庄福BICサイト      21・8・1 制作  21・9・11 更新  一部堀池園の金山王 成清博愛翁




成清信愛 大正4年
成清信愛(のぶえ)明治19年(1886)、福岡県山門郡小川村堀池園(現・みやま市瀬高町(せたかまち)小川1404の堀池園)で父の博愛(ひろえ)と母の以恵子(いえこ)の長男として生れました(.)明治27年(1894)に地元の大江尋常小学校に入学する(.)

明治39年(1906)山門郡柳川町(現・柳川市の福岡県立中学伝習館(現・伝習館高校)を卒業、小学校の代用教員になったが(.)翌40年9月に辞めて早稲田大学に入学した。父の博愛が鉱山事業で借財中の時にあり(.)授業料を払えず早大の在学、復学を繰返した(.)

大正元年(1912)8月
に馬上金山がゴールドラッシュのために、退学して父の事業を助け事務長の役職となる(.)

大正2年
には祖父梅蔵の生家である浅山家の娘、静子と結婚しました。

大正4年3月
、馬上金山に在りながら郷里山門郡の郡会議員に当選した。瀬高の人々が推したのである(.)

大正5年(1916)1月
、父の
博愛の病死のあと、母の以恵子も相ついで福岡市松浦病院で病死、本宅の瀬高町の堀池園で葬儀が行われた。信愛(のぶえ)と弟の勝介の兄弟は10月に兄弟で成清鉱業合名会社を創立して父の業を引き継いだ。まもなく信愛は弟の勝介を社長に推し、馬上金山の経営を弟に委ねて瀬高町の本宅に戻り山門郡の郡会議員として奉職する(.)
しかし
11月勝介が25歳という若さで世を去り、信愛は会社を解散して、12月には、同年に創立された大分県生石(いくし)の成清鉄工所や鹿児島県の高嶺金山をを含めたその経営にあたることとなりました(.)
大正6年(1917)1月 、東洋一の高さを誇る煙突の久原鉱業佐賀関製錬所(大分市)が誕生し、茨城県日立市に送られていた鉱石は、日出港から鉱石を積載した第一日の出丸を蒸気船の「馬上丸」で佐賀関に運ばれ製錬されるようになりました。信愛 経営合理化をはかるため、「成清鉱業株式会社」を資本金二百万円で設立し、副社長に江口成護、取締役に立澤久雄日巻修吉和田皐造(所長)で取締役は的山荘のある三ノ丸通路沿いの役員社宅に住んでいた。監査役には、山門郡柳川村の江口又一郎・八女郡邊春町の宇野常吉、立石町の富部今朝太郎などの経営陣で経営合理化をはかった。(日本鉱業名鑑大正十三年発行より)
8月
には「馬上金山郵便局」が鉱山の請願局として発足した。馬上金山の従業員は事務長和田皐造以下所員100人位、社宅は郵便局東方道路の両側、元金水小学校下、さらに山の口一体にいらかを並べていた。採鉱夫、職工、雑役夫などは600人余りで、地元や遠く宮崎、鹿児島をはじめ各県からきており、朝鮮の人々も数多くいたという。これら外来者の為に、山内山の口に20棟余りの納屋(宿舎)や独身寮を建てて居住させていた。これら従業員の為に総合病院や避病院が設置され、心身の修養ならびにレクレーションの為に「倶楽部松風館」を建設した。また従業員の健康増進と、地域住民との融和をはかるため、山内に「弓射り場」や「テニスコート」などを設けた。


納屋・独身寮全景



倶楽部松風館
(写真山香町誌より)
鉱山の付近には金山橋の東西から馬上山内にかけて、飲食店、食料品店、雑貨店、酒屋、料理屋、呉服屋、薬屋、文房具店、質屋、散髪屋、木賃宿、人力車屋などが軒をつらねていた。また山内には物資の配給所があり、月末清算で、米、味噌、醤油、その他生活必需物資を御値で供給した。魚類、肉類などの生鮮食料は日出、立石、山香、高田から行商人が売りに来ていた。なお山内では「馬上金山切符」という1円、50銭、10銭,5銭、1銭の5種類の金券が発行され流通していた。(資料・山香町誌)
馬上金山工場群
(右上の建物は倶楽部松風館と機関室の煙突・手前は工場群)
大正7年(1918)信愛は、巨額の高額納税者により、若冠33歳にて貴族院議員となる。また、芸術家のパトロンとなり、多くの芸術家を育てました。教育にも力を入れ、学校設立のために多くの寄付を行っています。

