福岡県柳川市 (柳河藩⇒ 柳川市.三橋町.大和町.瀬高町.山川町)
![]() ![]() ![]() ![]() 古地図に見る柳川城の歴史 古地図に見る柳河町の歴史(東部編) 古地図に見る柳河町の歴史(西部編) 現在の柳川の地名は水路のあちこちに柳の多い所から起名されたであろうか、または旧柳河町を流れる水路の柳川が起源ともされている。鎌倉から室町期の古文書には梁河あるいは梁川と記され、豊臣時代の近世初期から柳川と書かれた様である。川が河と変わったのは元禄以後の漢学隆興によると思われ、昭和26年4月から旧に復して柳川と書くようになった。 |
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939年(天慶2) | 藤原純友の弟純乗が蒲池城を築く・大宰権帥の橘公頼の説もある |
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941年(天慶4) | 橘公頼が藤原純友の乱で弟の藤原純乗の軍勢を、蒲池城で迎え撃った |
1185年 | 平家の落武者六騎が沖端につく |
1339年 | 足利尊氏、蒲池に崇久寺を再建 |
1394年 | 蒲池治久が蒲池城を拡張 |
1501年(文亀1) | 蒲池治久、社(やしろ)村(現日吉神社周辺)に蒲池の支城を築く |
1558~70年 | 蒲池鑑盛が柳河城を従来の城の西南方に(後の二の丸の地)に築城する |
1580年 | 蒲池鎮漣が龍造寺軍に囲まれた。300日間、立てこもっても、落城しなかった。のち龍造寺隆信と和議を結んだ |
1581年(天正9) | 5月、蒲池鎮漣は肥前の須古城に向かう途中肥前の龍造寺軍に殺された。すぐに柳河城は龍造寺軍に攻められ落城した。なお鎮漣の嫡男の宗虎丸は殺されたが、宗虎丸の姉の徳姫と弟宮童丸は、家臣に守られ柳河落城から逃れる。宮童丸は後に蒲池経信となり、その一族は、豊後日田に子孫を伝える 肥前の鍋島信生(のぶなり)が柳河城より、筑後の押さえとなる |
1584年(天正12) | 龍造寺家晴が柳河城に居城する |
1586年(天正14) | 島津氏が筑後国に攻め込み、筑紫郡の岩屋城主の高橋招運はたてこもり大軍により壮烈な戦士をした。 その息子の立花宗茂は立花道雪の養子となり粕谷郡の立花城にいた 立花氏の家系は先祖を大友氏に続いている。 |
1587年(天正15) | 豊臣秀吉の島津征伐が終わり、立花宗茂はその武勇を賞されて蒲池氏が落城した後の柳河藩の柳河城主となる. 山門.三池.下妻.三潴(大善寺川以南地)の4郡、総て13万2千200石を与えられる. 6月夫人誾千代姫(ぎんちよひめ)と入城し、二の丸を居館とする。 |
1592年(文禄1) | 文禄の役、柳河の立花宗茂2350名を率いて黒埼より朝鮮に出陣、秀吉に従軍する |
1593年(文禄2) | 宗茂は朝鮮の平壌付近で李 如松(り じょうしょう)の率いた明の大軍を打破する手柄をたて、後には蔚山に籠城して危地におちいった加藤清正らの苦難を救った。 |
1594年(文禄3) | 秀吉、病死。宗茂、朝鮮より凱旋し松を持ち帰り本郷の矢部川に松を植え(朝鮮松原)、カササギ(朝鮮カラス)も放った(天然記念物)。また朝鮮人参を山川村飯江人参山に植え薬用とした。 |
1599年 | 三の丸より二の丸に架かる橋の欄干2、銅製の擬宝珠をかぶせる |
1600年(慶長5) | 関が原の戦いで西軍に属して戦い敗れ、柳河に海路、帰ると東軍についた佐賀の鍋島直茂らが 攻めてきたので、これを迎え三潴郡で戦った(八院の合戦)。その後黒田や加藤らの勧めで和議が成り立つが、領地など没収され立花宗茂は奥州棚倉の城主、1万石の大名に左遷された。 |
1601年(慶長6) | 三州岡崎城主田中吉政、関が原合戦で石田三成を捕らえた功績で筑後藩32万5千石の領主となり柳河城に入る。 城池を掘り、城の西に盛り土をし本丸とし、政庁等(謁見所の最上の部屋は金張付極彩色の絵がえがかれていた)を建造、 その南西方に5層からなる八つ棟造りの天守閣を築き城郭を固めた。 海岸埋立、荒地開墾、治水事業、を行う |
