庄福BICサイト                   H24・10・10編集開始    最終更新H27・7・1
 
 
         キリスト教の伝来と南蛮貿易
 
 (豊後のキリシタン大名大友宗麟)
大友氏は、相模国大友郷の武士であったが、当主の能直(よしなお)頼朝(よりとも)の信頼を得て、豊後や筑後の守護に任じられ、その子孫が豊後に土着して勢力を広げる。大友一族の21代になる、大友義鎮(おおともよししげ)(のちの宗麟(そうりん)は豊後を拠点に豊前、日向、肥後、筑前、筑後と北九州6カ国を制する強大な戦国大名に伸上がった。永禄6年(1563)宗麟は豊後府内(ふない)の城を嫡男の義統(よしむね)に譲り三方を海で囲まれた臼杵(うすき)に城を建て拠点を移した。


大友宗麟(JR大分駅前)

 ザビエルポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ豊後(大分(.)に行き大友義鎮(のちの宗麟)と会見し、キリスト教の布教が許可される。ザビエルはわずか2ヵ月で府内を去るが、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を遣わし(.)翌年から多くのポルトガル人宣教師がこの豊後府内に訪れるようになり(.)フランキ砲・火薬の軍需品や西洋の音楽や西洋医学も積極的に導入され病院を建て(.)領内の医療を高めた。その反面、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)もあったという(.)南蛮船の寄港もさることながら、自ら積極的に中国や東南アジアとも交易を行い蓄積した経済力を背景に(.)北部九州6ヶ国の守護職を任じられ最盛期を迎えた(.)
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 ザビエルが上陸してから10数年後の永禄年間1558~1570)における九州の布教の中心地は豊後の府中と肥前の大村領であった(.)冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽したルイス・アルメイダ修道士は(.)しばし両地を往復し、たびたび大友宗麟に謁見し、その時、筑後の秋月で秋月種実(あきずきたねざね)謁見(えっけん)し秋月で布教している(.)アルメイダ書簡によると、元亀元年(1570)4月には高良山(久留米)に本陣を置き肥前の龍造寺隆信を攻めていた大友宗麟を訪ね(.)肥前の教会や信徒の保護を依頼したのち、大友の武将、戸次道雪(べっきどうせつ)臼杵鑑連(うすきあきはや)吉弘鑑理(よしひろあきまさ)(高橋招運の父)陣営を訪ねている。その途中、前年、秋月種実(たねざね)を訪問したとき洗礼を授けた武士が、その陣に美しい十字架の旗を掲げているのを見ている(.)元亀2年(1571)、大友の重臣、戸次道雪は筑前国の国際貿易都市=博多をのぞむ立花城督に任命され一人娘の誾千代姫(ぎんちよひめ)と入城する(.)博多湾にポルトガルの交易船により異国から来る最先端の物珍しい品々を見聞する事になる(.)天正2年(1574)7月には交易船によって、宗麟に贈る虎の子4匹が博多港に送られている(.)しかし道雪は主君の宗麟がキリスト教にあまりに傾倒し大友家臣団の離反(りはん)を忠告するなど、ためらいなく暴挙や失敗を諫め 、キリスト教には厚意をしめさなかった(.)天正9年(1581)誾千代に家督を譲り高橋紹運の息子、統虎(とうとら)(のちの宗茂)を娘の婿に迎えて養嗣子とし、翌年に立花姓を名乗る(.)
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フランシスコ・ザビエル
(神戸市立博物館所蔵)
  天文12年(1543)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し(.)鉄砲が伝来した。堺商人らの手により全国に普及し,戦国大名の主要な武器となった(.)6年後の天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸し、布教活動を許され(.)その後、平戸で布教後、周防国(山口)を経て応仁の乱で荒果てた京都に至るが、将軍や天皇との会見はできなかった(.)失意の一行は天文20年(1551)に周防国の大内義隆(よしたか)に再び会見し、天皇に用意していた献上品の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃をあげた(.)
      博多と島原・平戸のキリシタン      アルメイダ街道(豊後~朽網(くたみ)~小国~山鹿~高瀬)
  鹿児島に上陸し、わが国にキリスト教を初めて伝えた翌年の天文19年(1550)フランシスコ・ザビエルが平戸から山口に向かう途中(.)海路、博多にたどり着きキリスト教が伝わる。博多は7~8世紀に大陸へ派遣された遣隋船(けんずいせん)や遣唐船の出発港であり、のちの時代でも大陸との交易で多数の商人が博多を訪れる大陸文化の窓口、玄関であった。弘治2年(1556)大友宗麟(おおともそうりん)ドン・フランシスコ)が支配していた博多で、イエズス会に教会と司祭館を建設する為の土地を与え布教活動を保障した(.) 建設された教会でバルタザール・ガーゴ神父が宣教を開始した。しかし、永禄2年(1559)2月、勝尾城(現佐賀県鳥栖市)に拠る筑紫惟門(ちくしこれかど)の博多焼き打ちによって教会等は罹災(りさい)し、宣教師は豊後に避難しました。アルメイダの書簡によると博多の教会は常に不安定な状態で、これに対して豊後・島原・平戸のキリシタンはよく信仰を守っていたので(.)大友宗麟全盛期の1550年~1580年では神父達は豊後の府内―野津原―朽網(くたみ)直入長湯(現在の直入町)―久住―産山・田尻―南小国・満願寺―小国・宮原―小国・杉平―中津江―兵戸峠(ひょうどとうげ)―菊池・上木庭―山鹿―高瀬(玉名市(.)に至る山越えの陸路を4日間の工程で有明海の高瀬港に出ており、この道をアルメイダ街道(キリシタンロード)と呼ばれている(.)宣教師アルメイダは「街道で一夜の宿をとった所では毎夜(.)私たちの話を聴こうとする異教徒たちに説教した」と記載しており街道沿いには多くのキリシタンが居たとされキリシタン墓碑などが残されている(.)4日で大友支配下だった高瀬(熊本県玉名市)に至り3日間滞在し、船で有明海を渡り島原・口之津・平戸に巡回していた(.)しかし博多のキリシタンは2年後の永禄4年(1561)に自費で教会を再建した(.)元亀元年(1570)には博多は復興して3500戸とある、人口も1万人を超えたとある(.)これが天正7年(1579)には、7千戸を超える復興ぶりを見せている(.)フランシスコ・カリアンの耶蘇会総長宛に送った書翰には「家屋は7千戸以上あれど、キリシタンの数は、まだ300人に達せず」とある(.)当時の宣教師達の報告によれば、「博多は商人の町で九州で最も富裕(ふゆう)な町である。そして有力商人を中心とする自治が行われている(.)その博多商人は容易にキリスト教を受け入れず、日本一布教のやりにくい土地である」とある。天正4年(1576)にフィゲレイト神父が博多に着任している(.)

豊臣秀吉



長崎の殉教図 
  天正4年(1576)大友宗麟は日向の耳川で島津に大敗し(.)かつては大友氏の配下であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵攻されていった(.)博多の神父も大村領に引揚げキリシタンは放置状態となる。しかし龍造寺軍は天正12年(1584)、島原半島での沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津有馬連合軍に敗退し、龍造寺隆信が戦死すると()島津軍は九州制覇を目指し北九州に侵攻して繁栄を極めた国際貿易都市 豊後府内は灰燼(かいじん)()してしまう(.)大友宗麟は、上洛し豊臣秀吉の臣下につき、島津氏征伐を依頼した(.)天正7年(1579)には、博多は7千戸を超える復興ぶりを見せている(.)ガスカル・クェリヨの書翰には(.)せっかく復興した博多も天正9年(1581)、龍造寺軍が豊後に出征した時に聖堂は破壊され(.)町にも火を放ち短時間で焼けて灰となる」とある。秀吉が陣を敷き博多復興の町割を命ずるまで、廃墟の町であったろう(.)
    
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 天正15年(1587)6月7日(.)豊臣秀吉は九州征伐から筑前の箱崎(福岡県福岡市東区)に滞陣し、薩摩の島津攻略の勲功として九州各地に大名を配した(.)
6月19日秀吉はキリシタンが一向宗や国人以上の脅威となりうると感じ、突如「バテレン追放令」を発した(.)このときイエズス会は報復措置として、ポルトガル船に対し長崎渡航中止を勧告しました(.)以来ポルトガル船の来航は一時途絶え、秀吉はイエズス会とポルトガル貿易の切り離せざることを否応なく思い知らされた(.)南蛮貿易によってもたらされる利益や物品は魅力があり(.)ポルトガル商船とキリスト教は深い結びつきがあり禁教令は不徹底なもので(.)秀吉の支配体制に反しないかぎり、密かな布教は黙認されていた。しかし慶長元年(1596)(.)土佐国浦戸港にサン・フェリペ号が漂着しスペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインにとって領土拡張の手段である(.)と発言し(.)秀吉は激怒し京都で活発に活動していたフランシスコ会宣教師らを捕まえ(.)司祭・信徒合わせて二十六人を長崎の西坂の丘で処刑した(.)また徳富蘇峰の『近世日本国民史』には秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録には(.)キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに(.)火薬一樽で50人の日本人娘らが売られていった、奴隷売買の悲劇の記載があるが、秀吉(.)これを準管区長コエリヨに抗議し「日本人奴隷の売買を止め(.)海外のすべての日本人を帰国させろ」と命じたが、従わなかった事も処刑した一因といえる(.)一時、博多での布教は退勢に向かうが、慶長3年(1598)秀吉が亡くなったのちの(.)慶長5年(1600)にキリシタン大名であった黒田シモン如水=孝高の子黒田長政(ながまさ)が新たに筑前に入封すると2年後には博多教会が建設され、多くの藩士や商人たちが入信した(.)長政は父の黒田官兵衛シメオン)や叔父黒田直之(なおゆき)パウロ)の勧めにより、徳川幕府のキリシタン禁令が出される慶長18年(1613)までキリスト教を保護した()

