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      【三池街道 柳川道編】   三軒屋〜江浦〜中島〜柳川

江戸期の柳川城下に通じる柳川道(江之浦街道)には商業活動が許可された江浦町中島在町があり、幕末になると在町の差別なく、「出店」として店を構えた溝尻塩塚四十丁徳益がありました。柳川城に通ずることから、街道には防衛上、人馬の突進を防ぐために道を90度に曲げた桝形が各所にみられ、街道の両側には堀を掘って水を貯えるなど、敵の進撃を防ぐために警備を重んじた街道です。戦国時代においては柳川城の蒲池氏と鷹尾城の田尻氏伝統的な領地を守るために、戦国大名である豊後の大友氏佐嘉の龍造寺隆信の大勢力に翻弄され、多くの血と汗を流した場所でもあります。
     三軒屋  みやま市高田町濃施字三軒屋
高田町の三軒屋の楠田川を渡る橋のたもとには、「やなかわ道(江之浦街道)と「せたか道(瀬高街道)の陰刻字がある石の道しるべがありました。ここから柳川城下までの道を「柳川道」、薩摩街道が通る瀬高宿(下庄新町)までの道を「瀬高道」とも呼ばれました。江戸後期には双方の道に仮橋が架けられたと思われます。近年、川幅改修工事(3倍に拡張)で川側の商家なども立ち退き、菓子屋、饅頭屋、日用品屋などがあって、「出店」として賑わった面影は無くなり、現在「三軒屋もち飴」屋のみが残っている。
柳川道は楠田川を渡ってから、国道208号線を横断した先はJAみなみ筑後高田カントリーの東側を通っていたが、新道が出来て一部分が消滅している。
三軒屋 道標 柳川橋跡
     溝尻 みやま市高田町江浦町
溝尻部落の東と西の入口には、防衛上、人馬の突進を防ぐために道を90度に曲げた桝形(別称かぎ形)があり、警備上の道路普請の方法で江浦町中島塩塚や柳川城下にも作られている。東方の桝形には、天保4年(1833)に建立の「北向き地蔵さん」があります。江戸末期になると荒物屋・菓子屋などの出店が出来ています。
国道を横断 北向き地蔵さん 桝形(西側)
     江浦町   みやま市高田町江浦町
国道208号線の江浦本丸の交差点付近は江浦城址で、永禄3年(1560)築城の代々永江氏の居城で豊後の戦国大名、大友氏の輩下であった。天正12年(1584)永江勘解由及び田尻の家臣田尻了哲の両士は田尻氏の本城たる鷹尾城の支城とした。豊臣秀吉が九州を平定した天正15年(1587)に、高橋宗増が三池郡を賜はり江浦城を以て居城としたので永江氏は高城に退いて宗増の輩下となり、その後には柳川藩の臣となる。
江戸初期には田中吉政藩主の所領であったが、正保元年(1644)に「一国一城令」により取り壊され華やかなりし江浦城下は急激に寂びれました。痛手を受けた商家の町民たちは役人の大浜民部に相談のうえ、正保4年(1647)に江浦港を、徳永に開設、各地と天草島原および長崎から海産物を移入、蝋や菜種油、酒などを移出し、交易出来るようになり、江浦の問屋、商店が栄えを取り戻した。
170年後の文政の時代には町から村への直接取引に小売行商人が活躍、小間物は風呂敷で背負うが、多くはフゴ(物を運搬するために用いる竹や藁(わら)で編んだかご)、メーゴで担ぎ、更には車力で「江浦の塩物売りさん」と呼ばれ近隣はもちろん、肥後の山鹿南関府本方面、筑後の福島黒木矢部白木の方面まで出かけて生活物資を売り行商しました。
江浦町田中の三叉路(少林寺前)には「左 原町 右 渡瀬」と刻まれた道しるべがありました。石標の地上部が折れたので江浦小学校内に、四箇所(しかしょ)の二里石と並んで保存してあります。街道は江浦城跡の南を抜け淀姫神社前から踏切を渡り四箇所(しかしょ)に向かいます。
田中の三叉路 田中の三叉路 江浦城跡
     島堀切村  みやま市高田町徳島 四箇所・渡里 
淀姫神社前から徳島地区の四箇所(しかしょ)までは田圃整地のために街道筋は消滅しています。四箇所には小高い塚があり、その上に二里石が建っていました。現在は江浦小学校に移設してあります。中島川(現・矢部川)の左岸の徳島地区江戸期には中島村の領域でした。
異国船渡来の監視や川口通行切手(海上の関所手形)の改めをおこなって物資の移出入の監視をし、津口運上(海上通行税)を徴収を行う津口番所の一つ「中島番所」があった。番所は幕に提灯が掛けられ飾槍・鉄砲・火薬・火縄が用意されていました。
明和7年(1770)には柳川藩の米倉の一つ「島堀切蔵(中島蔵とも言う)渡里に新設されました。米倉には蔵役2人と蔵目付1人がいて、集められた年貢は舟で大阪中ノ島常安町の「柳川藩蔵屋敷」に運ばれ、現金に替え、藩の金庫に納められました。中島川(矢部川)には十五日潮には三百石船、小潮には百石船中島鷹尾津留瀬高などで、荷の積み卸しをしていました。
現在、浦島橋が架かっている
渡里の河岸には「中島渡し」の渡し場があり、文政の時代(1818年1829年)、江浦の大坪市左衛門が渡し守を勤める事となり、運行する為の扶持米は三池郡中より支払っていたとあります。明治7年には有料の賃渡しと変更になっています。

