庄福BICサイト    【禁無断転載】   H・27・9・3更新     福岡県みやま市瀬高町大字長田
    
 大字長田は対岸に北長田(筑後市)があるが、元はひとつの長田村であり。往古に矢部川の流れが変わり両岸に分かれたという言い伝えがある( )平安時代の永保(えいほう)3年(1083)に長田庄(北長田・長田・大塚)の40町2丈が太宰府天満宮安楽寺安養院に寄進されている(.)隣村の坂田庄の上坂田集落、さらにの太宰府天満宮安楽寺淨妙院(現・榎社)に寄進した飯得(はえ)(飯江)庄(現・高田町)43町2反は共に大宰府安楽寺(あんらくじ)領荘園で、各集落に菅原道真にまつわる伝説の老松(おいまつ)神社が鎮座している。 長田の渡しは 戦国時代の終りの天正15年(1587)4月豊臣秀吉が、薩摩の島津征伐の為に高良山(こうらさん)吉見岳城(久留米市)から旧坊津街道(旧薩摩街道)を通過し(.)長田宿(筑後市)で矢部川の増水のため渡河することができず数日間逗留(とうりゅう)を余儀なくされている。矢部川を渡り、上長田から大塚草場尾島道を通り本吉山川を経て南関大津山(おおつやま)辿(たど)り着いている。江戸時代の 筑後藩の田中城主までは矢部川両岸にある長田村であったが、元和(げんな)4年(1620)に久留米藩と柳川藩の藩領が矢部川を境に分かれると北長田村(現・筑後市)南長田村とに村名が付けられた(.)
 
江戸後期の長田周辺の見とり地図(文字など加筆編集)
  明治3年には南長田村は西南にある集落が下長田村として分村されたが祭り(.)習慣は昔と変わらず一緒である。のちに南長田村上長田と名が変えられた(.)明治9年には上長田村と下長田村は合併し長田村となり明治12年に下妻郡から山門郡に編入される()下記に掲載の測量古地図は当時のものである(.)明治22年の町村合併で長田・坂田・小田・広瀬の各村は水上村(みずかみむら)となる。明治45年東山村(とうざんむら)と合併した。大正3年(1914)から昭和2年(1927)の第1期河川改修工事10ヶ年計画(.)で船小屋から河口までの13kmに本格的な堤防が築かれた。昭和2年(1929)には放水路が完成し(現・中ノ島公園南側)(.)昭和4年10月にその上に中ノ島橋(現・瀬高町、国道209号の矢部川の放水路の中ノ島橋(.)が延長80.2m、幅員5.5m架設される(.)昭和31年東山村の村々は瀬高町と合併して瀬高町となる(.)平成14年8月11日に中ノ島橋と船小屋橋が連続した船小屋温泉大橋に架け替えられた(.)船小屋橋は道幅が狭かったので平成14年8月11日に新しい橋に架け直され船小屋温泉大橋になった(.)この橋の100m程上流には、古くからの「がたがた橋」(船小屋観光橋)と地元で呼ばれている流れ橋がある。対岸へ渡ると、そこには「雀地獄」(単純炭酸泉)と言われる船小屋温泉の源泉がある(.)
   
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昭和4年10月の船小屋鉄橋渡り初め式

昭和31年の船小屋のホタル 
     
瀬高側からの旧船小屋鉄橋   旧船小屋鉄橋   通称・赤橋と呼ばれた

明治10年頃の長田村の測量地図(原図)
     【上長田】 
 長田の鉱泉場(通称名)  上長田
上長田の鉱泉場とは公称ではありませんが、徳川末期、元治年間(1864)熊本の勤皇の志士、中田多一郎により鉱泉の湧き出る井戸が発見されてから、上長田の親村(.)からここに移り住んだ人々によって形成された小集落名です(.)昭和初期までは、鉱泉井戸と道路反対側の鉱泉を(わか)した浴場(現在は駐車場)を中心に、南北に通ずる道路の両側に20戸程のこじんまりした宿屋が老松宮付近までありました( )宿屋には馴染(なじ)みのお客がいて、長い期間逗留(とうりゅう)して胃腸病の治療やレクレーションを楽しんでいたのです(.)船小屋温泉に対して長田の温泉場を新船小屋温泉と称していた時期もあった(.)
 
