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山下酒造旧第1工場
(上庄横町・河川改修前)
瀬高(みやま市)の酒 酒蔵
  【縄文時代】
酒づくりは、米がなかった縄文時代にも、おそらく山ブドウなどの果実または加熱したアワ・ヒエトウモロコシなどの穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という、最も原始的な方法を用いて造ってたらしい。縄文末期には北九州に水稲(すいとう・水田で栽培する稲)が渡来しているが、米での酒造りも伝わったと推測されている。

  【弥生時代】
日本に酒が存在することを示す、最古の記録は紀元280年代の頃の中国の陳寿が書いた「魏志倭人伝 」に倭人のことを「その会同には、座起は父子・男女の別無く、人の性、酒を嗜」、死者が出たとき「喪主は哭泣し他人は就きて歌舞・飲酒す」と記されている。この頃には稲作の伝来と同時に酒造法も伝わり祭や葬式、会合などでも広く飲まれていた。邪馬台国の九州説の比定地、山門郡(現・みやま市)女山(ぞやま・女王山)での、卑弥呼も神に酒を捧げ、呪術による儀式を行い、酒を酌み交したことであろう。女山付近からは縄文から弥生時代の酒器も、多く出土している。
              女山で出土した酒器

  【古墳時代】 
日本の古代国家が成立した5~6世紀頃、日本と朝鮮半島の交流が盛んな時に、秦の始皇帝の子孫(最近の研究では新羅の豪族)と称する「(はた)」氏の集団が朝廷の招きによって来住、帰化する。この秦氏の首長が京都嵐山の松尾山の神を氏神と仰ぎ松尾大社を祀る。大陸伝来の新技法で松尾山からの湧く神水を使い美酒を醸造したとある。秦氏は多分、大陸から当時高度な酒造りを伝えたのでしょう。この京都から遠い昔807年(大同2)に肥後の国、木野の里にその分霊を奉祀したとある。さらに1633年(寛永10)肥後国(熊本)菊池郡喜野村の松尾宮の分霊を背負って瀬高の北高柳村に奉安された後、瀬高町下庄松尾宮(現・元町)に奉祀した松尾宮は酒の神様で、瀬高の酒造家は良き酒の出来を願い、信仰したでしょう。

京都・松尾大社

  【奈良時代】
奈良時代初期の「大隅国風土記」には、村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら、全員で飲む風習があることが記されている。酒を造ることを昔の言葉で、「かむ」と言っていた。
神亀年間(724年-729年)、ときの軍人・歌人の大伴旅人(おおとものたびと)は筑紫の大宰府に、大宰帥として九州の大宰府に赴任し、その折、旅人長田(みやま市瀬高町)の荘園をを訪れている。そして、「なかなかに人とあらずば酒壷に 成りにてしかも 酒に染みなむ(訳・酒壺になりたい。そうすればずっと酒に漬かっていられる) という酒歌を詠んでいる。旅人は万葉集の巻三に、「酒を讃(ほ)むるの歌13首」を詠んでいる。酒が大変好きだったようだ。

  【平安時代】
延喜の制度により、筑後国からの甘蔓(あまつる)(葡萄科の属する蔓草(つるくさ))で作る「千歳虆(あまずら)を「蔵人所」に一斗を貢上している記録が残っている。秋の末にツタの葉の落ちた甘蔓の茎からの汁を集め煮詰めて、砂糖に似た甘味の調味料のあまずらを造っていた。古代からこの甘蔓の実で酒を造ったとも伝えられる。もちろん主食の米を原料とした「どぶろく酒」が農家などで、余剰米がある時には自家生産・自家消費され寺院でもお神酒用として作られていたであろう。

  【鎌倉・室町時代】
天福元年(1233)「金剛寺文書」に寺院で酒造りが行われていたとの記事がある。この頃、全国的に大きな寺院では僧坊酒(そうぼうしゅ)が造られ市場で品質の良い酒として評価されて戦国時代の武将による弾圧まで続いた酒です。

応永27年(1420)には室町幕府は禅僧の飲酒、寺庵内への酒持込み禁止している。

  【戦国時代】
郷土では柳川城の蒲池氏と鷹尾城の田尻氏が戦乱の世を戦い抜いているが戦士達も酒を飲み気を高めたであろう。
豊臣秀吉
が天下を統一した後には立花宗茂が柳川城主となっている。永禄12年(1569)の文献(多門院日記)に「どぶろく」が登場するが、初代藩主となる立花宗茂も飲んだであろう酒であることから柳川市三橋町百町の目野酒造により、発案から1年以上の時間をかけ完成、「古式どぶろく 立花宗茂」と名づけて販売されている。アルコール度数は12度、甘さに酸味というフルーティな酒であるという。

