庄福BICサイト                            【禁無断転載】            福岡県柳川市三橋町中山   H24・3・29製作  H24・4・30更新

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  柳川市三橋町の中山集落は東、南をみやま市瀬高町に接し、北を沖端川を境に筑後市と接する。高い所も無いのに中山(なかやま)と、どうして言うのか疑問である。中山に残る伝承では「その昔、村落の東部に小高い山があり柳川方面から東山方面に行く人々が(.)この山を登り、彼らはこのあたりを中山と呼んだという。今の沖端川(おきのはたかわ)もこの山に突き当たって流れていた。「逆瀬堤防は(しい)の木などが茂り、恐ろしいいくらいであった。殿さま(立花帯刀家)のお屋敷に遊びに行くとお山の南の山麓に狸の親子が何匹も日向ぼっこしていた(.)人が来ると、うろたえて藪の中に隠れた」と弘化4年(1847)生れの古老の話しが残っている( )この山も明治19年(1886)に立花家14代にあたる立花寛治(たちばなともはる)が立花帯刀家の屋敷址の山を中山農事試験場開設の為に崩され畑と田になったが、当時中山では「お山崩し」と言われた( )しかし崩し残しの山が川の堤防に続いて30m位の幅で(しい)(かし)(えのき)など竹林の中に恐ろしい位に繁っていたという。中山の集落地名の由来は( )ここの山を通行した人々が東は清水連山と柳川の中間にある山の意で「中山」と呼んだのが起因とみられる( )
    【古代~中世期の歴史( )
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 八女山門地方は矢部川が形成した扇状地性沖積地である( )有明海に矢部川が運んだ土砂が次第次第に積み重なって陸地となったのが中山のように高い所は山あるいは島と呼ばれた。特に島の地名は多い。中島、津島、尾島、福島、大島、長島など水流により堆積して出来た陸地である。平成7~14年に行われた圃場(ほば)整備事業の工事の際に、地下3m位から大木が掘り出された( )これも堤防を構築する以前の古代は中山も周辺に河川が流れ込んでこのような大流木を残したであろう。弥生時代の遺跡として逆瀬から土師器が発掘されており、その時代には人が住んで生活していたと見られる( )
 *和銅8年(715)頃に実施された条里制(じょうりせい)の遺構は西部の出作り村や中山散田(さんでん)付近に残っていた。西方にある小字の四ッ橋高巣町京手黒衣(くろごろも)上幸月の田んぼがその遺構とみられる(.)(現在は耕地整備で消滅)荘園時代に入って山門地方の中心は瀬高にあり、瀬高庄と呼ばれ、役所は上庄住吉にあった( )
 平安初期の大同2年(807)真言宗醍醐寺派(しんごんしゅうだいごじは)び属した中山法正院清楽寺が創建された。平安時代の保安2年(1121)に都から藤原俊忠(ふじわらのとしさだ)は大宰府の役人になって来て瀬高地方の開発をして自分の荘園にした。俊忠が死んだ後、瀬高庄は俊忠のおばのものとなった( )その後、大治5年(1131)瀬高庄は上庄と下庄に別れて徳大寺大納言藤原実定(じってい)のものとなった。実定は待賢門院に寄付した。待賢門院とは藤原璋子のことで、大納言藤原公実の娘である。徳大寺大納言家領だった頃、中山散田の小字(こあざ)黒衣(くろごろも)別荘があった( )当時、下妻川が塩塚川へ曲がる地点で黒衣は小高く景色の良い所で、ここから上庄住吉の役所への道にヒロンガ橋(おひろいの橋)カンニョン橋(官人の橋)がありカンニョン橋の近くに側室(そくしつ)の牛の御前(ごぜ)の住まいがあった伝承がある( )その屋敷跡と思われる所が田の中に大正時代まで畑としてぽつんと2反(20a)ばかり残っていた。後世に加藤清正が陣営をしいた所とされている。その側室(そくしつ)をお祀りした小さい祠が建てられていたが耕地整備の為に西南に移されている( )鷹尾神社古文書に、乙丸名(おとまるみょう)吉冨名(よしどみみょう)(名は村落の意味)の名があり、吉冨名は中山村落の沖端川を隔てた北にあった、小字北吉冨・南吉冨の村落みられ、乙丸名は中山には第1・2乙丸(せき)の名があり上庄の西端には小字乙丸があることから中山付近にあったと思われ、鷹尾神社を氏神とする開墾者の村落とみられる( )

 藤原氏の後に繁栄を極めた平家は全国の半分を領したといわれ、九州でも支配を受けた。平家の隆盛(りゅうせい)と共に熊野信仰が各地に広がり、熊野神社が各地に出来たが、中山の熊野神社も、この時代に出来たではないだろうか。源頼朝が平家を倒して政治の実権を把握(はあく)し武家政治が続く。清楽寺両界曼荼羅はこの頃の建久5年(1194年)6月13日に作られている。南北朝時代から戦国時代になると各豪族が拠点として各々(おのおの)城(砦)を造った。近くにも本郷城・久末城・白鳥城などがあるが、中山でも堀ノ内、内屋敷から中世の環濠遺跡(かんごういせき)が発掘され中国の青磁などが出土しており強力な権力者が居たと推測されている( )