1602年 | 田中吉政は瀬高の上庄の祇園社に50石の寄進状をよせる。 |
1607年(慶長12) | 田中吉政が大川新田から柳川~大和~渡瀬までの有明沿岸32Kmにおよぶ「慶長土居」を築いた |
1609年(慶長14) | 田中吉政は江戸参勤交代の途中、伏見で病死。四男の忠政が跡を継ぐ。だが兄、康政と争いが起きた。その後兄が幕府に訴状を出した為、その釈明の為忠政は江戸に上る |
1612年(慶長17) | 藩内に一里塚を築いたとあるが一里石は元禄14年(1701)の説もある。現在するもので、瀬高街道に一里石(三橋町下久末)福島街道(矢部往還)に三里石(瀬高町壇の池)三池街道一里石(大和町豊原)二里石(高田町渡瀬)南関街道に三里石(山川町野町中村病院角)がある。ほかに馬の駅が作られ交通の便を与えた。 |
1615年(元和元年) | 6月、「一国一城」の制で柳川藩の支城が取り壊される。居城の修理は許可を新造営はかたく停止される |
1620年(元和6) | 二代目田中忠政病死、世継ぎ無く幕府に領地を没収された。 立花宗茂は大阪の陣で徳川の軍に加わり手柄をたてたので再び柳河城主になることを許され筑後国南部の11万石の大名の命を受ける。三池藩は弟の直次の子、種次が藩主とされる。 |
1621年(元和7) | 2月、立花宗茂が柳河城に入る 城下瀬高町にある「瀬高門」を新町に移す、町名は変わらず |
1622年(元和8) | 柳河藩貨幣方だった三潴郡の豪商・紅粉屋七郎左衛門が干拓によって80町歩を開拓した。 |
1639年(寛永16) | 柳河藩主、二代に立花忠茂(ただしげ)になる |
1645年(正保2) | 長久寺(1637年焼失)を三の丸に再建する |
1664年(寛文4) | 柳河藩主、三代に立花鑑虎(あきとら)がなる |
1667年(寛文7) | 柳川の商人が朝鮮国の商人と私貿易(密貿易)をして死刑になる |
1684年(貞享元) | 藩主、立花鑑虎が鷹尾神社に鳥居を寄進した |
1688年(貞享5) | 柳河城の石垣修繕、城の堀の拡張を許される |
1696年(元禄9) | 柳河藩主、四代に立花鑑任(あきたか)がなる |
1697年(元禄10) | 立花鑑虎が田尻惣助に集景亭(現在のお花)を築かせる |
1703年(元禄16) | 11月、柳河城の欄干橋が完成する |
1715年(正徳5) | 11月、柳河城の石垣普請(ふしん)が幕府に許可される |
1721年(享保6) | 柳河藩主五代に立花貞俶(さだよし)がなる |
1727年(享保12) | 蟹町から出火し、北風強く市街地の大半が焼失。玉樹院.光樹寺も焼ける |
1733年(享保27) | 3月、布橋付近から出火。市街地の大半が焼失。楼門2箇所、待屋敷30戸、屋敷155戸、町屋443戸、社9焼失 大飢饉、餓死者123人、食べ物ない者4500人、牛、馬300頭死滅 |
1744年(延享1) | 柳河藩主、六代に立花貞則(さだのり)がなる |
1746年(延享3) | 柳河藩主七代に立花鑑通(あきなお)がなる |
1751年 | 四ヶ所藤左衛門、水車を発明し、領内で使用させる |
1791年(寛政3) | 鋤崎(すきざき)の4ヶ所に木戸の木柵を設ける |
1794年(寛政6) | 4月、外町から出火して、上町、辻町、中町その他の横丁が焼失し、飛火が家中に及んだ。出の橋御門も焼失 |
1797年(寛政9) | 柳河藩主八代に立花鑑寿(あきひさ)がなる |
1800年(寛政12) | 豪商、佐谷義兵衛が出の橋を新営して藩庁(役場)にし、その賞として塩問屋の株を授けられる |
1812年 | 幕府測量方、伊能忠敬来る |
1816年(文化13) | 三池領は柳河藩預かりとなる |
1820年(文政3) | 柳河藩主九代に立花鑑賢(あきかた)がなる |
1824年 | 城内本小路に藩学校伝習館開校 |
1828年(文政11) | 8月9日夜、子の刻(午前0時)より大風が起こり、 |
1830年(天保1) | 柳河藩主十代に立花鑑広(あきひろ)がなる |
