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     【大牟田編】
岩本番所(荒尾市)から干渡橋(高田町)までの大牟田の三池街道には、江戸時代を中心に歴史的遺産が多く残っています。国境の岩本番所跡には熊本県指定文化財の岩本橋があり、ここからの街道の西側には石炭の露出層があり稲荷山で石炭が発見され、高取山では採掘が行わました。高泉には日本刀の刀匠(とうしょう)三池典太の鍛冶場がありました。新町には三池藩の陣屋があり、三池藩の行政の中心地でした。「三池初市」は江戸時代、三池街道沿いで、農作業用品や米・野菜の物々交換から始まったとされる伝統行事です。
大牟田市の郷土史家・石川保氏の「三池街道をゆく」−その歴史と地名を訪ねて−の資料を参考に、三池街道の歴史と地名を紹介します。




岩本橋(右・番所跡)
     【岩本番所】荒尾市上井手
肥後と筑後の国境には関川(諏訪川)が流れ、江戸時代には橋はなかったので、旅人達は川の中の飛び石か、「岩本の渡し」の舟で渡るほかはありませんでした。幕末の文久3年(1863)には、大牟田檪野(いちの)の石でめがね橋が架けられています。川を渡ると細川藩高瀬奉行所の岩本番所がありましたが明治元年(1868)に廃止され、国境も無くなり自由に通行できるようになりました。
     【石坂(いしざか)大牟田市櫟野(いちの)  
岩本番所から三池には西(下流側)の正覚寺方面に行き民家を通りぬけ北の竹林の山道と東(上流側)え行くと直ぐに県道(大牟田高田線)に出て、少し北(左)へ行くと県境に福岡県と大牟田市標識が有るここより左へ坂道を登り竹林を通る道筋を利用したと考えられます。
山街道が続き暫らく行くと道の左に正覚寺の案内標識の所に出る、この標識より右(北)が三池街道です。
焼石山自然公園はこのあたりの石が焼けたような色なのでそう呼ばれている、頂上には展望所も有り、三池山、小岱山の眺めが素晴らしい。 

正覚寺の案内標識

  焼石山公園
焼石山自然公園はこのあたりの石が焼けたような色なのでそう呼ばれている。公園内のあちこちで見れる地層は直立している。この原因は米の山断層の断層活動によるもので表土に近い場所に、石炭の層がでています。大牟田の地質の歴史を辿ることができ、ほかにはあまり類を見ない希少な価値を持つている。公園に登る木材の階段も整備され頂上には展望所も有り、三池山、小岱山の眺めが素晴らしい。ここからの三池街道は車は通れないが、ハイキングコースとして整備されている。 
       
展望所       米の山断層
  街道橋
勝立から櫟野教楽来を通り南関に至る道は峠越えで大変でした。道路を貫通させるために、江口政平(まさへい)の功績により明治期から大正期にかけて造られた櫟野トンネルは大型車通行が通れないことから道路拡張され昭和38年に撤去され切り通しになった。トンネルの上を通っていた三池街道の位置に、平成9年12月に歩道橋(街道橋)が架けられました。
街道橋 南関方面への眺め 旧櫟野トンネル(大正5年〜昭和38年)
    【米の山断層】大牟田市櫟野(いちの) 
街道橋を渡り、左に少し下ると、石炭が露出しているのが見られる。
    
   【峠の集落】
街道橋を渡ってから700mほど行った所に10軒ほどの「峠」という集落があります。集落には有名な「峠の井戸」が有り三池街道を歩く旅人がのどを  潤したそうです。今も水は湧いています。この先、大牟田、高田線(93号線)に出ます。三池街道は県道からまた旧道に入り老人ホーム延寿苑そばから県道の戻って芥神(あくがみ)を通り茶屋の原へと続きます。
   【檪野(いちきの)
岩本番所から峠までの三池街道東側を「檪野」といいます。文禄4年(1595)豊臣秀吉が九州平定の論功行賞(ろんこうこうしょう)として高橋直次(後の三池初代藩主立花直次に与えた領地の朱印状に「いちきの」となっています。イチイガシが多く自生したゆるやかな地形の土地につけられた地名のようです。後世になって漢字で檪野と書くようになりました。
  