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鎌倉時代の博多をあらわした博多古図・ 箱崎八幡宮や住吉神社それに聖福寺がある。聖福寺は日本で最初の禅寺で栄西禅師は宋(中国)より「茶」を持ち帰り、当寺境内や背振山などに植えて、 各地に広めました(.) 
(絵図は地下鉄呉服町駅近くの案内看板より編集) 
      (秋月のキリシタン)
 戦国時代末期に秋月にはキリシタンに寛大な秋月種実などの武将がいた(.)また末次興善善入コメス)という、博多、長崎、堺などで豪商として活躍していた()永禄12年(1569)興善は医師でもあるアルメイダ修道士を紹介して武将など30人に洗礼を授けた(.)末次コメスの屋敷裏には小さな教会があって(.)宣教師達は博多から時々秋月の教会を訪れた。慶長5年(1600)の終わり頃()甥の黒田長政が筑前福岡藩主になり、黒田惣右衛門直之ミゲルが秋月の大名となると信者の数が増え始めた(.)慶長9年(1604)ガブリエル・デ・マトス神父と山・ジョアン修道士がそこに住むようになってから(.)成果があって新しい教会とイエズ会の住まいが建てられた(.)ガブリエル・デ・マトス神父と山・ジョアン修道士は柳川の信者も訪れ(.)筑後藩主の田中吉政に土地をいただき教会を建てている。秋月では黒田惣右衛門直之)の手厚い保護が実って1000人程が洗礼を受けた(.)翌年には上秋月と甘木に教会が完成し、信者が増え続けた(.)慶長15年(1610)黒田惣右衛門が死亡すると長男のパウロ長門が受継いだが、2年後の慶長17年(1612)に亡くなり(.)領地は筑前守の手に戻って教会は幕を閉じた(.)寛永元年(1624)黒田長政の息子の長興(ながおき)が秋月藩5万石を立藩している(.)秋月郷土史館には、博多・長崎で活躍した商人である末次興善善入の屋敷跡から明治時代中ごろに出土したといわれているキリシタン燈籠(とうろう)(織部燈篭)が保存されている。秋月キリシタン信仰を伝える文化遺産である(.)

キリシタン燈籠(.)
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            平戸港~横瀬浦~福田の浦~長崎港の開設
 永禄4年(1561)に平戸港で絹の取引上のトラブルが、こじれてポルトガル人の総司令官が応援に駆け付ける騒ぎとなり(.)領主松浦氏の家来たちが総司令官および13名のポルトガル人を殺害する「宮の前事件」が起こると(.)領主の松浦氏と不和となりポルトガル人は新しい港を探し始めた。翌年の永禄4年(1561)、肥前の大村純忠(すみただ)は大村領は弱小では、肥前佐賀の龍造寺隆信による威圧から、防御する(ねら)いもあり自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)の港を提供し、イエズス会士に対して住居の提供もした(.)ポルトガル船のもたらす富や武器を手に入れるという目的があったとされる。この年に宣教師・フロイスが横瀬浦に上陸している(.)彼は生涯日本にとどまり、布教の傍ら、信長秀吉らと謁見し、多くの「日本史」を書いている(.)(現在、全12巻が松田毅一・川崎桃太の訳で中央公論社から出版されている)大村純忠の兄の有馬義貞アンドレス)も洗礼を受け島原半島の南端にある口之津港を南蛮貿易港として開港した(.)永禄6年(1563)には大村純忠ドン・バルトロメ)は日本初のキリシタン大名となり(.)領民にもキリスト教信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民を殺害されたりし(.)家臣や領民の反発を招き、反乱を起こされ横瀬浦が焼き払われた為に、領内の「福田の浦」に港を開いた(.)元亀元年(1570)純忠は福田より港として地形の良い長崎の地に南蛮貿易の港を新たに開き、以来、長崎は急速に発展してきた(.)南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心だが、貿易品だけでなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本の文化に大きな影響を残した(.)天正8年(1580)にキリシタン大名の木村純忠は長崎の地とその付近の土地をイエズ会の知行地として寄進した(.)天正10年(1582)島原の口之津港から大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代として、伊藤マンショ(宗麟の名代)、千々石(ちぢわ)ミゲル純忠の甥)、中浦ジュリアン原マルチノの4人の少年がヨーロッパのローマ教皇のもとに派遣さた(.)彼らは"天正遣欧使節"と呼ばれ、一行は、マカオ、ゴア「インド)を経て、喜望峰(きぼうほう)(南アフリカ共和国ケープタウン)を廻り、2年半後にヨーロッパに上陸。1585年3月にローマに入り、同月23日(.)ヴァティカンにてローマ教皇グレゴリオ13世謁見(えっけん)を賜った。4年後には帰国したがキリスト教は禁止されようとしていた。しかし彼らが持ち帰った西洋式活版印刷機と印刷技術は日本で大きく貢献しました(.)天正12年(1584)には島原のキリシタン大名の有馬晴信(ドン・バルトロメ)が長崎の隣村浦上村一帯を寄進した(.)一方、豊後のキリシタン大名大友宗麟天正6年(1578)の耳川の合戦で島津氏に敗れて以来、勢力が衰え(.)長崎の町が豊後の国府に代わってキリシタン文化の中心となり、定期のポルトガル船は長崎のみに来航するようになった(.) 臣秀吉が九州を平定すると、教会へ寄進されていた貿易港長崎は、秀吉により取り上げられてしまいます(.)続く徳川幕府でも長崎は幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました(.)その後、鎖国を迎え、長崎は唯一西洋との窓口として栄え、その基礎を築いたのが大村純忠による長崎開港であった(.) 南蛮貿易で経済発展していた長崎からは海外の様々な物・技術・文化が伝わった(.)食文化に大きな影響を与えた黒砂糖は仕入値は100斤につき4、5匁で、売値は約10倍の40匁~60匁で売ることができ、(.)需要の少ない白砂糖でも仕入値は100斤につき15匁で売値は30匁~40匁で取引され日本各地へ広がった(.)布教のために配布したとされる南蛮菓子を起源に持つ、丸ぼうろ(bôlo)・カステラ(castelo)・金平糖(こんぺいとう)(confeito)・有平糖(alfeloa)・カルメ焼き(caramelo)・カスドー(doce)・ビスケット(biscoito)・パン(pão)鶏卵(けいらん)そうめん(fios de ovosフィオス・デ・オヴォス、卵の糸)といった甘いお菓子が誕生し全国に広まり、長崎周辺で真似た菓子製造業も盛んとなる(.)
 
 1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された肖像画、
メスキータ神父と教皇グレゴリウス13世から
贈られた服を着た天正遣欧使節の少年4人
 