昭和10年頃の新船小屋温泉での日本舞踊の発表会
狐林(きつねばやし)(小字名)      上長田河川敷
元禄の造林より300年を過ぎた、幹廻り3m,樹高15m〜20mにおよぶ巨木の林はクスノキ林がうっ蒼とおおっている。このクスノキ林は元禄(げんろく)8年(1695)田尻総助総馬親子が柳川藩の晋請役として通称千間土居(せんげんどい)(立花町北山)を築堤し、引き続き広瀬・小田・長田に至る4km弱長田土居を築堤し(.)楠木を植えたものです(.)これが長田孤林(ながたきつねばやし)と呼ばれ、殿様が狩りを楽しんだ場所でもある(.)現在に残る楠木林は国指定天然記念物である(.)

 宝暦9年((1759)の御塒付(おとやつき)絵図(鳥のねぐら)・(絵図複製加工スケッチ)
    長田の樟脳の歴史 
 樟脳(しょうのう)は西暦600年頃にアラビアにて最初に薬として製造され、その後ギリシャ、エジプで香りの良さから宗教儀式でお清めの霊剤として使用されたとみられる(.)日本で初めて製造したのは慶長3年(1598)豊臣秀吉による朝鮮出兵で薩摩の島津義弘(よしひろ)が連れて来た朝鮮人陶工鄭宗官だった。その後土佐でも樟脳製造がはじまり、西日本で広く造られるようになる(.)当時からヨーロッパでは貴重な薬としての評価が高く、今もカンフル剤という言葉が残るほどです(.)カンフルとは樟脳のことで、呼吸や循環の興奮剤として使用された(.)幕末では密貿易の重要な輸出産品となり、薩摩藩や土佐藩は樟脳による利益で維新の軍備の資金を稼いだという(.)九州・四国地方に繁殖しているクスノキから「しょうのう」を製造する技術を開拓し、薩摩から九州・中国・四国地方に広まり、藩の主要な財源獲得の一翼(いちよく)(にな)ったことは、ハゼ(ろう)ほどではないが歴史的に似ている。長田のクスノキ林は元禄(げんろく)8年(1695)田尻総馬による矢部川の堤防築造の際にクスノキの根が石を包む蛇篭(じゃかご)の役目になるように、また総馬は当時に薩摩藩が長崎のオランダ向け貿易の樟脳で利益を上げていたことは知り(,)成長した30年のちには樟脳の生産で、藩の財政に貢献になることを見越していたではないだりうか?(.)江戸時代末期には「しょうのう」製造の改良法が土佐藩によって見出され高純度大量生産技術を確立して(.)薩摩藩と連合したのちは、薩摩の火山から硫黄(いおう)、琉球経由の交易で得た硝石(しょうせき)で火薬を作り討幕(とうばく)の軍事力ができていた( )貿易輸出も盛んとなり土佐や薩摩藩は専売の利益で(.)幕末から明治初期には軍艦が買い入れられて 日本海軍がつくられている(.)
一方(.)郷土の柳川藩内では参勤交代で賑わった肥後街道の久留米藩との境にある大川市小保(こぼ)の東家住宅の「加羅津屋」が樟脳の商いをしていたことが知られており(.)のちには醤油製造業など職種を広げ栄えている(.)しかし当時の古文書の資料は残されておらず詳細は解らない(.)原料のクスノキ林のある立花町の柳川藩の御用商人(.)松延家の古文書には樟脳の商いは記載されておらず(.)長田村は明治時代に樟脳製造が始ったと思考する(.) ありし日の大川の加羅津屋
明治2年(1869)にアメリカのハイアット兄弟がニトロセルロースに樟脳を加えてアルコールで混練することで( )セルロイドの製造方法を発明、のちに万年筆(まんねんひつ)の筒、おもちゃ、人形、ピンポン玉、フイルム、食器の取っ手、下敷き、飾り物に使用された。しかし極めて燃え易く、摩擦(まさつ)などによって発火し易く耐久性が低い。日本政府は日清(にっしん)戦争後、明治28年(1895)に台湾を植民地とし(.)土佐式の樟脳製造法を持込み台湾の植民地経営は樟脳専売制によって巨利(きょり)をもたらし、強攻な軍艦を備えることが出来て、翌年にはロシアのバルチック艦隊を打ち破っている( )これまでふるわなかった国内の製脳業は台湾樟脳専売による樟脳市価の急騰の影響を受け(.)