沖端川

山王神社

立花家農事試験場跡(立花いこいの森)と熊野神社境内の杉林
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  【熊野神社と中山の大フジ】
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 熊野神社の北西の沖端川に近い小字・山王の畑地に小さな山王(さんのう)神社(日吉神社・日枝(ひえ)神社)がある。本社は、比叡山坂本の山王権現(祭神・大山昨神(おおやまくいのかみ))である。昔は中山の産土神(うぶしながみ)であったが、洪水で流され、その後に熊野神社が創建され、産土神になったという。もとは境内も広かったと思われるが、現在は狭くなり(やしろ)村中小路でお守りしお祭りは村中だけで9月25日に行われていた。熊野神社の祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で左右脇には住吉大明神、春日大明神が祀られ、別に天満宮も祀られている。なお拝殿の西には広島の厳島神社(いつくしま)の祭神と同じく市杵嶋姫(おちきしまひめ)を祀る厳島神社があることは、平家全盛の頃に奉祀(ほうし)したのではと考える( )境内には3本の川が流れ中川太氏や新開福一氏などが寄進してきた杉の森があり矢五郎楼門は1m余の土盛り上に建てられている( )旧薩摩街道である公道から連なる参道の5mと大きい一の鳥居は昭和10年4月に中山小学校卒業生の有志の寄進( )以前は4mの二の鳥居は氏子中とあり山口河内守藤原豊平天保7年(1836)と刻まれていた。三の鳥居は一方に立花広茂(藩主鑑虎(あきとら))片方に立花帯刀(たちばなたてわき)延宝2年(1674)の銘があった。この銘から中山に熊野神社が創建されたのは立花帯刀の領地となってからであろう( )現在は二と三の鳥居は老朽化のために平成15年10月吉日に奉納氏子中の銘のある鳥居に建て替わっている(.)
 熊野神社の参道の石の太鼓橋神橋)を渡ると( )県の天然記念物に指定されている「中山の大フジ」があります( )言い伝えによれば、江戸時代享保(きょうほ)の頃(1716年~1735年)中山の470番地で酒造業を営む 通称「萬さん」が上方見物に出かけた際に( )「吉野の桜」 「野田の藤」と並び称された藤の名所として有名な河内野田(現在の大阪市福島区)の藤を見物し( )見事な藤の美しさに感動し、その実を持ち帰り自宅に植えたそうです( )数十年後、四尺程((約1メートル20センチ)の見事な花を咲かせるようになると、遠くから見物客が来るようになり( )賑わっていました。しかし、藤見の酒盛りをしていた武士が、酔って刀を抜き乱暴を働いたため( )萬さんは藤を熊野宮の社前に奉納したそうです。2株10本の幹からなり、藤棚(ふじだな)の広さは約1,200平方メートルという規模( )毎年4月中旬から末頃の「春の大藤まつり」では、多くの人で(にぎわ)います( 
 境内の狛犬石灯籠は上久末の諸富弥平治の奉納で文化9年(1812)の銘がある。境内の杉林は霊気を誘い、拝殿・神殿の枡形(ますがた)も立派である。神社の行事は祇園祭(旧6月25日)・引弓の祷祀(とうし)(祈り祀ること)(随時)・一番祭(旧9月25日)年末に大祷いの祀があった( )

 
一の鳥居
 
平成15年建立の鳥居
 
熊野神社

拝殿
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    観中山法正院清楽寺(かんちゅうざんほうしょういんせいらくじ)金銅板両界曼荼羅(りょうかいまんだら)
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  大同元年(806)10月空海(弘法大師)が33歳の時に中国・唐にわたり2年間、新しい仏教であった密教を学び、持ち帰った両界曼荼羅図を嵯峨天皇(そがてんのう)に献上した。曼荼羅とは密教において複雑なお経の内容を仏像、シンボルなどを用いて聖なる満ちあふれた悟りの境地を( )絵にして解りやすくしたものである。真言密教では、世界は大日如来の慈悲(じひ)を表す胎蔵界と、大日如来の智慧(ちえ)を表す金剛界とによって成り立っていると考え、前者を「胎蔵界(たいぞうかい)」、後者を「金剛界(こんごうかい)」と呼んでいる。そして、これらの2つの世界を曼荼羅で表したものをそれぞれ金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅と呼び、両者をあわせて両界曼荼羅とも呼んでる( ) そのほとんどは、紙や絹布に画かれたものです。瀬高庄内にあった清楽寺にも、かって鎌倉時代初め、金銅板両界曼荼羅(こんどうばんりょうかいまんだら)が納められていた( )鋳造した銅板(縦27cm×横19cm×厚さ0,5mm左右額部3cm増)を9枚一組(縦3枚×横3枚)であるが周りに3cmの蔦蔓文様(つたかずらのんよう)彫りの額があり、上下の額は丸針金で繫ぎ、作品の縦を12個の円形蝶番で横を丸針金で繫いであるが折りたたみは不可と見られる( )大小さまざまの円相・尊像などは鋼板の裏に下絵を張り( )繊細に叩いて、裏から打ち出して前面に浮出た仏像の衣装・持ち物や背景(はいけい)の細かい部分は更に線彫を加へて図様を一層明瞭にしている。さらに鍍金(金メッキ)を施してあり技法的に注目される遺品である( )
この曼荼羅には、次の銘文があります( ) "金剛界"「大日本国鎮西筑後国瀬高御庄内清楽寺建久五年六月十三日願主慶弁工師藤原延次( )  "胎蔵界"「建久五年六月十三日金剛佛子慶弁工師藤原延次これにより、鎌倉時代の建久5年(1194年)6月13日( )密教僧の慶弁が願主となり瀬高庄の清楽寺に奉納したことが、また、作ったのが藤原延次という人であることが解ります。瀬高庄の清楽寺とは( )現在の三橋町中山地区にある法正院付近に比定する。その理由の第1は、法正院境内から江戸時代のものと思われる「田中山清楽寺」とある石柱が地元郷土史家新開勇(しんがいいさむ)氏により発見されたことによる。江戸時代までは寺号が残っていたと思われる。第2に鎌倉時代前期の凝灰岩製五輪塔が法正院境内にあり、昭和の初め頃までは、古式の五輪塔が20数基存在していた(.)この曼荼羅は、いつの頃かこの地を離れ、茨城県利根町の徳満寺に納められていました( )徳満寺の明治36年の寺有財産簿には金銅板両界曼荼羅長三尺五寸巾弐尺一寸二枚徳川家康公ヨリ寄付」の記述があり(.)同書には慶長9年(1604)徳川家康寺領寄進状写をはじめ歴代将軍の寄進状があり( )金銅板両界曼荼羅が徳満寺へと流転したのは徳川家が関係したことが思考される。昭和10年(1935)徳満寺は金銅板両界曼荼羅を帝室博物館(現・東京上野の国立博物館( )へ寄託され、国の重要文化財に指定され、三橋町公民館にはそのレプリカが展示されてています( )