イタリア北部で発見された個人所蔵の
天正遣欧使節・伊東マンショの
ベネチェア共和国時代・来訪記念の油彩の肖像画
      筑後地方のキリシタン信者(豊臣秀吉時代)
 本格的に筑後で布教が開始されたのは天正4年(1576)フィゲレイト神父が博多に着任して筑前、筑後(.)豊前の世話をするようになってからで、2年後の天正6年(1578)モウラ神父が筑後を訪ねたとき、約400人の熱心なキリシタンを見出している(.)彼はその訪問で240人に洗礼を授けたので、キリシタンは約600人となり新たな会堂が必要となった。そして天正15年(1587)6月(.)豊臣秀吉は九州征伐から博多に滞陣し、薩摩の島津攻略の勲功として九州各地にキリシタンあるいは容認した大名を任じたことより盛んとなる(.)筑後では、①毛利小早川秀包(ひでかね)は久留米城を拠点として、山本・御井・上妻・三潴4郡の63ヶ村、35,000石余を領し。(.)筑紫広門は山下城を拠点にして、上妻郡53ヶ村、計18,000石を領し、③立花宗茂は柳川城を拠点にして、山門・下妻・三潴196ヶ村計18,000石を領し、(.)宗茂の弟高橋直次(妻は広門の娘)は三池陣屋を拠点にして、三池郡29ヶ村、180,100石を領することになった(.)特に秀包は熱心なキリシタンであり、広門も好意的で朝鮮から帰国してからキリシタンの洗礼を受けるつもりであった(.)宗茂は慎重で養父の道雪の心情と同じくキリスト教には興味は無く、豊前や豊後から連れて来た家臣達にはキリシタンが多く、黙認していたであろう(.)
     (久留米毛利藩(.)
 久留米地方の領主となった毛利小早川秀包(ひでかね)は、豊後中津の城主のクリスチャン大名の黒田官兵衛孝高(すけたか)シメオン)の導きによって洗礼をうけた。秀包シマオ・フィンデナオ)の正室は大友宗麟の娘の桂姫マセンシア)である(.)秀包の兄で筑前一国と筑後、肥前の数郡を領有した小早川隆景(こばやかわたかかげ)は秀吉政権では五大老であり禁令を恐れてキリシタンには不親切となっていたので、筑後の布教も慎重さが必要であった(.)天正17年(1589)6月久留米では秀包夫妻に生まれた息子(元鎮(もとしげ)の洗礼の為に要請した、ルイス・フロイス神父(日本史の著者)が修道士、近江ジョアンと1人の同宿を同伴して来訪した(.)城主の秀包はさっそく彼らに滞在中に必要な米を城から5人の男に運ばせ、その他の者たちには地酒、その他の品を携えて彼らを訪問させようとした(.)だが桂姫マセンシア)の乳母カタリナは、司祭と修道士の接待は自分がやるので必要ないと言い、120人の貧しい人たちを呼んで、殿からの贈り物をすべて分配した(.)そして乳母はさっそく自分の新築の部屋に、ミサを奉献するための祭壇を準備させた。姫のマセンシアは司祭たちが到着する前日は(.)父の大友宗麟が逝去して2年目に当るが、ここには教会も司祭もいないので追悼ミサを催す代わりに貧困者の群衆に食事を与えるようにと命じた(.)洗礼の日に赤ん坊は祖父(大友宗麟)と同じようにフランシスコの教名が付けられた(.)秀包ははその洗礼式の後、司祭を自らの館に招いて夜半近くまでデウスのことについて種々語り合った(.)司祭の数日の滞在中、教えを学んだ24人の侍が洗礼をうけている。告白をする者は、はなはだ多く司祭は日中と夜の大部分を費やした(.)マセンシアは女中たち全員と一緒に告白した。司祭が久留米に来ている事を知った博多の古いキリシタンたちは(.)10里ないし12里の道のりにもかかわらず妻子を連れて来て告白し聖体を拝領した(.)城主秀包は司祭たちが帰る二あたって6~7里ある瀬高の港まで警備の兵を伴わせて見送らせた(.)
(フロイス日本史11西九州篇Ⅲより転載)
 天正20年(1593)
太閤秀吉の命により、秀包は本家の輝元と共に朝鮮に出陣した(.)この時多くのキリシタン大名が従軍している。毛利秀包小西行長アウグスティヌス)、大村喜前サンチョ)、有馬晴信プロタシオ)、黒田長政ダミアン)、また伊東マンショの仲介で(ゆる)しを受け、キリシタンに復帰した大友義統、および朝鮮で長子の直門が洗礼を受け、自らも帰国後の受洗を約束した上妻郡山下の山下城主の筑紫広門(ちくしひろかど)である。文禄3年(1594)、明国と和議が成立し将兵が朝鮮から戻った。文禄4年(1595)のイエズス会年報に7度の巡回記事がある(.)そのうち4回巡回は島原を出た神父達は、久留米に行った(.)そこでは堺出身のディオゴ、京都出身のロケというキリシタンが、日曜日や祝日に周辺のキリシタンを集めて教えを説いおり(.)訪れた神父からも教理について教えを受けた。この頃の久留米周辺のキリシタンは約300人(.)このあと神父達は、約5Kmほど離れた所に、大友義統が改易された為、豊後から移り住む(.)大友宗麟の後妻ジュリアを訪ねて、大いに喜ばれ家の者や侍女たちが告解(罪の(よる)しを得るのに必要な儀式)をした。ジュリアは、のちに長崎へ行っている。それから神父達はナカ(現・久留米市北野町(.)で7人に洗礼を授けたのち秋月にむかっている。 慶長4年(1599)の「イエズス会年報」によると(.)秀包の好意と模範によりこの地方のキリシタンはおよそ4000人に達しレモウラ神父と2人の修道士が豊前の黒田長政(ながまさ)の領内のキリシタン達といっしょに世話していたが、まだ久留米に教会を建設するまでに達していなかった(.)慶長5年(1600)前半に伝道所が開設されレモウラ神父と修道士が駐在した(.)久留米城下に薩摩から運んだ材木で住院のついた天主堂が建設される(.)このほかにも、町のキリシタン達がもう一つの教会を建てていた。そこでもしばしばミサが挙げられ、説教が行われた(.)秀包の熱意に支えられ久留米の布教は進展し最盛期をむかえ、久留米とその周辺のキリスト教信者は7,000人いたと言われる(.)この年の夏に関ヶ原の戦いが起きた。キリシタン大名は東西に分かれて戦った。有馬晴信大村喜前黒田長政らは東軍に筑後の毛利秀包立花宗茂(.)筑紫広門(上妻郡)、肥後の宇土城主の小西行長らは西軍として出陣した(.)この戦いで敗北し城を明渡した秀包妻子と神父たちは秋月の黒田惣右衛門の手で保護された(.)しかし久留米の教会は破壊され、指導的なキリシタンは追放された。後日キリシタン侍の多くは黒田長政に仕え、少数の貧しいキリシタンだけが残った(.)
 
毛利秀包が建てたとされる教会復元模型

教会正面復元模型
(久留米城下町、両替町遺跡、久留米市調査報告書より転載)
・・・・第4回巡回  島原久留米ナカ(北野)秋月下関山口
第5回巡回  柳川久留米上妻郡山下肥後
・・・・・、、、          
       (1595年版「イエズス会年報」ルイス・フロイスの書簡より)
      上妻郡・山下城主・筑紫広門
 それから久留米から約15Kmほど離れた所に住む、山下城主・
筑紫広門(ひろかど)の家臣の招きで神父が訪問し、歓迎された。その他の人にも城主の広門も朝鮮で説教を聴いたことを話し(.)大勢の人達を説教所会に集めた。キリシタンの教えを理解し、70人ほどの人達が洗礼を受けた。彼らは仏教を捨てたしるしとして、仏像や数珠を焼くために神父のもとに持ってきた(.)筑紫広門は、この年の第1回巡回で、朝鮮に渡ったセスペデス神父とファンカン修道士の説教を聴き、よい理解を示した(.)広門の嫡男(主水正広門あるいは従門、晴門とも))と数名の重臣が洗礼を受け(.)また広門自身も、帰国したら神父を招き洗礼を受けると語った(.)長女の加祢(養福院)は高橋招運の次男で宗茂の弟である立花直次高橋統増)の正室として嫁いでいる(.)次女はキリシタン大名の黒田長政の側室として嫁いでいる。広門は嫡男が有馬晴信の娘と結婚するのを望んでいたのである(.)しかし秀吉の死と、関ヶ原の戦いで敗退し改易され、彼の夢は破れ剃髪(ていはつ)して、加藤清正を頼り、加藤家改易後は細川氏を頼った(.)

