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縄文時代後期
稲作(ジャポニカ種)はアッサム雲南高地説があるが中国の長江中流の湖南省が起源と有力視されている。長江の河口周辺から九州北部に伝播(でんぱ)し、水稲耕作が始まったと思われる。中国大陸南方から台湾沖縄などの南の島づたいに熱帯ジャポニカ種が早くから伝播した説もある。日本最古の稲作文化発祥集落跡として、2400年前の水田跡が確認された佐賀県菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡がある。
弥生時代 稲作農耕は大陸から近い北九州から始まり邪馬台国山門説だと、みやま市は要地をなし農業の中心となり文化の創造の勢力をなしたと思考できる。古代の矢部川のは平野を自然のままに網に目のごとく流れ、あちこちに沼地や潟地を形成していた。山地や丘陵に近いみやま市東部から稲作文化が始まり水面の低下に伴い自然堤防には水田耕作の集落が出現した。稲を植えて主食とし、川や海の魚貝類を捕獲し、麻を栽培し又は蚕を養って衣服を作り着て、竪穴式住居に数人が住み一つの支族による数戸が集落を形成してたであろう。
古墳時代
農耕はさらに発展し、水田開発、治水の大型化などによって氏族連合ができ、有力氏族の長は小氏族を従属させ氏族国家を形成した。氏族の長の墓と推定される初瀬町王塚古墳金栗やんぼうし塚(現在取り壊されている)などが点在する。集落の人は決まり事に従い氏族の長に土地や人が支配されていました。
飛鳥時代 大化元年(645)大化の改新で農地の班田収受の制度が発足し、6歳以上の男子には2反、女子には男子の3分の2の田地(口分田)が与えられたが、この収穫では生活は安定せず、税(祖・調・庸)や労役(雑徭ぞうようにより苦しめられ貧しい生活から逃げ出す者もいた。
朱鳥10年(695)筑紫は筑前と筑後に二分される。

矢部川は悠久の昔より幾度も流れを変えながらも、とどまることを知らず、洪水の度毎に沃土を運んで流域を潤し、農耕文化が栄えた。
奈良時代   【筑後・肥後の名国司】
和銅5年(712)道君首名(みちのきみのおびとな)新羅(朝鮮)大使に任命され、帰国後の和銅6年(713)筑後守となって肥後守兼任し農業生産をあげるために尽力する。首名加賀国(現在の石川県)の祖先が取り組んだ農業政策をまねて、田んぼの畦(あぜ)を活用し果樹(桃・みかん)や野菜(春の七草のたぐい)を植えさせ、鶏や豚の肉を干し肉にし保存することや、骨を釣り針などに加工して利用する方法を教えた。干ばつ対策の為に筑後国肥後国の各地に溜池や用水路を造らせ水田開発のため盛んに灌漑治水事業を行なうなど数々の功績から、農民の信望は高く、名国司として仰がれた。国司の5年の任期の終わる年(718)4月56歳で亡くなる。久留米大善寺町夜明の印鑰神社(夜明神社)の境内には、首名の墓といわれる乙名塚(おとなつか)があり農業の神と祀られ毎年11月23日ごろに新嘗祭が行われる。熊本では北部地方に多く祀られていた「おぶとさん」という小さなほこらや熊本市高橋東神社(通称天社さん)は首名を祀るものである。

筑後国、山門郡となり150戸を単位に山門太神鷹尾大江草壁5郷と、その下に20〜30戸を単位にをおいた。
    【条理制】
 条理制筑後地方で施行されたのは70年遅れた、和銅8年(715)以降である。条理の基本は、方六町(三十六町)を一里とし、この横のつながりをとし、縦のつながりをとし、土地の位置を表わすのに何条何里と呼んだ。さらに一里を36の坪に分割した。一坪は地積一町(約1ヘクタール)である。このの名(ともいう)が各地に小字名として土地台帳に残っている。みやま市瀬高町の条理は大別して三地区が考えられる。
瀬高地区・・中山の北の沖の端川の線から西は三橋町の矢ヶ部小学校南前の堀が北限で、南に広がる一帯である。
下庄八坪は二条五里八ノ坪と呼び、東津留二ノ坪は三条六里二十二坪で末尾が残って二ノ坪の小字名の地名が残っている。ほかに高柳地区の五反田三ノ溝五の溝仏生。下庄地区に四ノ坪二溝七生寺寺町生竹樋口の班給された土地のなごり(小字名)がある。
本吉地区・・・・本吉から大木にかけての条理で大根川の流域に広がる耕地を整理したもので、その遺構は清水山から遠望すると、本吉の麓から南西に確認することができる。松田佐ノ江は一条一里三ノ江、本吉六ノ江は一条四里六ノ江、大広園八ノ坪は一条二里八ノ坪にあたる。
本郷地区・・・・沖の端川の右岸の本郷北部は下妻郡の条理に属する。本郷作出の志ノ江は作出と下妻との境の条理、北西隅から東へ読むと四ノ坪にあたる。今でも農道として、あるいは水田用の水路として活用されている。

