旧石器時代 (紀元前8000年頃まで) |
遠い昔、日本列島は中国大陸や朝鮮と陸続きで氷河期に寒さをのがれ、動物と共に日本列島に移動して来たものと思われる。8〜3万年前頃阿蘇山の爆発があり、地形の変動がはげしく海が出来、川の流れが変り筑後地方に火山灰が降り積もったのが赤土(筑後ローム層)であり、その中にその頃の人達が使用した石器が埋もれているのである。 | ||
当時のみやま市の地形 みやま市は清水山地一帯に縄文人が住み、南西の大半は有明海の海や潟であり、所々に州や島が点在して、矢部川は網目のように自由に曲がりくねって流れ、大洪水のたびに幾度となく流れを変え、上流の土砂を堆積し、海は浅く変化し、しだいに平野を形成していった。 |
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当時の生活 山や海の幸の得やすい清水山地一帯で狩猟、採集を行い泉そばの洞穴、岩陰に住み阿蘇山の爆発や豪雨に脅えながら暮らす。 |
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大草大中尾遺跡 (清水小谷遺跡の東北東約2500mの地点海抜300m) | ||
昭和38年3月上旬に調査。この地は尾根に近い、南面の日当たりの良い台地にあって、東西に半島のように突き出ている。ここからは打製石工具、石斧(いしおの)が発掘され、土掘りや狩猟に使用されたと思われる。無土器時代と縄文時代(中石器〜新石器時代)の、過渡期に存在した遺跡であると思われる。 | ||
長田大谷遺跡 (長田字大谷 海抜50mの台地) | ||
昭和38年3月下旬より4月中旬に調査。みかん園開墾の際発見された。石器は珪質凝灰岩で多くの石器を発掘した。石斧、すり石、矢尻などが出土している。 | ||
清水谷遺跡 (本吉小谷の清水寺参道の途中海抜50m) | ||
昭和37年6月11日から12月15日まで調査された。最初に発見された。 K1は石質は安山岩系で有舌尖頭器[石刃鏃(やじり)]で無土器時代から縄文時代に狩猟に使用した突き槍(やり)用具である。 K2は握(にぎ)って使用した斧(おの)で握り斧、 K3は皮はぎに使用した石器、 K5、K6礫器(れきき)で木の棒の先にしばり使用した石斧(いしおの)が発掘されている。清水寺に散策しながら、ここらに石器人が住んでいたんだなと感じながら歩くと古代のロマンが広がるかもしれない。 |
(清水谷遺跡出土)
旧石器時代遺跡
名称(遺跡名) | 標高(m) | 所在地 | 出土品 |
竹 飯 | 10m | 高田町竹飯元村 | 礫(つぶて)石器 |
中 尾 | 10m | 山川町大字小野字中尾 | 〃 |
小 谷 | 50m | 瀬高町大字本吉字小谷 | 礫石器、ポイント、細石器 |
大中尾 | 300m | 〃 大草字字大中尾 | 礫石器、一部磨製 |
大 谷 | 50m | 長田字大谷 | 礫石器、石鏃(やじり)、投弾、黒曜石 |
長 谷 | 50m | 大草字椎拾谷 | 礫石器 |
日吉坊 | 50m | 長田字横尾寺谷 | 〃 |
七社宮裏 | 50m | 小田字小田 | 〃 |
名木野 | 230m | 〃 小田字東谷甲ノ部 | 〃 |
獅子穴 | 100m | 大草字獅子穴 | 〃 細石器 |
西ノ平 | 50m | 本吉字西ノ平 | 〃 |
三船山 | 50m | 本吉字三船 | 洋梨型石器 |
産女谷 | 50m | 〃 大草字女山 | 礫石器 |
保 梅 | 100m | 本吉字清水谷 | 〃 |
粥餅谷 | 50m | 大草字粥餅谷 | 〃 |
山内 | 100m | 大草字山内 | 〃 |
名木野 | 50m | 〃 小田字名木野 | 〃 |
東山方面の本吉、小田、長田の標高50m〜300mの湧き水地そばの上記の山麓地帯で1万5千年前の人が使った石鏃(やじり)石斧、石包丁などの石器が60点以上出土している |
縄文時代 (紀元前300年頃まで) |
