庄福BICサイト         かしい・郷土の年中行事 (福岡県みやま市)

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1月 2月 3月 4月 5月 6月
7月 8月 9月 10月 11月 12月
  1月行事
 元旦  玄関や戸口に門松あるいは松竹梅の飾りをして、注連縄(しめなわ)を張り、床の間には目でたい軸を掛け、鏡餅を供える。鏡餅にはうらじろ(常緑シダ)、つるの葉、昆布を敷き串柿を添え、代々家が栄える様にとの願望をこめて橙(だいだい)をのせる。台所の竃(くど)にはこう神さん餅をお供えする。家の主人はその年の恵方(えほう)にあたる川や井戸から若水を汲み、初めに神に供え、次にお湯を沸かし、その残りで顔を洗い、各自新しい手ぬぐいでふく。家族は床の間を中心に、家長を正面にして、おめでたのあいさつをする。家長はこれを受け、家長、男、女と屠蘇を汲み、最後の盃を家長が納める。
おせち料理、雑煮黄粉餅を生活の繰合い(くりえー)が良いように栗箸(正月は普段の箸を休める)でいただく。家庭での行事を終えれば、それから神社詣りや年始回りをする。初正月を迎える子供のある家には、男児には台弓鎧(よろい)人形、女児には羽子板などを親戚、知人より贈られ、これを飾ってその子の幸せを祝う。  
           
 
 仕事始め 2日
農家では午前1時、2時、と早起き競争で男は藁うち、縄ない、女は機織り裁縫、子供は本起し書初めをした。朝(初)風呂に入浴し、朝食後は正月休みをする。
商家では初荷、初売り出しと、年間で一番忙しい一日である。早朝2時より初売りを行い、お年玉の品物をサービスした。近年ではお年玉抽選会や福袋などで賑わっていた。

 水かぶり
正月始めになると彦山の山法師(やんぼし)が山から下りて、ほら貝を吹いて村に来ると、子供たちは「ヤンボスサンノ水カカリ」といって飛び出して行く。これは水かぶりの合図で、山法師はほら貝を吹きながら次の村へと通り過ぎる。すると家々では自分の家のたらいバケツなどに水を入れて戸口に出す。やがて山法師は呪文を唱えながら、順々と水をかぶって戻って来るので、子供はぞろぞろとそれについて回る。しばらくして衣を取り替えた山法師は水を出した家々を回って餅や米を集めに来る。これは山獄宗教における修行の一つである。(大江小・校区)
また旧正月6日下庄元町松尾宮では山法師、金納氏が奉する、祝詞(のりと)と法螺貝(ほらがい)の神事のあと、神殿の中の白の鉢巻、腰にしめ縄を結んだフンドシ姿の子供達が飛び出し拝殿左右の桶の水をかぶり、これを合図にワーッと西市場、中市場、東市場の家々の前に用意してある桶やバケツの水を体や頭にかぶり走り抜ける。子供達は腰のしめ縄を外し、自宅の屋根に投げ上げ、火災除けのまじないとし、裸のまま風呂屋に走りこみ、充分温まった上で、着物にくるまり、その年の座元に集まり、楽しい食事を行っていた、昔懐かしい行事であった。
(下庄・元町)
 ほんげんぎょう(左義長) 6日(14日)
14才の男の子を頭に村の男の子総出で、田んぼか川原で行う。村中からを集め、を切って準備をする。大きな竹を心木(しんぎ)とし、これに3本の竹を上で結び、結びめに三本の長い縄をくくりつけて引き綱とする。頭の掛け声に合わせて勢子(せこ)は一斉に綱を引っ張ってこれを起し、心木を中心に三方に竹を配してバランスをとって立てる。中に笹のついた竹を立て、藁を詰め外部を囲って、ほぼ円すい型に仕上げる。夕暮れ近くになると勢子が「ほんげんぎょうにかたらんもんは伊勢松根性、よい根性」と囃したてると、女の子たちは餅を持って集まってくる。暗くなってから頭が火をつけると、黒煙と炎が天高く舞いあがる。青竹が爆音を立ててはじけると、一斉に万歳を叫び喝さいする。燃えつきる頃、これを恵方に倒し、を焼く。「尻あぶって百まで」と尻をまくってあぶる。ほんげんぎょうの火に当たればその年は風邪を引かないと言う。
この火祭りは12月に米の収穫が終り、正月神が「ほんげんきょう」の煙に乗って天空に戻られるもので、太陽神に感謝する祈願行事とされている。太陽神の加護によって育った稲わらの火をたき、実った米の餅を焼いて食べると1年間無病息災家内安全五穀豊穣の御利益があるという信心からである。
 (かど)ほんげんぎょうと七草
庭ほうげんきょう」ともいわれ、家の前や庭の空地に1メートル位の高さに小竹を心棒に、それにを1,2束小縄で巻き付けて、下より火をつけ、こう神さん餅や、神棚の古い御神札を粗末にならないように燃やしていた。「荒神(こうじん)さん餅」とは、かまどの火の神に供えた馬蹄形に作られた餅で、郷土では「かまど」のことを竃(くど)と呼ぶので竃餅(くどもち)とも呼んでいる。それを食べると、1年中火災にあわないし、食物にも不自由しないという風習があった。荒神(こうじん)とは三宝荒神(さんぼうこうじん)の略で竃(かまど)の神さまです。
              