目野酒造(三橋町百町)
  【江戸時代】
 
Ⅰ 瀬高の酒蔵の発祥

 昭和49年発行の瀬高町誌には「酒の神様、松尾宮
(京都)の分霊を祀る池郡喜野村の喜野をとり、吉井から大江に流れる川を、喜野殿川と名づけたのは、この清流の水で酒を醸造したことによるものとされている。即ち禅院吉井は江戸初期の酒造地であった。江戸後期に入って瀬高上庄下庄の町内に酒造業が移ってきたのである。」と記載されている。しかし明和2年(1765)に柳河藩士戸次求馬によって著された「南筑明覧」には南筑の名産に吉井洒、禅院洒とあるが、『筑後地鑑』に同郡(山門郡)松延村、合(郷)家ノ人民、夏月ニ至レバ、布ヲ晒(さら)シテ業ノ助ト為ス。とあり布を加工し、川水にさらす織物加工業が広く行われており、「吉井(さらし)」を「吉井(さけ)」と錯誤しているとみられ、瀬高地方の江戸中期までの酒の起源は明かでない。

 明暦3年(1657)
、幕府は初めて酒株を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁じるとともに、それぞれの酒造人が酒造で消費できる米の量の上限を定めた(酒造株制度)。これは飢餓などにそなえて米を酒造になるだけ使用させない制度である。

正保4年(1647)寛文10年(1670)延宝元年(1673)延宝4年(1676)延享2年(1745)の記録には、自然災害による凶作による飢餓や餓死に苦しむ農民を救済する為に、藩は新酒醸造を停止させ、酒用の米を食用に宛がっている。

 江戸中期には柳川藩では藩の財源を図り、酒に最も適した豊富な米と良質の水があり、さらに矢部川には輸送の便に適した港がある、瀬高に酒造業を推奨したであろう。酒屋はそれまでの壷(つぼ)や甕(かめ)による少量の酒造りから、木製の大桶での仕込が行われるようになる。この頃から冬場だけ酒を仕込み低温で発酵を緩やかにした、まろやかな酒が出来る「寒造り」が主流となる。

元禄15年(1702)5月山上九左衛門が勘定所に報告、更に高畠友右衛門が幕府筋に報告した記録には、柳川藩内の酒造米、4053石、酒屋115軒とあり、藩の生産石高は5000石ほどで、1軒あたりにすると、42石ほどで親樽2本に入る位の少量で、家族で造り店頭で販売する規模の酒屋であったろう。

寛延2年(1749)の藩内運上銀高(営業税)は抜群で藩の重要な財源となった。勘右衛門(浜武酒屋の祖)勘右衛門(久富酒屋の祖)という酒造家が繁盛していた記録が残っている。上庄に酒造を営む同名の勘右衛門の2人を区別する為に住んでる方角で南と北を名前の前に付けて呼ばれていた。「南勘右衛門の倉」と称した酒倉が昭和年代まで上庄の「菊美人」付近に残っていた

宝暦元年(1751)からの大福帳・造酒帳
が残る
下庄新町の阿部酒屋はこの頃、すでに酒造業を営んでいる。

文化・文政時代(1804~29)の頃には、過度の豊作の折には規制がゆるみ、また酒造株の売買が黙認されるようになり、大地主も農業のかたわら、余米で酒造業を営み利潤を上げたとみられる。

藩の米倉(お倉の浜)の番人、管理人の役目にあたったのが
上庄の「森家」であり、倉の余剰米を利用して酒造り森酒屋を始め、のちには瀬高の酒造家の元締め的立場におさまっていた。その為に森家には、多くの古文書が残され当時の酒屋の様子を知る重要な資料となっている。
一方この地方の地主は米は有り余る程保有しており、その米を使って次々と酒造りを始めている。
江戸末期には酒屋の数も増えて瀬高だけでも40数軒の酒屋があり、柳川藩の財政上重要な財源の役割を果たしていた。この頃の酒は濁り酒であった。

幕末の特需期には、酒のほかに白蝋(はくろう)・菜種油・菜種(からし)・お茶・和紙を長崎向けに多く積出されている。薩摩藩との交易関係で柳川藩は特に厳重な統制を行い、蝋の移出が急がれるときには、臨時の保管所として瀬高の酒蔵を利用した記録もみられる。

当時の酒造米の精米の大役は水車小屋が一手に引き受けていた。
本吉には旧参道沿いに流れる渓流にふもとから清水寺本坊まで水車小屋7水車あり、飯江川の上流で障子岳の東の麓にも約20の水車があり、ここまで荷車で往来していた。上庄の櫻庭酒造は敷地の水路に4連水車を久富酒屋は矢部川に水車小屋を中町の隅合酒屋は裏に水車小屋と船着き場を設けていた。大切な酒造用の水は矢部川の本流の真ん中でそっと木桶に汲んで人力車で運んできた。麹は麹屋に依頼していた。
瀬高の小さな酒造家では暇な時期に酒造の麹と米を使用して蒸し饅頭(酒饅頭)やおこし米を作り、甘いものがない時代重宝され人気があった。その後、蒸し饅頭や米おこしを本業にする「およねおこし」などの店が出現し、本格的に販売しはじめている。
また杜氏達は酒を絞って残った酒粕を郷土に持ち帰り有明海で採れる、たいらぎの貝柱や海茸を粕漬にしたり、瓜を酒粕に漬けた奈良漬も作られた。
 天保7年(1836)の規定書】
  