活況を呈し、樟脳油は防虫防臭剤・香料・医薬品などのほか、セルロイド原料としてセルロイド工場での需要が高まった(.)長田村でも明治時代の繁盛期には長田村には10軒程の樟脳工場があり、明治36年(1903)10月に専売品となり(.)樟脳専売局に納めていたという( )植民地経営で巨利を得た日本政府は明治43年(1910)には朝鮮植民地化(.)日韓合邦へと向かわせた歴史を歩む。大正時代には樟脳に代わる安価な化学合成「ナフタレン」が開発されたので(.)防虫剤としての天然の樟脳の需要が少なくなる。長田生まれの故鶴記一郎さんは大正時代の子供の頃の回想録(かいそうろく)で「桜花の頃は、矢部川岸の樟林(くすのきばやし)はビロードのようにキラキラ光る若葉が萌え出て来ます。そして樟は若葉と交替に古い葉を落下させるのです(.)そうすると子供達は「樟の葉拾い」に出掛けます樟の葉を集めて麻袋に詰め樟脳製造場に売る訳です(.)ところが、樟林は国有林で垣を廻して中に入ることは法度(はっと)で、垣の周囲が採集場でした。勇敢な仲間は、こっそり垣内に忍びこむのです(.)垣内は樟の葉が渦高く積って()き集めるのに効率がよいからです。ですからその方法は危険があります(.)たまたま見張人(官員さんと呼んでいました)が回ってきて、彼の目にとまったら目玉を喰らった上、拾った葉はその場に散撒(まきちら)かねばなりません。そうして夕方までに集めた代価は十銭内外でした。そのお金を自分の小使いにする者は一人もありません( )必ず全額を母に渡していました。母が喜んで受け取ってくれることで、その日の疲れは(いや)されるのでした。こうして矢部川は私どもの揺籃(ようらん)であり、心の奥深く焼きついているのです。( )とある。
昭和12年(1937)の支那事変(しなじへん)(日中戦争)勃発(ぼっぱつ)後は偵察報道用写真のフイルムの原料として軍需兵器の材料の銅、錫、鉛等非鉄金属の選鉱剤として使われた。第二次大戦末期の昭和19年(1944)の航空機の燃料不足で緊迫(きんぱく)した時期には、軍の命令で郷土でも(.)江戸期から炭鉱の坑木用に植林された立花・東山・山川村の山間部の松の木の切り株から根を掘り出し(.)それを裁断して蒸し焼きによって発生するガスを冷却水で冷やして液化させ石油の代替燃料の松根油(しょうこんゆ)の採収に使われたが、それだけでは間に合わず松の幹に魚のあばら骨のように斜め溝を彫り松脂を軍に供出した(.)クスノキでも葉・枝・原木をチップにし、水蒸気蒸留すると粗製樟脳ができ、さらに分留、昇華(しょうか)などの過程を通して精製樟脳と樟脳油ができるが、樟脳も或る種の触媒(しょくばい)を使い全部を油にする製法が開発され、軍は大量生産の工業化の為に、全国の樟脳工場に増産を要請(.)近所の婦女子はクスノキの葉や枝を集めることに動員されフル稼働して製造された樟脳油は軍に供出させられた(.)終戦近くになっると木製の訓練機が低空で黒い煙を吐いて訓練飛行していたという(.)
昭和37年(1962)に樟脳は専売廃止となり廃業に追込まれる工場も多くなる。現在、日本では江戸後期から150年余続いた長田の老舗(.)内野樟脳」ただ1軒残るのみとなっています(.)化学合成の樟脳は(にお)いが衣服に残るが、それに比べ天然物はお香のような匂いで、風にさらすといは消えるので(.)着物や大切な衣類を保管するのに最適で、また玄関やトイレの芳香剤(しょうしゅうざい)として、またアトピーなど化学物質に過敏の方にも安心して使用していただけます( )しかし内野樟脳の内野清一さんは平成23年に亡くなられ工場が止まっていたが(.)地元住民ら有志に手伝われ奥様の内野和子さんが継続されている(.) 
 
