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![]() ![]() ![]() miyama.sity 平成16年11月製作 平成18年2月みやま市の歴史年表に再編中・H20・3・6更新 |
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飛鳥時代 | 奈良時代 | 平安時代 | 鎌倉時代 | 南北朝時代 | 室町時代 | 安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治時代 | 大正時代 | 昭和時代 | 平成時代 |
旧石器時代 |
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60万年〜1万年前 | 女山、大草、本吉、山川の山麓地帯で人類活動の跡 |
清水.大谷.長田山遺跡 (礫(れき)石器、尖(せん)頭器などの石器発見) ![]() |
縄文時代 | |
1万年前〜3千年前 | 佐賀市金立町千布の東名(ひがしみょう)遺跡から、日本最古となる縄文時代早期後半(約七千年前)の塞ノ神(せのかん)式土器・片皿など木製容器・かご・装飾品・人骨・・貝塚群が発見 縄文前期の遺跡に瀬高の長田の大谷遺跡・山川町の小野遺跡・高田町の下楠田二川遺跡がある 縄文中期の遺跡に上長田の上長田遺跡・本吉の三船山遺跡・大草の大道端遺跡・山川町の河原内遺跡・高田町の二川貝塚がある 縄文後期の遺跡に坂田の中園遺跡・山門の御二田遺跡・大草の大道端遺跡がある |
紀元前3世紀 | 米つくり伝わる(板付遺跡) |
紀元前221年 | 中国古代帝国「秦王朝」の誕生(王に始皇帝がなる (「兵馬稜」発掘により秦王朝の偉大な文化と権力が想定できる) |
紀元前219年![]() 大陸からの渡来人 |
始皇帝は徐福に命じ不老不死の薬を求めさせ、北九州に来航させる (若い男女3000人と技術人達を伴って北九州にたどり着き、稲など五穀の種子と農機具.技術をもって弥生.稲作文化を形成、永住しその末裔が文化を向上させ邪馬台国の誕生に関わったのでは?徐福は方士(呪術師、薬剤師、占星術、天文学に秀でた学者)と言われ、卑弥呼にも受け継がれ、徐福を卑弥呼の先祖と、とらえる考え方も持つ歴史家もいる) |
弥生時代 |
紀元前200年頃 | 大陸より矢部川を溯上して大陸から渡来して来る者多く永住して稲作生活を営む。 この年代の遺跡金栗遺跡、大道端遺跡、大江小学校遺跡、草場遺跡など50余箇所が発掘されている
金石併用、弥生土器、銅剣、銅鉾(女山産女谷)合口かめ棺(小川鉾田)井戸を出土 |
紀元前100年頃 |
倭は百余国分立していた
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57年 |
.倭の奴国王、後漢に遣使。光武帝から印綬(いんじゅ)を賜る。(後漢書) |
107年 | 倭面土国王帥升(すいしょう)等、後漢に遣使し、生口(せいこう)160人を献ず(後漢書)。 |
184年 | 倭国多い乱れる。邪馬台国、女王卑弥呼が立つ(魏志倭人伝) |
239年![]() 邪馬台国女王に 卑弥呼がなる |
邪馬台国女王、卑弥呼が魏に使人難升米らの使者を派遣、 親魏倭王(しんぎわおう)の称号と金印紫綬と多数の銅鏡を賜る(魏志倭人伝) ![]() |
240年 | 魏の使いが倭国に来る。使者の邪狗らは率善中郎将の印綬を授かる |
243年 | 卑弥呼が魏王に使者を派遣し生口その他を贈る |
245年 | 魏の斉王、邪馬台国の使者に黄幢を与える |
247年 | 卑弥呼が狗奴(くな)国王卑弥弓呼(ひみここ)と戦う(魏志倭人伝) |
248年 | 卑弥呼死す、男王立つも国中治まらず壱与(いよ)が女王となる(後、413年まで、倭国の消息は中国文献になし) |
.この頃郷土でに女酋多し(卑弥呼、−壱与、−田油津姫、−玖津目、−白熊鷹)−九州に14名の女酋 また土蜘蛛(耳垂 −鼻垂−麻剥−土折猪折)もいた(推測) |
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266年 邪馬台国女王壱与 |
西晋の泰始初年、邪馬台国女王壱与が使いを晋の都洛陽に派遣する(晋書) |
297年 | 三国志の『魏志倭人伝』を晋の陳寿が著する |
(?)景行18年 | *景行天皇九州平定、筑紫国御木(みけ)の高田行宮にこられる(日本書記)(三池町高泉に記念碑あり) *印の日本書紀の弥生期の年代はもっと後の年代と推測中 |
(?)仲衷 8年 |
*仲衷天皇18年ー神功皇后、土蜘蛛の田油津姫を退治される(日本書記) |
(?)応神 9年 | *朝廷 武内宿袮を筑紫につかわし百姓等の動きを監視する(日本書記) |
古墳時代 |
270年頃 | 甕棺墓が衰退して墳丘墓が出現し権力者の古墳も作られ、氏(うじ)と姓(かばね)の社会となる 女山、清水本吉、小田、大草、山門など多くの墓を建造した。 ![]() 王仁(わに)阿知使主(あちのおみ)夢月君(ゆずきのきみ)ら渡来する (応神記) |
369年 | 倭王の旨は百済の要請で倭軍を出し新羅を討つ。百済の太子貴須は倭王に献ずる為七支刀(ななさやのたち)を造る (倭王旨を九州王朝の倭王とする向きあり) |
372年 | 百済から倭王の旨に七支刀.七子鏡(道教の儀器)種種の重宝(たから)を献上される 石上神宮で七支刀(しちしとう)発見(明治初期)国宝(奈良) *瀬高の太神長嶋のこうやの宮に七支刀を持ったご神体があるが九州王朝倭の発祥地である、こうや宮に安置され大和朝廷が安定設立後、物部一族により石神神社に奉納されたものとも思考される |
391年 | 倭国(わこく)は朝鮮に出兵、高句麗と戦う (好太王碑・韓国) |
400年 | 高句麗は5万の兵で新羅救済、倭軍退く (好太王碑・韓国) |
404年 | 倭軍、帯方郡に侵入、高句麗と戦い敗北(好太王碑、韓国) |
421年〜502年 | 倭の五王[讃(さん)、珍(ちん)、済 、興(こう)武(ぶ)]の代々の王は宋などの国(中国の統一国)に遣使する。 五王とは仁徳(あるいは応仁)、反正、允恭(いんきょう)、安安、雄略の諸天皇に比定されている |
479年(継体21) | 筑紫の安致臣、舟師をひきいて高句麗を討つ |
507年 | 大伴金村、男大迹(おほど)王を越前より迎え、天皇の位につける(継体天皇) (書記) 筑紫国造(つくしのくにのみやこ)「磐井」、山門県主(やまとのあがたぬし)が郷土を治めていた |
528年 | 物部麁火(もののべのあらかひ)が磐井の乱を平定する(大和朝廷に磐井は征伐される) 磐井の墓は八女市吉田山の岩戸山古墳とも言われているし、逃げた説もある |
531年 | 欽明天皇即位 |
535年(安閑2) | 全国にわたって屯倉を設置 |
538年 仏教の伝来 |
百済の聖明王が日本に仏教、経典を伝える(上宮聖徳法王帝説) (しかし仏教は聖徳太子の時代まで受け入れなかった) |
552年 | 筑紫国造が百済の聖明王を守って戦い、弓で敵の鞍を突き通した |
554年 | 筑紫火君は筑紫の兵士1000人を率いて百済軍と、新羅と戦い、百済の王子恵(聖明王の子)を本国に送る |
飛鳥時代 ![]() |
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郷土は大和政権の支配下に成り、山門郡となり郡の下に郷を(山門郡ー太神、大江、山門、鷹尾、草壁)おいた。 条里制(山門などにその跡あり)もおこなう。駅伝、駅馬(郷土に狩道(かりじ、今の竹海?) をおいて陸路には馬を海路駅には舟をおいた |
587年 | 蘇我馬子は聖徳太子らと物部守屋を滅ぼす |
593年 | 聖徳太子摂政になる |
602年 | 百済の想観弥(かんろく)、暦本など伝える |
604年 | 憲法十七条の制定 |
609年 | はじめて古文書に筑紫太宰の名(みよう)あり |
645年(大化元年) | 大化の改新.薄葬令.条理制施行される この頃、官道の設置・狩道駅(かりじえき)ができた |
647年(大化3) | 全私有地が廃止され土地は国家の所有(公地)となる |
654年(白雉5)![]() 古代の宮 |
泰仙寺八才島(堀切)に八才宮が建つ、祭神は玉依姫(推定) 天智天皇(当時は皇太子)は筑紫の国御巡業される 海路をたどって江の崎(大和町)に着かれ、小佐島(長島)の行宮にしばらく滞在(伝承) 後年釣殿宮を建てた、(付近に御旗、御鉾の森、古島崎潟等の旧跡あり) ![]() |
658年(斎明4) | 「陣‐西北岬‐。繕ニ‐修城ー断ニ‐塞山川‐之兆。」日本書記斎明4年の条記述城棚を修繕した記載で神籠石式山城の修繕か? |
663年(天智3) | 日本軍、白村江(はくすきのえ)において唐の水軍に大敗する |
664年(天智4) 国の危機 ![]() 朝鮮式山城建造 |
白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の海戦(朝鮮)での敗戦で危機を感じ唐、新羅の侵攻に備え、対馬.壱岐.筑紫に防人と峰を置く 白江村の敗戦で危機を感じ唐、新羅の侵略に備え、亡命した百済将軍の指導のもと朝鮮式山城の防衛施設を築城 (日本書記に大野城など6ヶ所の城の記載あり、その他の神籠石の山城もこの時期の建造との見解もある) ![]() |
670年(天智9) | 筑紫諸国の戸籍770巻を作る |
671年(天智10) | 筑紫の君薩野馬、白村江の戦いで捕虜となっていたが唐より帰還 |
672年(天武元年) | 壬甲ノ乱が起きる 大宰府観世音寺建立 |
678年(天武7) | 筑紫国に大地震(日本書紀巻29)その時高良神籠石北側の部分は真下の水縄断層系の追分断層で崩壊したと考えられる *高松塚古墳壁画はこの頃のもの |
685年(天武14) | 白村江(はくすきのえ)の戦いの捕虜の筑紫三宅連得許、唐より帰る |
690年(朱鳥4) | 白村江の戦いの捕虜の軍丁筑紫国上陽東S(つくしのくにかみつめのこおり)の大伴部博麻(おおともべのはかま)が唐より帰還 この頃筑紫国が筑前と筑後に分かれる(大和町史) |
701年(大宝元年) | 大宝律令を公布、郡里の行政区画確立 園池司を置く(園部、園田、堀池園など) この頃に下庄の樋口宮(樋口八幡宮)が創建されたと推定 ![]() |
706年(慶雲3) | 大宰府より筑紫の綿(絹綿)を京に送る |
707年(慶雲4) | 5月26日に白村江(はくすきのえ)の戦いの捕虜の山門郡の許勢部形見(こせべのかたみ)、外2名捕虜生活、44年ぶり唐より帰る。衣一襲乃塩殻を賜る この頃筑後国府(現在の久留米市)が成立(大和町史) |
708年(和銅元年) | 武蔵国が銅を献上、よって改元。和銅開珎ができる |
709年 ![]() 瀬高.初めての寺 |
僧頼現、本吉梅ヶ谷に成合寺(真言宗仁和寺末寺)を創建 本吉諏訪神社創建。明確でないが本吉集落が地域的にまとまる頃と推定 |
710年(和銅3) | 奈良 平城京に遷都(せんと) |
712年(和銅5) | 古事記、完成する |
713年(和銅6) | 筑後守 道君首名筑後守(肥後守も兼務)となる、農業を奨励した |
715年(霊亀元年) | 土地区画整理として条里制が施工され山門郡、本吉、九折、河原内、清水、中尾、本郷の地区を整備 |
717年(養老1)![]() 宝聚寺を創建 |
行基(行基の弟子)が下庄談議所に玉泉院 宝聚寺(ほうしゅうじ)天毎延暦寺派を建てた(伝承話) 本郷に行基(行基の弟子?)が行基橋を架ける(伝承話) ![]() |
718年(養老2) | 筑後守道君首名死亡(筑後市史・続日本紀) |
720年(養老4) | 日本書記、完成 |
724年(神亀1)![]() 広田宮を創立 |
宇佐の神主廣田氏は270町の功田を領し芳司(広田庄)に廣田宮(広田八幡神社)を創立 この頃小河庄(小川)樋口庄(前田・大竹)、広田庄(文広)瀬高庄(上庄、下庄)本吉庄(本吉)長田庄(長田)坂田庄(坂田)飯得庄(高田町飯江)の荘園があつた。 (金栗の住居跡(溝をめぐらした集落地、竪穴、敷藁の炭化、炉)はこの頃) |
729年(天平元年) | 大宰府はじめて調綿(絹生糸)10万屯(1屯は225g) |
733年(天平5) | 筑前風土記ができる、筑後風土記もこの頃に編纂 |
735年(天平7) | 大宰府管内に疫病で死人多し |
737年(天平9) | 大宰府管内に天然痘流行し死人多し |
738年(天平10) | 筑後国正税帳成立、正倉院に現存する |
740年(天平10) | 太宰少弐藤原広嗣ふじわらのあそみひろつぐ が九州軍勢を集め朝廷に反乱。 |
742年(天平12) | 大宰府を廃止する |
743年(天平13) | 墾田(こんでん)永年私財の法制定(新しく耕して手に入れた土地は永久にその人のものになる) |
745年(天平15) | 再び大宰府を置き、国司の公廨(こうかい)稲の制度を設ける |
757年(天平宝宇元年) | 防人に坂東の兵をやめ、西海道七国の兵士1000人をあてる |
762年(天平宝字6) | 筑紫の国々に兵器の自国生産を命ず 鑑真、揚子江(中国)を経て有明海を通って京へ向かう |
768年(神護景雲2) | 従5位下紀朝臣広純、筑後守となる(筑後市史) |
785年(延暦4) | 大宰府管内諸国の百姓の浮浪人に調、庸(よう)を徴用せしめる |
794年(延暦13) | 平安京遷都 |
803年(延暦22) | 弘法大師・空海、入唐の際に天笠国五台の土で宝聚寺本尊の不動明王像を自作するとある(縁起)(瀬町) |
805年(延暦24) | 最澄、唐より帰国、天台宗を始める |
806年(大同1)![]() 清水寺が出来る |
空海、唐より帰国、真言宗を始める |
伝教大使最澄が本吉に清水寺を開基?(最澄が有明海に入航した事実はなく後世に縁起として作られている) 害虫により田園荒廃、1年間田祖免除 |
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807年(大同2) | 柳川市三橋町中山(当時は瀬高庄)の中山法正院が創建される。(清楽寺の中に法正院が創建された説もある) |
810年(弘仁元年) | 新種の綿栽培が広まる 長田に最澄が横尾寺(天台宗延暦寺派)創建する 三毛郡(三池郡)日奉連功労(てるともむらじ)があり新開江(しんがえ)に封戸300町を賜り宝満寺建立(三池北郷荘園) |
813年(弘仁4) | 筑後.肥前.豊前.薩摩.大隈など五国に大風あり租税の調を免ず 九州に18軍団を置く 大宰府管内諸国の兵士数を削減、筑後国は3軍団3000人から1500人 |
815年(弘仁6) | 大宰府内諸国、凶作により3年免租 |
822年(弘仁13) | 大宰府管内諸国に疫病流行す |
823年(弘仁14) | 太宰大弐小野峯守の建議で大宰府管内諸国に公営田を実施し1万2095町を置く |
848年(嘉祥元年) | 最澄の弟子の円仁が清水の「乳母観音」造られる?(立証するものは無くあくまでも縁起) |
854年(嘉祥7) | 大神の釣天宮は大宰府に赤腹魚を献上する(縁起) |
858年(天安2) | 郷土、大暴風雨 |
860年(貞観2) | 瀬高下庄の樋口八幡宮、吉井の寺中(じつちゅう)正八幡神社(上小川八幡神社)は荘園の行政事務を司る(読本旧柳川) |
869年(貞観11) | 宇佐八幡宮の別院として勅宣をもって鷹尾八幡宮、建立、樋口八幡宮は別宮となる(旧柳川藩志) |
883年(元慶7) | 凶賊、筑後守都御酉を殺害する |
897年(寛平9) | 朝日古天神社(現・天満宮)に正六位上を贈る |