 中山法正院清楽寺は大同2年(807)真言宗醍醐寺派(しんごんしゅうだいごじは)に属して創建されている。かっては西国三十三か所霊場の一つで、境内も広く子院も多数あったと伝えられている。南北朝時代の正平6年(1350)菊池武光懐良親王(かねよししんのう)を奉じて南関の大津山城や溝口城(筑後市)を攻める為に上庄に9~12月まで陣を敷いた時に金銅板両界曼荼羅が持出されたらしい(鏡山教授説)。戦国時代の天正年間(1573~1593)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の兵の焼討ちにあい記録なども失われた。現在の観音像のお胴の中に15cm直径・20cm位の焼木が入れてあるという。寛文12年(1673)立花帯刀(たちばなたてわき)が中山村を領地にした際、再興して本院を祈願所として信仰されてきた。明治時代になると帯刀家の支援が途絶え、門徒のいない俗に言うアン寺となる( )昭和10年頃から無住寺となり境内も狭くなり、部落で管理するようになる。昭和28年(1953)の水害で被害を受け( )昭和33年(1958)に建て替えられ、ほぼ現在の姿になった。この観音堂には、閻魔王像(えんまおうぞう)と信者から寄進された般若心経(はんにゃしんきょう)が納められている。
 
胎蔵界曼荼羅(徳満寺所蔵東京国立博物館に寄託)本物
 
法正院・清楽寺


清楽寺石碑
 
境内の石仏

金剛界曼荼羅
金剛界曼荼羅高画質像は徳満寺と東京国立博物館に申請中
 胎蔵界曼荼羅は中尊の大日如来(だいにちにょらい)の周囲に、さまざまな働きをもつ405尊の仏を一定の秩序にしたがって配置したものであり、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅という。全部で12の「院」(区画)に分かれている。遍知院(へんちいん)持明院(じみょういん)、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、観音院(蓮華部院)、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぐ)院、が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、中心に位置する「中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)」の大日如来(だいにちにょらい)の抽象的な智慧(ちえ)が、現実世界において実践(じっせん)されるさまを表現するという。周囲の8枚の花弁をもつ蓮の花に、4体の如来(にょらい)宝幢(ほうどう)開敷華王(かいふくおう)無量寿(むりょうじゅ)天鼓雷音(てんくらいおん)4体の菩薩(ぼさつ)普賢菩薩文殊師利(もんじゅしゅり)菩薩観自在(かんじざい)菩薩慈氏(じし)菩薩)の計8体が表される。これも 内側から外側へ向かう動きを暗示し( )大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという( )    金剛界曼荼羅は九会(くえ)から成る9つの曼荼羅の集合体です。中心にある「成身会(じょうじんえ)」は智慧(ちえ)の活動中心であり、あるいは修行の始まりです。マスの内側に大きな月輪(がちりん)があり、これを大金剛輪と言い、その中に5つの解脱輪(げだつりん)があり( )中央の解脱輪に座っているのが大日如来( )これを囲むように東に阿閃如来(あしゅにょらい)南に宝生如来(ほうしょうにょらい)西に無量寿如来(むりょうじゅにょらい)北に不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)四仏の解脱輪が囲んでいます( )対角の四隅の八体の金剛は装飾された8本の( )を表し上へ々と金剛輪が重なりながら( )高層な建築物が完成するように構成されています。成身会(じょうじんえ)」の周りにの「三昧耶会(さまやえ)」は73尊、「微細会(みさいえ)」は37尊、「供養会」は73尊、「四印会(しいんえ)」は13尊、「一印会」は1尊(大日如来)( )理趣会(りしゅえ)」は17尊、「降三世三昧耶会(ごうさんぜさんまやえ)」は77尊、「降三世三昧耶会」は73尊あり( )全部で1461尊の仏・菩薩・天で構成されています。これらの九会(くえ)は2種類の流れを形成しています( )中央の成身会から右回りに進み、最後に右下の降三世会会まで展開する向下門(こうげもん)は、仏による救済の道を表わしたものです。逆に降三世三昧耶会から左回りに上昇する向上門(こうじょうもん)は密教修行により悟りに至る道を表わしています( )



