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山下酒造旧第1工場 (上庄横町・河川改修前) |
瀬高(みやま市)の酒 | 酒蔵 |
【縄文時代】 酒づくりは、米がなかった縄文時代にも、おそらく山ブドウなどの果実または加熱したアワ・ヒエ・トウモロコシなどの穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という、最も原始的な方法を用いて造ってたらしい。縄文末期には北九州に水稲(すいとう・水田で栽培する稲)が渡来しているが、米での酒造りも伝わったと推測されている。 【弥生時代】 日本に酒が存在することを示す、最古の記録は紀元280年代の頃の中国の陳寿が書いた「魏志倭人伝 」に倭人のことを「その会同には、座起は父子・男女の別無く、人の性、酒を嗜む」、死者が出たとき「喪主は哭泣し他人は就きて歌舞・飲酒す」と記されている。この頃には稲作の伝来と同時に酒造法も伝わり祭や葬式、会合などでも広く飲まれていた。邪馬台国の九州説の比定地、山門郡(現・みやま市)の女山(ぞやま・女王山)での、卑弥呼も神に酒を捧げ、呪術による儀式を行い、酒を酌み交したことであろう。女山付近からは縄文から弥生時代の酒器も、多く出土している。 ![]() 【古墳時代】
【奈良時代】 奈良時代初期の「大隅国風土記」には、村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら、全員で飲む風習があることが記されている。酒を造ることを昔の言葉で、「かむ」と言っていた。 神亀年間(724年-729年)、ときの軍人・歌人の大伴旅人(おおとものたびと)は筑紫の大宰府に、大宰帥として九州の大宰府に赴任し、その折、旅人は長田(みやま市瀬高町)の荘園をを訪れている。そして、「なかなかに人とあらずば酒壷に 成りにてしかも 酒に染みなむ」(訳・酒壺になりたい。そうすればずっと酒に漬かっていられる) という酒歌を詠んでいる。旅人は万葉集の巻三に、「酒を讃(ほ)むるの歌13首」を詠んでいる。酒が大変好きだったようだ。 【平安時代】 延喜の制度により、筑後国からの甘蔓(あまつる)(葡萄科の属する蔓草(つるくさ))で作る「千歳虆(あまずら)」を「蔵人所」に一斗を貢上している記録が残っている。秋の末にツタの葉の落ちた甘蔓の茎からの汁を集め煮詰めて、砂糖に似た甘味の調味料のあまずらを造っていた。古代からこの甘蔓の実で酒を造ったとも伝えられる。もちろん主食の米を原料とした「どぶろく酒」が農家などで、余剰米がある時には自家生産・自家消費され寺院でもお神酒用として作られていたであろう。 【鎌倉・室町時代】 天福元年(1233)「金剛寺文書」に寺院で酒造りが行われていたとの記事がある。この頃、全国的に大きな寺院では僧坊酒(そうぼうしゅ)が造られ市場で品質の良い酒として評価されて戦国時代の武将による弾圧まで続いた酒です。 応永27年(1420)には室町幕府は禅僧の飲酒、寺庵内への酒持込み禁止している。 【戦国時代】
Ⅰ 瀬高の酒蔵の発祥 昭和49年発行の瀬高町誌には「酒の神様、松尾宮(京都)の分霊を祀る菊池郡喜野村の喜野をとり、吉井から大江に流れる川を、喜野殿川と名づけたのは、この清流の水で酒を醸造したことによるものとされている。即ち禅院、吉井は江戸初期の酒造地であった。江戸後期に入って瀬高の上庄、下庄の町内に酒造業が移ってきたのである。」と記載されている。しかし明和2年(1765)に柳河藩士戸次求馬によって著された「南筑明覧」には南筑の名産に吉井洒、禅院洒とあるが、『筑後地鑑』に同郡(山門郡)松延村、合(郷)家ノ人民、夏月ニ至レバ、布ヲ晒(さら)シテ業ノ助ト為ス。とあり布を加工し、川水にさらす織物加工業が広く行われており、「吉井 明暦3年(1657)、幕府は初めて酒株を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁じるとともに、それぞれの酒造人が酒造で消費できる米の量の上限を定めた(酒造株制度)。これは飢餓などにそなえて米を酒造になるだけ使用させない制度である。 正保4年(1647)・寛文10年(1670)・延宝元年(1673)・延宝4年(1676)・延享2年(1745)の記録には、自然災害による凶作による飢餓や餓死に苦しむ農民を救済する為に、藩は新酒醸造を停止させ、酒用の米を食用に宛がっている。 江戸中期には柳川藩では藩の財源を図り、酒に最も適した豊富な米と良質の水があり、さらに矢部川には輸送の便に適した港がある、瀬高に酒造業を推奨したであろう。酒屋はそれまでの壷(つぼ)や甕(かめ)による少量の酒造りから、木製の大桶での仕込が行われるようになる。この頃から冬場だけ酒を仕込み低温で発酵を緩やかにした、まろやかな酒が出来る「寒造り」が主流となる。 