901年(延喜元年) | 菅原道真(みちざね)大宰府に流される |
903年(延喜3) | 太宰権師菅原道真死亡 |
905年(延喜5) | 延喜式制度で筑後の国は次の10郡となる、 (御原、生葉、竹野、山本、御井、三潴、上妻、下妻、山門、三池)(延喜式) |
925年(延長3) | 筑後国駅馬−御井.葛野.狩道、各5疋(しょ) 筑後国伝馬−御井.上妻.狩道、各5疋(しょ) |
930年(延長8)![]() 山門五郷あり |
倭名類聚抄(しゅうしょう)出来る 山門五郷あり(草壁.山門.大江.大神.鷹尾) 筑後.国府管田、10万3800町、正税、公廨(こうかい)各20万束、本頴62万3583束、雑頴(ざつえい)2万3582束(束は稲付の10把、約5升、当時の1升は現在の4合) |
931年(承平元年) | 瀬戸内海に海賊が出現し、官物を略奪するような事件が続発 |
932年(承平2) | |
935年(承平5) | 平将門が東国(関東)にて叛乱を起こす(承平の乱) |
936年(承平6) | 藤原純友(伊予掾)が海賊追捕の宣旨をうけたが海賊の首となる(本朝世紀) |
939年(天慶2) 蒲池城が建つ |
平将門、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうすけ)を攻め、自ら新王と称す 菅原純友の弟菅原純乗が三潴郡蒲池村に蒲池城を建てる |
940年(天慶3) | 東国では平将門が敗北、斬首される 西国では藤原純乗が朝廷に不満、瀬戸内海にて叛乱を起す(天慶の乱) |
941年(天慶4) | 藤原純友5月博多湾に上陸し、大宰府を襲い焼き払う 藤原純乗伊予国に落ち延び捕縛され、斬首 鎮圧の功績をたてた大蔵春実(原田氏の祖)は、後に大宰府に土着し、大宰府の在地武士団として九州に根を張る 橘公頼は大宰府を襲い、柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を、蒲池城で迎え撃った |
942年(天慶5) 蒲池・田尻氏の初祖 |
藤原純友の天慶の乱の功績により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となる説あり (鎌倉時代になり蒲池城に蒲池氏の初祖が、かまえ平戸松浦党と縁を結ぶ(後年宇都宮家とも縁を結び、一族郎党結団し大友の輩下となり山下城や柳川城を築く) 大蔵春実は藤原純友征伐の功績により大宰大監(軍事警察を管轄)となる (後に大蔵春実の子孫は北九州をはじめ田尻にも城を築き姓を田尻に改め郷土(三池)に権勢を振るった) |
944年(天慶7) | 筑後守吉志公忠、筑後神名帳を注進、山門26前正六位以上の神名調査 |
947年(天暦元年) | 菅原道真の霊をまつる北野天神社創建 |
984年(永観2) 永興寺創建 |
大草に比叡山の僧の某が天台宗の永興寺創建した |
994年(永保元年) | 上庄に僧の信恵が金剛勝寺を開祖、真言宗談議所と称す(金剛勝寺文書) |
1005年(寛弘2) | 松延の天満宮建立される |
1016年(長和5) | 藤原道長、摂政となる(藤原氏全盛) |
1023年(治安3) | 小河庄は宇佐八幡宮の神領となる(この頃は宇佐宮と安楽寺の二大荘園領主が占める) |
1042年(長久3) | 山川の小萩(物見塚)に天満宮創建 |
1053年(永承8) |
平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)落成 浄土思想盛ん |
1070年(延久2) | 堀切に玉垂宮が建立される |
1063年(安平6) | 源頼義(よりよし)鶴岡八幡宮創建 |
1074年(延久6) | 三池典太元真 刀工師が郷土で刀剣を作った(堀切に刀匠三池典太の弟子の墓と言い伝えられる石碑10基分位がある) |
1081年(永保元年) | 上庄の金剛勝寺建立される、真言宗談議所 |
1083年(永保3年) | 長田庄40町2丈が太宰府天満宮安楽寺安養院に寄進される |
1105年(長治2) | 藤原清衡(きよひら)が平泉に中尊寺建立 |
1121年(保安2)![]() 瀬高荘園の始まり |
藤原俊忠は瀬高の荘園(瀬高庄、現在の上庄.下庄)を京都の貴族藤原俊忠が領有した 藤原俊忠は都から来て大宰府の役人、太宰大弐(だざいのだいに)となる この頃、南筑後に山裏市場(飯江川と矢部川合流点)山下市場(西鉄渡瀬駅裏)芳司市場(文広)の3大市場があった |
1122年(保安3) | 藤原俊忠は太宰権師(だざいごんのそつ)(*九州全土を統括する知事のようなもの)となる |
1123年(保安4) | 藤原俊忠は7月9日に51歳で死去、上庄は妙法院の昌雲法師の所領となる(鷹尾文書) |
1131年(大治6)![]() 芳司市場のにぎわいと 瀬高の庄2分 |
瀬高庄は上庄、下庄に分かれる 下庄八幡神社創建(樋口宮から分建) 瀬高下庄は(現在の瀬高町西部、大和町鷹尾、一帯)千町にも及ぶ大荘園だった その下庄の鎮守社として尊祟を集めたのが鷹尾神社(大和町)、寄進者として太郎丸、乙丸の名(集落)あり 芳司(文広)に板橋助種によって板碑(恵比須の碑)が建てられた |
1137年(大治12) | |
1144年(康治3年) | 溝口三郎大夫や三毛大夫季実らは筑前国観音寺の生葉郡大石・山北封に乱入して横暴を働いた |
1047年(永承2) | 太宰府天満宮安楽寺金堂に下妻庄53町が寄進される |
1151年(久安7) | 待賢門院の死亡により円勝寺(京都)が下庄の本家となる |
1158年(保元3) | 平清盛太宰大弐となる、宗像.松浦.緒方.菊池氏など平家の御家人となる |
1168年(仁安3) | 平清盛病に倒れ、出家する。清盛の援助によって厳島神社が造られた |
1170年(嘉応2) | 瀬高両庄は徳大寺実定・本家待賢門院の庄園となる この頃の道路ー羽犬塚ー長田ー本吉ー野町ー亀谷 |
1173年(承安3) | この頃鷹尾神社が瀬高下御庄の鎮守となる |
1176年(安元2) 上庄祇園さんの始まり |
宇都宮朝綱の嫡子藤原中次、重国の兄弟によって上庄に祇園宮を建立(上庄八坂神社縁起) |
1178年(治承2) | 鷹尾文書に高柳の名(みょう)あり(名とは集落のこと) 高柳村の藤二郎・藤三郎・多次・土入道古家・小藤太・本司貫主・高柳別当古家ら大宮司15家に鷹尾社掃除役があてられる(鷹尾文書) |
1181年(治承5年) (養和元年) |
平清盛熱病に罹って敢え無く2月に死去する 2月に大宰府は菊池・緒方の軍兵の乱入により焼け落ちる この頃の宇佐八幡領の小河庄は国家から庄園と認められ立券庄号(官省符)を受けた |
1182年(寿永元年) 田尻一族の初祖 |
大蔵春実の後裔、大宰大監原田種成の三男種実が、筑前国から筑後国三池庄田尻邑に移り住み田尻三郎を称した(田尻氏の初祖) 大宰府に再び軍兵が乱入し府印が粉失する 瀬高荘園に都の役所から鷹尾八幡の別宮(樋口八幡宮のことか)のお供え物についての命令がきた 『寿永元年8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里(大字河内字吉里)・稲富(三橋町江曲)・行武(大字下庄字生竹)・重富・小熊丸・太郎丸(三橋町下久末)・楽定(大字松田字楽十)・弥乙丸・小太郎丸・乙丸(大字上庄字乙丸)・久富・武富・友吉・有富(大字大江有富)・新名熊丸・吉富(柳川市吉富)・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名に鷹尾神社の「餐膳酒肴」の調進が課されているとから、現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯にその荘域が広がっていたと考えられる。』(名(みよう)とは集落のことで瀬高庄には27の名があった。) |
1183年(寿永2) | 源頼朝は平家追討の下文を西国住人に下文を送る(吾妻鏡) この頃既に松風の関・大津山の関があった(平) |
1184年(元暦元年) 平家の滅亡 |
平家は一ノ谷合戦で源氏に敗れる 源平争乱の時豊後の武将緒方三郎が筑後に侵入し、清水寺など平家方の寺社をを焼き払った 関東武士の宇都宮知久、知綱の兄弟が大木八幡宮を建立 |
1185年(文治1)![]() 郷土で源平合戦 |
壇ノ浦の戦いで平氏滅亡、 平家の残党が源氏の追討軍を要川(飯江川)にて迎え討った 沖端に残党住みつく(六騎の伝承) 平(でーら)、滝、物見塚、平家塚七霊宮現人神(あらひとかみ)はその名残 嵯峨源氏の源久直は蒲池の地頭職になり、筑後橘氏の娘婿となり蒲池久直と名のり初代蒲池氏となる |
1186年(文治2) | 頼朝の腹心天野遠景を大宰府に鎮西奉行として派遣し、九州御家人統率と平家勢力の一掃をやる 5月、上妻家宗、瀬高下庄鷹尾郷などの地頭職に任じられる 6月、源頼朝は天野遠景に対して徳大寺領の瀬高庄の侵略押妨をとどめる |
1189年(文治5) | 源義経は衣川で討たれる |
1191年(建久2) | 長田・坂田(瀬高)は大宰府安楽寺の庄園とする 三毛郡を三池郡と改める 徳大寺実定が没す |
1192年(建久3)![]() 関東武士が九州に入る |
源頼朝 征夷大将軍となる 九州に関東の武将が入り込む |
1193年(建久4) | 守護、地頭の確立 鎌倉幕府の命により藤原家宗が地頭となる瀬高庄内が乱れたので京都より梶原刑部(ぎょうぶ)が使者として来て整理した(刑部とは役職名) 当時寺院、神社の大工として大江村敏応右衛門、棟梁の源八下庄藤左衛門、大竹の常衛門がいた |
1194年(建久5) | 中山清楽寺(現・三橋町中山法正院)に金銅板両界曼荼羅が奉納れる(東京国立博物館蔵、国重要文化財指定) 「瀬高御庄清楽寺金剛仏師慶弁工師藤原延次 建久5年6月13日」の銘あり |
1195年(建久6) | 天野遠景は強引な武断政治で荘園領主の利益を侵略し非難され鎌倉に呼び返される 大宰府の鎮西奉行に中原能直(よしなみ)がなり武藤資頼(すけより)がなり原田種直の旧領をたまわり太宰少弐なる この頃大磯の虎少将(曽我十郎の愛人)は大草の永興寺境内に曽我兄弟の供養塔を建て女山に住む |
1196年(建久7) | 大友能直、相模国(神奈川県)大友郷から豊後に入り、豊後、筑後、肥後の守護に任ぜられる 中原親能が鎮西奉行として派遣される |
1197年(建久8) | 島津忠久が東国より薩摩国の島津荘の地頭となり、日向(薩摩・大隈日向)の守護をかねる(島津氏の祖) |
1199年(正治元年) | 三池師貞が三池郡に今福城を築く |
1201年(建仁元年) | 葉上大僧上(栄西)は禅院に建仁寺を建立する この頃の瀬高庄の広さは上庄1140町、下庄1023町 |
1203年(建仁3) | 北条時政、執権となる |
1204年(元久元年) | 源忠宗が蒲池の城主となる |
1212年(建暦2) | 鷹尾神社祭礼記録に春大使上庄源太別当あり |
1213年(建暦3) (建保元年) |
山門郡鷹尾宮.神宮寺焼失する 鷹尾文書に上庄横手入道あり 鷹尾神社焼失日記に目代上庄右馬殿あり |
1214年(建保2) | 筑後奉行宇都宮朝業(ともなり)下る(旧柳川藩志)(朝業は和歌の歌人でもある) |
1216年(建保4) | 高柳の舟三太夫、商人勝陳坊・梶取らとともに高良宮神人と乱闘となり、高良宮神官ら報復のため舟三太夫の家・舟・納所を焼く(鷹尾文書) 上庄横手入道、この頃横手庄あり、200町(鷹尾文書) 瀬高下庄領家下文に牛宮あり、瀬高の牛御前もこの頃の建立か(鷹尾文書) |
1219年(承久元年) | 鷹尾神社祭礼9月9日、諸役衆日記に高柳上三郎大宮司、冬大使に高柳舟三太夫同金栗大宮司、小使金栗斤三郎あり この頃瀬高上庄は天台座主昌雲法師の所領か |
1220年(承久2) | 宇佐八幡宮の御分霊を小川庄(下小川八幡宮)に祀る |
1221年(承久3) | (承久(じょうきゅう)の乱)後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げたが敗北する 蒲池行房が承久の乱で後鳥羽側に関係し一族断絶回避の為松浦党の山代圓を婿養子にし蒲池家を譲る 領家は紀元保を筑後国山門郡「瀬高下庄」鷹尾別府 高良別館宮大宮司職および安松・三郎丸名主職の代官に任じ、元真の例にならって支配させる(大和町誌) |
1224年(元仁元) | 親鸞、浄土真宗を開く |
1227年(嘉禄3) | 道元、帰国し曹洞宗を開く |
1231年(嘉禄7) | 地頭の大友秀直が瀬高上.下庄を乱暴し、出入りの船を濫妨して、年貢を押領す、鷹尾大宮司紀元保は大友秀直を六波羅探題に訴える(鷹尾文書) |
1234年(貞永3) | 六波羅探題が大友秀直の濫妨を停止し、相論解決する(鷹尾文書) |
1253年(建長5) | 日連、日連宗を開く |
1268年(文永5) | 高麗使、フビライの国書を持って太宰府に到着 |
1273年(文永10) | 天台座主記に「教圓、筑後国瀬高庄、同国分寺(新成任)、承詮筑後国瀬高庄同百町(本成人)」とあり |
1274年(文永11)![]() 蒙古襲来 |
蒙古襲来(文永の役)、広田速澄出陣する 田尻、三池、蒲池の諸豪出陣、功をたてる。 この頃南筑後に芳司市場(文広)山裏市場(飯江川と矢部川の合流地点)と山下市場(西鉄渡瀬駅の裏辺り)の3市場が開かれる、談議所で島原、天草の海産物その他と交換市をひらいた |
1275年(建治元年) | 少弐経資、異国警護番の制を定める。筑後国は7〜9月の3ヶ月(筑後市史・治乱起) |
1276年(建治2) | 博多湾に防塁工事始まる、田尻.神代.黒木.星野.河崎.西牟田.草野.酒見.光安など筑後の御家人など動員され博多庄浜を分担する |
1281年(弘安4) | 元・高麗軍再び来襲する(弘安の役)蒲池氏など出陣する 弘安の役では松浦党の一族として蒲池城8代目の蒲池諸久が出陣し、執権北条時宗からの感状を受けた この頃関東武士が下り諏訪信仰・熊野信仰や板碑(石造美術)などの東国武士の文化が持ち込まれた |
1286年(弘安9) | 鎮西談議所、蒙古合戦の勲功賞の配分を行う 田尻種宗子息、田尻種継跡、薩摩国鹿児島郡司職内十分の一を賜る 田尻親賀子息、河辺孫二郎配分跡十町を賜る |
1289年(弘安12) | この頃下庄は円勝寺領 |
1290年(正応3) | 宇佐造営使、上庄に入部する(鷹尾文書) |
1310年(延慶3) | 僧鉄山が大竹山二尊寺を開山・再興する 野町五輪塔群、この頃より建てられる |
1314年(正和3) | 「香椎宮領筑後本吉庄雑掌慶実、能光申す、吉里弘安 両名、神用米の事云い・・・、蒲池余一入道殿」と鎮西探題北条政顕の古文あり 広安(ひろやす)が香椎宮領の本吉庄に含まれていたことが解る |
1326年(正中3) | 僧鉄山が下庄緑町に蓮華寺を建立 |
1328年(正中5) | 鷹尾文書に樋口惣宮別当多米末高、金栗酢太遊あり |
1331年(元弘元年) | 菊池武時、九州探題館を襲う、北條英時は自害し、九州探題亡ぶ |
1333年(元弘3) (正慶2) |
鎌倉幕府 滅亡 |
1334年(建武元年) | 建武新政 始まる 僧鉄山が金栗の宝塔寺を建立した 熊丸名主職を高柳四郎入道に充行する |
1335年(建武2) | 沙弥(しゃみ)崇観、瀬高下庄田吉名の名主職に補佐される(大和町誌) |
1336年(延元元年) (建武3) 多々良浜の戦い |
足利尊氏など京都を逃れ九州芦屋に着く 菊池武敏、阿蘇惟直(これなお)等は、足利尊氏軍勢と博多の多々良浜で戦い敗れ阿蘇惟直は肥前の天山で自害する。 阿蘇惟澄は多々良浜で敗れ瀬高の大木城主大木貞久に庇護され、海津に阿蘇神社の分霊(早鷹宮)を祀る 蒲池武久は多々良浜の合戦で討ち死にし、蒲池家は宇都宮久憲を婿養子に迎えるまで家系が絶える(前蒲池) 後醍醐天皇、吉野へ移る(南北朝分立) |