*このように口分田を分割し耕地整理を行い土地台帳を作成した。矢部川の水流を山のふもと大草本吉梅ヶ谷に流しその水路に西南の低地にいく筋の水路を有富大江真木の方に流れ込ませた。条理制の崩壊は以外に早く荘園の出現となる。

724年文広の祖先は、国への功により広田県(あがた)の270町歩の土地と住民を与えられた。それを封戸と言い広田八幡宮を建てた。その後、封戸は権力者により荘園となるのである。
平安・鎌倉・
室町時代
平安時代の延喜の制度による貢物により推測すると筑後の農産物などは米のほかに絹・綿・漆・胡麻油・あまずら(葡萄科に属するつたを煎煉した砂糖代用食品)・魚類の保存食などがみられる。
    【庄園(荘園)】
瀬高庄はその領域が上庄下庄三橋町大和町柳川市にまたがる大庄園であったであろう。
保安2年(1121)藤原俊忠(としただ)は大宰府の役人になって都から来たが、瀬高の土地が矢部川の畔で広い平野と水路の便が良かったので自分の荘園にした。死後、俊忠の母方の叔母のもとなった(.)
大治6年(1131)
瀬高上庄と下庄に分割された。上庄の分は俊忠の息子の忠成(ただなり)(1091〜1158)を経て、孫の妙法院僧正(そうじょう)昌雲(しょううん)に領家職が伝領された
瀬高下庄分はは
藤原俊忠から娘の豪子(ごうし)(徳大寺公能に嫁した)を経由して徳大寺実定の手に渡り、後徳大寺領になった。後に藤原璋子(しょうし)(たまこ)に寄付し、争いごとの為に右大将家があずかった。
瀬高の下の御庄(下庄)は平安末期にかけて、
山門郡鷹尾郷の開発が進み、鷹尾宮が造営され瀬高下庄の総鎮守社として下庄の中の特別行政体鷹尾別符(たかおべっぷ)の中心となり鷹尾別府八幡宮とも称した。代々の朝廷、および鎌倉幕府の尊崇厚く、造営は朝廷および鎌倉幕府によって行われ、その都度造営奉行が任命された(.)往古盛大な時は、大竹、樋口、下庄より高柳、井出の上、泰仙寺、鷹尾、皿垣(さらがき)まで残らず神領で樋口宮の地は鷹尾宮造営までの神霊を安置した仮宮でもあった。鷹尾宮は瀬高下庄の西部鎮守樋口宮は東の鎮守であったろう(.)
建久(けんきゅう)2年(1191)には鷹尾別府という役所が置かれ、この地方を治めるとともに、矢部川を上下する商船に対して課税していた。有明海も鷹尾海と称して沖合いの方まで神領とされていた(.)
鎌倉時代、高良宮
(久留米)の造営費用を筑後国内に賦課(ふか)した古文書に瀬高上庄は1,140町余、下庄は1,023町余の庄園と記されている(.)
また、三潴郡一体に広がっていた
三潴庄(みずましょう)蒲池・荒木・酒見・西浜武・藤吉・江上・五郎丸)は1,252町と記されている(.)
*瀬高庄に関係した、
瀬高横手庄(200町)(上庄の西側)の庄園の名もある。