上庄の森酒屋(現・廃業)に残された規定書によると

1、 前造りをしないで一遍(いっぺん)に造酒すること。但し元仕込みは小雪の節(立冬の後15日なので11月23日頃)以後に仕込むこと。
1、 長崎に積出す場合は
組合が指定した場所以外からは積出さないこと。他所から積み入れている船には組合中からは積合せないこと。
1、 前条の2項に違反しないこと。もし小雪の節前に仕込んだり、他所の船に積み合せていた者がいたら組合没収して売払い、その代金を御役所に上納すること。


以上の3ヶ条を酒造組合の酒造家が相談決議し連印している。

内容は、おそらく個人の利益ばかり考え、酒を早く造り先を争って長崎に積送った為、なにかの不評判の事があって損害が多く、不商売になったため規定書を作ったのであろう。
阿部酒造・川原酒造・石橋酒造(石橋瓦)・隅合
(すみえ)酒屋・池田酒屋・上田酒屋・松尾酒屋・本郷の浅山酒屋・上庄の久富酒屋・浜武酒屋・川島酒屋・森酒屋・伊原酒屋らの酒造家の名と印がある(下拡大図)。複数の同姓名は藩から酒屋ごとに生産石高を決められていた為に親族の分家で複数の酒屋を営んでいたのであろう。


 

    彩色の所在地と酒屋名は思考されたもので確定されたものではありません。

 
Ⅱ この規定書に署名した酒造家の紹介

 阿部酒屋(下庄新町)
初代の
阿部利左ヱ門江戸中期金栗から下庄新町に移り、酒造業を創めた。屋号の亀屋は下庄新町で酒造を始める以前は金栗で酒や味噌・米などの容器のの製造を、あるいは多くの甕(かめ)による酒造をしていた時のなごりとみられる。かめ屋発祥の金栗部落には先祖の供養塔や天正元年(1573)に没した阿部先祖・源之十の墓があり近年まで代々番頭が管理・お参りしていた。
家譜によるとおおよそ、
利左ヱ門-喜兵衛利平次善蔵善兵衛太郎兵衛(幕末)辰次郎(明治)弥徳正七郎辰弥と二十代も続いて酒造業を営んだ家である。
宝暦元年(1751)からの大福帳・造酒帳・金銀汯控帳などが、杉の木箱2杯に保存されており江戸中・末期の瀬高の酒屋の様子を知るのに重要な古文書である。(柳川の県古文書館所蔵中)二十代も続いた旧家である阿部酒屋の古い帳面を見ると「大印酒」となっているので当時、銘柄も出来ていなかったであろう。また酒造と一緒に木蝋も談議所の浜から船積みして出していたことが帳面でわかる。
文化4年(1804)発行の柳川藩札の裏書人に阿部善蔵がある。酒造用の水は清水山の副流水の湧く堤集落(山門)の橋本宅の井戸水を代々、使用していた。長い歴史ある阿部酒屋は多くの農地や宅地を持つ大地主であり、戦前の農地解放前までは米の収穫時期には小作人の酒米を積んだ車力が精米倉前に行列をなしていた。
また
下庄八幡神社入口の大鳥居と敷地を阿部酒造の先々代、阿部辰次郎さんにより大正2年奉納されている。昭和5年5月には阿部弥徳さんが下庄小学校の講堂を寄贈された。当時の阿部酒屋の繁盛ぶりが思考できる。筋向えの元町の松尾宮の敷地も寄進されている。 


大福帳・造酒帳・
金銀汯控帳などの古文書


出荷を待つ甘露の酒瓶


天正元年没の阿部初祖・源之十の墓

阿部酒屋(かめ屋)発祥の地・金栗


 森酒屋(上庄二百丁)
藩の米倉であるお倉の浜(上庄西新町)の番人、管理人の役目でもあり、大地主でもある森家は藩に資金の融通をし、酒造りの免許を得て酒造業を創める、幕末には藩内の酒屋の元締め的立場になった酒屋である。幕末には柳川藩に相当額の融資を行ない藩の財源を援助している豪商であった。明治に入り新通貨制定に伴う藩札の引換え時点で損害を被ったであろう。酒蔵は明治(年数不明)になり閉じている。
明治21年(1888)に酒屋であった森豊蔵氏宅に郵便局が移転し郵便業務を請負う。当時は名誉職であった為小学校学務委員を兼任していた。明治33年頃も大地主で瀬高でトップクラスの富豪家であった。
幕末の天保7年(1836)規定書や幕末の藩札森正道宅に残されている。襖の下張りからも酒屋当時の古文書が見つかっている。
売り手の酒造家・森喜兵ヱに、仕入れ主の太田屋儀三郎が船頭の重左ヱ門に3通の酒の売掛け代金を相渡した売仕切書(右)と森喜兵ヱ平戸屋新右ヱ門が酒の売払い代金を明神丸長左ヱ門に相渡した売仕切書で長崎方面への酒の取り引きが分かる書面(左)である。森喜兵ヱ文化4年(1807)発行の藩札の裏書人でもある。
  