     【茶屋の原(ちゃやのはら)
県道から旧道に入ると茶屋の原の集落です。昔は茶畑が広がった茶の生産地だったので茶屋の原の地名ができたとされている。この先県道に戻る付近の長溝川が三池藩と柳川藩の境界であったそうです。
     【高取山(平野山)大牟田市
この付近は昔の平野村で、平野山とも呼ばれました。室町時代文明元年(1469)農夫の伝治左衛門が平野山の西側、三池郡稲荷(とうか)村稲荷山で石炭を発見したとされています。石炭層は稲荷山を最西端にして高取山の北側を走り、更に高取山の山腹を巡るように南に向きを変えて、三池街道の西側を焼石山公園あたりまで連続して露出しており、当時の農民達は自由に採掘し、日用の煮炊きのための薪代りとして用いたようである。

享保6年(1721)柳川藩家老の小野春信が、隠居で家老をやめた時、褒美として平野鷹取山(高取山)の領地をもらい、石炭採掘を初めました。掘り出された石炭は、ここから平野堤ほとりの炭役所まで運ばれ、更に長溝川までの道を通り、川沿いに横須浜まで運ばれ、福岡藩や肥後藩に売られた。石炭は漁業での漁火、製塩、瓦焼、鍛冶の燃料や火薬の原料に用いられていたとされる。明治時代の頃までには柳川藩領に大谷抗小谷抗本谷抗梅谷抗炉谷抗満谷(みつたに)西谷抗の7つの抗がありました。嘉永6年(1853)三池藩領が生山(いくやま)で石炭採掘を始めると大谷抗との境界争いが起こり一時は乱闘騒ぎまで発展し、明治まで続きました。明治22年頃には掘りつくされて、順次閉抗していきました。大谷抗口は現在も残されています。


  
三池石炭発見の図    高取の「稲荷層(石炭層)」


 大牟田市史より口絵2部掲載



稻荷村大浦炭坑山之図『筑後地誌略 全』
           明治からの三池炭鉱の歴史をたどると。
明治 6年(1873) 三池炭鉱が官収され、工部省の管理となる
明治 9年(1876)
石炭販売を三井物産会社に委託し、
長崎県口ノ津港を経て海外輸出を開始した
明治15年(1882) 七浦坑(現在の合成町)を開く。これ以降、坑内作業には福岡・熊本・佐賀・長崎県の囚人を使役した
明治16年(1883) 上官町に三池集治監
(現・三池工業高校敷地)が設置され、そこに収監された囚人を中心に採掘した
明治22年(1889) 石炭輸出などに関係してきた三井に払下げられ三井炭鉱社が設立する
明治24年(1891) 三池横須浜〜七浦坑に蒸気機関車による運炭鉄道が開通
明治30年(1897) 万田抗、第一竪坑開削着手
明治31年(1898) 三池炭鉱宮原坑操業開始
明治38年(1905) 三池炭鉱専用鉄道 万田〜四山間開通
明治41年(1909) 三池港開港により大牟田で石炭を大型船に直接船積みすることができるようになる
大正7年(1918) 三池焦煤工場染料工場竣工、石炭化学コンビナートが形成される
大正 8年(1919)万田坑に石炭掘削用のコールカッターを導入し手堀に代わって採炭法が機械化される
昭和 5年(1932) 三池、坑内請負制度・女子の入坑を廃止、囚人の採炭作業を廃止
昭和15年(1940) 三池三川坑竣工。三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜しているため、
           この頃から坑口が山側から海側へ移り変わっていきました。
昭和26年(1951) 人工島の初島ができる
昭和28年(1953) 第2人工島の港沖人工島ができる
昭和32年(1957) 大牟田市延命公園で産業科学大博覧会が開催
昭和35年(1960) 三池炭鉱の争議が10ヶ月間続く
昭和38年(1963) 三川坑、炭塵爆発事故が発生、死者
458人
昭和42年(1967) 高田町に有明炭鉱2つの立坑と鋼鉄製の立坑櫓が竣工(現在・保存運動展開中)
昭和45年(1970) 第3人工島の三池島ができる。
平成 9年(1997) 三池炭鉱閉山
三井経営108年、官営時からは124年の近代炭鉱としての長い歴史に幕を下ろしました
         