宇佐八幡宮領小河庄は明治期の小川村(小川・大江・太神)緑村(松田・大広園・清水・河原内)一帯にあったとみられる。平安時代には国家から庄園として認められ、立券庄号(官省符)を受けた。平安末期に書かれた宇佐八幡宮の荘園目録「宇佐大鏡」によると宇佐宮本御庄18ヶ所の1つで、本庄の20町は、大菩薩御位田から出発した荘園であるとされている。別名として、上下松延名(旧松延村)80町と三深名(上妻郡)8町が附属し、合計108町で小川庄を構成していた。

香椎宮領本吉庄本吉広安大草朝日山門一帯とみられる。立荘の時期や事情などは不明である。
鎌倉末期の
正和3年(1314)香椎宮領筑後本吉雑掌慶実、能光申す、吉里弘安 両名、神用米の事云い・・・、蒲池余一入道殿」と鎮西探題の北条政顕(まさあき)が命じた古書状あり広安本吉領に含まれていた事が解る。
南北朝期(1333〜1392)には本吉庄が足利尊氏によって筑後国安国寺利庄塔料所に当てられたことを伝える「浄土寺文書」がある。

安楽寺大宰府領長田庄(大塚・長田)坂田庄(坂田)であり、老松神社は安楽寺大宰府領の集落に鎮座させ菅原道真を祭るため創建されている。

宇佐八幡宮領広田庄「宇佐大鏡」に「国々散在常見名田」という項目があり、宇佐神領の大半が、ここに含まれている。この中には、筑後国の常見名田として「北広田」がある。広田八幡宮は、本来、この常見名田北広田の地に勧請された社領鎮守社に、起源があると考えられる。

安楽寺領
飯得庄は高田町飯江一帯にあつたとみられ安楽寺領であった。

庄園は鎌倉を経て戦国時代まで続いたが、守護大名が戦国大名に変ると完全に消滅する。郷土では南部は田尻・中部は下蒲池・北部は上蒲池の戦国武将の国人が支配し、勢力の強大な豊後の戦国大名の大友氏の幕下に入り大名的な独立性を持ち支配する。 詳しくは 南筑後戦国史・田尻物語  柳川 蒲池物語

*この時代の郷土では害虫、洪水などの天災で作物は凶作の年が多い。

安土桃山時代 豊臣秀吉が天下を取った後は、立花宗茂が柳川藩主となり郷土を治め農業促進を図る。
百姓の生活は貧困にあえぎ他村や他領へ欠落し、逃散しました。このような農民の移動 (走百姓)は全国的に発生した。
 【十戸組の申し合わせ】
文禄4年(1595)
豊臣秀吉は天下の検地で各地を測量し、慶長2年(1597)に十戸ごとに組を作らせ、人は近い隣と相助け合わせ、何事も組内で責任をとらせる申し合わせがあった。柳川藩にてはもっと古くから集落には「十戸組」の申し合わせがあり、規定を設け組内で守らせた。もしそむいた者は処分されるから、十戸組内にて、よくよく話あって集団生活をしてきた。
江戸時代
の体制
筑後肥前佐賀は隣国の関係上、相互への農民の逃散「走り」はかなりあったようで、慶長20年(1615)4月に、柳川藩主・田中吉政と佐賀藩主・鍋島直茂の間で「人返し」についての協定を結んでいる。筑後から佐賀佐賀から筑後、それぞれの走百姓のうち、慶長20(1615)年4月末日までの「走百姓」は、走り先にそのまま安住してよいが、5月朔日以降の「走り」は、いかなる理由があろうとも、これを許さず、元の村へ還住(帰村)させること、という協定である。

将軍から領土を分け与えられた大名、公家、社寺などが、領地を支配する二重政治機構である。幕府は鎖国政策、貨幣鋳造権の独占、主要鉱山の直営を行う。筑後藩32万2千石として田中家が筑後を治め後に柳河藩10万9千石として立花家が矢部川以南の南筑後を治める。