大正8年(1919)2月に馬上公園の頂上に創始者「成清博愛翁」の銅像(右写真)の除幕式が行われた。彫刻家・水谷鉄也(1876 - 1943 , 東京)の制作である。
5月には馬上金山の守り神・馬上八幡社の神殿を建て替え寄進し、鉱山の安全と繁栄を祈りました。
8月、資本金50万円の成清貯蓄銀行を大分市に創立しました。
信愛は父の遺徳をしのび、和田三造画伯に「馬上金山の全景」の下絵を画き三造の奥さんが刺繍を施した馬上金山全景六曲二双の屏風絵を制作させた、当時の馬上金山の様子が描かれた貴重な作品が現在も的山荘の居間に飾ってある。刺繍の屏風の左上部分には、馬上金山で成功した当時の心境を綴った父の漢詩が織り込まれている。

貴族院議員時代の信愛(大正7年)

成清博愛翁像落成式(大正8年)
  夢遇債鬼
 百鬼縦横攻撃頻  覚来欲問夢耶真
 誰知二十余年事  漸作破顏長笑人


  夢にまで出てきて借金取りの鬼に出会う

百鬼縦横して攻撃頻(しき)り 覚(さ)め来りて問はんと欲す夢か真かと
誰ぞ知る二十余年の事 漸く作(な)る破顏長笑の人に

「夢にまで出てきて借金取りの鬼に出会う」苦労の連続。20年後の今はようやく、満面笑みの長者になったぞ」との成功者による苦労の懐古が読み取れる。(岩見輝彦氏・読み下し)

 【的山荘】日出町有形文化財 馬上金山全景・刺繍屏風絵

(屏風絵部分説明)

坑内水くみ出しポンプ用の蒸気機関装置棟から煙排出管が伸び煙突には「馬上金山鉱業所」とある。この周辺が採掘口であろう。大正8年(1919)には故・成清博愛の功績を称え、彫刻家・水谷鉄也制作の立像が馬上金山に建てられていたとあるが、山の頂上の描かれている立像がそれであろう。(しかし戦時中の昭和17年10月の金属供出で失われ現在台座が残っています。)
採取した鉱石は水平坑道をトロッコで斜坑道まで運び、ここから巻揚機で抗外にだされる。抗外にだされた鉱石は選鉱場のクラッシャーで砕き、分別してかますに詰め、積み出される。
病院は入院設備まである立派なもので、金山は一つの町と言ってもいいほど、大きくなったそうです。また、鉱夫の生活を守るために、給料の他に一日6合のお米を配り、子供のための奨学金制度まで作っていたそうです。

成清信愛
大正9年(1920)の馬上金山最盛期になると男428人・女154人の鉱夫が働いていました。(日本鉱業名鑑大正十三年発行より)第一抗は地下垂直100m180mに達し、水平坑道は第12番坑道まで掘られた。水平坑道は長いもので、東西1000m位であった。品質の良い鉱石が大量に採掘されたのは、現在の金水区(下2区)に属する旧国道、日豊本線、国道10号線、立石川、元金水小学校下、二抗付近、馬上金山郵便局東南部一帯にかけてであり、地下60~80mの地点であったという。山内にある二抗(立抗と斜抗)、鳥穴抗(立抗斜抗)。四抗(金水小学校下水平抗)は、みな地下で第一抗と連結していた。(資料・図 山香町誌より)

大正10年(1921)には成清貯蓄銀行の日出町支店を設けた。別府・杵築・国東・立石に支店を拡大し、後に競合の日出朝陽銀行の頭取を兼ねて大正15年には統合を行い、地場産業の発展を支えた。


馬上金山の社員
写真前列右から2番目は創業からの地質技師木戸氏


鉱山坑口にて馬上金山労働者の皆さん

大正11年(1922)
、まだまだと思っていた富鉱脈が案外薄く前年をピークに急激に採掘量が減少して事業が縮小される。

    【金山の衰退】
大正12年(1923)、成清の馬上金山も終りを告げる時がきた。明治43年(1910)10月に創業して以来13年間、久原鉱業の製錬所に売った鉱石は約16万2千トン、馬上金山の山元での精錬高は金が701kg位、銀が668kg(右図・本邦鉱業の趨(すう)勢による)を記録した。しかし繁栄した馬上金山も、第一次世界大戦 後の不況と金の産出量も減少に加えてコスト高もあって、月々に大きな赤字を出すようになる。信愛は馬上金山から手を引くことを決意します。
鉱業権は開鉱以来関係の深かった久原鉱業 (のちの日本鉱業 )に売却された。
成清鉱業の撤退によって事業は縮小され、多くの従業員は馬上鉱山から去っていった。その後、日本鉱業は採掘を重点とせず、成清時代に抗外に堆積してあった鉱石の山を掘起こして、佐賀関に送っていた。それでも採算がとれていたというから、成清時代には相当な富鉱石が出ていたのであろう。昭和9年頃から近代的な採鉱を行ったが成清時代のような富鉱脈は発見できなかったが、鉱山はまだ賑やかであったという