      (柳川立花藩
 天正15年(1587)大友宗麟が死没。筑前の立花城の立花統虎宗茂)は転封され、柳川地方の領主となり柳川城に入城した(.)天正17年(1589)宗麟の嫡男の大友義統(よしむね)コンスタンチノ)が秀吉のバテレン追放令に恐れ棄教した為に、300人のキリスタンが筑後に逃れたと言われる(.)
   フロイス神父の日記には天正17年(1589)、久留米藩の秀包の息子の洗礼が終わり、別れる時(.)家臣に命じ6時間もかかる瀬高の港まで 神父達を送らせた(.)港には豊後が破滅したために立花宗茂の領地(柳川藩)に来ていた身分のある8人ないし10人の貴婦人達が伝言をもたらした。彼女たちは夫と共に柳川の城にいたのである(.)その城主(宗茂)は異教徒であり、城は瀬高の港から2里は十分には離れた所にあった()彼女たちは、聴罪師がおらぬので、すでに3年間も告白をしていなかったから(.)司祭が瀬高の港を通過することを聞くと、歩いて来て、すでに早朝から告白する準備をしていた(.)彼女たちの中には、豊後が破滅した時にキリシタンになって、まだ告白をしたことがなかった者もいた(.)そこで司祭は、彼女たちが宿泊していた異教徒の家に一人の同宿を遣わして告白の仕方について指導させた(.)司祭は乗船を見合わせて(.)その日の残り時間を彼女達の告白を聴いたり信仰の教えについて激励したりして時間を費やした()マリアという既婚の老いた貴婦人が、彼女達の案内役として来ていた(.)
彼女は昔からのキリシタンで信仰は活発で熱意に溢れ、一行の婦人たちにとって多大の慰め、また支えとなった(.)彼女は司祭に「城主と城中の方々は異教徒ですが、私は主人や他のキリシタンたちと(.)我が家の裏手の薄暗い好都合な場所に聖堂を建てることで相談しました(.)ここにキリシタンたちが集まって祈ったり、またどなたか伊留満(修道士)様が変装してお出ましならば、その場で密かに城の幾人かの貴人たちに教えを説く事もおできになりましょう(.)貴人たちにには聖なる教えの説話を聞くようにと説得してあります(.)ですが私たちは追放されている身ですし充分な力がないので副管区長様に(.)せめて聖堂のために聖画像と祭服だけはお送り下さるようにお願いします。」と(.)婦人たちは皆、良い機会が得られて告白することができたとで喜び慰められて柳川に帰った(.)司祭一行は船で江の浦へ進んだ。ここは仏教徒であるが(.)キリシタンに理解ある高橋直次(立花宗茂の弟)の城があり、直次は 神父達を城へ招いたがフロイス神父は秀吉に対する彼の立場を配慮して、それを辞退した(.)江ノ浦や渡瀬にもころび切支丹を監視した庄屋役の文書が存在するのでキリシタンが、住んでいたと思われる(.)また三池藩にもキリシタンの伝承が残っている(.) 
                (大友義統(よしむね)の妻・大友菊子・ジュスタ
 一方、
宗麟の嫡男、大友義統(よしむね)コンスタンチノ)は文禄2年(1593)、朝鮮の役鳳山城(ほうざんじょう)を離れ救援役を放棄する失態を犯し、秀吉逆鱗(げきりん)に触れ、豊後国を改易され江戸(徳川氏)や水戸(佐竹氏)や山口(毛利氏)に身柄を預けられ、大友義統の幽閉状態が続き一家は離散した(.)長男の義乗加藤清正の預りとなり、正室の大友菊子吉弘鑑理(あきまさ)娘、洗礼名・ジュスタ)と子供達は吉弘善兵衛鑑広(菊子の父鑑理の弟)あるいは田崎保時らのお供で豊後を離れ柳川城主となっていた(おい)宗茂の元を頼ったという。菊子と子供は禅院村(瀬高町広瀬)に屋敷を与えられ身を寄せる。しかし苦労がたたり、翌年の文禄(ぶんろく)3年(1594)11月5日に死去した(.)禅院村の山中に葬られた。戒名は「尊乗院殿日正妙智大姉之塔也」(.)お供した田崎保時は栁川領地の北大木村(瀬高町大広園)に寄寓している。北大木八幡神社前の子飼(こがい)観音様(マリア観音)(.)その当時のものであると伝えられている禅院村の建仁寺は戦国期の天正7年(1579)に佐嘉の龍造寺軍勢により山下城主蒲池鑑広(あきひろ)を攻めた際に寺は焼き尽くされ旧記(.)寺宝も佐嘉に持ち去られたが、下妻郡溝口村に寺領(所領)20石が与えられ僧の住む「禅院相寄坊」で寺の務めをしていた(.)宗茂文禄4年(1595)に柳川に近い瀬高の下庄の法華経の本浄寺を新しく移築し墓を建て戒名「尊寿院日正大姉 霊儀」とし寺名を戒名(かいみょう)から尊寿寺と称した(.)享保5年(1720)に立花家により菊子の墓がある近くに建仁寺が再興されたという。息子の男也(おとや)吉弘統幸(むねゆき)に付き添われ宗茂の家臣で鷹尾城(現・柳川市大和町)米多比鎮久(ねたびしげひさ)に預けられ、同所の鷹尾大宮司の宅内に一棟を新設し大宮司に養育される。文禄4年(1595)疱瘡(ほうそう)を患い慶長元年(1596)、僅か7才で世を去った。瀬高の上庄の来迎寺の誠誉上人が引導して来迎寺に葬った。また娘の阿西(おにし)(洗礼名マキゼンシア)は、しばらくして長崎に行き、浦上渕村に逃れていた大友の元重臣志賀親成(ちかなり)を訪ね、尾崎屋敷に迎えられた。長崎に逃れていた祖母・ジュリア(大友宗麟の後妻)に引き取られたともいう(.)阿西は桑を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ、近隣の娘達にそれを教え、また、行儀作法も教えていた。村里では「桑姫(くわひめ)」と呼ばれたという(.)寛永4年(1627)、姫が病死すると、尾崎の地(竹之久保)に塚が築かれた( )竹之久保の、元砲兵隊跡にあった「大友家 桑姫御前(くわひめごぜん) 塚」と刻まれた塚は、明治33年に淵神社に移され、桑姫神社に納められている(. 慶長5年(1603)立花宗茂は夏の関ヶ原の戦いで西軍として出陣したが破れて、柳川城を明渡して、加藤清正の領地に保護さたのちに徳川家康に認められ(.)まもなく東北・福島の棚倉藩3万石を与えられ藩主に復帰した宗茂は、大阪の陣においては、秀忠の参謀として働いている(.)
 
 
建仁寺の菊子の墓
 
瀬高・尊寿寺の菊子の墓(分骨)

来迎寺の息子の男也の墓 


北大木の子飼(こがい)観音堂(マリア観音)
 文禄4年(1595)のイエズス会年報の第5回巡回の記事では、立花宗茂の城下町柳川に、豊後から逃げてきた人達によって、キリシタン集団が出来ていた(.)彼らは身分の高い人達であり、一軒の家を礼拝堂のように仕立て(.)皆が集まって信仰していた。彼らの要請を受けて(.)神父と伝道士が柳川を訪問するとキリシタン達は信仰を失いかけている者にも呼びかけて告解(罪の赦しを得るのに必要な儀式)の為に集まってきた(.)他宗教の者も説教を聴きに来たので、神父達はその中の40人に洗礼を授けた。それから久留米に行ったが大勢のキリシタンが告解に来たとある(.)
       江戸初期の筑後藩主・田中吉政のキリスト教政策