1337年(延元2) (建武4) |
僧鉄山、朝日に朝日寺を建立した 長田河原において南朝方溝口太郎入道・平津肥前守ら北朝の佐竹二郎らと戦い破れる(筑後市史) |
1338年(延元3) (暦応元年) 足利尊氏征夷大将軍 |
足利尊氏、義直博多を発し上洛し、征夷大将軍となる その時、一色道猷(範氏)を博多に止め、瀬高庄を知行地として与える 一色道猷南朝側討伐のため瀬高上庄に入り、清水山一帯を攻略する(大和町誌) 龍造寺実善、瀬高庄にて御待番役を務める 龍造寺彦三郎家貞が南朝方と筑後小清水、や中尾畑で合戦する 肥前御家人石動彦三郎は瀬高庄を宿直警固す |
1339年(延元4) (暦応2) |
足利尊氏、蒲池に崇久寺を再建 後醍醐天皇、五條頼元に九州の事を託す 得勝、上庄新宮社の政所職を大善寺得王に譲る 鷹尾文書の4月15日の田畠譲状に「一所八反三丈 まき 元行武」とあり真木は、もと行武(下庄新町周辺)に入っていたらしい |
1340年(興国元年) (暦応3) |
一色道猷、瀬高庄を鎮西管領の所領とし配下の武士たちに分配する(大和町誌) 幕府軍の一色道猷、瀬高庄の窮状(きゅうじょう)を室的幕府の尊氏に訴える 阿蘇山噴火 |
1343年(興国4) (康永2) |
中院待従、菊池武茂、大木籐次ら筑後竹井城にたて籠り、探題方と戦う 龍造寺又七郎家政、竹井城南大手城戸口を警固する 深堀、武雄、荒木は竹井城落城に軍功あげる 豊後田原直貞の代人黒沢可一、溝口禅院城の落城の先駆けをする(筑後市史・入江文書) |
1344年(興国5) (康永3) |
一色道猷の兵、竹井の萱津城を攻め菊池武重・大木藤次の軍は敗れ菊池に退く |
1345年(興国5) (貞和元年) |
菊池武敏・堀口貞直・宇都宮貞泰の南朝軍は幕府方一色道猷と筑後で戦う 黒木氏は武家方と瀬高、溝口で戦う |
1348年(正平3) (貞和4) |
四条畷の戦い(楠木正行・高師直(こうのもろなお)と戦い敗死 真弓広有、征西将軍宮懐良親王(宮方)に従い筑後国に入る |
1349年(正平4) (貞和5) ![]() |
九州は幕府軍一色道猷・南朝軍懐良親王・直冬軍(少弐頼尚、大友、島津)に分れ三分の形勢 荒木弥六が瀬高庄、瀬戸島を警固する 足利直冬(佐殿方)が九州へ下向する |
1350年(正平5) (貞和6) |
この頃 南朝軍の大木氏は大木城を廃し懐良親王に従い肥後菊池に移る 足利直冬は肥前国の白石一族に瀬高上庄を預けおき、一族に分配させる(大和町誌・嬉野文書) 足利直冬は肥後の託魔別当宗直を上庄の地頭職・領家職に任ず(大和町誌・詫麿文書) |
1351年(正平6) (観応2) |
南朝軍の懐良親王は五條頼元、菊池武光らを率いて筑後瀬高庄に陣を敷く 三池助太郎頼親は上庄を警固する 伊藤大和守氏祐、瀬高に参陣する |
1352年(文和元年) (正平7) |
「安楽寺領注進目録」なる。この中に下妻荘・長田荘・坂田荘は凶徒横領とある(筑後市史・宰府) |
1353年(正平8) | 鷹尾神社惣政所書下写に高柳五郎四郎殿、金栗名定めの別当あり |
1355年(正平10) | 大宮司蓮乗の訴えにより瀬高下庄米満・田吉名の年貢を鷹尾社御位田・十禅師供料ならびに土井料足などに沙汰入れするように命ずる(大和町誌) |
1356年(正平11) (延文元年) |
一色直氏、戦勝祈願のため瀬高上庄20町を長門国忌宮神社に寄進する(大和町誌・忌宮神社文書) |
1358年(正平13) (延文3) |
足利尊氏が没する |
1359年(正平14) (延文4) 筑後川の合戦・ |
南朝軍、懐良天皇、菊池武光らと筑後大保原で北朝・足利軍大友、少弐頼尚らを破る(筑後川の合戦) 宇都宮久憲は蒲池武久の娘の婿養子になり蒲池久憲と名のり蒲池家を再興する |
1360年(正平16) (延文6) |
菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府へ進出し、大宰府を征西将軍府となして九州宮方の本拠とした (以後、十数年にわたって九州宮方は全盛期を現出した) |
1366年 | 後村上天皇第六皇子良成親王が大宰府に来着、後征西将軍と称す |
1369年(正平24) | 明の使者、征西府(大宰府)に来り倭寇の禁制を請う 広田速之王命により明に使す(広田文書) 真弓広有没す(笠) |
1371年(建徳2) (応安4) |
南朝軍の征西府は今川了俊に敗れる 今川了俊(貞世)九州探題となる |
1372年(文中元年) (応安5) |
8月、懐良天皇、大宰府を落ちて、高良山に籠る |
1373年(文中2) (応安6) |
菊池武光、高良山にて陣没す 11月、竹井原(竹飯〜野町の台地)で大友親世と菊池武朝勢が合戦 |
1374年(文中3) (応安7) |
5月22日菊池武政、高良山にて陣没す |
1375年(天授元年) (永和元年) |
毛利右馬頭元春、今川了俊に従い瀬高.菊池.酒見など転戦す 水島の合戦、少弐冬資、今川了俊に殺される |
1377年 | 今川了俊、瀬高より南関を経て肥後に進む |
1378年(天受4) (永和4) |
足利義満、室町新邸に移る |
1383年 | 良成親王は五條頼治を筑後南朝の首将に任じ、懐良親王の後任とする |
1390年 | 良成親王は五條頼治に田尻などの成敗を命ず |
1392年(明徳3) | 南北朝 合一される |
1394年(応永元年) | |
1394〜1427年![]() 宮園城の築城 |
山門郡西部と柳川一帯は蒲池氏山門郡中部は鷹尾八幡領、北部は溝口氏と壇氏、東南部は田尻氏の支配 三池郡の南部は三池氏、東北部は田尻氏、西北部は永江氏の領地として支配 |
1396年(応永3) | 大友軍に属した蒲池.問註所.田尻.草野.西牟田など菊池武朝(肥後)と山川要川で戦い破れ降参する 菊池武朝、長田豊前守の天満宮領水田荘ならびに長田荘3分の1に対する違乱停止を命じる(筑後市史・宰府) 菊池武朝、大友親世と溝口で合戦(筑後市史・北肥戦記) |
1398年(応永5) | |
1399年(応永6) | 菊池武朝、長田五郎太郎の安楽寺領長田荘への違乱停止、川崎出羽入道の下妻荘などへ対する違乱停止を命じる(筑後市史・宰府) 権律師快厳、免田22町を樋口宮に安堵する(大和町誌) 応永の乱 |
1400年(応永7) | 権律師快厳、樋口宮仮殿の神事に必要な酒肴・供物・土器の注文を大宮司に指示する(大和町誌) |
1401年(応永8) | 長田助世、安楽寺領長田荘神用寺役20石を毎年弁済すると約束(筑後市史・宰府) |
1402年(応永9) | 義満、祖阿、肥富を明に派遣 |
1405年 | 大江幸若舞 始祖 直詮生まれる(1480年死す) |
1412年(応永19) | 菅原氏長者唐橋在宣、大鳥居法眼に安楽寺領長田荘・下妻荘を知行させる(筑後市史・宰府) |
1416年(応永23) | 善導寺鐘銘に筑後国山門郡瀬高下荘埋長勝律寺大檀那溝口藤原親資...とある |
1418年(応永25) | 戸次直世、長田荘のことにつき長田太郎に子細を問う(筑後市史・宰府) |
1419年(応永26) | 戸次直世、長田荘のことにつき再度長田太郎に子細を問う(筑後市史・宰府) |
1427年(応永34) | この頃蒲池義久の子今村大隈、大広園に宮園城を築城。 山川・清水の春日神社創立 |
1432年(永享4) | 肥後の菊池持朝が筑後守護職となり33年間菊池氏の守護領となる |
1435年(永享7) | 下庄二尊寺に梵鐘奉納(福地・古鐘銘集成) |
1441年(嘉吉元年) | 嘉吉の乱 |
1465年(寛正6) | 幕府は筑後守護職を豊後の大友政親に与える |
1467年(応仁元年) | 応仁の乱(戦国時代) |
1468年(応仁2) | 下小川妙光寺の逆修板碑建立 |
1469年(文明元年) | 三池で石炭発見される、農夫伝冶衛門による |
1474年(文明6) | 画僧雪舟、豊前、筑前、筑後を巡遊する |
1476年(文明8) | 学僧、柱庵玄樹が二尊寺に来る、画僧雪舟も同行か 清水庭園ができる建仁寺に滞在中の雪舟の作と言われている |
1478年(文明10) | 菊池為邦の子、重朝は筑後半国の守護職を競望し、筑後に出兵し大友軍と争うが幕府の仲介で筑後から撤退 |
1479年(文明11) | 僧深誉が下庄上町の聖竜山引接寺を開山 |
1487年(文明19) | 長島釣殿宮の日月の幢(はた)に文明19年の銘あり |
1490年(延徳2) | 下庄真言宗金伝寺、法華宗に改宗し興善寺と称する(のちの尊寿寺) |
1492〜1500年 (明応年間) |
溝口常陸介、小田城を支配 |
1501年(文亀元年) | 溝口資清は菊池武運(能運)に従い一族の宇土為光と戦い戦死(筑後市史・筑後国史) |
1502年(文亀2年) 柳河城改築 |
蒲池治久が柳川城の築造に着手し蒲池城の支城とした。 |
1504年(永正元年) | 豊後大友氏の命により蒲池治久の次男親広を分家し上妻山下に8千町(約8万石)を有し別家させる、のち鑑広の時に山下城を築く、人見城とも称す 田尻親種(ちかたね)(田尻鑑種(あきたね)の父)は郷土に最も権勢を振るった。鷹尾城を本拠とし、江浦城、堀切城、浜田城、津留城を支城として肥前軍の来襲にそなえた 田尻氏、野町十三塚において、一千人の僧をして法華経一万部を供養す |
1506年(永正3) | 小田城主溝口太郎武資、大草山田に熊野神社建立 溝口太郎武資、小田七社神社建立 少弐・大友氏ら周防大内氏と筑前・豊前で戦い、筑後諸将は大友側として参加(筑後市史・鎮西要略) |
1507年(永正4) | 大友義長、蒲池氏らと高良山に戦う(筑後市史・鎮西志) |
1518年(永正15) | 溝口薩摩守、小田薬師寺を建立 |
1523年(大永3) | 真言宗延暦寺末寺として上庄に延慶寺建立(のちの円鏡寺)、金剛勝寺六坊の一 |
1525年(大永5) 板碑の制作 |
芳司笑酒板碑あり、施主は板橋助種 真木の雲照寺の板碑が造られた 9月、西牟田氏、大友氏と戦い敗死、溝口氏・辺春氏らは降伏(筑後市史・筑後史略) |
1532年(天文元年) | 赤坂・虎坂の石塔(地蔵尊台座)が建てられる(山) |
1533年(天文2) | 成合寺、田尻城主田尻左京亮の祈願所となる 成合寺谷自然石梵字板碑建立 |
1534年(天文3) | 大風37回も吹き、米穀類一粒もなく天下大いに飢饉し万民餓死す 田島重賢、飯得(飯江)地頭分は溝口氏に賜うことを大鳥居氏に伝える(筑後市史・宰府) 溝口鑑資ら溝口一族は菊池義宗の反大友に与同して行動し下妻55町を失う(五条氏へ) |
1536年(天文5) | 大友義鑑、五条良続に下妻55町を与える(筑後市史・五条) |
1538年(天文7) | 芳司東屋敷板碑(銘)が作られる、泉尼 |
1539年(天文8) | 本郷九品寺板碑造られた |
1541年(天文10) | 下庄二尊寺に仏師周陽により自然石図像板碑建立、願主、河野藤左衛門尉越智道継 |
1543年(天文12) | ポルトガル人種子島に来て鉄砲を伝える |
1544年(天文13) | 小田山城守親元は菊池義武に協力して北の関城を修理、高さ50丈周り30丁の堅城 |
1546年(天文15) | 西原岩見守武雄が竹ノ井に今城を築く |
1547年(天文16) | この頃大友氏より筑後に守護代をおく 西念寺(上庄)の笠塔婆に妙金大姉の銘あり 蒲池鑑盛が藤吉(柳川市)に風浪宮を再建する。棟板銘に山門郡瀬高上庄富永村...とある 田尻親種が豊後府内の大友宗麟のもとへ行く際に、板橋氏が選別として砂糖2斤を送る この時の馬・人足の調達先に大塚(大字大草)が見られる(筑後市史) |
1549年(天文18) | 上庄の来迎寺の板碑を造る 田尻親種は菊池と竹井原で戦う 肥前龍造寺が筑後侵略する 肥後菊池が筑後侵略する ザビエル鹿児島に来てキリスト教を伝える |
1550年(天文19) | 豊後の大友義鑑は嫡子義鎮を嫌い異母弟の塩市丸との家督騒動の惨劇で死亡(二階崩れの変) 4月19日、大友を謀反した筑後の溝口、西牟田、三井氏は大友側の田尻氏の鷹尾城を攻める(筑後市史) 4月24日蒲池氏、田尻氏らの軍が溝口丹波守の要害を攻める 5月26日大友義鎮は蒲池氏・田尻氏に溝口の要害を攻め落とさせる。溝口氏の旧領のうち長田25町・三溝6町を失い没落する。 田尻氏に与え賞される 竹井原で三池親員と田尻親種勢が合戦 小田山城主親元、北関城(大津山関城)を修理 |
1551年(天文20) | 龍造寺隆信、肥前を逃れ蒲池氏をたより一ツ木村に隠れる 永興寺に自然石梵字板碑建立 山口の大内義隆、陶晴賢に討たれる |
1552年(天文21) | 春から夏にかけイナゴ被害で不作、九州は飢え餓死するもの多し |
1557年(弘治3) | 毛利元就、大内義長を討つ |
1558年(永禄元年) | この頃、山川の真弓・北関・三峰・小萩は肥後領(玉) |
1558〜1570年(永禄年間) | 田尻親種が鷹尾城を築く、津留.浜田.堀切.江浦の四城を築き鷹尾の支城とする |
1559年(永禄2)![]() 蒲池治久が柳河城主 |
蒲池鑑盛、柳川城の改築拡張を行ない、蒲池氏の本城とした。守護神として日吉神社建立する ![]() 龍造寺、蒲池を味方にして筑後侵入をはかる 菊池氏、筑後に侵入して各地に合戦おきる(鷹尾城、溝口のとりで、梅尾城、竹飯原、今福城、南関、浜田城、江浦城、堀切城など) この頃瀬高港は肥後の伊倉港、高瀬港と貿易していた 大友義鎮、九州探題となる |
1560年(永禄3) | 田尻親種は山川・野町に十三塚を築造 上庄青光寺の板碑が作られる(銘)道金禅門、妙栄禅尼 この頃僧鎮栄が真木に雲照寺を建立する 桶狭間の戦い 三開を干拓す(江浦村社家日記) |
1564年(永禄4) | 大友宗麟は筑後国を平定する |
1565年(永禄8) | 文広の東屋敷逆修塔が作られる 黒木城(猫尾城)21代黒木鑑隆(あきたか)、大塚村にて討たれ死ぬ。墓は下庄大竹の二尊寺にある |
1567年(永禄10) | 9月、筑前休松合戦(甘木)で戸次鑑連が秋月種実に敗れ、田尻援軍(鷹尾)は59人戦死、29人負傷 |
1570年(元亀元年) | 大友宗麟は龍造寺を攻める為大軍を高良山に陣をもつ 田尻親種は肥前勢と巨勢に戦い深手を負い居城鷹尾にて死亡、しも筑後の大友方、傷をこうむる者多し |
1571年(元亀2) | 戸次道雪、立花城に移り毛利と戦う |
1573年(天正元年) | 室町幕府滅亡 織田信長、将軍義昭を追放、延暦寺も焼き打ちする 僧願休が浜田に妙光寺を建立、のち下小川に移る この頃、談議所の浜には島原・天草から瓦積み船が往来 |
1575年(天正3) | 僧浄安が上庄に西念寺を建立 肥前龍造寺隆信・鍋島直茂ら筑後へ侵攻、犬尾城の川崎氏、山下城の上蒲池氏らを攻める 鷹尾城主田尻鑑種は長田に在陣、上蒲池氏は11月降伏(筑後市史・田尻氏由来書出) |
1578年(天正6) | 5月、筑後国大雨洪水、民家流失し死者多数(立花町史年表) 大友、島津両軍、日向耳川で決戦し、大友方は大敗する蒲池宗雪(鑑盛)、討たれ死亡 |
1578年〜1586年 戦乱続く |
この頃、郷土の各地で激戦が続いた |
1579年(天正7) | 山下城主蒲池鑑広、肥前佐嘉の龍造寺隆信に備え宮園城を築く、城番今村某(福城) 樺島式部少輔、山下城主蒲池鑑広に従い、龍造寺に備え松延城を築く(福城) 龍造寺隆信は山下城を攻め、この時宮園城落城し今村某以下全員闘死(福城) 蒲池鑑広(山下城)、肥後の大津山、和仁の援軍などは肥前勢龍造寺隆信と白鳥(三橋町)で戦う 大津山、和仁は松延に、蒲池.田尻.三池.豊持.豊鐃(どう).蒲池統康、上庄祇園宮に願文を納める 龍造寺隆信の進撃に田尻鑑種は鷹尾城で籠城する |
