庄福BICサイト                        みやま市の産業の歴史    
                                                        (福岡県みやま市瀬高町・高田町・山川町)
 H・19・7・16更新


郷土での商いは古来から米をはじめとする農産物の生産の余剰物を瀬高の芳司(文広)と門前町の本吉物々交換の市場が開かれていた。

 【芳司の浜】

芳司(瀬高町文広)は古代弥生時代からの港として栄えた集落で、奈良時代廣田速彦麿が朝廷より賜った広田庄に勢力を誇っていた広田宮には、おかかえの手工業者がいて、色んな品物を作っていた筈である。生産された品物は広田家や領地の需要に応えたが残余はおそらく市販されていたものと思われる。例えば、芳司集落の北側にはカマ場があり広田家の奴隷として従事していた。中世にいたると手工業者は広田家の支配を受けながらも人格的に独立を果たし、小経営者に成長して芳司に住み着き生産量は少量であったが月に2,3回の定期市をこの地に起し販売を開始したのが芳司市場のはじまりである。

15世紀頃になると、瀬高と天草、島原方面との取引が活発となり、定期市の回数も増え、常設の店舗もでき、工業と商業もしだいに分化し商人が出現したのであろう。それらに業者達は事業や生活を守る為に共同体の瀬高座をつくり生産、流通、生活全般を規制し、筑後国一宮・高良大社を本所とする連合体にも加入した結束の固いものであった。高良大社は本社、分社の門前に市を立てるとともに市立権、市管理権、座支配権を持ち、商職人を座に編成し様々な奉仕をさせた。
瀬高座は6座あったが、その中の一つ本郷座がある。広田庄「芳司市場」の様相を伝えるのが恵比須神の笑酒(えみしゅう)石碑である。碑面には男女の酒宴の図「筑後国下妻郡広田庄 本郷村芳司町 笑酒、大永五年(1525)八月吉日、施主 板橋助種」と刻まれている。当時の地名を記され、板橋助種は市を取締る市場の司役で、市の繁栄のため恵比須神の本社である兵庫県西宮から勧請したものと考えられます。奈良国立資料館にある太田文(土地台帳・文永九年〔1272〕)の中に広田庄400町(120万坪)とある。

その頃談議所でも島原、天草の海産物と瀬高の産物との交換市を開いたとある。

        
広田八幡宮                笑酒石碑  
平安末期から鎌倉初期にかけて、山門郡鷹尾郷の干拓が進み、瀬高下庄の別符(べっぷ)となる。ここには鷹尾神社(現・大和町)が勧請され、筑後国一宮・高良大社の管理化の瀬高座が存在していた。
 
【三つの市場】
鎌倉時代
1274年(文永11)
南筑後には貨幣経済がしだいに浸透し三市場ができており山裏市場(飯江川と矢部川の合流地点)と山下市場(西鉄渡瀬駅の裏辺り)と芳司市場(文広)があった。瀬高には、港・倉庫・問丸(問屋)・舵取りなどが存在し、瀬高庄は周辺物資の集散する河港へと発展していた。

 
【鷹尾の浜】
有明海にそそぐ矢部川の下流右岸に位置し、中世、河港として荘園・瀬高庄など矢部川流域の物資積出港を担った港町である。鎌倉期、鷹尾別符とみえ、筑後国一宮・
高良大社の別宮で瀬高下庄の鎮守・鷹尾社を支える一方、瀬高下庄の倉敷地として年貢やその他の物資の集散基地となっていた。これに関連し、豊前国の地頭・大友氏が津料徴収や倉敷の管理などをめぐって領家と長年にわたる相論を起こしており、鷹尾が大きな権益が存在する港町に発展していたことが分かる。
戦国時代では、戦国大名が所領を保護し、市場を公領化し流通支配権をもち、高良大社は形式的市祭執行権だけが残された。近世になると市祭執行権が俗人により執行されるようになる。

戦国末期の天文17年(1548)、国人領主・田尻氏鷹尾城を本拠城として鷹尾に拠点を移す。田尻氏は元亀元年(1570)、龍造寺氏を攻撃する大友氏から兵船を準備して榎津(現・大川市)に在陣するよう命じられており、この頃、鷹尾は田尻氏の水軍基地も担うようになったと思われる。当然、城下での商業も盛んであったであろう。南筑後戦国史・田尻物語
瀬高庄の中心は柳川城の蒲池氏が支配し商業の中心として栄えていたであろう。