西
西


 
 
 絹布製の胎蔵界曼荼羅「例)
 
 絹布製の金剛界曼荼羅「例)
  

明治17年頃の中山村の測量地図
 北吉冨・南吉冨(集落最北部)
 鷹尾神社古文書に、乙丸(みょう)、吉冨(みょう)(名は村落の意味)の名があり、この両村は中山村落内あるいはそのその付近にあったと思われる。現在は沖端川を境界として三橋町新村の土地となっています。明治の整備事業で川の南側にあった新村の田んぼと入替えたと思われる( )
   四ッ橋(西北部)
 クリークに囲まれた田んぼで橋の数による記名でしょう。
  溝口
 流れてくる「溝」のような細幅の小川が姿を現す場所、つまり「溝」の入口となることから、「溝口」(みぞのくち)と呼ばれるようになったと考えられている
  京手
 お堂の維持のため出来た作物を経費の為に使用する目的の田んぼでしょう。
   来迎寺(らいこうじ)
 瀬高町上庄にある来迎寺の寺領です。
   花宗
 立花宗茂に由来する田んぼです。
   道長
 クリークに沿って長ーい道がある田んぼの意です。
   拾三歩
 田んぼの広さによる記名です。
  寺前
 照安寺の西にある田んぼで寺の手前を意味する。
  出口
 中山集落の西の出口を意味する田んぼ。
      【近世の歴史】 
 五拾町交差点を北に800mほど行った黒衣(くろごろも)に加藤清正陣営跡の碑が建つている。慶長5年(1600)10月、関ヶ原の戦いで徳川方に味方した加藤清正は三池街道を通り瀬高方面から、豊前の黒田長政(ながまさ)は水田方面から、柳川に近い佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)は大軍で大善寺方面から、徳川家康の命令により、西軍(豊臣方)に味方した柳川城主・立花宗茂(たちばなむねしげ)を攻撃するため、三方から柳川城に押し寄せて来た。この時、加藤清正が陣営をしいた跡が中山の黒衣(くろごもろ)です。加藤清正慶長2年(1592)朝鮮出兵の時、蔚山(うるさん)窮地(きょうち)(おちい)っていた時に、宗茂に助けられた恩があるので度々(たびたび)柳川開城を勧めた。宗茂も開城を決意し最後の話し合いを黒田鍋島の立会いで清正の陣営黒衣で柳川代表の小田部土佐(おたべとさ)がして柳川城を開城し、そのあとを石田三成(いしだみつなり)を捕らえた功により田中吉政が筑後一国32万5千石の藩主となった( )宗茂肥後高瀬(熊本・玉名市)に、夫人の闇千代肥後腹赤村(玉名郡長洲町)に移り(.)清正は家臣達を熊本城に引取っている。宗茂はまもなく家康陸奥棚倉(むつたなくら)1万石を与えられて、大阪陣での軍功を認められて柳川藩2代田中忠政(ただまさ)が病没すると、無嗣断絶(むしだいいぜつ)(跡継ぎがないため大名家を取り潰すこと)により改易となった後、宗茂元和(げんな)6年(1620)筑後南部10万9千石の柳川藩主となり再び柳川城主となりました( ) 

加藤清正陣営跡
(中山散田地区構造改善センター)
昭和4年(1929)、この加藤清正公陣営の跡に、昭和天皇の即位(そきい)を記念し、中山青年団によって記念碑が建てられました。その後、土地基盤整備事業などのたびに移設され、次第に風化してきたので、平成9年1月、新しいモニュメントが設置された( )
    
 慶長7年(1602)に藩主田中吉政により柳川辻町(つじまち)を基点として筑後の全域の道路に1里毎に標石を建てさせた。柳川から久末で一里石、上庄の出口の追分碑を北に折れ大名・高級武士の宿泊( )休憩所のお茶屋前を通過して先の三軒屋には休息する馬水茶屋があった。左に分岐した狭い道は下北原橋を渡り西方庄屋小路寺前(てらのまえ)の中山村落内を通る古い道で現在でも古賀橋を渡り西牟田方面に行ける道である。さっきの馬水茶屋から50m先の三軒屋天満宮を右横に見て( )広い坂を登ると二重堤防の外側の土居の上の街道に連なり中山村の土居崎地蔵の横に二里石があり、本郷村へと抜けた。( )玄徳稲荷も土居崎地蔵は堤防上の街道から7~8の石段を降りていた。古くから、この道は矢部村を通り豊後国(大分県)までの矢部往還(やべおうかん)として使用され、矢部川の堤防の役目もしていた。元禄9年(1696)には参勤交代の薩摩街道として使用された( )享保7年(1722)に矢部川の二重堤防が逆瀬まで完成している( )当時の堤防工事が発達していなかった為に内側と外側に2つの堤防を築いて洪水を防ぎ、その間は旧河床氾濫原の低湿地帯が多く、また瀬高分も湾曲して入り込んでいたが堤防の大改修で面目を一新した( ) 玄徳稲荷に移された二里石 
大正時代に参勤交代の旧薩摩街道の堤防は削られて低くめられ( )二里石は失われたが昭和57年に地元有志により復元され( )さらに平成20年の県道703号柳川・筑後線の新設工事で玄徳稲荷神社に移されている( )
 寛文12年(1672)に中山村は立花帯刀家(たてわきけ)の領地となった。