1580年(天正8) | 龍造寺隆信は田尻と密談し蒲池鎮並を征伐する事を決める 蒲池鎮並は龍造寺と手を切り柳川城に籠城する 龍造寺は蒲池と和平し、鎮並を娘婿とする |
1581年(天正9) 柳河城主.蒲池の最後 |
龍造寺は蒲池鎮並を佐賀の与賀明神の馬場でだまし討ちし殺す 田尻鑑種は龍造寺隆信の命を受け柳川城を攻める 蒲池鎮並の弟統安はじめ一族家臣奮戦したが討死し柳河城落城する 塩塚城落城、塩塚石見守をはじめ柳河城から避難した鑑並夫人徳子および婦女子など108人塩塚で自害する 田尻鑑種は佐留垣城に逃れた蒲池統安を殺害し落城させる 龍造寺久家、鍋島信正が柳河城を占拠する 下蒲池家の家臣、大木城主大木統光は龍造寺に従う(大木城の廃絶) 龍造寺久家、鍋島信正が柳河城を占拠する |
1582年(天正10) | 本能寺の変、小田信長死す 肥前龍造寺政家・鍋島直茂、瀬高川(矢部川)で鵜飼を楽しむが田尻鑑種謀殺をはかる(田尻氏由来書出) 田尻鑑種は龍造寺と手を切り鷹尾城に籠城する肥前の龍造寺久家が城を囲む 田尻鑑種は浜田城に田尻大蔵助鎮富を津留城に田尻石見守鎮直を堀切城に田尻彦左ヱ門鎮永を江の浦城に田尻了哲を配する 筑後の山下城に幸若舞が伝えられる |
1583年(天正11) | 島津勢援軍三百余人、兵糧をもち田尻加勢の為鷹尾城に入る(500日籠城) 龍造寺隆信は肥後隈部城主赤星統家の恨みを察し人質の赤星統家の14才の嫡男(ちゃくなん)新六郎と八才の娘を山門郡竹井原(長者原)において磔殺害 田尻は龍造寺と和平し鷹尾城を明け渡し堀切城に移される |
1584年(天正12) 瀬高の武士の戦い 壮絶! ![]() |
田尻鑑種は龍造寺隆信に肥前佐賀郡巨勢に200町を与えられ所がわりを命ぜられる 大友軍勢、戸次道雪、高橋招運を大将に筑後に入り、肥前の龍造寺勢と戦う 松延城を肥前の龍造寺の攻撃に備え築城する 山下城主上蒲池鑑広の家臣吉岡加賀守、龍造寺勢を吉岡城に破る(福城) 蒲池鎮運(しげゆき)は肥前勢を防ぐために近郡十一ヶ所の城を固める。宮園城に今村氏一族、松延城に椛島式部、 龍造寺隆信戦死(肥前有馬にて島津家久・赤星統家らと戦い島津の侍大将、川上京亮に討たれ死す) 宮園城の今村一族は瀬高の松延原口にて山下城に攻める龍造寺政家勢と戦い追い払う 戸次道雲は瀬高近辺の龍造寺の所領の村々を焼く 戸次道雪、高橋招運、下妻郡禅院村建仁寺に制札をかかげる |
1585年(天正13) 龍造寺隆信死す |
本郷城に壇大炊介、吉岡城に吉岡加賀守、瀬高城に黒木兵庫守家臣を配する(南筑明覧) 山門郡堀切の地下人および豊後の侍、平井弾正鎮経、以下大友勢、堀切城に籠り田尻勢と戦う 戸次、高橋の兵士は堀切城支援の為に浜田に陣をしく 蒲池鎮運は三池に加勢の為浜田に陣を進める 島津家臣の山田有信により堀切城落城する 山川・中尾下に熊野神社創建(棟木札) |
1586年(天正14) | 山下城の蒲池鎮運は島津方として本吉.小田.平田.禅院口にて肥前勢と戦う 島津義久、筑後、肥前に侵入、高橋紹運岩屋城にて戦死(瀬高町誌) |
1587年(天正15) 秀吉、九州を平定 宗茂が柳河城主に ![]() |
4月 豊臣秀吉が肥前より筑後に入り高良山吉見岳(久留米)に陣を張り、羽犬塚、北長田を経て矢部川を渡り山川(太閤道と名がつく)を経て南関に入り薩摩へ向い島津と戦う(島津征伐) 薩摩の島津氏は降参し、豊臣秀吉は高良山に帰陣、それより博多に入り箱崎に在陣し、九州諸候の領域を定める 6月 豊臣秀吉は立花宗虎(宗茂)に筑後国のうち四郡(山門・三潴・下妻・三池)13万2200石の領主として柳川城に入る。 立花宗茂、立花城(筑前)より柳河城に入る。弟、直次は江浦城主となる 領内六ヶ城に城番を置く 山下城主蒲池鎮運は城を落ち、秀吉に三池郡のうち200町を給わり立花への与力となり海津館に移る 蒲池城に小野和泉、酒見城に由布美作、城島に葛野玄賀、松延城に立花三郎右衛門、今古賀城に立花右衛門を配する 立花宗茂は本郷の壇大炊助、松延の椛島式部に命じ郡郷村里の事をつかどらせる。 |
1588年(天正16) | 秀吉、刀狩令を発す。全国の社寺、農民の所有する武器・武具を没収する。兵農分離制(立花文書) 豊臣秀吉、箱崎で茶会を開く 藩主立花宗茂、芳司八幡神社に流鏑馬奉納の願文を奉じる。 |
1589年(天正17) | 柳河領にて耕作地の検地(太閤検地)がおこなわれる。 ![]() キリシタン宣教師一行久留米より瀬高を経て江浦に向かう この頃上庄に高良玉垂宮の市の座あり(高良文書) 上庄来迎寺を善導寺方誉上人が再興し第一世となる(南筑明覧) |
1590年(天正18) | 豊臣秀吉、全国を統一 清水山寺の法華経千部逆修板碑が作られる 立花宗茂は清水寺を再建する |
1573〜1592 (天正年間) |
僧亮善、本郷に徳圓寺を建立 この頃瀬高に高良玉垂宮の市の座あり 瀬高座別当.本郷別当.上庄中座.本座別当.合物座.中座.本座別当.下庄本座.中座別当.合物座. 善導寺方誉上人、上庄来迎寺を再建し、第一世となる 立花宗茂草場の聖母宮を造営する |
1592年(文禄元年) | 文禄(朝鮮)の役で、立花宗茂も2350名を率いて黒埼より朝鮮に出兵した。 |
1593年(文禄2) | 立花宗茂、碧蹄(へきてい)館で明軍10万を破り、秀吉に拝謁する。 文禄の役で田尻種貞が朝鮮で没す(三峰、供養塔) |
1594年![]() 宗茂朝鮮より凱旋 |
立花宗茂は朝鮮より凱旋し本郷の矢部川に松を植え(朝鮮松原)カササギ(朝鮮カラス)を放った。 山川村飯江には朝鮮人参を植え薬用とした 大友義統夫人菊子(宗茂の叔母)死去、尊寿院と称して下庄本浄寺に葬られる。この時、寺号を尊寿院とした |
1595年(文禄4) | 大塚の超勝寺が浄土宗に改める |
1596年(文禄5) (慶長元年) |
越前国出身の僧日源は八女郡溝口村にて製紙業を広めた。 立花宗茂は上庄の祇園宮に50石を寄進する。 大友義統の嫡男の男也が鷹尾村にて没する、7才、上庄の来迎寺第二世誠誉上人は引導して当寺に葬す。法名月窓照芳大童子。 |
1597年(慶長2) | 再び朝鮮の役が起こる。立花宗茂は2,350人を率い出陣 |
1598年(慶長3) | 豊臣秀吉、伏見城で病死。 |
1600年(慶長5) 宗茂、城開け渡し |
立花宗茂は関が原の戦いで西軍に属し出陣、大津城を攻め落とす だが西軍の敗戦により柳河に帰り、鍋島と三潴郡八の院で戦う。 田中吉政は関が原の戦いで西軍の石田三成を捕える 加藤清正と瀬高の西、久末(三橋町)にて会見する。 清正の進言により柳川城城を開け渡し、宗茂は肥後高瀬に、夫人闇千代は玉名郡腹赤村に移る。 その後宗茂は江戸の寺に入った後に、徳川家康に奥州棚倉に領土を与えられる。 |
1601年(慶長6)![]() 田中吉政が柳川城主に |
田中吉政、関が原合戦で石田三成を捕らえた功績で筑後三十三万石の藩主として柳川城に入る。 田中吉政、柳河城の規模を大きくし、五層の天守閣を築く その時、石材に領内の古墳、古塔、神籠石を使用する。 上庄の平井惣兵衛門、柳河城橋の欄干の疑宝珠を造る 松延城番に松野主馬が1万2000石で入城する 田中吉政は清水寺に五十石を寄進する 田中吉政は庄屋の椛島.壇氏を宗茂の夫人ァ(ぎん)千代に米をあげた罪で処刑する 尊隆が永興寺を中興する |
1602年(慶長7) | 宗茂の夫人ァ(ぎん)千代、肥後腹赤村に没する。上庄来迎寺誠誉上人が引導する(河野調) 田中吉政、上庄祇園宮に五十石を寄進する(河資) 豊後の大友氏の家臣河上源右衛門は剃髪して宗円と号して浜田に龍本寺を開山(河野調) 北高柳に養安寺を開山(上庄来迎寺末寺) |
1603年(慶長8) | 徳川家康征夷大将軍となる |
1604年(慶長9) | 三潴郡で蒲池焼き始まる 田中吉政により山川国境の真弓、北関、三峰、小萩は筑後領となる 田中吉政、下庄の宝聚寺へ仏前立花のため花園用に田、三反を寄進する(河資) 田中吉政、永興寺へ観音仏供料として禅院村60石および大塚の山林若干を寄附する |
1607年(慶長12) | 僧興専、吉井に満福寺を建立(河野調) イエズス会、準管区長フランシスコ・パシヨ神父、秀忠・家康に謁し、大阪で秀頼訪問、 また柳川に新設されたレジデンシア(ポルトガル語の駐在所の意)と領主田中吉政を訪問するため柳川に来る。柳川のキリシタン1400人。 |
1608年(慶長13) | 僧西道、松延に明浄寺を建立(河野調) |
1609年(慶長14) | 田中吉政、参勤の帰途に伏見にて病死 |
1612年(慶長17) | 佐々木小次郎と宮本武蔵は巌流島で決闘した キリシタン禁止令 |
1613年(慶長18) | 僧祐閑、下庄に光源寺を建立(河野調) 善教により大江建徳寺を建立(河野調) |
1614年(慶長19) | 大阪冬の陣 |
1615年(元和元年) | 大坂夏の陣で立花宗茂は家康の軍に加わり手柄をたてる 田中忠政は幕府の「一国一城令」により吉岡城、松延城、江浦城、鷹尾城、福島城、黒木城などが壊された。 |
1616年(元和2) | 武家諸法度でる |
1620年(元和6) | 田中忠政、江戸にて病死、嗣子(跡取り)なかったので幕府に領地を没収された。 立花宗茂が奥州棚倉(福島県)三万石より柳川藩10万9千947石を賜り柳川城に入る。 旧立花藩領の溝口の地が 久留米藩領と変る。 |
1621年(元和7) 立花宗茂が柳川城主に 再びなる ![]() |
檀、椛島両氏に命じ、本郷、吉岡、蒲池、小保などを領内に取り入れ、水利、水運の自由をはかる(河野調) 檀、椛島を復帰させ大庄屋に任ずる(*1601年田中吉政に先代は処刑断絶されている)(河野調) 立花宗茂、上庄祇園宮、新宮社を再建する(河野調) 矢ヶ部新左衛門、唐尾で紙瀘(和紙の製造)を始める(河野調) 立花宗茂、故夫人の為柳河に良清寺を建立、上庄来迎寺応誉上人(蒲池統安の次男)が第一世となる(河野調) この頃僧祐仙、下庄に安養寺を建立(河野調) 林みさを25才で徳島城下で婚約者の仇をとる(清水山稱名庵、びく尼谷、みさお柳、西念寺)(瀬高誌) 立花種次が常陸国筑波郡柿岡(茨城県)より1万石の大名として三池にはいり、三池新町に陣を築く。 |
1624年(寛永元年) | 豊後の国士・空井正金剃髪し猪然と号し、朝日に空托寺を開祖(河野調) |
1625年(寛永2) | 僧の隆英、長田に横尾寺を再建(河野調) |
1627年(寛永4) | 僧の覚覧、北広田に法泉寺を建立(河野調) |
1628年(寛永5) | 江浦潟の干拓を10月16日に起工す(江浦村社日記・淀姫宮旧記) |
1629年(寛永6) | 渡辺一斉、剃髪し、長田に西教寺を建立(河野調) |
1632年(寛永9) | 黒田騒動起こる 長田の横尾寺境内に彦山権現を建立(河野調) |
1633年(寛永10) | 柳川藩内に8組の大庄屋(おおじょうや)をおく、楠田・竹飯・本郷・小川・垂見・蒲池・谷川・田隈の組 酒の神様、下庄元町、松尾神社が建てられる |
1634年(寛永11) | 福巌寺の開祖 鉄文和尚、海津、西原種考の一子として生まれる |
1635年(寛永12) | 参勤交代を制度化。駅を設け、馬継ぎ所を置く。 |
1636年(寛永13) | 鎖国令出る |
1637年(寛永14) | 島原の乱に立花宗茂が藩兵5500人と出陣し、翌年3月柳川にかえる。家臣のうち死者181人、負傷者779人を数えた。 立花宗茂、上庄金剛勝寺の護摩堂を修理する(河野調) 立花忠茂、上庄新宮社に石鳥居を寄進する(河野調) 赤坂面の上(山川町)にやんぼし塚の碑建立 |
1638年(寛永15) | 幕命により筑間川を筑後川と改名した 矢部川の改修に伴い鷹尾村が鷹尾と泰仙寺の二村に分かれた。、泰仙寺の八歳島の八歳神社が鷹尾に移転 |
1639年(寛永16) | 柳河藩主、二代目に立花忠茂(ただしげ)がなる |
1643年(寛永20) | 立花忠茂、上庄八坂神社へ扁額を寄進(河野調) |
1644年(正保1) | 僧乾明、堤に清光寺を建立し坂田にも長命寺を建立(河野調) |
1645年(正保2)![]() 津留村の掘り替え |
津留村にて矢部川の流れ変更工事。津留村を分断し東津留.西津留とし、浜田と秦仙寺を接続の掘り替えする この頃の矢部川は堤防が出来現在の流れになっていく。 水田村の浄光寺の住職玄了、久留米藩による東本願寺派へ転派要求に耐えられず寺物とも下長田に移る この頃桜島に漂着した中国の船から、はぜの栽培が伝わった。 この頃も頻繁に大風雨洪水により溺死者や餓死する者、流失家屋、凶作の記録多く昭和時代まで続く。 |
1646年(正保3) | 柳川藩、キリスト教藩士83人を追放 立花忠茂、東照宮を叡興寺境内に建立する、石材に神籠石を使用する(河野調) |
1647年(正保4) | 上庄祇園宮を修造する(河野調) 藩内の新酒醸造を停止する、大富札(宝くじ)も停止(河野調) |
1649年(慶安2) | 4代住職釈明信により正覚寺を三橋島田より上庄に移す |
1650年(慶安3) | 暴風、海鳴起きる、藩内の流失家屋3300戸溺死者170人、田地損害5万石 |
1651年(慶安4) | 徳川家綱、将軍となる 台風による被害多し 立花忠茂、上庄祇園宮に石鳥居を寄進する(河野調) |
1659年(万治2) | 肥後菊池氏の末裔の坂田小右衛門は剃髪して経意と号して、上坂田に極妙寺を建立(河野調) 知行所米を蔵米に改む(河野調) |
1660年(万治3) | 参勤交代が制度化される |
1661年(寛文元年) | 僧実圓、下小川に浄金寺を建立(河野調) |
1664年(寛文4) | 柳河藩主、三代に立花鑑虎(あきとら)がなる |
1665年(寛文5) | 柳川藩でも宗門改め(踏み絵)が行われる。 野町から下庄と上庄を通り本郷を経て羽犬塚に至る道を九州大名の参勤道路に定める 宗門改め始まる |
1667年(寛文7) | 三橋村、農夫 善四郎、稲の害虫駆除に油然注ぐことを発明した |
1670年(寛文10) | 柳川藩、米の節約、新酒醸造停止につき条目を発布する(河野調) |
1672年(寛文12) | 渡辺祐念、藤ノ尾に宝樹寺を建立、のちに勝満寺と改める(河野調) 立花帯刀、采地として中山を賜る(河野調) |
1673年(延宝元年) | 黒崎開の潮止め工事。 北の関で決闘があった。 僧力道、藤ノ尾の空託寺を再建(河野調) 藩内の新酒醸造停止、煙草栽培禁止の令を出す(河野調) 僧玄道、大木に玉琳寺を建立(河野調) |
1675年(延宝3) | 大洪水、飢餓、餓死多し |
1676年(延宝4) | 藩内の新酒醸造を停止する、大富札(宝くじ)も停止(河野調) 筑後大洪水 |
1677年(延宝5) | 黒崎開(高田町)の堤防を石堤とす。この地方における石堤の元祖なり(新開村旧?記) |
1679年(延宝7) | 僧範賀、上坂田に宝珠寺を建立(河野調) |
1681年(天和元年) | 飢餓、餓死する者多し 僧鉄文、上庄に円鏡寺を開祖 |
1683年(天和3) | 上庄祇園会 紛争する、町方踊りを禁止する。 山川村甲塚山(御牧山、佐野山、かぶと山)に放牧場を新設、奥州より種馬を仕入れる。 山川村野町に馬市を開く 小田に法讃寺を建立(河野調) |
1684年(貞享元年) | 藩内において羂紗などの毛織物の販売を禁じ、女の衣類は紬(つむぎ)、木綿を用いる事を命ずる(河野調) 黒崎開完成・新川を改修して高田堰に導く(推測)(高田町誌) |
1685年(貞享2) | 花宗井堰(久留米藩)を造る |
1686年(貞享3) | 込野井堰(柳川藩)を小川、竹井、本郷の組の責任において造る 京都の臨済宗大本山の東福寺の豊石和尚が本郷の九品寺を再興する |