三宝荒神
また、七草を前夜、まな板でたたいて置き、これを実にして味噌汁にする。四百四病をそなえている水鶏(くいな)を、たたく音で追い払うのだと伝える。
 もぐらうち  14日または13日夜
2メートル位の笹のついた青竹の先に、小枝を一緒に小縄で固く結び絞めて、もぐら打ちを作る。早く打たぬと、よそのもぐらが追いかけてくるというので、子供らはこのモグラ打ちを持って「ねぎだれこだれ、14日のも−ぐら打ち」「もひとつおまけにも−ぐら打ち」と呼び、ぽんぽんと竹が折れるまで、家々の玄関や庭や通りを叩いて回る。家々では子供達の子供達の来るのを待ち、餅や包銭を与える。
目的は、土地の力を強くしようという呪法であって、それには1年のうちのめでたい日が選ばれたが、子供の管理となってよりいっそう遊戯的な要素が加わったようである。折れたもぐら打ちは、みかんなどの木の枝にかけて置くと、よく実がなるといって、これにくくりつける。
 どろどろ粥(かゆ)15日
小豆の中にを炊き込んで食べる。その日の味噌汁には「ほだれ菜」という小さい水菜類を根のついたまま入れて、ほうちょうを使わずに食べる。「ほだれ」は穂垂で、米の豊作を祈る意といわれている。
 神農さん(神農祭)
郷土における開業医の開祖は、今井元俊明治23年(1890)没、墓所は下庄緑町の本長寺)といわれている。往時の医者は地域の患者とは親密なもので仁術に徹し、治療代の支払いには関わらず調剤婦任せで現金収入は少なく生活は楽ではなかった。そういう中から「神農さん」制度が生まれ、旧正月すぎの年1回、それまでの各戸別の治療費の明細を列記して地区総代に一括して渡し、併せて「神農さん」の案内状を添えて各戸別あて送達した。総代は患家の事情を聞き折衝して金銭や物納で集金する。この総代折衝は町部においては殆ど見られず、「神農さん」前後を見て支払いに来る患家が多かった。そうして支払いが終わると、座敷に設けられた宴席に通され近所の若い娘達のお酌で飲めや謡えの大宴会となる。この宴会が2〜3日間続く、もちろん医家にとっても、患家にとっても、当時娯楽の少ない中での年1回の何よりの楽しみであった。この行事が終わると医家としては、加勢を受けた人々に対して「しめいえ」をしてその労をねぎらい、下駄を贈って謝意を表した。行事により医家の財政もなんとか潤い、薬店への支払い等過去一年分の清算を終え、今後一年分の生活設計を立てるのも医者の妻であった。大正時代をピークに昭和初期まで続いた「神農さん」も昔語りとなった。(元町 小柳篤氏の原稿)
  2月行事
 年とり直し 1日
男子は42才を厄年ちし、女子は19才33才を厄年とする。その年の2月朔日に、さらに「とり直し」の祝いをして厄を祓う。
 二日灸(きゅう)2日
2月2日8月2日、この日に灸をすえると、その効能は倍になり、病にかからず息災であるといって、数人集まって灸をすえあった。これを「ふちかやいと」ともいう。数人相会するということから、この二日灸は次第に老若男女が集まり、一日を楽しみあう親睦の会合となった。ついには灸をすえるという本来の目的は忘れてしまい、ごちそうを作り、酒を飲んで楽しむ、村の横の同志の集まりとなった。そして、それを「えいとっすえ」とよんだ。
 節分の豆まき 3日
節分とはもと立春、立夏、立秋、立冬の前日、すなわち気候の移り変わり目をさしたもので、これを節日として祝ったが、今は立春の前日のみとなった。
豆まきの行事は追難(ついな)の儀式が転じたものといわれる。煎った大豆を桝(ます)に入れ、これを歳徳神に供えて礼拝を済ましてからおろし、灯を消して最初表口に立って「鬼は外、福は内」と声高く叫んで、出入口、各部屋、台所の隅まで豆をまく。豆をまく者はその年の年男とされた。まき終われば家に入った福が逃げないように急いで障子を閉める。このまいた豆を各自、自分の年だけ拾って食べると疫病にかからないという。
              
