郷土史家故村山健治氏作成地図 |
紀元前210年、徐福が始皇帝から命を受けて、大船団で3000人の童男童女(多数の未婚の男女)、百工(多数の技術者)を引き連れ、稲など五穀の種を持って不老不死の薬草を探しに有明海に面した佐賀や南筑後地方に上陸し、多くの人が住み始めたとの「徐福伝説」があるほど船は古代から輸送の手段として、不便で費用がかかる陸路より近世まで利用されてきた。
古代の頃の矢部川の流れは洪水のたびごとに変り、網の目のごとく小さく分かれ、川底浅く、水行は極めて厳しかったであろう。久留米への舟旅は樋口の宮〜上小川(旧・酔千両酒造横)〜有富吉井〜大江〜下小川(えん魔堂横)〜長島〜堀切(飯江川と矢部川合流点)〜渡瀬〜黒崎〜有明海にでて、筑後川をさかのぼっていたと思われる。長田〜壇の池〜坂田を通って樋口の宮に至る水系である「宝川」もあり、江戸期にも盛んに利用されている。有明海の干満の差が大きく引潮で浅瀬に乗りあげたり、潟地で上陸地点が少なく、難儀のすえ所要日数7日間は経過したと思われる。女山〜大草〜梅ヶ谷〜清水〜岩津〜堀切〜黒崎〜有明海の山裾の水路もあったとみられる。地名に草場の本津・高田町の海津・岩津・太神の宇津・堀切の船津など港を意味する津の付いた地名は舟場であった名残である。長島・古島・八歳島などは周りが海であったことを意味する。
本吉の清水寺の寺伝に「平安時代初め、大同元年(806)、最澄が唐からの帰朝の折り有明海の東方山中に美しく輝く光を発見され、その光を求めて、一羽の雉を道案内にこの山に分け入ったところ、苔むした合歓の霊木に出会われた。大師は、大地から生えたまま、この木に千手観音像を刻まれました。そしてお堂を建立し、その観音様を祀られた。」と伝承あるが、実際に本吉には来ていないが遣唐使船が、中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集のために命がけの航海をしていました。奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は20回出港したが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの7回だと言われている。
平安時代(1100年頃)の「瀬高庄」が徳大寺大納言家の荘園であった頃、瀬高川(矢部川)の上庄側には行政を行う庄館があり、ここ住吉の浜から、領内の産物や年貢米を京都へ運ぶ船着場であった。船の航海の安全を祈願する住吉宮が祀られており、当時は海が近く海岸には白砂が遠くまで続き、波打つ潮も清く青松も茂り、景勝の地であったという。
平安末期になると山門郡鷹尾郷の開発が進み、下庄の倉敷地として年貢やその他の物資の集散基地となる。瀬高下庄の総鎮守社として鷹尾宮が造営され、筑後一宮高良大社の権限をもった特別行政体鷹尾別符が中心となり、矢部川を上下する商船に対して課税していた。
鎌倉時代の文永11年(1274)南筑後には貨幣経済がしだいに浸透し、三市場ができており山裏市場(飯江川と矢部川の合流地点)と山下市場(西鉄山下市場辺り・隈川沿い)と芳司市場(文広)があった。
有明海は潮の干満が激しく干潟で沿岸は寄港地に適さず、矢部川の瀬高庄の河港に倉庫・問丸(問屋)・舵取り・商人などが存在し周辺物資の集散地として発展していた。
戦国時代には鷹尾宮の権限が弱まり筑後を統治していた豊後の大友氏に移行して行く。天文16年(1547)11月に鷹尾の海(有明海)に面し水軍基地もある、鷹尾城主の田尻親種が大友義鑑との謁見のため豊後府内を訪れた。その際の記録である「参府日記」には親種一行が道中や府内において、義鑑および家中関係者に対して東南アジア、南アジアから日本に輸入された大量の「木綿」「嶋織」「嶋木綿」を贈っていることがみえる。「嶋織」とは染め糸による鮮やかなストライプが織り込まれており、上質で珍重された。
また、鷹尾を外港とする上流の瀬高は『籌海図編』など中国・明の史料にも見えており、日明貿易によって大量の高級舶来品の調達が可能な発展した港となっていたことをうかがうことができる。
桃山時代(1592)〜江戸時代初期(1604頃〜1635)には長崎からは「異国渡海朱印状」という渡航証明書を持つ朱印船が安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア諸国との貿易を行い、生糸や絹織物、鮫皮、蘇木、砂糖などが主に輸入され、銀や硫黄、樟脳、漆器などが主に輸出されていた。
江戸時代の寛永15年(1638)の頃からの蛇行した矢部川の直線化改修工事(堀替)や堤防構築により現在の姿に変化した。荷積卸しの河港は、矢部川中流の曲松(立花町)、下流の瀬高浜・下庄浜(瀬高町)、津留浜・鷹尾浜・島堀切浜・中島浜・島堀切浜・渡里浜(高田町)などであった。
川は、それぞれの地域の人々に固有な川の名で呼ばれ親しまれている。上、中流は「御境川」と呼ばれ、久留米・柳川藩の間で、用水引きや洪水防止を巡って、たびたび争いが繰り替えされました。通船については、両藩の協定で、毎年旧暦の3月から9月までの期間、鮎の成育を図るために、舟の通行や材木流しを禁じていました。下流は「瀬高川」・「津留川」・「中島川」と呼ばれ、正式に「矢部川」と呼ぶようになったのは、明治5年以降のことです。
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古代船