  慶長6年(1601)、関ヶ原合戦で東軍(徳川軍)が勝利し田中吉政(.)筑後国の大名となったが、キリシタンに対しては極めて寛容(かんよう)であった為に、さらに豊後からのキリシタンが多く移ってきた(.)筑後から神父達は島原・長崎に通う海路を計画した。久留米からは筑後川を下り(.)榎津(大川市)の港から有明海に出て(.)柳川方面は瀬高(下庄談議所)の港から有明海に出て、島原・長崎方面にいく航路を使用した(.)そこには古くから柳川と長崎との交易が開け、消費都市である長崎における物資は、主として筑後地方で調達され(.)長崎の外町の中に筑後・柳川地方の人達によって開かれた交易に関わる商人の町があり(.)筑後の榎津産(現・大川市)の家具を移入して販売する家具商、指物の職人が移り住んだことにより出来た榎津町(えのきづまち)や筑後方面からの移住者してきた商人たちが多く住んだ町に名付けられた(.)筑後町が慶長5年(1600)の頃にはあったと言われる(.) イタリア人のレオン・パジェスが書いた「日本切支丹宗門史(.)(吉田小五郎訳)にはキリスト教に好意を示す大名として、前田利長福島正則細川忠興(ただおき)黒田長政らと共に田中吉政があり(.)慶長7年(1602)、秋月のガブリエル・デ・マトス神父と山・ジョアン修道士は柳川を訪れ(.)筑後藩主の田中吉政に土地をいただき伝道所に宛てた(.)慶長10年(1605)には久留米や柳川には素晴らしい信者団体があったとある(.)田中吉政は好意を示し天主堂用の土地を寄進した(.)諸侯は皆、進んで説教を聞きに来た。柳川には司祭と修士1人ずついて、1400名の受洗者がいた。」とある(.)また同年のイエズ会報告書にも「領主(田中吉政)と彼のすべての重臣たちは、司祭たちが柳川に行くと(.)手厚くもてなし挨拶をし、司祭たちと教会をたいへん好遇してくれる。本年、彼は良い地所を彼らに提供し(.)そこに教会と、司祭が1名その藩庁に常駐できるのに必要なすべての宿泊施設が建設された(.)」とあり柳川城下にイエズ会の教会が田中吉政の時代に設立されたことがわかる(.)
 ヨハネス・ラワレス著の「筑前・筑後のキリスタン」には、慶長12年(1607)(.)準管区長フランシスコ・パシヨは博多から黒田惣右衛門の居る秋月へ行き、新築された教会堂で(.)最初の守護聖人の祝日を祝ったあと柳川に新しく設立された伝道所と、領主田中吉政を訪問する為に柳川にむかった。途中の久留米でも(.)途中いたる所で熱狂したキリシタンに歓迎された。柳川に着くと、教会がつくられ、キリシタンにより西洋音楽や美術工芸品などが伝わっていた(.)田中吉政パシヨに歓迎のあいさつをし、城へ招いた(.)パシヨ管区長の一行を柳川城の撥ね橋のところまで出迎え、食事の時は神父を上席にすえ誠実に行き届いた応対をした(.)次の日曜日、吉政は大勢の供を従え教会を訪れパシヨに銀20枚を贈り、すべての神父と修道士にも進物を贈った(.)そのほかに、祭壇を飾る像のためにと多額の寄進をした。ミサはできるだけ華麗に、音楽をつけて行った。ミサが終わると修道士の一人が説教をした()礼拝が終わると、教会で神父達と共に食事をと. り洋楽の演奏を聞いた(.) 食事が終ったとき吉政は楽. 器を一 つ 一 つを手に取ってゆっくりと調べ(.)大変音楽. を褒めた。そして手風琴(órgão・手回しオルガン)が弾かれるのを聞くと、「心が感動し、御仏の前にいるような気がする」と言った。」とある(.)フランシスコ・パシヨの訪問を受けた吉政は、筑後のキリシタンを十分に保護すると確約したと伝えられる(.)当時のイエズ会記録には柳川城下には新たな司祭館が設けられ、司祭1名と修道士1名がキリシタンの世話にあたり、最近の2年間で新たに1400名の改宗者をえたとある(.)レオン・パジェスも(筑後の領主、田中筑後殿は、我が身に降りかかる危険を顧みず、教えを称賛し、臣じゃには絶対の平和をあたえていた(.)彼は家老の1人がキリシタンを苦しめたといって、死刑に処した。彼は公然好意を示した唯一の大名であった。」と高い評価を与えている(.)しかし、キリスト教は徳川幕府により禁じられることになる。
  慶長5年(1600)、長崎領主の長崎甚左衛門純景(すみかげ)ドン・ベルナンド)は大村純忠(すみただ)バルトロメオ)に従属していたが、徳川幕府成立後の慶長10年(1605)、代官村山等安らの献言によって、内町・外町とに区別され(.)外町の長崎氏領が大村領として換地されるに至った(.)ここにおよんで、長崎氏はまったくその所領を失い、長崎を立ち去り田中吉政に仕えている。吉政甚左衛門に2300石を与えた(.)慶長14年(1609)吉政江戸に向かう途中に京都伏見で没した(.)吉政がキリスト教徒であったという資料はないが柳川の田中山(でんちゅうさん)・真勝寺は、埋葬の目印の石を中心に建立され、本堂自体が吉政公の墓であり、その目印の石の真上に御本尊が安置される(.)四角錐のその石は、キリスト教徒の高位者にしか使用しないといわれるピンクの石であり、上面には十字がきられたように見える(.)「筑州太守従四位下桐巖道越大居士神儀」が戒名ですが、9文字目に使われている()桐」はキリシタン大名によく使われる文字です。今でも参拝者の6割がキリスト教信者だそうです(.)土木の神様と呼ばれ、現在の柳川の景観の礎を作った吉政公はクリスチャンだったとみられる。(吉政の墓については柳川1000物語引用(.) 真勝寺本堂下の田中吉政の墓 
 後継の嫡男の田中忠政(ただまさ)も禁教のなかキリシタンを保護し、イエズ会士を厚遇し、そのため慶長17年(1612)に幕府の禁教令のなか、200人が受洗し、禁教令後の同19年(1614)にも40人の受洗者があった(.)この年、筑後では弾圧による殉教者はいないが、島原半島の口之津での殉教者には筑後出身のトマス・寺町ペトロ・樺島トマス・平井の3名がいた(.)また元和3年(1617)に殉教したルイス・久住は瀬高の人であった(.)
  この年、柳川では、パウロ坂井太郎兵衛という熱心な信徒が、奉行の石崎若狭の棄教命令を拒絶して投獄され(.)彼は獄中において山伏2人を含む6人に洗礼をさずけている。のちに山伏2人は山伏の仲間に引渡され、彼らに投石で惨殺され殉職した(.)ちなみに、柳川市矢加部662付近にある通称山伏塚(やんぼしずか)は太田川の右岸にあり(.)南面して野バラが植えられていたので古くからキリシタン墓の伝承が残っている(.)まもなく、彼らを導いたパウロ坂井も柳川の刑場で斬首され殉職した。ある村の庄屋でトマスというキリシタンは、役人に呼びだされて、信仰について詰問(きつもん)され、村のキリシタンの名を呈出しなかったので、とがめられた。けなげな庄屋は「私はキリシタンですし(.)いつまでも変わらないでしょう。ほかの人のことは心配に及びません。どうせ私が生きている間は、デウス(神)のがラサ(恩寵(おんちょう))をもってほかの人達がヒデス(信仰)を守っていくように助けてやろうと思いますから」と答えた。役人は威嚇(いかく)したが庄屋は動ぜず、ついには藩主の不興を買うことを恐れて彼を放任され、ほかのキリシタンも平穏な生活ができた(.)
矢加部の山伏塚
 藩主の忠政はキリシタンをひどく苦しめる役人を非難し、少数のキリシタンには信仰を許していた(.)しかし元和5年(1619)には、ついに忠政は教会と住院の破壊を命じた。現在、その教会がどの場所にあったか解っていない(.)元和6年(1620)忠政は急死し嫡男がなかったので田中家は廃絶した。長崎純景は再び大村喜前の後をついだ純頼(すみより)の領内の大村に帰って横瀬浦で100石を給与される境遇となった(.)
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 長崎と柳川の交易は舟運から鉄道運搬に変わる明治後期まで利用された。米、麦、大豆、栗、お茶、茣蓙(ござ)、菜種、紙、白蝋(はくろう)、家具などが瀬高、榎津方面で集荷され、長崎の港に回送された。長崎からは唐綿、薩摩産黒砂糖、天草・島原産のナマコ・(あわび)・魚干物などの海産物の乾物(俵物)と共に(.)中国や西洋の新しい知識が筑後に伝えられた(.)柳川より長崎に伝えられたものとしては、「長崎雑煮(ぞうに)」がある(.)古式の長崎雑煮には、するめ、大根、水菜を入れると記してあり(.)現在柳川にはするめを入れる雑煮は柳川方面には残っているが(.)長崎では(すで)に失われている(.)柳川方面で縁台(えんだい)を「バンコ」(banco)かぼちゃを「ボーブラ」(abóbora)と言うのは当時のポルトガル語が日本語に借用された言葉です。全国に広まったカルタ(carta)・コップ(copo)・フラスコ(frasco)(.)メリヤス(meias)・シャボン(sabão)・タバコ(tabaco)・天ぷら(tempêro)(.)ザボン(zamboa)・トタン板(tutanaga)・ジョウロ(jarro)・ビイドロ(vidro)・ブランコ(balanco)・チャルメラ(charamela)・キリシタン(cristao(.)・おんぶ(背負うこと)(ombro)・ミイラ(mirra)もポルトガル語が語源です(.) 
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   オランダ貿易の開始と鎖国の完成
  オランダのデ・リーフデ(博愛)号が慶長5年(1600)、臼杵湾(大分)に漂着。ここから日本とオランダの交流が始まった。オランダに対し、敵愾心(てきがいしん)を抱いていたスペインのイエズス会士らは徳川家康に海賊船と進言した(.)海賊船の嫌疑が晴れたのち、家康は漂着したオランダ船に興味を持ち、乗組員のアダムス三浦按針(みうらあんじん)・日本人お雪と結婚)とヤン・ヨーステン(日本名・耶楊子(やよす)=日本人と結婚して住んだ地が八代洲(やよす)となり東京駅八重洲(やえす)の地名の由来となる)らを心から歓迎。幕府相談役の地位を与え、航海術を学んだり(.)西洋諸国に関する情報を集めたりした。慶長14年(1609)、幕府から発行された朱印状に基づき、平戸(長崎)にオランダ商館が設置され、本格的な通商関係が始まっていた(.)島原・天草の乱後はポルトガル人の追放とポルトガル船の入港が禁止されオランダのみが日本との貿易を継続することとなった(.)
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 プロテスタント系キリスト教のオランダ人にとって、布教は目的ではなかった為、その後も200年以上にわたってオランダと日本の交流が続いた。(.)寛永18年(1641)にオランダ人を役人の目の届くところに置いておきたい幕府は、平戸にあったオランダ商館が閉鎖され(.)交易・交流の場所は長崎の出島のみに限定した(.)のちには中国人も市内の特定地域にのみ居住が許されるのみとなった(.)交易ではオランダ側からの輸入品は中国から密輸出される生糸が最も多く(.)日本から輸入品に見合う価値の銀が流出し(.)その後銅も併用された。オランダ本国の羅紗(ラシャ)(毛織物)のほか長崎奉行所からの注文品として書籍(.)地図類、望遠鏡、眼鏡、時計類などがあった。日本の輸出品は、陶磁器、樟脳(しょうのう)、醤油、塩漬け海産物などがあった。ほかにオランダから日本に来たシーボルトは蘭学の発展に寄与した(.)オランダ語で西洋の学問を研究する「蘭学(らんがく)」が発展し、西洋の医学や薬学、その他文化的に価値の高い知識を日本人の学者に教授した(.)また土木技術者デ・レイケにより治水・灌漑技術伝わった。交易により(.)たくさんのオランダ語が日本語に借用されるようになった(.)
 