天文16年(1547)11月田尻親種(ちかたね)は嫡男宮七郎(鑑種)を伴い豊前府内(大分市)大友義鑑(よしあき)に子息宮七郎への家督相続の許しの御礼として参勤した際の贈り物には鷹尾周辺地域で栽培されたと思われる木綿のほかに中国船やポルトガル船によって輸入された大量の「嶋織」「嶋木綿」を贈っていることがみえる(「参府日記」)。これは16世紀中頃以降、東南アジア、南アジアから日本に輸入された木綿布で、左の地域からもたらされたことから「嶋渡り」の木綿「嶋木綿」と呼ばれたとみられる。染め糸による鮮やかなストライプが織り込まれており、上質で珍重された。


また、鷹尾が外港を担った上流の瀬高は日明貿易によってもたらせる舶来品が取り引きされ、その存在は明人鄭若曾が編纂した中国の地誌『籌海図編』(ちゅうかいずへん)にもみえる港町で大量の高級舶来品の調達が可能な発展した国際貿易港となっていたことをうかがうことができる。鷹尾城を本拠とする国人領主田尻氏は瀬高下庄を掌握下におき、河川交通を通じ有明海と結ばれ日明貿易の嶋木綿などの輸入品調達が可能な環境にあったとみられ舶来品を取引してたとみられる。
1559年(永禄2年)室町時代末期頃になると瀬高港(談議所)は伊倉港(玉名市南方)、高瀬港とも交易していた。
1573年(天正1)安土桃山時代初期には談議所の浜には海産物(塩物)、反物菓子荒物石灰などが入荷、主に南関山川八女方面で行商の手で販売され、米を代価にもらって帰り、自家販売していた。帰路の船は(ろう)和紙和傘野菜、菜種油など積んでいった。
当時、下庄談議所の
聚寺は荷役の権利を持ち、輸送舟を所有して港を取り仕切っていて、年間の船便は40隻を数えた。

 【江戸時代】 


矢部川右岸、上庄西新町には
柳川藩の税収上納米や麦を集めたり売り払ったりする建物が「在の三つ倉」
(地方の三つ倉)の一つとして、設置され有明海の大潮(旧暦15日満潮時)には三百石船(45トン積み)、小潮(普通の日の満潮時)には百石船(15トン積み)が出入りしていた。その頃は大阪へ寿司用の上質米(大阪回米)として出荷され藩財政を豊かにしていた。 故にお倉の浜(藩の米積み出し)と呼ぶようになる。これに対し民間庶民の物資積出し、積み入れ港として使用されたのが談議所である。両川岸には多くの船大工が居住したり、満潮になり海まで開けると、近隣の若衆が荷役に精を出した。人数は10人から20人位で暇な時は「寄場」でバクチに興じてた。周辺は商談の場で旅館、遊郭、商店が立ち並び賑わい繁盛していた。