  3月行事          
 ひな祭り(桃の節句)3日
白酒よもぎの餅を作り、たにしなどを食べる。初めての女児の生まれた家では初節句といって、内裏雛(だいりびな)、官女、五人囃(ばやし)、おきあげ、ごんた人形、まりなどを飾り、よもぎや紅白の菱餅、白酒などを供え、その子の成長と幸福を祝う。明治の頃までは祖母は孫のために、その児の長寿を願って美しく大きな「手まり」を手づから巻きあたえ、おひなさまに飾ったものです。親戚、知人は金品を贈り、家ではその人たちを招き祝宴を行う。
            
 だご祭り 15日
つぼたこ祭りや庭祭りともいうが、農家の庭にこぼれたを集めて粉にしてだご饅頭を作る。これを供えて農作業場の神を祭るもので、五穀を大事にする意味がある。
 香ばし節句 15日
身を慎み、他人の悪口を言わぬようにと、米と麦を煎って粉にし、砂糖を加えて、木の葉ですくって食べる。実際、香ばしを口に入れると、人の悪口を言おうとしても口を動かせないものである。郷土では農業の神様である権現さん祭りに香ばしをお供えして、その後にお茶を飲む習わしである。子供たちはこれを紙に包み、木の葉ですくい、鼻の下を白くして遊んでいた。「ハツタイ粉」として店で売っているので、今は自家で作る所は少なくなっている。
    
 お弘法さんまいり 23日頃
春秋の彼岸に行われ、沢山の人が行列でお詣りするので「千人詣(めえ)り」とも言われている。昔は巡礼姿の老若男女が、三々五々鈴の音に合わせて、御詠歌を唱え、一番札所を振り出しに、歩いて各地をのどかに流して回った。時には数十人になり、旗を先頭に長い列を作り、泊りがけであった。宿に当たった部落では村を挙げて、宿割りから接待までおおわらわであった。昔はお巡りが近まれば集落ごとに宿まわしで、御詠歌の練習が行われた。
一、ちちははの めぐみもふかき こかはでら
   ほとけのちかい たのもしのみや
一、空海の心のうちに咲く花は、
   弥陀より外に 知る人はなし