藩政初期、柳川藩の山門・三池・三潴・上妻・下妻5郡169ヶ村は郷方8組の大庄屋組の編成がありみやま市では
本郷組
上庄・中山・木元・吉開・新・五十町・上久末・下久末・東百町・西百町・上沖田・下沖田・(以上山門郡12村)本郷・芳司・吉岡・禅院・山中・小田・南長田・下長田・上坂田・下坂田の村(以上下妻郡10村計22村)
竹井組
大木・松延・北広田・藤尾・堤・朝日・大塚・女山・草場・本吉・河原内・蒲池山・在力・南広田・中尾・野町・竹井・飯尾・飯江・立山・原町・佐野・中原・小萩・三峰・北関・真弓の村)
小川組下庄町・大竹・北高柳・南高柳・東津留・北浜田・南浜田・堀切・吉里・開・長島・下小川・井出上・真木・有富・大江・泰仙寺・広安・宮園・金栗・上小川・堀池園・北海津・南海津の村)
楠田組江浦町・溝尻村・南新開村・北新開村・黒崎開村・上楠田村・下楠田村・短手開村・渡瀬村・東濃施村・中濃施村・西濃施村・原村・今福村・古賀村・岩津村・田尻村・亀尻村・谷川村・上飯江村・中飯江村・下飯江村・田浦村
他の4組は蒲池組柳川の蒲池周辺地域))・垂見組三橋町垂見周辺地域)・田隈組大牟田地域)・谷川組立花町地域)の組があり、幕末には新田開発により225ヶ村に増え宮永組柳川市上・下宮永周辺や大和町地域)が加わり9組の大庄屋組になり、村高総計15万5千400石であった。

*年貢の納期がせまると藩内9組を担当する各代官、大庄屋が瀬高上庄の御茶屋に会合し、年貢米の倉入れについて協議した。慶応年間の大庄屋は上班、本郷組・檀兵衛 次班、楠田組・樺島新三郎 3班、竹井組・樺島吉左衛門 4班・田隈組・樺島作之進(以上、世襲) 小川組・今村嘉十郎 蒲池組・吉原左衛門 宮永組・下川茂左衛門 垂見組・樺島五兵衛 谷川組・上野伊助 であった。
*村の自治機関としては、庄屋(1人)百姓長(3〜5人)百姓総代(2〜3人)いわいる地方(ちがた)三役があった。
土木事業 筑後藩主になった田中吉政、忠政父子は2代で柳川城の拡張工事と、筑後の道路、築堤、灌漑利水の基礎原型を完成し、後に立花宗茂の代が再び柳河藩で治め、ひき続き、南筑後の干拓や堤防事業を行い水田開発をおこない元禄9年(1696)には主として黒埼開紅粉屋開など有明海干拓事業により1万石の新田が増加した。また藩の普請役、田尻総助親子らによる矢部川の堤防、井堰の事業により灌漑施設ができ旧河川敷や潟地などが新耕地に変り、堤防造りにより水害も減少した。
検地の実施 耕地一筆ごとの面積、土地等級の丈量判定、これにもとづく村単位の課税評価額の算定、及び土地を保有耕作する権利と土地の年貢を納める義務をもつ「百姓」の決定(検地)を行う。領主に年貢を出す「高持百姓」と前代からの農奴主的地主の小作人で隷属農民もいた。
農民の生活
(江戸時代)
江戸時代、柳川藩の農民数は約9万人で、稲作第一主義で、過半が年貢に取り上げられ自分の食料にも事欠く状態で、生活維持の為に、水田の裏作にを畑には粟、稗を作り農民の主食となり、副食用に芋、大根、大豆、菜種を作った。江戸中期に本吉の旧参道の渓谷に水車7基が設置されたのは、農民が麦を中心とする雑穀を食べるようになり、製粉依頼者が増加した為である。また瓜、茄子、かぶ、大根は商業の発展にともない下庄や上庄辺りに販売し肥料や農具購入の足しにした。明和2年(1765)に柳河藩士戸次求馬によって著された「南筑明覧」によると当時の特産物は瀬高たねがらし(アブラナの一種で種を粉にひいて調味料に使ったり、菜種油をしぼる。しぼりかすは肥料となる。)なす(本郷)せり(松延)大根(金栗)西瓜(尾野・立山)里芋、山芋、茶・きのこ、たけのこ、こんにゃく・松茸・椎茸などである。でも重い年貢を出したあとは、生活の資も十分に残らず大雨による洪水や台風で凶作が多く貧困の生活だった。藩では農民の金納をよくする為にロウの原料になるはぜの木を土手、藪に植えることを奨励した。人口の8割は農村に住む農民であった。
漁業 矢部川の鵜飼魚は、大網を川底に敷き、下流を締め切り、鵜を使い上流から鮎(あゆ)を網に追い込み引き揚げる方法で4月から9月頃まで行われた。上流の黒木から瀬高にかけて数百人の鵜匠がいて、一網で数百匹が捕れ、一日に数千匹の鮎の収獲があったという。ほかに有明海から溯ってきた海水魚のハゼクチ鰡(ぼら)鱸(すずき)それに、うなぎ鯉、鮒などの淡水魚も収獲できた。江戸後期の史料からは、猟をする者(猟師)、魚を計量する者(斤量取り)、仲買、問屋という分業体制が出来ていた。猟師や魚の流通に関わる人たちは、藩に運上という営業税を納めることになっていました。一時期「3年間)には大坂の鮒屋という川魚問屋が、柳河藩領内のウナギ購入を独占する契約を藩との間で結んでいたことが解る古文書も残っている。また、猟師たちは仲買からウナギを安く買いたたかれていたようで、仲買を廃止して、直接問屋に納入できるよう藩に歎願した文書も残っています。海に面する高田町ではくらげ・海のり・海老・くっぞこ・大名魚・はへ・あさり貝・大平貝など有明海の豊富な魚貝類が採れた。水門には青海苔・山門郡東部の泉水流には川苔が採れた。
           