長崎港図(蘭唐船入港)
 ビール(bier)、オルゴール(orgel)(.)おてんば(ontembaar)、ランドセル(ransel)、ポン酢(pons:柑橘類)などはオランダ語の音を、そのまま日本語として発声したもので、病院、盲腸、炭酸などはオランダ語の意味を漢字に転換したものです(.)筑後と長崎との関係は、島原の乱後に幕府が九州諸藩に長崎港警備を命じたことにより、長崎に陣所と蔵屋敷(聞役)を置くことになった()正保4年(1647)にポルトガル船が入港して再び通商を願った時、柳川藩は船30隻と3870人を香焼島北浦の陣所に出兵している(.)蔵屋敷での聞役の任務の中には唐船やオランダ船によってもたされる異国の文化を吸収すると共に、奉行所の対応政策を覗う役目があった(.)
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     田中家が廃絶後における筑後地方と長崎
 元和6年(1620)、田中家が廃絶した後の筑後は二分され、柳川藩は旧領主の立花宗茂が、久留米藩には丹波福知山より有馬豊が藩主となる(.)
この年、天正遣欧使節の一人で、すでに老年に達した神父の中浦ジュリアンが筑後を訪ね(.)さらに豊前のキリシタンを訪問した。キリシタンたちは(.)危険や苦労をおかして訪問してくれたことを深く喜び感謝した。寛永元年(1624)スペイン船の来航が禁止された翌年までは神父が一人、筑後に隠れ住んでいて豊前(.)筑前などの地方までの信者の世話をいていた。  徳川家康秀忠の頃は貿易とキリシタン禁教を分離しようと努力したが(.)布教に熱意をもやす宣教師の政策と、死を恐れぬキリシタンたちの信仰によって失敗し(.)三代家光により鎖国方針が断行され、同時に禁教と弾圧が強化された。寛永3年(1626)になると、領主はキリシタンの迫害を強化した(.)寛永5年(1628)に踏み絵が始まり、翌年には長崎奉行(竹中)は雲仙岳の熱湯責めで棄教を強いた(.)筑後地方でも神父がが訪れても、前のように定住することは不可能となった(.)このころ柳川で、少数のキリシタンの侍と商人が追放され、久留米でも1人の侍が追放された(.)寛永9年(1632)、神父の中浦ジュリアンは小倉で捕えられ(.)翌年に長崎で最も残酷な穴づりで65歳の老体で26日まで苦しみをしのぎ殉教した(.)
    (島原・天草の乱(.)
島原の乱の原因は、島原や天草地方では凶作が続き米がとれなくなり(.)有馬晴信に代わってこの地方の大名となった松倉勝家(まつくらかついえ)は、米や麦の他にたばこやなすの実まで年貢として厳しく取り立てた。また、松倉勝家は、年貢(ねんぐ)をおさめない者がいると、(みの)を着せ、その蓑に火をつけて火だるまにして苦しめたり、妻や子供を捕まえて水びたしの牢屋に沈めたりして苦しめた(.)寛永14年(1637)10月から翌年にかけて長崎の島原でキリスト教徒や農民達による一揆が勃発した(.)柳川藩では72歳の老体、立花宗茂は、将軍徳川家光の指示で、浅草の江戸下屋敷衆を率いて、2月6日現地に着陣(.)2月23日からの攻撃に参加、幕府軍は原城に、ついに突入し、キリシタン農民軍は幕府軍の手で皆殺しにされ、島原の乱はおさえられた(.)幕府の松平信綱の砲撃要請でオランダ商館長も信用を得る好機とばかり武装商船を島原へ回航し2月24日に艦砲射撃と(.)兵員を上陸させ陸上からも砲撃を行わせた。27~28日の戦闘だけで、立花勢は戦死者128人、負傷者379人を数えた(.)久留米藩からは6300余人が出陣しており、戦死者173人、負傷者1412人を出している(.) 島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして責任を問われて改易処分となり()後に斬首となった。同様に天草を領有していた寺沢堅高(かたたか)も責任を問われ、天草の領地を没収された。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し()寺沢家は断絶となった。この一件で特に農民一揆である天草・島原の乱で、キリスト教は徳川幕府を揺るがす反乱と強調し、禁教と鎖国の口実とした(.)、そして、寛永16年(1639)、キリシタン弾圧を強化し、ポルトガル人の追放とポルトガル船の入港が禁止され、ポルトガルと国交を断絶した(.)、ところが正保4年(1647)にポルトガル船が貿易再開を求めて長崎に来航した際に西国諸藩から出兵して捕え、幕府は使節ら61名を西坂で処刑した(.)西国14藩は長崎に有事の際の長崎聞役の役職と、聞役の官舎である蔵屋敷を設け(.)貿易品の調達や長崎奉行からの連絡の取り次ぎにあたった。これが元禄元年(1688)まで続いた。。ポルトガル人の追放後、鎖国政策が確立してゆくのに伴い(.)異国船来航などの緊急時の情報収集や、平時での長崎奉行と国元の間の連絡等のために、西国各藩から派遣されるようになった(.)寛永16年(1639)に幕府は伴天連、キリシタン信徒を見つけた者に褒美金銀100枚を与えた。筑後地方にもキリシタンの迫害(はくがい)が強まり、久留米藩では領内からキリシタンが発見され、それを口実に幕府から領地没収などの処罰を受けることを恐れ取締りを厳しくした。2代藩主、有馬忠頼(ただより)寛永20年(1643年)2月に幕府の懸賞金以外に、宣教師の訴人には銀150枚修道士の訴人には銀100枚(.)キリシタンの訴人には銀50枚と藩独自の莫大な懸賞をかけてキリシタンの根絶をはかった(.)寛永年間以降の柳川のキリシタンの動向についての資料は乏しいが「柳川年表」には()正徳3年(1646)、藩士のキリスト教を信じる者83名に暇を与えたことが見える。しかし仏教に転宗に応じないクリスチヤン達は多く(.)長崎の町とその周辺の大村氏の領内に移住していった(.)「長崎の殉職者」などの著者故・片岡弥吉先生は、その一例として三池立花家より長崎浦上の地に逃れてきた片岡家のことを発表されている(.)(越中哲也、著書引用)切支丹史に名を残した浦上出身の片岡姓が多いのも三池からキリシタン迫害で逃れた片岡家の末裔であろうか(.) 柳川藩では寛文正徳享保年間には宗門改めが行われている。享保9年(1724)幕府に出した書類には(.)転びキリシタン坂巻宗之(柳川)、上庄四郎兵衛(瀬高)の名が見える(.)この宗門御改帳は各村の庄屋が各戸の家族数と、どこの寺の檀家であるか定期的に調査し大庄屋より宗門御役所に明治維新まで提出させている()今日柳川地方には数体のマリア観音の所在が確認されているという(.)
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     教会の破壊と神社、仏閣の復興
 慶長18年(1614)から始まった幕府の禁教令では全国に散在して活動していた宣教師と(.)指導的キリシタンらが長崎に集められた。トリゴーの「日本教会史」には「各地に降った雨が小さなながれとなり、合流して大河に注ぐように、各地から出発した神父たちや、信者たちが長崎に集まった(.)と述べている。この人びとは二班に分かれて国外に追放された。当時の長崎の人口は5万人、ほとんどキリシタンであったから教会だけでも13ヶ所にあった(.)教会破壊と閉鎖が長崎奉行、長谷川左兵衛藤広の指揮で肥前の五大名の兵で行われた(.)教会破壊が終わると諸藩の兵1万人を動員して島原半島のキリシタン弾圧に向かった(.)捕えられた者は3792人とも言われる。はりつけ・斬りきざみ・斬首・雲仙地獄責め・火あぶり・竹鋸びき・穴づり・獄死・水責めの拷問で背教を強要した(.)けれども背教しない者は長崎に連れ戻し西坂で処刑した。このような迫害の中で、生き残ったキリシタンは地下に潜伏し、秘密の集団組織を作り(.)仏教を装い観音像や納戸神を聖母マリアやキリストに見立てるなど、それぞれのイメージで信仰を続けた(.)幕府は神仏がキリシタン信仰に拮抗できると考え、教会が無くなった長崎にかってあった神社仏閣を復活させ住民の教化に努めた(.)そして宗教家が長崎へと進出することを保護・奨励した為、立花藩や有馬藩でも宗教家など長崎に移住する者もいた(.)     .
    ① 観善寺
 筑後柳川出身の僧浄念(俗名高光甚左衛門信宗)は元和末期(1620頃)に長崎入りした際、キリシタン全盛の長崎の町を見て仏教の再興を思い、寛永3年(1626)(.)長崎のおける筑後出身者を中心として真宗東本願寺派の向陽山・観善寺(を筑後町付近に創建した。その後の寛文11年(1671)上筑後町(現・玉園町)の現在地に移建した(.)
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観善寺
     ②禅林寺
 久留米の禅僧石峯祖芳は、キリシタン迫害期の寛永年間((1624~1643)の頃、長崎に来て当時の長崎奉行馬場三郎左衛門に知遇を得て長崎奉行所書物改役に任じられた(.)その後、正保元年(1644)に長崎奉行馬場三郎左衛門によって一寺を創建することを許され、元、貿易商・唐通事で隠居後に僧になった頴川(えいがわ)独健(旧・潁川官兵衛から寺地の寄進をうけ、現在地の寺町に禅林寺を創建した(.)承応3年(1654)に唐から僧隠元(いんげん)が、長崎に渡来し興福寺に入るや、隠元に面会。翌、明応元年(1655)8月隠元禅師は(.)禅林寺住持石峯祖芳の依頼をうけて禅林寺の山門の額を書いたとされている(.)禅林寺墓地には、蘭学者吉雄耕牛、水戸御殿医柴田方庵、長崎南画木下逸雲、天文地理学者島谷市左右衛門の墓がある(.)
 

禅林寺
    ③西勝寺
 寛永9年(1632)、筑前黒田藩士の長井八郎左衛門は親鸞上人直筆の六字名号をもって長崎に入り信徒を集め(.)東上町(現・上町(うわまち))に瑞雲山西勝寺(西本願寺派)を創建した。西勝寺には、キリシタン信者の九介夫婦が、幕府のキリシタン弾圧に堪えかねて改宗を誓った(.)このころび証文が残されている。改宗したことを奉行所へ届け出るため書いた証文であるが、書き損じたため(.)西勝寺に残ったものであると裏書にあり西勝寺宗讃の裏書きは抹消されている。ころびとは(.) キリシタンを捨てて仏教に転宗することをいう。ころび証文とは、転宗した事を神仏に誓う誓詞(起請文)で(.)この中ではデウス、サンタ・マリア,諸天使,聖人等にも誓っている。この証文には(.)キリシタン目明しであったころび伴天連・沢野忠庵(クリストバン・フェレラ)同じく目明しの後藤了順荒木了伯の誓書が書きそえてあり(.)正保2年(1645)乙酉の年号も書かれていることから(.)日本切支丹資料として貴重なものである。(長崎市文化財課資料より引用)東上町の隣町は茣蓙町(ござまち)といった。茣蓙町は筑後方面より茣蓙(ゴザ)を加工する人達が開いた町で、西勝寺の創建にも協力した(.) 
 