人は山から次第に平地にも竪穴住居を建て暮らし始めた。しかし洪水のたびに移住し、そのおかげで水田が開け後期には朝鮮半島や中国の黄河や長江に住む渡来人が有明の海より矢部川をのぼり稲作の生活を始めた。 |
当時のみやま市の地形 | 清水山地一帯の麓の地下地層は、一面の砂で昔の川の跡である。朝日の南の彼岸土居、上坂田から文広の北に通ずる農道や、下庄新町〜元町の道路も、吉岡土居も、中山から北原〜上庄に至るの道も昔の堤防の跡である。有富(アズミ‐アマミズ‐アツドミ)新堀、浜田、沖田、小川、古川、東津留、開、堀切、古島、河内、宇津、海津などの地名は昔、海だった名残りである。もちろん三橋、大和、柳川は海面下であり海面水準も数m高かったといわれ縄文後期はしだいに島の形成をなす。 |
当時の生活 | 清水山地一帯から瀬高町の長田、坂田、山門、高田町の平地にも人は移動して竪穴住居を建て暮らし始め採れたものは平等に分配さたと推察。共同墓地である貝塚から発見される人骨はみな一様に、粗末に平等に葬られている。 |
縄文時代の遺跡
名称(遺跡名) | 標高(m) | 所在地 | 出土品 |
広川平原 | 88.8m | 八女郡広川町平原 | 前期 |
大 谷 | 50m | 瀬高町大字長田字大谷 | 前期 |
中 園 | 9m | 〃 坂田字中園 | 後期、石皿 |
御二田 | 9m | 山門字御二田 | 後期 |
上長田 | 50m | 長田字上長田 | 中期 |
河原内 | 9m | 山川町大字河原内字中原 | 〃 |
裏 山 | 9m | 筑後市大字尾島裏山 | 前期、押型紋 |
三船山 | 50m | 瀬高町大字本吉字三船 | 中期 |
大道端 | 10m | 瀬高町大字大草字大道端 | 中後期 |
二 川 | 10m | 高田町大字下楠田二 | 前中期 |
荒田比 | 20m | 大牟田市荒田比 | 〃 |
中尾 | 10m | 山川町大字小野字中尾 | 前期 |
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土器に縄目の模様が在るので、縄文土器と呼んでいる。 後期の注口土器や深鉢などが出土、また山門、大道端遺跡からも縄文土器の破片が多数出土している。 |
弥生時代 (紀元前300年頃〜紀元250年頃まで) |
紀元前221年中国古代帝国「秦王朝」が誕生、紀元前210年王の始皇帝は部下の徐福(江蘇省)に不老不死の薬草を探しに若い3000人の男女と技術者を伴って大船団で五穀の種子と金銀、農耕機具、技術(五穀百工)をもって出た。有明海から筑後川や矢部川を経て佐賀の諸富、瀬高、八女と集団は広がり、帰化した青年3000人余と機織職人、紙職人、農耕、木工、製鉄造船、漁業の技術者により受け継がれ高度な国を誕生させたと考えられます。そのほか大陸などから多数の渡来人が入り込み部落から小国そして邪馬台国ができ、さらに東方に先住民を追い払い拡大し畿内に天皇を王とする大和朝廷を誕生したものと考える。 |
【当時の地形】 有明海の水位が下がり海岸線は弥生期になるとさらに西に移動して行き小川、大江、金栗さらに三橋、大和、柳川と島ができ平地が広がり弥生時代後期には矢部川も一定の流れに変化してゆく。、渡来人により水田、水路、道路ができる。 |
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@先縄文(旧石器時代)の遺跡は清水山一帯の30〜300mの山地17ヶ所位で石器を発掘。 |
当時の生活 弥生時代になると有明海の水位もさらに下がり山里からさらに離れた、金栗、太神、小川、有富、松田にも住まい後期になると高柳、三橋、柳川、大和、方面も大陸からの渡来人が環濠集落大勢住みつき、水田や水路の土木作業にかり出される。水稲農業を営み、金属と弥生土器の使用し住居は竪穴住居、貯蔵には高床倉庫が建てる。階級社会が成立され貧富の差があらわれ、人が死ぬと方形周 溝墓などの共同墓地埋葬され、後期は首長の為に墳丘墓がきづかれた。堤部落の集落墓地をはじめ古墳が造られていく。大陸から稲作をはじめ、青銅器、鉄の精錬の技術も渡り、高田町の田尻、田浦、山川町の蓮池山でタタラ(鉄の生産)の遺跡が確認されている。 |