 
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       上長田の寺社仏閣
     西教寺
 真宗西派、寛永6年(1629)渡辺祐念は剃髪してこの寺を創立する。祐念は通称、仁兵衛一斉と号し、実名を幸治と言う。幼少より仏法を信じ僧となり西教寺を創める(.・)その後寛永15年(1637)兄、渡辺次郎右衛門幸治は島原の乱にて戦死す()藩主立花忠茂は重症の幸治のもとへ来て(.)遺児の家督相続を約束する。藩主の命により祐念は還俗して2歳の遺児(.)伝衛門の後見人となり立派に育てあげた。次の藩主立花鑑虎(隠居後は英山と号す(.)祐念の人柄と功をたたえ、藤尾に勝満寺を建て初代住職とする(.)承応2年(1653)11月に僧永順が中興した。永順蒲池鎮並の親戚である。本寺の梵鐘は寛延3年(1750)の鋳造であった(.)
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    老松神社  上長田
安土桃山時代後期頃の創建で長田全域の産土神である(.)祭神は菅原道真公で無病息災、子孫繁栄、五穀豊穣や学業成就などを願って建立された。老松神社の社名は菅原道真公の両親が祀られている老松社から由来されたものである(.)菅原家は元来、学問にすぐれた家柄であり、その一方その先祖は相撲の神様を崇敬されている(.)よって祭礼には奉納相撲が行われ無病息災、五穀豊穣を祈願する(.)長田や坂田周辺は平安時代には道真の墓がある安楽寺大宰府領であった。祭りの時は下長田、上長田の世話人を招待して(.)カマボコなどのごちそうで持て成している。境内には老松神社の建立と共に植栽された、いちょうの木が神木としてある(.)昔から愛称として「お宮さんのいちょうの木」と呼ばれている。7本の大幹を一重と見たてたと思われる(.)子供会や老人会などの皆さんが清掃活動などで大切にお守りしている。平成16年に県指定文化財、天然記念物に指定された(.)7本の幹を1重に看立て、樹高25m枝張り東西24m、南北28m張り出して見事な、いちょうの木ある。祭礼は10月15日に行われる(.)新嘗祭(にいなめさい)は11月の第4日曜日に新穀を供えてその年の収穫を感謝する祭儀をおこなう。伝統的に引き継がれ秋に神を祭る稲作儀礼である(.)        
    稲荷大明神   上長田     
老松神社の道路向え側にある稲荷大明神は稲作の神様として信仰されている(.)旧暦の2月初めての午(うま)の日(現在は新暦の日)に初午(はつうま)さんの祭事を行っている(.)昭和初期にお西(宮の西側集落)の世話役の板井氏が新船小屋温泉の繁盛を願い、佐賀の祐徳稲荷を勧請して祀られたものです(.)左の祠は昔からの地の神様などが祀られている(.)   
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    観音堂    上長田交差点角
 観音菩薩を祀る。お彼岸にはお遍路さんが訪れる。以前は50m南、国道209号沿いにあったが道路拡張で交差点角に移転した(.)周辺住民の集会所としても使用されている。お彼岸にはお遍路さんの参拝がある(.)
   