元禄15年(1702)5月に山上九左衛門が勘定所に報告、更に高畠友右衛門が幕府筋に報告した記録には、柳川藩内の酒造米、4053石、酒屋115軒とあり、藩の生産石高は5000石ほどで、1軒あたりにすると、42石ほどで親樽2本に入る位の少量で、家族で造り店頭で販売する規模の酒屋であったろう。 寛延2年(1749)の藩内運上銀高(営業税)は抜群で藩の重要な財源となった。南勘右衛門(浜武酒屋の祖)、北勘右衛門(久富酒屋の祖)という酒造家が繁盛していた記録が残っている。上庄に酒造を営む同名の勘右衛門の2人を区別する為に住んでる方角で南と北を名前の前に付けて呼ばれていた。「南勘右衛門の倉」と称した酒倉が昭和年代まで上庄の「菊美人」付近に残っていた。 宝暦元年(1751)からの大福帳・造酒帳が残る下庄新町の阿部酒屋はこの頃、すでに酒造業を営んでいる。 文化・文政時代(1804~29)の頃には、過度の豊作の折には規制がゆるみ、また酒造株の売買が黙認されるようになり、大地主も農業のかたわら、余米で酒造業を営み利潤を上げたとみられる。 藩の米倉(お倉の浜)の番人、管理人の役目にあたったのが上庄の「森家」であり、倉の余剰米を利用して酒造り(森酒屋)を始め、のちには瀬高の酒造家の元締め的立場におさまっていた。その為に森家には、多くの古文書が残され当時の酒屋の様子を知る重要な資料となっている。 一方この地方の地主は米は有り余る程保有しており、その米を使って次々と酒造りを始めている。江戸末期には酒屋の数も増えて瀬高だけでも40数軒の酒屋があり、柳川藩の財政上重要な財源の役割を果たしていた。この頃の酒は濁り酒であった。 幕末の特需期には、酒のほかに白蝋(はくろう)・菜種油・菜種(からし)・お茶・和紙を長崎向けに多く積出されている。薩摩藩との交易関係で柳川藩は特に厳重な統制を行い、蝋の移出が急がれるときには、臨時の保管所として瀬高の酒蔵を利用した記録もみられる。 当時の酒造米の精米の大役は水車小屋が一手に引き受けていた。本吉には旧参道沿いに流れる渓流にふもとから清水寺本坊まで水車小屋が7水車あり、飯江川の上流で障子岳の東の麓にも約20の水車があり、ここまで荷車で往来していた。上庄の櫻庭酒造は敷地の水路に4連水車を久富酒屋は矢部川に水車小屋を中町の隅合酒屋は裏に水車小屋と船着き場を設けていた。大切な酒造用の水は矢部川の本流の真ん中でそっと木桶に汲んで人力車で運んできた。麹は麹屋に依頼していた。
上庄の森酒屋(現・廃業)に残された規定書によると 1、 前造りをしないで一遍(いっぺん)に造酒すること。但し元仕込みは小雪の節(立冬の後15日なので11月23日頃)以後に仕込むこと。 1、 長崎に積出す場合は組合が指定した場所以外からは積出さないこと。他所から積み入れている船には組合中からは積合せないこと。 1、 前条の2項に違反しないこと。もし小雪の節前に仕込んだり、他所の船に積み合せていた者がいたら組合没収して売払い、その代金を御役所に上納すること。
![]() 彩色の所在地と酒屋名は思考されたもので確定されたものではありません。 Ⅱ この規定書に署名した酒造家の紹介 ![]()
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【柳川藩札】 幕末の柳川藩は赤字財政の借金の融通に財力ある酒屋に資金を仰ぎ返済のあてのない柳河藩札(赤字国債に似たもの)を発行して窮地を忍んでいる。瀬高の酒造家は柳川藩の借金の融通に返済のあてのない藩札を引き受け藩の窮地を助けている。藩内経済上に占めた地位や財力が解る史料である。の森酒屋と下庄談議所の石橋酒屋の残る藩札を紹介する。
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【明治時代】
明治政府成立後、新通貨制定に伴う藩札の引換え時点で損害を被りかなりの酒屋が没落している。廃業に追い込まれた酒屋に一番歴史ある上庄の南勘右衛門酒屋や森酒屋、そのほか西村酒屋・馬場酒造下庄ではの歴史ある石橋酒本店・石橋亀太郎(談議所)・上田酒屋(田代)・本田酒屋(中町)・上田酒屋(上町)が廃業している。池田酒屋(中町)は酒樽に雑菌が入り酒を腐らし、廃業に陥っている。 また明治政府は酒造税を制定し、農家などで自家生産・自家消費されていた、「どぶろく」を禁止している。しかし酒を売る商店の少ない農家では家庭内で作る事のできる酒であるため摘発は非常に難しく日常的に作って飲まれていた。 明治10年の「西南の役」で熊本城の攻防をかけた官軍と薩軍との死闘の陰に、官軍兵士の士気を高めるために、筑後の城島や瀬高の酒屋は官軍の兵糧部を受け持ち、どんどん造られ、売られることとなる。その勢いで田原坂の激突で薩摩軍を破り官軍が勝利を収めた。勝ち戦、祝い酒志気高揚のため役立ったとして、時の征討総督本営から表彰を受けている。