邪馬台国の成立と終わり 九州北部は渡来人により、高度な文化を営む小国家が誕生、渡来人の増加により争いごとも増え戦いも絶えず乱れた。239年に30余の国をまとめて連合国の女王に女王山(ゾヤマ)の卑弥呼になり邪馬台国が誕生する。 ![]() 後期には力ある豪族は東に新天地を求め日本各地に国を建て畿内に大和朝廷を誕生させ、527年大和朝廷は当地の王、筑紫国造 磐井と戦い、筑後地方も支配下に治める。邪馬台国地方権力の完全な終焉である。 |
弥生時代の遺跡
名 称 (遺跡) | 標高(m) | 所 在 地 | 出土品 |
平 田 | 10,9 | 瀬高町大字小田 | 黒曜石 |
永興寺開 | 200 | 〃 大草永興寺 | 前、中、黒曜石 |
獅子穴 | 186,5 | 大草獅子穴 | 前期 〃 |
大道端 | 10,0 | 大草大道端 | 前、中、後期 住居跡 |
大塚屋敷 | 10,0 | 大草西屋敷 | 中期 |
草 場 | 8,9 | 大草東屋敷 | 中期 |
下坂田 | 8,4 | 坂田下坂田 | 前、中、後期 |
下小川宮 | 4,9 | 太神下小川宮 | 〃 |
北の前 | 7,6 | 山門北の前 | 〃 溝跡 通行証 |
車 塚 | 7,6 | 山門車塚 | 前、中、後期 |
中 原 | 30,0 | 山川町河原内中原 | 中、後期 |
寺 中 | 7,5 | 瀬高町大字小川寺中 | 中、後期 |
産女谷 | 50,0 | 大草女山 | 中期 銅鉾2本 |
ビワ園 | 3,6 | 大和町大字鷹尾ビワ園 | 中期 住居跡など |
金 栗 | 5,8 | 瀬高町大字金栗 | 中期 住居跡など |
有 富 | 6,0 | 〃 有富 | 中期 住居跡 錦袖 |
松 田 | 6,4 | 松田 | 中期 住居跡 土器 |
フミアガリ | 7,2 | 山門 | 中期 甕棺地帯 |
南の前 | 7,9 | 〃 | 中期 土器 |
西小路 | 7,5 | 〃 | 〃 |
東小路 | 7,5 | 〃 | 〃 |
ガラン | 6、7 | 〃 | 中期 土器 ツボ |
西塚原 | 8,4 | 〃 山門 字 堤 | 中期 土器..集団古墳 |
東塚原 | 8.4 | 〃 | 〃 |
御二田 | 7.6 | 〃 山門 | 中期 土器 住居跡 |
因 旛 | 7,6 | 〃 | 〃 |
寺 門 | 8,0 | 〃 | 〃 |
古島の西 | 4,5 | 太神 | 前、中期 住居跡 |
大江小学校 | 4,5 | 有富 | 中期 住居跡 |
大江小学校.東 | 4,5 | 松田 | 〃 |
平 木 | 3,6 | 大和町〜三橋町 | 中、後期 |
西蒲田 | 3,8 | 柳川市西蓮池 | 前、中、後期 |
坂田定角 | 9,7 | 瀬高町大字坂田定角 | 中、後期 |
棚 町 | 4,0 | 大和町大字棚町 | 中期 |
塩塚河口 | 海底 | 〃 塩塚川河口 | 後期 ツボ |
長 嶋 | 4,5 | 瀬高町大字大神 | 前、中、後期 |
上長田 | 10,0 | 〃 長田 | 中、後期 |
山川清水 | 30,0 | 山川町大字清水 | 後期 湧き水有り |
竹 飯 | 20,0 | 高田町大字竹飯 | 前、中、後期 湧き水有り ドルメン |
蒲池山 | 160,0 | 山川町河原内蒲池山 | タタラ(製鉄の跡) |
田 尻 | 100,0 | 高田町田尻 | タタラ |
女山日吉坊 | 67,8 | 瀬高町女山日吉坊 | 前、中、後期 |
女山長谷 | 30,0 | 〃 長谷 | 〃 |
丸 折 | 25,0 | 山川町河原内丸折 | 中、後期 |
朝日谷 | 60,0 | 高田町田浦 | 後期 タタラ 鉄を産す |
竹海小学校 | 10,0 | 〃 竹飯 | 中、後期 |
飯江川橋 | 9,5 | 〃 今福 | 〃 |
江 浦 | 3,8 | 〃 江浦 | 〃 |
矢加部 | 4,2 | 柳川市矢加部 | 〃 |
