みやま市高田町の文化財庄福BICサイト
    H19・10・29更新
 石神山古墳(5世紀古墳時代) 国指定史跡 S51   (上楠田)
明治44年開墾中発見。上楠田集落の北方、東西にのびる丘陵の先端標高70mに立地する全長26m前方後円墳。丸彫り像の石人一体と、大.中.小三基の刳り抜き式舟形石棺が発見、石人は大の石棺の上に南面して立つていたと思われる。三基の石棺を収める石室等の施設はなく直葬と考えられる。この古墳は、数少ない石人を伴う古墳として、極めて重要であるばかりでなく、三石棺の直葬という珍しい類型を示すものとして注目されてる五世紀頃の古墳である
 石棺(三基)石神山古墳 (5世紀古墳時代)県指定文化財 S34  (上楠田)
石棺内は朱塗りされており、剣片、刀子片、銅釧、鍍銀銅器等が出土している。石棺の形状は大.中.小の違いのほか、蓋.身に造りだした円形断面の突起の配置にも差がある。蓋の形は頂部に幅の狭い平坦部を設け、四方に流れる斜面と、周囲に平縁を有する。石棺の規模は内寸で、小は長さ106cm、幅35cm。中は長さ164cm、大は長さ210cm、幅幅78cmを測る。
 武装石人石神山古墳(5世紀古墳時代) 国指定重要文化財 S51     (上楠田)
石人は大の石棺の上に南面して立つていたと思われるが、発見当時は仰臥ぎょうがして落ち葉に埋まっていたため、背部はよく残されている。材料は阿蘇溶岩を使用し、赤色顔料で彩色されており、高さは107cmを測る。石人の名称で知られる最古の部類に属するもので、顔面や右肩等を破損しているが現存する武装石人では最も保存の良好なものである。
 東濃施古墳(6世紀中頃~7世紀)         (下楠田) 
高田町濃施公園の造成に伴い、発掘調査行った古墳で後室、前室、羨道の複室の横穴石室を持つ古墳時代後期、6世紀から7世紀はじめにかけたの推定24mの大きな円墳であるが、現在は石室のみ残している。副葬品には耳環(耳飾り)三塁環(太刀の柄頭)などが、出土した。この古墳は大きさや副葬品などから、この地方の権力者の墓だと考えられる。
 二川貝塚跡(縄文中期~弥生時代)         (下楠田) 
二川貝塚は、老齢の峠から北に延びた丘陵の先端の舌状台地上に立地する。この貝塚は元々大きく、多量の貝があったらしく、明治30年代には焼石灰として貝が運び出されたほどです。
大正9年12年には発掘調査が行われ報告書も刊行されている。それによると土器は縄文時代(中期阿高式土器や、後期摺消縄文系土器)のもので、器形も浅鉢形、深鉢形、甕形、壷形土器と多様である。また弥生式土器も含まれている。