西勝寺文書「きりしたんころび証文」
    光源寺(.)
 柳川藩・瀬高町下庄田代にある光源寺の二世(.)十時松吟(とときしょうぎん)寛永14年(1637)に長崎に出て浄土真宗の布教活動をなすうちに、長崎奉行の馬場三郎左衛門に認められ一寺を建立することになり、瀬高の光源寺を弟に譲り(.)銀屋町(現・晧台寺前の天満宮付近)に巍巍山光源寺(西本願寺派)を創建した。延宝4年(1676)の火災で銀屋町の寺地が類焼した為(.)光源寺の墓地が有った伊良林の現在地に移った(.)松吟の著書に長崎で穴吊りの拷問に耐えきれずキリスト教を棄教したイエズ科会司祭クリストファン・フェレイラ澤野忠庵(さわのちゅうあん)の名と妻をあてがわれ、キリシタン目明しとしてキリシタン弾圧に協力した。この「ころび伴天連(バテレン)澤野忠庵(さわのちゅうあん)」が口述した天文書を記述したことで有名である(.)フェレイラは日本人に南蛮医学を伝えた、娘婿の杉本忠恵フェレイラ門下の医師で、のちに幕医を務めた。光源寺の墓地には(.)慶長9年(1604)に中国語の通訳の職に任命された唐通事(中国語の通訳)馮六(ほうろく)、龍馬暗殺後、亀山社中を切り盛りしていた二宮又兵衛寛永17年(1640)阿蘭陀通詞横山ン又兵衛から11代又之丞まで阿蘭陀通詞を勤めた横山家などの墓がある(.) 
 
光源寺
    諏訪(すわ)大明神・住吉大明神・森崎大権現
 佐賀の修験者の金重院の青木賢清(かたきよ)が、長崎で神社・仏閣がことごとく破却されていることを聞き(.)元和9年(1623)長崎に来て、長崎の公文九郎左衛門より「諏訪(すわ)大明神」「住吉大明神」「森崎大権現」の三神を譲り受け(.」)すぐさま京へ上り、吉田兼英(かねひで)より神社再興のゆるしを得て再興(.)長崎奉行の長谷川権六もキリシタン宗門一掃の為に援助し、寛永11年(1634)に「長崎くんち」(大祭)が始まり(.)神輿を御旅所に巡幸し(.)奉納踊りを遊女町(現・博多町)より奉納した(.)この舞は博多出身の白水氏が指導した。傘鉾をもちだすようになったのも博多方面の芸能が移されたものです(.)のちに長崎町年寄の薬師寺久左衛門が筑後高良山玉垂宮社司の縁者であったので指導した(.)薬師寺久左衛門は立花家とは大友家の旧臣としての縁故があり(.)久左衛門が平戸のオランダ人より砲術の指導を受け「阿蘭陀流石火矢」を開創した時(.)最初にとりたてたのが柳川立花藩の人であり(.)久左衛門は初め柳川に住み、1624~30年頃に長崎に移住したようである(.)島原の乱が勃発した時、彼は長崎奉行に出陣願を出して参戦し、御褒美として銀30枚を拝領した(.)寛永11年(1634)に始まった「長崎くんち」では傘鉾を奉納したであろう。現在、7年廻りで筑後町は蛇踊り・傘鉾垂(かさぼこさがり)、榎津町(現・万屋町)は船廻し・傘鉾飾(かさぼこかざり)が諏訪神社に奉納されている(.)長崎くんちの初代の神輿(みこし)は柳川の蒲地三嶋宮の氏子により大切に保管されている事から柳川との交わりも考えられる(.)
 

長崎くんち・オランダ船のひき物
    
長崎くんち・筑後町の蛇踊り                傘鉾垂
   
長崎くんち
・榎津町の川船
             傘鉾飾
 
    柳川における黄檗宗(おうばくしゅう)儒学(じゅがく)明楽(みんがく)の伝達
  南蛮文化、キリシタン文化と入替って、明国(みんこく)末期に清国(しんこく)の弾圧を避け唐船(中国の船船)で来航してきた、唐僧達が伝えた黄檗文化と(.)亡命した文人達によって伝えられた学術、美術工芸の文化があった(.)キリシタン弾圧が厳しかった時代の寛永年間(1624-1643)(.)キリスト教禁令下において中国人がキリシタンでないことの(あかし)と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る長崎三福寺と言われる興福寺(現長崎市寺町)、福済寺(現長崎市筑後町)、崇福寺(そうふくじ)(現長崎市鍛冶屋町)が創建された(.)黄檗寺院に来航する唐人達は仏像・仏画・仏具・経典・墨跡(ぼくせき)・絵画・書籍・織物・砂糖・医薬品・菜菓とその種子・毛氈(もうせん)・陶磁器などを特別寄進していた。これらはわが国の文化発展に大いに貢献した。承応3年(1654)唐僧・隠元隆琦(いんげん・りゅうき)禅師が渡来、長崎興福寺の住職として滞在され、翌、明暦元年(1655)には、隠元に招かれ弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)が来日し、長崎福済寺の住職となる。隠元は崇福寺にも進み(.)2ヶ月住して法を説かれた。明暦3年(1657)には隠元に招かれて弟子の即非如一(そくひ・にょいつ)が来日し、長崎崇福寺の住職となる(.)万治3年(1660)、に徳川家綱に会見したことにより京都(.)宇治に寺地を賜り黄檗山萬福寺を創建した。寛文4年(1664)に弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)に移譲した。これにより黄檗宗が全国に普及し、建築や書画、この他、いんげん豆も持込まれ、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり)(中国僧の精進料理)を伝え、明の文化をもたらし新しい文化の担い手として各藩にむかえられた(.)
長崎・崇福寺 
 寛文9年(1669)に藩主立花忠茂は黄檗宗本山萬福寺の2世住持木庵性瑫の法弟である鉄文道智(てつもんどうち)(地元・海津村出身)を招き、梅岳山福厳寺と改称の上、曹洞宗から黄檗宗に改宗させた(.)

 明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来してきた。万治2年(1659年)、明の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)(1600~82)は(みん)王朝の復活の夢破れ日本の長崎に亡命した。この時、柳河藩の安東省庵(せいあん)は長崎で時折、省菴を診療した帰化人の唐医陳(潁川)入徳、の紹介で舜水に出会い、師として仰ぎ学んだ。また長崎奉行に日本に留住できるよう嘆願し(.)6年間にわたり少ない自分の俸禄の半分をを出して朱舜水の生活を支えた。長崎での火事で朱舜水の家が焼けたときも家を新築した(.)寛文5年(1665年)舜水は水戸藩二代目藩主(.)徳川光圀に先生として 迎えられた。その途中、朱舜水は、省菴の 家に行くことになった(.)「6年もの間、私 の生活を支えていただき、このご恩は一生 忘れません」と言い、別れ際に朱舜水は、 明の国から持ってきた青銅の孔子像三体を 省菴に贈りました(.)三体のうち一体は、そ のまま省菴家に伝えられ、他の二体は、波 乱の経過をたどり、現在、一体は伝習館高校に、一体は東京の湯島聖堂(東京都台東 区湯島)に祭られている(.)朱舜水は水戸学の形成に影響を与えた。江戸と柳川は離れていたが、朱舜水が亡 くなるまで二人の友情は続いた(.)省菴の教えは、子や孫へと伝えられ、省菴が開いた家塾は、後に藩校の柳川・伝習 館へと発展していった(.)