郷土のお遍路の札所寺には宗派にこだわらず、弘法大師を祀ってあったり、観世音菩薩を本尊に十三佛をお祀りしてある。札所寺には檀信徒や付近の各戸かれ、金や米を抜き立て中食や湯茶の接待があった。
筑後の地には230年位前に創立された筑後の三十三観音霊場(シニアネット久留米電子図書館リンク)を巡礼する信仰もあった。
 彼岸ごもり
楽しい年中行事の一つで、春秋の彼岸に行われる。子供たちが川や堀でとったつくし、それに各家から米を持ち寄って男女別々の当番の家で夕食を食べ歌やゲームをして楽しんだ。順番で回ってきた当番の家では食事の仕度やお菓子の接待を行った。農村では子供たちの歌声が暗い田んぼや民家に響きわたり情緒があった。
部落によっては青年男女、老幼婦女子まで、それぞれ同志が相集まって、懇談の会食をしていた。
「彼岸」という言葉は仏教用語の梵語「波羅密多(はらみた)の訳だとされ、苦しみのない安楽な彼岸に到る極楽浄土の信仰から太陽が真西に沈むこの時期に西方極楽浄土阿弥陀仏を拝む「浄土宗」の信仰が一般に広まった習慣で、彼岸の中日には寺に詣り、各家庭では、邪気を払う効果があるとされる、だんごぼたもち五目すしなどを作って仏前に供え先祖を偲ぶ日となったものです。
 社日
社日とは土地の神の意味で、春分と秋分に最も近いその前後の戊(つちのえ)の日のことで戊という文字には土の意味があります。春の社日(春社)は種子まき、秋の社日(秋社)は収穫の重要な時期にあたるので、土地の神を祭って豊作や収穫を感謝する日です。(社日の碑は南高柳のお宮にもある)
社日を祝うのは中国の風習であって土地の守護神であった「社」を祀り五穀豊穣を祈願したもので、日本に伝わり土地の神を信仰する習慣と融合し全国に広がりました。この神は、3月に天下りして、9月に、天のお昇りになるので、郷土の農家では「ぼたもち」を作って供え、土いじりなどの仕事を休む。この日は農村部落民の休養慰安の日でもある。
          
南高柳の社日さん
     4月行事     
 春の遠足
小学校の入学式が終わると桜の名所清水山への春の遠足です。
           
前夜に母親に作ってもらった、贅沢な巻き寿司の弁当の入ったリックと水筒を提げ小学校のグランドに集合。6年生は新入生の手を握り、徒歩で4km(下庄小学校の場合)の道のりを長い行列をつくり歩いて行く。山裾の本吉の竹林では(たけのこ)が頭を出し、中腹の桜並木の脇にはワラビぜんまいが咲き誇り春真っ盛りである。やがて清水寺の石段を数えながら登ると本堂と三重塔にたどり着き、公園の広場に集合した。当時の公園の広場は子供の目線で、とても広く感じていた。その広場を大人になり訪れると意外と狭く、学校の全生徒千人以上と父兄がよく集合できたなと感じる。6年生は新入生を親に引渡し、解散後の生徒達は友達と弁当を楽しみ、公園で遊んだ。清水山から見下ろす田園風景は見ごとだった。遠くは有明海や大牟田の軍艦島を望み、下界の菜の花黄金色の花盛りで、麦田は青々として、黄色と青との格子模様の美しかったことが、今でも忘れない。自由解散の帰りには清水流れる旧道を降り、本吉の参道口に建ち並ぶ「おみやげ屋」に立ち寄りきじ車や素朴なおもちゃ等のみやげ物を見て楽しんだ後、土ぼこり舞う砂利道を歩いて帰宅した昭和30年頃の懐かしい想いでである。
 おしゃかさん(花まつり)  8日
この日は釈迦誕生の日とされ、「おしゃかさんの甘茶」として民衆に親しまれている。郷土では花まつりといって、咲きほこっている春の花を集めて釈迦堂の屋根をふき飾り、その小堂の中央に像を安置し、参詣人は甘茶を汲んで像の頭からかけ、甘茶を飲む。これを飲めば病にかからず家のまわりにまけば蛇が出ないといった。また梅の種子はこの日初めて固まるといって、この日から食べた。昔は子供たちが行っていたが今はお寺で行われている。
4月8日のお釈迦さんの日に蚊帳(かや)のつり初めをして、9月9日に引き納めをする風習があった。これを八日の「か」にはじまり九日にの「ち」に終わるという。蚊の多かった頃の風習である。
       5月行事     
端午の節句  5日
5月5日は幟(のぼり)節句ともいい、男児の節句である。軒先に根つきのよもぎと、菖蒲(しょうぶ)をさして魔よけとなし、菖蒲湯をわかしてこれに入り、菖蒲を鉢巻きにして無病息災を願った。この日は粽(ちまき)を作り神仏に供え、朝食後に砂糖や醤油をつけて食べる。粽はもち米と普通米を半々にして洗い、ざるにあげ置いて、翌日に臼でついて粉にして、これを水でこねて団子を作る。それを笹やよしの葉2枚ではさみ、さらにそれを菰(こも)で包む。菰の葉先は切らず、一ひねりひねって、その上を藺(い)がらでくくり、粽の形に作りあげる。粽10個づつを両方から結び合わせて釜でゆがき、その後日蔭につるして乾かす。
これを一掛け(ひとかけ)という。それを23個、雷神に供え、神棚などに吊るして置くが何ヶ月経っても腐敗しない。これを雷鳴の折り取り出して焼いて食べたり、をくすぶらせて雷よけのまじないとした。
初めての男児の生れた家では、武者人形を飾り、幟や矢車に吹き流しや鯉のぼりを泳がせ、親類、知人を招いてはなやかに出生祝いをする。