貝殻は海産物のハタガイアカガイが多く、ハマグリ、カキ、ホタテガイ、マテガイ、サザニ等も存在する。当貝塚は、縄文中期初めから弥生時代までという長い期間にわたり形成された貝塚である。
 中細形銅剣(弥生時代) 高田町有形文化財
中細形銅剣とは弥生時代の青銅製の剣で、長さ32cm以上のものをいう。当初は武器として用いられましたが、弥生時代中期後半には埋葬品として北部九州の甕棺(かめかん)で多く出土する。この銅剣は長さ38.4cmで、飯江川上流の河原(舞鶴字城道付近)より出土し、昭和30年頃より個人宅に保管されたものである。この銅剣は福岡県の一番南での発見で、弥生時代の青銅器文化が高田町にも影響していたことを知る貴重な資料である。高田町教育委員会保存となる。
 竹飯八幡宮の鳥居(13~14世紀)有形文化財      竹飯
筑後地方には、大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮などに肥前型鳥居があり、ここの鳥居も肥前型鳥居の形態の古い形を示している。普通の鳥居は笠木が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と貫ぬきのあいだが狭く、笠石はずん胴型で二段あるいは三段の継ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘って建て式になっている。
肥前式には砥川の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名、造立年月日等の銘文はない。竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮あるゆえ、田尻氏の寄進とも考えることができる。材質は杵島地方の安山岩である。
 阿蘇神社の鳥居(元禄13年1700)有形文化財        海津
延元2年(1337)多々良浜の合戦に敗れた阿蘇小二郎惟澄これずみが、ようやくたどりついた筑後大木の里で、大木城主壱岐守貞守の手厚いもてなしを受け、暫く滞在して休養をとった。惟澄は城主の誘いもあって、海津古川の木の下郷に阿蘇神社の分霊を奉祀し、子孫代々神社に奉仕して村民の振興を集めた。
下って元和8年(1622)海津北阿蘇田の現在地に移転し、南北海津の氏神として今日に到っている。元禄13年(1700)建立
 大賀宗白寄進大般若経(寛文4年1664)県指定有形民族文化財S32  黒崎開、福聚庵
この経巻は、寛文4年(1664)博多三商傑の一人で海外貿易に活躍した大賀宗白が、海上安全.商売繁盛を祈願して大宰府天満宮に寄進したものである。
大般若経600巻中、現存するものは544巻で、半数以上が虫食いの被害を受けている。各巻には、宗白寄進の奥書き画付されており、経箱も完備されている。
この経巻が同庵にどうして伝存下か定かでないが、当時、天満宮と立花氏が親戚関係にあったことから柳河藩主に譲られ、藩営の干拓事業にあたり潮留祈願のため、干拓中央部に観音堂を建て、経巻を安置したものと推定されている。
宝暦9年(1759)に経巻修理を行っているが、その際、浄財寄進者善男善女の墨署名があり、当時の博多の人達の天神信仰をうかがう貴重な資料である。
 新開村旧隄記碑(天保6年1835) 県指定史跡 S30    新開
柳河藩の有明干拓事業の1つである黒崎干拓を記念するものである。柳河藩では既に17世紀中期には、現在の柳川市、高田町の海辺域は殆ど近世以来の干拓地である。
この干拓が藩の事業として大規模に推進されるのは、全国的な新田開発と時期を一にする。その結果開かれた耕地が、両開、新開、黒崎開として残る地名である。
碑文には 「延宝~正徳(17世紀末~18世紀初)藩は新開村海浜に隄長1里の築石隄を完成。その後、石隄の外に干拓を進め、土隄を築くが風涛ふうとうのため崩壊。文政8年~天保5年(1825~1834)石隄の石材を移して、石隄の補修工事を行い新隄完成となった。ここに旧隄の功を顕彰する。」天保6年10月記銘 とある

 二川焼窯跡(明治初期)                上楠田 
上楠田には昔から良質の粘土が豊富に産出したので、かめが相当古くから焼かれていた。多くの窯跡が上楠田から下楠田にかけて散在する。
二川焼は佐賀県弓野窯の手法をつたえたものといわれ、赤土の素地に白土を掛け、その上に刷毛描、指描、へら描で直条線や波条線を施したり、褐色と緑の一筆描きで、松絵模様を簡素に雄渾に表現した作品は、民芸陶器として高く評価されている。
明治の初期頃、弓野の陶匠米作によって始められた二川松絵半胴甕も、時代とともに変遷し、ろう皿こね鉢すり鉢植木鉢と移っていき、終戦近くに「湯たんぽ」「飯腕」を製造したのを最後に、窯の火はきえた。
現在、ガス窯で、後継者が二川焼陶器を製作している。
 厳島神社(いつくしまじんじゃ)(嘉永2年1849)       黒崎開
元禄6年(1693)柳河藩三代藩主立花鑑虎あきとら公(英山)が社殿を創立する。その後広島県の厳島神社を勧請し、現在に至る。
天保12年の刻銘のある石の鳥居を入り、神門をくぐると拝殿の背後に本殿が建っているのが見える。拝殿も本殿も嘉永2年(1849)に建てられたものと伝えられる。
拝殿は桁行三間、梁行二間の入母屋造りである。四手先斗栱
してさきますぐみで支える飛勾
総円柱で造られ、四手先斗栱で支える拝殿は県内でも珍しいものである。
本殿も特色があり屋根を寄せ棟造とし、妻入りとしている。元来、寄せ棟造りは寺院建築に使われており、神社建築では珍しいものである。
 矩手水門(かねんてすいもん)(文政9年1826)     黒崎開
矩手水門は、文化年間の柳河藩営の干拓事業であり、「樺島斗一」の名に由来して、別名「斗一開」友言う。この矩手開の排水の役目をしていたのが、この矩手水門であるが、この樋門ひもんは高すぎ、幅の不足しており排水不良に陥ることが多かった。
そこで明治31年4月から改修をすすめ、当時の金額で4千数百円(当時の米1俵が3円28銭)と村人3000人の就労をつぎ込んで、明治32年8月に完成した。
小の改修により樋門は、敷高0.83m、幅2.00m、高さ3.00mの暗渠
あんきょ三門になった。
吐口には主径間4.6m厚さ3.00mの全半円の眼鏡橋(苦楽橋という)がある。この橋は吐き口の両袖壁が倒伏するのを防ぐためで、水に映る赤レンガが美しい構造物である。
当時の樋門はなく、現在苦楽橋だけが残っている。