 林業・鉱業 柳河藩では領主林について、柴や蔭葉は、肥料や薪用に利用できたが、竹や木の伐採は許可制を設け、領主林を藩有として取り込み、領民の伐採を禁止した。木材は山門・三池・下妻の山間部より産出し、竹は瀬高町の大木村を主産地とした。温石は楠田村(高田町)より石炭は三池平野および稲荷(大牟田)より堀採る。木葉石は山中(瀬高町)にあり、石灰原料は北の関(山川町)にあり。雲母および紙漉き用の白土は真弓より、蝋石も真弓・湯谷(山川町南部)より産出していた。
 近世 米の生産は明治以降も地主に納める年貢の為に生活の向上はみられないが、戦後の昭和22年の農地改革による農地解放が行われ小作人も自分の農地となり自作農が大幅に増え農民の生活は向上するが、しかし、これは大規模農業の細分化に過ぎず、農業経営が非効率的になり国際的競争に勝ち抜くため、合理的農業への課題が残されている。現在、減反政策や低収入の為、後継者不足の問題を抱えている。良質の米は矢部川水系の水により古くから酒の醸造が盛んであったが現在、廃蔵が多くなり酒米の需要も少ない。しかし、おいしい良質な米として「清水米」が人気を呼んでいる
現在のみやま市の特産物は日本一生産高の博多なす(文広中心)・西日本一生産高のセロリー(坂田中心)や高田のすももきゅういぶどうたけのこ・山川のみかん山菜広範囲にアスパラガス「あまおう」のイチゴなどの生産が盛んである。イチゴは平成15年から「博多とよのか」の品種から「あまおう」の新品種に変わった。写真提供JAみなみ筑後
          

あまおう

すもも

博多桃太郎(トマト)

山川みかん

博多なす

瀬高セロリ

卑弥呼の里上坂田販売所

たけのこ
  養蚕(おかいこさん)と梅野製糸場
平安時代に、「筑紫のわた」とよばれ、当柳川藩も、寛政年代(1789〜1800)の頃より、重点産業として、奨励してきた。
1859年(安政6)には長崎より英国商人グラバーが、生糸1斤1両2分で取り引きしている。
梅野鉄太郎は東京駒場農業専門学校(東京農大の前身)で当時日本最高の農学を学び、卒業の後、これからの日本は、外国貿易をはからねばならないと、農大で学んだ新しい技術を取り入れ、明治25年(1892)に、女山の日子神社の鳥居の北側に製糸工場を造り、製糸生産に力を入れた。地元や肥後方面まで、繭の買い付けに行き桑の増植を奨励し、地域農業の振興に務めた。明治37年(1904)日露戦争が起こり、輸出が止まり操業が出来なくなって、工場は閉鎖された。その頃より保梅密柑の方に力を入れ始めた様である。大正10年頃まで桑畑があり農家の副業として、家の2階部屋で養蚕をして繭を売っていた。