              お倉の浜(上庄)                  談議所の浜(下庄)
上庄、下庄両町は柳河城下商家の商品供給基地として、藩の公用施設として上庄には「浜屋敷」、「御茶屋屋敷」が設置されていた。
また陸上交通網の要として小田吉井本吉原町にも商家.旅籠が立ち並び、酒造などの製造業もおこなわれた。
1621年(元和7)には石橋伝衛門が下庄の談議所で瓦焼きを始めている。
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*この頃から下庄には塩物問屋などが多く、行商人の仕入れで旧街道(田代ー新町ー元町)の商店は繁盛していた。街道各町内に商売の神「恵比須さん」の祠が造られたのは、この時代で旧暦の10月20日には各町内の恵比須堂の前に幟を立てて、客の感謝祭とし、5割引きで売ったという。現在も現存し、信仰されている。旧暦1月2日早朝2時より初売りを行い、お年玉の品物をサービスした。お客は地元はもちろん山川村、東山村、三橋村の五十丁、久末などからやって来た。当時は通帳(かよいちょう)を利用した掛売りがほとんどであった。工業では酒造精油打綿製蝋(ろう)手漉き和紙等がある。酒造は最も重要な産業であった。
       懐かしき産業
  鋳物師(いぼし)
 高畑の三柱神社の表参道の入口の二ッ川に架かる太鼓橋の朱塗の欄干の擬宝珠(ぎぼし)の内、古い2個の擬宝珠の銘には九州筑後国山門郡柳川城の橋なり。慶長四己亥年(つちのとい)八月吉日。作者瀬高上庄の住 平井惣兵ヱ尉平生定衛 小工一三人 重八九斤」とある。この擬宝珠は旧柳川城の「二の丸」から「三の丸」の入口に架けられた橋のもので、慶長4年(1599)豊臣秀吉が死亡し、立花宗茂が朝鮮の役から帰国した翌年に鋳造された逸品で貴重な歴史遺産である。柳川城は明治5年1月18日に炎上した。その後擬宝珠は三柱神社の欄干橋に取り付けられた。そして先の太平洋戦争で昭和18年、すぐそばの青銅の鳥居とともに14個中、12個が政府に供出され、幸いにも残ったものがこの間、改築された欄干の柱頭に取り付けられている。
また同神社の拝殿と神殿との間の両側に青銅の御宿直(とのい)2基がある。文政9年十二月 奉献 三柱大明神広前 平井弥左衛門 菅原忠俊 平井惣兵衛 藤原保俊 ・・外十三名銘がある。ちなみに文政9年(1826)は三柱神社が創設された年である。これらの作品の銘から、瀬高町上庄の平井家が古くから筑後国の鋳物師として活躍していたことが解る。
平井家は、
豊後(大分県)に「清原系」「大友系」があるが瀬高の平井家は「筑前系」の鋳物座の鋳物師の家柄である。太宰府市五条の平井家の文章に「平安時代に大宰府七座のなかで栄えた鋳物座衆の平井家の流れで、戦国時代に八女郡福島羽犬塚の二ヶ所にやって来た」とある。平井家は瀬高上庄に本拠を持ち、豊臣秀吉の時代の慶長年間には筑後で栄えた鋳物師であつたことが作品でわかる。初めは柳川藩命により武器を造っていたが、後には鍋、釜、農具などや寺の梵鐘、仏像、狛犬、鰐口(わにぐち)など鋳造に従事した。鰐口とはお宮、お寺の正面の軒に、布で編んだ縄とともにつるされた円形で扁平中空の金属製の音具である。柳川市蒲池の立石、東照寺の鰐口もその一つである。鰐口の銘に「慶長十三年 戌申軍二月建立焉 作者 瀬高庄 平井惣兵衛尉 平朝臣政朝」とあり、この鰐口は慶長13年(1608)藩主田中吉政の三男、福島城主、久兵衛康政がどもるので、薬師如来に祈ったところ霊験があった。父吉政は仏殿を建て、田一町を寄進している。
 酒(醸造酒)
藩の米倉(お倉の浜)の番人、管理人の役目にあたったのが上庄二百丁森家であり、その米を利用して酒造りを始め、のちには藩内酒屋の元締め的立場におさまる。一方この地方の地主は米は有り余る程保有しており、その米を使って次々と酒造りを始め、酒屋の数も増えてゆき、瀬高の酒が評判になり柳川藩財政上重要な財源の役目をもつようになる。 みやま市の酒の歴史
 酒屋(酒販売)
 酒の販売店も多く存在していたであろう。下庄元町の宮本宅は柳川の北原白秋の実家の酒蔵の「潮」の酒を販売していた。酒の販売には一斗入る白磁の容器や一升入る販売店の銘とナンバーが入った貸し出し用の容器で酒を量り売りされていた。同じく元町の井出宅には明治から大正にかけて製造された愛知県半田市榎下町にあったカブトビールの看板が残されいることから明治末から大正にかけ瀬高でもビールが販売されていたと思われる。現在、明治31年竣工の五階建てレンガ造りの旧カブトビール工場が保存されている。