遣唐使船

軍船

長崎の末次平蔵所有の朱印船

廻船

千石船模型
(大浜外嶋住吉神社所蔵)
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有明海沿岸は水運が発達し、明治の鉄道開通前までは物資の輸送は海路が主であり、江戸期の柳川藩における海運の便は今古賀より両開村に達する塩塚川や三橋町百丁より沖ノ端に達する沖端川があり、最も盛んに活躍した矢部川の舟運は、人びとや物資を運び、地域と地域を結ぶ重要な役割を果たしました。有明海の河口にあった中島の番所からの潮待ち・風待ちで瀬高の浜まで出入りしていた帆掛船の寄港地を古文書の記録により追ってみます。
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帆掛船 |
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中島番所 高田町徳島 |
柳川藩内の津口番所は、沖端・新田・宮永新田・黒崎・手鎌・横州と有明海の河口に近い、矢部川の徳永の7ヶ所にありました。
鎖国時代の寛文7年(1667)柳川藩の長崎蔵屋敷にいた、江口伊右衛門を、召使いの平左衛門が、長崎奉行に朝鮮国の商人に武具を売った密輸の件で訴えられ捕らえられ、それからいもづる式にひろがり博多商人伊藤小左衛門と長男甚十郎、次男市三郎も捕らえられて密貿易の罪で死刑になっています。
中島川(現・矢部川)の左岸の徳島地区(高田町)は江戸期には中島村(大和町)の領域でした。ここに中島御番所(江浦村番所)が設置されていました。ここでは海上の関所手形である「川口通行切手」の改めを行って物資の移出入の監視をし、海上通行税である津口運上を徴収したり、乗船者の取り締まりをしていました。番所は幕に提灯が掛けられ飾槍・鉄砲・火薬・火縄が用意されていた。
正保2年(1645)の「鷹尾の覚書」には、瀬高両庄へ出入りの船から、帆10反につき1貫文宛ての帆別(通行税)を取っていたとある。
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正保元年の絵図 |