    【米の山(こめのやま
米の山は山の形が米俵に似ていたので呼ばれ、元は山の名前でしたがその一帯も米の山と呼ぶようになったそうです。伝説には、「昔ある時、お百姓さんが農作業のあいまに、畑の脇で昼寝をしていたそうです。ところが、そこに大きな蛇が現れて、ねむっていたお百姓さんに襲いかかろうとしました。その時、お百姓さんがそばに置いていた鉄の鉈(なた)が自分からやおら起き出して、その蛇に飛びかかりました。鎌はその蛇をさんざんに切って、退治してしまいました。たまたまその光景を通りかかった武士が見ていました。武士は、お百姓さんにぜひその鉈をゆずってほしいと頼みました。けれども、お百姓さんにとっても大事な鉈です。断りましたが、武士があまりに熱心に頼むので、とうとうお百姓さんは「向こうの山が見えなくなるまで米俵を積んで、その米俵を全部くれるなら譲りましょう」と言いました。武士はすぐに家来を呼んで、その通りにしました。それからその山を「米の山」と呼ぶようになったということです。」その鉈をつくったのが三池典太だったとのことです。
    【高泉】
高泉には古くから三池鍛冶場があり、平安時代から日本刀の製作でも盛んで、数々の刀匠(とうしょう)がいました。平安末期の刀工、三池光世(みつよ)(異名の典太(でんた)伝太典田とも書く)は特に優れた腕の持ち主で、「大典太光世おおてんたみつよ」と云う太刀は“天下五剣”の一つに数えられるほどの 名刀で足利家から秀吉経由で前田家家宝となった一振は天下五剣のひとつに数えられている。このほか徳川家康が所蔵したものは東照宮御神体となっており、第8代の熊本藩主、細川斉茲が奉納した熊本県、本妙寺所蔵の短刀は国指定重要文化財に指定されている。また柳生十兵衞(じゅうべえ)の愛刀も三池典太と言われる。
伝説によると典太屋敷では、夜になると刀鍛冶が槌(つち)を振るうトッテンカーンという音が聞こえたとか、冬になっても炉の跡には絶対に霜が降りなかったとか、屋敷跡を掘り返すとたたりがあるとか言われていたそうです。屋敷跡は高泉のマルキョウの近くにあります。今では、新しい家が建っていて当時の面影はありません。
甘木には三池典太の墓といわれる石があり、瀬高町堀切には三池典太の弟子の墓と言い伝えられる石碑があります。
                 
      【三池新町】大牟田市新町
街道は米の山堤から狭い旧道にに入ります。ここが三池藩の田町の通りです。
    【田町の祇園さん・石炭長者屋敷跡】
三池新町弥剣神社は延宝2年(1674)に早鐘山の溜池の水を干拓地に流す為の水路橋「早目眼鏡橋」の完成にともない、それに対する藩民の協力への返礼として三池藩第8代(最後)の藩主の立花種恭(たちばな たねゆき)が下賜された神社です。地元では「田町の祇園さん」として親しまれ毎年7月の大牟田夏祭りの大蛇山祭りでは見事な山車6台が勇壮な姿を見せますが、新町の山車は藩主下賜の「御前山」とも呼ばれ、大蛇山の極め付きとされています。
この神社の北側辺りは文化3年(1806)から石炭採掘して大金持ちになり長者と言われた藤田伝吾の屋敷敷跡です。
神社の西向かえの歴木の寿光寺の山門は明治9年三池藩陣屋の正門を移築したものです。
     【三池陣屋跡】
江戸時代には三池藩領の陣屋があった所です。陣屋とは、城を持っていない小藩主の住宅を中心に、藩士の住まいや共同井戸などを設け、藩の政治を行った所で、元和7年(1621)常陸国柿岡(茨城県八郷町)から、柳川城主の甥にあたる立花種次が分封され1万石を与えられ、三池藩主となり寛永4年(1627)に整地して藩主の住む陣屋を建設、掘割を設け周りに町屋や宿駅を設け新町とした。陣屋の正面(大手)は肥後を向き、陣屋から町屋への出入り口を裏門としていた。。町南端には堂面川が流れその地点の街道は肥後からの防御のためにかぎ形に曲げた枡形を造った。6代藩主立花種周(たねちか)の時には藩校の学問所が設立されている。しかし文化3年(1806)政争に敗れた三池藩立花家は下手渡藩(しもてどはん)(福島県伊達市)に左遷され廃城。そして、天領となるが幕末の嘉永4年(1851)移封先の領地を返上して再び三池藩5千71石を与えられた11代藩主立花種恭(たねゆき)は陣屋を再構築し、学問所を「修道館」と命名した。現在、三池陣屋跡は三池小学校と西側の住宅地が成っており当時の「大手門の石段」が小学校の南西角に有り、昔を偲ばせる。南側には嘉永7年(1854)三池陣屋入口の大手門前の藤砂川に架けられた石造一連の「陣屋眼鏡橋」(田町橋上流側)が架かっている。陣屋の周りは、幅2メートル程度の掘割がめぐっている。
陣屋敷の瓦屋根 陣屋内の共同井戸
陣屋への石段・三池小運動場の西端 大手門橋 陣屋周りの掘割

