幡町の入口の川に架かる思案橋は、遊郭で遊ぶか帰るか思案したことから名付けられ、遊郭に通う客などでで賑わっていた。一本松天満宮横の武宮宅から新町までは自然土居の上辺を三池街道が通っていた。街道と並行して川幅6mの深い川があり新町の北の水路から流れていた。この地域は大正期まで「土居」「犬ごろ土居」などと呼ばれていた。呼び名はこの付近には談議の浜の荷役夫がゴロツキ、暇な時はバクチで遊んでいたので「犬の糞」と「ゴロツキ」を組合わせ、名付けられたらしい。ここの街道の西側に並行して大正7年に県道の旧役場まで談議所新道が建設され、不用となり宅地に転用されている。
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