馬上精錬所での金銀量
大正15年(1926)、第一次世界大戦 後の不況で金融機関の統廃合が続く混乱の中、信愛は(株)豊和銀行の頭取として、地方財界に貢献する。
昭和2年(1927)、以前から贈答用酒に父の博愛の雅号をそのまま命名した「的山」のラベルで造らせていた蛭子屋(えびすや)の大塚家から店舗、醸造場など一切を譲り受けて、酒類の醸造を始めた。日出町藤原の「和泉」の名水を使用した豊後の銘酒であり、正月には銘酒(的山)が、年賀用に樽酒で、配られていたという。時期は不明であるが、別府の北浜の海岸通りにあった「旅館ひさご(旧、児玉旅館)」を買い取り旅館経営したこともある。また、日出家政女学校を創立して町教育会長を兼ねて育英のことにも尽力しています。
   【衆議院議員・経済界活動期】
昭和3年(1928)政友会大分県支部長の信愛は初の普通選挙で衆議院議員に当選、政界・財界で活躍をし、議員職から大分県企業の基礎を、築きました。県農会長、県産業組合連合会長、県農業会長、県組合金融統制団理事長など地方公共の為に尽力している。
11月には東山香村
(山香町)に狐平(きつねびら)金山を開鉱、再び金山経営を手がけた。


大分2区  【定数 : 3 / 立候補者 : 4 】
有権者数 : 12408678人  投票者数 : 9968084人 
   投票率80.33%  
 
得票数 名前 党派・会派等
17857 当選 

成清 信愛

立憲政友会  新 
17536 当選 

元田 肇

立憲政友会  前 
15144 当選 

重松 重治

立憲民政党  前 
14677  

堀ノ内 松十郎

立憲民政党   
昭和7年(1932)、狐平金山(速見郡立石・東山香・中山香)金・銀の採掘を行う。

昭和10年(1935)信愛は福岡県宗像郡池野村
(現・宗像市玄海 )で「成清池野鉱山」を創業、金の採掘事業を昭和23年まで行っていました。(福岡鉱山監督局資料)

昭和11年(1936)、鹿児島県の高嶺金山を鯛生産業(鯛生金山)に売却する。

昭和12年(1937)
、日中戦争の勃発の当初から4年間、日出町の無報酬の名誉町長として日出町の銃後(軍事援護)活動など町に奉仕した。昭和13年には別府南小学校の校長を勤めていた辻治六の手腕を見込み、日出町の助役に招き、昭和16年には日出町長に推挙し当選させた。辻治六は昭和21年まで8年間勤めた。


昭和14年(1939)信愛は宮崎県日向市の富高鉱山
(金・銀・アンチモニ-)を創業する。

昭和17年(1942)10月
、馬上公園の頂上に立っていた創始者成清博愛翁の銅像は第二次世界大戦時の金属回収令で供出され台座のみになった。鉱山の人や土地の人々は、金山橋のたもとで、銅像を見送った。12月には立石駅までのトロッコ軌道も撤去された。
信愛は大政翼賛会県支部顧問、県協力会議々長、中央協力会議々長。県山林会副会長として。戦時体制の拡充強化に尽力された。


昭和18年(1943)日本鉱業の馬上鉱山は国策の金山整備令で珪酸鉱山に指定され、佐賀関製錬所へ銅精錬に使用する珪酸鉱を供給していた。

昭和20年(1945)信愛は大分(小野)セメント監査役、九州電気工業取締役、国東鉄道取締役・宇佐参宮鉄道社長・別杵自動車取締役・別府合同タクシー社長として県産業、交通産業に巨大な地歩を占め、4月の大分交通(株)創立には初代社長となった。
    【成清信愛の死】
昭和21年(1946)6月
信愛は福岡市の旅行中に発病、慢性器官支炎と診断され治療していたが、10月10日に日出町の的山荘で世を去った。享年61歳。法名は「清信院殿釈良縁居士」。11日に内葬、翌々13日に大分交通社葬、日出町は16日に町葬の礼をもって送った。

昭和24年(1949)、日本鉱業の馬上鉱山は閉山され、鉱業権は南俊二社長の大阪造船kk
(のちに系列の高森鉱山kKになる)に売却され、ゴールドラッシュに沸いた馬上金山の歴史は終わりを告げました。