昭和30年の三池陣屋跡


陣屋跡から150m北の安照寺の山門は、かつて石炭長者として栄華を誇った藤本伝吾邸の門を移築したものである。北に2軒先の用水溝が三池藩と柳川藩の藩境です。新町が三池藩領で三池町が柳川藩領であったために、それぞれの町に大名などが宿泊する本陣や法令などを張り出した高札場が設けられていました。
正面の増田うなぎの右路地を入ると三池小学校

     【三池本町】大牟田市三池
柳川藩領の三池本町は宿場町で賑わい、諸侯の宿泊する駅館がありました。元祿12年(1699)の「三池火事」をはじめ、明治元年(1868)には上町寺町、(明正寺付近)に80戸が焼失するなど大火の多い町であった。その後上町・寺町の町民により、弥剣神社に火災よけ行事として大寒の正月15日に「臼(うす)かぶり」が始められました。児童や青壮年が、ほら貝を合図に臼を持上げて水を頭からかぶり、空になった臼を後方に放り投げます。その豪快な姿に見物客から拍手と歓声があがり賑わいます。また弥剣神社は、「大蛇山」発祥の社としても知られており、毎年7月下旬にはここを基点として大蛇山が巡行する夏祭りが開催される。別名祇園宮とも呼ばれる。

中町のバス停から西に600mにある大間神社は、鎌倉時代大間城
(たいまじょう)の跡といわれています。正治2年(1200)三池摂津守師貞により大間城若宮八幡宮劫月院などが建立され防御のために町の周囲に掘割が巡らされていた。戦国時代の天正年間(1573〜92)、三池の武将、三池上総介鎮実大友配下として活動。豊臣秀吉が九州平定の天正15年(1587)以降、三池氏は立花氏の家臣となっている。
街道筋の明正寺の境内には室町時代の「明正寺六地蔵幢」(市の文化財指定)があります。

明正寺 宮地獄・弥剣神社 弥剣神社境内
     【久福木(くぶき
三池街道はこの先、三池病院前〜銀水小学校の東側を通り、安沢歯科病院から大通りを横切り突き当たりの旧道を右に久福木へと入ります。久福木村は、明治23年に白銀(しろがね)村、橘(たちばな)村、宮部(みやべ)村、田隈(たくま)村、草木(くさぎ)村、白川(しらかわ)村が合併して銀水村となりました。島崎バス停西側の三池街道沿いに銀水村の役場がありましたが昭和25年に解体されました。久福木の諏訪神社は、宝暦4年(773)の建立とあり、市内では最も古い宮です。神殿前には狛イノシシが両方に安置され、子育てを願う親が、わが子の成長を願って参拝されている。
三池病院 銀水小学校東側 安沢歯科病院