戦地の熊本の細川藩時代では清酒の醸造は禁止されて、焼酎か赤酒のみだった為に、政府軍は城島や瀬高の酒屋などから調達している。酒の増産、拡張と好景気に乗り瀬高の酒が天下にまかり通るようになる。 下図はは田原坂激戦の浮世絵と明治10年政府軍の征討総督本営から上庄の浜武酒屋に贈られた酒の調達感謝状である。 西南の役後、東京は好景気だが、城島は不景気になる。 明治14年、城島や瀬高の酒屋は東京に販路を求め上京したが、そこで売られていた灘、堺の酒は美しい菰包みに包まれ、用材は薫り高い吉野杉で樽を作り、酒質も比べ物にならなかった。灘の杜氏、麹付け、元廻りを招き、新醸造法を採用したが、灘の酒は非常に成分の多い硬水を使用、それに比べて筑後の酒は筑後川や矢部川の水を使うので軟水(硬度2度)であった為に酒が全部腐ってしまい倒産する所も出してしまった。これを教訓に各酒屋は軟水仕込み、川の水を利用した酒造方法とを自分自身で編み出した。
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明治27年の「日清戦争」をきっかけに酒の需要が非常に高まり、値段が暴騰。これをみて酒造業に参入する業者が増えた。しかし戦後は需要が減少し、廃業に落ちこまれた業者も出た。 瀬高の酒屋は明治37・38年の「日露戦争」は、日清戦争とは比較にならない戦費を必要とした。日露戦争の戦費の約1/4は酒税で賄われました。そのため、第一次・第二次非常特別税により増税が行われ、酒の密造を防止するため酒母や麹の取締法が出された。戦争終結後は景気が良くなり、益々活気づいて繁盛した。 ![]()
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南部の高田町地域の酒造業の起源は不明であるが農家の自家用として造られ、明治時代になり、大地主の農家が酒造業を創業している。大正時代の酒造所は山下酒屋(飯江)石橋酒屋・松尾酒屋(岩田)田代酒屋・永江酒屋・二宮酒屋・井上酒屋・武田酒屋(江浦)坂口酒屋・堺酒屋・久保田酒屋(開)宮本酒屋・坂口酒屋(二川)など十数戸の酒造家があった。 昭和18年の戦時中物資不足の時代、企業整備、その他の事情によりしだいに酒倉は減少していった。 昭和33年には坂口酒造(下楠田)石橋酒造(田尻)の2軒となり、養老酒造(江浦)薫蘭酒造(江浦)玉水酒造(舞鶴)桜源酒造(渡瀬)が再開したが現在、玉水酒造のみが残っている。山川町の園乃寿酒造も閉じている。 |
![]() 喜久栄酒造 |
![]() 池田屋 |
![]() 東町(昭和40年代まであった) |
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喜翁酒造(上庄・二百丁) | 池田屋酒造(下庄上町) | 酔千両(上小川) |
喜久栄酒造(包装紙) |
![]() 池田屋 |
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![]() 喜久司の酒樽 |
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野田酒造(酒樽用ラベル) |
喜久司 | 筑後酒造 | |
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瀬高酒造( ) | ||
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坂本酒舗(三橋町吉開) | 木下酒造(三橋町) | 薗田酒場(山川町野町) |
現在のみやま市周辺の酒一覧 | ||
(下庄)大坪園の蝶.田中屋都の月.星隈友ひさご.喜久司喜久司.喜久栄喜久栄.阿部甘露.池泉池田屋. (上庄)久富白亀.山田瑞光.山下富貴鶴貴翁貴翁.菊美人菊美人. (大江)野田千代錦.(小川)酔千両酔千両(三橋)目野園の寿 (高田町)玉水玉水.石橋金光.薫蘭薫蘭.坂口富士の夢.兼行神の桜 金甲金甲 (山川町)園の寿園の寿 (大和町)浦たい龍 (大牟田)江頭酒造旭盛 (三橋町)目野酒造国乃寿 〇〇酒造で略す小文字は銘柄 ○○酒造は廃倉 |
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高度成長期に入り多種の酒が流通し若者の日本酒離れにより、みやま市の酒造場が姿を消している。再び世間に注目される瀬高の酒の改革が訪れるのを望みたい。みやま市は湧き出でる美味しい水と肥沃な大地にできる清水米に恵まれた土地である。 |
旧柳川藩志・瀬高町誌・筑後の藩札・高田町誌の資料・下庄小学校100周年記念誌・酒造会社の資料提供により製作しました。
取材ご協力いただいた酒造場の皆様に感謝いたします。御意見・感想がございましたら宜しくおねがいします。