   
    坂田屋本店の酒販売容器
 ビールの看板
  瀬高瓦  (談議所)
談議所の石橋家に伝わる古文書によると関が原の戦の後、敗者の立花宗茂は一時、福島県棚倉一万石の城主に左遷された。その時宗茂の家臣であった石橋伝衛門は武士の刀を棄て肥後土山にて瓦焼きを始めた。元和6年(1620)宗茂が柳川城主に返り咲き伝衛門は再び召抱えられ帯刀を許されたが、武士の道に進まず、覚えた瓦焼きに専念することになる。それが談議所瓦焼初代石橋伝衛門である。さらに瓦職人の離厭(りえん)と出会いがある。離厭は浅草生まれで名古屋・江戸・大阪と修業を重ね、柳川城の天守の御用を務め藩主の田中吉政からおほめの言葉があったことなどが縁で柳川に住み着き、間もなく立花宗茂の代になり、石橋伝衛門瓦と出会いが生じて瀬高に定住した。彼の技術導入により石橋の離厭瓦として名声を博し栄えてゆく。離厭の子孫は代々石橋源蔵を名のり、後で本家石橋家と縁戚関係が生じている。談議所宝聚寺前の石橋金生さんが離厭の子孫であり新宅と呼ばれた。新宅の「離厭瓦御免地覚書日記」には石橋本家は藩の御用掛となる。天草島原長崎方面に瓦のほか、酒。種油、米などを手持ちの舟で輸送し、帰り荷には、あちらの石灰、白灰、石材、砥石、ツケアミ、浅草イリコなどの海産物、河内ミカン、薪などを積んできて、談議所の浜は4、5隻の舟が帆を休めており荷役人夫、車力、馬車の行き交いで賑わっていた。これらの品を売りさばく中町、田代、新町、市場(元町)が中心であつた。石橋家は代々藩の御用聞を勤め、藩内で瓦を焼くには石橋家の許可が必要で、代りに藩は瓦を市価より安く藩に納めさせたり、上納金を献上させた。石橋本家は幕末時代には酒造工場も開設され、大正年代まで営んだ。しかし明治・大正時代には鉄道、自動車の発展で談議所の船荷の扱いも減り、十数軒もあった瓦屋の景気のよさは昭和5、6年まで続いたが、しだいにさびれる運命をたどり瓦の町談議所の面影が消えた。

高田町濃施
石橋治彦家に伝わる古文書によると「藤原房前(ふじわら の ふささき)七代の末裔、俵藤太秀郷六代の子孫であるという。
石橋彌助(やすけ)は、永禄12年(1569)8月13日豊後国玖珠郡筧村(かけひ)吉弘館(よしひろたち)に生まれた。天正年間(1580年頃)筑前三笠郡の岩屋城主、高橋招運に仕え、五十町歩を領し銅百貫文を賜り、土木権介(臨時の次官)に任命され山間部で粘土を練り、瓦を焼くことを仕事としていた。後年、肥後国阿蘇郡で瓦工業の家に住込み、製瓦の技術を実地により研究すること数年、技術を修得して諸国を歴遊した。長州馬関(山口県下関)において、柳河藩の重臣、十時摂津に面会し、それが機縁となり立花家に迎えられた。元和8年(1622)十時摂津は家臣、石橋彌八郎と計り、瓦製造工事に着手させた。まず場所を瀬高談議所に設け、ここを所謂泓(かわらだ)・瓦田・河原田と呼んだ。石橋家はこの道に従事すること13代、子孫相次いで他業に転ずることができなかった。そのかわり藩内で他藩製の瓦を用いた家があれば、これを剥ぎ取る権利を与えられた。瓦は文化年間までは需要は少なく、神社の拝殿には使用しても、神殿には使用していなかった。理由は足で踏んで作った瓦であるため、神の上には恐れ多いという考えかたであったろう。しかし文政の頃から次第に需要を増し、同業者も現れたようである。以来、一かまにつき、金3両の税金も納入するようになったとある。