淀姫神社前

徳島地区の街道消滅区間

四箇所の二里石(江浦小保存)

四箇所(しかしょ)

渡里の渡し

島堀切蔵(中島蔵)の寛政元年(1789)の絵図

 
      中島町   柳川市大和町中島
中島町は藩政時代において、三池街道の市場町として栄えた柳川藩が認めた13の「在町」の1つで、髪結・風呂屋・肴屋(さかなや)・荒物屋・細物類店の営業が許可され、許可商人は運上銀(営業税)を藩に納めていました。この頃から河岸から陸揚げされた魚貝類を売る「中島の朝市」が始まり、市場町・港町として発展してきました。天保年間(1830〜43)創建の八剣神社の「祇園まつり」は大蛇山や踊り山の山車(だし)が出廻り賑わっていました。街道の町並みの長さは378m(210間)あり、家の数は74軒の記録(年代不詳)があります。街道沿いの下町(しもまち)には人馬の突進を防ぐため、警備・防衛上、道を90度に曲げた桝形があります。
西二重地区には戦国時代の鷹尾城の支城である中島城跡があり鷹尾城番宮川才兵衛が兼務していました。 江戸初期の田中吉政藩主の時、正保元年(1644)に「一国一城令」により取り壊されている。また、皿垣小学校の東に隣接した戒音寺(かいおんじ)の周辺50m(栄皿垣)には佐留垣城址があります。戦国時代に蒲池氏が支配してた時の 柳川城の支城 で蒲池鎮並(しげなみ)の弟蒲池統春(むねはる)の居城であった。天正9年(1581年)龍造寺隆信の命令で柳川城や塩塚城攻め落とされた翌日(6月2日)鷹尾城主、田尻鑑種と肥後の小代親伝(しょうだいちかただ)ともに、蒲池氏の残党が最後にたてこもった佐留垣城を攻め、蒲池統春を初め100余人を全て討ち果たされました。この皿垣付近は戦国浪人などに開拓された開でもあります。江戸期になると藩の重臣や豪商により大規模の干拓事業が行われました。
中島 下町の桝形 佐留垣城址
皿垣開字甲木は横綱雲龍・塩塚久吉の生まれ育った所です。文政5年(1822)に長男として生まれた久吉は20歳のとき、高田町の愛宕山付近での江戸相撲の追手風一行の巡業相撲興業のに飛び入り参加。技など知らず、押し相撲で勝ち続け、脚光を浴びる。翌年、柳川の魚問屋の高椋新太郎の支援を受け、大阪で相撲修行を開始。26歳で江戸に招かれ、31歳の嘉永5年(1852)「二月場所」で初入幕優勝し、江戸力士一行と九州巡業の際、10月本吉村の清水観音堂下の伊勢神社境内での相撲興行の折りに帰郷しています。この頃に柳川藩の「抱え力士」になったと思われます。40歳の文久元年(1861)に第10代の横綱になりました。翌年の8月には柳川高畑の三柱神社の省耕園(しょうこうえん)前の特設相撲場で1万人の観客前で、藩主立花鑑寛から贈られた化粧廻で横綱土俵入り「雲龍型」をお披露目いたしました。太刀持ちは田子ノ浦鶴吉(三橋矢ヶ部村出身)露払いは足代山(あじろやま)勇吉(瀬高町本吉出身)でいずれも郷土出身の力士です。故郷の甲木海童神社には雲龍が奉納した石の鳥居や灯籠・雲龍の力石があります。大和庁舎の東方には平成5年に造られた、雲龍の郷公園(大和町鷹尾・大和中学校南方)がありドーム型相撲場や雲龍型土俵入りの創始者・雲龍久吉の記念館「雲龍の館」があります。 