    地名のはなし
 河原(小字名)   上長田河川敷
長田河原で 延元元年(1336)8月23日朝廷軍、平津肥前守溝口太郎入道とその部下達と、佐竹二郎荒木有家らと戦った所で溝口軍の敗北に終わっているが、この地とみられる(.)
明治12年頃の測量地図(下図)では二股堤防に挟まれた畑地になっている(.)池が二ヶ所あり景観の良き場所であった。明治後期に瀬高町町長であった太田豊蔵氏は池の傍に平屋の料亭を建築していたという(.)南方の堤防は堤防は中村羊羹本舗やホテル華の道路です(.)
 新橋・下河原
昭和2年(1929)に水路部分を掘下げ拡張し放水路が造られ、その上に中ノ島橋が架設され、切り離され島となったのが現在の中ノ島公園です(.)下記の古地図で薬師堂や西教寺の西にある(やぶ)土居が現在の車の通れる矢部川堤防に改修され昔と様相が急変している(.)
 中藤八・北藤八(きたとうはち)  上長田河川敷
 藤八は人名で、これらの人が資金を出したか、干拓工事に貢献した人の名でしょう。また上流に続く唐尾の東藤八・西藤八の地名も同じです(.)干拓後は畑として利用されていたが現在は堤防が川岸に構築されて二股(ふたまた)堤防敷の南側の堤防は道路となり住宅や養護老人ホーム楠寿園が建っている。堤防は桜並木の名所で川岸は新船小屋水泳場となっている(.)
春屋敷(はるやしき)・春屋敷二(小字名) 上長田
上長田集落内の小字名で集落を取り仕切る地主が住んでいたでしょう。“(はる)”はここに大地主、野田屋敷の美人娘、お春さんの名から起名されたそうです(.)
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掛東一・掛東二・掛東三・掛東四(小字名) 上長田 
 上長田集落の春屋敷の東側の集落地帯です。掛=画のことで集落内の区割りに使用された地名です。老松神社(おいまつじんじゃ)を中心にお西・お東・お南の集落割りもあります(.)
 