1833年(天保4) | 柳河藩主十一代に立花鑑備(あきのぶ)がなる |
1843年(天保14) | 4月、辻の門の落成式を挙げる |
1845年(弘化2) | 4月、布橋側の御会所が出火する |
1846年(弘化3) | 柳河藩主十二代に立花鑑寛(あきとも)さま5月11日逝去。町の店は喪に服し7日間休業。油絞りた綿打ち、鍛冶屋など音を出す仕事は10日間休業。魚や鳥を売り歩くのも禁止。旅人商人の出発を差止め。神社の神楽を休止。火の用心を念入れ、生き物を殺すのは5日間禁止。音曲(音楽・歌)禁止する。日限は後に指示される。 |
1851年 | 立花種恭が三池藩5千71石を与えられた。 |
1853年 | 米鑑、浦賀に来る、柳河藩は深川八幡(江戸)に陣地をかまえる |
1856年 | 三柱神社境内に製鉄工場を設ける |
1859年(安政6) | 8月にコレラが大流行する。治療法なく、多くの子供が死亡した。 |
1862年 | 柳河藩お抱え力士雲龍久吉が横綱となる。 平の川が大阪相撲の大関になる |
1863年 | 柳河藩、大阪警備と京都守衛を命じられる |
1865年(慶応1) | この年から明治4年まで、山門郡は115の村と46の町 |
1867年(慶応3) | 12月9日、朝廷は王政復古を宣言する |
1868年(明治元) | 8月、立花氏預かりの三池郡13の村と筑前怡土(いと)郡を日田県に属する。 9月、三池預かり所を長崎県の支配とする通知が出る |
1869年(明治2) | 柳河御城と称していたのを、柳河政府(政庁)と改める 旧藩主を藩知事として、十二代立花鑑寛(あきとも)は柳河藩知事になる |
1870年(明治3) | 1月、高畑浦焰硝(えんしょう.火薬の原料)製造庫が爆発し二名即死 |
1871年(明治4) | 2月、立花鑑寛は華族に列せられ、東京府貫属を命ぜられる 9月、柳河藩を廃し、当分、柳河県とし、本丸を柳河県庁舎とする。 |
1872年(明治5) | 元旦より、三潴県となり三潴郡(久留米)に県庁、柳河城は三潴県柳川支庁となる 正月18日午後6時頃柳河城火災を起し櫓1箇所と土蔵だけ残り他はすべて焼失。立花家の宝物(お花に展示中)は櫓に所蔵して無事 2月、瀬高.出の橋.辻などの諸門をことごとく公売した 5月、柳河藩札引換えに不満の数100人が支庁(本町)で騒ぎ夕刻瀬高町一丁目(今の京町)にあった元銀会所主任の富豪 高椋新太郎居宅(西町)橋本儀助宅(細工町)などに押し入り家財を強奪した |
1873年(明治6) | 1月、柳河支庁を廃止される |
1875年(明治8) | 柳河城三の丸の厩(うまや)本丸北西の櫓を破壊し、石垣を壊し台風で決壊した新開地の海岸堤防に使用する 三潴県庁は木下庄吉に柳河城阯.城隍(じようこう)を払い下げる |
1876年(明治9) | 8月、三潴県を廃し、福岡県に合併する 柳河警察署が開設され、巡査39人を配置 |
1879年(明治12) | 柳河電信局が開設される |
1884年(明治17) | 地方裁判所柳川支部を設置 |
1889年(明治22) | 新町外29ヶ町が合併して柳河町となる |
1895年(明治28) | 杉森女紅会創立(現杉森女子学園) |
1898年(明治31) | 明治開の干拓完成 柳河郵便局と電信局が合併し、柳河郵便電信局となり、36年柳河郵便局と改称 |
1908年(明治41) | 公衆電話事務を柳河郵便局で開始 |
1909年(明治42) | 柳河軌道株式会社設立 |
1910年(明治43) | 九州電灯鉄道株式会社(現九電)柳河出張所が設けられ点灯される 沖端魚市場創設 |
1912年(明治45) | 高畑の神橋を改築し、三の丸の欄干擬宝珠を上にかぶせる 長栄開干拓完成 |
1914年(大正3) | 三潴軌道柳河-大川間開通 |
1918年(大正7) | 柳河城阯.城隍一式を山門郡有となし、城阯の保存会を組織する |
1923年(大正12) | 4月、郡制廃止と共に柳河城阯.城隍は城内村に譲与される |
1928年(昭和3) | 旧本丸西部に柳城公園と公会堂を建設することが決まる |