また瀬高駅の東に昭和年代に、最新の洋瓦焼き「八光陶業(株)」の工場があった。焼き窯はベルトコンベアで自動的に焼き上げ全国に出荷していたが昭和47年で姿を消し現在、タカ食品工業の工場敷地になっている。
  おこし・あめがた(上庄)
瀬高では江戸末期には40軒ほどの小さな酒造家があった。酒造の麹と米を使用して蒸し饅頭おこし米を作る酒屋があり、甘いものがない時代重宝され人気があった。その後蒸し饅頭おこし米を本業にする店が出現し、本格的に販売しはじめた。江戸期の瀬高の商店街の中心は上庄の祇園さんの通りで平日でもお寺やお宮の参拝客で賑わっていた。祇園宮の前に店を構えて與田家の「およねさん」「およねおこし」を製造販売し始める。参拝客のお土産に通称「瀬高名物・およんさんおこし」と呼ばれ人気であった。もち米製の「瀬高名物・糯飴」も人気で縦10cm横4cm位に伸ばした飴で「あめがた」の呼び名で良く売れた。妊婦の出産後の乳が良く出るようにと、贈り物にも重宝された。明治時代に鉄道が開通し、弘済会でも販売していた。瀬高で何軒があつたおこし屋も無くなり昭和初期で最後の「およねおこし」も店を閉じた。現在では探さないと食べられない懐かしいお菓子であるが、高田町の三軒屋で製造している店「池田飴店」がある。
                                     
  醤油(柳川・瀬高町下庄新町)
明治年間には柳川の高椋醤油工場と瀬高町下庄新町の荒巻醤油工場の二軒であったが菊久司(下庄新町)も酒造と醤油の製造をしていた。
大正年代
になり石橋(談議所)金子(田代)石井(元町)の醤油工場が開業した。
昭和年代に入って高巣醤油屋も開店した歴史があるが現在は姿を消している。当時を偲ぶには下庄新町の荒巻宅に明治の醤油蔵を手入れして復元されている。
            荒巻宅の醤油蔵             蔵内の立派な梁
  湯葉(湯葉)(下庄、上庄)
明治年間にはすでに製造されていた。龍亀太郎商店井上重吉商店(元町)中村仁助商店(上庄)の三軒が製造していた。昔は巻き寿司には湯葉を使用していたが昭和20年代から寿司の材料の酢が米酢から石炭化学製品の安い酢酸に代わり、その鮨米に密着しない湯葉の製造が姿を消した。
  手漉(てすき)和紙(唐尾)
1596年(文禄4)行脚僧の日源上人が溝口(筑後市)で和紙製造を始めた。地元の福王寺を中興した。弟3人に製紙場を設け藩主の宗茂から御用紙の命を受け、次の藩主の田中吉政の御用紙の命も受けた。宗茂が柳川藩に再封されると溝口から唐尾周辺部に移り山中で60軒唐尾で30軒位の家内手工業であった。江戸にも柳河紙の評価され、奉書尾紅花紙、松皮紙、色奉書、小菊色、半切壇紙、繪透紙などの優良品が製造され、特に柳河半切は水に濡れても破れず、文字が判明に書けると賞賛された。九州全域に伝幡拡散はもとより唐尾の紙は全国に名をはせ栄え瀬高港から積み出され販売された。現在は文化財保存の為、希少漉かれている。
  白蝋
櫨の実から木蝋を取る技術は、正保2年(1645)中国船が桜島に漂着した際に伝えられたものと言われている。和歌山県以南の温暖な四国・九州で栽培された。江戸時代には、燈火用として固形のローソクがそれまでの菜種油と共に使用され、また蝋から作ったビンツケ油は、ダンディな髪結に使用されるようになり、次第に木蝋の需要が増し原料の櫨の栽培、木蝋の生産が盛んになっていった。筑後地方は全国でも主要な木蝋の生産地で、柳川藩でも米についで重要な財源となり、藩の財政を救い、藩の達しでハゼの木を植えられた。柳川藩の木蝋の製造業は、享保2年(1717)瀬高下庄八幡町武田平助の先祖が創業といわれ、後に武田製蝋店に雇われた高田町海津江崎宗四郎などによって、益々発展したといわれる。柳川市保加町武松豊氏所蔵の「文久四甲子年大福日記帳」などの資料からは、幕末(文久・慶応年間)莫大な量の蝋と茶が貿易品となり長崎の貿易商・松尾屋に送られていたことがわかる。明治以降、この木蝋は東部山間地域で生産、集荷されていたが圧搾された後、生蝋となりさらに晒(さらし)業者よって白蝋として製品化され、神戸大阪の輸出業者によってアメリカ西欧に送りだされた。晒工業は、櫨の実を圧搾し油を凝固された生蝋を摂氏50度位で溶解し、それにアルカリ性の漂白剤を加え乳化・凝固され、それを小さくカンナで切削り、天日で晒す、晴天で20日位干し、不純物を取り除くために、また溶解、切削り、天日晒をして粗製白蝋を作った。特に三橋町は晒業者が日本一といわれる程、多く三橋の特産物となっていた。蝋作りも時代の流れと共に姿を消し、瀬高町吉井亀崎友男さんが伝統産業を守り続けていたが近年廃業されている。現在では高田町江浦の寛永3年(1850)創業の荒木製蝋合資会社がある。特製白蝋・化粧品用白蝋・特用価格に設定したM白蝋・和ろうそく・整髪料の鬢附油の木蝋を製造されている。各地の櫨の実の特徴はつぎの通りである。
  【櫨の木の品種】