 田尻氏供養板碑(永禄12年1569)     海津阿蘇神社脇阿弥陀堂
中央の一基は、戦国時代中程の大永8年(1528)に建てられたもの。
左右の二基は、永禄12年(1569)7月13日に、
田尻親種(ちかたね)の息女および嫡男鑑種(あきたね)次男鎮種(しげたね)らが、それぞれ妙忍大姉の二十五回忌に当たって、大乗妙典1千部看読の大法要を営んだ記念して造立したものである。
 卍字自然板碑(貝浦碑)(永禄12年1569)          海津
中央正面に大きく卍字を掘り込んである。近くにある田尻供養塔とそっくりで、卍字の輪郭を丁重に彫り込んだもので同一時代同一工人によって製作されたものと考えられる。注意してみるとこの字の下に貝浦、その左下に永禄□□の年号が、かすかに読みとれる。貝浦の貝は海にも通じ、近くに津の港があり、人々の生活の息吹きを感じさせる。建立由来については不明である。
 帝釈寺の石塔婆(天正15年1587)        上楠田帝釈寺裏
蒲池兵庫助鎮運しげゆきの墓。彼は天正15年(1587)豊臣秀吉から楠田他二百町の知行地を与えられる。なお、本塔は天正の年号を持つが、これは鎮運の没年を示し、塔自体は様式からみて江戸期の造塔と推定されている。
 満願寺の四天王角柱塔                 竹飯の満願寺
満願寺の四天王像は、野外にあって蓮弁型の四角柱を後背にし、丸彫りに近い半陽刻の一石造りである。材質は安山岩で、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天を配している。もともとは須弥山の上空の仏達を守護する神であるが、四天王を拝むと、大変なご利益があるといわれている。
持国天は家内安全、増長天は増益、広目天は広く世間を視る目、多聞天は多くのことをよく聞いて学ぶ心を授かるというものである。この像がいつ、誰によって安置されたかはわからないが、筑後地方では大変めずらしくこの地方の信仰を知る上で貴重な文化財である。  
 満願寺の五輪塔群 
 一.中央5輪塔         竹飯の満願寺

造立年月日などの記銘はなく、水輪に阿弥陀如来種子(しゅじ)のキリークを正面に、向かって右側に観音菩薩サ、左側に勢至菩薩サクの阿弥陀三像を配置し、後方にバンを薬研彫(やけんぼり)している。前面の花立台には、奉寄付 薩州 藩中 田尻嘗 竹井村 世話人 坂本 茂左ェ門 とある。従来、この塔は牡丹長者の墓といわれているが、むしろ牡丹長者を供養した四方仏塔としたほうが適切であろう。花立台とこの五輪塔が同時に建立されたとすると、「薩州藩中」から考えてみて、江戸幕藩体制が確立された以後の作といえる。三基ある中で最も新しい造りである。
 二.南側五輪塔

造立年月日の記銘はないが、室町時代末期の作と考えられる。開山中興和尚宗眼法師が天文年中(1532~1554)に建立したものであろう。
水輪にサ観世音菩薩ア仏の通種子バク釈迦如来サク勢至菩薩の種子を四方に薬研彫したもので、四方仏供養塔と呼ばれている。
 三.北側五輪塔

水輪に頸(くび)をもった五輪塔で宝塔塔身に見違えるほどあるが、底部も円形であることからやはり五輪塔というべきであろう。水輪に対して火輪、風輪、空輪がやや小さく、不均等である。
水輪にキリーク阿弥陀如来アク不空成就如来タラーク法生如来バン大日如来を配した金剛界四仏を種子で薬研彫してある。石材はいずれも阿蘇溶結疑灰岩で、大牟田南東部から南関にかけて産出される。