川口通行切手の復元 |

中島御番所の絵図 |
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中島の浜 大和町中島・島・高田町徳島 |
元禄5年(1692)の記録には右曲左折の矢部川を、大潮(旧暦15日満潮時)には三百石船(45トン積み)、小潮(普通の日の満潮時)には百石船(15トン積み)が瀬高の浜まで出入りして大阪その他に廻送されていました。当時、黒崎から瀬高上庄にいくには七潮を要したと言い、3日半の工程でした。矢部川の七曲りと言われたほど屈折が多かったことが伺える。
有明海から、くちぞこ・いわし・太刀魚・さば・かがみ魚・かに・貝柱・わけ・平目・赤貝・えび・かきなどの魚や貝が漁船から陸揚げされていました。中島の朝市は、江戸時代から始まったと言われている。浜には平戸・五島・薩摩・天草・長崎などの船が特産物を積んで絶えず取引していたと言う。中島村は矢部川の港町として、東西に横断する三池街道の市場町として繁栄してきました。
明和7年(1770)には柳川藩の年貢米を納める「在の三倉」の一つ「島堀切蔵」(中島蔵とも言う)が渡里(高田町)に新設されました。米倉には蔵役2人と蔵目付1人がいました。蔵の年貢米は船で大坂の藩の倉に運ばれ販売されていた。
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 島堀切蔵の絵図 |
島堀切 大和町島 |
【堀替え】
寛永15年(1638)に鷹尾村の堀替えと同時期に下流の堀切村(現・瀬高町河内堀切)の矢部川と飯江川の掘替え(直線化改修工事)が行われ、分断された「島の堀切」が2ヶ所できた。鷹尾と中島に挟まれた島堀切(現・大和町島)と江浦町側にできた島堀切(現・江浦町堀切)である。江浦町側の島堀切は区別するために裏堀切村(現・高田町江浦町堀切)とも呼ばれた。飯江川の河港は、山の鼻浜(高田町)があった。
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【遭難事故】
文政6年(1823)2月16日に島堀切の弁天丸(廻船で11人乗り、320石))は山門地方の白米を積んで瀬戸内海を航行して大阪港で商取引を終え、4月17日には大阪を出港している。5月20日に北陸の酒田湊に着き庄内藩預かりの北国米を積んで大阪港へ就航中に佐渡沖で暴風に逢い、朝鮮国景州甘浦(慶州カムポ)に漂着した。朝鮮の人は食料・衣服・夜具などを与え病気なった船員を手厚く介護してくれた。そして日本の公館や商館などがある釜山の倭館(日本館)に護送された。その後に対馬の役人達に連れられ対馬に着き、長崎奉行に移送された。翌年の3月18日に柳川藩の役人は、船頭庄兵衛ら11人の漂流人を受取り、奉行所に目録金300疋と粕漬け海茸1桶を贈っている。当時の本州を廻送する廻船の航海は危険を伴うもので、出港前に海神さんにお参りし、船内では小仏を携帯して、毎日安全航行を祈願しながらの命を賭けた仕事であった。 |
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寛永15年(1638)の堀替え改修工事以前の溯上する帆掛舟の航路 |
幕末の島堀切には安兵衛船・伊之助船・菊松船・治兵衛船・午太郎船・勇吉船があり、渡里には正兵衛船が、泰仙寺には喜平治船があった。これらの船主は、長崎への航路で、往きは酒・紙・茶・櫨蝋などを載せ、帰りには海産物の鰊・鮭・鯨・数の子や薩摩の黒砂糖や唐棉などを積んで往復運賃を稼いでいた。一度の航海で10両以上の収入があったと思われる。
この先矢部川と飯江川の合流点の州上(八歳島)には海神様の八歳神社が鎮座していた。両川を上下する舟は航海安全祈願して航行した。八歳神社は楢尾家の古文書によると、創建は白雉5年(654)とある。今より1356年前である。
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鷹尾の浜 大和町鷹ノ尾 |
平安末期にかけて鷹尾郷の開発が進み、瀬高下庄の倉敷地として年貢やその他の物資の集散基地となっていた。瀬高下庄の鎮守・鷹尾宮が造営され建久2年(1191)には鷹尾別符という役所が置かれ、この地方を治めるとともに、矢部川を上下する商船に対して課税していた。有明海も鷹尾海と称して沖合いの方まで神領とされていた。
戦国時代では、豊後の戦国大名の大友氏の幕下であった田尻親種が大友氏の忠誠により鷹尾に所領を与えられ、水軍基地も担った鷹尾城を築城した。矢部川の流通支配権が鷹尾宮から移行し、貿易が盛んに行われていたと想像される。
寛永15年(1638)に矢部川の掘替え(直線化改修工事)で、浜田村まで遠回りしていたのが短時間で通過できるようになった。しかし鷹尾村@は、鷹尾と泰仙寺Aの二村に分かれた。泰仙寺の人々の菩提寺は鷹尾村にあり、水田の水利も強い制約を受けるなど当時はよそ者扱いで大和町の鷹尾集落と深いつながりがありました。
江戸時代での鷹尾村は造船業が盛んでした。矢部川や有明海を航行する帆掛舟(船)は地元で造られ江戸時代の船大工は無税でした。文政12年(1829)の「御礼帳」には「・・御船大工頭三人・・」とあり柳川藩内で3人の船大工頭が居たことが解る。鷹尾には柳川藩お抱えの砥上家が高度な造船技術を持ち造船業を取し切っていた。明治以降も船造りが盛んに行われ、養子先の古賀家や江崎家や松本家に技術が引継がれ昭和33年(1958)の矢部川の堤防改修工事を契機に廃業するまで建造されていた。
船主・船頭・水夫も地元の鷹尾・島掘切・渡里の人が多かった。船主も鷹尾村と島村でも幕末で25軒余をかぞえる。
幕末には、瀬戸内海などからの原棉が移入され四十丁を中心として富裕農民の綿紡ぎ業を営む者が増えました。
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津留の浜 大和町西津留 |
津留村でも鷹尾村と同様な堀替え改修工事が正保2年(1645)に行われて、新しい川の東と西に分離し、西津留と東津留の二村に分かれました。
これらの矢部川改修工事の普請方役人は田尻惣馬の祖父である田尻総次でした。大和町島地区に旧居跡(市文化財)があります。
この新川に対して旧河道を古川と称している。藩は約30町歩(約30ha)を田畑にした。こうしてできた「古川開」(現・古川行政区)には、名残りとして河の内・川底・などの小字が残っている。また近辺の矢部川を津留川と呼んでいました。
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↑寛永15年(1638)の堀替え改修工事以前の溯上する帆掛舟の航路
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江戸初期の記録によると、矢部川の掘替え(直線化改修工事)以前の帆掛船は「泰仙寺村を過ぎ、左折しして古川Bに至り、右折して左岸の二丁開村Cでさらに右折しながら、下棚村D、中棚村E(大和町)の南を通り津留村Fの北岸に至る。」とある。
熊本県玉名郡江田村(現・玉名郡和水町)の帆掛船の記録によれば「津留川(矢部川)の舟便は、米、栗、大豆、小豆の40俵積みにて、帆掛舟は風待ちや満潮待ちにて津留の江川に泊まる。」とある。
津留村には舟泊まりの舟場があり「江川」と言い、帆航船は風待ち、干潮の場合はここで潮待ちにて泊まっていた。 |