   水天宮と川祭り    5日       
水天宮祭には掛(かけ)小屋をかけた芝居があり、露天が立並んで賑わった。参拝者は子供の為に水神様のお守りを受けて帰り、これを3cm位の小竹の筒に詰め、両端にひもをつけて、子供の首に巻きつけてやると、子供らも水難除けのお守りとして大事にした。
川祭は、水の神の感謝とともに水難、つまり河童(かっぱ)の難からの安全を祈念する行事で、2m位の笹竹に干魚を入れた藁(わら)つとと御神酒を入れた竹筒を2個ぶら下げる。これを「かっぱ竹」という。この藁つとが水面すれすれになるように斜めにして立てて供える。供える場所は、井戸(いがわ)、水汲み場(くみじ)、川岸をえらんだ。
  
   苗代祝い
八十八夜の日に籾を洗って、4,5日これを水の中に漬けて置いて、苗代に蒔くのが普通であるが、苗代を作るにあたって、今なおこれを祝い、収穫を祈るという信仰の仕事が残っている。
苗代は、農家にとって「苗半作」といって非常に大切に取り扱われ、苗代が終われば、団子茗荷(みようが)と蕗(ふき)とを食べる。団子は米俵になぞられ、米俵が団子のようにたくさん出きる様にとの意であり、茗荷と蕗はこのように籾の芽が出るようにとの意である。
   彦山詣り  農閑期
当時、英彦山は山獄宗教の神山霊地としてあがめられていた。豊前坊など数多くの坊があり、それぞれ多数の修験山伏を抱えていた。各坊ともそれぞれ地方の部落を自坊の区域とし、正月の水かぶりや祈祷も自坊の受持ちを回った。また彦山参りをする人々も、その地区の属する坊に宿泊する習わしである。若衆(わっかし)の彦山参りは、一種の修行であり、これを終えると、一人前として世間が認めた。なにしろ一週間から時には十日もかかる旅で、草鞋(わらじ)ばきで徒歩往復だから大変である。氏神に祈願をかけ、身内や友人の見送りを受けて打ち立つたものである。帰ればその足で氏神様にお参りして、額や大しゃもじに一行の名を書いて神前に奉納した。
     6月行事
  へこかき−湯文字かき  旧1日
俗に「へこかき祭り」といって、七歳の男児は金時や桃太郎などの絵を染めた兵児(へこ)を着け、女児は、湯文字(腰巻)を着けて氏神に参った。厄年六一歳の老人で、男は赤の襦袢と褌(ふんどし)、女は赤の腰巻を着けて、暁の闇(やみ)をついて神に参拝した。
  さなぼり
農家の大事な行事で、田植休みのことである。田植えの疲れを慰安する休養期間であるとともに、五雨十風よろしきを得て秋の収穫が豊年であるように、神に祈る祭りである。さなぼりの「さ」は田の神様のことで、田植えに際し降りになった田の神様が、田植えも無事に終り、再びお昇りになるのをお祭するものである。屋内の荒神(かまどの神)に、田植えの時洗いあげて取って置いた苗の束を飾り供える。この時田植えの時に加勢してくれた人々を招いて祝宴をはるが、早乙女を上座にすえて、特に丁重にあつかった。
  観音縁日   旧17日
村の子供達は自分の村にある、観音堂を掃除してお花をあげ、夕方より提灯をさげる。子供達は各家から抜き銭を集め、その金で煎餅(せんべい)など買って用意し、夕方になれば提灯に火を入れる。参拝に来た村人には湯茶と煎餅で接待する。
      7月行事     
  七夕祭り    7日  