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   立花帯刀家所領の中山村
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  帯刀家(たてわきけ)は柳川藩立花氏の親族です。立花内膳家(ないぜんけ)とともに「御両家」として藩の信望をあつめた。初代の帯刀とは立花茂虎(しげとら)のことで3代藩主立花忠茂(ただしげ)の長男であった。父は継室(けいしつ)(後妻)の徳川秀忠の養女(伊達忠宗の娘)・鍋子が生んだ鑑虎を藩主とし、家督(かとく)をめぐる争いを避けるために年長である茂虎を紫野大徳寺に出家させようとしたが茂虎はそれを拒み、父の怒りに触れ、藩士立花九郎兵衛にあずけ謹慎させたた( )茂虎は藩政をよそに読書にふけり、若い日を俗世から離れて生活した。しかし父の忠茂が逝去(せいきょ)し、藩主となった鑑虎は兄の不遇をいたみ、茂虎寛文12年(1672)領内の中山村(三橋町)に領地を与えて優遇し( )後に山崎村(立花町)と合わせて2300石に加増され、立花内膳家と共に藩の信望を集めた立花両家の一つ、立花帯刀家(たちばなたてわきけ)が創設される。茂虎の幼名は鶴寿(つるひさ)。通称、帯刀(たてわき)。号、好白で通称名から帯刀家と称された( )帯刀家の家来は、藩外に出る折には藩士同様の資格が与えられ、また他家の家来と違って( )藩士に無礼なことがあっても、直ちに切り捨てられることなく、一応帯刀の承諾を得ねばならなかった( )また中山村の農民も帯刀家の直支配となり、家来に准ぜられ、他村の農民より権威があったという( )

            立花柳川家系図

               ①内膳家政俊(まさとし)②内膳家種俊(たねとし)
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         ①宗茂──②忠茂(弟・だだしげ)─┬─③鑑虎(あきとら)─―─④鑑任(あきたか)──
(帯刀家の貞俶を養子とする)
                       |          
                    
帯刀家茂虎(しげとら)       |
                                                   
                    帯刀家茂高(しげたか)次男を養子へ貞俶(弟さだよし)─⑥貞則―⑦鑑通―⑧鑑寿(5弟・あきひさ)─⑨鑑賢(あきかた)──⑩鑑広(兄・あきひろ)―⑪鑑備(弟・あきのぶ)―⑫鑑寛(あきとも)養子          
                                                     
                    主水家茂之(しげゆき)      
                       |                                                       
                    主水家茂矩(しげのり) ― 帯刀家茂親(しげちか) ― 帯刀家茂旨(しげむね) ― 
 帯刀家茂教(しげのり) ―  松千代家茂尊(しげたか)のちに改名して帯刀家茂樹(しげき)となる。
         