雲龍の土俵入の図(右・大刀持ち足代山・左・露払い田子の浦
ハア〜〜
筑後柳川本吉名所と聞かしゃんせ
百軒あれども
三軒屋  新町中町のりこえて
石の鳥居車橋    登りかかるが三折坂
三体堂ちょつと拝み 左のかたを眺むれば
清水寺は天台宗    寺の開基も、いと古く
秋のもみじに春桜    
愛宕の山はそば立ちて
お山の景色すぐれけり  
千体仏石羅漢
仁王山門のり越えて  八十段をかけ登り
千代よろずの大杉や   
音羽の滝はかがやかに
お手を洗って手を拭いて ゴーンと鳴らす前の鐘
真心こめて
雲龍が    百度参り願を立て
地方巡業のこの時は   必ずお参りいたします
   
ドスコイ ドスコイ
     鷹尾村  柳川市大和町鷹ノ尾
江戸期の街道筋には旅人が休息する鷹尾茶屋がありました。山門郡鷹尾郷は平安末期の庄園時代に、瀬高下庄の庄園関係者により開発が行われました。瀬高下庄の総鎮守社として鷹尾宮が造営され、下庄の倉敷地として年貢やその他の物資の集散基地となっている。
戦国時代には豊後
(大分県)の戦国大名大友氏が幕府から筑後の守護職を任じられていた。郷土では伝統的な領主(国衆)である柳川城の蒲池氏と飛塚城(高田町田尻)田尻氏と三池城(大牟田市)三池氏が大友氏に従い南筑後を支配していました。天文17年(1548)田尻氏は大友氏に忠誠を誓い所領を拡大し、田尻(高田町)から鷹尾鷹尾本城を築き拠点を移しました。戦国末期になると豊後の大友氏が衰退し豊前(佐嘉)龍造寺隆信の攻勢が増すと、柳川城の蒲池鎮並(かまちしげなみ)・鷹尾城の田尻鑑種(たじりあきたね)など、筑後の国衆たちの多くは龍造寺に臣従した。しかし天正9年(1581柳川城(下蒲池)蒲池鎮並が薩摩の島津勢に就こうと離反(りはん)を考えていると、疑いを賭けられて佐嘉(佐賀)で待ち伏せていた龍造寺軍勢に謀殺(ぼうさつ)されました。ただちに柳川城は肥前の龍造寺軍に攻められ落城した。時を移さず鷹尾城にいる田尻鑑種は、龍造寺隆信に柳川の蒲池残党討伐を命じられ柳川城の支城の塩塚城や佐留垣城に攻め込み殺害します。龍造寺蒲池田尻は同族同士であり、残忍な悲劇の終末で下蒲池(柳川)は滅亡しました。これから1年過ぎると、今度は田尻鑑種も同じ疑いを賭けられて龍造寺に鷹尾城や支城を攻められ明け渡すことになり、肥前国佐嘉郡巨勢(こせ)(佐賀市巨勢町)に移り住みました。翌年、龍造寺隆信が戦死したのちは龍造寺の重臣鍋島信生に従い各所を転戦しました。
鷹尾城址 鷹尾茶屋付近 雲龍の郷
     塩塚村  柳川市大和町塩塚
ここら辺の三池街道は両側に堀を掘って水を貯え脇からの敵軍の進入を防ぎ、また敵の人馬の突進を防ぐために道を90度に曲げた桝形を造り、柳川城を守っていました。江戸後期には往来する旅人の為に日用品・八百屋・菓子屋・木賃宿などが軒を連ねる出店があり、塩塚の南の出はずれには、表の軒先に灯籠の形をした四面ガラスに屋号の「武末屋」と書かれた宿があったそうです。
戦国時代の天正9年(1581)には柳川城主蒲池鎮並の支城、塩塚城(東西27m・南北26mの平城)がありました。佐嘉(さが)城主の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)により蒲池鎮並は謀殺され、柳川城を攻められ、鎮並の夫人、玉鶴姫をはじめ、子息・侍女ら108人は塩塚城に逃れました。しかし龍造寺軍と鷹尾城主田尻鑑種(たじりあきたね)に挟み撃ちにあい、ついに自害または殺害されました。近くの西方の宗樹寺には「百八人塚」の供養塚があります。