1687年(貞享4) | 柳川藩検地終了 |
1688年(元禄元年) | 熊本の細川藩主の菩提寺泰勝寺の春龍が二尊寺を中興し、第二世となる 柳川藩札を出す |
1689年(元禄2) | 僧行春、下庄に崇福寺を建立(河野調) 僧鉄文、蓮池山に円通山禅林寺を開山 |
1691年(元禄4) | 蒲池山堤防改修 |
1693年(元禄6) | 黒崎開を新設(これにより渡瀬南端に船出入り不能となる) 筑後・肥後大風(石原家記等)この時黒崎開が決壊したと推測(高田町誌) 三池郡田尻村で百姓一揆起こる。 |
1694年(元禄7) | 清水寺の隆尚法印が原町に大悲山甲山寺多福院を開山 |
1695年(元禄8) | 八女郡立花町に千間土居完成(田尻惣助、総馬 親子による) 田尻惣助長田に楠木土居を築く 地震、洪水による被害 |
1696年(元禄9) | 四代柳河藩主に立花鑑任(あきたか)が就任。立花鑑虎は家督を譲り翌日には剃髪して英山と号した 藩主立花鑑任は薩摩街道の道筋を野町〜在力〜吉井〜下庄〜上庄(本陣)〜本郷〜尾島(久留米藩領)〜羽犬塚宿の西寄りのコースに変更した。 |
1697年(元禄10) | 立花鑑虎は下屋敷を外小路(新外町)に建てる(後の花畠) 黒崎開復旧成就と推定す(高田町誌) |
1698年(元禄11) | 洪水や大雪により被害あり 柳川藩内の酒造米、4,717石、酒屋115軒(河野調) |
1699年(元禄12) | 久留米城下町人口調査8764人 |
1700年(元禄13) | 二尊寺の住職、春龍(了岳東修)が九州地方の戦乱の軍書「九州記」を著す 浜田の天興寺を東津留に移す |
1701年(元禄14) | 藩は、筑後柳川城の辻門前の札の辻を基点に藩内に一里石などの道標を築いた(慶長17年(1612)の説もある) 立花茂虎が没す。墓所は春林山宗英寺裏 |
1702年(元禄15) | 立花鑑虎が没す。墓所は墓所は九折(つづら)の雪峰山 赤穂事件。大石良雄ら吉良義央を討つ 幕府の命により、領内の酒造米の届けをなす(河野調) 洪水あり、藩内の流失家屋48戸、溺死2人 洪水あり、藩内の流失家屋117戸、溺死1人 |
1703年(元禄16) | 柳川藩領内に煙草の栽培、再開しはじまる 清水寺観音堂に能舞台を10月新築される 藩内にいなごの被害あり、被害28,000石余 藩内の櫨(はぜ)運上の制を定む(河野調) |
1704年(宝永元年) | 大風雨あり、藩内の倒壊した家151戸 |
1705年(宝永2) | 柳川藩札の通用を停止。地震起きる 頻繁に大雨洪水の被害発生 |
1706年(宝永3) | 大風雨あり、藩内の浸水家屋5255戸、破損船75隻使者14人 清水寺本堂再興修築なる(河野調) |
1707年(宝永4) | 柳川藩領の銀札の通用を停止(河野調) |
1708年(宝永5) | 本吉の福応寺、黄檗宗に改める(河野調) 大風洪水、藩内の倒壊家屋28戸、使者2人 |
1712年(正徳元) | 2月三池藩の立花種長卒す 帯刀家2代目の 黒崎開を楠田組の支配と定める |
1712年(正徳2) | 上庄出火、町屋26戸焼失 新井白石「読史余論」草稿完成。山門郡の邪馬台国論を書く |
1713年(正徳3) | 7月、大風雨、海鳴起きる、藩内の堤防破壊63ヶ所、浸水家屋5773戸、溺死者349人、死馬228頭(河野調) 8月にも大風 切支丹改めをなす。領内携酒売買を禁ず |
1714年(正徳4) | 矢部川黒木井堰出来る(久留米藩) 田尻惣馬(黒崎開の普請)上庄祇園社に藩主心願成就のため能楽を奉納する |
1715年(正徳5) | 柳川藩矢部川の堤防を修築する 大風雨、藩内浸水家屋593戸、溺死4人 僧良舜が長田に金台寺を建立(河野調) |
1716年(正徳6)(享保元年) | 広瀬井堰(田尻惣馬と板井善太夫)造る 芳司広田八幡宮を修造する(河野調) 6月22日享保と改元する 8代将軍吉宗、享保の改革 |
1717年(享保2) | 田尻総馬が藩命で蒲池山に大堤を築き、大根川を改修し飯江川にそそぐ(河野調) 上庄で大火事が起きて駅舎焼失する。 幕府巡検使、藩内を巡検する(河野調) |
1718年(享保3) | 柳川藩、浪人調査を行う |
1719年(享保4) | 大雨洪水、被害甚大、領内の夫米二歩を免ず(柳川藩)(河野調) 参勤用金不足にて納金を命じ、不納の者を罰する(柳川藩)(河野調) 山門郡で百姓一揆起こる 北広田の金台寺を弥四郎村に移す(河野調) |
1720年(享保5) | 柳川藩、田尻総馬を国中一円の普請方とする 藩内の反物、菜類、砂糖などの売買に関して取り締まりをする 切支丹宗門改をなす |
1721年(享保6) | 柳川藩家老、小野春信(若狭)が在役精勤の功としてもらった三池郡平野山で平野炭鉱を開く 立花鑑仁が没す。帯刀家の次男立花貞俶(さだよし)が末期養子となり柳河藩主五代となる |
1722年(享保7) | 瀬高川掘り替(田尻惣馬御用掛) 疱瘡(ほうそう)が流行 |
1723年(享保8) | 地震あり |
1724年(享保9) | 僧鉄文が山川に雪峰山霊明寺創建(現在廃寺) |
1725年(享保10) | 山川に西楽寺楼門建立(西楽寺楼門木札) |
1728年(享保13) | 柳川藩農民600人逃散。久留米藩、上三郡百姓一揆起る |
1729年(享保14) | 6,7月まで旱魃(かんばつ)苗の植え付けできず 8月、大風雨潮津波あり 筑後に百姓一揆起こる。柳川領農民600人肥後へ逃散。 疱瘡が流行 |
1732年(享保17) | 享保の大飢饉・凶作、いなごの害、餓死者柳川藩123名、久留米藩1万1198人多数。 9月柳川藩は凶作・飢餓のため幕府より1万両、借用する 山門郡で百姓一揆起こる 12月下庄駅(駅とは宿場のこと)、出火、ほとんど灰になる 飢餓の為、酒の米を食用にする為、各藩領内の酒造を禁ずる |
1733年(享保18) | 大飢饉、柳川藩の餓死者123人、食べ物ない者4500人、牛、馬3000頭死滅、 柳川藩は幕府より米15800石貸与さる。8月大風あり。 |
1734年(享保19) | 筑後地方、大洪水。田畑損害甚大、馬疫の病流行し死人多し。黒灰が降る 女山の梅野六之平は飢饉にあたり私財を投じて4ヶ所の村人500人余を救う |
1735年(享保20) | 藤尾車塚から古鏡三面発掘される、以後古跡として無年貢地とする 大風吹く |
1736年(元文元年) | 疱瘡が流行する |
1737年(元文2) | 上庄祇園宮境内に屋須多神社(火災除けの神)を建立 |
1738年(元文3) | 立花の家臣矢島の女が上庄に寂光寺を再建する |
1741年(寛保元年) | 柳川領内、馬疫流行、死んだ馬256頭。 害虫や烈風の被害 僧の一誉が下庄の引接寺(下庄中町)を中興する |
1742年(寛保2) | 清水寺冨興業(宝くじ)あり 梅野六之平は本吉村に商家20軒を設け本吉新町と名つけ参拝者の便をはかる。 本吉新町に八坂神社建立 この頃清水寺旧参道の渓谷沿いに、7つの水車小屋が設置された 柳川藩領内で富山の売薬を許す。 |
1743年(寛保3) | 下庄町で官の許しなく踊りを催したので大庄屋は遠慮を命じられ、庄屋は釘付けにした そして町内には銀10枚の過料を出させた |
1744年(延享元年) | 柳河藩主、六代に立花貞則(さだのり)がなる |
1745年(延享2) | 清水寺本堂の下の石段と楼門(階上に文殊菩薩を安置)を柳川藩主立花貞則公が造営。 柳川藩内の造酒を禁ず。(酒用の米を食用に供給) 暴風、稲損害大、餓死者多数。浮塵子、発生被害大。 柳河藩は銀札を発行する 僧隆湛、清水称名庵を中興する |
1746年(延享3) | 柳河藩主七代に立花鑑通(あきなお)がなる 伊藤荘次郎を上庄町別当、庄屋兼任とし、中村太兵衛を御茶屋番とする(河野調) 清水寺の仁王門を建立 正月より5月にいたり8回の矢部川洪水あって飢饉多くでる |
1747年(延享4) | 九折(つづら)に大乗妙典一字一石塔建立(山) |
1748年(寛延元年)![]() |
豊作で農民達は喜ぶ 南勘右衛門(上庄)、北勘右衛門の酒造家が繁盛していた |
1749年(寛延2) | 久留米藩、捨子禁止令を出す 羽犬塚に新茶屋(本陣)が出来る 舟小屋に鉱泉が湧出る |
1751年(宝暦元年) | 筑後に百姓一揆起こる。 この年からの阿部酒屋(下庄新町)の大福帳・造酒帳・金銀控帳などの記録あり |
1753年(宝暦3) | 柳川藩の中浪四ヶ所藤左衛門通久が足踏み水車発明し領内で使用させた。 上庄の吉郎右衛門、郡役所に献金し賞された |
1754年(宝暦4) | 松延の天満宮を造営 久留米藩にて百姓十万人が一揆を起す |
1755年(宝暦5) | 僧快助が梅ヶ谷(本吉)の成合寺を中興する 筑前残島の漁夫ルソン島に漂着して帰国 |
1758年(宝暦8) | 本郷に柳川藩の馬場が出来る、騎射、流鏑馬、犬追物などの講武場とする |
1759年(宝暦9) | 柳川藩主立花鑑通が四ヶ所藤左衛門に命じて本郷の矢部川畔に別荘の「水御殿」と陸戦隊の演習場を建造する。 (水御殿前方、朝鮮松原の西南の磧(せき)の広場を藩兵の調練場とした) (冨士谷成章、安東間庵に命じ本郷馬場の記を草せしめ、碑を立てる) |
1760年(宝暦10) | 筑後地方に3cm位のヒヨウが降る。 柳川藩領内の寺院に浪人の宿泊を禁ず 矢部川の治水事業に大きな足跡を残した田尻惣馬、亡くなる 真木(瀬高町)出身の力士、御所ヶ浦磯右衛門、江戸番の東大関となる |
1763年〜1794年 | 矢部川に三ヶ名井堰と惣河内井堰 を造る |
1765年(明和2) | 大竹に崇福寺を建立 柳河領大水洪水、決壊(けっかい)家屋13743戸 |
1766年(明和3) | 藤ノ尾車塚に聖母宮を造営した |
1767年(明和4) | 大雨洪水で被害出る |
1768年(明和5) | 柳川藩、捨子禁止令を出す 柳川藩、倹約令を出す 上庄の祇園宮境内に屋須多神社の社殿を新築する |
1769年(明和6) | 蒲池山堤(山川町)の桶管工事完成 地震起きる |
1770年(明和7) | 江浦の渡里(高田町)に藩の中島米蔵(島米蔵)ができた。 久留米藩民、千間土居の竹木を伐採し、両藩交渉する 豊作のため、願成就として操り人形の興業を許す(河野調) |
1772年(安永元年) | 柳川領津波、人畜の被害多し。 柳川藩は大暴風雨で防波堤がこわれて、幕府より5000両借金(10年賦で返済) |
1774年(安永3) | 藩内に時疫流行する、15000戸にに及ぶ 柳川藩、領内の人口調査、94586人。 |
1776年〜1820年 | 地震や大雨洪水、大風、により凶作、飢餓に苦しむ |
1777年(安永6) | 柳川藩内の80才以上の者に鶴肉を賜る |
1779年(安永8) | 清水寺三重塔の前身九輪塔創設(長崎丸山の遊女寄進) |
1781年(天明元年) | 6月、柳川藩農民、党をなして庄屋を襲う(百姓一揆) 小田村唐尾の茶屋営業停止(抱女を廃止) |
1783年(天明3) | 大風、藩内の倒壊した家1507戸、死者4人 「鷹尾地方(瀬高下庄)は風紀が大いに乱れ、宴遊、博奕が盛んであった」(旧柳川藩志俳諧師石田茂山の項) |
1784年(天明4) | 志賀村の百姓甚兵衛、金印発掘 |
1787年(天明7)![]() |
幸若舞が小田村の重富次郎直元から大江村の松尾平三郎増墺が大頭流の家元として伝承。これより大江幸若舞となる。 柳川藩内の百姓60才以上の者に綿代を賜る |
1789年(寛政元年) | 二尊寺の僧、大城七右衛門が清水寺本堂脇になで仏地蔵を寄進 堀池園の親孝行息子の新兵衛が藩から賞される |
1792年(寛政4) | 雲仙の前山(眉山)が大地震で崩壊し、島原の住民1万人死亡、大津波で対岸の熊本藩住民を中心に5000人が死亡。柳川領も被害を受ける。 凶作。 本吉の親孝行息子の次助が藩から賞される |
1793年寛政5) | 飢餓が起こる |
1797年(寛政9) | 柳河藩主8代に立花鑑寿(あきひさ)がなる |
1800年寛政12) | 僧公全、下長田の伝教寺を再建する、往時は浄圓寺と称する 百性一揆うちこわし起きる 久留米絣が井上伝女によって発明される |
1801年(享和元年) | 壇東周、吉井に私塾を開く |
1802年(享和2) | 洪水、風邪流行する 武田商店が下庄八幡町ではぜの実で木ろうの製造を始める。 |
1803年(享和3) | 大塚の善通寺を唐尾に移す |
1804年(文化元年) | ロシア艦艇、長崎へ来る |
1807年(文化4) | 山門郡垂水の川東組が百姓一揆をやる |
1810年(文化7) | 舟小屋鉱泉、飲浴すれば効用あることを発見 |
1812年(文化9)![]() 伊能忠敬が瀬高測量 |
伊能忠敬一行、筑後を測量の為に上庄に止宿。本陣竹次郎、別宿喜三右衛門、平島屋、鉄屋 伊能忠敬一行、下庄新町を基点に三池街道、薩摩街道・朝倉街道を測量 山川の佐野天満宮創建(山) |
1813年(文化10) | 僧春山が泰仙寺に泰仙寺を建立 |
1814年(文化11) | 浜田村の孝行娘の利右衛門の娘ツルが藩から賞される |
1816年(文化13) | 小田に宝満宮を建立 |
1817年(文化14) | 本郷と下妻の農民間に水路をめぐって争論おきる |
1819年(文政2) | 久留米、佐賀両藩の漁民、漁界を争い紛争し、柳河藩の調停によりようやく和解す。 立花鑑寿上庄祇園宮に願文を納める |
1820年(文政3) | 柳河藩主九代に立花鑑賢(あきかた)がなる |
1821年(文政4) | 本郷岩神堰完成する |
1822年(文政5) 瀬高の大火 ![]() |
上庄と下庄大火が起きる。(上庄民家200戸、本長寺、青光寺、往吉宮が焼失・下庄民家250戸、光源寺、宝聚寺、尊寿寺、八幡宮、松尾宮が焼失) |
1824年(文政7) | 柳川藩校伝習館創設される |
1826年(文政9) | 三柱神社創設される |
1828年(文政11) | シーボルト台風・西日本を襲った・推定最大風速50m/s。 この台風の被害多し、大野島(大川市)惨状はなはだしい。領内の倒壊流失破損2000余戸、溺死者268名、馬63頭死す。 この頃、現在の瀬高橋の場所に橋を架けた。渡り賃を払ったので、「賃とり橋」または「ガタガタ橋」と言った。 |
1829年(文政12) | 藩主立花鑑賢が危篤のために12日から14日までの上庄の祇園会踊り興行が中止され提灯や神楽も中止された(谷川日記6月11日) |
1830年(文政13) |
4月11日鑑賢亡くなる。柳河藩主十代に立花鑑広(あきひろ)がなる。12月10日、天保に改元 |
1832年(天保3) | 久留米藩の亀王組が百姓一揆を起す この頃に清水の雉車が出来る |
1833年(天保4) | 柳河藩主十一代に立花鑑備(あきのぶ)がなる 薩摩の島津重豪は江戸で死去、遺骨を鹿児島に移送する、上庄来迎寺に止宿 |
1836年(天保7)![]() |
清水寺三重塔 建立される(大阪の四天王寺の5重の塔を手本にした) |
1837年(天保8) | 風雨雷鳴らして雹(ヒヨウ)が大いに降る、太さ7〜8分位、吹き寄せて約2尺積る。瀬高、中山、吉岡、大竹ではサトイモ、大豆、小豆、小麦、辛子が大被害(満福寺過去帳) 柳川藩は作物皆無の村々には辛子の上納を免ず |
1838年(天保9) | 久留米藩、捨子を禁止 |
1840年(天保11) | 下名鶴堰完成する |
1843年(天保14) | 大風雨、領内の堤防破壊多し、倒壊家325戸、流失家屋269戸溺死78人、不明2人 |
1844年(弘化元年) | 矢部川の花巡井堰が出来る |
1846年(弘化3) | 柳河藩主十二代に立花鑑寛(あきとも)がなる 上庄金毘羅神社が建立される 熊本藩家老、八代城主の松井章之が上庄の止宿 |