明治6年上長田測量地図   緑線活字は編集追加文字です
  (じん)(うち)(小字名) 上長田
 上長田集落の老松神社の東方の現在畑の地名です。昔、武家屋敷(ぶけやしき)があった事による地名です。言伝えでは柳川藩士の坂井家の屋敷がここに建っていたという( )
    【郷土の人物伝・坂井親秀(ちかひで)
 柳川藩の剣術は家川念流電撃抜打流神影流が主流であった。柳川藩の剣術師範(しはん)坂井親秀(ちかひで)天保元年(1830)11月に南長田村(現・上長田)の坂井家で生れた(.)23才で柳川藩の家川念流剣術の免許を持ち、26才宝蔵院(ほうぞういんりゅう)剣術の免許を得て柳川藩の剣術の師範となった( )身長6尺(180cm)の大男で、9尺(240cm)の(やり)を8畳の間でブンブン振り回していたという。明治33年78才で亡くなっている(.)
息子の親朝文久2年(1862)25才家川念流剣術の免許を持ち(.)のちに大石雪江今村広門について大石神影流(おおいししんかげりゅう)(大牟田市宮部)を修行(.)明治23年(1890)に免許を得た。また居合術(いあいじゅつ)にも長じ畳に紙を立て、抜討に(.)これを切って畳には少しも触れなかったという剣術の達人であった(.)明治44年に65才で亡くなっている。末裔は上長田にお住いです(.)
そのほかに柳川藩には女性の揚心流(薙刀(なぎなた)術)が御禁流(門外不出)として伝わっていた。御殿女中の不測の事態への対処の心得として始まったらしく、振袖姿に(たすき)掛け、白足袋を着用する。鉢巻(はちまき)(たすき)は包帯に代用するために縁取しない布を使っていた。振袖姿の演武は華があり、注目を集めていた(.)
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 長田(小字名) 
 下長田集落の北西部の矢部川河畔に「長田」の小字名が残っている( )古老によると下長田にあった老松神社は昔、洪水で流され上長田に移転されたとの言い伝えがある( )それが由縁か神主さんの祭礼の始まりは下長田から行われる慣習(かんしゅう)がある。この小字の長田が昔の老松神社の所在していた場所ではないかと思います(.)
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後鶴(うしろづる)西津留(小字名) 下長田 
鶴は、鶴亀といってとても縁起のよい言葉で、鶴丸、鶴田などさまざまである( )ツルが後鶴のように語尾につくと、意味が変わってくる。おめでたい意味ではなく、水の曲流部にできた小平地を指す( )下長田と上長田に広がる矢部川の近くに後鶴の地名がある。ツルとは朝鮮(ちょうせん)から来た言語といわれ、川の(よど)んだ所ということです。耕地・畑を意味する説もあるが、川の淀みが付近の田畑まで拡がったものと思います( )また鶴の地名は鶴渡来伝説によるとも言われています。昔は九州・中国・四国にかけて、あちこちに鶴の飛来地(ひらいち)が実在したとの新聞記事にも接しました(.)長田の鶴飛来伝説は信頼性があり矢部川河畔の水田に下り立ち優美な鶴の姿態を再現したいものです(.)ほかに鶴の付く地名は本郷の名鶴や南校区の東津留も上小川の中津留も同じ意味の地名です(.)
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 清水願(小字名)
田んぼや畑の地です。清水観音を信仰して付けたか、水の恵みを願ったのでしょう。
 東前(小字名)
 前は集落の入口の意で、上長田の松ノ木集落の入口の畑や田んぼの意の地名です。
 栗ノ内(小字名)
 長田地域の中央部にあり中世において、荘園や公領を基盤(きばん)として成長してきた武士団の屋敷または領地から起名したもので、長田にも豪族が居たであろう。堀ノ内や栗ノ内(堀が栗に転訛したもの)は武士の城や(とりで)・屋敷を意味する言葉です。
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 九品寺(くほんじ)(小字名) 
 長田地域の中央部にあり、当初この地域に、九品寺(くほんじ)の建物があったが、廃寺になり本郷で再興されたのが、現在の禅宗九品寺ではないかと思われる。上長田の九品寺地名域には、現在でも小仏堂があって、かっての寺院の名残りをとどめている(.)


赤矢印緑線活字は編集追加文字です
 壇ノ池
 矢部往還の三里石のある北側の池の名です。現在のくすのき館付近で川魚が良く獲れたという。戦後の昭和26年頃に埋められ水田となっています(.)
今赤目(小字名)     
珍しい地名です。水上小学校の東側の田んぼの地名です。「今」は新しくの意です( )「赤」はアイヌ語で akka, wakka で水、水流、川のことで、「目は」 mem 湖沼、湿地(しっち)のことだそうです。東隣にある赤目(あかめ)の土地の後にさらに新しく出来た泥水が流れ込んだ沼か湿地と思われます( )瀬高町にも石器・縄文時代に住んだアイヌ民族の地名の残存が長田・小田集落の境にあることになりますね(.)
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水守(小字名)
横尾山の麓の水田で下長田方面の水田に水を引く水流の調節をする重要な場所であったであろう(.)
 肥後町(ひごまち)(小字名)     
 下長田の娘村としての「山添(やまぞえ)」の集落付近にある。中世において、肥後(熊本)の菊池氏が度々瀬高地方で、大友氏等と戦いました。室町幕府時代の永享(えいきょう)4年(1432)から32年間は肥後の菊池氏が守護職になり筑後を治めました( )そうした関係で、肥後の人々が移り住んだか、一時的にも、菊池氏の(やかた)があったことによる遺名(いめい)と考えられる。長田の肥後橋姓もこの地名からの起こりでしょう。大広園(おおひろぞん)にも肥後町の地名があるが同じ関係でしょう(.)
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 福竜(小字名)       山添
 東山中学校東付近にある所です。。竜神を祭った地名で干ばつ時には雨乞(あまご)いの祭事を行ったでしょう( )福が付くので稲作の豊作を願い「福」の訪れることも願ったのでしょう(.)
横尾(よこお) (小字名)     長田・女山
下長田の横尾寺(廃寺)から起名されたものである(.)横尾は谷や寺院、人びとの姓にもなっている地名で、逆語順がとられ、尾根.つまり山の横、「尾横」となるべきものが反対になっている。「(.)瀬高」も同じく、南方系の語源である。また一説には「地名アイヌ語小辞典」によるとYOKOには弓や槍をもって獲物を待ちかまえる、ねらう、待つの意がある(.)狩をする所の地名にこのYOKOが横の当て字で名つけられたとも考えられ、当地の先住民はアイヌ民族だった可能性もある。有明海沿岸にはアイヌ語地名と称されるものが点在している(.)瀬高地方で休むことを、「よこう」「よくう」というからアイヌ語のYOKOと同じ意味の「待つ」と酷似(こくじ)しています。大草にも同類の横尾の小字名があります(.)
 