油屋から森恵吉森利勝に宛てた端書之覚(右)と森幸太郎が役所に宛てた口上書(左)とみられる。


  
    【柳川藩札】
幕末の柳川藩は赤字財政の借金の融通に財力ある酒屋に資金を仰ぎ返済のあてのない柳河藩札(赤字国債に似たもの)を発行して窮地を忍んでいる。瀬高の酒造家は柳川藩の借金の融通に返済のあてのない藩札を引き受け藩の窮地を助けている。藩内経済上に占めた地位や財力が解る史料である。の森酒屋と下庄談議所の石橋酒屋の残る藩札を紹介する。

藩札・米450俵・森恵吉(喜兵衛の長子)
慶応元年(1865)発行
銀会所(柳川藩)
藩札・酒110挺・石橋文蔵
弘化元年(1844)発行・銀会所(柳川藩)

 石橋酒屋(下庄談議所)
石橋家は代々藩の御用聞を勤め、瓦を製造し、天草島原長崎方面に談議所の浜から船で輸送していた。石橋本家は幕末時代には酒造工場も開設している。残念ながら当時を知る古文書は残されておらず、弘化元年(1844)の藩札(上写真)の裏書人が残され藩の財政に貢献した旨が解る。


 久富酒造(上庄横町)
久富家は宝暦の頃(1751~)からの酒造家である。祖の久富勘右ヱ門は上庄本町の人で旧道(参勤交代道路)に面した屋敷で村石酒造のあった所であった。上庄正覚寺過去帳によると文政9年(1826)6月22日に没している。
天保7年(1836)
酒造組合規定書には久富堪右ヱ門、浜武勘右ヱ門の名がある。
瀬高橋の少し下流の堤防から20m位離れた所に平安時代の嘉応年間(1169~1170)左大臣徳大寺左大臣の館があり、そこの「庄の池」に白亀がすんでいた伝承があった。ゆえに久富酒屋の久富興二郎氏は自家醸造の清酒の銘柄を白亀とした。庄の池の敷地の横に住吉宮を祀るも、ここが庄園時代に年貢米の積出港であったことを物語るものである。
大正5年、庄ノ池は矢部川改修工事のため埋め立てられ、住吉宮は祇園宮の境内の遷宮している。


 浅山酒屋(本郷瀬戸島)
天保7年(1836)の規定書(上表示)や文化4年(1807)藩札裏書人の浅山平太郎文政4年(1821)藩札裏書人の浅山平五郎は共に瀬高町本郷の酒造家でもあり、御用商人の一族であった。
平太郎の屋敷は行基橋の上流側の瀬戸島に六段歩(1800坪)あった。現在5・6の民家となっている。それから南にある一画が平五郎の屋敷跡である。この屋敷の南西部にくずれかけた土塀の一部が残っている。両家とも子孫はこの地に現存しない為(筑紫野市在住)当時の様子を伺えないが、橋のたもとにある恵比須宮は豪商であった浅山一族が商売繁盛を当時から祈願したものではなかろうか。
星隈酒屋(星隈国太郎)の「創業80周年・優秀盃受領・金婚賀莚に際して」(昭和8年4月16日)には、創業の際に安政2年(1853)10月2日に本郷浅山の蔵、道具を買い入れ・・・5日より蔵解きに、かかり10日夜中の大雨の中、蔵道具を本郷川原に出して、又14日に残りの道具、親桶一同を川を流して談議所に運び、15日基礎固め、11月4日に蔵を談議所(借地)に移築仕上げている。この資料から浅山酒屋は安政2年(1853)には、すでに酒造業を廃業していたと思われる。


 隅合酒屋(下庄中町)
天保7年(1836)酒造組合規定書に隅合
(すみえ)の名が記載捺印されており、長い歴史をもつ酒屋であった。酒屋の脇から矢部川に下がる石畳坂に酒屋の名をとった隅合坂があり「スメン坂」と呼ばれていた。隅家は鈴木とも称し、鈴木興五郎の代に、日露戦争明治37~38年の頃の失火にて無くなるまでは、樫の大木が遠く清水山より良く見えていたという。この火災で廃業したと思われ、この跡地を星隈酒屋が譲り受けたと思われる。薩摩街道の曲り角でした。
   

 星隈酒屋(下庄中町)
初代の
星隈慶次郎下庄新町で製蝋製油の業を行っていたが江戸末期の安政元年(1854)に上庄本町の金子酒造に返済金取立に行き、醸造道具、俵米などを引き取り酒造業を着手する羽目になったようだ。