塩塚城址 塩塚城址 百八人塚(宗樹寺)
     四十丁(しじっちょう) 柳川市大和町豊原字四十丁
四十丁は北隣の野田村と同じく、江戸期に開墾された村で、開発当初の田地の耕作面積が四十丁あったことによるものです。明治9年(1876)に野田村と四十丁村が合併して豊原村となりました。街道筋には八百屋・日用品・菓子屋・反物屋・木賃宿などの出店がありました。また四十丁村塩塚村は製綿業が盛んな村でした。長崎で奉行監視のもとに輸入された上海綿花を地元の商人は、舟で運び沖端で荷揚げして、馬で自宅に運びました。製綿して、丹前(たんぜん)や綿入れ着物・蒲団に仕立て売りさばいていた。最盛期の明治20年頃には、製綿業者が20軒余あり、綿打機の音で賑やかだったそうです。豊原小学校校の前には「柳河より一里」の石標柱が建てられています。ここには尋常小学校時代の校門も残されています。

豊原小学校

一里石「右)

塩塚〜四十丁

旧・野田村付近

伊能忠敬大図の一部(当時の村が解る・左が北方向)
     野田村    柳川市大和町豊原字野田
柳川藩の土木・普諸・農事用の材木小屋があり「御木屋(おこや)」の名が残っています。「伊能忠敬測量日記」にも「徳益村地先、野田村柳川候材木小屋あり、字仮屋、四十丁村」とあります。正徳3年(1812)に塩塚川が決壊し、村人たちの潮止め工事が進まなかったのを見かねて、野田の庄屋万風八十吉(まんぷうやそきち)夫妻が人柱になったのをきっかけに、万風神社を日吉神社内に祀り、「風流・ドンキャンキャン」と「仁寿平(にんじゅべい)踊り」が奉納され、五穀豊穣と家内安全を祈る祭りがおこなわれるようになったとある。塩塚川にかかる「御仮橋」は、藩主が狩の折、仮にかけた橋で、夜間は通行を禁じ、火急の折は、いつでも切って落とすようになっていた。
     徳益村   柳川市大和町豊原字徳益
街道筋には四十丁や塩塚と同じく日用品・菓子屋・八百屋などの出店や、旅人が休憩する「晴天茶屋」がありました。北徳益の愛宕神社で奉納される風流「ドンキャンキャン」は享保3年(1718)頃から継承されたもので、風流の舞・君が代の舞・高砂の舞のほか、赤鬼・黄鬼に扮した若者が氏子の家・座敷に上がり込んで悪魔払いします。他に稲荷・早馬の神社があります。南徳益には天正16年(1588)の「山越阿弥陀三尊板碑」があり、塩塚城主蒲池鎮貞(かまちしげさだ)の供養塔と言われています。
     逆井出堰   柳川市大和町豊原字徳益
江戸中期の享保(きょうほ)15年(1730)頃に、南徳益桜木安左衛門が、塩塚川の排水・余水に目を付け、活用しようと造った堰で、水は徳益豊原上塩塚下塩塚明野方面に流れ、約200ヘクタールを灌漑しています。平成元年の改修工事により自動堰に近代化されている。塩塚川の橋のたもとには元文3年(1737)の銘がある地蔵尊を祀る小堂がある。運行寺垂見の支配と聞いたことがあるが今は言い伝えは寺に残っていなく、ここは淋しいところであったので道しるべに仏を建てられたであろう。元文3年(1738)の銘が刻まれている。道路の要所々々に石仏を建てるのは道しるべにも利用されたのである。橋を渡り左折した所に観照寺があり門前には竹材で水神を祭ってある。街道は堤防沿いに今古賀村まで続いています。

お堂

観照寺前

水門堰
     今古賀村     柳川市三橋町今古賀
塩塚川の堤防からの細道を通り掘割を渡り、今古賀村に入ると三叉路に嘉永(かえい)3年(1850)建立の常夜灯の道しるべ(内側の玄関前に移設中)があります。正面には「常夜灯」と刻まれ下部には「左 瀬高通り、右三池通り」と刻まれています。弘化3年(1846)建立の集落口を守る庚申尊天地蔵尊のお堂が道路脇にあったが角の家の玄関前に移設されています。今古賀村より柳川に向かうと、藤吉村の入口に番所があり旅人は検問を受けていました。
現在の今古賀公民館の場所は戦国時代に蒲池氏の柳川城の支城、今古賀城があった所です。天正9年(1581)蒲池鎮並が佐嘉城下で龍造寺隆信により謀殺され、龍造寺氏により柳川城を落とされたときに、今古賀城も落城した。立花宗茂が関ヶ原で西軍につき敗れた為に除封され廃城となりました。そのほか三橋町地域には蒲船津城白鳥城垂見城の蒲池氏の柳川城の支城がありました。