     【下長田】
 集落の中を柳川城から矢部村に通ずる矢部往還が通っている。道が直角に曲りくねっているのは、外部から馬で襲撃されるのを防ぐ為です(.)下図の測量地図には若宮神社は南の水田に鎮座しています。現在の若宮神社前の通りは明治・大正時代に造られた新道です(.)部落の北側には殿さまが狩りを楽しむ御塒付(おとやつき)藪がありました。(下図参照)下長田の伝敬寺(でんきょうじ)(1823年まで浄円寺の名)は上長田の老松神社境内にあり、神仏混合の江戸時代は宮司を兼務していた(.)その由縁で下長田に移っても先代の住職まで正月には老松宮にお経をあげている(.)昭和35年で途絶えている。祭りには餅とお神酒が届けられている()
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下長田測量地図  赤矢印活字は編集追加文字です
西前一・西前二(小字名)       下長田 
下長田の矢部川付近の田んぼです。前は集落の入口の意です。本郷から矢部村に行く矢部往還の下長田の入口です(.)
屋敷・屋敷二・屋敷三(小字名)   下長田
昔は家の事を屋敷と呼んでいた。下長田集落を三つに区分けた小字名です。地図を見ると若宮神社は測量した明治12年頃には南の川沿いの田んぼの中にある(.)そばの小さい寺社は屋須多さんか薬師堂であろう( )現在の若宮神社の前の道路はこれ以降に建設され(.)下長田の豪農の寄進により移築されたと見られる(.)江戸時代までは集落を通る道は防衛の為に直進の道は避けています(.)
八龍(はちりゅう)(小字名)       下長田
この小集落一帯は小高く、干ばつ時には水不足の甚しい所です。八龍とは八大龍王(はちだいりゅうおう)のことで国語辞典には「仏法を守る八体の龍神。すなわち、難陀・跋難陀・娑迦羅・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅の称。雨や水に関係するとされることが多い。八大龍神。」とある。宗教的竜神を祭った地名です(.)現在の八龍集落には、やはり水神の八つの腕を持つ八臂弁財天(はっぴべんざいてん)像を祀る八龍神社がある(.)
                           
 八拾町(やぞまち)(小字名)  下長田・山添
 下長田の八龍の東の田んぼ名です。ヤソとは湿地(しっち)と雑木林などの不良地を示す意味ですから、やはりそんな地域で下長田のこの場所は湿地であったとは思われませんので雑木林の荒地ではなかったかと考えます(.)
 北古賀・北古賀二・北古賀二 (小字名)  下長田
 古代の法律語の空閑から古賀・古閑の文字が出来た説と水の流れの乏しい所をコウゲと言っていたのが転訛(てんか)してコガができた説がある。大塚の古賀の北側にあり、かって砂利の多いコウラだった荒地で同じ人物が干拓した田畑でしょう(.)
 善正渕(ぜんしょうふち)・善正渕二(小字名)  下長田      
東山農協事務所付近から南東部大塚集落付近まで広がっています(.)下長田の娘村、山添はこの地域に乗っています。ゼンショウ(善正)=センジョウ(千畳)の転訛した宛字で小平地の(ふち)の意と思います。
百田(小字名)     下長田・山添   
山添集落の北の田んぼです。田んぼの面積を表す地名です(.)
 