矢部川(横手の土手からから下流の柳瀬大橋を望む・左岸は北高柳) |
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高柳村 瀬高町高柳 |
北高柳には柳の形をした一本杉の大木があり、有明海から溯上してくる船は灯台代わりに瀬高浜へと航路を取っていた。江戸初期の記録には「帆掛舟は津留村より左折して江崎村G(大和町)を通過する。(天保年間(1830‐43)の太宰管内志には江崎村まで200〜300石の船が出入りした事が書かれている。また右折して柳瀬野(東津留)の藩主立花宗茂の家臣、石橋重四六の屋敷(ヤナ城)を右岸に見て、また左折して船はI横手の天神、J五十丁村の八才様を拝み、右折し上庄東右岸談議所バ市に着く。」とあり矢部川の旧河道を航行している。
矢部川は五拾町、横手、棚町の県道東を流れ、左岸の高柳側をH西郷と言った。江戸初期の矢部川の堀替えのために三橋町の領分となっている。
高柳村は弥生時代より「鷹尾文書」にも記された、平安時代、鎌倉時代と千数百年の歴史をもっている。これも矢部川の要所を占めていたからであろう。村の日吉神社は、立花宗茂公が朝鮮の役の出発の時武運長久を祈願され無事帰還されしより心深く毎年お参りされた。後に日吉神社の分霊を柳河城下に神社を建て祀られたとの伝承話がある。 |
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瀬高の浜(御倉の浜) 瀬高町上庄西新町 |
柳川藩の家臣への俸禄米用などの年貢米を収納する三ノ丸蔵が柳川城の東三ノ丸にあり7人の蔵役が置かれていた。在方には一番大切な大坂廻米用の年貢米を納める瀬高蔵(瀬高町上庄)・島堀切(中島)蔵(高田町渡里)・田町蔵(柳川市筑紫町)の三蔵があり「在の三倉」と呼ばれた。米倉には蔵役2人と蔵目付1人がいました。ここの蔵の年貢米は船で大阪中ノ島常安町の「柳川藩蔵屋敷」に運ばれ、販売され現金に替え、藩の金庫に納められました。別に大野島蔵(大川市)・黒崎開(高田町)が設置されていました。
矢部川右岸の上庄西新町の「瀬高倉」は江戸初期に柳川藩の税収(上納米や麦)を集めたり売り払ったりする為に設置された。瀬高御倉の敷地は小高く周りは掘割で囲まれ警備され、お倉の横と川岸には精米用の水車小屋があった。現在、字の地名で「御倉前」として残っており、お倉の小高い敷地は民家が建ち並び廻りの用水路が昔の名残りを留めている。積み出しや搬入のは南側の矢部川の川岸に石垣で港が造られた。その頃は大阪へ寿司用の上質米(大阪回米)として出荷され藩財政を豊かにしていた。
また、矢部川のきれいな水と良い米が集まるので、酒造工場も十数箇所でき関連の人も住み瀬高の中心地となった。本町、二百町、出口二あたりがメインストリートで、明治、大正、昭和の始めごろは、警察、学校、銀行、郵便局も軒を並べていた。昔の人は船の航海の安全を祈って、金毘羅神社や住吉宮に御参りしていた。金毘羅神社は現在も港のあった近くの川岸に残っている。 (大江考祥著.お倉の浜より)
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下庄の浜(しものしょうはま) 瀬高町下庄談議所 ・八幡町 |
この地は文広の芳司と同じく海運の港として利用され、江戸期には芳司河港に変る民間の商業の港として大潮の満潮では300石船(45トン積み)が遡上して出入りしていた。下庄の浜が賑わいをみせた。談議所、八幡町、高柳の川辺は交通物資集散の要地として繁盛した。周辺の中町・田代・新町・市場町(現・元町)は商業の町として栄えました。輸出として酒や櫨蝋、瓦、和紙、傘、菜種油、菜種(カラシ)、茶、などが積み荷され、大川や天草・島原・長崎・博多・下関・瀬戸内海沿岸・大阪・江戸・酒田(山形県)などへ移出されました。移入品は島原の海産物・石灰肥料、天草の石材・干魚、長崎の唐綿や瀬戸内海沿岸の棉と塩、薩摩の黒砂糖などです。
談議所の星隈家は下庄の浜の大部分の地所を持ち浜の浜賃を稼いでいたみられる。海運業を営む、泰仙寺船頭・嶋堀切船頭・鷹尾船頭・渡里船頭が荷主に依頼されて、天草、島原・長崎方面に瓦のほか、酒。種油、米などを輸送し、帰り荷には、あちらの石灰、白灰、石材、砥石、ツケアミ、浅草イリコなどの海産物、河内ミカン、薪などを積んできていた。談議所の浜は4、5隻の舟が帆を休めており荷役人夫、車力、馬車の行き交いで賑わっていた高柳の農家でも荷役人夫として牛車で石灰を黒木や現在の立花町まで昭和初期頃まで運んでいた。元和8年(1622)創業の石橋本家は藩の御用掛となり談議所で瓦を製造して移出し、櫨蝋は八幡町の享保2年(1717)創業の武田製蝋店などが製造し島原に移出している。近郊の蝋製造業者は幕末の薩摩の特需期に蝋の移出が急がれるときには、臨時の保管所として瀬高の酒蔵を使用している。酒は上庄・下庄の酒屋が製造し、酒屋ごと長崎に移出していた。長崎の出島の卸問屋「清水屋」は、筑後周辺の建材・食品酒などを仕入れ長崎で売りさばいていたが、瀬高酒は評判でその日に売り切れになっていた。清水屋は明治の西南戦争の政府軍の御用達で利益をあげ、上町の数軒の酒屋を買収し酒蔵を引継ぎ大坪酒造を創業している。上庄の江崎酒造は屋号を「薩摩屋」と称し武左衛門は薩摩(鹿児島)からの商人であり、薩摩藩と柳川藩との交易に係わっていたと思われる。のちに酒造を始めている。
薩摩や長崎、島原の役人・武士・旅人などは、船で談議所の浜に上陸して、そばの薩摩街道の田代にあった瀬高の下庄駅(しものしょううまや)(宿駅・人馬継立)へ行き、そこから陸路の旅を続けています。 |