庚申尊

道しるべ
     瀬高御門   柳川市新町

慶長6年(1601)田中吉政が柳川城主になると城の大規模修築に取りかかり、これにあわせて城下町の町割りをして整備を行っている。立花宗茂が再封ののち、それまで瀬高駅(現・みやま市瀬高町上庄)に真っ直ぐ行ける瀬高町(現・柳川市京町)通りの東方にあった瀬高門を南方へ移し、細工町新町を町立てしたと言われています。瀬高御門は柳川城の東面の大手門で、「瀬高御門の子守唄」に カーラス カーラス はよもどれ  瀬高御門の せかりょるぞ  赤鬼 青鬼 でてくるぞ  瀬高の御門の せかりょるぞ  早よ もどれ 早よ もどれ 瀬高御門の せかりょるぞ とあり夕刻には閉められていたと思われる。門からは三池街道や柳川・瀬高往還に行けました。門の外には文政11年(1828)歌人大村春樹によって建てられた道しるべが残されています。正面は西を向き中央に「猿田彦大神」右横に「すぐ北 せたか道」左横に「右西 やな河まち すぐ南 ミケ(三池)」と刻まれています。猿田彦大神は道祖神信仰の一つで、疫病や悪霊の侵入防止、旅の安全祈願のために祀られました。掘割そばの風浪神社前には「瀬高門址」の石標があります。
掘割の北方には柳川城内に入る唯一の瀬高水門があり、水門を厚板で閉ざし、城下町の東側一帯に水を溢れさせ湿地帯とすることで、ぬかるみの有明海と沖端川と合わせて城下町ぐるみで水城として外敵の侵入を防いでいました。現在は川下りコースの出発点として、当時の雰囲気を味わうことができます。




道標のあった交差点角

猿田彦大神の道標(保管中)


藤吉交差点堀端


瀬高下庄・引接寺の移設された瀬高門
(台風で倒壊中)

柳川城内用瀬高水門
     辻門   柳川市辻町
江戸時代、柳川城外堀の北東に町割りされた柳河町は商人たちが住み栄えた地域です。外堀の北には辻門があり、城内(御家中)に入る通行人は厳重な検問を受けました。「柳河明證圖會」には、「城内へ入るの咽喉(重要)にして昼夜往来絶ゆるひまなし。此所の番所にてあらためて旅人を入るを許さず。」とある。高札場を設け、布告法令などが掲示された辻門前の「札の辻」は柳川藩内の道路の起点とされました。
現在、辻町の四つ角には元和6年(1620)立花宗茂が再封頃に設置されたと思われる、石の道標が残されています。「右 出橋通り 左瀬高門通り」と刻まれています。本来は筋向かいにあったものが、柳川〜城島線の開通などにより移設されたようである。文政7年(1824)、藩校として設立した伝習館の北側の堀端の遊歩道には辻門跡の石標がある。

辻町交差点

辻町交差点左折(辻門へ)

道標

辻門址の石標(うしろは伝習館高校)
    柳川城   柳川市本城町
柳川城は戦国時代蒲池氏によって蒲池城柳川市西蒲池の支城として築かれた。蒲池氏は、初め豊後守護の大友氏に仕えていたが、鑑盛(あきもり)の時に蒲池城からこの城に移転している。肥前の龍造寺隆信天正年間(1573〜91年)に何回も攻撃したが、耐えた堅城である。天正9年(1581)蒲池鎮並が佐賀で龍造寺氏によって誘殺されると、同時に柳川城や周りの支城も攻められ下蒲池は滅亡しました。
豊臣秀吉が九州を平定した、天正15年(1587)立花宗茂(たちばなむねしげ=統虎)が下筑後三郡に領知を得て城主となるが、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で西軍に与し徳川家康に改易される。
その後、筑後一国を宛行われた田中吉政が城主になると五層の天守や城下町の本格的な整備を行っている。田中氏は次の忠政(ただまさ)に嗣子がいなかったため断絶となり、元和6年(1620)奥州棚倉藩の立花宗茂が旧領に復活した。以来、幕末まで柳川城は立花藩の居城として続きました。

焼失前の城の写真

     庄福BICサイト         古絵図にみる柳川城下町
         参考資料 高田町誌・江浦郷土史・大和町誌・旧柳河藩誌・柳河明証図会(やながわめいしょずえ) 
       柳川市教育委員会生涯学習課から資料・写真提供などの協力を頂きました。

   
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