1931年(昭和6) | 佐賀線矢部川-筑後柳河間が開通 柳河橋より出の橋に至る路幅拡張舗装並びに外灯を設置 |
1932年(昭和7) | 柳河本町通りの街路拡張,、舗装され、鉄柱の鈴蘭灯も完成 |
1935年(昭和10年) | 海軍元帥・男爵 の次男の島村速雄 は立花文子と結婚し立花家に入籍。 |
1936年(昭和11) | 京町に松屋百貨店が開店 |
1937年(昭和12) | 松屋百貨店閉店、三京百貨店として再開 |
1943年(昭和18) | 旧二の丸跡に柳川商業高校(柳川高校)が設立 |
1946年(昭和21) | 農地改革、農村の電化進む |
1947年(昭和22) | 柳川商業高校西側に山門郡柳河町外二ヶ村カ学校組合立、柳城中学校が設立 山門商工会議所(現柳川商工会議所)創立 |
1948年(昭和23) | 白秋詩碑(帰去来詩碑)建設 |
1950年(昭和25) | 柳河拘置所創設 |
1951年(昭和26) | 柳河町・城内・沖ノ端・東宮永・西宮永・両開の1町5村が合併し柳川町となる。人口3万五百余人 |
1952年(昭和27) | 市制施行、都市計画区域決定 |
1953年(昭和28) | 上水道第一次拡張工事が起工 大洪水、被害甚大 |
1954年(昭和29) | 柳川市立沖端保育園を設置 上水道御仮橋水源地井戸さく井 東宮永、両開、昭代地区上水道通水開始 |
1955年(昭和30) | 昭代、蒲池に2村を編入合併。人口約四万八千人 母子寮を設置 |
1956年(昭和31) | 柳川市徽章を制定 |
1957年(昭和32) | 県立柳川病院創設 |
1963年(昭和38) | 昭代干拓が完成 |
1965年(昭和40) | 消防所を設置 温泉湧き出る |
1967年(昭和42) | 温泉2号井完工 |
1968年(昭和43) | 消防本部設置(柳川、三橋、大和) |
1969年(昭和44) | 北原白秋生家復元落成 |
1970年(昭和45) | 市民会館起工式 |
1971年(昭和46) | 有明広域市町村圏が発足 |
1975年(昭和50) | 柳川市福祉センター開館 |
1976年(昭和51) | 国道208号柳川バイパス全線開通 |
1977年(昭和52) | 市庁舎開庁式 |
1981年(昭和56) | 県有明水産試験場完成 |
1985年(昭和60) | 白秋生誕百年記念式典 県立柳川古文書館完成 |
1987年(昭和62) | 壇一雄文学碑を建立 むつごろうランドが全面オープン |
1988年(昭和63) | 有明広域観光物産公園オープン |
1991年(平成3) | 台風17、19号の2度の被害甚大 |
1995年(平成7) | 柳川ひな祭り‐さげもんめぐりが初めて開催 |
1997年(平成9) | コスモス園完成 |
2001年(平成13) | 「水の郷」がオープン |
2002年(平成14) | 公共下水道供用開始 |
2005年(平成17) | 柳川市、三橋町、大和町合併し新生「柳川市」となる |
歴代立花家一欄 | |||||
就任日 | 実父・嫡出関係 | ||||
立花家代 | 藩主代 | 法名 | |||
立花家初代 | 戸次 |
娘に誾千代。娘婿で養子に高橋紹運の子の弥七郎統虎(のちの宗茂) | |||
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初代 |
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1587年(天正15) | 大円院松陰宗茂立斎 | 高橋鎮種の長男。戸次鑑連の嗣となり、天正10年の御名御旗の祝いによって立花の氏を賜る。 (76歳死去墓は下谷広徳寺・臨済宗大徳寺派) |
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2代 |
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1639年(寛永16) | 別峯院忠巌好雪 | 高橋鎮種の次男(立花宗茂の実弟)立花直次の四男 |