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   近世女流漢詩人 立花玉蘭(たちばなぎょくらん)
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 立花玉蘭は柳川藩の親族である帯刀家の3代目、立花茂之(たちばなしげゆき)道印)の娘(次女)として生れたのは、おそらく父が中山村に移った享保18年(1733)前後と思われる。幼き頃は沖端川で川遊びを、近くに広がる田んぼや畑では蓮華(れんげ)や菜の花を摘み近所の子供たちと遊んだことでしょう。「旧柳川藩志」には「内膳家は武を以て鳴り、帯刀家は文を以て聞ゆ」と記され、曽祖父の茂虎以来、中山村に隠棲(いんせい)して超俗のうちに漢籍(かんせき)に親しんできた家柄が玉蘭が学ぶ年頃になると他の女性とは違って化粧もせず、ひたすら漢詩の道に没頭した。最初は藩の漢詩文芸のに通じた老詩人武宮謙叔に漢文を学んだといわれる( )中山夫人とも称された14・5歳のころは、肥前の仏教のほかに儒教も修め,詩文に長じた黄檗僧、大潮元皓(だいちょうげんこう)和尚に師事した( )大潮和尚の紹介で詩文における大家である服部南郭(はっとりなんかく)に添削を受けることができた。南郭は京都の人で名を元喬(げんきょう)といい、字は子遷南郭はその号である。「中山詩稿(なかやましこう)」の序文には「服元喬」の署名があり、南郭への仲介の労をとったのは三縁山増上寺の円海上人であったとある。芝の増上寺(ぞうじょうじ)は立花帯刀家の菩提寺の1つ瀬高町下庄上町の引接寺(いんじょうじ)と同じ浄土宗であり、円海は引接寺にも立寄り、あるいは住職にも席を置いた時があったであろう( )引接寺は室町時代文明11年(1479)に僧深誉が開基し初めは遍光山と号したが、14代の諦誉元阿上人の時に享保(きょうほ)17年(1732)12月下庄の大火で寺内残らず焼失した。寛保元年(1741)に僧一誉によって復興し( )彼を中興の祖として今日の及んでいる。この一誉上人に深く帰依(きえ)したのが玉蘭の父茂之であった。現在の山号「聖龍山(せいりゅうざん)」は茂之の院号により、名ずけられた。玉蘭もこの寺を愛したらしく「中山詩稿」には「遊引接寺」という五言律詩(ごごんちっし)が収められている。また玉蘭の弟達はのちに一誉上人の弟子となっている( )帯刀家の菩提寺はいくつかある。宗永寺(山川町九折)には初代茂虎と妻の栄林院、4代茂短、5代茂親、らが、また九品寺(本郷)には初代茂虎(しげとら)と妻清光院、2代茂高(しげたか)、その弟茂明(しげあき)らの墓がある。寛保元年6月玉蘭の父茂之は自分や弟の柳川藩5代藩主貞俶の母でもある玉線院を引接寺に葬った( )玉蘭が家老職の家柄の矢島釆女(うねめ)行崇)に嫁ぐのを条件に、父に「中山詩稿」の出版をねだった。父茂之の切なる願いによって( )引接寺の住職になっていたとも言われる円海上人はこれをたずさえ江戸に上り服部南郭に出版を乞うたとみられる( )玉蘭は結婚後まもなくこよなく愛した父と死別した。,宝暦14年(1764)3月に江戸で一流の「嵩山房(すうさんぼう)」から国内2番目の女性による漢詩集「中山詩稿」が刊行された。すでに彼女は柳川城の南西にある矢島屋敷の女主人であった( )実子の主水通達)も母の血をうけて詩文にすぐれた才能があったようだ。玉蘭は60の坂を過ぎた寛政6年(1794)3月18日に世を去った( )夫の行崇(長空院殿州誉徳峯凌雲大居士))も寛政11年(1799)9月16日に69年の人生を閉じ柳川の瑞松院(片原町)に葬られた(.)一方、引接寺の帯刀家の墓所にも帯刀家5代茂親(しげちか)によって玉蘭(貞松院殿大誉恵林妙真大姉)の墓が建てられた( )亡くなって36回忌の、文政13年(1830)12月、引接寺22代住職上人の時に碓井木村の3氏の手によって記念碑が建てられた。原艸也(はらそうや)は「柳河百家集」にみえる原草也であろう( )   
      (前田(よし)著・「近世女流漢詩人 立花玉蘭 その生涯と作品 参照)
   
大悲閣とは観音菩薩を安置した本吉山普門院清水寺の建物であったといわれる
文政4年(1821)に岩神水路が設置された。この水路は沖端川の排水の為の逆瀬堰(なめし)まで沖端川に沿って流れ( )ここで上久末水路に分水される。本流は南に流れ、立花農場の東側にある「象の(はな)」と呼ばれる小堤で中山村に取水される。さらに西流し、中山小学校裏から庄屋小路の第一乙丸堰(五拾町と久末方面の分岐点)に至る。この堰では昔から水争いがくり返され、そこで細かい取決めがあった( )慣行は荒水に限り、五拾町掛りは、3日3晩(日出に始まり3昼夜72時間)久末掛りは、4日4晩96時間で、以後の普水は、50町掛りは2日2晩、久末掛りは、4日4晩をくり返し( )この並水6日周期の原則は落水期までつづく」とあった。本流はさらに南流し五十町検校堰(けんぎょうせき)に至り、分流はさらに第2乙丸堰で下久末と南大野の堰へと分水されていた。第2乙丸堰は、昔は二股と言っていた。なまずや鮒がよく釣れた。昭和16年からの県営の大改良工事で今日のような姿となった( ) 
 安政年間(1854~59)の記録によれば中山村の石高は1080石77町となっている( )
 
   山王(さんのう)
 山王権現信仰による記名です。村中の氏神、山王神社が鎮座している所です。
   宮脇
 熊野神社の脇にある場所をいう。
  寺前(てらのまえ)
 照安寺の前の地名です。 
 庄屋小路(しょうやしゅうじ)・西庄屋小路
 庄屋が住む路地をいう。村の中心であったろう。
 西方・東方・村中・北村中・寺小路
 中山村の方角や寺の位置による住まいの場所の記名です。
 内屋敷・屋敷
 立花帯刀家の屋敷が後には別邸や畑(立花農園)があった場所です。
 逆瀬(さかせ)
 洪水時に水が逆流していたことから起名されたものです
  土居下・土居ノ下
 矢部川の土居(薩摩街道)の下の畑地です。享保7年(1722)に矢部川の二重堤防が逆瀬まで完成して洪水時の遊水地の役目をした。
輿十(よじゅう)
 矢部川の土居の下の畑地を意味する。
  上三本松
矢部川の中山村から本郷村にかけて松の木が多かった。これは柳川藩主・立花宗茂豊臣秀吉の朝鮮征伐に参加して( )朝鮮から捕虜として連れてきた、布織、印刷、医学の技術者を領内に住まわせた。その時に本郷や中山の川堤に朝鮮松を植えたとある( ) 
   與拾(よじゅう)
人名とみられ、矢部川の河川敷を與拾という人が開墾した所でしょう。   
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   【立花家農事試験場】
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  明治19年(1886)には中山集落の東北端の立花帯刀家の屋敷跡に日本最初の民営農事試験場である立花家農事試験場(別名、中山農場)が伯爵立花寛治(たちばなともはる)により開設されました。柳河藩最後の藩主鑑寛(あきとも)の次男として安政4年(1856)に生まれています。明治7年(1874)、殿様の時代ではなく、旧藩主は「華族(かぞく)」と呼ばれる時代に父の隠居にともない僅か18才にして立花家の14代当主となり家督(かとく)を継いでいる。寛治公は農業の振興が国の発展につながると考え(.)明治13年(1880)津田仙が開いた東京の学農社農学校に入塾し(.)農業の知識を深めようとしたが、実践(じっせん)における農業を志し下谷(現在の上野)の邸に簡易な農場を設けますが手狭のために、偶然にも親族の立花帯刀家(たてわきけ)が所有していた中山の土地を手に入れることができました( )屋敷跡の高地を平らにし(中山ではお山くずしと称した)その他にも田畑を加え、果実園(約2町)( )田作(1町2反)・畑作(8反)茶園(1反)桑園(1町3反)の総面積5町7反余り(約5,7ha)に開設された( )
立花家農事試験( )