 伊吉櫨
小郡市原産。松山櫨からの品種改良。
葡萄櫨に次いで硬質、色づきが良好の製品に。
みやま市の櫨の木はは伊吉櫨です。

  昭和福櫨
長崎県島原の原産。
茎房が短く、果実は中粒で核が細い。果肉豊富で柔らかく色はよい。

 松山櫨
田主丸町原産。上記4品種のうち最も古く発見された。
果肉が多く、蝋分も多い。やせ地の栽培にも適する。

 葡萄櫨
和歌山県原産。茎房が長く、実は最大。
蝋質は硬く粘靱性に乏しい。隔年豊凶の差あり。

櫨の実

和ろうそく(荒木製蝋)
  樟脳     (瀬高町長田)
樟脳は江戸時代からタンスの防虫剤として重宝されてきました。長田の農家子供達は船小屋の楠林に春先に落葉する樟の葉を拾いに出掛けていました。樟の葉を集めて麻袋に詰め樟脳製造場に売っていました。クスノキは樟脳と樟脳油を含んでおり、原木をチップにし、水蒸気蒸留すると粗製樟脳ができ、さらに分留、昇華などの過程を通して精製樟脳と樟脳油ができる。この香りは強く、現在では化学合成の樟脳(ナフタレン)が開発されたので、天然の樟脳をつくる職人さんは次々のいなくなり、日本ではここ「内野樟脳」一軒となっています。化学合成の樟脳は匂いが衣服に残るが、それに比べ天然物はお香のような匂いで、風にさらすと匂いは消えるので、着物や大切な衣類を保管するのに最適です。長田の内野清一さんは日本でただ一人、天然樟脳を製造しています。
  生糸   (瀬高町女山)
明治25年(1892)梅野鉄太郎は東京駒場農業専門学校(東京農大の前身)を卒業し学んだ技術を取り入れ、地元女山の日子神社の北側に、製糸工場を造り、生糸生産を始めた。付近の農家はもとより、肥後方面(山鹿、植木、南関、菊池)まで繭の買い付けに行くほど繁栄した。明治37年(1904)日露戦争が起り、輸出が止り、操業できなくなり工場を閉鎖した。