   
宝暦9年((1759)の御塒付(おとやつき)絵図(鳥のねぐら)・(絵図複製加工スケッチ)
 
          下長田の寺社仏閣
  長田日子神社(長田の権現さん)
 現在の長田日子神社周辺は神の降臨を偲ばせる豊前坊の巨石(.)厳存し卑弥呼の居城を彷彿させる神籠石列石の横尾谷水門を配した古代自然崇拝信仰の場でありました(.)平安時代初期の弘仁元年(810)に伝教大使・最澄により横尾寺が創建された。横尾寺は安土桃山時代に兵火にあい廃寺となり江戸期になり再興され(.)寛永9年5月豊前国彦山の別宮を勧請し「彦山大権現」を創建し寺の守護神として神仏習合して江戸末期まで共存した(.)藩政時代は立花藩の支援を受け横尾寺の山伏(やまぶし)達は春は田植え前に田の神を祭り、夏は祖霊祭りの儀礼をし、無病息災と豊作を祈祷し農村を歩き回っていた(.)明治元年の明治政府の神仏分離政策により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により廃寺へと追い込まれていった( )横尾寺の守り神でありながら農耕神であった彦山大権現(ひこさんだいごんげん)明治16年に下長田世話人により新穀の豊穣と国家安泰を祈願して長田日子神社として再建され神事を行うようになった(.)
   
   下長田若宮神社            下長田
 祭神は罔象女神(みずはめのかみ)。で水の女神で神水を司る神・雨乞いの神 として祀られている。伊邪那美命(いざなみのみこと)が亡くなる時にその尿から生まれた神とされています。古事記では弥都波能売神(みづはのめのかみ)と書かれ、日本書紀では罔象女神と書かれています。神社の傍には矢部川が流れ周辺は水田で、水害や干ばつに苦しみ作物の豊作を願って建立されたであろう(.)例祭は上長田にある長田全域の氏神さん老松神社と同じ10月15日である(.)当日は老松神社から祭りの招待がある。古老によると上長田の老松神社は昔は下長田の船小屋病院付近にあり(.)洪水で流され上長田に移転されたとの言い伝えがある。それが由縁か神主さんの祭礼の始まりは下長田から行われる慣習がある(.)
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  伝敬寺(でんきょうじ)(白象山)    下長田
真宗西派。昔は真言宗で浄円寺と称した(.)寛政8年(1796)公全は西本願寺派に改め、今の寺号に改称した。公全は蒲池鎮並の落したねで亀千代と称し蒲池,13才のとき剃髪(ていはつ)した。文政6年(1823)7月また西方寺(さいほうじ )(柳川市)派配下に転派した。浄円寺は昔、上長田の老松神社境内にあった由縁で先代の住職もお宮にお経を上げている(.)女山の梅野家は柳川藩の家老由布九郎兵衛の指示により寺領を寄進し代々寺総代を勤めた(.)
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  浄弘寺(じょうぐうじ)         下長田
 真宗西派。慶長14年(1609)河次郎信成は剃髪して源理と称し(.)、水田に開祖した。正保2年(1645)第3代玄了の時現在地に移る。それより13年後の明暦3年(1657)11月に本堂が建立された(.)
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               参考文献 旧柳川藩誌 瀬高町誌  ・小字地名解説文は故鶴記一郎氏の承諾で「地名の話し」を引継いで編集いたしました。本ホームページ掲載記事の無断掲載はお断りします。