江 嶋 | 0 | 大和町江浦 | 〃 |
塩 塚 | 3,6 | 〃 塩塚 | 後期 高床式建造物 |
垂 水 | 5,0 | 三橋町垂見 | 後期 |
吉 開 | 40,0 | 〃 吉開 | 後期 |
磯島フケ | 〃 磯島 | 中期後半 ムラの一部(H17.6発掘)) |
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湯 谷 | 140,0 | 大牟田市 | 中、後期、タタラ 石鍋製造 |
高 柳 | 4,1 | 瀬高町高柳 | 後期の大杉有り |
大道端遺跡 |
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昭和47年7月、高速道路の建設に際し、発掘調査が行われた。この所は以前昭和36年頃より時々弥生の土器の出土を見た所で、女山神籠石の産女谷水門の全面の所である。八楽会教団より南へ300m、幅50mにわたり遺跡が発見され現在碑が立っている。表土をのけただけで次々と住居の跡が現われ、調査の結果当時としては西日本一(177戸)の大集落の住居跡が発見された。 まず古墳時代後期を中心とする住居跡の下層には、縄文時代と弥生時代の遺物も包含した地層をもつ複合遺跡であった。 |
山門地区(藤尾)遺跡 |
藤尾を中心にわたって各時代の遺跡が多数ある。昭和33年暮れより、土採り工事の際に36年1月より九大の鏡山教授らが調査した。幅6m、深さ1.7mの東西に走る環濠の遺跡と思われる内わん(内角は160度)の溝100mまでを発掘できた。この溝は住居群集落を取り囲んでいると推察される。遺物は弥生時代の土器(遠賀川式の土器)等が多く、土師器(はじき)まで無数に発掘された。 |
この時代の遺跡は数多く、大陸から渡ったタタラ(鉄の生産)の跡や古墳、高床や住居跡、環濠跡、土器、が出土。 女山遺跡では銅鉾、山川や高田では鉄の製造跡が藤の尾遺跡では通行証らしき品が出土 |
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弥生式土器 | 弥生時代の道具 | 山門堤の石棺 | |
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上枇杷遺跡(大江) | 権現塚の北東 | 甕棺(権現塚の北東) | |
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藤の尾 | 藤の尾 | 藤の尾 | |
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車塚の東側 | 車塚の東側 | 車塚の東側 | |
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金栗遺跡 | 金栗遺跡発掘土器 | 車塚の東側出土 |
古墳時代 (紀元250年頃〜580年年頃) |
卑弥呼が死んだ後、卑弥呼の墓を「径百歩」と魏志倭人伝にかいてある。私は山門の堤部落の古墳群か権現塚と思考、早急な発掘調査で解明すべきである。瀬高周辺には多数の古墳が点在している。また女山には古墳群を囲むように山城説のある神籠石が並んでいる。平成16年には装飾古墳が発掘調査され、菊池地方の古墳や甕棺と同類文化と思考され、邪馬台国が熊本県菊池地方から八女郡にかけてのかなり広域なものであったであろう。 |
当時の地形 この時代も盛んに水田、水路、堤防工事の共同作業が行われ環濠集落地と田んぼが形成され、有明海の水位の低下により現在の大和町や柳川市まで集落ができ瀬高での海岸線はなくなる。川の氾濫は盛んに起こるたび上流の肥沃な土壌が流れ込み、豊かな田園が形成された。 |
当時の生活 部落から小国、さらに連合国ができ女王を崇拝し国事に従う。上下の支配階級による命令にも従う。鉄の精錬、稲作、造船、機織り、製紙、などの渡来技術により、豊かな生活をおこなう。でも、土木作業や他国との戦いに盛んに借り出される。女山の塞城、宮殿、墓の造営に多数の人と時間を費やす。 |