6日の朝、子供らは早起きして芋の葉の露をとり、これを硯(すずり)の水として清書をする。小学校に行く前の子供は、親や兄姉が手をとって書かせる。用紙は半紙や障子紙を縦につないで2m位にする。文字は学校で修得した漢字で漢詩などを大書きし、これを軸にして床の間にかける。七夕笹には人形衣の折り紙や切り紙7色の短冊には和歌や願いことをこめた文字を書き、こよりで竹の小枝に結びつけ、色とりどりの丸い七夕菓子(せんぺこんぺ)なども吊るす。この珍しい名の七夕菓子は柳川藩政時代から引継がれ、製造菓子業者も6軒ほどいたが廃業し、最後は柳川の「ちとせ屋」が廃業する平成の始めまで製造され、近郊の菓子店などが仕入れて七夕の時期に20枚セットで300円で販売されていた。5色の餅を専門の型で焼いたうすぺらい、軽くて、無味のせんべいは丸型で大判と小判の大きさがあり、こよりの紙が張られており、笹にさげて七夕飾りを華やかにしていた。手床の間の台の上には西瓜、なす、瓜、きゅうり、ほおずきなど季節の物を供える。7日には午前中に七夕笹をおろし柿や桃などの木にお結びつける。これはこれらの実がよくなるようにとの意である。また川に流す家庭もあった。
この朝、女の子は打ち揃って川に髪を洗いに行った。七夕に髪を洗えば美しくなるといわれる。
   土用           
土用は1年を通じて春夏秋冬に1回ずつあるが、とくに夏の土用が重んじられている。つまり、小夏(7月7日ころ)後13日から立秋(8月8日ころ)まで。土用の虫干しは広く行われ、社寺でも恒例の行事となっている所が多い。
土用の丑(うし)の日はうなぎを食べる日とされているが、うなぎに限らず「う」の字のつくものを食べると夏バテしないといわれ、うどん梅漬けのいずれかの肉を食べるところもある。これは江戸時代に蘭学者の平賀源内が広めたといわれる。
柳川名物のウナギ料理の中でも特にせいろ蒸しは観光客にも人気であるが、江戸後期に大坂の鮒屋という川魚問屋が、柳川のうなぎを仕入れており、柳川のうなぎが全国的に有名であったことが解る。
またこの日、土用灸をすえたり、海や川で水浴すると、年中病気にかからないともいわれる。「土用の丑の日に取った薬草は効き目がよい」と、せんぶり、げんのしょうこなどの薬草をとりに野山にでかける所もあった。
   馬つくれ(馬祈祷)   旧15日  
馬の無病息災を祈る行事である。馬は農耕には無くてはならないもで、家族同様に大切にしていた。早朝からの草切り、かいば作り、馬の手入れなど、そのかわいがり方といったら、大したものである。この日は御牧山の馬頭観音(山川町)に参り、世話番の家に集まって観音像を掲げる。伯楽(獣医)を請うて馬の手入れをし、祈祷をして酒宴を催した
   祇園会と大人形     24日
祇園会は7月17日より24日まで行われる。上庄の祇園さん(八坂神社祭礼)の大人形は24日で、近所近在はもちろん、遠隔地からの参拝客でにぎわう。子供は源義家安倍宗任(兄貞任と1年交替)の股くぐりをすると、病にかからないという。これを「大人形さんの股くぐり」といい、子供連れの参拝客は25日の朝まで続く。
       8月行事       
    清水夜観音        