天保7年(1836)
酒造組合規定書にある
金子幸三郎の酒蔵はこの時に破産したと思われる。

安政2年(1855)酒造要具をさらに揃える為に本郷の廃業した浅山酒屋の蔵や酒造道具を買い入れて矢部川を流して運び談議所に移築創業している。当時、釜屋が無かったので
隅合酒屋の釜を借りて焚き、酛仕込みを行っている。

安政6年(1859)下庄新町に移して明治2年(1876)まで継続経営した。

その後は
中町に移り、隣接した隅合酒屋跡を明治末期頃に譲り受けたのであろう。

家譜には
星隈慶次郎利七郎国太郎宗一郎-とある。国太郎は跡取り、利七郎の次男の嘉太郎明治18年(1885)に上庄で星隈酒造福栄」「星露」を創業、三男の彦太郎明治18年に上町の田中屋に養子となり「都の月」を、五男の貞吉明治31年(1898)に上庄の浜武酒造の養子になり「日本菊」を世に出している。昭和8年(1933)には星隈酒造の吟醸の銘酒友瓢」は優勝杯受領の光栄に浴し、現在に至っている。

    


  川原酒造(下庄新町)
江戸末期の天保の規定書の河原・・・の署名は新町の川原(喜久司)酒造かと思われが間違いであった。川原酒屋は明治初年に上庄の村石酒屋から分家して酒造を始めたと当主からお聞きした。明治時代には品評会に出品している記録がある。街道起点の旧三池街道をはさみ、酒蔵と自宅があり、西端を川が流れ自宅庭のイビで分水され宝聚寺方面にも流れていた。古文書は発見されていないが、繁栄した当時の蔵の棟瓦や陶器の酒樽が残されている。明治42年に創業した柳川と矢部川駅(瀬高)を結ぶ柳川軌道昭和7年解散当時の社長は喜久司酒造の当主、川原大(ふとし)氏であった。

 
  喜久栄酒造(下庄新町)
喜久司の東隣の喜久栄酒造は分家で「本宅」に対し「新宅」と呼ばれ川原淳一氏が明治時代の創業者である。
明治創業時代 包装紙
  江崎酒造(上庄住吉)
享保20年(1735)の江戸中期の創業とあり当時の古文書は発見されていない。屋号を「薩摩屋」と称し武左衛門は薩摩(鹿児島)からの商人であり、薩摩藩と柳川藩との交易に係わっていたと思われる。他の古文書には江崎の記載がないので、幕末になり酒造業を創めたのであろう。明治末期北原白秋の姉の加代が嫁いでいる。昭和3年夏白秋は、20年ぶりの郷土訪問飛行の折、菊美人酒造で姉、加代との再会を慶び「姉上」の長詩を詠んでいます。「菊美人」を酌みながら詠んだ白秋の詩歌が、菊美人酒造に数多く残されています。ラベルの菊美人の題字も北原白秋直筆のものです。現在、瀬高町で唯一、残っている酒蔵です。

北原白秋の生家も酒屋で、北原家は、代々柳河藩立花家の御用達を勤めた、九州一円に知られる海産物問屋で、祖父の代より始めた酒造を白秋の父の代には本業としていた。屋号は油屋、酒の銘柄は「」といった。
明治34年3月、類焼し、酒蔵と6千余石の酒を焼失した。「私が十六の時柳河沖ノ端に大火があった。さうしてなつかしい多くの酒蔵(北原酒造場)も、あらゆる桶に新しい黄金の日本酒を満たしたまま真蒼に災上した」と書き残している。
   白秋の直筆

 昭和16年の江崎家との記念写真・右端が先代の和夫社長と白秋の長男隆太郎
中央が白秋で左が加代・右写真は宮崎家族旅行にて
 

 【明治時代】
 松尾酒造(下庄上町)
一角」の銘柄で販売、以前は池田性で代々続く酒屋であったという。松尾熊三郎氏は酒造業のかたわら昭和の初期に松尾式醸造用機械(松尾式濾過機・松尾式連続火入れ器・松尾式濾過綿)を考案し、東京に会社を進出し全国に販売したという。後に引接寺の墓所に氏の銅像と台座には発明した醸造器の説明が描かれ建立されたが戦時中の金属類供で説明台座のみ残っている。矢部川の拡張工事で西側の倉庫は解体され、残された蔵の鬼瓦と現在の住いが当時を物語る。
 
     
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瀬高町下庄上町・池田右平醸造所(一角)(現・松尾家)の明治時代の版画絵

明治政府成立
後、新通貨制定に伴う藩札の引換え時点で損害を被りかなりの酒屋が没落している。廃業に追い込まれた酒屋に一番歴史ある上庄の
南勘右衛門酒屋森酒屋、そのほか西村酒屋馬場酒造下庄ではの歴史ある石橋酒本店石橋亀太郎(談議所)・上田酒屋(田代)・本田酒屋(中町)・上田酒屋(上町)が廃業している。池田酒屋(中町)は酒樽に雑菌が入り酒を腐らし、廃業に陥っている。
また明治政府は酒造税を制定し、農家などで自家生産・自家消費されていた、「どぶろく」を禁止している。しかし酒を売る商店の少ない農家では家庭内で作る事のできる酒であるため摘発は非常に難しく日常的に作って飲まれていた。