 満願寺の六地蔵                   竹飯の満願寺
半陽刻下肥前型六地蔵の典型であり、安山岩製である。南部大牟田は肥後型六地蔵が多いが、高田町には肥前石造文化が入り込んでおり、石造文化の交流接点としても重要なものである。
 三池街道の 「二里石」(江浦小学校)   ・     「三里石」(下楠田)
柳川藩では慶長17年(1612)に、領内の主要道路に柳川城下の札の辻(辻町)を起点として、一里石、二里石、...を建てた。
 濃瀬三軒屋の道標                      濃瀬字三軒屋
楠田川に沿う三軒屋集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所で、菓子屋、饅頭屋、日用品屋などの店があっって、活気に満ちた地域であった。
また、三軒屋からは道が分かれて、橋を渡って東へ行くと今福、岩津を抜けて宇津から瀬高へ至り、左へ進むと江浦、鷹尾を抜けて柳川へ通じる分岐点でもあったのである。そこでこの橋の左たもとに「道標」が建てられていた。
疑灰岩の角柱で、「やなかわ道」と「せたか道」の陰刻字が残っている。
今は楠田川の改修工事により大きく様変わりして、川幅も広くなり、道路も流れも変ってしまい、二つの橋も一つに整備されてしまったが、柳川橋のたもとに建っている道標には、荷車の軸が当たって欠けた跡や、子供達の草遊びの跡がそのまま残っている。
 江浦町字田中の道標                 江浦町
三池街道の江浦町字田中の三叉路(小林寺門前)に砂岩角柱道標が建っている。
側面には「左原町」「右渡瀬」と陰刻字がしてあり、上部は角柱の形に細工し、その下部に長方形の穴がある。思うに、祭礼などの時に旗を立てる石柱として利用されたのでは。この道標がいつ破損したか不明だが今も現地に地下部分は埋まったままで、地上部分の残欠は、江浦小学校門内に保存されている。
 矢嶋家の亀形墓石                       田浦
矢嶋の分家である矢嶋平右衛門黒崎開居住)は一族の墓地を岩津金仙寺山にしたのであろう。
その後、昭和になり山門炭鉱開発に際して、田浦飯田の山中に移したのである。
 十五人墓                             田尻 山本
田尻字山本にあり、自然石に南無阿弥陀仏の名号と、元禄3年(1689)12月6日の紀名及び交名は現在では判読困難であるが、明治20年(1887)に建てられた隣接の顕彰碑により名前を判断することができる。
おそらく、
阿弥陀如来信仰に結衆した人たちが、共同で建立した信仰の記念碑であろうと推察される。これは民俗資料的に貴重なものである。
地元では昔から
「十五人墓」と称し、村吏某の貪虐を藩庁に訴えようとした田尻の農民達が、村吏の陰謀により処刑された供養塔であると伝えられている。
 阿蘇神社                              海津
延元2年(1337)多々良浜の合戦に敗れた阿蘇小次郎惟澄(これずみ)が、ようやくたどりついた筑後大木の里で、大木城主壱岐守貞守の手厚いもてなしを受け、暫く滞在して休養をとった。惟澄は城主の誘いもあって、海津古川の木の下郷に阿蘇神社の分霊を奉祀し、子孫代々神社に奉仕して村民の振興を集めた。
下って元和8年(1622)海津北阿蘇田の現在地に移転し、南北海津の氏神として今日に到っている。現在の社殿は元禄13年(1700)建立
 海津御田植祭(市指定無形民俗文化財)             海津の阿蘇神社
朝鮮の役に出兵した柳川藩家老小野和泉守は、阿蘇神社(古川の早鷹)にお礼言上参拝した。その後、元和8年(1622年)海津北阿蘇田の現在地に社殿並びに神田を献納し、感謝の辞を捧げた。この祭は豊作祈願のため興ったものと思われる。
この神事は神田の田植えを奉仕するに当って、初春から心構えに始まり、耕地、種まき、苗作り、早乙女の田植えと秋に五穀豊穣を祈り奉納される。
 水天宮                              海津