1847年(弘化4) | 地震により人家倒壊、多数におよぶ |
1848年(嘉永1) | 壇秋芳が吉井村の廃屋を改修して家塾(鶴鳴堂)を開設する |
1849年(嘉永2) | 西洋医術を柳川の戸上重種が創め、はじめて種痘を行う 柳河銀札の融通が途絶する |
1850年(嘉永3) | 倉永に龍山義塾を開く 吉田松陰が柳川に来た(当時、柳川ではあまり歓迎されていない) この頃、瀬高港では木蝋(もくろう)を長崎より輸出し、綿花、糸、などを輸入 僧法信が大神の善勝寺を中興する |
1851年(嘉永4) | 立花種恭が三池藩5千71石を与えられた。 |
1853年(嘉永6) | ペリー浦賀に、プチャーチン長崎に来航 |
1854年(安政1) | 地震起きる。 この頃、西田幹治郎が金栗に私塾、明倫堂(麗川義塾)を開設(龍山義塾の閉鎖の為) |
1855年(安政2) | 薩摩藩の藩主・島津斉彬(なりあきら)は建造した軍艦・昇平丸が江戸に向かった際、日の丸を掲げて入港させた。 |
1856年(安政3) | 柳川藩が藩政改革する 三池生山炭鉱を開く |
1857年(安政4) | 藩内の髪結、風呂屋の制限をする 銀会所より銀札発行、(明治5年に至り何銭、何厘と朱印し通用) 熊本藩主、細川右京太夫が瀬高に止宿 野町天満宮再建(山) |
1858年(安政5) | 山門郡で百姓一揆が起る 小田村の富豪家の沖平六は公共事業・慈善事業・藩用に巨額の私財を献金する 佐野風流奉納始まる(山川町) |
1859年(安政6) | 全国でコレラが流行・郷土でも多数の死者を出す(満福寺過去帳) |
1860年(万延1) | 薩摩の島津氏、桜田門の変を聞き、松崎より引き返し瀬高に止宿 三池藩は石炭行政を独占事業とし、日田代官や幕府へ納入・献上した。長崎奉行に販売する 三池藩の農民全体の30パーセントが専業の炭坑労働者として働く |
1861年(文久元年) | 7月29日柳河藩領の黒崎に英国の黒船出現。上陸して清水山の参拝と三池石炭山の検分を要求。応じたかは、不詳。 9月大和町皿垣開の力士雲龍が横綱になる |
1862年(文久2) | 清水山名所を唄った日本初の相撲甚句が唄われる![]() 日傘を停止、川筋夜中の往来を禁ずる 小川の親孝行で山口千太郎が藩から賞される 薩摩藩島津久光は千人を率い都に上るために800人が瀬高に止宿 |
1864年(元治元年) | 大塚の目鏡橋完成(現在道路拡張のため清水旧参道に移転) 第一次長州出兵で、柳川藩は筑前植木に出兵した。途中上庄の武(平嶋)兵衛方に宿泊 池田屋事件(京都) |
1865年(元治2→慶応元年) | 五稜郭完成(北海道函館) ええじゃないか起こる |
1866年(慶応2) | 第二次長州出兵で、柳川藩は豊前城野村に出兵した。 小田の七社宮を造営 |
1867年(慶応3) |
水田の勤皇の志士、渕上郁太郎(ふじがみいくたろう)、広瀬山中に潜居中に新撰組伊藤甲子太郎?に暗殺される。文広の広田彦麿一派犯行説(淵上家に伝わる説)というのもある 大政奉還 |
1868年明治維新 |
柳川藩と三池領は会津戦争に出兵した。 広田八幡宮の神官、広田彦麿、同志、北畠春房ほか二十余人と柳河を脱し京に出る 広田彦麿は勤王諸隊を以て組織された蒼龍隊長となり大総督府本営警固・市中警備に当たる 吉井の私塾、鶴鳴堂に一棟を建て菁莪堂(しょうがどう)と称する |
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明治2年(1869) | 十二代立花鑑寛(あきとも)は柳河藩知事になる 筑後諸藩主、藩籍奉還 久留米かすりの創始者井上伝没する |
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明治3年(1870) | 藩内9組の大庄屋を廃止9組に郡制係を置いた 広田彦麿、参議広沢兵助暗殺の嫌疑により投獄される 平民に氏を許す 藩内九組の大庄屋を廃する 散髪、脱刀令を布告する |
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明治4年(1871) | 旧柳河藩を柳川県に三池藩を三池県とする 久留米、柳川、三池の各県を三潴県とし 柳河城を三潴県庁にする 久留米、柳川、三池を三潴県とする 唐尾座の旗揚げ(唐尾座の結成) ![]() 12月東京‐長崎間の郵便物取り扱い開始、 上庄本町の森田新三郎宅に郵便取扱所設置 上庄金剛寺が廃寺となる |
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明治5年(1872) 柳川城災上 ![]() |
戸籍法を施行。太陽暦布告、12月3日を6年1月1日とする 柳川城が火災で焼け降りる。城内の瀬高の門は公売で下庄の引接寺(いんじょうじ)に移設 柳川で藩札引き換えについて騒乱 上庄お茶屋入札公売、建坪157.5坪、土地約750坪。建物の一部が三橋町新村の浄蓮寺に移築され庫裏として使用 境川、瀬高川をこれより矢部川と改称する 山門郡を数区に分け、戸長および里正を置く。 下庄.上庄.下久末.五十丁.中山を第七区とする 小学校学制発布。徴兵令発布。 太陽暦採用布告、12月3日を6年1月1日とする 人身売買、年季奉公を禁ず 新橋−横浜鉄道開通 |
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明治6年(1873) 小学校の設立 |
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明治7年(1874) | 佐賀の乱起きる 大風、海鳴起き家屋、田畑被害多し、郡内の死傷者148人、家屋流失78戸、全半壊2,213戸、死馬29頭 |
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明治8年(1875) | 地租税改正あり、地価百分の三を正税とする 旧藩札新貨と交換 下庄町に興平小学校・上小川村に修省小学校・金栗村に麗川小学校設立 浜田村に養生小学校・東津留村に和鳴小学校・長島、下小川村に檗栽小学校設立 長田小学校設立 下庄に救荒社を設立 叡興寺の東照宮焼失 |
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明治9年(1876) | 福岡県,小倉県、三潴県合併して福岡県となる 大政官布告により合併により郷土は明治3年に42の村が21の村に併合された 下庄町・大竹が下庄町村に、大塚・草場が大草村に、藤尾・堤・朝日が山門村に、長島・下小川・井手ノ上が太神に、金栗・上小川・堀池園が小川村に、広安・宮園・大木が大広園村に、松延・北広田が松田村に、禅院・山中が広瀬村に、芳司・吉岡が文広村に、真木・有富・大江が大江村に堀切・吉里・開が河内村・・・・になど21村に変更 下庄田代に巡査屯所創設 山田彦四郎、児玉七郎の両氏に委託し山門誌を制作 三井物産設立、三池炭の販売を行う |
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明治10年(1877) | 西南の役起き、西郷隆盛挙兵(瀬高町民の中には日当50銭で軍夫として官軍に従軍するものあり) 明治政府は、西南戦争の官軍用品として精米・わらじ・を筑後の村々に出させた。瀬高の酒造家も官軍に酒を献納する。瀬高に野戦病院設置。 柳川警察所瀬高分署に昇格 下庄の本浄堂を改築し、一寺となす。 小田小学校設立。 |
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明治11年(1878) | 下庄小学校が下庄八幡神社境内に学校建設される (運動会も遠足もすべて朝鮮松原で行われた) 上庄町に巡査屯所開設 柳川町に旧柳河藩士により第九十六国立銀行(のちに柳川銀行(私立)に改称)設立(福岡銀行の前身の一つ) |
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明治12年(1879) | 明治維新の戦死者の事を後世に伝える為に靖国神社を建てた 山門郡内にコレラ流行 |
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明治13年(1880) | 博多で自転車はやりだす 下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入(福岡県史) |
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明治15年(1882) | 松田小学校、松延城の南に移る 本吉清水寺住職の田北 隆研は寺領に10町歩に及ぶ茶畑を経営していた。茶業組合を結成 東京で初めて電灯が点く |
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明治16年(1883) | 鹿鳴館落成「鹿鳴館時代) 天気予報開始される 藤ノ尾車塚上の聖母宮を同所の空託寺跡に移す |
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明治17年(1884) | 洪水あり 上庄小学校新築、瀬高小学校と改称 |
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明治18年(1885) | 小川小学校創立(この頃の就学率は2割) 大神小学校創設 太神小学校設立、浜鶴、小川小学校の二校を分校とする 松田小学校の分校を本吉(諏訪神社前)に設置される 原田小学校を甲田に創設(山川村南部小学校の始まり)(山) 談議所の港から木ろうを長崎まで運び販売 柳川−瀬高−南関線の公道(現・国道443号)が開通し瀬高橋が架設された 洪水あり、上庄横道、三軒屋堤防決壊 山門郡沖端(柳川市)で北原白秋生まれる |
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明治19年(1886) | 本郷小学校設立 福岡医学校で帝王切開手術成功(わが国で最初) |
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明治20年(1887) | 下庄小学簡易科と併設された 山門小学校設立 各村に巡査駐在所を置く この頃下庄に税務署あり 東京音楽学校、東京芸術学校(現在の東京芸大)創立 |
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明治21年(1888) | 下庄小学簡易科を下庄中町に移す 郵便局を二百丁の森豊蔵氏宅に移(瀬) |
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明治22年(1889) | 4月1日に従来の町村を合併し、町村制を実施
本郷校は本郷尋常小学校と改称され中土居の地に改築移転 九州鉄道、博多‐久留米間の33Kが開通 7月28日23時30分に熊本市の西で直下型地震・熊本市内で20人が死亡、数百棟が全半壊した(金峰山地震) 余震も続き、大牟田や瀬高でも揺れる |
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明治23年(1890) | 第1回衆議院総選挙 | ||
明治24年(1891)![]() 九州鉄道 矢部川駅開業 |
九州鉄道矢部川駅開業。大牟田駅を経て高瀬まで開通 店舗を上庄から下庄に移転させる店が多くなる 駅前に「日新亭」「さかき屋」などの旅館できる 下瀬高尋常小学校と改称(下庄小学校) 大江尋常小学校設立(大江小学校) |
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明治25年(1892) |
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明治27年(1894) | 上庄江崎酒造横に8月瀬高銀行創設(頭取は富安保太郎)のち三池銀行に合併瀬高支店となる 消防組が各部落に設置 日清戦争始まる |
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明治28年(1895) | 清国と講和条約締結され台湾は日本の国となる。郡内25名戦死 上庄横道に西島、吉開、野口の3氏が魚問屋開業 |
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明治30年(1897) | 駅前旅館旭屋が人力車から高等馬車の営業開始 富原高等小学校を尾野大塚に創設(山) |
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明治32年(1899) | 下庄中町(現・吉開蒲鉾店工場)に江崎銀行設立(大正3年12月大不景気の為に倒産) | ||
明治33年(1900) | 浜田村に校舎改築され、川沿が浜田尋常小学校と改称 鉄道唱歌できる |
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明治34年(1901) 瀬高町の誕生 |
上瀬高町、下瀬高町が合併し瀬高町になる。 八幡製鉄第一溶鉱炉の火入れ式 |
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明治35年(1902) | 水上尋常小学校併置 山川みかん、原町磯部氏によって植栽・開園 「炭鉱節」流行し始める |
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明治36年(1903) | 早慶野球戦始まる | ||
明治37年(1904) | 自転車店を浅山平五郎が営む 日露戦争始まる 矢部川大和堰設置 鬼丸漬物食品本舗創立(文広) 下庄尋常小学校と改称(下庄小学校) |
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明治38年(1905) | 瀬高町上庄で児童文学者与田準一生まれる 9月日露講和結ばれ、樺太南半の領有と関東州を租借地とした。瀬高町東山村の戦死者113名 |
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明治39年(1906) | 柳川の国道橋(現柳川橋)架けられる | ||
明治40年(1907) | 下庄新町に郵便局開設(現・新町公民館東隣)(大正6年には郵便局跡に柳川銀行(福岡銀行の前身)が開設・平成元年まで建物現存す) 女山の神籠石の実測を行う 瀬高、河沿、小川、緑、本郷を合併し瀬高町と称する。6月、瀬高町長の選挙で太田豊蔵氏当選 水上、清水を合併し東山村と称する 萬里小路村、富原村、竹海村と緑村の一部が合併し山川村と称する 山門郡合併新設、瀬高町町長に太田豊蔵氏当選 九州鉄道、国有化 |
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明治41年(1908) | 渡瀬町の地福寺において社会主義講演会開催、瀬高の安部暢太郎氏参加「社会の真解決」を講演 木橋の瀬高橋が |
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明治42年(1909)![]() 柳川軌道が出来る |
柳川軌道が開通。柳川(三橋村高畑)−蒲船津−三橋−御二橋−上の庄−瀬高橋−下の庄−大竹−矢部川駅 この頃栄町から矢部川3丁目にかけ田畑に商店が出来始める 旧瀬高役場前3差路の西方を瀬高−佐賀線、東方を瀬高−南関線、南方が旧瀬高−大牟田線 清水尋常小学校併設 下庄尋常小学校わら屋根の仮校舎2教室が出来る(下庄小学校) 北原白秋「邪宗門」出版 |