明治10年「西南の役」で熊本城の攻防をかけた官軍と薩軍との死闘の陰に、官軍兵士の士気を高めるために、筑後の城島瀬高の酒屋は官軍の兵糧部を受け持ち、どんどん造られ、売られることとなる。その勢いで田原坂の激突で薩摩軍を破り官軍が勝利を収めた。勝ち戦、祝い酒志気高揚のため役立ったとして、時の征討総督本営から表彰を受けている。戦地の熊本の細川藩時代では清酒の醸造は禁止されて、焼酎赤酒のみだった為に、政府軍は城島瀬高の酒屋などから調達している。酒の増産、拡張と好景気に乗り瀬高の酒が天下にまかり通るようになる。
下図はは
田原坂激戦の浮世絵と明治10年政府軍の征討総督本営から上庄の浜武酒屋に贈られた酒の調達感謝状である。
西南の役後、東京は好景気だが、城島は不景気になる。

明治14年、城島や瀬高の酒屋は東京に販路を求め上京したが、そこで売られていたの酒は美しい菰包みに包まれ、用材は薫り高い吉野杉で樽を作り、酒質も比べ物にならなかった。灘の杜氏、麹付け、元廻りを招き、新醸造法を採用したが、灘の酒は非常に成分の多い硬水を使用、それに比べて筑後の酒は筑後川や矢部川の水を使うので軟水(硬度2度)であった為に酒が全部腐ってしまい倒産する所も出してしまった。これを教訓に各酒屋は軟水仕込み、川の水を利用した酒造方法とを自分自身で編み出した。


酒の調達感謝状
           
 大坪酒造(下庄上町)
酒造業を創める前は長崎の出島で卸問屋
「清水きよみず屋」を営み、筑後周辺の建材・食品・酒などを仕入れ長崎で売りさばいていたが瀬高酒は評判でその日に売り切れになっていた。さらに明治10年西南戦争で政府軍から清酒の御用達を命じられ利益をあげた。これにより財をなした清水屋は上町の数件の酒屋を買収し酒蔵を引き継ぎ大坪酒造を開業し繁栄をなした。明治31年2月14日に法人登記により合資会社大坪酒造となる。園の蝶の銘柄は昭和2年、昭和天皇の即位を記念して代表銘柄として選定されたもので昭和天皇即位式当日、全国品評会において最高優秀賞を獲得し全国に知れ渡った。先々代の2代目の大坪駒三郎さんは昭和17年5月に下庄小学校校門脇に奉安殿を寄贈された。昭和30年に先代の大坪蔵雄
さんは下庄小学校のPTA会長になり10年間奉仕された。大坪酒造合資会社名で焼酎の生産も手がけていたが平成24年に蔵を閉じた。
      

明治27年「日清戦争」をきっかけに酒の需要が非常に高まり、値段が暴騰。これをみて酒造業に参入する業者が増えた。しかし戦後は需要が減少し、廃業に落ちこまれた業者も出た。

瀬高の酒屋は明治37・38年
「日露戦争」は、日清戦争とは比較にならない戦費を必要とした。日露戦争の戦費の約1/4は酒税で賄われました。そのため、第一次・第二次非常特別税により増税が行われ、酒の密造を防止するため酒母や麹の取締法が出された。戦争終結後は景気が良くなり、益々活気づいて繁盛した。


 山田酒造(上庄住吉)
銘柄は瑞光で祇園宮の傍に菊美人と隣り合わせに酒蔵があった。昭和22年山下酒造の山田賦の令妹ヨソ子さんは瀬高に疎開していた小説家の檀一雄と文学者の与田準一の仲人で結婚した。女優の檀ふみはソヨ子さんの長女である。


 田中酒造(下庄上町)
江戸末期の創業とみられ、都の月の銘酒を世に出した。明治26年6月、2代目の田中彦太郎が水麹と蒸米を櫂(かい)ですりつぶす木製の酛(もと)すり木臼を発明し機械化飛躍への第一歩となった。廃業後の酒蔵は上庄の正覚寺に移築されているが元の蔵の姿は再現されていない。


酛すり木臼の発明
都の月
 武宮酒造(八幡町一) 
江戸末期の創業とみられ、横を川が流れ犬ゴロ土居があり上を三池街道が通っていた。以前ここに大きな松が一本あっていたので一本松天神の名もこれから付けられた。一ッ松の銘柄もこの由来から取り入れ付けられた(.)昭和の初期に廃業され、敷地を一本松天神に寄付されている(.) 