 明楽(みんがく)の伝来は長崎との白糸の交易の船主となって、富を築き、正保4年(1637)には長崎に崇福寺の建立に多大な寄進をした明国の魏之琰(ぎしえん)による。柳川にも立花帯刀(たてわき)家を中心として伝えられた明楽があった。立花帯刀家の3代目、立花茂之享保5年(1720)に家督を子供に譲り一蔵と称した(.)一蔵は「文事に力を用ひ、陪臣数十人を長崎に遣わし、明楽を修習せしむ」とあり(.)楽器・被服十数点が明治7・8年までは、あって明楽を奏することがあった。明から伝来した明太鼓は明治初期に柳川の日吉神社に帯刀家より奉納されている(.)
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    筑後の隠れキリシタン
      (大浦天主堂(.)
 幕末の安政5年(1858)に、フランスは米、蘭、露、英の対日条約の後を受けて(.)日仏修好通商条約を締結する。長崎が開港され、多数のフランス人が住みついた結果、元治2年(1865)に居留者のために大浦天主堂が建てられた(.)1か月経ったある日、12名から15名の子供たちと大人が大浦天主堂の前に立っていた(.)プチジャン神父は扉を開け祭壇に案内すると婦人から浦上の隠れキリシタンと名乗り出しサンタ・マリアの祭壇の前で感激し祈った。島原の乱以来(.)一人残らず死に絶えたと思われていたキリシタンの子孫が230年ぶりに発見されその感動は大浦天主堂から波紋のように全世界に広がった。しかし、幕府や一新のはずの明治政府も(.)逆にいっそう激しくキリシタンを弾圧(浦上四番崩れ)し多くの殉教者を出した。アメリカ・ヨーロッパ諸国を外遊中の岩倉使節団は(.)行く先々で政府の宗教弾圧を指摘された。使節団には、のちに同志社英学校をひらきキリスト教の伝道に一生をささげた、木戸孝允(たかよし)の通訳として新島襄(にいじまじょう)も参加していた。帰国した明治6年(1873)、ようやく禁教令が撤廃(てっぱい)された。この間の浦上地区の犠牲者は、なんと562人に上る。日本人の大工は布教にやってきた宣教師に西洋建築を学び(.)隠れキリシタンの住む西海の各地に教会を建てた。現地のキリシタンも建築費用を出し合い、建築の手伝いをして完成させた(.)キリシタン復活まで潜伏キリシタンの組織が存続していたのは、ほぼ九州に限られる(.)主な場所は長崎県の浦上、外海(そとめ)、平戸島、生月島、五島列島、熊本県天草下島の崎津、大江、今富、高浜、福岡県三井郡大刀洗町。大部分は長崎県に集中している(.)
     (今村カトリック教会(.)
 今村のキリシタン信仰は、豊後の大友宗麟の影響があるとされるが決定付ける資料は残されていない(.)島原の乱の落人説や、左京右京の物語、聖者ジョアン又右衛門の殉教などが伝えられています(.)長崎(.)で信徒が発見された2年後である慶応3年(1867)、筑後国御原郡今村(現・三井郡大刀洗町今)で浦上の紺屋(染め物屋)が(あい)の仕入れのため御井郡西原村(現・久留米)に来た際、偶然に「今村にはキリシタンらしき者がいるらしい」との噂を聞き大浦天主堂のローケーニュ神父にこれを伝えた(.)すぐさま神父から確認のための浦上信徒4人が派遣され、両者の交際が始まり、食べ物の好みや禁忌(きんき)(慣習的に禁止したり避けたりする事)についての風変わりな問答から互いにキリシタンであることが解った(.)今村の弥吉は彼らと同行して長崎に行き、大浦天主堂を訪ね神父に会い、滞在して教理を学び、洗礼を受けて今村に帰った(.)このあと今村と長崎、浦上との交流が始まったが浦上の大迫害(浦上4番崩れ)が始まり、吟味が厳しくなった長崎から、徳三郎ら浦上信徒が逃げてきた(.)青木才八家に集まって教理を学んでいた今村の人は、ある日、托鉢僧の訴えにより捕えられ久留米の牢に入れられ、礼拝用のコンタツ、メダイ(メダル)(.)をはじめ祖先伝来の貴重な祭服やカリス(聖杯)まで押収された。一時入牢者は270人にもなったという。発覚当時の今村のキリシタンの中心人物であった弥吉は取調べの(.)申上書」で長崎、浦上との交流や受洗の様子、信仰生活、教会暦について詳しく述べている。今村ではジョアン又右衛門様を尊敬し、毎月の20日を「当り日」と称して(.)その墓に参拝し祈っていたが、長崎地方のかくれ切支丹のような「バステアン暦」「どみいご暦」のような「日繰り」(教会暦)を持たず(.)冬至を基準とする、ナタル(ポルトガル語)の冬至系の教会暦であった。今村の教会暦は、まず年暦より冬至を繰り出し(.)冬至より3日目を御主イエス・キリストの誕生とし、餅などついて祝い休む、それより7×8、56日に当たる日より「悲しみ節」に入る(.)その日より7×7、49日間が「悲しみ節」で万事慎み、美食暖衣せず、鳥獣の肉など食わない。この終りの日から7日を1回と定め(.)初日より3日間は諸肉を取ってもよいが、4日目は鳥獣の肉を食べない。5日目食べ、6日目(7日目)はまた食べない(.)それより8日目を初日として翌年の冬至まで、これを繰り返すが、重要な祝祭日である「パスクワ」とそれに先立つ聖週刊が忘れ去られている(.)子どもが生まれると、できるだけ早く水方がバブチズモ(洗礼)を授けた。水方は茶碗に水を汲み、上等の紙を細かく折って茶碗の水に浸し(.)子どもの額と胸につけて洗礼の言葉を唱え、洗礼式には代父か代母を立てた。結婚は相手がキリシタンに改宗すれば許されたが他宗教の者とは許されなかった(.)しかしキリシタンでないことを証明する寺請制度により農民の住居移転,奉公,結婚,旅行などの際には、この制度によって檀那寺(だんなでら)から発行される寺請証文を必要とした。理に反して仏教寺院の檀家になり、藩の弾圧を逃れた(.)葬式は僧侶主導の仏式で行い、僧侶が帰ったあとキリシタンだけの「お経消し」の祈祷を行い入棺して(.)皆で墓地に行き、紙で十字架を作り(.)あらためてカトリックによる埋葬を行っていた(.)キリシタンの葬儀をしなければパライゾ(天国)へは行けないかもしれないと思ったのは当然のことです。今村地区の信者は隠れキリシタンとして270年近く信仰を守り続け(.)明治6年になり禁制が解かれた後ほぼ全員が速やかにカトリック教会に復帰しました(.)長い時代を秘密が守られたのは庄屋も5人組も村民500人が全村的にキリシタン集団であったことでした(.)明治12年(1897)、長崎からフランス人宣教師ジャン・マリー・コール師がはじめて今村の信徒の司牧に着任し(.)青木才八家の土蔵を教会代わりに使用した。1年間で1603人が受洗し、今村と周辺の潜伏キリシタンはすべてカトリック教会に復帰した(.)
  明治14年(1881)ジャン・マリー・コール師(のちに熊本に派遣されハンセン病療養所・待労院を開いた(.)の後継にミセル・ソーレ師が派遣定住され信徒と共に藁葺き(わらぶき)の木造教会(間口6間、奥行10間)を信徒たちが敬愛したジョアン又右衛門が殉教した墓があった場所に建設された(.)ジョアン又右衛門後藤寿庵)とは五島の宇久島に渡り洗礼し(.)奥州を訪れ伊達正宗の厚遇を受けたが(.)元和6年(1620)の切支丹禁教弾圧で九州に逃れ(.)主キリストの教えに徹し今村・本郷を中心に教えを導き筑後地方に大きな感化を与えた。ある日捕らわれ、南本郷の流川で磔刑(はりつけ)で殉教した。ジョアンの遺体は夜になり信者によって戸板に乗せられ、今村の西小路の竹藪に運ばれて埋葬された(.)その後、潜伏キリシタンは埋葬場所を「ジョアン様のお墓」と称し、毎月20日を「あたり日(.)と呼び、履物を脱いでお墓参りをして祈りを捧げた(.)現在の今村天主堂の祭壇の下がジョアン又右衛門の墓といわれている。現在も殉教の場所を「ハタモン場(.)と呼ばれ十字架を立て信仰の火を伝えてきた。昭和62年(1987)に「ジョアン又右衛門殉教記念碑」が建てられた(.)
ジョアン又右衛門殉教記念碑
 明治19年(1886)には信者数は1530人と増え、ソーレ師はこれまでの教会堂では手狭になったので拡張された(.)ミセル・ソーレ神父は、久留米カトリック教会でも主任司祭を務め(.)久留米で埋葬された最初の外国人だったことでも知られています。まさに布教のために骨を埋めた人でした(.)明治29年(1896)9月に4代目主任司祭本田保神父が派遣された。神父は長崎浦上の出身で、禁教令の時代には迫害(はくがい)に耐えながら、信仰を守り続けた人です。明治32年(1899)拡張した教会堂も更に信者が増え1891人となり、ミサも2回に分けて行うなど、いよいよ大きな教会堂が求められていました(.)
 明治41年(1908)
本田保神父により教会の改築計画を立て(.)地元信者やブラジル移住者からも寄付を集め、フランスを中心に外国からの寄付、特にドイツの信者からの寄付が多く集まり、その他信者の労働奉仕のうえ(.)大正2年(1913)に2つの塔を持つロマネスク風様式赤レンガ造りの教会堂が完成した(.)ステンドグラスはフランス製、柱は高良山の杉、レンガは千代田町迎島の五工場に特注したもの(.)石材は浮羽郡と西見(長崎県)産、内部に掲げてあるキリスト受難の14枚の聖絵はフランス製である(.)設計・施工は当時長崎で多くの教会建築を手掛けた鉄川与助である。教会近くのの松雄宅には個人の資料館がありマリア観音像や踏絵などを保管されていたという(.)平成18年(2006))、「今村教会堂」の名称で福岡県指定有形文化財に指定される。2015年度、国の重要文化財に指定見込み(.)
 
今村カトリック教会
 
今村教会・礼拝堂内部

ステンドグラス 

        キリシタン燈籠
 キリシタン灯籠とは江戸時代にキリスト教が禁止されている時にひっそりと拝まれていた灯籠と言われている。郷土では大牟田市の民家にあった(.)竿石の下部には陽刻の人物像はキリストでマリアではない、竿石上部に刻まれた記号は梵字である(.)これはラテン語のフィリイ FILEの伏字と解せられる。FILEはFILIUS(子)の呼称であるから、「子よ」の意である(.)拝む者を「子よ」「キリスト様よ」とと呼びかけることになる(.)FILEは、初期の燈籠に彫られており、時代が下ると字形が崩れてており、原初の形式を示すものは、まれである(.)この灯籠はもともと久留米藩の重臣の子孫で代々茶人として知られた家の名園にあった(.)珍しく全姿完全で石質はいわゆる太閤石で甚だ優美、京都製に間違いない。(つづ)りかたからいって、FILE説を裏付ける重要な資料である。この伏字を有するものは、本灯籠1基である(.)時代はすべての点よりして慶長を下らない(.)全国に遺存する灯籠中の最高品と思われる。大牟田市指定文化財であったが(.)持ち主が久留米に引越されている。また久留米の梅林寺にもキリシタン灯籠が竿が半分以上埋もれて残されている。(大牟田市史上卷より引用)(.)  
大牟田にあった頃の燈籠 
  参考・引用文献  日本切支丹宗門史 戦国なるほど人物事典 筑後柳川「福厳禅寺」  越中哲也著「柳川・長崎の文化交流について」 片岡弥吉著「かくれキリシタン 歴史と民族」 
     久留米市史第2巻・第2節筑後のキリシタン 下河秀行著「柳川の学問の祖 安東 省菴」 松田毅一訳 「フロイス日本史」
西九州篇Ⅰ~Ⅳ 堤伝「柳川のキリシタン」 井手道雄著「西海の天主堂路」
     大牟田市史上卷 秋月資料管HP  渡辺村男の 山門郡名所舊蹟一班・創立百周年紀念誌、大江小学校の歩みと郷土
   
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