清水寺では8月9日から、10日午前6時まで、大法要が営まれて、参道や境内は善男善女の姿であふれる。古来、お参りすると良縁に恵まれるといわれ、若い男女にとって、1年中待遠しい日であった。夜を徹して参拝するので、「夜観音に参ると3日眠い」という言葉が残っている。
    盂蘭盆(うらぼん)     15日         
前日までに墓掃除をすましておき、13日の夕方になると、迎え火をたき、提灯をともして、先祖の霊を迎える。故人の生前の好物や、菓子、団子(迎えにはまるく、送りに細長いもの)を作って供える。14日15日と接待して、15日夕方に墓参りして、精霊送りをする。子供らは細長い小竹の先に、ほおずき提灯をつるして「しょうろくりくりなんまいだ、またのおぼんにきゃしゃんせ」と呼びあう。いつしかそれが群れとなり、火の流れを作って、夜空のもとに一幅の絵を描く。新盆の家では縁者から贈られた、数多くの灯ろう提灯を飾り、親類縁者を招いて、仏前供養をする。夕方になると提灯を竹竿につるして、墓前に捧げ、お詣りして仏を送る。精霊流しは、麦や菰で精霊船をつくる。これを西方丸とよび、この中に仏にお供えした物をのせ、提灯をつるして川に流す。(現在は河川環境の為に中止)
    えんま縁日(閻魔開帳)  16日
えんまさん祭りともいう。この日は地獄の釜のふたも開く日と称して仕事を休み、魚も腹を返して寝ているから、捕えやすいといわれる。松延などの閻魔大王を祭ってある村では、子供らは家ごとにお金や豆をぬき集め、菓子、いり豆を準備して、参拝者を接待する。
   盆踊り          
期間は決っていないが、盆過ぎの満月の日を中心にして行う所が多い。盆踊りの起源は、「木連尊者の母が餓鬼道に落ち込んだので、尊者がこれに飲食を進めると、飲食物は、尊者の手から母の手に移ると同時に、直ちに火災に変り。一飯一喫も得ることができないので、尊者は母を済度して極楽に迎えた。この日はちょうど7月15日にあたり、緒仏は尊者の仏徳と称して、尊者々々と踊り出した」ことからきているという。
   地蔵盆(夏祭り、よど)
地蔵祭りは、男の子がする所と女の子がする所がある。前日各戸から金と大豆をぬき集め、掃除をしてお花を供え、初盆の家から提灯をもらって準備する。当日は早朝から出て、茅(かや)で囲みを作り「ばんこ」を置いて場所を作る。午後は黒砂糖をまぶしたいり豆(ざぜん豆)を作り、提灯を吊るして準備を終わる。夕方、提灯に火を入れ、参詣者には紙に包んだ「ざぜん豆」を渡して接待する。とことによってはこの夜、花火を打ち上げて祝う所もある。各家庭では来客を迎えて祭りをする。
    9月行事
  八朔はっさく(田ほめの節句)
旧8月1日(9月1日)は農民にとっても、また朝廷、幕府にとっても重要な行事を行う日であった。はっさく(八朔)とは8月1日の節をいう。また「たのみ」の節(田のみの節)、田面節(たのもの節)などといい、朝廷でも大事な儀式が行われた。農家では八朔祭りを田ほめの節句として、当日酒を持って田に出て、田にこれを供え、自分も飲み田をまわって「よか田ができた」とほめ、二百十日の厄日を前にして稲の豊穣を祈る。
下庄の八朔祭(9月1日)昭和30年代にはサーカス見世物小屋が立ち、道路から参道まで露天で埋まり、参拝客の往来で終日賑わった。