昭和28年(1953)日出町二の丸広小路(日出町商工会館前)
重光葵(しげみつ まもる)(元・外務大臣)の筆により「県下に遺したる功績の偉大なる実に近代稀に見る所」と記された成清信愛翁の頌徳碑(しょうとくひ)が建てられた。

晩年の成清信愛

昭和39年(1964)、別荘として建設された日出町の「的山荘」は、信愛亡き後も息子の信輔さんによって大事に守られていたが、県外観光資本から買収の話があったのを、総合マートの松本宗良ら有志の発起で有限会社「的山荘」が発起され、成清別荘は城下カレイ専門の料亭として広く市民に公開される。代表取締役は「成清信輔」、その他の重役の顔ぶれを見ると「佐藤トク」「浅山恒雄」「成清梅蔵」「成清静雄」「中島利明」「松本宗良」などでした。
(日出町商工会史)
博愛の孫の3代目成清信輔さんの妻の康恵さんが女将として板前は町内で女将をしていた佐藤トクが引き受けて、城下カレイ料理の料亭「的山荘として新しいスタートを切り、地元の高級食材、「城下カレイ」を使った料理で有名になりました。「城下カレイ」は日出町の暘谷城の南の真水の湧き出る海底で育ったマコガレイで栄養素が豊富なプランクトンが大量発生した、その餌で育ち、肉厚で、頭が小さく、大きな尾ヒレをしています。江戸時代は、将軍に献上される珍重されてきた魚であり、「殿様魚」とも呼ばれました。

昭和52年(1977)には皇太子ご夫婦
(今の天皇皇后両陛下)が植樹祭でお見えになった。美智子妃殿下から「おいしかったですよ。頑張ってくださいね」とお言葉をいただいたそうです。「大任を終えし夕べの花芙蓉」皇太子ご夫婦に食事を差上げたあとにつくった康恵さんの句である。また作家の松本清張小林秀雄ら著名人も訪れ、城下カレイを味わっていられます。
昭和60年(1985)、利用者減少のために馬上金山郵便局は廃局され、山香町大字下425-3に下簡易郵便局が新設された。旧馬上金山郵便局は現在も残されています。

      
【現在の的山荘】
平成19年(2007)3代目 の信輔氏が
夏に他界され休業されていたが、平成21年6月、町民の強い要望で再開。4代目の成清信幸(平成9年他界)の妻、和子さんが女将、成清恵司さん(34)が料理長となって再開された。城下カレイの水揚げ量が減っていることから昼食のみ営業され、室内や庭園も見学できます。庭園には秋篠宮殿下ご夫妻さまら多くの皇族の方による記念植樹がずらりと並んでいます。日出町は的山荘を国の重要文化財にするための調査をしたり、基金を募るなどして保存に向けた取り組みを進めている。

平成23年3月末で料亭は閉店、日出町が買取、民間委託して料亭が再開始されている。(的山荘電話0977-72-2321)
      
      現在の馬上金山】
山香町の馬上金山跡の現在は、成清博愛翁の銅像台座も金山の工場一帯も、草や木で覆われ昔の面影は消え、人々もここに金山があったことすら知らない。芭蕉の句「夏草やつわものどもが夢のあと」を思わせ、馬上金山45年の盛衰
(せいすい)がしのばれる。だだ旧馬上金山郵便の建物と平成16年に草木を伐採されたが、また草木の中に埋れ銅像の台座は現存しているが見ることはできない。過去の遺物として忘れずに跡地を歴史遺産として整備されることをお願いしたい。(写真提供・後藤様)

現在の馬上金山跡

銅像台座(平成16年広報やまが)

旧馬上金山郵便局

現在の瀬高町の堀池園の本邸は売却され分譲住宅が建ち並んでいる。、成清家の墓は
昭和30年頃に成清家により的山荘に近い日出町藤原鰐沢に石工により2ヶ月を要して移された。馬上金山創業者の成清博愛信愛が幼い頃からお参りしていた東に見える清水山にある清水寺
(きよみずてら)の観音さんにちなみ、観音菩薩像の鎮座した墓である。墓地跡は堀池園に寄付され共同墓地が建設された。現在、成清博愛の書で家系を印刻した高さ5mの石碑が残されている。故郷の堀池園の集落内には建て替えて寄進した天満神社も残されている。

第三部 的山荘(馬上金山鉱主・成清博愛の別荘)

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参考・引用資料 「成清博愛君葬儀録 」「馬上金山志」「山香町誌」「日出町史」「日出町商工会史」
取材協力・写真資料提供 瀬高町成清博愛顕彰会馬上金山ゆかりの木戸様・的山荘様・山香町・宇佐市後藤様・堀池園区長今村孝男様            
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