廻船模型(大浜外嶋住吉神社所蔵)

談議所の浜跡 |
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曲松(よごまつ) 八女市立花町 |
下庄の浜から上流は浅瀬の為に薩摩の黒砂糖・天草の干し魚・島原の石灰・砥石などの物資は牛車で運んでいました。この先の上流は荷物を肩に担いだり、あるいは背負って運びました。特に黒砂糖は薬なみに貴重で高価なののでした。下り荷の為に小型の柳川藩の商舟や護岸用石材の運搬用の石舟などが立花町の曲松まで溯上して、石・和紙・お茶・櫨・松茸などの山の幸を積んで下庄の浜に行っていました。途中の井堰で堰き止められた個所には舟が通る幅だけ切り通しとなっていた。
幕末の元治元年(1864)に薩摩藩は軍艦購入にために砂糖を大坂で販売し、その金貨で柳川藩から蝋や茶を購入し、長崎経由で上海に送り、ヨーロッパ人などに販売して多額の利益をあげた。維新前の特需にわいた柳川藩は蝋の統制をきびしくして特定業者のみに取り扱いを許した。櫨の多い現立花町域の蝋商人は地元だけでは需要に応じきれず、久留米藩内の蝋も仕入れて小舟に乗せて矢部川を下り、島堀切などの海運業者に委ねて長崎に運んでいる。 |
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