創設当時の立花家農事試験( )
沖端川の水源地に間近で、農業を行うには肥沃(ひよく)で広大な土地、中山農事試験場では、寛治、自ら地下足袋に(すき)(くわ)を取り、数多くの果実(リンゴ・梨・みかん・枇杷(びわ)・柿・桃・サクランボ・葡萄(ぶどう)・イチジク)や野菜(大根・かぶら・人参・芋・じゃがいも・柳川茄子(なす)・ねぎ・カリフラワー・セロリー・アスパラガス・白菜・トマト・西瓜・かぼちゃ等)穀物(水稲・小麦・大麦・裸麦)や茶・(はぜ)・桑・(こうぞ)や養蚕・養蜂や養鶏(ようけい)・養豚などの試験を行い、その結果を出版物として刊行したり、あるいは近隣の篤志家(とくしか)たちを集めて種苗交換会や品評会などを開催しました。そのような過程を通じて、全国に広まったものに、今日、早生(わせ)品種としては最も流通している宮川温州(みやかわおんしゅう)みかんが挙げられます。大正時代になると全国各地に県立の農業試験場が設立され( )農業政策も整えられていくようになりました。その結果( )中山農事試験場の存在意義も次第に薄れていったのです( )試験場としての役割を十分に果たしたと感じた寛治は、大正9年(1920)1月に「立花家農場」とその名を改め( )商品作物の栽培に力を注ぎました。寛治昭和4年(1929)2月5日に71年の生涯を閉じるま( )中山農事試験場(後に立花家農場)の経営に身を捧げました( )現在、時の地形や樹木の植生を生かして「立花いこいの森」として整備され( )バーベキュー広場や、芝生広場(ピクニック広場)があり、公園に隣接して熊野神社があります( )

立花いこいの森





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藩政初期、柳川藩の山門・三池・三潴・上妻・下妻5郡169ヶ村は郷方8組の大庄屋組編成があり本郷組(中山・上庄・木元・吉開・新・五十町・上久末・下久末・東百町・ 西百町・上沖田・下沖田(以上山門郡12村)本郷・芳司(ほうじ)・吉岡・禅院・山中・小田・南長田・下長田・上坂田・下坂田の村(以上下妻郡10村計22村)に所属していた( )

明治22年(1889)4月、山門郡 百丁村, 久末村, 中山村が合併して川辺村となる( )

明治25年(1892)7月、中山に小学校ができる( )

明治40年(1907)4月宮ノ内村・川辺村・川北村・垂見村の四村が合併して三橋村中山となる( )

昭和6年(1931)9月国鉄佐賀線が瀬高~柳川開通。中山小字四ッ橋に三橋駅ができる( )

 昭和8年(1933)国鉄佐賀線柳川~大川まで延長・昭和10年に佐賀まで開通。昭和62年廃線( )

昭和27年(1952)6月、三橋村が町制施行。三橋町となる( ) 
  
昭和28年(1953)矢部川の大和堰の堤防が大雨で崩れ中山は洪水で大被害を受ける( ) 
     
平成17年(2005)3月21日、柳川市・大和町と三橋町が合併し、新たに柳川市三橋町中山となる( )


平成8年(1996)三橋町が立花家より譲り受け「立花いこいの森」として整備される( )

平成20年(2008)佐賀線路跡を利用して県道703号柳川・筑後線の新設される( )  , 

 
旧国鉄佐賀線三橋駅跡

 
中山の三本松付近
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   ⑥ 土居崎地蔵と小路(しゅうじ)の神さま
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 大正時代に土居を削って低くするまでは逆瀬(さかせ)に通ずる堤防の北にあったので7~8の石段を降りて参っていた。両側は竹やぶで6~7本の大杉があった。享保20年(1735)7月24日建立の記録がある( )享保17年頃より起こった大飢餓は柳川藩内だけで飢人(うえにん)45000人、餓死(がし)が123人の記録がある。中山でも死者を埋葬して地蔵を建て手厚く弔り死者の冥福を祈り、良き世が訪れることを願って建立されたであろう(.)中山村内を歩くと地蔵さんが多いことが解る( )どの地蔵さんも色々と由来があるが、この世あの世の願いを込めてお祀りしたものです。地蔵さんは堀の内に2か所にあり、西方、庄屋小路(しょうやしゅうじ)、西庄屋小路、熊野神社の藤棚西の各所に祀られている( )また各小路には小路の神が祀られ、田中・内村は「八幡」。東方・堀ノ内・西方は「権現(.)西庄屋小路は「スロデ」の神と呼ばれる「八坂神社」。村中は「山王宮」。寺前は「五社」さん( )散田は大正15年に再建された「中山熊野神社」の分社がある。旧暦の9月に祭りがあった( ) 
土居崎地蔵と二里石
 