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3代 |
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1664年(寛文4) | 雪峯院英山性俊 | 立花忠茂の四男 (58歳死去墓は山川町九折・霊明寺) |
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4代 |
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1696年(元禄9) | 霊明院常心法鑑 | 立花鑑虎の二男 (39歳死去墓は山川町九折・霊明寺) |
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5代 |
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1744年(延享1) | 興源院慈雲紹蔭 | 帯刀家二代立花茂高の次男・立花貞晟(さだあきら)の養子となっていた(47歳死去墓は下谷広徳寺・臨済宗大徳寺派) |
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6代 |
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1744年(延享1) | 等覚院廓融性瑩 | 立花貞俶の二男 (17歳謎の暴漢集団に豊前国大里浜で死亡) |
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7代 |
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1746年(延享3) | 大応院馨徳孔昭 | 立花貞俶の三男 (69歳死亡墓は福厳寺・黄檗宗) |
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8代 |
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1797年(寛政9) | 陽徳院元剛紹和 | 立花鑑通の五男 |
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9代 |
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1820年(文政3) | 体慈院博愛元長 | 立花鑑通の四男立花鑑一(あきがず)の長男 |
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10代 |
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1830年(天保1) | 含章院玉英鑑広 | 立花鑑賢の長男 |
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11代 |
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1833年(天保4) | 常明院叡智紹監 | 立花鑑賢の二男 |
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12代 |
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1846年(弘化3)~ 1871年(明治4) |
大仙院殿鑑寛大居士 | 一門立花寿俶の子 |
14代 | ― | 立花寛治(ともはる) | |||
15代 | ― | 立花鑑徳(あきのり) | |||
16代 | ― | 立花和雄(かずお) | |||
17代 | ― | 立花宗鑑(むねあき) | |||
18代 |
立花家では