祭神は、安徳天皇。護符は、久留米の水天宮から授けられる。水難に霊験有り。子供が水天宮のお守りを首からぶら下げる。八剣神社(祇園さん)の傍らにあり、露天や農具市で賑わった。人々は石段を登り参拝。お守りをもらう。氏子は甘茶を売る。福引きもあった。
 稚児風流 (市指定無形民俗文化財)
風流は庶民的な行事で、信仰が伴い、五穀豊穣、悪疫退散、稲虫退除の祈願が含まれる。 竹飯の風流は、子どものみで行うところに特色がある。
頭にはシャグマをかぶり、男女両用の和服姿に
赤青のタスキをかけ、脚絆、手甲、わらじかけで輪になって太鼓をたたいて舞う。
 竹飯の花火
柳川藩主立花宗茂公が朝鮮の役凱旋後、竹飯八幡宮に祈願成就のお礼に煙火を奉納したのが始まりと言われる。昔は仲秋の名月の夜に行われていましたが、現在では10月10日に奉納される。仕掛花火の稲すりお城、万などは有名で、九州有数の花火生産地ならではのみごとなものである。
千変万化の彩りを見せてくれる花火は、町の特産品の一つです。特に竹飯地区には煙火花火、玩具花火の製造所が 多くあり、日本でも数少ない国産花火の生産地です。
 新開宝満神社奉納能楽 (県指定無形民俗文化財)
文録元年(1592年)「朝鮮の役」のさい、当時の柳川藩主立花宗茂公祈願成就のため、宝満神社に「能楽」を奉納したのが始まりと言われる。現在の能楽師ではなく地元の人が奉納するようになったのは、明治以降宝満神社の氏子の自主運営により演能されようになった。謡は喜多流で、面や衣裳は柳川二代藩主の夫人が奥州伊達家から輿入れしたものを譲りうけたものもあると言われる。毎年10月17日の祭礼には、昼ごろから境内の野舞台で夜中まで奉納される。
 上楠田天満宮の大藤    市指定史跡 
石神山古墳近くにある天満宮の境内にあるオオフジ。樹齢約数百年以上と推定されるオオフジは毎年4月の中旬から5月の上旬になると甘い香りを漂わせ、見事な花を咲かせて訪れる人を楽しませている。
 上楠田天満宮大注連縄送り
およそ400年前からの行事。以前は祭典の2日前からかなり大きなものを作っていましたが、現在は前日に藤カズラを芯にして直径45センチ、長さ6メートルの大きさの大注連縄を作りあげ、12月25日の早朝、鐘や太鼓の祭り囃子とともに地区内の家々を練り歩き、五穀豊穣、無病息災などを祈願して、上楠田天満宮に奉納されます。 
 江浦八幡神社粥占い 【粥占御試祭】(市指定無形民俗文化財)  江浦
元旦に神前に奉納された米を1月15日に粥として炊き、方位を印した銅鍋に入れ、神殿内に1か月間安置する。2月15日には、占い氏が粥に発生した「カビ」の色や形状でその年の気象や農作物の作柄を予測する。
 (うす)かぶり                 江浦町の二の丸・吉原地区     
1月上旬、江浦町の二の丸・吉原地区災害除けと豊作を祈願する伝統行事。 さらしと草履ばき姿の男衆たちが家先の木臼を勢いよく投げ飛ばすと、観衆か らは大きな拍手がわき起こりました。
 今福ため池おにばす(市指定記念物)              岩田地区
鬼蓮は、スイレン科の1年生浮葉水草で、葉の大きいものは1メートル以上にもなる。 生育時期は6月から11月初旬までで、8月下旬から9月下旬にかけて薄紫色の花を咲 かせる。
鬼蓮が蓮と異なるところは、葉の表面と裏面に鋭いトゲを持ち、葉の表はシワが多く、 裏は紫色である。
1年草のため、蓮のように地下茎はない。花は蓮より小さく、がく片4枚、花びらは多数で昼間だけ開いて夜は閉じる。 フキに似て水草のところから「ミズフキ」の別名もある。

         福岡県の最南端大牟田市の北部に位置する、みやま市の南部で、旧三池郡高田町です。
         東部は山川町、北部は瀬高町、北西部は矢部川をへだてて柳川市大和町に接しています。
         
平成19年1月29日に瀬高町・山川町と合併してみやま市となりました。

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