工場主梅野鉄太郎・工場主任西田始次郎と従業人
 お茶
806年(大同1)最澄が中国より製茶の技術を持ち帰り、比叡山麓の坂本に、茶を植えたのが始まりと伝えられている。
九州では、背振八女に伝わり、柳川藩は寛保2年(1742)に上妻茶(八女茶)に運上(雑税)を課するとの記があり相当量の製茶が生産されていたことが知れる。
幕末の元治元年(1864)に薩摩藩は軍艦購入にために砂糖を大坂で販売し、その金貨で柳川藩からを購入し、長崎経由で上海に送り、ヨーロッパ人などに販売して多額の利益をあげた。維新前の特需にわいた柳川藩は統制をきびしくして特定業者のみに取り扱いを許した。山間部からの産物は矢部川を下し、下流の堀切などの海運業者に委ねて長崎に運んだ。海運業者の帰り荷は唐綿が多く、綿は豊原(大和町)などで紡がれ特産物となった。

明治10年(1877)
頃より、清水寺の田北隆研住職が寺領の山林を開墾し、桑・茶を植えて農業の振興につとめ、7年後には十町歩以上の茶畑を造成した。当時、九州では初めて玉露を生産して輸出向けとした。茶業組合を興し、初代会長となる。
明治20年には清水寺の茶畑、「音羽園」を、安場保和(やすばやすかず)福岡県知事も見学にくるほど県下でも第一であった。外国との輸出は神戸から小川敬吉が買いつけにきて談議所の浜より船で積み出していた。
この頃に本吉の野田恵太郎松尾亀太郎の2人が静岡で数回におよび玉露茶の伝授を受け八女地方には教師として指導に行き共に発展した。玉露の生産は明治大正以来、清水山を中心に始ったその後、清水から製茶技術を導入した星野村昭和3年手もみ玉露の生産が全盛となり、昭和38年には八女郡星野村は全国一の生産地となる。    