            安沢歯科病院
    【宮部】大牟田市宮部
幕末の天保の三剣豪の男谷信友島田虎之助と並ぶ、大石進(名は種次。号は武楽の生れた地です。大石神影流を開祖し道場があった場所で、近くの早馬(はやま)神社の境内は大石神影流の稽古や試合が行われた場所です。22歳で父、種行の柳河藩の剣槍師範役で30石の禄を継いだ。大石進は7尺(2m12cm)といわれる長身に加え、5尺3寸(160cm)の長竹刀を使用しての天下無双の技左片手突きは強烈で江戸の剣豪を破り剣客として名をはせた。嘉永元年(1848)12月、次男の種昌が剣槍術師範代番となり、大石進(種次)は引退して家督を種昌に譲る。文久3年(1863)66歳で死亡し、道場跡より東へ約300mの恵日寺に大石武楽の墓があります。ここの三池街道筋には明治15年(1882)門人達によって武徳をたたえる顕彰碑が宮部久福木の境のにある。
大石武楽の顕彰碑

    【橘】大牟田市橘(たちばな)
明治9年(1876)豊永(とよなが)村と尾尻(おじり)村が合併して「橘村」となったところです。祠の残る街道筋には大石武楽が利用した刀鍛冶屋などが建ち並ぶ商家があった。白銀川に架かる銀水川橋を渡ると郵便局や川沿いには橘中学校がある。
鍛冶屋などあった街道筋 橘簡易郵便局
    【吉野】大牟田市吉野
古代に武内宿祢(たけうちのすくね)が九州監察として黒崎に船を寄せ神集原に陣を構えたとの伝承ある所です。神集原は後に神屋原となったそうです。昔はヨシがたくさん生えた野原で湿地帯でした。明治9年(1876)元村と原内山村が合併して吉野村となりました。昭和24年から市営住宅が建てられ人口が増加して商店や吉野小学校ができバスも走るようになりました。ありあけ新生高校の手前からJR踏み切りを渡り西鉄倉永駅のある国道296号のに向かう途中に三池典太の刀鍛冶をめざす江戸期柳河藩御番鍛冶の血を引き継ぐ小宮家の四郎國光の鍛冶場があります。
神屋原八幡宮 ありあけ新生高校 下方部落
    【倉永】大牟田市倉永
倉永の地名は鎌倉時代にはあったようで、文禄4年(1599)豊臣秀吉立花宗茂(三池藩主高橋直次兄)に倉永村1169石59の領地とて与えた朱印状が残されています。
鎌倉時代に筑後地方でもっとも古いと思われる3つの「市」が瀬高町下庄芳司市場・飯江川と矢部川の合流地点の山裏市場があり、ここ倉永の市場であり、現在地名として残っている山下市場です。天草島原方面から海産物を、倉永よりは、米、麦、野菜、焼き物(黒崎焼、二川焼)を積んでいました。江戸後期には出店ができ、茶屋・菓子屋・宿屋などがありました。
この先大牟田市みやま市の境である干渡橋は昔橋がなかった頃は、潮が引いた時に、裸足で渡ったことから干渡の地名が付きました。
          市場山下簡易郵便局   干渡橋

             
        石川 保
(いしかわたもつ) 略歴

昭和 3年(1928)大分県竹田市(母の実家)に生れる。
昭和16年      大牟田高等小学校入学
昭和21年(1946
)三井工業学校(電気科)卒業
昭和22年      八女郡矢部村飯干小学校に助教論として就職。
昭和26年      福岡学芸大学現職教育科卒業
昭和63年      大牟田市内の各小学校を勤務、天道小学校教頭を最後に退職
            「大牟田の地名のはなし」出版
平成 4年(1992)大牟田文化連合会より「文化功労賞」を受賞
平成 7年      全国地名研究者大会で「消えゆく四箇の地名」発表
             「大牟田の囚人墓地とその関係遺跡」出版
平成10年      「三池炭鉱 閉山一周年をゆく」・「条理の地名と荒尾の飛地を出版
平成12年      「三池街道をゆく」出版・大牟田地名研究会会長・石川書道教室主宰
平成13年(2001) 郷土の地名の研究と歴史に貢献され永眠されました。
            .
このページは故石川保氏の娘さんの好意・承諾により編集・掲載いたしました。
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