梅野製糸工場の従業員
  和傘(下庄)
東部の山間部の竹と唐尾の和紙で和傘の製造が盛んであった。吉広傘屋、西原傘屋(下庄新町)松島傘屋(中町)広田傘屋(矢部川3丁目)井ノ口傘屋(北高柳)などがあった。晴天の日は傘の防水に塗った柿渋を乾かすため、干し場では和傘の花壇の様であった。昭和30年代から軽くて丈夫な洋傘(コウモリ傘)におされ姿を消したが、西原傘屋は洋傘製造に切換えて製造していたが、価格破壊で採算あわず転業した。写真は下庄元町の井出油屋(菜種油)の残る蛇の目傘です。
 中絶の柿渋(かきしぶ)(中絶)
酒屋や和傘屋や漁師などにとって柿渋は必需品であった。和傘の紙の防水に、醤油屋、酒屋では搾り袋に使用して程よく搾っていた。また魚網の水切りににも使用していた。明治38年の日露戦争終結後の景気で瀬高の酒屋は益々活気づいて増産し柿渋の需要が増えた。
この時分下小川生まれで八女郡兼松に移り住んでいた佐田長一は柿渋や木炭を車力で瀬高の酒屋に納入していた。この佐田さんが三池街道沿いの中絶の茶店のおばあさんの養子となり、中絶の上田一門の人に製法を教えたのが起源である。当時は酒屋、醤油屋、傘屋、柳川地方の魚網関係まで一手に扱う程手広く商っていた。柿渋製造には、金物、かなけ水は大禁物であった。昭和30年代までで終わり現在では製造されていない。
  蒲池焼(大草)
高麗伝統の陶法により、古くは柳河焼とも称されて、柳河藩の御用窯として幕府献上品を取り扱った。現在は大草田嶋芳実さんが受け継ぎ制作されている。陶芸教室も開かれている。
    (田代)
京の古式矢作りの流れを組む松田郎矢。下庄田代野口教司郎さんが二代目として矢作りを継承しています。矢作りは竹との勝負。矢竹の切り出し、火入れ、磨き、筈、羽、矢尻付けと全て手作り。全国でも貴重な伝統を伝える矢師の存在で弓道の道具として需要がある。
  久留米絣
本場、広川町の久留米絣の織り元として、山間部の小田・女山・本吉部落で盛んに織られ、手間賃を稼いでいた。現在でも少数の家で織られている。1反あたりの編み賃7千円位だそうだ。


 写真は平田部落の大石宅での久留米絣織りの様子 H17.11
   【明治時代】

*町の商業は旧藩時代から
上庄(二百町、新町)が圧倒的に店舗の数や種類も多かった。

瀬高談議所の浜に陸揚げされた石材、石灰、白灰、魚類、乾物、からいも、薪などが田代新町の阿部酒店を左折(吉岡土居の道路)−吉岡−唐尾−立花町−矢部村−黒木の街道筋に流通して、東方の山間部からは、竹材、木材、野菜類が西行し吉岡土居を通過していた。
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明治24年九州鉄道、矢部川駅が開業。明治42年には柳川軌道が開業され輸送手段が変化し矢部川駅周辺には旅館、料亭、馬車駅ができ、下庄の軌道沿いに、跡取りでない商店の次男などの新規開店や従来の店を移転するところが増え栄町ー恵比須町ー矢部川の新沿道に商店街できる。
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大正12年秋には酒造家の協同出資で下庄栄町に「瀬高劇場」(現瀬高薬局敷地)が開演し近隣の人たちが集まり様相を一変し下庄の新沿道沿いの商店街が繁盛した。

*栄町に瀬高劇場が出来てから急速に商店が並び、商業圏が形成されて行った。そして、栄町から東進して恵比須町矢部川3丁目の方へ家が建ち並び、商店が増え、田畑が消えて変革して行った。
昭和15年国道209号線が完成、柳川−南関道路の交差点(恵比須町)付近が交通の要所となり、加えて郵便局、警察署、金融機関がここに集まってる。

昭和20年頃の矢部川3丁目(一番街付近)は商店らしいものとしては南入口にあった広田傘屋(広田ビル)、金子時計店、熊川漬物、小柳漬物などを見る程度で雑草のしげる畑地が散見されていた。
昭和21年に3丁目の西方に山門映画館が開館し、昭和29年映画館東映が3丁目横丁に落成した。その後田中屋ができ昭和39年に前田から大阪屋が進出している。

昭和42年には日の出屋が完成し、スーパーやまと、三和屋にスーパー丸食が入り客足が増える。昭和43年小売業店舗協業化による共同店舗エイコーの誕生に及んで瀬高町の中心商店街となる。

*現在の商店は金栗の国道筋には食料のアスタラビスタや衣料品のしまむらなどの大型店舗ができ競争が激化し、現在の栄町から矢部川3丁目の商店街では廃業している店舗が目立ちさびしい。景気の回復を期待し元の賑やかさを復活したいものだ。(平成19年2月現在)
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             左黄色の薬局が瀬高劇場跡        恵比須町方面吉岡土居交差点

                                                             庄福BICサイト           瀬高町の明治時代の主要店舗図