写真は神戸の輸出用茶箱に貼られた色刷りの木版画 田北隆研住職
 密柑(みかん)
旧藩時代より、各家の自家用として金柑子(きんこうず)、ざぼん夏みかん河内みかんきんかんだいだいからたち(げず)柚子(ゆず)などが植えられていた。
明治20年三橋町中山立花家農事試験場が開設された。清水寺の茶園畑「音羽園」を譲り受けた梅野鉄太郎農事試験場から新品種の温州みかんの苗の配布を受けて、清水山の茶畑の中に植え付け育てたにがみかん栽培の始めである。年々、農園を広げ、生産も増え、優秀な蜜柑が出来るようになった。
大正7年には九州の品評会で1等を受けるようになり、大正7年(1918)には沖縄の全国品評会にオレンジネーブルを出品して1等賞を受賞している。その後、柳川宮川宅の温州みかんの枝状変種により、早生温州宮川蜜柑が出来たのである。全盛期の大正の初めより昭和の始めの頃まで清水校でも保梅の蜜柑園の一部を借り受け、全校生徒が実習農場として手入作業をしていた。
 藍(あい)
染料となる藍の産地として本郷芳司は柳川藩の中で知られていたという。大正の初期まで栽培されていた。春に藍苗を植えつけ、梅雨明けの早朝に藍を畑一面に刈り干しして、乾燥したものを莚(むしろ)の上において「ブリコ」を使って打ち落とし、倉庫内で適度の水をやり発酵させて藍玉を作る。
発酵の技術がむずかしく、橋本久五郎氏が時おり見に来て指導したり、売買の仲買をしていた。刈り干しの折、雷雨でもあれば、一家総出で藍を小屋に入れ覆いをして葉が汚れないよう努力した。当時、雷神の大宰府の天満宮に、身体に雷が落ちないように月参りをしたという。
 菜種
大正10年頃は、水田の裏作は、麦4割に菜種が6割位だった。小学上級生ともなれば日曜日等は、草履ばきで菜種苗の植えつけの手伝い、収穫期には田の中央に敷いてある筵(むしろ)の所まで運ばされた。夕方になれば、蛍見物に連れ立って町の人の行かれるのが羨ましかった。春の遠足で清水山から見下ろす田園風景は見事だった。菜種は黄金色の花盛りで、麦畑は青々として、黄色と青との絣模様の美しかったこと、今でも忘れないと古老が話してくれた。
 茄子(なす)
歴史は古く、大正10年頃販売用茄子苗として生産されたのが契機であった。以来路地で栽培され、昭和34年代にビニールハウスによる早熟栽培が始められ、昭和42年、鉄骨ハウスが導入され作型前進となった。昭和37年には旧組合が解消され、瀬高町農協園芸部会が設立され本格的な茄子生産販売が行われた。昭和40年代には市場開拓の為、京浜市場へ新品種の金井鈴成が出荷し成功した。その後品種黒陽に一本化され、昭和41年大型ハウスへ、昭和43年、国指定産地を受け、今日の繁栄につながる。 リンク・瀬高なす物語
             井上農場にてH18年10月
 筵叺(むしろかます)
藁(わら)製品の筵叺の製造が始まったのは、明治40年頃、初代町長の太田豊蔵氏の時からである。この後に筵織機(むしろはた)の普及により、生産が上昇、農家の唯一の副業となってゆく。昭和40年代に入り、ビニール製品の進出に伴い、梱包用品梱包具に一大改革が起り没落していった。
 漬物
明治時代の瀬高町(文広)地区は、水田より畑作が多かった関係から、アワ.ヒエのほか、野菜物を多く栽培し、生産した農作物を大牟田などの遠方の都市部まで販売にでかけていたが、よく売れず、帰りには捨てて帰えることもあって、大変苦労していた。明治37年鬼丸寅次郎30才は漬物にして販売することを考え、作出、本郷などの農家に漬物用野菜を推励した。そのことによって、当地域の収入も安定してきた。また、農産物推励のため、優秀な生産者に、自費で購入した、くわ、すきなどの農機具を賞品として贈り与えた。このことが、高級野菜生産地としての今日の基礎を築いたといえる。その後鬼丸進、鬼丸勇一郎氏を中心に、「株式会社オニマル」として、事業の発展に努めている。寅次郎は大正11年4月に、地方産業発展上功労多大なるをもって、瀬高町長より表彰状を授与さる。
         (写真は鬼丸寅次郎)
 高菜
高菜栽培は、旧柳川藩主、立花公によって明治後期中国から導入された「四川青菜」に端を発したもので、それと佐賀地方の在来種「紫高菜」との交雑によって研究・改良されたものです。現在、最高級と称される「筑後高菜」は分厚い肉質・特有の香気、ほどよい辛味等、どの特徴をとっても他の追随を許しません。
高菜漬は九州が本場ですが、中でも瀬高の高菜漬は有名です。九州の中央部、筑後平野を豊かに潤す矢部川の下流近く、川を挟むようにして並ぶ町並みが瀬高町です。
  溝上食品HP説明文より
  セルリー(英名のセルリー(celery)が一般的だが、市場流通名としてはセロリと呼ばれている)