熊野神社の地蔵

堀ノ内の地蔵
 
寺小路の太子堂

庄屋小路の岩神水路の鯉
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    玄徳稲荷神社と中山鉱泉 
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 創建は江戸期の寛政18年(1800)頃と言われる。祭神は玄徳稲荷大明神と徳十丸稲荷大明神とある( )御神体は、当時の庄屋が柳川からお迎えしたと伝えられている。庄屋が申請した関係から庄屋小路の人達が神社の祭りをしていた(.)中山から本郷に行く堤防上の旧薩摩街道の南にあり7~8段の石段を下って行かねばならなかった( )昔は行商の人達が、境内に建っている四角な石の上に魚や菓子をお供えて、百度詣りをしているのを良く見かけた( )昭和初期まで、人がいて病気、縁談などの占いをしていたので、近隣からお参りに来る人が多かった(.)参道の寄進された赤い鳥居に中山以外の人の名前が多いことからも解る( )神社すぐ近く(熊野神社参道入口前のタバコ屋)にあった中山鉱泉は、信心深い、右衛門という人が霊夢によって、稲荷神社から出た白い提灯の止まった所に井戸を掘って沸かし( )湯に入ったら病気が治ったので湯屋を始めたという( )鉱泉(こうせん)の浴場は鉄分が多い赤い湯で、けが、打ち身、化膿(かのう)、はれもの、神経痛、子宮痛などの治療として賑わい、山門郡一円はもとより、現在の筑後市方面からの客があり、明治・大正時代は中山に2軒の宿屋まで出来ていた。昭和45年頃に廃業された( )
  
玄徳稲荷神社
  
中山鉱泉
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     照安寺
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豊後の国より柴田繁之丞は慶長年間に柳川藩に仕えたが、戦乱の世に無常を感じて出家得度され仏門に入られた( )法名を釋天億と申し、白鳥村に草庵を結ばれた。寺号を照安寺と授かった( )柳川藩史によると寺号は、大英山・照安寺とあるが、いつの時代にこの寺号を賜ったかは解らない( )2代住職の釋祐誓は、白鳥村より瀬高町二百町の地に移寺した。その後、寛永14年(1637)3月7日付けで、白鳥山照安寺の寺号を本願寺より(たまわ)る。正徳2年(1712)に4代住職の釋圓空は瀬高の地より現在の中山に移寺して今日に至る。寛政年間の7代住職( )釋恵龍寛政4年(1792)7月に柳川真勝寺の第11世住職として転任し( )真勝寺学寮に専念され、その学徳は本願寺に達し、本願寺学寮の講師として迎えたいとの命があったほどである( )晩年中山に帰り、浄土源流章玄叙の注釈書を完成されている。昭和27年に「中山保育園」を開園し、昭和30年に園舎が出来た( ) 
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     中山小学校
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中山小学校
明治25年(1892)7月、中山に小学校ができる( ) 小学校を開設する場所について、中山は、合併して川辺村となっていたので、川北村と二村合わせた二ッ河小学校にする話があった。しかし( )今まで立花帯刀家の領地で特別区であったプライドがあり(.)特に1・2年生の低学年を二ッ河まで通学させるのに中山の人達は猛反対して譲らず、たまたま伯爵(はくしゃく)立花寛治公の中山農事試験場開設などもあり、当初は1・2年生だけの簡易科の小学校が開設された( )3・4年生は上庄小学校に後には本郷小学校にも通学していた。入学するには試験があった。学校では成績が極端に悪かったり( )出席日数が三分の一に達しない生徒は留年(りゅうねん)(落第)された。この制度は好ましくなく大正4年(1915)に廃止となった( )政府は学制令をしき義務教育とし、出席奨励のために、学業優秀者・素行の良き生徒・皆勤者には年度末賞を与えた( )この制度は昭和20年の終戦まで続いた。春の運動会は校庭が狭いので三本松の河川敷で行った( )
前日は5・6年生全員で草取りしたが、はだしで行っていた運動会は時々(かや)の切り株で痛かった。運動会当日は青年団・消防団・生徒で用具を鉱泉場の脇を車力で運び( )奥の川原はあぜ道なので手運びであった。年に一度の中山の大行事で、故郷を離れて働く青年も休暇を貰い参加した。競技は生徒や青年( )一般者と交互に行われ1日を大いに楽しんだ。河川工事の時は本郷の朝鮮松原で行われたこともある。平成23年度の全校生数は32人である( )
  .引用文献・新開勇編集「中山小学校100周年記念誌」・教育委員会中山校区故郷を知る・前田(よし)著「立花玉蘭・その生涯と作品」木下浩良著「瀬高荘清楽寺の金銅板両界曼荼羅について」  
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