みやま市古墳遺跡 古墳を訪ねて
成合寺谷1号墳 本吉部落の南端から東に登った標高60mの成合寺谷の小丘にある古墳で平成13年砂防ダム建設工事用道路敷設時発見され平成16年調査を実施。 装飾古墳石屋形風の石棚を設置し、石棚の前縁のみに三角文と菱形文を白と赤の2色で描く。これは山鹿市のチブサン古墳、前出弁慶ヶ穴古墳他が存在する菊池川流域でないと見当たらない。邪馬台国の時代から同じ文化、習慣を持った同部族の国と思考できる。 |
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四獣鏡(面の上古墳) | 清水山1号墳 | 成合寺谷1号墳 |
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女山の銅鉾 | 貝製の雲珠(女山出土) | 成合寺谷1号墳 |
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銅鉾の種類 | 尻の上部品が雲珠 | 釜戸、上の器で調理してた 金栗遺跡出土 |
飛鳥‐奈良時代 (580年頃〜793年まで) |
大化の改新で土地は国家の所有になり中央集権国家におよぶ。山門郡は山門、大神、鷹尾、草壁の5郷になつた。 大宰府が設けられ、筑後の国では国司のいる国府は御井にあった。氏姓層から公民、奴婢におよぶ戸籍が地域ごと編成、登録され、土地区画整理の条理制はこれと対をなすものであった。 |
当時の生活 |
女山の神籠石 | 明治32年に旧の東山村の女山で発見。記録が残されておらず、527年筑紫君磐井が大和政権に戦闘を挑むために築城した説と667年頃唐、新羅の侵攻に備え、女山(瀬高)ほか北部九州に朝鮮式山城(神籠石)の防衛施設を築城したとの説がある。女山中腹に約3kmに渡り70cm四方の石の列石があり谷には頑固な石の水門4ヶ所を設けている。この地は3世紀頃には卑弥呼の居城と伝えられ、邪馬台国の謎を秘めている所でもある。![]() |
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金栗遺跡 | 昭和25年4月15日より」瀬高中学グラウンド拡張の際、金栗より土を求め弥生中期〜奈良時代の環濠集落遺跡発見。 環濠集落の中央に貴重な奈良時代の木をくり抜き作った井戸を発見。町でコンクリートの側壁が施工され県指定遺跡となる。 奈良時代の釜戸(九大資料室に復元品あり)瓦、土師器、須恵器、鎌倉時代の宋青磁等が出土。 東西40m、南北30mの環濠集落の住居跡である。 |
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条理の跡 | 和銅8年(715年)土地区画整理として条理制により田んぼの区画の跡や地名が残っている。 【山門郡地区】大江字八の坪、下庄字八の坪、東津留字二の坪、垂見字三十六、高畑字八の坪など 【本吉地区】清水山から左下に見える、本吉から大木にかけての条理で、緑川、大根川流域に広がる耕地を整理した。 碁盤の目のような田んぼを遠望することが出来る。本吉六ノ江、松田佐ノ恵、大広園八ノ坪など 【本郷地区】沖端川の右岸の本郷地区は下妻郡の条理の属する。本郷、長田、小田。禅院、山中は下妻郡内の村で あつた。 山門郡の条理と一連のつながりをもっている。作出の志ノエなど |
平安時代 (794年〜1185年) |
桓武天皇が都を平安京に移されたのちも、藤原氏は摂政、関白として政治を行い全国に荘園をもち全盛をきわめた。瀬高は矢部川に倉敷、船着場として発達。瀬高の荘園は藤原道長の孫藤原俊忠領となり死んだあと母方のおばのものになる。その後高倉天皇の御代徳大寺 実定領となり、藤原璋子(待賢門院)から、のち右大将家が預かる。庄館を基準に御前橋、御仁橋、三橋の地名が出来たのはこの時代。 |
このページは郷土史研究家の故村山健治氏の資料・福岡県県文化財保護発掘資料瀬高町誌・高田町の文化財・をもとに編集しました。