セルリーは瀬高町の坂田地区のハウスで生産されている。加藤清正が朝鮮出兵の際に日本に持ち込んだ説があり、セロリの異名の一つが「清正人参」である。江戸時代にもオランダ船により持ち込まれたが独特の強い香りのために普及しなかった。郷土では昭和24年に唐尾の坂田敏時氏がレタスやセルリーの試作をされ、栽培法や米軍納入許可など普及指導された。昭和31年には東山農協レタス組合(13名)を発足しレタス栽培を主とした洋菜栽培を始め佐世保の駐留軍が得意先で日本での食生活では生野菜を食べる習慣がなかった。昭和52年、坂田洋菜組合に新規者12名が加わり25名の組合員となり競争激化したレタスからセルリー栽培を主とした栽培に変更し、幾多の変遷を経て、現在の名実共に九州一のセルリー産地となした。
瀬高町の野菜園芸の歴史
明治 6年(1873) 地租改正で地価の3%の課税を現金で納付する制度を確率した。この課税は年間収穫高の約3割を占める金額で、現金収入の貧しい農家では重税にあえぎ、地券を担保に借金し、土地を手離す農家が増え小作農化し、地主制度の成長、発展となり大半をしめる多くの小作農家の厳しい冬の時代が続く。
明治19年(1886) 旧柳河藩主立花家の14代当主立花寛治山門郡中山村(現・三橋町中山)に農業の改良進歩のために、大規模な「中山農事試験場(後に立花家農場)を築き数多くの果実や野菜の試験を行い、その成績の良好なものは、筑後地域に普及指導して貢献する。種苗交換会や品評会などを開催し、また宮川温州みかんを全国に広めた。現在は「立花いこいの森」と呼ばれる公園に整備されている。
明治40年(1907) この頃の瀬高町の畑地の作付状況は春夏作が陸稲(おかぼ)20%、栗50%、そば20%、そ菜10%、その他10%で、秋冬作が麦60%、そ菜10%、その他30%程度であった記録が残っている。
明治43年(1910) この頃の郷土でのきゅうり野菜栽培が始まり、品種は青大系であった。文広井上忠次郎氏らによって大正中期、キュウリ促成栽培が行われ、大正13年には出荷団体が出来てだんだん発展し、昭和8年から本格的にペーパーハウスによる栽培が始まる。トマト栽培が試作研究に5年をついやし文広で始まったのがこの年である。また瀬高町は漬物の生産がさかんで高菜の生産は現代も盛んに生産され全国に「高菜漬け」は出荷されている。
大正 2年(1913) 坂田久七氏が品種不明であるが、一本太葱を導入し栽培する。
大正 5年(1916) 九条葱を導入、それを自家採種を繰り返し今日に至る。
大正 8年(1919) トマトが導入される(通称キンカントマトの露地栽培から始まる)
大正 9年(1920) 立花農場より白菜の種を導入して栽培、その後は満州コウガク城農試より種を輸入して栽培
文広井上忠次郎氏らによって油障子を利用したキュウリ促成栽培が行われる
大根が導入される
佐賀県相知地区より紫高菜を導入
大正10年(1921) 東山村中島部落で茄子苗生産販売が行われる
東山地区に、3尺障子を側面に使用した胡瓜(きゅうり)フレーム栽培が導入される
大正15年(1926) 文広園芸出荷組合を設立(35名)
農家は購入層によって栽培が始まり、この頃には茄子栽培がみられる
昭和 2年(1927) 茄子栽培の品種は、この頃から熊本中長の栽培が続いた
昭和 3年(1928) 大正中期から盛んになった瀬高町の野菜栽培は県指定の採種組合が設立される
トマト品種がポンテローザとスパークスに変る
昭和 4年(1929) 障子とガラスの組み合わせを狙ったトマトハウス栽培に成功
2月、作出園芸組合設立(20名)
10月、本郷園芸組合設立(15名)
昭和 5年(1930) 中島採種(大根・白菜)組合(43名)が設立
きゅうりの加温栽培が始まる
昭和 7年(1932) トマトのペーパーハウスの栽培が始まる
昭和 8年(1933) 文広の井上忠次郎は包頭連白菜の改良を結球性耐病性に重点を置き、選抜採種を行い、毎年継続採種し、特許登録第242245号の文広白菜として登録した
昭和10年(1935) 京都3号白菜が導入され中性種の栽培に変った
トマト栽培においてノコクズをドラム缶を改造した釜で燃焼させて保温暖房栽培を行う
昭和13年(1938) 茄子の品種に熊本長が導入される、その後長岡交配長となる
昭和14年(1939) 昭和14〜15年頃より戦時体制の推移により生産資材の不足となる。
白菜栽培は昭和19年まで戦前最盛期となり畑面積の80%に達し、矢部川白菜として名声をあげる
昭和17年(1942) 金時人参を導入する
昭和19年(1944) レタス栽培を導入する
昭和20年(1945) 終戦・蔬菜(野菜)の生産量は最低に落ちた
昭和21年(1946) 白菜の野崎1・2号が導入され、早生種に全面的に切り替える
昭和23年(1948) 蔬菜の任意出荷組合が園芸組合に名称変更(旧瀬高町)
昭和24年(1949)
昭和25年(1950)
   編集継続中です
瀬高農業協同組合 特産指導部製作の「瀬高町に於ける蔬菜の変遷」を転写いたしました。

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