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明治43年(1910) | 瀬高に初めて電灯がつく 小学校の就学率が98%になる 瀬高町大江において蒸気機械にて揚水し水利紛争起こる(大正2年撤去となる)(三池郡役所記録) |
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明治44年(1911) | 下庄八幡宮が新築される 瀬高町で電話使用開始、電話加入者は27名 |
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明治45年(1912) | 瀬高実業補習学校創立(昭23県立山門高等学校なる) 下庄尋常小学校8月現在地へ校舎を新築移転する 本郷の県道沿いの町に最初の電灯が点いた 7月30日明治天皇没、 |
大正元年(1912) | この頃上庄二百丁の東部医学研究所内に山門産婆養成所を創立 この頃本長寺(緑町)が移転する前の敷地で芝居小屋が繁盛する 立山・尾野・河原内・竹海地区の耕地整理が行われる(山) |
大正2年(1913) | 自転車を井上三太郎がアメリカから土産に作出に持ち帰る 公立瀬高技芸女学校(現山門高校)創立 金栗児童下庄小学校に就学 小田平田に善光寺を創建 |
大正3年(1914) | 第一次世界大戦始まる 山川町蒲池山出身の倉田トリが大牟田家政学校(不知火学園・誠修高校の前身)を創立 金子小三郎が前田の古川鍛冶屋から独立下庄新町で鍛冶屋を開業 大洪水 桜島大爆発し、瀬高も終日灰が降る 12月、江崎銀行倒産する |
大正4年(1915) | 小田善光寺に説教所を新設 瀬高町分村問題起る 八幡神社の瀬高高等小学校旧校舎売却 薗田徹夫(柳河軌道株式会社取締役・東肥鉄道株式会社取締役)山門郡山川村村長となる |
大正5年(1916) | 柳河軌道社長 元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去。 馬上金山(大分県速見郡山香町)の鉱主・元衆議院議員である瀬高町の堀池園の成清博愛逝去。 浦島橋が木橋からコンクリート橋になった。 |
大正6年(1917) | 下庄尋常高等小学校と改称。 柳川銀行が下庄新町喜久栄酒造前の新町郵便局跡に支店開設 |
大正7年(1918) | 談議所新道が建設される。この部分の三池街道が廃道し民家となる。 スペイン風邪大流行(福岡県の死者3,840人) 県下各地に米騒動起る |
大正8年(1919) | 豪雨洪水、落雷、瀬高町被害甚大 矢部川の改修工事、上庄「庄の池」を埋め立て、本長寺は下庄恵比須町に移転する 衛生浪花節講演、正覚寺 瀬高橋基礎工事 |
大正9年 | 瀬高町役場(下庄栄町)新築落成 柳川銀行(福岡銀行の前身)新町支店が瀬高橋ぎわにレンガ造りの洒落た建物を新築し瀬高橋支店として移転 瀬高町下庄で杉本兼吉や今村五衛が馬の蹄鉄(ていてつ)屋を開業 浜田尋常小学校併設 柳川―南関線が県道として共用される。 |
大正10年![]() 東肥鉄道が出来る |
東肥鉄道が開通。矢部川駅−本吉−野町−原町−北関−外目−南関まで開通*南関−吉地−板楠−平山−山鹿−来民−隈府〜(大津)の建設は着手したが途中頓挫する 駅前旭屋が県内23台目の自動車3台購入、運送業を営業 作出〜金栗の町道が貫通する 矢部川、筑後川大洪水(300年来の被害、瀬高橋.浦島橋流される) 第1回国勢調査、瀬高町の人口14219人、戸数2674戸 瀬高町役場11月14日下庄八幡神社東側敷地に正式移転 瀬高管弦団(瀬高オーケストラ)の試演奏 新船小屋温泉は肥前屋、佐賀屋、清水屋などの5,6軒の湯治用の旅館が超満員で繁盛 |
大正11年(1922) |
ラジオNHK放送開始 山門郡内に天然痘流行 下庄新町の阿部酒造ラジオを購入、近所の人聞きに大勢集まる 瀬高町役場上棟式 瀬高町弓術大会、上庄祇園宮道場にて |
大正12年![]() 瀬高劇場の開演 |
清水寺、変質者に放火され焼け落ちる 「瀬高劇場」開演。歌舞伎の名門沢村宗十郎、沢村長十郎を迎えて幕を開ける また花道と2階席があった。酒造家達の出資で株式会社とする。後に松竹系の映画館になる。 瀬高橋架橋落成祝賀 坂田煉瓦(レンガ)工場ができる(瀬高駅付近の西北) 山門実業女学校(現山門高校)、上庄の新校舎に移転 俳人松尾竹後が瀬高に帰郷して「瀬高倦鳥俳句会」を指導した 関東大震災おこり京浜地帯は焦土と化す |
大正13年 | メートル法使用開始 松田〜大江線 本吉〜小川線県道として共用される 産業道路(現209号)建設 下庄に共立無尽瀬高出張所設立 大洪水、上庄堤防決壊 西鉄、福岡−久留米開通 3月、日本農民組合九州同盟が結成。 東山村(瀬高).夜須町(朝倉)長者町(甘木)の農民1300名が日本農民組合三養基郡連合会結成 |
大正14年 | 高等科女子部を上庄に併設。男子は下庄 東京放送局、ラジオ放送を開始(瀬高でもラジオ架設増加) |
大正15年(1926) |
高柳で小作争議発生、翌年,、昭和2年秋に落着。 瀬高警察署に改称瀬高町、東山、山川村を管轄 この頃旭屋自動車は瀬高‐沖端‐両開路線バスを12人乗りバス2台で運行し営業 日本放送協会(NHK)設立 |
昭和2年(1927) | 最初の衆議院普通選挙投票 金融恐慌起こる 高柳小作争議解決する 瀬高町伝染病院、金栗(現在の役場の所)に建設 |
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昭和3年(1928) | 北原白秋20年ぶりに帰郷し、上庄の菊美人酒造に嫁いだ姉と再会する 柳川軌道バスが軌道に沿ってホロ型乗合自動車を走らせる 洪水あり、上庄堤防160間以上決壊 瀬高信用組合創立 上庄八坂神社新築落成、同境内の新宮社を廃止 ラジオ体操全国放送開始される |
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昭和4年(1929) | 佐世保海軍より飛行機のプロペラが児童ならび地方民に海軍思想普及用に上庄尋常高等小学校に無償提供 矢部川、上庄側堤防決壊 パーマネント始る |
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昭和5年(1930) | 清水寺本堂が宮崎産の楠の木で再建される。 瀬高警察署、新庁舎竣工 下庄尋常高等小学校の講堂が竣工する(阿部弥徳氏寄付) 瀬高公民学校併設 本郷で始めてラジオ受信機が入る |
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昭和6年(1931) | 瀬高橋架け替え落成、鉄端2連コンクリート橋脚 瀬高魚市、設立 佐賀線矢部川−筑後柳河間が開通 岩田、江浦、二川の3村を合併して高田村と称す(高田町誌) |
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昭和7年(1932) | 柳川軌道が廃止される 大和自動車を創設、矢部川駅‐沖端間をバス6台で営業開始 西鉄急行電車、久留米−津福開通 津留橋が完成する。 満州事変起きる 5.15事件起きる。犬養首相凶弾に倒れる |
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昭和8年(1933) | 国鉄佐賀線一部開通 大雨による被害多く、天然痘流行 福岡動物園開園 |
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昭和9年(1934) | 国際連盟を脱退 全国的な大凶作起きる パーマネント家庭婦人に普及 |
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昭和10年(1935)![]() 佐賀線が開通 |
佐賀線全開通.瀬高−三橋−百町(ひゃくちょう)−筑後柳河−東大川−筑後大川−筑後若津 −筑後川−諸富(もろとみ)−光法(みつのり)−南佐賀−東佐賀−佐賀 井手の上駅(南瀬高駅にs17年改称)開設 省営バス(国鉄)山鹿線開通。 旭屋、山門自動車の2つのバス会社が合併し柳城自動車合名会社が誕生 上庄郵便局が下庄恵比須町に移転し瀬高郵便局が新築された この年の日本人の平均寿命(男44,8才 女46,5才) |
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昭和11年(1936) | 山川村役場庁舎、尾野大塚に新築 二二六事件起きる 木炭自動車の製造開始 救急電話を「119」と決める |
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昭和12年(1937)![]() 西鉄急行電車開通 |
坂田煉瓦工場が初瀬町(瀬高駅西北)創業する 西鉄急行電車、津福−柳川開通 日中戦争起こる 全国各地で千人針、慰問袋が盛んになる 防空電球発売される 大牟田に爆発セキリ発生 |
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昭和13年(1938) | 国家総動員法制定 太田水路と太田道路が出来る 西鉄急行電車栄町(大牟田)まで延長される |
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昭和14年(1939) | 第二次世界大戦始まる ネオン、学生の長髪、パーマネント禁止 物価統制の実施 消防組が消防団と改称 西鉄急行電車栄町−大牟田開通 |
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昭和15年(1940) | 東肥鉄道が廃止される 産業道路(国道209号)できる。(旧道の大牟田ー瀬高線を改築して共用開始する) 以北の瀬高〜黒木線も改築 国民服、モンペ普及する、金属回収実施される 全国一斉に防空訓練始る |
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昭和16年(1941) | 太平洋戦争始まる。外国語の禁止 瀬高タクシー運行 主食配給制となる、成人一日あたり2合3勺(345g)しか買えない 4月に全小学校が国民学校となる。(下庄尋常高等小学校は瀬高第三国民学校と改称・昭和22年には下庄小学校と改称) |
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昭和17年(1942) | 衣料切符制施行 瀬高町駅と改称、さらに37年瀬高駅と改称 奉安殿(天皇の写真を祀る)を建設(下庄小学校正門脇) 味噌、醤油も配給制となる 衣料切符制施行 金属回収令により、寺院や神社などのの金物品供出 関門鉄道トンネル竣工(世界初の海底トンネル) 西日本鉄道KK成立 飯江、開の2ヶ村が高田町と合併す(高田町誌) |
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昭和18年(1943) | 下庄の「丸久デパート」に山門保健所開設 学徒動員令、発せられる 2月、ガタルカナル島撤退開始(戦死者、餓死者2万5000人) |
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昭和19年(1944) | 堀川バス「黒木の堀川久助創業)が柳城バスと矢部川バスを吸収 (瀬高ー沖端、 瀬高ー福島、 瀬高ー清水、 船小屋ー清水ー野町、瀬高ー本吉ー山川ー渡瀬 の路線あり) 矢部川(下庄中町〜上庄横道)に太田堰完成し、新設した太田水路(下庄)に水を流入し田の水資源確保 本郷の朝鮮松原で戦争遂行の為に松の幹に溝を掘り松脂を採取し松根油燃料とする 吉岡から本郷の幸作橋計画所まで直線の5mの軍用道路(松原への高射砲陣地構築に伴う)が完成 100km以上の旅行は警察の証明が必要となる スイカ.メロンなどの不急作物の作付けを禁止 砂糖の家庭配給を停止 硫黄マッチ出現 |
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昭和20年(1945) | 3月、米艦載機、九州各地を攻撃 7月大牟田、8月久留米空襲され焼け野原化(瀬高からも空が赤く確認) 原子爆弾投下(広島、長崎) 第2次大戦敗戦 連合軍の支配下により修身、歴史、地理の授業を停止、墨塗の教科書が出現 3月、福岡銀行誕生 |
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昭和21年(1946) | 瀬高保育園が下庄八幡神社境内青年会館を使用して開園・開設者は原田孝太郎(書家の観峰) 大雨洪水、長田堤防決壊下庄小学校も校舎浸水する 壇一雄は平田の善光寺に間借りして小説「りつ子その愛」を書く 山門映画館が5月に開館する(館主、野田義勝) 瀬高町文化会結成 主食配給2合5勺に パーマネント復活 NHK「のど自慢」放送開始 新憲法発布 第一次農地改革始まる 第二次農地改革諸法公布 |
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昭和22年(1947)![]() 瀬高.東山中学校 創立の年 |
100万円宝くじ発売 酒類自由販売に 第一回統一地方選挙施行、町長壇幹一氏当選 消防団が廃止され瀬高町消防団設置 瀬高中学校創立大竹の武田平助氏(蝋を製造と銭湯「美泉館」経営 )が100万円寄付、校舎は杉材予定 が、桧材で建築 東山中学校創立(水上、清水農協に分かれ授業) 山川中学校創立 瀬高町公民館開設 鷹食品工業創立(小川) |
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昭和23年(1948) | 上庄に山門青果市場が創業 物資がなく値上がりする 教育基本法施行。六,三制 |
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昭和24年(1949) | 「人は右、車は左」の対面交通実施 お年玉年賀ハガキ発売 昭和天皇 九州巡行の際、船小屋の樋口軒に1泊。同夜は数万匹の蛍が飛び交った。 米価 10K 515円 |
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昭和25年(1950) | 瀬高保育園新築移転(現在地) 朝鮮戦争始まる 年令を満で数える法律施行 味噌、醤油の自由販売 日本人の平均寿命(男58才 女61,4才) |
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昭和26年(1951) | 山門魚市場(代表西原茂)新設 三池炭鉱の人工島「初島」出来る 9月、下庄八幡神社祭礼、境内でサーカス興行が行われ数年恒例 |
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昭和27年(1952) | 砂糖統制解除 養老施設、楠寿園開設 瀬高劇場で美空ひばりの公演があり大勢集まる, 上庄の円鏡寺に保育園創設 上庄に山門保健所新築落成 上庄に酒造会館落成 下庄小学校と改称される。 |