 野田酒造(真木)
明治21年(1888)には酒の東京の品評会に出品していた酒屋である。当時のレンガ造りの酒蔵が残っている。千代錦は広大な田園広がる自然豊な真木の酒蔵で造り上げられた銘酒です。入口の倉には二紀会員北原悌二郎画伯の200号絵画十数点(耶馬台の卑弥呼シリーズ)を展示公開されている。社長の野田公明氏は十数年前に古代米の一種、赤米などの栽培を始めた。約6ヘクタールの田んぼには、緑米や黒米など十数種類が育つ。古代米人の背丈ほどまで伸びたり、稲が倒れたところを収穫したりする品種もあるという。10月初めから11月にかけて刈り取り、明治の土蔵で醸造している赤米酒を出荷されている。


  【明治の高田町の酒蔵】
明治11年(1878)下楠田坂口酒造富士の夢」は西南の役の翌年に創業し、当時は飛ぶように売れていた。

明治24年(1892)
江浦町薫蘭酒造薫蘭」は永江氏が創業している。古文書によると永江氏の先祖は永禄3年(1560)の築城の江浦城主の永江勘解由左衛門である。文化7年(1801)永江九左衛門は柳川藩の御用聞5人のうちの一人であった。文政11年(1827)発行の銀壱匁藩札の裏書人に息子の永江七郎兵衛があり、現・柳川市南浜武、十四町開の地頭であった。薫蘭酒造永江豊氏から後に石橋喜一氏が代表になってる。

明治33年(1900)
江浦町養老酒造合名会社養老」を田代氏が創業している。

そのほか山下(飯江)石橋・松尾(岩田)二宮・井上・武田(江浦)坂口・堺・久保田(開)宮本・坂口(二川)など十数戸の酒造家があった。
山川町尾野には園の寿酒造がある。 
       
  石橋酒造(高田町)
高田町では明治8年(1875)10月石橋酒造が御牧山の別名金甲山から金甲の銘柄で創業している。
当時の酒倉の玄関は小さな通用引戸が付いた引戸式の大木戸があり奥に障子の引戸があり、夜や雨の激しい時には大木戸を閉め小さな通用口で出入りしていた。中は土間である。


  玉水酒造(高田町)
明治11年(1878)に山下酒造「飯峯」として舞鶴で譲酒を創めている。戦時中の昭和18年の企業整備で一旦廃業、昭和31年1月に同じく廃業していた大牟田鳥塚町の坂口酒造場「玉水」と合同して玉水酒造合資会社を創立し、酒造を再開した。高田町の景色のすぐれた飯江川上流の舞鶴にあり、玉水は風向にマッチした銘柄で、春は梅の里、また飯江川筋には桜並木があり、晩秋になると付近の山はみかんが黄金にひかる。玉水の銘柄名の由来は定かでないが謡曲養老の「げにや玉水のみなかみすめる御代ぞとて・・・」からとられていると思われる。現在は神力(純米吟醸酒)の銘柄で販売されている。











1 池田醸造(松尾) 一角 川原淳一酒造  喜久栄






27 上田酒屋
大坪酒造 園の蝶 阿部酒造 甘露 28 本田酒屋
瀬高酒会社 10 筑後酒造 輝(かがやく) 29 石橋本宅
田中屋酒造 都の月 11 酔千両酒造 酔千両 30 石橋亀太郎 
池田屋酒造  池泉 12 武宮酒造 一ッ松 31 池田酒屋
星隈酒造 友瓢 13 野田酒造(真木) 千代錦 32 上田酒屋
川原大酒造 喜久司





14 久富酒造 白亀 21 村石本家 喜翁    .






33 南勧衛門
15 山下酒造 富貴鶴 22 浜武酒造 日本菊 34 西村酒屋
16 村石栄三郎酒造 澤の光 23 櫻庭酒造 力鷹 35 瀬高酒販売輸送部
17 江崎酒造 菊美人 24 星隈酒造 福栄 36 馬場酒造
18 村石商店 流觴 25 山下第二酒造 神代菊 37 瀬高精米所
19 大正酒会社 26 川島酒造 38 焼酎会社
20 山田酒造 瑞光 27 浜武酒店 梅薫 39 森酒屋
*地図は談議所の野田巌氏、田代の金子義実氏作製図です。

    【大正時代】
水車による酒米の精米は、電気が使えるようになり電動モータ式の精米機を使用した。新米が採れると深夜まで職人は米の粉塵で前身真っ白な姿になり作業した。酒造米は普通米と違ってあくまで白く、張りのあるように精米し、米の搗(つ)き具合によって品質を左右する慎重な作業である。

酒造に欠かせない樽の製造も熊本の
肥後材、四国の吉野材を利用され作られ、酒屋はお抱えの樽屋に依頼していた。新町の古賀樽屋・上町の井上樽屋・松田の溝上樽屋森樽屋など数軒があった。


①電動モータによる精米作業
大正5年(1916)頃には船による輸送から鉄道輸送に切り替わった。上庄本町に酒造公売部と酒造運搬部が併置され、車力で駅出しをしていた。矢部川(瀬高)駅前に酒運送店を開設、酒の運送だけを取り扱った時代もあった。

大正12年(1923)
の秋、瀬高の酒造業は全盛時代を向えていた。これらの酒屋(酒造家)が出資、株式会社を組織し、芸能部門へも手をのばして、出来たのが瀬高劇場である。詳しくは瀬高町の伝承芸能・瀬高劇場を!