下庄八幡神社
  宮相撲
農村では「お宮相撲」といって、春秋の社日の休みに、宮の境内に土俵を作って相撲をとった。これは青壮年男子の力自慢であり、村の慰安行事である。真木の子供相撲(9月第2日曜日)は村の伝統として、昔から今日に至るまで引き継がれ、今なお賑やかに行われている。
 名月さん(めいげっつあん)
芋名月は旧8月15日、栗名月(豆名月、菱名月)は旧9月13日である。仲秋の芋名月には平年は12個、うるう年には13個ゆで芋を、芋の葉を敷いた三宝にのせて、月のよく見える縁側に置き、すすき団子御神酒を添えて供える。近所の子供たちは夕方になるのを待って「あがったかん」と呼んで回ると家人は「あがったばん」といって、子供に、お供え物の芋や菓子を与えた。この日だけは物を盗んでも罪にならぬといわれ、よその果物を盗んだりした。
     10月行事      
    亥の子祝いと「エイギョエイサツ」
旧10月の初めの亥(い)の日に行う。この日は「亥の子のもち」をつき、祝いをして近所にも配った。亥の子のもちを食べ、秋の収穫を祝い、万病除去・子孫繁栄を祈った。子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回り、田の神を天に返す行事をやる地域もある。
エイギョエイサツ」は柳川藩主立花宗茂の故事にならったものである。いずれの家でも玄関や入口に、三宝の上に赤飯を一升ますに山盛りにしたものを載せ、その上に白菊黄菊をさす。横の小さな台の上に大根や人参の膾(なます)を盛った皿や鉢をそなえ、40cmと30cmの二種の柳の枝の箸を添える。この日の夕暮れ時になれば、子供たちは新しい手ぬぐいを四つ折にして帯に挟んで「エイギョエイサツナカノヨカゴツ」といい、あるいは「エイギョウカカシテクダハレ」ち言いながら訪れてくる。家の者は愛想よく迎える。子供たちは柳の箸で、赤飯と膾(なます)を手のひらにのせて食べる。これを愛敬をかくという。これが終わると手ぬぐいで手をぬぐい、亥の子もちをみやげにもらって、次の家へ向って押しかけて行く。
この行事は立花宗茂が関が原の戦いで破れ一時領地を失って14人の家来を従わせ関東へ流浪の旅に上った際に亥の子祝いの日に、家来達は物資に貧しく、かろうじて炊いた米を器がなく枡に盛った。余りに粗末なので菊の花をさし、柳の箸を添えて宗茂にすすめた。家来達はその残りを食べた。後年、宗茂が柳川に復帰したあと、この辛苦をしのび、城内でこの行事を始めたと伝えられている。
     11月の行事
     七五三
戦後流行。男児3・5歳、女児3・7歳の当たる年の子を千歳飴を持って氏神さんに参拝させる。
 

結納品
   結婚式 
秋は結婚シーズン!結納の前に寿美酒の儀式・・・一生一代(そい)()げるという意味で男性側から女性側に酒一升と鯛一尾を献上する( )筑後地方では久喜茶(くきちゃ)を一緒に献上する( )釘を打つということから来ているのだが( )だと無粋なので久しく喜ぶという願いを込め久喜茶と呼ばれる( )

     12月の行事
     針供養
この日、家々では裁縫の仕事を休み、古針を豆腐にさし立て、鋏や尺などを1ヶ所に集め、祭壇を作り、食べ物、灯火を供えて祭る。
     冬至
     大晦日(12月31日)
正月の準備を終え、金銭の貸借を清算する。師走忘れとしてNHKの紅白歌合戦を見ながら、御馳走や年越しそばを食べ、除夜の鐘を聞きながら年越しする。
      月別に増やして更新いたします。

        資料  大江小学校・下庄小学校・本郷小学校の各創立100周年記念誌などにより編集しました。