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昭和28年(1953) | 恵比須町に2市場合併して瀬高魚市場できる 昭和15年以来旧道を改築され国道209号大牟田−久留米線となる 6月25日九州一円大洪水、行方不明1200人 矢部川長田と上庄堤防決壊、浦島橋、本郷幸作橋、唐尾両筑橋が流出 NHKテレビ放送開始 落下傘スタイルのスカート、真知子巻き流行 家庭に蛍光灯普及し始める 下庄小学校完全給食となり、ユニセフからの脱脂ミルクが出る。 |
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昭和29年(1954) 瀬高町営プール落成 |
50銭以下の小銭廃止 東映映画館が開館した(館主、牟田口定夫) 瀬高町営プール竣工。(当時、矢部川の水を引き入む)(現在、飛び込み台・みやま図書館庭に保存) 大神小学校と浜田小学校が合併して「瀬高町立南小学校が創立する この頃の下庄小学校では春は清水山、秋は船小屋の遠足を行う 太田町長リコール起るも不成立に終わる、町長辞職、町議会解散する 瀬高酒造協同組合が新発足 |
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昭和30年(1955) | 光(のちのニコニコ)タクシー運行 瀬高中学校野球場で地方巡業「瀬高場 所」興行,、千代の山、鏡里、栃錦の三横綱来る 大江幼稚園開園 有料道路大川橋開通 阿蘇山大爆発 下庄小学校校歌できる |
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昭和31年(1956) 東山村と瀬高町合併 ![]() |
瀬高電報電話局が郵便局から分離、現在地に瀬高初の鉄筋コンクリート建て新築 (電話のダイヤル自動化始まる) 旧東山村と瀬高町合併する 小学校の通信簿5段階の評価法を用いる(54321) 国民健康保険法公布 石橋文化センター設立 |
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昭和32年(1957) | 県立柳川病院を設置(柳川市) 南極に昭和基地建設開始 NHK総合TV放映開始 恵比須町の魚市場敷地で相撲テレビ観戦に群衆(猪口ラジオ店) 11月、本郷の幸作橋がコンクリート橋になり完成 |
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昭和33年(1958) | 関門海底国道トンネル開通 フラフープ大流行 1万円札発行 富安材木の敷地に東映系の映画館「せたか東映」ができる。 下庄小学校児童図書館を新築 清水山に青年の家が出来る 金栗鉾田遺跡発掘調査行われる 高田村が高田町となる(高田町誌) |
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昭和34年(1959) | 瀬高駅前から西に栄町まで拡張し町道できる 山川村の竹海・梅津地区、分村して高田町と合併 12月、大牟田、三池争議始まる ベビーブーム中学へ(252万人) |
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昭和35年(1960) ダッコちゃんブーム |
児童用「仲よしプール」竣工 大江小学校児童図書館落成 南小学校図書館建設 瀬高町産業文化祭始まる カラー本放送開始 「ダッコちゃん」人形、大ブーム 瀬高でもテレビ(白黒)ブーム始まる |
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昭和36年(1961) | 瀬高郵便局移転新築 瀬高中学前に「忠霊塔」ができる(書体は小泉信三書) |
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昭和37年(1962) | 若戸大橋完成 南小学校のプール完成 |
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昭和38年(1963) | 11月9日大牟田、三池三川鉱で 小学校1年生の教科書無料給付 「鉄腕アトム」放送開始 下庄小学校第1棟を解体し鉄筋2階建を改築 |
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昭和39年(1964) | 瀬高自動車専門学校創立 三池炭鉱、炭じん爆発、死者458人 東京オリンピック開催 NHKカラー放送開始(夜の1部番組) 東海道新幹線開業 東京−瀬高間は急行で24時間所要する(正月、お盆は帰省はすし詰め状態) 日本とアメリカの衛星中継行う。ケネディ大統領暗殺 |
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昭和40年(1965) 瀬高町営水道出来る |
町営水道完成 山門映画館が閉館した 本郷小学校が現在地に移転新校舎落成 大牟田三池工業高校、夏の甲子園野球大会で優勝 ビートルズ来日 |
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昭和41年(1966) | 清水3重の塔解体復元 矢部川堤防改修工事、上庄横道移転、住吉宮は八坂神社に移転新築 東映映画館、火災により焼失閉鎖 100円札廃止を閣議で決まる |
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昭和42年(1967) | 鹿児島本線の電化完成する 〃 大竹踏切り自動化される ボーリングブーム始まる |
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昭和43年(1968) | エイコー(共同店舗)が矢部川3丁目に開店 東町簡易郵便局できる 本郷に農集電話が開通する 三億円強奪事件発生 郵便番号制スタート 1,000万円宝くじ発売 電気洗濯機普及 |
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昭和44年(1969) | 瀬高町役場新庁舎完工 国勢調査、瀬高町人口男12,931人.女14,711人 矢部川1級河川として指定 春、女山神籠石付近土取りによる破壊始まる 山川村が町制施行し山川町となる |
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昭和45年(1970) | 大阪万国博覧会開催 山陽新幹線工事門司で始まる 3C時代到来カラーテレビ、カー(車)、クーラー(瀬高でも普及しだす) |
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昭和46年(1971) 大道端遺跡を発掘 |
大道端遺跡を発掘、調査 瀬高橋の架け替え竣工 山門保健所新築工事落成 組合消防本部、三山消防署設置 沖縄返還 |
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昭和47年(1972) | 福岡空港、米軍より返還 高松塚古墳壁画発見 日中国交、正常化 中国から上野公園にパンダ来る 富寿園(老人施設)、開園 |
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昭和48年(1973) | 関門大橋開通(高速道路用) 九州歴史資料舘完成 オイルショック。トイレットペーパー、砂糖などの買占め騒動 九州縦貫高速道路(鳥栖―南関間)完成 |
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昭和49年(1974) | 高校進学率90%を超える 瀬高町を守る会結成、成果を挙げる |
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昭和50年(1975) | 3月新関門トンネル開通(新幹線専用) 山陽新幹線開通(東京−博多間8時間) 瀬高町の1月の人口27,657名;男13,064名、女14,593名、6,336世帯 |
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昭和51年(1976) | ロッキード事件起きる 瀬高町観光協会発足 大江幸若舞が国の重要無形民俗文化財に指定 |
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昭和52年(1977) | 新瀬高町中央公民館現在地に新築移転 この頃ゲートボールが始る |
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昭和53年(1978) |
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昭和54年(1979) |
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昭和55年(1980) | 下庄小学校体育館竣工 下庄小学校百周年記念式典 第1回瀬高夏まつり(卑弥呼まつり)始まる |
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昭和56年(1981) | スペースシャトル初飛行 瀬高町総合美術展始まる 10月、瀬高町農協カントリーエレベーター完成 |
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昭和57年(1982) | 柳川〜南関線 国道443として共用される 瀬高警察署が仲絶地区に新築移転 南小学校校舎全面改築(鉄筋)竣工 清水山に与田準一氏の児童文学碑が完成、本人を迎え、除幕式を行う |
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昭和58年(1983) | NHK連続ドラマ「おしん」放映 新500円硬貨を発行 旧中央公民館焼失 |
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昭和59年(1984) | ロスアンゼルスオリンピック開催 8月、瀬高町葬祭場完成 |
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昭和60年(1985) | B&G財団瀬高海洋センター竣工 5月、ふれあいセンター落成 9月、清水運動公園竣工(三船山遺跡の地) ファミコンブーム 南小学校創立30周年記念式典 |
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昭和61年(1986) | 農林漁業体験実習館清水荘完成 清水三重塔に大木町の加島香清師の寄進により釈迦如来像が安置された |
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昭和62年(1987) | 3月、利用者減少のため佐賀線が廃止になる 産交バス(瀬高〜南関線)廃止 本郷の行基橋がコンクリート橋に架け替え 5月、NHK素人のど自慢 |
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昭和63年(1988) | 世界最長の青函トンネル開通 南筑後農協協同組合が発足 新瀬高堰完成 大塚の眼鏡橋が解体 |
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平成時代 ![]() |
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平成元年(1989) | 佐賀、吉野ヶ里遺跡発掘 | ||
平成2年(1990) | 国際花と緑の博覧会、開催(大阪鶴見緑地) 旧瀬高堰撤去 |
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平成3年(1991) | 雲仙普賢岳噴火 台風17号、19号襲う、被害甚大 瀬高町農協会館竣工式 |
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平成4年(1992) | 国家公務員の週休2日制が実施される 清水山牡丹園オープン |
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平成5年(1993) | Jリーグ開幕 清水山ボタン園開園 清水公民館が完成 |
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平成6年(1994) | 大江幸若舞の縁で福井県朝日町と姉妹町締結 | ||
平成7年(1995) | 阪神、淡路大地震が発生 地下鉄サリン事件 瀬高中学校プール完成 南小学校プール建設 町営プール取り壊し。跡地に瀬高図書館(歴史資料館)建設始める |
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平成9年(1997) | 上庄公民館設立 | ||
平成10年(1998) | 瀬高町立図書館.歴史資料館完成 | ||
平成11年(1999) | 上庄小学校新築落成 | ||
平成12年(2000) | シドニーオリンピック開催 介護保険制度スタート 2,000円札と500円硬貨が発行 |
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平成15年(2003) | 南小学校、創立50周年記念式典 | ||
平成16年(2004) | アテネオリンピック開催 下庄小学校新築校舎になる |
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平成17年(2005) | 3月20日地震起きる。玄界島、福岡市に被害 愛知万博(愛、地球博)開催 瀬高駅前交番落成(雉車のイメージ) 清水寺開創1200年の記念式典を行う 郷土の児童文学者・与田準一郎生誕百周年 |
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平成18年(2006) | 瀬高駅から熊本県山鹿市までを走るJR九州バス山鹿線が2月末で廃止、3月から同路線で産交バスの運行が始まる。 鬼丸漬物(株・オニマル)倒産 下庄小学校創立130周年記念式典 |
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平成19年(2007) | 山川町・瀬高町・高田町が合併し1月29日にみやま市となる。山門郡・三池郡消滅する。 与田準一顕彰会設立(会長・宮本明生) 下庄小学校の校庭に与田準一の歌碑を建立 |
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平成20年(2008) | 北京オリンピック | ||
平成21年(2009) | 有明沿岸道路・矢部川大橋3月14日開通(江浦‐中島)〜沿線4市つながる 高速道路・みやま柳川インターチェンジ3月29日開通 与田準一記念館が開館 |
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平成22年(2010) |
1 鷹尾文書、瀬高町誌、柳川藩誌、福岡県の歴史、瀬高郷土史会の河野覚氏の研究資料、清水、下庄小学校百周年記念誌、瀬高図書館、柳川図書館の資料提供で作製致しました。
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