大正13年(1924)
渡瀬兼行酒造桜源が創業している。

  【昭和時代】
昭和9年(1934)の大凶作。日中戦争勃発など、国は酒造の割当・製造停止・企業整理により戦時中の昭和18年の統廃令によって廃業を余儀なくされた。瀬高の酒造場は約半が整理され10軒に、高田町の酒造場は2軒となった。

昭和21年(1946)から30年にかけ酒造業を再開して瀬高町で15軒、高田町で6軒山川町で1軒に復活した。
瀬高の酒は自動瓶詰め・レッテル貼りなどの設備自動化が進み、増産が続き酒造景気が続いた。

蔵元の主婦は従業員の3度の食事に気を遣い、大変であったが昭和35年には瀬高酒造23社の全従業員の食事のため酒造組合直営の給食センターを設けられ蔵から蔵へと給食トラックが給食に走り回っていた。

昭和40年頃から酒造樽は孟宗竹の「たが」でしめた杉板の木樽から金属製の琺瑯タンクに切り替わっていく。

瀬高の13社の昭和46年の生産高は一升瓶で約300万本であり大牟田税務署管内の80%を占めていた。しかし、お得意様だった三池炭坑、筑邦炭坑、唐津炭坑が、エネルギー革命で、閉山に追い込まれ、北九州工業地帯の地盤沈下で、そこに二級酒、大衆酒を売っていたので消費地を失い昭和60年代からは消費者にも、ゆとりができ酒の多様化が進み、高級酒で灘、伏見の大手との競争に押され減産となって廃業する酒蔵が増えていった。

大坪酒造

(上庄の酒造家一覧昭和6年頃)


②蒸米を麹室に送り麹を作る

③醗酵桶に蒸米・麹・水を入れる

④撹拌して1週間で醗酵泡立ちする

⑤醪(もろみ)が熟成して酒が誕生

⑥酒槽圧搾機酒搾り(阿部酒造)

⑦瓶詰め作業
南部の高田町地域の酒造業の起源は不明であるが農家の自家用として造られ、明治時代になり、大地主の農家が酒造業を創業している。大正時代の酒造所は山下酒屋(飯江)石橋酒屋・松尾酒屋(岩田)田代酒屋・永江酒屋・二宮酒屋・井上酒屋・武田酒屋(江浦)坂口酒屋・堺酒屋・久保田酒屋(開)宮本酒屋・坂口酒屋(二川)など十数戸の酒造家があった。
昭和18年の戦時中物資不足の時代、企業整備、その他の事情によりしだいに酒倉は減少していった。
昭和33年には坂口酒造(下楠田)石橋酒造(田尻)の2軒となり、養老酒造(江浦)薫蘭酒造(江浦)玉水酒造(舞鶴)桜源酒造(渡瀬)が再開したが現在、玉水酒造のみが残っている。山川町の園乃寿酒造も閉じている。

喜久栄酒造

池田屋

東町(昭和40年代まであった)
喜翁酒造(上庄・二百丁) 池田屋酒造(下庄上町) 酔千両(上小川)

喜久栄酒造(包装紙)

池田屋

喜久司の酒樽

野田酒造(酒樽用ラベル)
喜久司 筑後酒造
瀬高酒造(    )
坂本酒舗(三橋町吉開) 木下酒造(三橋町) 薗田酒場(山川町野町)
 現在のみやま市周辺の酒一覧
(下庄)大坪園の蝶田中屋都の月星隈友ひさご喜久司喜久司喜久栄喜久栄.阿部甘露池泉池田屋.
(上庄)久富白亀山田瑞光.山下富貴鶴貴翁貴翁
菊美人菊美人
(大江)野田千代錦.(小川)酔千両酔千両(三橋)目野園の寿
(高田町)玉水玉水石橋金光.薫蘭薫蘭坂口富士の夢兼行神の桜 金甲金甲 (山川町)園の寿園の寿
(大和町)たい龍  (大牟田)江頭酒造  (三橋町)目野酒造国乃寿
  〇〇酒造で略す小文字は銘柄
    ○○酒造は廃倉
高度成長期に入り多種の酒が流通し若者の日本酒離れにより、みやま市の酒造場が姿を消している。再び世間に注目される瀬高の酒の改革が訪れるのを望みたい。みやま市は湧き出でる美味しい水と肥沃な大地にできる清水米に恵まれた土地である。
  Email:shofuku21@yahoo.co.jp

 瀬高町の明治時代の主要店舗図 

 みやま市の商工業の歴史

旧柳川藩志・瀬高町誌・筑後の藩札・高田町誌の資料・下庄小学校100周年記念誌・酒造会社の資料提供により製作しました
         取材ご協力いただいた酒造場の皆様に感謝いたします。御意見・感想がございましたら宜しくおねがいします。